日々是好日

身辺雑記です。今昔あれこれ思い出の記も。ご用とお急ぎでない方はどうぞ・・・。

停電が当たり前だった頃

2011-07-01 18:29:16 | 昔話
昭和20年11月の末、朝鮮から引き揚げて来て落ち着いたのが兵庫県高砂市にある鐘紡社宅であった。台所の土間には竈があり、水道は家にあったのかもしれないが、屋外の共同井戸から水を汲んできた覚えがある。部屋は二畳、四畳半、六畳の三間でトイレはかろうじて付いていた。いわゆる工員住宅であった。そこに親子六人が住んでいたが、父は大阪の本部に単身赴任で、時々週末には帰ってきた。通勤できる様な交通事情ではなかったのである。

戦後間も無い頃で停電が日常茶飯事であった。予告なしに電気が消える、そのためにろうそくが用意されていた。停電の原因はもう一つあった。電気の使いすぎでヒューズがよくとぶのである。それを修理するのは私の役目であった。ヒューズ箱を開けて切れたヒューズをとりかえるのである。ヒューズと言っても細い鉛のハンダ糸のようなもので、容量は5アンペアはあっただろうか。その頃一般家庭でニクロム線の電熱器がよく使われていた。わが家ではせいぜい頂き物のおかきを焼いたりカラメル焼きを作るぐらいだった。時には小さなやかんでお湯を沸かした。いちいち七輪をおこすわけにはいかなかったからである。この電熱器の容量はどれくらいだったのだろう。大きくても2、3百ワットではなかっただろうか。うっかり余分の電灯を消し忘れてこの電熱器を点けるとヒューズがとんだのである。

電熱器のニクロム線もよく切れた。すると市販の接着剤でつなぐのである。接着剤というのは白い粉状のもので、切れたニクロム線同士を接触させそこに粉をまぶし通電すると粉が溶融し、ものの見事にニクロム線が接着して機能が回復したのである。この作業がなかなか面白かったことを思い出す。

昭和21年の夏神戸に転宅した。やはり停電がよく起こる。中学生になった頃だろうか試験の時期になりそれでも容赦なく停電する。ところが町の交番署だけはあかあかと電気が灯っている。一人ではいく勇気がなかったので友達を誘い、試験勉強をさせて欲しいとたのんだところ、こころよく許してもらった。理解のあるお巡りさん達で時々遊びに行くようになった。

今日は7月1日、東日本では電力使用制限が始まったとのこと。そのニュースについ昔のことを思いだした。

「福島第一原発汚染水処理が5時間で停止」 シャープレス遠心分離機の導入は?

2011-06-21 16:36:14 | 昔話
本稼働を始めた福島第一原発の高濃度放射能汚染水の浄化装置が5時間で停止してしまった。汚染水が入る最初の「吸着塔」の表面線量が毎時4ミリシーベルトになると吸着塔を交換する計画であったところ、稼働から5時間足らずで4.69ミリシーベルトに達したと言うのである。東電は当初高濃度汚染水に含まれる油や汚泥が予想より多く、放射性物質が早く溜まったと推測したが、20日になって、放射能測定計器が、吸着された放射性物質の線量のほか、装置を流れる汚染水の線量をも含む形で誤って検知していた可能性が高いと発表した。もしこれが本当なら、本体よりもかなり重い風袋を引き忘れたようなものでなにをか言わんやである。問題がこれで終わればよいが、なかなか一筋縄では行きそうもない。それよりも私が引っかかったのは、当初原因として疑われた高濃度汚染水に含まれる油や汚泥が予想より多く、放射性物質が早く溜まったの部分で、高濃度汚染水の外観・性状を想像させるからである。となると、そのような汚染水をどのような前処理で浄化装置で送り込んでいるのだろうと疑問が湧いてくる。

高濃度放射能汚染水はおそらく油まじりの泥水であろう。プールに貯留されている間に汚泥はかなり沈殿し、油は浮上すると思われる。しかしどの部分から汚染水を取り出しているのかは分からない。汚泥の大部分は有機汚泥ではなく無機汚泥と思われるが、もしこれが浮遊物質として定義されるものなら直径2mm以下の粒子状物質ということになり、汚染水にどの程度含まれているのかその濃度にもよるだろうが、透明な水のように浄化装置をスイスイ通り抜けて行くとは想像しがたい。浄化装置が詰まるのを防ぐためにもこの汚泥を出来る限り取り除いておくにこしたことはないが、どのような前処理がなされているのか不明であるが、浄化装置が停止した際にまず疑われたのが高濃度汚染水に含まれる油や汚泥が予想より多く、放射性物質が早く溜まっただとすると、有効な前処理が行われているとは考えにくい。凝集沈殿装置なども含めておそらく幾つもの手段があることだろうが、ここで私が思い浮かべたのが遠心分離による浮遊物質の除去である。大学院生だった頃の経験を思い出したからである。

遠心分離機は遠心力を利用しては微細粒子も含めて固形物を液体から分離する装置である。たとえばジュースミキサーでりんごジュースを作り、それを数本のボトルにバランス良く分注し遠心機にかける。適当な回転数で一定時間回すと固形物がボトルの底に溜まり、液体部分から綺麗に分離出来る。酵素の精製などには欠かせない手段であるが、ジュース(あくまでも例として)が数リッター程度なら遠心分離を繰り返せばよいが、これが何十、何百リッターとなるとことである。ところが遠心分離機を連続運転したままジュースを連続的に遠心機に注入すると固形物が分離機内に残り、液体のみが外部に出てくるような装置がある。シャープレス型連続遠心分離機もしくは簡単にシャープレス遠心分離機と呼ばれるものである。当時私の聞いた話ではオイルタンカーが原油を運んでくる際に、その原油からタンカーに設置されたシャープレス遠心分離機で重油を分離し、それを燃料にしながら船を走らせると言うことであった。いずれにせよ分離機内に残る固形物はジュースを流せば流すだけ増えてくるので、そのうちに分離機を止めて固形物を取り出さないといけないが、一度にかなり大量のジュースを処理することが出来る。私が所属していた研究室は微生物学講座で微生物の培養はお手の物であり、大量に培養しては菌体を集め実験に必要な酵素などを精製していた。大量の培養液から集菌するためにこのシャープレス遠心分離機の導入が上の方で検討されたのである。

ある日恩師のOK先生から、四国の観音寺にある阪大の微生物学研究所(現在は一般財団法人阪大微生物病研究会観音寺研究所としてワクチンなどを製造しているようである)に出かけるようにとお達しがあった。そこではシャープレス遠心分離機が実際に使われているのでよく見せて貰い、研究室でも使い物になるかどうかよく調べて報告せよとのことであった。おそらくメーカーの人が同行したのではないかと思うが、四国へは連絡船で渡る時代で車窓を楽しんだ覚えはある。実際に動いている様子を見せて貰い、性能をはじめ扱いやすさなどいろいろと問題点を話し合い、導入可の報告を済ませた。OK先生は新しい実験機器の導入にはきわめて前向きの方であったが、それだけに実際に役立ちうるかをきわめて慎重に判断された。当時としては珍しいことに理学部の一研究室に1トン(1000リッター)の微生物培養タンクが設置され、集菌にこのシャープレス遠心分離機が活躍することになった。

かりに油、汚泥混ざりの高濃度放射能汚染水からこれらをシャープレス遠心分離機で可能な限り取り除き、透明度の増した汚染水として浄化装置に注入すれば、浄化装置の負担を大きく軽減出来ることは間違いなかろう。ただ問題は遠心分離機に溜まった固形物が恐らく高い放射能を帯びていることゆえ、人手で簡単に固形物を除去出来るとは考えにくいことである。しかし人智を傾ければなんとかなるもので、この際、微粒子を含む夾雑物まじりの高濃度放射能汚染水を全自動で処理して夾雑物を取り除く装置を開発出来ないものかと思う。昔話まじりにふとこんなことを考えた。


ヴェニス・サンマルコ広場で出会った慶応大学文学部の女子学生

2011-06-12 16:32:24 | 昔話
産経新聞読書欄の「手帖」に、文学部の魅力をアピールする書籍が相次いで刊行されたと、慶応大学文学部が高校生ら一般読者を対象に作った叢書「文学部は考える」シリーズがまず紹介されていた。この慶応大学文学部という文字に刺激されてある記憶が蘇ったのである

かれこれ四半世紀以上前のこと、ヴェニスのサンマルコ広場でのことである。夕方、といっても既に日は落ちて暗くなっていたが、広場に設けられた仮設舞台を取り囲んでか、それとも大道芸人を取り巻いてか、大勢の観客がそれを見物していた。その中に目立った風体の女性がいた。バックパッカー姿で、ヴェニスのカーニバル用の仮面がリュックにぶら下がっていたのである。なんとなく日本人のような気がしたので近づいて声をかけてみると、やはりそうであった。お互いどういう旅を続けているのかなど、旅行者同士のたわいない話を交わして別れた。

数日後、私はフィレンツェの街を歩いていた。とあるジェラート屋の前を通りかかり何気なく店内に目を向けたところ、どう見てもあのサンマルコ広場の彼女が列に並んでいるのである。そして、まさに彼女であった。ジェラートはフィレンツェが発祥の地というから私も一つ買い求め、美味しく味わいながらこの奇遇をやや興奮気味に話していたら、「観光客の行くところはだいたい決まっているから、こんなこと珍しくありませんよ」といとも沈着は返事が戻ってきたので、私の浮かれぶりが気恥しくなってしまったものである。彼女は慶応大学文学部の学生で、卒業研究の課題に仮面を選んだのでカーニバルの仮装行列、そして仮面で有名なヴェニスを訪れたと言うのである。しっかりしているはずである。お互いに夜は時間が空いていることが分かったので、ここは年長者の私がディナーへの招待を申し出ていったん別れた。

フィレンツェには日本でもよく知られたSabatiniというトスカナ料理のレストラン(そういえば新神戸駅近くのビルに同名のレストランがあって、そこのディナーショーに出演!したことがる)がある。以前、そこに入ろうとしたらたまたま着飾った日本人の団体客にぶつかったので敬遠して数軒離れたレストランに入ったところ、そこのアット・ホームな雰囲気に料理がとてもよかった覚えがあるので、そこに予約をいれた。どこでどのように待ち合わせをしたのかは覚えにないが無事再会をはたし、思いがけなく心豊かにディナーを楽しむことが出来た。頼んだ前菜がふたりとも生ハム・メロンであったことが不思議と記憶に残っている。食後、お互いの前途の無事を祈念して別れた。名前は名乗りあったと思うが今や忘却の彼方である。

話はこれだけである。ただ強いていえば伏線があったように思う。三田の慶応学舎である会合があったときに、話の種に一度覗いてみましょうという誰かに誘われて文学部の食堂に行ったことある。確かに魅力的な女子学生が多くて、固い一方の国立大学の学食とは別世界のような華やな雰囲気を漂わせていた。その意識が頭のどこかにあって彼女を招待に駆り立てたのだろう。このような昔話を持ち出したのも、もしかしてこの一文が周り回って彼女の目に触れて、もしコンタクトを頂けるとまさに奇跡だと思ったからである。そんな事があれば数日前に記した私の「宿痾」が一気に吹き飛ばされるかもしれない。

私がヨウ素131の「内部被曝者」だった話

2011-03-25 14:07:09 | 昔話
誤解を生まないように最初にお断りしておくが、これは私は40年ほど前にバセドー病に罹り、放射線性ヨウ素内用療法(アイソトープ療法)を受けたときの話なのである。

その頃はいろんな体調不良に悩まされていた。一番困ったのは研究室で試験管に液体試料をピペットで入れようとすると手がブルブル震えて、ピペットの先端が試験管の口になかなか入らないことであった。また声が出なくなって、研究室仲間とは力を振るってかすれ声を出し、なんとか用を足した。しかし市中に出て店などで店員に一生懸命話しかけようとすると、時には変な目つき・態度が戻ってくることがあった。明らかに差別的な扱いを受けていたのである。風呂でも浴槽に入るのが一苦労であった。足が自分の意思で思うように上がらない。両手で足を持ち上げなんとか浴槽内に入れる始末だった。そうこうしているうちにある朝目が覚めたところ、身体が縛られたように身動きが一切出来なくなった。仕方なく大学は休み半日ほどそのまま堪え忍んでいるとようやく縛りが解けてきた。数日経つとまた繰り返すものだから、ついに妻が嫌がる私を近くの総合病院まで引き連れていった。甲状腺が肥大しているとのことで、甲状腺疾患の専門病院である隈病院を紹介され、そこでバセドー病と診断されて治療を受けることになったのである。

バセドー病とは一口に言うと肥大した甲状腺から過剰に分泌された甲状腺のホルモンの引き起こす疾病である。肥大した甲状腺が声帯を圧迫するものだから私の場合は声が出にくくなり、また細胞内へのカリウム・イオンの取り込みが亢進するものだから低カリウム性周期性四肢麻痺が現れたのである。したがって治療は血液中の甲状腺ホルモン濃度を下げればよいので、甲状腺ホルモンの産生を抑える薬剤を服用したり、また甲状腺組織そのものを放射線で破壊して甲状腺を縮小させ、ホルモン産生を抑えればよいのである。後者が放射性ヨウ素131を用いたアイソトープ療法なのである。私の場合はまず抗甲状腺剤を毎日服用して経過を観察の上、さらにアイソトープ療法を受けたのである。といっても放射性ヨウ素131のカプセルを飲むだけの実に簡単なものであった。

その数日後、ふと思い立って隣の研究室に出かけた。アイソトープを使った実験をしているのでガイガー-ミュラー・カウンターが備えられていたからである。試しに頸部に当てて貰ったところバリバリバリと実に凄まじい音が出た。たしかメーターが振り切れたのではないかと思う。念のために身体全体を探ってみたが、放射能はものの見事に頸部に局在していた。私は放射線怪人の呼び名を欲しいままにしたが、一面では放射線を浴び続けたキュリー夫人を思っていささか昂揚した気分を味わっていたようである。とにかく私の専門分野の「Biochemical and Biophysical Treatments」を受けているなんて、嬉しそうに吹聴していたのだから。

今から考えると気になることがあった。カプセルを服用後も私はどこかに隔離されることもなく、自由に歩き回り人とも普通に接した。その頃研究室で放射性物質を扱う場合はそれなりに厳しい取り扱い規定があって、仲間内ではだから米国に負けてしまうなんて話が流れていたくらいである。米国の研究室では放射性物質を含んだ溶液を間違って実験台上にこぼしてしまっても、ティッシュペーパーでサッと拭いてゴミ箱にポイッと捨てたらそれで終わりだから、と言う類の話である。今の様子が気になったので隈病院のホームページを見ると、次の説明のようにそれなりの対策が採られているので納得した。

●バセドウ病の放射線性ヨード内用療法(アイソトープ療法)

バセドウ病の治療には、抗甲状腺剤を内服する内科的療法、手術する外科的療法、そして放射性ヨードを内服するアイソトープ療法の3つがあります。日本では放射線という言葉のせいかアイソトープ療法をためらう方が多いのが現状ですが、欧米ではバセドウ病の治療にアイソトープ療法が最も多く選ばれています。アイソトープ療法はとても安全でよい療法です。
1回内服するだけで甲状腺は少しずつ小さくなり、6か月後には約50%の方でおくすりの内服が不要になります。残りの半数の方は甲状腺機能低下症になりますが、甲状腺ホルモン剤を内服すれば生活に支障はありません。手術などに比べ身体的な負担が軽く、再発が少ないのが特徴です。甲状腺に取り込まれた放射性ヨードはどんどん減っていき体外に排出されます。主に外来で治療ができ、投与量が大量になる場合のみアイソトープ療法専用病室へ数日間入院が必要になります

ところで私はいったいどれぐらいの放射性ヨウ素131を投与されたのだろう。「Harrison’s Principles of Internal Medicine」で調べてみると次のようなことが分かった。

 The usual therapeutic use of 131I [approximately 5.9 MBq(160 uCi)per gram of estimated gland weight] leads to a high frequency of hypothyroidism. (中略) Others have administered smaller doses [approximately 3.0 MBq/g (80 uCi/g)].

私の場合は全体の経過からして少ない方の線量だったとする。甲状腺の重さを肥大を考慮して18 gだとすると総放射能量は3.0 x 18=54.0 (MBq)、すなわち54,000,000 ベクレルである。23日に東京都水道局が乳児の飲用に適さない濃度の放射性ヨウ素が検出されたと発表したが、その検出濃度は1キロ当たり210ベクレルであった。54,000,000 ベクレルに達するにはほぼ257トンの水を飲まないといけないことになる。放射能量を細胞破壊能が疑わしい百分の一に下げても2.5トンの水を飲まないといけない。だから少なくとも放射性ヨウ素については状況がさらに悪化しない限り、飲み水の心配は要らないと言ってもよかろう。さらに次のような事実に注意を払う必要がある。The New York Timesの「Radiation in Tokyo's Water Has Dropped, Japan Says」というDavid Jolly記者の24日の記事の一部である。

Japan’s limits on iodine 131 are far lower than those of the International Atomic Energy Agency, measured in a unit called a becquerel. Japan says older children and adults should get no more than 300 becquerels per liter while the I.A.E.A. recommends a limit of 3,000 becquerels. Greg Webb, an I.A.E.A. spokesman in Vienna, said he could not immediately provide his agency’s recommendation for infants. The level that raised the alarm for infants on Wednesday was 120 becquerels; that had fallen to 79 on Thursday, according to the Tokyo city authorities.

放射性ヨウ素に対する許容基準が子どもと成人に対して国際原子力機関の基準がリッター当たり3,000ベクレルであるが、日本ではその十分の一の300ベクレルに設定されているとの指摘が目にく。乳幼児についての国際基準については触れられていないが、それなりの理由があるにせよ、少なくとも成人に関して、そして恐らく乳幼児に対しても、日本がきわめて厳しい基準を設置していることが今回の「騒動」を引き起こしたとも考えられる。日ごろ、厳しい基準を設けているのを誇るのはよいとしても、今回のような緊急事態になると作業員の被曝線量を100シーベルトから一挙に250シーベルトに上げたりするのだから、基準もいいかげんなものである。見かけの厳しい設定なんて混乱を招くだけではないか。ほとんどの車が80キロ以上で走っているようなよく整備された道路の速度制限を60キロにして満足している感覚とよく似ている。

私のバセドー病は一回のアイソトープ療法と、2年あまりの抗甲状腺剤の内服でなんとか制御下に置くことが出来たようである。この40年ほど不調を覚えたことはなかった。アイソトープ療法の有効性が実証されたわけであるが、一方、たとえ治療目的であれ組織細胞を破壊してしまったことは事実である。ちなみに54,000,000ベクレルをシーベルトに経口摂取の実効線量係数0.000,000,022を掛けあわせて単純に換算すると1.19シーベルト、すなわち1,190ミリシーベルトになる。詳細が分からないので推測であるが、福島第一原発の復旧作業現場で今よりも放射能が増加するような事態が発生すれば、この程度の被曝が起きうる可能性が現実のものになる。作業員の方々はあらかじめヨウ素剤を服用して甲状腺を安定なヨウ素で飽和して防御するなど、万全の策を取っていただくことを切にお願したい。


加古川線の記事で買い出し列車を思い出す

2011-01-16 19:11:49 | 昔話
今日は日曜日なのに不断より早く起きた。加古川で親戚の法事が営まれるからである。タクシーで最寄りのJR駅に駆けつけたが電車が遅れている。しかし予定の時間に乗ることが出来た。元来は一つ前の列車なのである。東の方では雪で徐行運転していたらしい。朝早く東京駅を発った従弟たちも新幹線がかなり遅れたとのことである。冬期の移動には何かと気を遣う。

ところでこの加古川に関して、昨日のasahi.comに次のような記事(抜粋)があった。

阪神大震災、迂回路で活躍した加古川線 ファン、今でも


 週末には鉄道ファンがやってくる。切符を1区間買って迂回する「大回り」。加古川駅で隣の東加古川駅まで3.6キロ区間の切符を180円で買い、加古川線経由で宝塚線の尼崎駅で神戸線に戻れば182.4キロの旅を楽しめる。昨夏、仲間と回った加古川市の主婦(59)は「おしゃべりして、ホームでお弁当を食べて。すごく楽しかった」。

 とはいえ、迂回路を利用するのは休日に10人ほど。それが4千人に達したのは、1995年1月17日の阪神大震災直後だ。JR神戸線は地震後1週間でも甲子園口駅(西宮市)と須磨駅(神戸市須磨区)の27.5キロ区間が不通となり、全線復旧は4月1日だった。

 このため、加古川線は大阪と神戸を結ぶ迂回路に。福知山線と接続する谷川駅では、1日平均260人だった乗り換え客が8500人に膨れた。直通列車(加古川―谷川間)も1日9本から2月初めに45本になり、各地からディーゼル車をかき集めた。

 一時は廃線もささやかれたが、震災で評価は一変し、45億円で2004年に全線を電化した。

震災後、私は当時京都に単身赴任しており、週末神戸の自宅にJRで帰る時、不通区間は代替バスが走っていた。今日加古川に行く途中に気がついたことであるが、蒸気機関車が走っていた頃は、西明石を出ると大久保、土山の次が加古川だった。それが今は大久保と土山の間に魚住駅が、土山と加古川の間に東加古川駅が出来ていた。この沿線がベッドタウン化したニーズに応えたのであろう。この辺りから大阪方面に出るのに、この迂回路が利用されたのであろう。明1月17日が阪神・淡路大震災記念日なのでこの記事が出たのだろうが、私が加古川線で思い出すのは戦後間もない頃の買い出し列車なのである。

私は敗戦を朝鮮で迎えた。戦時中でもとくに食料不足を感じたこともなく、日本が戦争に負けるやいなや京城の青空市場では目を見張るような様々な食料品が溢れかえっていた。備蓄食料品がどういう流通経路かはいざ知らず流れ出したのであろう。それだけに引き揚げてきてからの食糧難がわが一家に重くのし掛かってきた。1945年11月に引き揚げた直後は高砂に住んだが、この一帯は父母の地元とて親類縁者に厄介をかけていたことと思う。そして翌1946年に神戸に移り住んだ時から、折に触れて買い出しに出かける父について行くことになった。私が小学6年から中学1、2年にかけてである。

買い出しと言っても見知らぬ農家を廻るような才覚は父にはなく、ほとんどが親戚巡りであった。荷物が増えそうな時に私に動員がかかり、出かけたのが加古川線沿線であった。そのうちの一つが母方の伯母の家で、さつま芋の収穫時期には芋掘りを手伝いに行って、蒸しあがった芋をたらふく食べ、ルックサックに一杯詰め込んで貰っては担いで帰った。10キロは優に超えていただろうが加古川線の滝野駅まで1里以上の道をものともせずに歩き通した。この当時山陽本線は旅客列車であるが加古川線は貨車が使われていた。貨車に人間が乗るのである。超満員の旅客列車が加古川駅に着くやいなや乗客が先を争ってプラットフォームを疾走し、加古川線の列車に乗り込むのである。ある時、目に入る貨車が全部満員なのに一車両だけ人が沢山乗り込んでいる。それっとばかり乗り込もうとして唖然とした。貨車の反対側の扉が開いていて、先に乗り込んだ人が後から入って来る人に押されて線路上にどどっと落とされていたのである。今Googleで「買い出し列車」の画像検索をすると、その凄まじい情景を目にすることが出来るが、貨車の買い出し列車は残念ながら出てこない。父方の叔母の家には厄神駅から歩いていったし、加古川駅からは母方の叔母の家を頼っていった。

今日はその叔母の連れあいであった叔父の33回忌法要であった。息子が6人、そのうちの一人が以前洋食屋がどんぶりや屋に でも味噌屋は味噌屋に登場した従弟である。味噌屋の店頭に自分の文章が張り出されていることは知っていなかったが、味噌業界の団体に関わっていたのでその繋がりであろうと言っていた。帰りの加古川駅で加古川線への乗り換え口が目に入ったが、買い出し列車はもちろん、震災時の迂回路もだんだんと遠のいていく。より彼岸に近づいたせいであろうか。




「世界童話大系」、そして「ひょっとこうどん」と「ひょっとこ温寿司」

2010-10-27 23:30:02 | 昔話
あの暑かった夏がようやく過ぎ去ったかと思ったら、早々と厳しい冷え込みの襲来である。大阪管区気象台によると、近畿地方の27日朝の最低気温が大阪市と神戸市で9.0度、京都市では7.8度で、11月中旬並みの寒さだそうである。夕べは机の下のハロゲンヒーターに点火した。寒暖の移りゆきがどうも過激である。そして寒くなると子どもの頃、朝鮮で過ごしたオンドルの生活を思い出す。

オンドル(温突 on-dol)とは床下暖房の部屋で、次のように説明されている。

床下からの暖房装置。朝鮮のオンドルは、床下に石を数条に並べて火炕をつくり、その上に薄い板石をのせ、泥をぬり、さらに特殊な油紙を張って床とするもので、室外や台所のたき口で火をたくと、その煙が火炕を通って部屋の反対側の煙ぬきから出るあいだに床下から部屋全体を暖める仕組みになっている。(中略)
朝鮮のオンドルは、床にじかに座る生活様式を反映して、部屋全体の床下に火炕を設けている。燃料は葉のついた松の枝が主であったが、最近では練炭が多く用いられている。朝鮮のオンドルは高句麗時代からみられるようである。(世界大百科事典)

オンドルの部屋は6畳ほどであった。たき口は庭から石段で少し降りた半地下室にあって、無煙炭を焚いていたように思う。庭の一角に炭水車のような区画があって、寒くなると無煙炭が山積みされていた。戦争が深まるにつれて大きな練炭を使うようになったと思うが、その辺りの記憶は定かではない。いずれにせよ、朝鮮の冬はいったん家の中に入ると寒さ知らずで、食事時には折りたたみ式のちゃぶ台をオンドルの上に広げたし、就寝時はちゃぶ台を片付けて部屋一面に布団を敷き詰めた。ここに父母と弟妹に私、あわせて六人が頭を並べて寝た。

布団に潜り込んで本を読みふけるのが至福の時であったし、枕元に本があると安心して眠れた。父の書棚に「世界童話大系」というシリーズものがあって、それこそ世界各国の物語の総集成であった。なかでもロシア民話というか童話に惹かれて何度も何度も読み返した覚えがある。朝鮮から引き揚げの時に一冊でもいいから持って帰りたかったが、願いがかなうすべもなかった。現役時代、東京出張の折りには時間を作って神田の書店街に出かけては探し回ったが、残念ながらお目にかかることがなかった。ところが退職後になって腰をすえて探したところ、ようやくそのうちの三冊が見つかり、嬉しくて躍り上がったものである。しかも二冊が「露西亜篇」(一、二)だったのである。それを背表紙、見開き、それと三冊目である童話劇篇の「ペールギュント」からの1ページの順でお目にかける。




ところで今ふと気になってこの「世界童話大系」のことをネットで調べたところ、この全23巻(完揃)がつい最近オークションに出されて、2010年09月28日 08:43に終了していることが分かった。開始価格218,000円 (税込)とは凄いが、落札者はいなかった模様である。私も欲しいがそこまでは手が出ない。それはともかく商品説明からこの大系が世界童話大系刊行会により大正十三年から昭和二年にかけて出版されたもので、菊判丸背上製天金函入仕様であることが分かる。ちなみにこの写真の「露西亜編二」は928ページもあり、重量は1.3キロをやや超える。たしかに子どもが持ち帰る引き揚げ荷物には大きすぎた。

写真からもお分かりいただけるように、童話ということでわれわれが普通想像するような全集とはまったくことなり、大人のための出版物なのである。奥付きには非売品とあるので、おそらく全巻予約で売り出されたものだろう。かなり高価で子どもが買える代物ではなかったことは確かである。そして本文自体、子どもに読ませようという格別の配慮はなにもない。ただ当時のことで難しい漢字にはルビが打たれているので、ひらがなを知っていてそれなりの想像力を働かせるすべを心得ておれば、私のように国民学校の三、四年生でもちゃんと物語を楽しむことが出来たのである。それとも昔の子どもは今の子どもにくらべて遙かに大人びていたのだろうか。

話が横に逸れたが、大人の物語と言えばバートン版の千夜一夜物語も布団の中で読んだ。伏せ字の多い本で、なぜそうなっているのかにも思いが及ばない年頃であった。伏せ字のお陰か、こんな本を読んでいても両親からとがめられることはなかった。「世界童話大系」にもひけを取らない立派な本で、クラスの友達から借りたのであるが、誰だったのか今は思い出せない。私も父の本を持ち出しては人に貸していたのでお互い様である。このような貸し借りで読む本には不自由しなかった。もちろん子ども向きの本も読んでいた。そのうちの一冊にはぜひお目にかかりたいと思いながらも、こちらにはまだ残念ながら出合っていない。「ひょっとこうどん」という童話の入っている本なのである。もしかして雑誌であったのかも知れない。

寒い最中、旅人が連れ立って山を越えている。ここらでちょいっと一休みと峠の茶屋に入って、腹ごしらえをしようとする。品書きに「ひょっとこうどん」とあるのをみて、これは珍しいとばかりに注文する。ところが出てきたのは変哲もないふつうのうどんである。熱いのだけが取り柄で、ふうふうと息を吹きかけ冷ましながらうどんを食べていっても、他には何も入っていない。そこで亭主にいったいこれがどうして「ひょっとこうどん」なのかと尋ねると、亭主がお互いをごらんなさいと言う。旅人が顔を見合わせると、二人とも口をとんがらせてふうふうとうどんを吹いている。「どうです、お二人ともひょっとこになっていませんか」と亭主が言って物語はお終い。こういうあらましなのであるが、この物語を探そうにも手がかりが何も無い。機会があれば手当たり次第に童話本を調べてみても見つからない。ところがつい最近、似たような話に出くわしたのである。それが高田郁著「今朝の春」((ハルキ文庫)に出てくる「寒紅―ひょっとこ温寿司(ぬくずし)」である。


「つる家」の女料理人澪が主人公の人情時代物で、文庫本の四冊目である。澪は今で言う創作料理人で、いろいろと新しい試みにチャレンジしては客の反応に胸を踊らせる根っからの料理人なのである。元は大阪の出の澪が江戸で名のある料亭と料理を競いあうが、江戸の人間には思いもかけない料理が時には飛び出す。師走に入ったある日、夜食に大阪での家庭料理でもある「温寿司」を出す。

 朝から戻しておいた干し椎茸と干瓢、人参に甘辛く味を入れる。海老は色よく茹でておいた。酢飯にそれらをざっくりと混ぜ合わせ、飯椀に装って、錦糸玉子を散らす。蓋をしてそのまま蒸籠で蒸し上げるのだ。

そして熱々の飯椀を蒸籠から取り出して、店主とお手伝いの亭主が食べ始める。

「熱ちちち」
「熱つ」
 二人は同時に言って、ふうふうと飯に息を吹きかける。

それを見たお手伝いとその子どもが吹きだした。「何だよぅ」「何でい」と二人は同じように言って、また、ふうふうと熱い飯に息を吹きかける。そしてお手伝いがこう言う。

「いやだよ、お前さん、それに旦那さんも。まるで『ひょっとこ』みたいじゃないか」

作者の高田さんもどこかで「ひょっとこうどん」を目にされたのだろうか。それともまったく偶然の一致の思いつきなのだろうか。私はこの方のサイン本を一冊持っているが、次ぎのサイン会の折にはぜひこのことをお聞きしよと思う。しかしそれより先に、この文庫本の巻末にちゃんと「ひょっとこ温寿司」のレシピが載せられているので、まずそちらの試食が先である。読んでいるだけでよだれが落ちてきそうで、こういう喜びが味わえるのであれば、寒くなるのも悪くはないように思う。

「手書き」の大切さ、そして字にまつわる話

2010-10-25 18:07:49 | 昔話
産経新聞に【国語逍遥】という清湖口敏さんによる続きものの記事が載っている。今朝はその八回目で《「手書き」の衰退》がテーマであったが、その中の文章になるほど、と相づちをうった。

 小社や各界の講師が政治、経済などさまざまな分野について解説する「大手町Newsカレッジ」(産経新聞東京本社内)で、「国語力」の講座を受け持っている。国語の話だから当然、ホワイトボードに字を書く頻度も高く、「板書」の難しさを思い知らされている。

 受講者はほぼ全員が成人なので、悪筆の恥ずかしさに耐えさえすれば、それ以上の支障はまずなかろうと思われるが、これが児童相手の授業となると、先生はとてもそんな悠長なことを言ってはおれまい。

 子供は黒板を見てノートを取る際、知らぬ間に先生の字をまねることが多い。先生の字が稚拙だと子供の字もおのずと乱れてしまう。今の若い先生は文字を「打って」育ってきた世代だけに、板書はことのほか苦手だろうと想像される。
(産経ニュース 2010.10.25 07:42)

確かにそうだと思う。先生がしっかりした字を書かなければ、それを真似る子どもが先生を超えることはなかろう。その子どものなれの果てであろうか、たまたま政治家になった人の稚拙な文字に驚いて、以前に政治家の「字は体を表す」か?なる文章を書いたことがある。しかし実を申せば私も人のことを言えた義理ではない。子どもの頃から字を書くのが苦手で、自慢ではないがその証拠がしっかりと残っている。元在朝日本人の『自分探し』でお見せした国民学校三年生の時の通知表である。二学期も三学期も習字を注意されている。それに比べて当時二十歳前後の先生の字の美しいこと。そういえば昔の教育を受けた人の字は立派なのが多い。


兵士として戦場に駆り出された人たちが家族と交わした軍事郵便や遺書など、遺された自筆の文章を目にするたびに私は戦慄におののく。自分の思いや考えをしっかりと伝えようとする力強い意志が、文章のみならず文字そのものからも伝わってくる。それなのに乱文乱筆を謝するという奥ゆかしさを弁えた崇高な人たちの多くが戦争で命を落としていった非条理を思うとただ茫然となる。手書きの立派な文字には人を感動させる力がこもっているのだと思う。

清湖さんの文章は続く。まったく同感である。

 漢字にかぎらず、およそ手で文字を書くという行為は、脳の活性化に加えて人格の涵養(かんよう)にも大きく寄与するはずである。手書きの字は情報機器で打ち出す字とは違って、書き手の一刻ごとの心理や気息が反映するため、一つとして同形の文字はない。「文字は人なり」といわれるゆえんがここにある。

阪大時代の恩師があるときに「ボールペンで手紙を書いてくる人がいる。わたしはそのような手紙は読まない」と言われたことがある。先生はいつも太字の万年筆を使い風格のある字を書かいておられた。先日紹介したが、神戸女学院の外国人教師がジーンズばきの女子学生に立腹したころのことだと思う。まだ「かたち」が大切な意味をもっていたのである。

つい最近も京大時代の恩師からペン書きのお手紙を頂いた。ある調べごとのちょっとしたお手伝いをさせていただいたことへの礼状なのである。この先生は新幹線で文化勲章クラスの書家に書を習いに通われたぐらいだから、その書はもう別格なのである。滋賀県のある古刹で鐘を新に鋳造することになり、その銘の揮毫を依頼されたぐらいなのである。初代の鐘に遺された銘は菅原道真公によるものであったというから、もって瞠目すべきなのである。そういう方がおられたこともあって、なんとか自分の字を書きたいという欲求はこの年になってますます掻きたてられる一方である。しかし今さら先生について一から直されるのも間尺に合わないので、独学の道を選んだ。

2007年に台北故宮博物館を訪れて数々の名筆に触れ、感動を新にしたが、ちょうどその頃二玄社が「大書源」全三巻(索引とDVDの付録つき)を刊行することを知ってさっそく購入した。楷書、行書、草書、隷書、篆書の五体の字例を収載した書体字典で、『合計二十一万字にも及ぶあらゆる時代の様々な書きぶりの書が余すところなく収められ、まさに質量ともに空前絶後の書の宝庫』なのである。


「東」だけでも二百三十六文字が収められている。眺めているだけで空想が羽ばたき、いろんな時代の人と心を通わせているような気持ちになるが、実を申せばもうそれで十分とばかりに、手習いにはなかなか進まないのが現状である。



清湖さんは次のようにも述べている。

 手書きが中心だった時代、人は手紙やはがきを受け取るとまず、字を眺めたものである。そして「あの人らしい誠実な字だ」「乱暴な字で、挨拶(あいさつ)にも誠意がこもっていない」などと書き手に関心を寄せた。人に惚(ほ)れる前に字に惚れることもあった。『枕草子』には、届いた文を見た中宮が真っ先に「めでたくも書かれたるかな」(立派な筆跡だわ)と字を褒める場面がある。もっとも書いたのが三蹟(さんせき)の一人、藤原行成だったから、上手なのも道理ではある。

《人に惚(ほ)れる前に字に惚れることもあった》にはドキリとした。妻とのなれそめを見抜かれたと思ったからである。





神戸女学院あれこれ

2010-10-21 18:44:23 | 昔話
昨日は内田樹さんの講演を聴きに、久しぶりに神戸女学院を訪れた。阪急電車宝塚線の門戸厄神駅で下車、表示に従っててくてく歩く。坂道に差し掛かり正門をくぐってキャンパスに入ると一挙に勾配が険しくなる。汗が思いっきりで始めたので、これはやばいと立ち止まってはシャツの下まで手を伸ばし、厚手のタオルで汗を拭った。この異常に暑かった夏、女子学生も同じようなことをしていたのだろうかとふと思う。私が以前ここを訪れたのは少なくとも30年以上も前のことである。今回が2回目の訪問になるが、前に来たときは駅からの距離が長いとか坂道が急だとか、そんなことは思っってもみなかったはずである。30数年の重みを感じた。

30数年前は図書館にやってきた。阪大にも無かった化学文献が、近いところでは神戸女学院にあることが分かり、電話したところどうぞおいで下さいとのことだったので、図書館を訪れたのである。簡単にコピーを取れる時代ではなかったので、要点を手書きで書き写したと思う。天井の高い広々とした閲覧室なのにほとんど人がおらず、こんなところで毎日時間を過ごせたら天国だな、と思った覚えがある。傘立てのような立派な陶器製の便器を男子トイレで見たときにあれっと思った。なんと、神戸元町にあるきんつばで有名な高砂屋の喫茶店(そのころは元町本通りから少し南に下がったところにあった)にあった便器と同じだったのである。

神戸女学院大学のホームページには次のような沿革が記されている。

1933(昭和8)年
西宮市岡田山キャンパスに移る。伝道者・建築家ヴォーリズによってスパニッシュ様式の校舎が完成。現在の文学館、理学館、図書館本館、音楽学部1号館、講堂・チャペルを含む総務館などは当初の建物。

図書館はあのヴォーリズの建物だったのである。なぜスパニッシュ様式なのかそれなりの謂われがあるのだろうが、その昔、米国のカリフォルニア大学サンタバーバラ校にいた頃に慣れ親しんだスペイン風の建物に街並みを今回も思い出して懐かしさを覚えた。

それにしてもキャンバスに緑豊かな自然が満ちあふれているのが印象深かった。この中を歩いているとまるで山砦を跋渉する思いがする。実に起伏が多いのである。こういうところで在学中に足腰を鍛え上げた女子学生は、やがては健康な赤ん坊をバンバンと産み落としてくれそうに思えた。そういえば昨日内田さんの講演を聴いたときにも、講堂の木製ベンチの間隔が狭く、否応なしに背筋をまっすぐに伸ばして坐らざるを得なかったことを思い出す。腰を鋳型にはめたように長時間直角に折り曲げていたので、講演が終わって立ち上がるのに往生したが、若い女子学生の姿勢を正す訓練にはもってこいである。彼女らが電車の座席に腰を下ろしている姿は、行儀の悪い若者の中にあって、さだめし異彩を放つことだろう。

そして神戸女学院にまつわる思い出はさらにさかのぼる。私が教養部の二回生で自治委員をしていたときに、文学部から女子学生が新入り委員として加わった(のだと思う)。自治委員はクラス単位の投票で選ばれていたから、なにか人目を引くところがあったのに違いない。その彼女が神戸女学院(高等部)出身ということで一躍注目を集め、私も「クノッソスの美女」なる美称を献じた。エーゲ海に栄えたミノス文明の遺跡がクレタ島に多く残るが、そのクノッソス地方から出土した陶器に描かれていた乙女の横顔が彼女のイメージにピッタリだったのである。幸い仲間の、と言っても五、六人であったが、賛同を得て彼女のことを秘かにそう呼ぶことになった。ところが夏休みを終えた頃だろうか、自治会室に衝撃が走った。「クノッソスの美女」が心中をはかり、彼女だけが絶命して相手は生き残ったというのである。動機の詮索などをはじめとして大騒ぎとなり、寄るとさわると侃々諤々、口角に泡を飛ばし合ったが、なかには「ほんまはわしに気があったんや」と言い出すものまで現れたりした。そういえば私も彼女と文学論議を何回か交わした覚えがある。文学部だから、というぐらいの理由だった。自治会でなければ接点が考えられないので、そうだったと今では思っているが、今や真実を確かめようがない。彼女がその後自治会室に姿を現すことはなかった。わが青春の一齣である。

こういう昔話を始めるとまた次が出てきそうなので、「昔話」というカテゴリーを新しく作ることにした。