日々是好日

身辺雑記です。今昔あれこれ思い出の記も。ご用とお急ぎでない方はどうぞ・・・。

朝鮮京城の日赤病院で手術をうけた話

2011-07-11 10:06:45 | 在朝日本人
思いがけず急遽入院して三週間すぎた。その間点滴液だけで命を保っているが、「人工生物」に変身していくようでなんだか気味が悪い。でも手術日が15日に決まったので、いずれは点滴チューブから解放されるだろう。もう少しの我慢である。

私が手術をうけるのは実は二回目である。と言っても最初はもう六十年以上も前で、国民学校四年生の時であった。生来脱腸がありなにかあると腸が外に飛び出すのである。だから脱腸帯なるものをよく着用していた。日常生活にとくに支障はなかったが、肩身の狭い思いをしたのは体操の授業で、調子が悪いなと思った時は先生に申し出て、三坂国民学校のあの藤棚のしたで見学することであった。身体の錬成が少国民の務めであるべきなのに、それを怠るようでは非国民と蔑まれるのではと気にしたように思う。いずれにしても鬱陶しかった。

その手術のために日赤病院に入院したのである。両親がおそらく時期を考えてくれていたのであろう。入れられたところは二人部屋で、間がカーテンで仕切られていた。私が子供のせいだったのか、なんと相客は出産をひかえた妊婦であった。妊婦を診察している医師や看護婦たちの会話が筒抜けに聞こえてくる。その中に分かる表現もあった。 指の長さで何かを測っているのであろう、時間とともに変わっていく様子を読み上げているようでその言いまわしが面白くて覚えてしまった。退院してから母にそのことをとくとくと報告したら、子供がそんなことをいうものではありませんと叱られてしまった。

私がベッドに一人だけの時に病院の人が入って来て、私を手術室に運んでいった。私の覚えているのはそこまでである。ははが病室に来た時は私のすがたが見えないので驚いたそうである。どこかで連絡の行き違いがあったのだろう。暢気な時代であった。

手術のおかげで私は人並みになり、体調を気にすることがなくなった。五年生になってからの疎開に引き揚げの過酷な情況もこの身体があってこそ乗り越えることができた。私がこれからうけようとする手術はその頃には思いもよらなかった高度なものであろう。贅沢さがふとそら恐ろしくなった。

朝鮮考古学の有光教一氏 高麗美術館

2011-05-17 18:52:34 | 在朝日本人
産経新聞朝刊に掲載されたソウル支局長・黒田勝弘さんの「から(韓)くに便り 生涯で最も満ち足りた日々」と題する記事が目についた。一部を引用する。

 朝鮮考古学の大家だった有光教一京都大学名誉教授が亡くなられた。103歳だった。文字通り“地をはう”ような発掘を多く手がけた考古学者だった。若いころから野外で鍛えられた体が、その長寿の秘密ではなかったかと思われる。

 有光先生とは1997年、本紙の大型企画「20世紀特派員」の韓国編「隣国への足跡」の取材で、京都の自宅でお会いした。

 有光さんは京大史学科の大学院生の時、日本統治下の韓国(朝鮮)に渡った。1941年(昭和16年)からは「朝鮮総督府博物館」の主任(館長)を務めた。45年(昭和20年)8月の敗戦後、韓国風にいえば解放後も米軍政当局の命令で韓国に残留し、「韓国国立博物館」の開館にかかわった。

 韓国残留は翌46年5月まで続き、韓国考古学史の第1ページを飾る古都・慶州での韓国人自身による初めての古墳発掘も指導した。韓国考古学の恩人である。

 米軍政当局は文化財に理解が深かった。有光さんは戦時中ということで各地に分散、疎開させていた文化財を米軍のトレーラーで回収してまわった。展示品にはあらたに韓国語や英語の表示を付けた。敗戦・解放の年の12月3日、旧朝鮮総督府博物館は「韓国国立博物館」としてよみがえった。

 有光さんは「あれは生涯で最も満ちたりた日々だった」と語っておられた。


在朝日本人であった私が故国への引き揚げを待つ京城で南大門を中心にうろちょろしていた頃、有光さんは各地に分散、疎開させていた朝鮮の文化財を、米軍のトレーラーで回収してまわっていたのである。これらを「朝鮮総督府博物館」の所蔵文化財とともに整理して、新生「韓国国立博物館」の展示品として甦らせることに、日本の敗戦も些事とせんばかりに情熱を傾けてこられたのであろう。1907年生まれの有光さんは当時38、9歳でまさに働き盛りである。「あれは生涯で最も満ちたりた日々だった」の言葉そのものであった有光さんの仕事への傾倒ぶりが、まわりの朝鮮の人々の心を大きく揺すぶったことであろう。「韓国考古学の恩人」もむべなるかなである。朝鮮総督府にこのような方のおられたことを元在朝日本人として誇らしく思えた。

私は有光さんを直接には存じ上げない。ところが思いがけない接点のあったことが分かった。私の好きな因縁話である。私が京都に単身赴任中、一時、一階に「ローソン」の入っているビルディングのペントハウスに住んでいたことがある。堀川通りを挟んだ向かい側が加茂川中学校で、ベランダに出るとやや左手に高麗美術館を見下ろすことが出来た。その開館記念式典の行われたのも上から眺めていたように思う。在日朝鮮人がパチンコやレストラン経営で財を成し、それで高麗美術館を作ったのだという話を耳にした。この鄭詔文さんがなかなかの傑物であることが私にも追々と分かってきたのであるが、それよりもこんな近くに朝鮮の建物が出来たことが私には嬉しくて、ちょこちょことお邪魔することになった。建物に入るといわゆる美術品の展示のみではなくて、家具とか衣裳とか、生活の場の用品が展示されているのが私の郷愁を深く掻きたてた。訪れる人もあまり多くは無く、静かな空間で蔵書の数々を逍遙しては、かっての朝鮮での生活に思いを馳せたのである。

有光教一さんはこの高麗美術館に併設された高麗美術館研究所の所長を長年なさっていたようである。そして約一万冊に及ぶご自身の蔵書を開館間もない高麗美術館に寄贈されたのである。だから当時そのことを知らずに、有光文庫図書のあれこれに手をつけていたことは間違いないと思う。私にとって「朝鮮」はまだまだ遠くにはなっていないようである。

一番古い友人ともう一度話したかった

2010-12-03 22:05:28 | 在朝日本人
元在朝日本人の『自分探し』に記したような経緯で、戦後ほぼ60年ぶりにかって朝鮮にあった京城三坂公立国民学校との繋がりが回復した。この時に、ブログでも触れた「会報 三坂会だより」(2003年)を見たからと、次のような書簡が届いたのである。


旧友のAK君とともに一番会いたいと思っていたNR君からなのである。まさかとわが目を疑った。本の貸し借りの相手でもあったが、放課後にもなにやかや一緒によく遊んだ遊び仲間でもあった。しかし最も印象に残っているのは彼の住んでいる立派なお屋敷であった。子どもの目から見たせいでもあるのか、とにかく広い敷地で使用人というのであろうか屋敷で働いている人の住家がその一郭に何軒か建っていた。本邸は洋館と和館に分かれていて、洋館から地下道になっている廊下を通り抜けると和館に出て、そこからは広大な和風庭園が見渡せた。かなり大きな池が私たちの格好の遊び場で、ゴム動力の模型ボートを浮かべては航続距離を競いあった。脇に昇降舵を備えた潜水艦も作ったが思うようには潜ってくれなかった記憶がある。

そのNR君とは三坂会全国大会で再会を果たし、その後、敗戦当時五年生であった「在五の会」を催すために湯河原の温泉旅館に移動した。嬉しいことに私とNR君が同室になった。とにかく積もる話がある。それにブランクの50年を語ることは人生を振り返ることにもなる。話があっちに飛びこちらに舞い戻り、思いつくままのことを話し合った。私と同様NR君もすでに現役を去り、ボランティアであろう、地元の市で環境審議会の委員を引き受けていた。現役中も大手会社の枢要な役職を占め、話を聞いてみると「公害」をキーワードに私ともあるかかわりがあるように感じたが、いずれまた話し合うこともあるだろうと思いその時はとくに立ち入った話はしなかった。

温泉旅館と言ってもこぢんまりとしたところで、食事前に家族風呂のような温泉に二人で入った。私が身体に湯を浴びせかけたりしているときに、どうした弾みか足が滑って頭から湯船に飛び込んでしまった。一瞬のこととて慌てたが、とにかく体勢をたてなおしてそのまま湯に浸かった。あまりにも格好が悪いので弁解の言葉が出てこないまま、何事もなかったように話を続けた。部屋に戻りようやく気分も落ち着いてきたので、「いや、先ほどは失礼、足がすべったものだから・・・」と言うと、「面白い入り方があるもんだと思って・・・」と返事が戻ってきた。彼は彼なりに度肝を抜かれたようであったが、その時、あっ、同じ、と私は思った。坊ちゃんらしくなにか超然としたところが昔からあったのである。

2年後の2005年には私が世話役となり「在五の会」を神戸で開くことになり、準備万端整えて二日目にはクルーズを予定した。ところがあいにく台風が直撃するということでクルーズはもちろん中止、新幹線も止まるかも知れないと朝食もそこそこ、皆さん東に西に慌てて帰ってしまった。NR君とも残念ながら落ち着いて話することが出来なかった。

今朝、彼の令夫人からの喪中葉書が届いた。今年の初め、亡くなっていたのである。ようやく再会した一番古い友人を失ってしまった。もう二度と話できないなんて・・・。

金大中氏を悼む

2009-08-19 23:13:23 | 在朝日本人
金大中元韓国大統領が逝去された。韓国の民主化と北朝鮮との融和に大きな足跡を残されたことが記憶に残る。私が朝鮮に住んでいた1940年から1945年まで、金氏は同じ朝鮮半島のどこかで多感な青年時代を送っておられたはずだ。日本の敗戦の日には打ち拉がれたわれわれとは対照的に、祖国独立の予感に欣喜雀躍されたころであろう。

政治家を志してからは苦難の道が続いた。1971年の大統領選挙では軍事政権の担い手朴正煕氏に肉薄したものの敗れたうえ、偽装交通事故による暗殺計画で股関節に障害を受けた。また日本に滞在中の1973年には韓国中央情報部 (KCIA) によって拉致、ソウルに連れ戻され政治活動の道を閉ざされてしまった。さらには1980年には光州事件の首謀者として死刑判決を受ける。その後紆余曲折があり、米国での亡命生活を経て1997年の大統領選挙で不死鳥のように甦り、第15代大統領に就任したのである。

私が最近見るようになった韓国の歴史ドラマ「宮廷女官チャングムの誓い」や「朱蒙(チュモン)」の主人公にも匹敵する波瀾万丈の一生といえば不謹慎のようであるが、私はここに韓国人の不屈の巨大なエネルギーを感じ取った。日本人は一度落ちたらおしまいである。死刑判決から這い上がって最高の政治権力者の座を獲得するような人物かっていただろうか。そのこと一つだけでも金大中氏は非凡な方であった。朝鮮半島の多くの人々に敬慕されるのもむべなるかなである。韓国国民は国葬で金氏を送り、また北朝鮮も弔問団を派遣することになった。日本による朝鮮の植民地化と日本の敗戦こそが南北の分断をもたらしたものであることを思うと、元在朝日本人の一人である私は、南北の和解と統一の悲願にかける朝鮮半島の人々の思いの深さの前にただ立ちすくむのみである。

心からご冥福をお祈りする。


関西三坂会 上御霊神社・御霊祭 新型インフルエンザ

2009-05-19 00:54:07 | 在朝日本人
今日の京都行きは関西三坂会出席のためだった。新型インフルエンザが広がりだしたが京都は今のところ感染者は0とか。そう言う空気を反映してか今年も出席者が44名で、東は東京、西は岡山から京城府立三坂小学校の同窓生が寄り集まった。出席者の年齢は89歳から72歳で、これからも回を重ねるとすると下は確実に毎年一歳ずつ増えていき、最年長者との年齢差は縮まる一方であろう。

新型インフルエンザについては、司会者が流行っているそうだからお互いに気をつけましょうと最後に挨拶をする程度で終わった。人生の荒波をかいくぐってきた猛者の集まりゆえ達観しきっている感じ。マスク姿は皆無であった。

会が終わって京都は久しぶりなのでぶらぶら歩くことにした。京都御所西の烏丸通りを北上していると、御所のなかに神輿が見えて人が群がっている。葵祭も終わっているはずだのに、と好奇心に駆られて近づいてみると御霊祭であることが分かった。平安時代の御霊信仰が隆盛になるにつけ各所で祭られた御霊社の一つ、上御霊神社の祭りなのである。その日が5月18日と決まっているので、月曜日であるにもかかわらず催されたのである。ちなみに御霊信仰を日本史広辞典は次のように説明している。

疫病をもたらすとされた御霊を恐れ、これを祭り祟りをまぬかれようとする信仰。奈良時代からみられるが、平安時代以降盛んになり、疫病の流行に際して、それを政治的事件により失脚して非業の死を遂げた特定の人物(御霊)の報復ととらえ、祭られるようになった。(後略)

なるほど、疫病払いご本家の行事なのでもある。富士川遊博士の「日本疾病史」によると、江戸時代だけで27回インフルエンザの流行があったそうだから、御霊神社はその当時から人々に頼りにされたのに違いない。インフルエンザをも追っ払うのだから、神輿の担ぎ手が誰一人マスクをしていないのもむべなるかな、である。神輿は三基あったが最初のはちょうど御所を出かけていた。





神輿を台車に乗せて運ぶのではなくて、実際に担ぎ手が担ぎ、また神輿を揺さぶるのが実に迫力があった。この神主さんは親子だそうで、私にも会釈してくださる愛想のよい方だった。京都新聞によると今日のはとくに記念すべき行事であったらしい。

140年ぶり 御苑に勇姿
上御霊神社・神輿巡行

140年ぶりに京都御苑内に神輿を進め、京都御所の朔平門前で神輿を揺らす氏子(18日午後5時45分、京都市上京区・京都御苑)

 上御霊神社(京都市上京区)の御霊祭(ごりょうまつり)が18日に営まれ、3基の神輿(みこし)が140年ぶりに京都御苑を巡行した。御苑では大勢の氏子が出迎え、京都御所北門に当たる朔平門(さくへいもん)前で神輿を差し上げて揺らす「神輿振り」に酔いしれた。

 上御霊神社によると、江戸時代には公家や宮家の屋敷があった現在の御苑内を神輿が練り歩いたが、都が東京へ移った後の1870(明治3)年以降は御苑内の巡行が途絶えた、という。
 この日夕方、3基の神輿は今出川御門から御苑へ入った。朔平門が特別に開かれ、その前で法被姿の担ぎ手が「ヨーサ」の掛け声とともに神輿を豪快に揺らした。小栗栖元徳宮司は「長年の悲願がかなって感無量です」と目を赤くしていた。
(Kyoto Shimbun 2009年5月18日(月))

帰りに三宮から地下鉄に乗ると乗客の7、8割がマスクを着用していた。往きは半分以下だったので急増である。かっての阪神淡路大震災の折に、京都から神戸に戻ってきた時に感じた落差ほどではないが、雰囲気の違いを大きく感じた。ところで個人個人がマスクを着用するなど自分なりの対応するのはよしとして、学校などを休校にしたり集会を中止させたりの規制は、全般的に感染が拡大しつつある現状でそれほど効果があるとは思えない。症状の出た人はもちろん体の調子がおかしいと思えば学校なり職場を休む。また人混みの中に出かけない。それを徹底させれば、罹るべき人がかかってそれで収束に向かう筈である。これまでの歴史を思い浮かべての私なりの判断である。

鶴橋をぶらぶら キムチによもぎ餅

2009-02-27 17:16:53 | 在朝日本人
昨日は久しぶりにお日さんが照ったのでお昼前に家を出て鶴橋に直行した。あの辺りをブラブラしたくなったのである。しかし先立つのは腹ごしらえであるが、これと目指した店は皆満員で行列が出来ていた。それならと前にも訪れた鶴一本店に入ったが、すぐに二階に通されたとたんしまったと思った。一人なのに案内されたのは六人掛けの席で、テーブルの中央のコンロには炭火が勢いよく熾っていて、否応なしに焼き肉を注文せざるを得ない雰囲気なのである。メニューを見ても焼き肉がメインで、サイドオーダーとわざわざ断ったメニューにテールクッパなどが並んでいる。以前は焼き肉目当てで入ったからそれで良かったのが、今度は昼食にクッパが欲しかっただけなのである。と、ふと昔のあることを思い出した。

ニューヨークでほどほどのレストランに妻と入った時の出来事である。注文を済ませたところに若い女性の二人連れが入ってきた。少し離れた真向かいのテーブルに通されてメニューを時間をかけて眺めていたが、やがて相談がまとまったと見えて二人は席を立ちそのまま店を出て行った。値段が合わなかったのかなと彼女たちを見送っている私の視線をウエイターがとらえたかと思うと、「Happy girls!」と言って私にウインクを送ってよこしたのである。

私は「鶴一」をそのまま出ようかなと思ったが、メニューにお水、そしておしぼりを持ってこられてしまったので、格好悪い「A happy boy」になるのをあきらめて、ばらロースを余分に注文する羽目になった。もちろん焼き肉もテールクッパも申し分なく、思いがけなくヘビーな昼食を堪能してから探訪に出かけた。



私が通っている韓国・朝鮮語教室の先生は家庭料理の講師をも兼ねており、年末に教室の女性が何人か先生の自家製キムチを分けて貰い、なかなか美味しいと話し合っていた。それならと私も1キロ分けて貰ったが、熱々の白粥に冷たいキムチを載せながら頂くといくらでも食が進む。わが家で食べるのは私だけであるが、5、6回ほどで平らげてしまったのでその旨を先生に言ったら目を丸くしていた。私がキムチを食べ始めるとしばらくはキムチ漬けの日々が続くのである。そこでわざわざ鶴橋まで私の目に美味しそうに映るキムチを探しに来たのである。500グラム1000円で買ったキムチは生の牡蠣や木の実などを始め具が沢山入っていて見るからに美味しそう、あっという間になくなってしまいそうである。次はお餅を探した。



私が朝鮮で暮らしていた頃は朝鮮の人たちが食べているものを間近に目にすることはなかった。敗戦になって南大門広場に大がかりな闇市?が生まれ、白米を始めとする数々の食料品が実に豊富に出まわるようになり、露店で大勢の人が飲み食いするようになって食事の様子を始めて実見した。鉄原から引き揚げてきて日本に帰るまでの3ヶ月ほど明治町(今の明洞)にある会社の寮に入っていたので、毎日のように9歳下の弟を負んぶして、足の向くままあちらこちらを探検して廻っていた。食べ物などは珍しいので立ち止まってじっと眺めていると、時々オモニがお菓子などを呉れたりした。その時はじめて食べて美味しいとおもったのが朝鮮風のお餅である。

お餅といっても実に種類が多くて作り方もさまざまなようである。しかし臼と杵でつく日本のお餅と違って、朝鮮のは糯米やうるち米を粉にして、それにいろいろなものを加えて甑で蒸すのである。四角い型などに入れてカステラのように出来上がるとそれを適当な厚さに切って食べるのもあれば、ことさら型にはめずに日本の山菜おこわのように皿に盛るものもある。久しぶりの鶴橋で嬉しいことにいろんな種類のお餅を置いている屋台を見つけたので、よもぎ餅と蒸し餅をそれぞれ500円で買った。朝鮮でも決して食べ慣れたものではなかったが、子供の頃の思い出と重なって懐かしいのである。よもぎ餅は一夜でなくなってしまった。



3月20日には阪神電車の難波線が開通して難波で近鉄に乗り入れて、奈良まで乗り換えなしに行けることになる。すると鶴橋は難波から上本町の次の駅だから三宮から電車一本で気軽に行けるようになる。鶴橋詣でが増えそうである。




京城府立三坂小学校運動会の歌

2008-09-20 10:51:02 | 在朝日本人
以前のブログ今年も京城府立三坂小学校の同窓会にコメントを寄せてくださった方が、戦後も昭和37、8年ごろまで通っておられた小学校の運動会でこの歌が歌われていた旨を知らせてくださった。どのような経緯で伝わっていったのか興味津々である。歌詞を知りたいとのことだったので、その全てをここに記した。この運動会の歌は開会と閉会の時にそれぞれ歌われるもので、閉会の二番を歌っていると、じんときてしまった。


運動会のうた(開会)

(一)鉄石のごと 身もかたく
   心も強き 国たみは
   とよさかのぼる 日の御旗
   かがやく国の 宝なり
   我等は 日本男児なり
   われらは御くにの おみななり
   日ごろ鍛えし このからだ
   きょうぞ試さん いざやいざ

(二)親しき友も 今は敵 
   まくるも勝つも  いさぎよく
   力の限り たたかうぞ
   我等 不断の覚悟なり
   我等は 日本男児なり
   われらは御くにの おみななり
   日ごろ練りたる この心
   きょうぞ試さん いざやいざ

運動会のうた(閉会)

(一)せきようはゆる かんばせは
   勇士のおもわに さもにたり
   味方も敵も この庭に
   つどえやつどえ わが友よ
   きょうの名残を もとろもに
   声を合わせて うたわなむ
   我等の意気は 天をつき
   楽し勇まし この一ひ

(二)学ばん時も かくのごと
   遊ばん時も かくのごと
   元気はわれらの いのちなり
   心やすかれ ちちははよ
   家をも興し 身をもたて
   国をまもるは このからだ
   鉄石よりも いやかたく
   鍛え鍛えん たゆみなく

韓国・朝鮮語事始め Don-shim-cho

2008-09-12 21:11:14 | 在朝日本人
この10月から韓国・朝鮮語をとりあえず六ヶ月間習い始めることにした。子供の頃朝鮮に住んでいたが朝鮮語を覚えることはなかった。それでもいくつかの単語はわが家に根付いている。たとえば「ヤンバン」などはそもそも昔の朝鮮の支配階級のことであるが単純に「金持ち」として通用していたし、「チョンゴシ」という言葉は私の母から妻に伝播して「上等」という意味で今でも頻繁に私どもの会話に登場してくる。

戦時中、警戒警報が発令されるとラジオがそれを知らせたが、「朝鮮軍管区司令部発表」で始まったと思う。まず警報が日本語でアナウンスされると、引き続き「チョソングン・・・」と朝鮮語で同じ内容が繰り返されるので、なるほど朝鮮軍は朝鮮語でチョソングンになるんだ、と思ったことを今でも覚えている。単語以外に覚えたのは「ウリ チョンソン モンラヨ」ぐらいで、これは母から教えられたと思う。朝鮮のお年寄りに朝鮮語で話しかけられた時に云うのですよ、ということで「朝鮮語知りません」の意味だった。

ところでこの年になって韓国・朝鮮語を始めたいと思ったのは動機は実に簡単、韓国の民謡なんだろうか、ソプラノのSumi Joが歌っているのを聞いて、ぜひこれを原語で歌いたいと思ったからである。この歌は次のようなもので、英語で辛うじてその意味は知り得る。


今は声を合わせるだけだが早く韓国・朝鮮語が読めるようになり、原語でこの歌を歌いたい。

アジサイ かって京城三坂通神井台の庭に

2008-06-04 17:27:28 | 在朝日本人
梅雨に入り昨日も午前中は雨がわが物顔に降っていた。雨上がりの午後庭に出ると、日ごとにふくらみを増すアジサイの色が目を楽しませてくれた。鉢植えにしていたのを三株地植えにしたが、そのうちの一株だけがいち早く開花した。茎の高さはまだ50cmほどで、子供の頃の思い出にある身の丈ほどの高さにはまだまだ届かない。



昭和16年の夏休みに当時の朝鮮京城府の永登浦から三坂通神井台(しんせいだい)の家に引っ越した。庭は何段かになっており、その先は低い石垣があるだけで朝鮮神宮のある南山に繋がっていた。多分その山に向かって私が立っているのだと思うが写真が一枚アルバムに残っており、その下に「京城、三坂通、神井台庭内」と父が書き込んでいる。この写真には残念ながら写っていないが、庭の一隅に背の高さほどのアジサイが群生していて青色の大輪を咲かせていた。両親はもう亡いし5歳下の次弟以下は幼すぎたから、私の記憶だけにとどまっている花である。以前この家に住んでいた日本人が植えたのだろうか。



この神井台の家の前に石段があった。今の隠宅と同様、もともと山を切り崩して造成したからであろう。この石段に座っている私は当時国民学校一年生で、三角形の帽章が三坂国民学校のものである。帽子はまだ新しいが、運動靴はいかにもあわれな姿である。靴紐はないし、それよりなにより右靴が大きく破れている。すでに南洋からの輸入に頼らないといけないゴムが貴重品で、運動靴も配給制になっていたと思う。しかもぼろぼろであれ古い靴との引き替えだった。学校で交換したような記憶があるので、もしかしたら国民学校児童への特配があったのかもしれない。



石段を下りて前の道路を左へ歩いていくと自然と山の中に入っていったように思う。その途中、家の斜め向かい数軒先に吉田さんという上級生の家があった。少年倶楽部という雑誌が沢山揃っていて見せて貰うのが楽しみだった。一年生だったのに遠慮もなしに上級生の家によくぞ押しかけたものだ。よほどのおませだったのだろうか。

先日京都で催された関西三坂会で、同じテーブルの元上級生に住んでいたところを尋ねられて「三坂通りです」と答えると、さらに「神井台?」と聞かれた。私が以前三坂通りの旧居を訪ねたときに、この神井台の方は様子がすっかり変わっていてこの家(跡)を見つけることが出来なかったので、この方に当時の事情をお聞きしようと思ったが、同級生との話に戻られたのでそのままになってしまった。

夏休みにアジサイを手がかりにあの辺りを歩き回って旧居跡にでも辿り着ければ、と思うが、もう様変わりで無理なような気がする。


今年も京城府立三坂小学校の同窓会

2008-05-20 23:42:26 | 在朝日本人

今年も関西三坂会が京都駅近くのホテルで昨日開かれて49名が参集した。昨年の31名にくらべると大幅増である。いつものように「運動会のうた」の斉唱で会が始まった。私が三坂会の存在を知って始めて出た集まりでこの歌が歌われた時は、半世紀以上も歌うことはもちろん思い出すこともなかった歌なのに、歌い始めると節がすらすらと出てきたのに驚いたものである。開会と閉会の時にそれぞれ二番まで歌うが、開会の一番と閉会の二番をは次のような歌詞である。

  鉄石のごと 身もかたく
  心も強き 国たみは
  とよさかのぼる 日の御旗
  かがやく国の 宝なり
  我等は 日本男児なり
  われらは御くにの おみななり
  日ごろ鍛えし このからだ
  きょうぞ試さん いざやいざ

  学ばん時も かくのごと
  遊ばん時も かくのごと
  元気はわれらの いのちなり
  心やすかれ ちちははよ
  家をも興し 身をもたて
  国をまもるは このからだ
  鉄石よりも いやかたく
  鍛え鍛えん たゆみなく

一番の「我等は 日本男児なり」は男子のみが、「われらは御(み)くにの おみななり」は女子のみが歌う。男女対等のようだが考えてみればこの時代は女性に参政権が無かったのだな、とあらためて時の経過を実感する。二番の歌詞などもどれほど実感をもって歌っていたのか今となっては思い出せないが、われわれ全員がそれを励みとする純真無垢な少国民であったことは間違いなかろう。今の子供に歌ってきかせたらどのような反応が戻ってくるのか試してみたくなる。2005年10月に東京で開かれた最後の全国大会では東フィルのブラスメンバーによる演奏でこの歌を歌ったが、その時に録音しておかなかったことが今でも悔やまれる。どなたか録音テープをお持ちではないだろうか。

ブログを書いておられるのでは、と一人の方に声をかけられた。その方の弟さんが昨年の関西三坂会のブログ記事のコピーを送ってこられたそうである。在五の出席者は私一人なのですぐに分かったとのことである。去年旧三坂小学校周辺を訪れた際の写真をいろいろと見せていただいた。その中には校舎の横に建てられた大きな体育館があった。上の記事に掲載したGoogle写真にも写っていた大きな青い屋根の正体である。ここは木造の便所があったところで、厳冬ともなると排泄物が凍りその上にまた堆くなって石筍のように便器から頭をもたげ上げるようになる。自分では使ったこともないので何故そのようなことを知っているかと言えば、その片付けにクラスが多分動員されたからだと思う。錫杖のような鉄棒でコツンコツンと山を打ち砕き、ショベルですくい上げて肥たごに移したのだろう。そんなこをとふと思い出してつい興奮気味にとくとくと話しをしたものだから、「お食事中ですのに」と同じテーブルの女性にたしなめられてやっと我に返る始末であった。私のテーブルには四年上の女性が四人に男性が一人、二年上の男性が二人で皆さんが私のかっての上級生だったのでつい羽目を外してしまった。でも頷いてくださる女性もいたので、私の記憶の肝心なところは間違っていなかったようである。

隣には昭和20年卒業の方がおられた。龍山中学に入学したものの勤労奉仕で明け暮れしている間に敗戦を迎えたとのことだった。顔の色つやのよい健康的な方で、ウイスキーの水割りを次から次へとお変わりをされる。数えた訳じゃないけれど10杯ではきかないと思う。まさに日本男児ここにありである。とても洒脱な方で、年長者ならではの記憶のはっきりとしたお話をいろいろと聞かせていただいた。引き揚船で11月21日に博多に戻ってきたと仰る。アレッと思って船名を尋ねるとこがね丸との返事が戻ってきた。在朝日本人の回想 引き揚げ船「こがね丸」でにかって書いたように、私の引き揚げ船もこがね丸だったのである。11月下旬に博多に辿り着いたとの記憶はかすかにあったが日にちまでは覚えていなかった。釜山で一週間は乗船待機したので一ヶ月にこがね丸が運航された回数はそれほど多くは無かったと思うと、この先輩とは同じ船で引き揚げてきた可能性がきわめて高い。そこでこの日を私の博多港への帰還日とすることに決めた。

来年もまた新しい発見があるかも知れない。