日々是好日

身辺雑記です。今昔あれこれ思い出の記も。ご用とお急ぎでない方はどうぞ・・・。

『名義貸し』の姉歯氏が逮捕なら東大教授多比良氏は?

2006-04-28 17:12:37 | 社会・政治
耐震強度偽装事件が発覚してほぼ五ヶ月経って姉歯氏を始めとする八人が26日に逮捕された。新聞報道などによると姉歯氏に関しては《知人の建築デザイナーに一級建築士の名義を貸した疑い(建築士法違反幇助の容疑)》だそうである。『別件逮捕』らしくてこの是非について私なりの意見があるがそれはさておいて、『名義貸し』が逮捕につながるような重大な犯罪なら論文捏造に関与した東大教授多比良氏も同罪ではなかろうか、とふと私は思った。

多比良教授の関与する捏造論文問題についての私見はすでに「捏造論文問題 疑わしきは罰せよ」で述べているので、ここでは私がなぜ多比良教授の行為を『名義貸し』相当と思ったのかその次第を述べる。

東京大学のホームページに《記者会見「本学教員のRNA関連論文に関する日本RNA学会会長への最終調査報告」》が掲載されており、いくつかの添付資料がPDFファイルで提出されている。

添付資料3が多比良教授の寄せた「東京大学再現性調査委員会の最終調査報告に対する所感」で1ページに納まっている。ここで少々長いが私の注目する部分を引用させていただく。

《既に、これまで様々な機会で申し述べましたとおり、一連の問題は、各論文の実験担当者であった川崎助手が、本来は当然に厳重に保管しておくべき実験ノートを発見・提出できなかった事実に起因するものです。これは、私の川崎助手への信頼と、研究管理の不十分さが招いたことで、責任を痛感しており、倫理的な責めは、私も負担するべきものと考えております。そのため、既にご報告いたしましたように、問題の指摘から約1年が経過した現時点においても、川崎助手によって、実験ノートが発見されていないという研究倫理上の問題を理由として、4報の共同著作論文について、私は、その責任著者として、2006年3月26日付けで、各論文を掲載した科学雑誌の編集者に対して論文を取り下げる旨の連絡を行っております。なお、私は、4報の各論文の責任著者であり、一つの論文では共同責任著者ともなっている川崎助手に対して、この間、論文の取り下げの同意を取り付けるため、説得してまいりましたが、同意を得られなかったことは、重ねて遺憾に思うところです。》

ここで取り上げられた4報の共同著作論文とは添付資料1「日本RNA 学会から再現性に疑惑が指摘された論文に関する最終調査報告」によると

3. Kawasaki H, Taira K. Hes1 is a target of microRNA-23 during retinoic-acid-induced neuronal differentiation of NT2 cells. Nature. 2003 Jun 19; 423(6942): 838-842.
7. Kawasaki H, Suyama E, Iyo M, Taira K. siRNAs generated by recombinant human Dicer induce specific and significant but target site-independent gene silencing in human cells. Nucleic Acid Res. 2003 Feb 1; 31(3): 981-987.
8. Kawasaki H, Onuki R, Suyama E, Taira K. Related Articles, Links Abstract. Identification of genes that function in the TNF-alpha-mediated apoptotic pathway using randomized hybrid ribozyme libraries. Nat Biotechnol. 2002 Apr; 20(4): 376-380.
12. Kawasaki H, Taira K. Induction of DNA methylation and gene silencing by short interfering RNA in human cells. Nature. 2004 Sep 9; 431(7005): 211-217.

である(番号は報告書の通り)。

私が凄いと思ったのは特に3と12の論文である。著者は川崎、多比良両氏只二人のNature 論文でなんとも研究者垂涎の的ともなる素晴らしい成果である。二人で組んでやる研究には格別の楽しさがある。まず身近に討論・議論相手がいるということ、これが嬉しい。話し合っているうちに一人では出て来にくいようなアイディアがポンポン飛び出してくる。相手が実験していると結果が出てくるのが待ち遠しい。チラチラと様子を窺いながらも急かしては悪いと自制する。実験中は邪魔すまいと思いつつもつい「どう?」と声をかけてしまい、記録計の針の動きにドキドキしながら目を凝らす。もちろんデータの解析結果や解釈の検討は生データを前にして行う。というより生データが愛おしくてフレームに入れて飾りたくなるぐらいだ。

多比良氏は《一連の問題は、各論文の実験担当者であった川崎助手が、本来は当然に厳重に保管しておくべき実験ノートを発見・提出できなかった事実に起因するものです》と述べている。その通りであろう。しかしこれが共著論文のもう一方の当事者の言葉にしては他人事過ぎる。

「日本RNA 学会から再現性に疑惑が指摘された論文に関する最終調査報告」を見ると調査経過の項で実験ノートと生データに関して以下のような指摘がある。

《5. この中間報告を受けて,実験試料ならびに関連する実験ノートなど実験記録を提出するよう,8月22日に研究科長から多比良教授に要請した.
6. これに対して多比良教授より9月5日に提出された回答と資料から,4つの論文に関する実験データや実験プロトコルなどが記載された実験ノートが存在しないことが明らかとなった.また,その回答と提出された生データを含む資料内容について,9月7日開催の調査委員会にて検討し,提出されたいずれの回答ならびに資料も,実験結果を裏付ける生データの明確な存在を示すものではないことが判明した.》

要は『実験データや実験プロトコルなどが記載された実験ノートが存在しなかった』と言っているのである。私は「捏造論文問題 疑わしきは罰せよ」で、「実験したという証拠がない以上論文の正当性についてのいかなる主張も成り立たないのは明白である。立証責任のある実験者当人が実験の存在そのものを示すことが出来ないのだかこれで一件落着、さっそく当事者を処分すればいい」と述べているのだが、東京大学はご丁寧にも実験ノート、生データがないのであればと追試実験をさせているのである。もちろん川崎・多比良両氏の論文における主張は裏付けされることがなかった。

私は形式的な手続きに過ぎない追試実験をさせること自体無意味と断じる。いかにも『容疑者の人権を考慮しています』と言わんばかりのパフォーマンスに過ぎない。それよりもこの調査委員会はたとえば二編の川崎・多比良共著論文において、両者の寄与の内容をつまびらかになすべきであったと思う。確かに事の起こりは『再現性に疑惑が指摘されたこと』であるから実験担当者のみの責任のように思われるかも知れない。しかしこれはある研究室における未公表の内部データの再現性疑惑ではないのである。すでにNatureという立派な学術誌に公表された論文内容に対する疑惑なのであって、疑惑調査に当たって実験の経過から論文の成立過程で両者がどのように関わり合ったかをまず最初に明らかにしないことには問題の本質の解明にならない。

世間では教授と助手というと偉いのは教授で助手は教授に言われるがまま実験をする人というイメージを持っていると思う。軍隊で言うと教授が上官で助手は部下、部下は只上官の命令に忠実に従う、と思い描くであろう。では川崎助手は実験のプロトコルを多比良教授から与えられてそれに忠実に実験することを求められたのだろうか。(大学制度の一大汚点である現行の助手制度についてはまた論じることとする。)

私はそうではなかったと思う。もし多比良教授が川崎助手に実験プロトコルを与えているのなら川崎助手がたとえ実験ノートを紛失したとしても教授自身がプロトコルの存在を主張できるのである。川崎助手が実験データを提出出来なかっても多比良教授が「いや、私はあの実験の後確かにデータを見せられ説明を受けた」と言えばいいのである。それが出来ないということは多比良教授は実験プロトコルを与えたこともなく生の実験データも見せられたこともないのであろう。とすると多比良教授はこの論文のどこにどのように寄与したのであろう。この点が調査委員会の報告では明らかになっていない。

では実際に多比良教授のやったことは何か、『げすの勘ぐり』ではあるが論文に自分の名前を載せることだけだったのだろう。助手に君の名前だけでは世間に通らないよ、なんて思わせて箔づけとばかりに教授の名前を並べたてるのであろう。それが多比良教授のいう『責任著者』の実体であろう。これはお為ごかしの『名義貸し』に他ならない。いや、それよりも質の悪い『名義押しつけ』であろうか。

姉歯氏が逮捕されているのに同罪の多比良氏がノホホンとしておられるのは何故か。有難やAcademic Havenの住人だからである。


邦楽(一弦琴)を学ぶ難しさ

2006-04-26 18:05:13 | 一弦琴
邦楽といっても若い女の子が歌っている現代の音楽のことではない。日本古来の音楽である。雅楽、声明、琵琶曲、能・狂言、地歌・箏曲、三味線音楽などで、ビクターから出ている「日本音楽まるかじり」(VZCD8224~5)でその一端を知ることが出来る。

このCDに付属の小冊子に徳丸吉彦氏の「日本音楽入門」という解説があるが、その中に邦楽、といっても一弦琴であるが、を学ぶにあたって私を悩ませている問題の起こりが明快に述べられている。日本伝統音楽の口頭性と書記性なのである。引用させていただく。

《日本の音楽文化を理解するための(第二の)鍵は、口頭性と書記性の並存です。ここでは、口頭性を身体によって音楽を伝承する仕掛け、と考えてください。これに対して書記性は、楽譜を使って音楽を伝承する仕掛けです。(中略)日本の面白いところは、非常に古い時代から、楽譜を持っていて、しかも、実際の伝承に際しては、口頭性を重視してきたという点にあります。》

この《楽譜を持っていて、しかも、実際の伝承に際しては、口頭性を重視》というところが解説者にとっては面白いことかもしれないが、習う側から云うと悩みの種、せっかく楽譜がありながら楽譜が用をなさないことが多いからである。

一弦琴にも楽譜がある。私の師匠の考案になる譜では琴の音階と拍子が記されており、細かい演奏法は直接に教えていただく。たとえばある表記がトレモロであることを教わると次にその表記が出てくるとトレモロを奏でられのである。ところが歌詞は琴の音階の横に記されているが一文字一文字の音階は記されていない。従って歌そのものは弦と歌の『ズレ』や独特の『節回し』を含めて口伝になってしまう。

楽譜に基づいてここは実際にこう演奏するのだと教えていただける分には特に問題はない。その通り覚えればいいからである。ところが『その通り』が必ずしも不動ではない。たとえば『ズレ』。その前にこの『ズレ』について藍川由美さんが文春新書『「演歌」のすすめ』で説得力のある解説をなさっているのでこれもまた引用させていただく。

《日本音楽においては声と楽器とが、洋楽のように同時的に(同じリズムで)進行するのでなく、両者の間にズレ(食い違い)があることは周知の現象である。これは「ポリリトミーク」(復律動)などと称されるものであるが、三味線音楽にも箏曲にも存する一般的ないちじるしい現象である。洋楽では歌は楽器とぴたりぴたり合って進行するのが立派な唱法であるが、邦楽ではこのような唱法は「楽器にくっつく」もとと言われ、幼稚な唱法としてはいせきされるのである。
 この歌と楽器のズレという技巧は楽器が歌の邪魔をせず、歌を生かすように工夫されているのであり、やはりその根本には単音に対する限りない憧憬の念が働いていると思われる。(中略)この声楽上の技法は確かに西洋音楽においては味わうことの出来ない邦楽の一大特色と言わねばならない。》

そう、この『ズレ』こそわが命、一弦琴に合わせて歌を唱う醍醐味の一つがここにあるのだが、これが楽譜の上で必ずしも明示されておらず、また師匠の演奏も結構融通無碍なのである。だからどの『ズレ』方が正しいのか自分でもはっきりしないのである。試みに私が師匠の唱法とは異なるが自分のリズムに合う『ズレ』を意識的に持ち込んでも、注意されるのは十辺に一度ぐらいなので、いつの間にか自分流儀に唱う部分も定着してきた。これが『口頭性』の鷹揚なところなのか弾力性に富んでいるところに人間味を私は感じる。

私がそれよりも困るのは一弦琴の演奏そのものが楽譜から逸脱する場合である。お師匠さんの弾かれる演奏が楽譜とは明らかに違う場合がままある。そこで私は図々しく(年の功!)「楽譜通りではこのようになりますが・・・」と私が演奏するとそれが正しいことは認めていただける。しかし、「私はこう習ってきました」と師匠が仰るともうお手上げである。『口頭性』をより重視するのなら当然その一言にひれ伏さないといけないのであるが、私は「それなら何故楽譜を改めないのか」と切り返したくなるのである。

モーツアルトの曲にしても演奏者によって、指揮者によって楽譜は同じでも曲の解釈がことなりそこに演奏者、指揮者のスタイルが生まれる。邦楽の『口頭性』も似たようなもので同じ流派であっても同じ曲が演奏者によってかなり異なって聞こえるのではなかろうか。たとえば「今様」を一堂で弾き比べをすれば分かることである。

こう考えると邦楽が重視する『口頭性』も『伝承性』に各師匠の『個性』が入りこんだものであるような気がする。となると教わる方も最初から師匠の『癖』まで引き継ぐことはないように思う。せっかく楽譜があるのだから『書記性』を重んじて楽譜通りの標準的演奏法を教えていただき、技倆も上達し理解が深まるにつれて『癖造り』に入っていけばいいのではなかろうか。私が教える側なら多分そうするだろうと思う。


私の歌うフランク作曲「天使の糧」

2006-04-24 17:05:45 | My Song
1968年6月、当時私の住んでいた米国カリフォルニア州サンタ・バーバラにRobert F. Kennedyがやって来た。大統領選で民主党候補を目指してのキャンペーンであった。私も話題の人を一目見たくて演説会場となった飛行場近くのレースサーキットに大勢の聴衆と一緒に紛れ込んだ。

そのあとKennedyはLos Angelesに向かい6月5日にAmbassador Hotelで暗殺者に狙撃され翌日死去した。棺は空軍輸送機でNew Yorkに運ばれてSt. Patrick's Cathedralに安置されて葬儀が行われたのが6月8日である。『死者のためのミサ』は音楽葬のように数々の音楽が奏されたが、リチャード・タッカーの唱うフランク作曲「天使の糧」にカソリックでもない私の身体を電撃が走ったのを覚えている。テレビを求めて私の宿舎に集まってきた近所の人たちとぼそぼそと言葉をかわしながらも画面に釘付けになっていた。

何時か自分でも唱いたいと思っていたが一人デュエットにチャレンジしてみた。「天使の糧」をクリックして開いた画面で今度は「PanisAngelicus.mp3」をクリックすると妙なる天使の歌声が流れるはずである。お味噌は前もって遠ざけておくこと。

「中2女子殺害」事件は親不孝娘・息子物語だ

2006-04-23 11:25:46 | 社会・政治
昨夜(22日)と一昨夜、夜7時のNHKニュースのトップが「中2女子殺害」の報道であった。折角の食事が不味くなったし、この不愉快な報道をついついテレビを切ることもなく見続けたことで二重に不愉快になった。

私は以前に「新聞・テレビに『殺人報道』はいらない」とこの類の報道の無意味さを論じているので以下はその繰り返しのようなものである。

高校一年の男子生徒が交際相手の中学二年の女子生徒を殺害したとのこと、2、3年間の付き合いだったらしい。昔流では上品に云っても『不純異性交遊』、その実『桃色遊戯』のなれの果てであろう。

事件の背景が簡単に分かる筈はない。はっきりしていることは殺された女の子と殺した男の子がおり、それぞれに親がいるということだ。女子生徒も男子生徒もこの事実だけもってしても罪深い親不孝者であると断じることができる。女子生徒・男子生徒のいずれもが自分に愛情を傾けている親の、そして相手の親の存在をどう考えていたのだろう。

私が教えを受けた「父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ夫婦相和シ朋友相信ジ恭倹己ヲ持シ・・・」や「身体髪膚これを父母に受く。あえて毀損せざるは孝の始めなり」の戦中世代をあらためて貴重に思うのである。

昨夜のNHKテレビでは女子生徒が笑顔で振り向く場面のビデオテープが流された。コーラスのソプラノのパートリーダーであったとか、そのような周辺の談話が流された。男子生徒は珍しくもちゃんと挨拶の出来る明るい子であった、とのコメントなどもあった。NHKは何を考えてこのような場面を流したのだろう。

この『いい子報道』は私に云わせると全くの無価値だ。未成年者であっても人は人、複雑なものでいろんな側面があって当たり前のこと、もちろん『いい面』もあるだろう。しかし常識を働かせばこれは親を泣かせる親不孝者の不始末ではないか。『こんなにいい子が殺されるとはなんて可哀相なこと』とでも云いたかったのだろうか。サスペンス番組の時間でもあるまいし『ニュース報道』の使命からは完全に逸脱している。おかげで『竹島問題』が取り上げられたのはその後である。だからこそ私はNHKを国営放送にと主張しているのである。





何故出かけない測量船

2006-04-21 12:18:48 | 社会・政治
政府淡々「大人の対応」 竹島周辺の海洋調査 国際法前面、世論に訴え (産経新聞) - goo ニュース

竹島周辺の海洋調査について政府は《淡々と海洋調査の準備を進めつつ、国際法を前面に押し出し、日本側の正当性と韓国側の不当性を国際世論に訴え、牽制(けんせい)する戦略に出ている。》とのこと、大いに結構である。だからこそ私は「堂々と拿捕されよ『測量船』と主張するのである。

一方朝日新聞の報道によると、海上保安庁幹部は《「韓国側の(地形)データがもらえるなら、(日本の調査実施と)結果は一緒だ」との別の妥協案を語る。韓国側から海底地形に関するデータが提供されれば、日本側が調査に踏み切る必要も薄れるというわけだ。》と云っているらしい。

何をはき違えているのだろう。『竹島』は日本固有の領土とする政府の見解とは齟齬する発言である。黒船渡来の時代でもあるまいし、世界のどこにおのれの領土周辺を他国に勝手に調査させてあまつさえそのデータを欲しがるとは、勤王の志士この世におわせば天誅ものある。

測量船は既定どおり海洋測量の任務を全うすべきである。韓国が拿捕するというのなら無抵抗で従容と拿捕されるのがよい。丸腰の測量船に韓国が武力攻撃を仕掛けることはあるまい。拿捕に至る経過をすべて映像に記録してそれを公開し、世界の注目を集めるのである。国際世論に訴えそれを味方につけ『竹島』問題解決に向けての大きな前進となるではないか。

谷内外務次官がこの竹島問題で韓国と協議のため訪韓(ほうかん)するという。測量船の就航はその様子待ちらしいがこの協議は不要なことである。問題先送りの『幇間(ほうかん)外交』と今こそ決別する切っ掛けにするためにも測量船は即刻現地に赴くべきである。

堂々と拿捕されよ『測量船』

2006-04-20 10:47:36 | 社会・政治
竹島周辺の海洋調査 歴代政権、ツケ重く 「東海」問題、再燃懸念も (産経新聞) - goo ニュース

私には『竹島』の帰属に関して日韓の何れの主張に理があるのか分からない。しかし現状を見ると韓国の主張に理があるのかな、と思う。『竹島』に韓国が軍事施設をつくり兵士が常駐していているにもかかわらずそれを日本国政府が容認しているからだ。『竹島』が政府のいうように日本領土であるならなぜこのような不法行為を許すのか、これがまともな独立国政府の態度とはとうてい考えられない。

ところがいうまでもなくわが日本国は残念ながらまともな独立国家ではない。「今もアメリカの『占領下』にあるわが祖国日本」と私は思うからだ。あわせて「日本は独立国といえますか」もご覧頂きたい。肝心の日本国本土がアメリカの占領下にあってもノホホンと戦後60年あまり過ごしてきた日本国政府にとって『竹島』なんぞは蚊の涙、韓国軍兵士の駐屯なんぞなんの痛痒も感じないのも当然かもしれない。とすると『占領下にある竹島』が日本固有の領土という日本国政府の主張もひょっとしたら正しいのかもしれない。

韓国は海洋測量船の拿捕をも辞さないという。私は正々堂々となんら抵抗することなく拿捕されればいいと思う。そこで国際世論の動向を判断し日本の主張に理があるのなら国際世論を味方につけて韓国と対決すべきである。もちろん領土問題は一気に解決するとは思わない。これを『竹島』問題についての韓国との交渉の緒とすればいいのである。

測量船の乗組員の方々にはご苦労をおかけするがぜひ粛々と職責を全うしていただきたい。許されることなら私は『軍艦マーチ』で壮行を見送りたいと思う。

吉川英史著「日本音楽の歴史」にみる一弦琴

2006-04-19 14:49:01 | 音楽・美術

朝日の朝刊(4月18日)に日本伝統音楽研究家、東京芸大名誉教授吉川英史(きっかわ・えいし)氏の訃音が報じられていた。老衰で死去、97歳とのこと。ご冥福をお祈り申し上げる。

邦楽が伝統古典音楽として厳然と存在する日本国で、明治の御代からわれわれは小学唱歌を始めとする西洋音楽のみを義務教育で教え込まれてきた。考えてみたらまことに奇妙奇天烈摩訶不思議なことである。昨今小学校から英語を教えることの是非に論議が涌き起こっているが、考えてみるまでもなく邦楽を全廃して洋楽のみに徹したことは、語学教育に例えると国語を全廃して英語のみにすることに匹敵する。この蛮勇をふるった明治時代の音楽教育者の前には小学校英語教育論者も顔色を失うはずだ。

ウインフィルだかベルリンフィルだかヨーロッパの名だたる交響楽団の一員として活躍している日本人奏者が指揮者からその演奏に日本的リズム感覚が見え隠れしていると厳しい指摘を受けたとかいう記事を読んだ記憶があるが、さもありなんと思う。われわれは実は先祖伝来のリズム感覚を身体的に引き継いでいるのである。母親の胎内にいるときからたとえモーツアルトの音楽を聴かされてもその音楽が母親の皮膚を肉をそして羊水を通り抜けているうちに日本的音感でたっぷり味付けされて胎児に届くからであろう。

私は生まれた頃から父の謡が身近にあった。子守歌だったそうである。父は若いときから観世流の謡曲を嗜んでいた。戦争の惨事をくぐり抜けて残っている独身時代唯一の写真が播州高砂神社での奉納演奏の舞台姿で後列右から二人目が父である。



私にも謡を教え込もうとしたことが何回かあったが私の方が長続きしなかった。今から思えば残念である。私の結婚披露宴で父は『烏帽子折』のなかから奥州に下る牛若丸元服のくだりを謡ってくれたことを覚えている。そうしたこともあって私には日本伝統音楽の音感が紛いもなく伝わっていることを期待するのであるが、その能力を発揮する機会はたえてなかった。

縁あって一弦琴を始めだしてから日本音楽の歴史を勉強したくなって古本屋で買い求めたのが吉川英史著「日本音楽の歴史」(創元社)である。奥付を見ると昭和40年6月20日第1刷発行、昭和51年4月20日第11刷発行とあるからこの分野のベストセラーなんであろう。そして一弦琴についても五ページにわたってかなり詳しく記されている。

《一弦琴の歴史が明らかに知られるのは江戸時代以後である。岡山藩の儒者で雅楽にも造詣のある熊沢蕃山は一弦琴を演奏したと言い、彼は須磨に遊んで、去来する潮の声を聴いて「須賀ノ曲」を作曲したという。(中略)しかし、現在の一弦琴の直接の祖は河内国の金剛輪寺の僧・覚峰(1729~1815)と見るべきであろう。》

この時代にはすでに箏や三味線のような比較的複雑な楽器が流行しているのに一弦琴のような単純な楽器が出現するのである。しかも箏や三味線を習ったのちの人が一弦琴を演奏した。何故この時代にこのような単純な楽器、単純な音楽が行われたのであろうか、と著者は疑問を投げかけ、この覚峰が説く弾奏の心得をその答えのヒントとして紹介している。

《一、心を清浄にして無一物にて歌をもうたひ、琴をもひくべし。また居所をきよくし、念頭をすずしくしなば、おのづから声音の美妙もいでぬべきか。
一、此琴はかなき一すじのしらべなれども、いささか俗事のものうさを散じ、心の朦鬱をひらき、気をすまし、意を清くするの一助ともなるべき器なれば、あやなく児女のたはぶれごとにてはなすまじきものか。かつそうごん(荘厳)なるきらきらしきことは、このましからず。何のよそひもなく、ことそぎたるやめでたからん。只幾度もいくたびも心ただしく、音声のなほからんこそあらまほしけれ。・・・・》

そして著者は締めくくる。

《この教えは技巧主義・耽美主義でなく、道徳主義・精神主義であることが注目される。ここに、この単純な楽器の存在理由があるわけである。》

この箇所は私が一弦琴に惹かれる理由の説明にもなっている。まただからこそ同好の士の増えることを願うものである。そのためにも《あやなく児女のたはぶれごとにてはなすまじきものか》の箇所はわが尊崇おく能わざる今の大和撫子を慮りあえて現代語訳を止め措く。

高松塚古墳壁画問題 責任者の安易な辞職は『敵前逃亡』

2006-04-17 15:46:31 | 社会・政治
高松塚古墳検討会の渡辺座長、辞任へ 未公表問題で引責 (朝日新聞) - goo ニュース

何かあると最高責任者の辞職が飛び出す。高松塚古墳壁画の保存・維持の作業でいろいろな不祥事のあったことがここしばらく報じられているが、こうした一連の不祥事を公表しなかった責任を取って高松塚古墳検討会の渡辺座長が座長と委員を辞職するとのことである。

この報道は私にはちと納得しかねる。

この記事では一連の不祥事のあったことを(マスメディアに)未公表にしたことが辞任の理由のように受け取られる。何故未公表が一々責任問題になるのだろう。未公表にしたことが法律に触れるのなら確かに犯罪行為であるが、まさかそのようなことを定めた法律があるわけではなかろう。

高松塚古墳壁画の件で責任が問われるべきなのは、元来壁画の保存・維持を仕事とする機関がその任務を全うするどころか壁画を毀損したり、またカビの繁殖に適切な対応することを怠たりあまつさえ不用意にカビを石室内に持ち込み石室と壁画に損傷を与えたりしたことであるのではないか。

報じられた範囲ではあるが石室・壁画の取り扱いがあまりにも杜撰としかいいようがない。現場で作業する人から監督、管理する人までこの人たちの職業意識・職業倫理はいったいどうなっているのだろう。

昔昔読んで感動を覚えた幸田露伴の「五重塔」を思い出した。谷中感応寺五重塔の建立がモデルで、それを建てた総棟梁のっそり十兵衛の仕事にかけた熱意と造り上げた塔に対する絶大な自信と誇りが語られているのである。

総ケヤキ造りで高さ34メートルの五重塔は関東で一番高い塔である。ようやく出来上がり落成式を目前に控えて大嵐に襲われる。

以下に引用する原文は私も振り仮名を頼りに読み下せるもので、ちんぷんかんぷんの方も多いかもしれないが大意は掴んでいただけると思う。

「折角僅かに出来上がりし五重塔は揉まれに揉まれて九輪は動き、頂上の宝珠は空に得読めぬ字を書き、岩をも転ばすべき風の突っ掛け来り、楯をも貫くべき雨の打付り来る度撓む姿、木の軋る音、復る姿、また撓む姿、軋る音、今にも傾覆らんず様子に、あれあれ危うし仕様はなきか、傾覆られては大事なり、止むる術もなかい事か、雨さへ加はり来りし上周囲に樹木もあらざれば、未曾有の風に基礎狭くて丈のみ高きこの塔の堪へむことの覚束なし、・・・・」とばかりに十兵衛が呼びにやられる。ところがこれほどの暴風雨で倒れたり折れたりするような脆いものではない、と十兵衛は容易に御輿を上げようとはしない。上人の名を持ちだしての再度の懇望に十兵衛の心は痛く傷つき寺に向かう。上人は自分の技倆をその程度に軽んじられていたのか、と上人への信頼が揺らいでしまったからである。

「嵐の風のそよと吹けば丹誠凝らせしあの塔も倒れやせむと疑はるるとは、ゑゑ腹の立つ、泣きたいやうな、それほど我は腑のない奴か、恥をも知らぬ奴と見ゆるか、自己がしたる仕事が恥辱を受けてものめのめ面押拭ふて自己は生きてゐるやうな男と我は見らるるか、たとへばあの塔倒れた時生きてゐようか生きたかろうか、ゑゑ口惜い、腹の立つ、・・・」とばかり五重塔の天辺まで上り、万が一にも塔が倒れるときは我が身も諸共と六分鑿を握りしめる。いざとなれば鑿を口に含んで飛び降りる覚悟なのである。

しかしこの五重塔は釘一本もゆるまず板一枚剥がれることなく暴風雨を耐え、そして(モデルとなった実物は)関東大震災も東京大空襲をも生き延びたのである。

プロ意識に支えられた職人根性は日本人の誇りとするところであった。また責任の取り方の覚悟も並大抵のものではなかった。それにひきかえて国宝を引っ掻いて傷はつけるは保存の大敵カビを不用心にも蔓延らせてその対策を怠るやら、児戯めいたミスを積み重ねてそのあげく責任者が責任を取ると格好をつけてその実『面倒ごと』からヤレヤレとばかりに逃げ出すとはどこに職業人の倫理感があるのか。これでは『敵前逃亡』にほかならず銃殺ものである。

マスメディアも果たすべき責務を果たしえなかった責任者の責任を追及すべきであって、それを『未公表の責め』に矮小化すべきではない。

私の歌う「お菓子と娘」

2006-04-16 15:32:30 | My Song
六十路に入っての手習いでヴォイストレーニングを始めたが、練習日だけ声を出してもなかなか上達しない。そうかと云って陋屋で声を張り上げるのも近所の手前があり思うに任せない。

私が好きで今練習しているのが西条八十作詞、橋本国彦作曲「お菓子と娘」である。自分の録音を聴いても声が出ていないのがよく分かる。こうすればプロとは云わないまでもセミプロ程度の声は出せますよ、と教えてくださる先生がおられたら泊まりがけでも押しかけたいような気分である。

どこをどうすればいいのか、口で言って分かるようなことがあれば何方でもどうかコメントでご教示下さい。ついでに手厳しい批評も。

ご用とお急ぎでない物好きなお方なら「お菓子と娘」をクリックして開いた画面でさらに「OkasiToMusume」をクリックしてみてください。

高松塚古墳壁画と水虫

2006-04-14 19:36:22 | 音楽・美術
高松塚の劣化、克明に記録 文化庁は放置 (朝日新聞) - goo ニュース

朝日新聞社が『情報開示請求』で高松塚古墳の維持にかかわる作業日誌を入手してその内容を紹介している。それによると30年前の76年8月に既にカビの発生が確認されている。その後、カビの繁殖する部分が広がって行くにつれてホルマリンやエタノールを塗布してカビ退治を試みているが効果は現れないまま益々カビは繁殖していく。

当時はカビがこれほど深刻な影響を壁画に与えるとの認識が薄かった。文化庁の関係者だけで処理していたことが結果的に適切な処置を遅らせる一因になったかもしれない」と作業日誌を書いた当時の壁画修理担当者が語っている。

『壁画保存』の技術・研究のレベルがどの程度のものだったのか私には分からないが、「認識が薄かった」なんて云うようでは科学的素養のある担当者は皆無であったのだろう。文化庁というからには技術方面の技官がいるはずだが、生物系の技官が不在だったのだろうか。

技官でなくても関係者に誰か『水虫』に悩まされる人が一人でもおればよかった。カビが取りついたばかりに足の裏の分厚い皮膚が崩れボロボロと剥がれていく。「カビて恐ろしいな」と実感するであろう。後は少し想像力を働かせてカビが広がり壁画がポロポロと剥がれ落ちる様子を思い浮かべればいいのである。

壁画のカビにホルマリンやエタノールを塗ったというのは、『水虫』に『水虫チンキ』を塗るようなもの、素人療法である。何故専門家に助力を求めなかったのだろうか。私には理解できない。『壁画保存』の担当者であれば当然取るべき対策ではないか。想像力の欠如が残念である。そして結果論であるが『壁画保存』というプロ意識に徹した担当者を欠いたことが壁画と日本国民にとって最大の不運であったのだ。