日々是好日

身辺雑記です。今昔あれこれ思い出の記も。ご用とお急ぎでない方はどうぞ・・・。

工藤美代子さんの「死に方について思う夏」から

2010-08-31 08:15:36 | Weblog
 その逍遥が小泉八雲ことラフカディオ・ハーン(通称へルン)を早稲田大学に迎えたのは、明治37(1904)年だった。

 しかし、講義を始めて半年もたたない9月26日にハーンは54歳でこの世を去る。亡くなる1週間前に胸の痛みを感じ、自分の死期を察知した。妻のセツを呼び次のように別れの言葉を告げた。

 「この痛みも、もう大きいの、参りますならば、多分私、死にましょう。そのあとで、私死にますとも、泣く、決していけません。小さい瓶買いましょう。三銭あるいは四銭くらいのです。私の骨入れるのために。そして田舎の寂しい小寺に埋めてください。悲しむ、私喜ぶないです。あなた、子供とカルタして遊んでください。いかに私それを喜ぶ。私死にましたの知らせ、要りません。もし人が尋ねましたならば、はああれは先ごろなくなりました。それでよいです」
(産経ニュース 2010.8.31 02:59)

産経ニュースの【日本の面影】からの文章である。「その逍遥が」と始まるのは、ノンフィクション作家・工藤美代子さんがかねてから日本の近代演劇に大きな足跡を残した坪内逍遥の死に方について、常にある羨望の念を抱いてきたということで、その死に方がどのようなものであったかを紹介し、次のようにを閉じた段落の続きだからなのである。

 自分の意思でその死に方を決めた逍遥の最期は、穏やかであり、苦しみもなかった。人間の尊厳について考えたとき、彼の美学に思わず共感してしまうところがある。

自分の死に方について覚悟を定めた先人のなんとも言えない清々しさに心が打たれる。それが出来るのはなにも「文豪」に限られたわけではない。私たち一人ひとりの心の持ち方で得られるものである。その覚悟が定まることこそ、人生最大の幸福を手にしたといえるのではなかろうか。

ぜひ一人でも多くの方々がこの工藤さんの一文に目を通されることをお勧めしたい。

弘化生まれの美女と一つ屋根の下で暮らす話

2010-08-29 11:50:08 | 読書
昨日の読売新聞(静岡版)の記事である。

江戸時代生まれ 次々

県内最高齢111歳超え 数百人

 高齢者の所在不明問題で、県内の最高齢者(111歳)より年齢が上の人が戸籍上は生存しているケースが県内の自治体で相次いで判明した。江戸時代に生まれたことになっている人も次々と見つかり、中には1841年(天保12)生まれの169歳の女性が生きていることになっている例も。海外に移住し戸籍はそのままになっているなどのケースが考えられ、第2次世界大戦を挟んでいることも戸籍上の混乱が生じている一因とみられる。いずれの自治体も、生存しているかどうかを確認したうえで、法務局と協議して戸籍を抹消する手続きを進める方針だ。

■天保生まれ169歳

 全国でこの問題が相次いでいることから、県内自治体も高齢者の戸籍のチェックを進めている。静岡市では26日、戸籍上は120歳以上の「超高齢者」が171人生存していることになっていることが判明した。

 169歳の女性が戸籍上は生存していることになっているのは河津町。同町ではほかにも、1856(安政3)、1857(安政4)、1858(安政5)年生まれの人が1人ずついる。4人を含め、県内最高齢の人を上回る112歳以上の人は29人に上る。
(2010年8月28日 読売新聞)

戸籍上生存している江戸時代生まれの人が次々に見つかったとはなかなか興味深いことで、同じ読売新聞によると、長崎県壱岐市では文化7年(1810年)生まれの200歳男性の戸籍が残っているとのことである。この年には緒方洪庵やフレデリック・ショパンが生まれており、フランスでは皇帝ナポレオン・ボナパルトが在位していた。

上の記事では、生存しているかどうかを確認したうえで戸籍を抹消する手続きを進めることになりそうだが、ちょっと待て、こんな場合はどうなるのだろうと考えてしまった。梶尾真治著「つばき、時跳び」を読んだばかりだったからである。


熊本市の郊外。城下町からもはずれた花岡山の中腹に、「百椿庵(ひゃくちんあん)」と呼ばれる古い屋敷がある。四百坪を超える敷地のほとんどが庭で、七十坪の二階建ての日本家屋がある。ここに三十歳過ぎの主人公が一人で住んでいる。大学卒業後、一般の会社に就職してしばらく勤めたが、その間に趣味で書いていた歴史小説が娯楽小説コンテストの優秀作に入り、それを機会に専業作家の道を選んだというのである。曾祖父が戦後廃屋同然だったこの家を買ったのであるが、肥後椿が庭に無数に植えられており、もともとは細川家の家来の偉い方の隠れ屋敷だったらしいのである。

この家に女の幽霊が出るとの噂がかねてからあった。それまでに目にしたのは女性だったのに、この主人公が一日家に居るお陰でついにこの幽霊にお目にかかったのである。ところがこの幽霊と思われた女性は、同じ屋敷に住みながらある時は江戸時代に、ある時は平成の御世に、時の壁を乗り越えて往き来している存在であったのである。そして主人公もあちらの世界に時跳びする術を会得して、二人して江戸時代の心豊かな生活を共に過ごしているうちに・・・・、となるのであるが、そちらの成り行きは小説にお任せしよう。

この女性、つばきに主人公が「今、何年ですか?時代は」と尋ねると、「今は、元治の甲子(きのえね)だったと思いますが」と返事が戻ってきた。そこでその年を「日本史総合年表」(吉川弘文館)で私なりに調べてみると、元治の甲子は孝明天皇の元治元年(1864)に相当する。また、つばきがまだ独り身であることを、生まれが丙午(ひのえうま)なのでと言っていることから、彼女の生まれたのが弘化の丙午、すなわち孝明天皇の弘化三年(1846)であることが分かる。主人公は十八歳のつばきと出逢ったのである。

このあたりの年号を順番に並べると、文化(1804)、文政(1818)、天保(1830)、弘化(1844)、嘉永(1848)、安政(1854)、万延(1860)、文久(1861)、元治(1864)、慶応(1865)、明治(1868)と続く。だから上の新聞記事にあるような文化八年(1810)年生まれの方は、間違い無く歴史上の人物である。

もしこのような歴史上の人物が戸籍通り生きていて、現代と往き来する術を身につけていたとする。どれくらいの年月を時跳び出来るかはその人の能力次第として、たとえばつばきなら150年を飛ぶことが出来るのである。戸籍上百七十歳の人がその年格好の姿で存在しなくても、時飛びをして二十歳の姿形で今の世に存在している可能性を考えると、所在不明の歴史的人物の生存を否定する場合には、よほどの覚悟を定めて取り組む必要がありそうである。

暑さで頭がどうかなったとは思わないが、このようなこと、ぼんやりと考えて「つばき、時跳び」の余韻を楽しんでいた。

YouTubeのお世話になって

2010-08-27 22:03:48 | 音楽・美術
11月に入るとさっそくヴォイストレーニングの成果発表会がある。今年はドイツ語の歌をおもに選ぶことにしたので、発表会ではシューベルトの「鱒」をまず歌う。お手本に選んだのがFischer-Dieskauで、YouTubeにちゃんと登録されている。




オペラハイライトでは今年は「魔笛」編で、私が歌うのは"Bei Männern welche Liebe fühlen"と"Ein Mädchen oder Weibchen"でPapageno役。それぞれ次のようなお手本がある。



歌手はLucia PoppとWofgang Brendel。



歌手はAnton Scharinger。
まあ、どこまでプロまで迫れるか、意気だけは盛んで、演技にも目を配っている次第である。

ところでYouTubeで私の好きな大勢の歌手の歌を沢山目にする。たとえば鮫島有美子さんの歌にしても、もしかするとCDで発売されている歌のすべてを見つけることが出来るのではなかろうか。版権問題がどうクリアされているのかちょっと気になるが大いに楽しませて頂いている。じんと来る歌を一つ紹介する。



鮫島有美子さんと一部多田羅迪夫さんが歌っている。

エアコントラブルの原因はガス欠

2010-08-26 18:10:03 | Weblog
買って2年目のエアコンが猛暑で?ダウン  追記ありで記したトラブルの件で今朝、エアコン修理の人から電話があり、午後3時ごろなら行けるとのこと。本来は明日の予定だったが一日でも早い方がいいので来てもらうことにした。

エアコンの電源を入れて室外機を点検すると、霜のついたパイプが見えるので、間違い無くガス欠だという。1.25kg充填されているはずのガスが0.3kgまでに低下している。1年間に数グラムぐらいは減ることがあるが、この減り方は異常だそうである。エアコンを停止してから残留ガスを除去し、パイプ系を真空にしてガスを再充填する。そして運転再開すると室内機の噴出口からさっそく冷気が流れ始めた。これで元に戻ったようである。時間にして半時間そこそこ。

それにしてもなぜガスが抜けたのだろう。こんなことは初めてである。パイプ系を真空にした際に、もしどこかに穴でもあると圧力が上昇するが、そのようなことは無いとのことである。ただガス注入口のコックの閉め方が少し甘かったようで、考えられる原因はそれぐらいだという。少し時間を置いて改めて点検をするから、もしその時にガスが減少していたらパイプシステム全体を調べるとのことであった。

今は6時過ぎ、26度に設定して運転を始めてから2時間余りになるが、現在の室温は26度、湿度はおよそ50%、室外の温度は32度との音声メッセージが流れた。正常に働いてくれているようである。修理は保証でカバーされるので無料とのこと、ヤレヤレである。これで人心地が戻ってきた。

田中敬一著「ぶらりミクロ散歩 ―電子顕微鏡で覗く世界」は楽しい

2010-08-26 10:02:45 | 読書

この岩波新書の帯の文句に惹かれて手に取ったところ、なんだか面白そうなので早速買い求めた。読んで(眺めて?)いるとわくわくしてくる。「子供の科学」のような雑誌の科学記事を貪り読んでいた科学少年時代に引き戻されてしまった。電子顕微鏡で手当たり次第いろんなものを見ていく。肉眼では見えない微少な構造物がユニークな姿で浮かび上がってくる。それを眺めるだけでもう十分なのである。

電子顕微鏡には学生時代に実習で手に触れたことがある。試料の調製などもした覚えがあるがなんだかややこしかった。光学顕微鏡の限度を大きく超えた10000倍以上の倍率で観察できるということであったが、何をその時に見たのかはもう覚えていない。現役時代に試料を専門家に渡して電顕写真を撮っていただいたことはあるが、数万倍の倍率写真であったと思う。

電子顕微鏡にはその程度の関わりしかなく、今の電子顕微鏡がどのような性能なのか何も知らなかったので、この本の電顕写真がほとんど数十倍から数百倍の倍率であるのに驚いてしまった。この程度の倍率ですむのなら光学顕微鏡で十分ではないか。それをわざわざ電子顕微鏡を使うとはどうしたことだろうと不思議に思ったが、著者の「はじめに」での説明で昨今の電子顕微鏡事情が納得できた。

近年、装置の進歩と科学教育振興への要望などから、比較的小さくて、性能の良い低真空走査電子顕微鏡が開発され、ごく身近な高校や、町の工場などにも置かれるようになった。
 なぜ、この種の電子顕微鏡が急に普及してきたかというと、その映像が立体的で誰にもわかりやすいからである。そのうえ、この電子顕微鏡は、採取した試料をそのまま装置にかければ、簡単にその拡大像が見えてくる。ひと昔前のように、特別な処理や走査は、もうほとんど必要ない。

これならかっての科学少年がようやく手にした宝物の光学顕微鏡であれこれ覗き込んだのと同じことが電子顕微鏡でもできることがわかる。もっとも金額ははるだろうが、こんな顕微鏡を手にしたら私でも即刻好奇心の塊の少年時代に戻ってしまうことだろう。

しかしさすがは電子顕微鏡である。ゆでタコの吸盤の47倍とか250倍の写真と併せてさりげなく2500倍のミニ吸盤の写真が出てくる。さらには嬉野豆腐の煮汁に見られた豆腐小僧なるものが17500倍、おぼろ豆腐に見られた豆腐小僧が4900倍で写真に撮られている。まさに変化自在である。

著者はこの電子顕微鏡をご自身でお持ちのようである。装置の写真も掲載されていて、「この装置にもたれて死にたい」のキャプションがついている。こんなすばらしい「おもちゃ」で八十路まで遊んでこられた著者の田中さんがとてもうらやましく思える。よほど善根を積まれた方なんだろう。目で見えるものをそのまま伝え、想像力がかき立てられるままに空想の世界に羽ばたき、しかし分からないものはそのままにしておく潔さがこの科学エッセイの大きな魅力である。エアコンが壊れた炎暑のさなか、いい暑気封じになった。

サンラータン麺のあとはガラ・コンサート

2010-08-23 10:07:51 | 音楽・美術
私の部屋のエアコンが故障してどうにもならない。ブログ書きにも支障を来し、これは一昨日(21日)のことなのである。

土曜日にはお昼から西宮の芸文センターでコンサートがあるので、避暑がてらにと早々と家を飛び出した。まず目指したのは西宮ガーデンズである。お目当てはDRAGON RED RIVERのサンラータン麺で、私がこれまで日本で食べた限り(といってもそれほど多いわけではないが)一番のお気に入りのものなのである。アメリカのチャイナタウンにあるような趣の店なのがまたよい。一人だったのですぐに席に案内されて待つ間もなくサンラータン麺が運ばれてきた。


スープが容器の縁からあふれそうだし、見た目がぞんざいで彩りもあまりよくないが、まずはスープをスプーンで味わう。スープとたまたま紛れ込んできた具材のみをひたすら味わううちに液面が少しずつ下がって、1センチ以上空間が生まれてくる頃からいよいよ本格的に取り組んだ。山海の具材が実に豊富に入っていて10種類は優に超える。スープといってもデンプンでとろみをつけているので、なかなか冷めない。でも夏の盛りに熱いものを口に入れていると、いかにも健康的に感じられるのが面白い。唯一の難点は量が多すぎることで、私には三分の二もあれば十分である。食後、暑さをものともせずに道を隔てた芸文センターに向かった。

催し物はMOLLEコンサート協会主催のの「MOLLE Gala Concert」。MOLLEとはラテン・イタリア語で「柔らかい、丸い」を意味すそうで、♭を表す古語であるとか。ヴォイス・トレーニングの先生にチケットをいただいた。どうしたことか無料の催しなのである。主に関西一円で活躍している声楽家たちの競演で、3部に分かれて出演者は26人、それになぜかヴァイオリンが一人いた。伴奏はモレ弦楽四重奏団。会場は神戸女学院小ホールで、演奏が始まった頃は400人余りの座席のほぼ4分の3が埋まっていた。


歌は聴いても歌っても楽しい。そしてこのようなコンサートでは地元の声楽家という親近感のせいか、技倆定めの意識がつい働いてしまう。まずは歌唱の安定感である。安定感がないと落ち着いて聴いておれなくなる。ところが最初はおかしくても歌っているうちに緊張がほぐれたのか曲に乗ってくると、ああ、よかったとこちらまでほっとする。

この日の演奏で私がいいなと思ったのは『宝石の歌』(「ファウスト」より)、『田舎娘を演じる時は』(「こうもり」より)、二重唱『アルヴァーロよ、隠れようとしても無駄だ』(「運命の力」より)、『あなたの声に心は開く』(「サムソンとデリラ」より)、四重唱『告別のアリア―さようならは甘い目覚めよ』(「ラ・ボエーム」から)などであった。驚いたのはテナーとバリトンの二重唱『アルヴァーロよ、隠れようとしても無駄だ』で、二人が並ぶとテナーはがっしりした体格で顔も立派なのに対して、バリトンはほっそりとして顔も面長、まずテナーが歌い出してこれは聴かせると思った反面、このバリトンで二重唱が支えられるのかと心配になってしまった。ところがバリトンが歌い出すと、どこから出てくるのだろうと訝しく感じるほど豊かな声量で艶やかな歌声が流れ出てくる。歌が進むにつれて二人の歌声の妙なる調和にうっとりとし、終わったときには感動で身が震えた。こういう自分なりの発見が出来るのもこうしたコンサートの醍醐味の一つである。

一方、ちょっと気になる観客がいた。私の真後ろなのである。数人の若い女性連れで来ている丸刈り?の男性で、事情通らしく歌手のことなどをあれこれと説明している。それはいいのだが、歌い終わるやいなやこちらは余韻に浸っているのにしゃべり始める。一度は振り返ってにらみつけたが、この調子でずっとやられたら、と気になりだした。ところが思いがけないことでこの男性は自滅してしまった。

以前に歌うのは楽しいで触れた知り合いの歌手が『夜うぐいす』を歌っているときに、たとえ歌そのものは知らなくても歌手の構えや歌の流れからまだ歌の最中であるこことが明らかなのに、この男性が「ブラボー」と叫んだのである。連れの女性だろうか、一人二人拍手をしたが直ぐにおさまってしまった。歌手がまた歌い続けたからである。チョンボもいいところである。この失敗でさすがにこの男性、ええかっこし、を続けられなくなって、なんだかボソボソと言い訳がましいことを連れに言っていたが、それで大人しくなってしまったのでヤレヤレである。

最後には「浜辺の歌」を全員で歌った。出演者が客席の間にも散らばり、私のすぐ前横にはあの二重唱のバリトンが立っている。嬉しくなって私も思いっきり声を張り上げたのである。

買って2年目のエアコンが猛暑で?ダウン  追記あり

2010-08-21 09:25:54 | Weblog
この猛暑のせいかエアコンの効きが悪かった。24度に設定していても30度を少し割るところまでしか冷えない。もっとも私の書斎は2階にあり室外機は地上なので、冷却効率がよくないことは承知しているつもりである。それにしても昨日はひどかった。お昼過ぎに外出先から戻りエアコンを入れたがなかなか冷えない。音声メッセージが室内温度が33度、湿度がおよそ45%、室外温度が37度と言ってくれる。しかしそれより下がらない。午後6時過ぎは室内温度が33度と変わらず、湿度がおよそ50%で室外温度が30度、室内温度の方が高いのである。室内機の噴出口の風に冷気は感じられない。このエアコンは買ってからまだ2年少々なのに、この猛暑で後期高齢者を置き去りにしてダウンしたようである。それにしても早すぎる。不良品だったのだろうか。ほかの13年もののエアコンは3台とも正常に働いてくれているのに、である。不都合の原因が思い当たらないので、とにかく故障修理を申し込むことにした。

このエアコンは富士通ゼネラルの製品で機種はASZ28T、2008年7月2日にヤマダ電機で購入し4日に設置した。購入の際にポイントを使って保証を10年に延長したような気がするが、いざとなるとその保証記録をどこにしまったのか思い出せない。エアコンの効かない部屋で汗だくだくになりながら探したけれど見つからない。万やむを得ず購入店に電話すると、保証延長の問い合わせと故障修理申し込みのそれぞれのフリーダイアルを教えてくれた。なかなか電話が繋がらず午後8時を回ってようやく保証延長ダイアルの担当者が出た。すると有難いことに聞かれるままに固定電話番号を答えるだけで保証延長の手続きをしていることの確認が取れた。その上修理申し込みもついでに受け付けてくれて、2、3日後に修理担当者から訪問日時の連絡があるという。この猛暑の盛りで修理部門も大忙しなのであろう、とにかく連絡を待つことにした。エアコンが復活するまでほかの部屋に避難である。ということでこのブログは寝室で、もう引退かと思っていたHPのノートブックで作成した。

追記(8月21日)
さきほどヤマダ電機から電話があり、係員からの連絡が27日(金)にある予定とのことだった。この猛暑で1週間もエアコン無しは辛い。一般論として後期高齢者優待受付をしてくれてもいいのにと思う。熱中症ではかなくなる可能性が高いというのに・・・。私は何とか耐えるつもりである。

遅すぎた高速道の速度制限緩和 でも歓迎

2010-08-19 23:09:42 | Weblog
このような記事が目についた。

高速道の速度制限緩和へ 80キロ→100キロもOK

 高速道路や自動車専用道路の規制(制限)速度が、実態に合わせて引き上げられる。速度基準の見直しは1968年の制定後42年で初めて。法定速度の時速100キロは従来のままだが、規制速度80キロ以下の区間では道路構造などを詳細に検討し、条件がそろえば最高100キロまで引き上げが可能となる。警察庁が19日、新たな基準を発表した。引き上げは、早ければ年内にも一部で実施される見込み。

 高速道については、国が建設前にインターチェンジ間の交通量などを予測。それを基に、カーブの大きさや幅員と同時に「設計速度」を定める。各都道府県の公安委員会が定める規制速度は、この設計速度以下になっていた。

 しかし、直線で見通しが良い場所などでは、規制速度より速いスピードで走っても安全性に問題がないことも多い。国会でも2004年以降、「規制速度が低く、実勢速度と差が大きい。もっと実態に合わせられないのか」などとの質問が相次いだ。背景には自動車の性能、安全装置の向上や、道路環境の改善もある。

 このため、警察庁は、国会などでも実勢速度との差が大きいと指摘された、阪神高速道路の北神戸線(全長約36キロ)で08年12月に調査を実施。その結果、規制速度は60キロだが、実勢速度は80~100キロで、事故が多いわけでもなかった。 (後略)
(asahi.com 2010年8月19日13時49分)

この記事を見てあれっと思った。強調の部分であるが、実は私は5年前に制限速度の怪 ― 出鱈目な制限速度設定で次のように述べている。

私は神戸のやや山側に住んでいるので京都に出かけるときでも海沿いの阪神高速3号線から名神に入るのではなく、阪神高速7号線(北神戸線7)から中国縦貫、名神と乗り継ぐ。裏日本に抜けるのも先ずは阪神高速7号線に乗る。問題はこの7号線で全線60キロ制限、ところがこの速度を守っている車は皆無と云っても過言ではない。片道2車線の立派な自動車道路、80キロぐらいが普通、100キロ前後の車も珍しくはない。制限速度と現実の運転速度が乖離している典型的な例と云えよう。時にはパトカーに停められている車を見かける。多分速度違反容疑であろうが、その原因といえば恣意的に極めて低く設定した制限速度にあると云って良い。速度違反を犯罪というのであればそれを引きおこしたのが合理性を欠く出鱈目な制限速度、だからその設定が犯罪的であると私は断じるのである。

私はこの制限速度の設定一つを取り上げても、ここに管理者・行政の怠慢を見る。道路は利用者のためのものである。利用者が安全にかつストレスを感じることなく快適に車を走らせることの出来る速度設定を元来は設定すべきである。しかし現実には管理者側が制限速度を低くすれば安全運転になるであろうとの安易な思い込みだけ惰性的に決めているに過ぎない、と私は思う。視点がまったく逆転している。

規制と現実の乖離が規則に対する利用者の不信感を呼び起こし、気がつけば全員がそれを無視する結果になるなど、法の軽視を引き起こす大きな原因ともなっている。日本全国で制限速度を誰もがそれを守ることで安心感を持って運転できる基準に改めるべきである。(後略)

まさかこの一文が国会質問の引き金になったとは思わないが、まさに私の主張をそのまま受け入れるような展開が期待されそうで是正を歓迎したい。それにしても現実との乖離を指摘されながらも42年間、速度基準の見直しが行われていなかったとは恐れ入った。管理者・行政の怠慢といわれても仕方があるまい。ところで阪神高速7号線(北神戸線)の「設計速度」はどれぐらいだったのだろう。100キロ以下ということはあるまい。それなのに「制限速度」は60キロ、見方によれば過剰設計そのものである。このあたりを突っ込めば、いろいろと問題が浮かび上がることだろう。

赤染晶子さんのこれからに期待

2010-08-18 10:18:52 | Weblog
前回、国史大辞典デジタル化の新聞記事を取り上げたが、実はその真上に赤染晶子さんの「かまい」という芥川賞受賞エッセイなるものが載っていた。「かまい」とは『人のことがほうっておけなくて、あれこれかまって世話をやく人の事』を言うのである。京都の小さな商店街に小さな本屋さんがあって、この本屋に赤染さんのお母さんが娘時代、下宿していた頃にまつわる人情話なのである。そして最後がこのように結ばれる。


「いいな」と思った。ひとつだけちょっとした「しかけ」があるが、とても素直な流れで自分の書きたいことを書いている。赤染さんに失礼を承知で申し上げれば、直木賞を受賞した中島京子さんの「小さいおうち」と同じ肌触りである。やっぱり赤染めさんは「乙女の密告」を芥川賞を意識して少々無理を承知で書いたのだろうと一人合点した。

と言うのもある友人の言葉を思い出したからである。わが家にはオリジナルの油彩は二点しかないが、一つがその友人の奥方の描いたものなのである。奥方は主婦業のかたわら本格的に絵の勉強を始めたそうである。ある時自宅でその作品の数々にお目にかかり、とてもいい感じだったのでおねだりをして花の絵を描いていただいた。淡い彩りがほどほどのデフォルメのマッチして、心地よい和らぎを与えてくれる。ところがその友人、絵画展に賞を狙って出品する作品はがらっと作風が違うから驚くよ、なんて言っていたのである。

「芥川賞の傾向と対策」なるものがあるのかどうかは知らないが、賞を狙う以上は選考委員を意識することだろう。選考委員を上手く釣り上げるにはそれなりの仕掛けが必要になるだろう。一般読者とはかけ離れた理屈っぽい人たちではあろうが、それだけにその作品などを研究すればその特徴を把握出来るだろう。そして選考委員の数さえ確保すればよい。

何はともあれ赤染さんは今や堂々たる芥川賞作家である。これからは「選考委員」を意識せずに自由に作品を生み出していけばよい。エッセイ「かまい」から察するにそういう作品に一般読者も大勢引きつけられていきそうである。このエッセイに添えられた顔写真からも「やったるぜ」というメッセージが伝わってくる。それで私が連想したのは田辺聖子さんである。最近また別の友人に指摘されるまでは彼女を直木賞作家だと思い込んでいたが、彼女も芥川賞を受賞していたのである。そういえば官能小説家として令名が高い宇能鴻一郎さんも芥川賞出である。いったん賞を得た以上、活躍の舞台は無限に広がっているではないか。私は以前のブログで『この著者の作品にふたたびお目にかかることがあるだろうか』なんて早々と書いてしまったが、ぜひ近々お目にかからせていただきたいと思う。

つけたし

私は中島京子さんの直木賞受賞作「小さいおうち」をしっかりと確認せずに、つい私の語感で最初「小さおうち」と間違って引用してしまったが、上のエッセイには「小さ商店街」に「小さ本屋さん」というように、「小さ」と使われている。私はこの使い方の方が自然に思われるが、中島さんの「小さい」という使い方に何か特別の意味があるのだろうか。

吉川弘文館発行「国史大辞典」のこと

2010-08-15 23:06:49 | Weblog
昨日の朝日朝刊に次のような記事が出ていた。


この記事になぜ目が行ったかというと、この国史大辞典がわが家の書棚に鎮座ましているからである。そして歴史家でもない私の書棚になぜこのような全17冊という大部の辞典があるかといえば、いわば私のお遊びのためなのである。


私はなぜか歴史・伝記の類が好きで子どもの頃からそういう本を読みあさっていた。高校生の時に当時神戸栄町通にあった占領軍のCIE図書館(旧山下汽船の建物?)で見つけた、アート紙にカラー図版のたっぷりある世界歴史のテキストに魅せられて、何回か貸出を更新して読み上げたのも懐かしい思い出である。これで英語にかなりの自信も持てたのである。それはともかく、いつかは読めるだろうと期待して現役時代に岩波の「大航海時代叢書」や「岩波講座 日本通史」をはじめとするいわば歴史の基本図書を買い求めてきた。その頂点がこの「国史大辞典」なのであるが、その発刊から完成に至るほぼ20年の歳月が、私の人生の重要な時期とぴったりと重なる偶然があった。

私が阪大理学部から京大医学部に移ったのが昭和54(1979)年4月であるが、「国史大辞典」第一巻が発行されたのが昭和54年3月1日なので京大生協の書店で買い求め全巻予約した。そして最終17冊目の第十五巻下の発行が平成9年4月1日で、その1年後の平成10(1998)年3月31日に私は京大を定年退官したのである。だから私が京大にいる間に、平均して毎年1巻ずつ受け取っていた勘定になる。ちなみに「国史大辞典」の別巻と目される「日本史総合年表」が刊行されたのは隠居生活も3年目に入った平成13年で、これはたしかジュンク堂で買い求めた。

この「国史大辞典」が思いもかけぬことで役に立ったことがある。入学試験の理科の責任者を仰せつかった時のことであるが、半年ほどかけて各科が入試問題を作り、複数の候補を最後は各科の責任者などからなる全体会議で絞り込み最終決定する。この会議では理科なら物理、化学、生物、社会なら世界史、日本史、地理それに数学、国語、語学などの全試験問題を各科責任者が一問ずつ全員に説明し、それから文系理系にかかわりなく厳しい質疑応答が委員の間で交わされる。少なくとも三日間は続いたと思うが、一字一句から侃々諤々の議論が交わされるので、前任者からはデス・マッチです、と引き継いだ覚えがある。たまたま日本史の問題を担当者が説明したときに何か引っかかることがあったので、いったん帰宅後「国史大辞典」で調べてみると、試験問題の表現に問題があるようなのでそのことを翌日の会議で指摘すると、確かにそうだということでこの試験問題はボツとなってしまった。後で社会の責任者から問題点に気付いた経緯を聞かれて手元の「国史大辞典」で確かめた旨をお話しすると、「実は私も予約購読しているのです」と言われて仲間意識が深まった思いをしたものである。そう言えば京大で何人ぐらいが個人で買っていたのだろう。

昨日の朝日朝刊第1面には次のような大きな記事が出ていた。


さっそく元興寺を調べてみると、「国史大辞典」に写真もあわせてほぼ2ページにわたる説明があり、今回問題となった『極楽坊禅室』の終わりの方には「転用されてのこる古材が多く、屋根には古く飛鳥寺から移されたと思われる行基葺の瓦を葺いている。国宝」との記述があり、「その古材のことなんだ」と頷く始末。もっとも元興寺というといかにも古めかしく聞こえるが、十二世紀の初めには往生院とか極楽房(坊)と称せられ、江戸時代には極楽院、昭和30年より元興寺極楽坊と改め、昭和52年8月に元興寺と改められた、とあるので、この寺自体には古い歴史がある一方、現在呼ばれている名称は極めて新しいことなどが分かる。もともと元興寺は飛鳥の飛鳥寺の号であり、これを平城遷都後、京内に移したものであることから新元興寺とも言われていたそうである。それが紆余曲折を経て昔の名称を継いだと言えよう。それがどうした、と言われたらそれまでであるが、だからこそ私のお遊びなのである。

「国史大辞典」のもう一つの大きな特徴は図版が実に豊富なことで、たとえば元興寺の出ている第三巻の巻尾にある図版目録だけでも26ページにわたり、図版を見るだけでもいろんな想像力がかき立てられてつい興奮する。今回のデジタル版には残念ながら図版が含まれていないそうであるが、紙版の独自性を訴えているようにも思える。歴史好きの年配者で懐具合にも少々ゆとりがあって知的好奇心をかき立てられるお遊びを求めておられる方は、ぜひ電子版ならぬ紙版「国史大辞典」の購入を考えてはいかがだろうか。暇つぶしにはもってこいの材料である。