日々是好日

身辺雑記です。今昔あれこれ思い出の記も。ご用とお急ぎでない方はどうぞ・・・。

元在朝日本人の『自分探し』

2005-05-07 13:16:47 | 在朝日本人
以下は「会報 三坂会だより」(2003年)に掲載した一文である。人名などをイニシャルにするなど少々手を加えた。

昨年(2002年)六月に岩波新書で高崎宗司著「植民地朝鮮の日本人」が刊行された。「朝鮮」という文字が題名にある本は見逃すわけにはいかない。早速購入し読み始めて52ページにさしかかったとき、「京城三坂小学校記念文集編集委員会」の文字に視線が釘付けになった。まさか、と思いながらも巻末の参考文献に目を走らせると、間違いもなくそこには「京城三坂小学校記念文集編集委員改編「鉄石と千草」三坂会事務局、1983年」と記されていた。

インターネットで直ちに国会図書館のホームページにアクセスして検索すると、確かに所蔵されている。そこで地元の神戸市立大倉山図書館に駆けつけ、借出し手続きを済ませた。到着の知らせが届くまでの待ち遠しかったこと、毎日そわそわしていた。

私が三坂国民学校へ永登浦国民学校から転校したのは昭和十六年の夏、一年生の2学期で担任はSY先生だった。二年生はAH先生、三年生はTS先生、四年生がSS先生と受持って頂いたが、昭和二十年四月に鉄原に疎開することになり、三坂を離れた。

1998年の夏、定年退職後の身辺整理も一段落したので一週間の予定で彼の地を訪れた。三坂通り三十六番地の旧居あと、そして三坂国民学校あとの再訪が目的である。それまでにも何回か飛行機の乗り継ぎとか会議への出席の機会を利用して探索を試みたが、記憶のみで探り当てることが出来なかった。通訳の助けを借りて腰を据えての再挑戦、その意気に天が感じてくれたのか、あっけないほど容易にかっての龍山中学校の前に出た。となると足が勝手に動いて三坂国民学校の正門に通じる小道に入ると、藤棚の光景が目に飛び込んできた。右手にプールが見え、その底を一人の作業員がホースの水で洗い流していた。

かっては後ろに校舎があったはずの藤棚下のベンチに座った。脱腸を抱えていた私は体育の時間も具合の悪いときはここに座り、級友の動き回るのを見学していた馴染みの場所である。運動場の方を見やると時の流れが止るとともに、運動場を駆けめぐっている自分の姿が彷彿と浮かび上がってきた。

何年生の頃か、休み時間になると飛行機遊びをしていた。両手をひろげて急降下しては翼を翻し急上昇する。その瞬間に縄跳びなどしている女の子のスカートを翼先を引っかける。僚機も思い思いにターゲットを絞り、戦果を競い合っていた。女の子も「キャー」とは云うものの先生への告げ口などはなかった。

四年生に進級してからか、登校の際はグループを組んだ。裏門の手前で班長が「歩調取れっ」、「頭、右!」と号令をかけて校門に立つ歩哨の兵隊さんに敬礼して通り過ぎた。脚にゲートルを巻いていた。

授業に教練めいたものが取り入れられたのもその頃で、木柱に藁を巻き付けたのを敵兵に見立てて木銃で刺突する訓練があった。避難訓練では警戒警報が出ると防空頭巾をかぶり机の下に潜り込んだ。本物の警戒警報で帰宅したこともある。いつものように通りかかった馬車の荷車に御者の目を盗んで飛び乗り、肩下げカバンから非常食の乾パンを取り出し、後で母に叱られることを少しは気にしながらポリポリと囓った。空の要塞B29の飛行機雲を始めて目にしたのも避難の帰り道だった。

五年生になると疎開先の鉄原国民学校に通学、そこで敗戦を迎えた。ソ連軍侵攻のニュースに怯えながらも幸い汽車で京城に舞い戻り、十一月末の引揚げの日まで明治町に仮住まいをしていた。

日本への引揚げと共に三坂との繋がりは絶たれてしまった。というより疎開した時点で既に過去へ遡る手がかりの一切が失われたといって良い。戦後「朝鮮」という言葉自体もおずおずと雰囲気を窺いながら口にするようなご時世になり、三坂での想い出も「近づきがたいもの」として封じ込められて、それだけに三坂に対する思いは心に深く潜行していた。

大倉山図書館から連絡があり、届いたばかりの「鉄石と千草」を手にした瞬間に幻であった過去にしっかりと結びつけられたことを実感した。奥付にある最初の番号に電話をしたところ不通、もう一つの番号は持ち主が変わっていた。しかし三坂会事務局(KT)の記事を頼りにインターネットで検索すると、東京の財団法人の理事長として同氏の名前があった。東京の事務所に電話をするとK氏は外出されていたけれど、電話の女性に事情を話したところ「京城中学」とか耳にしたことがあるとの由、その言葉を聞いた瞬間目頭が熱くなり言葉がしばらく途切れてしまった。

後刻K氏よりお電話とファックスを頂き、三坂会の現状がつまびらかになった。事務局のOSさんとも連絡がつき、お力添えを頂いて三年生担任のT先生にご夫君のKJ氏ともどもお目にかかることが出来た。ご自宅でお昼をご馳走になりながら話が弾み私はいつしかかっての生徒に変身していた。両親が大切に持ち帰ってくれた三年生の通知表を先生にお目にかけ、通信欄に書かれていた二十歳前後の先生の美しい筆跡そのままで「お会い出来てたいへんうれしく思っております。お元気で」の言葉を五十九年の間を置いて書き加えて頂いたのは望外の喜びであった。



その後三坂会近畿支部の集会にも参加させて頂き、また遊び仲間でもあったAK氏とも再会を果たし、長年のわだかまりが少しずつほぐれけ始めている。

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