日々是好日

身辺雑記です。今昔あれこれ思い出の記も。ご用とお急ぎでない方はどうぞ・・・。

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『男系男子』は見て分かる 女系では要DNA鑑定

2006-01-29 15:39:48 | 社会・政治

精子と卵子が融合して受精が起こる。受精卵は分裂を繰り返して胎児となり、出産により新しい人間が生まれる。生まれたのが男か女かは性染色体の組み合わせで決まってくる。精子は半数がY(性)染色体をもち、残りの半数がX(性)染色体を持つのに対して、卵子はX染色体だけを持つ。従って受精で出来る性染色体の組み合わせはXXXYで前者が女で後者が男になる。

第一世代の男性の性染色体をXYで表し、女性の性染色体をXXとすると、第二世代の生まれたのが男の子ならXYで女の子ならXXとなる。すなわちYXこにこだわらなければ男子女子とも父親の『血筋』を受け継いでいることになる。第二世代の男子が結婚して出来た第三世代の孫が男子ならXYで女子ならXXとなり、男子は紛れもなく第一世代祖父のY染色体を継承していることが分かる。ところが孫が女子なら早くも祖父の染色体は無くなっている。唐様で書く三代目ではないが、例え男系でも三代目の女子はもはや一代目男性の『血筋』を受け継いでいないことになる。

第二世代のXXの染色体を持つ女子が結婚して生まれたのが男子なら、その性染色体はXYである場合とXYである場合とがある。女子でもXXもしくはXXで、男女いずれの場合も第一世代祖父のX染色体を1:1の確率でもっている。

第一世代祖父の『血筋』を伝えることだけが大切であれば、YであれXであれそのいずれかが伝わっておればいいのである。その意味では男系女系に優劣はない。だがただ一つ、女系では厄介なことがある。女系第三世代の男女とも第一世代の『血筋』を伝えているのは確率的にその半分なのでありこれが厄介なのである。

コインを投げて裏表を決める場合に裏、表の出る確率は半々である、と云われる。コインを投げる回数が多いほど裏表の出る数が等しくなる。たとえば1000回投げると裏が498、表が502というようなことである。しかし投げる回数が10回ぐらいだとひょっとすると裏が10回続けて出ることもあり得る。第三世代の男子が一人だけだったとするとXを持っている可能性は確率的には半々でも、現実には持っていないのかも知れない。男子が二人だとたまたま次男がXをもっているが長男がもっていないこともある。第三世代の女子についても同じことが云える。いずれにせよ女系の第三世代は誰が『血筋』を伝えているのか見た目には分からない。

『血筋』を確実に伝えるためにはXをもっている男子もしくは女子を確定しなければならない。平成のご時世ではDNA分析の技術で可能であろう。しかし分析したからといって現存する第三世代の男子女子が『血筋』を伝えているという保証にはならない。

一方男系の場合ははっきりしている。その世代いかんにかかわらず男であること自体が第一世代の祖父のY染色体を継承していることの証になるからだ。DNA鑑定なんぞお呼びではない、『見れば分かる』のである。

わが皇室が男系男子の相続で『血筋』を絶やすことなく伝えてきたことは世界史の奇跡である。それもDNA分析技術はもちろんのこと『遺伝』の概念すらなかった大昔から、ただ『見れば分かる』男系男子による継承にこだわることでこの奇跡が存在し続けているのである。男系男子による継承は確実に天皇の血筋を伝えるための絶妙な知恵であったといえる。(女性側に不倫のなかったことを大前提としている)

人間の知恵・発想の素晴らしさはある意味では科学以上である。すでにブログに記したことであるが体細胞由来のクローン孫悟空が400年もさかのぼる昔の人智の発想にあったぐらいだから。男系男子の相続で皇統の『血筋』を伝える、これは日本が世界の誇れる独自の発想なのである。

「染色体の組み合わせ」図で第一世代を皇太子ご夫妻とし第二世代の女子を愛子内親王とする。仮に愛子内親王が女帝となられると次の第三世代でこれまで伝わってきた世界に誇れる『血筋』が完全に消滅する恐れが半分の確率で存在する。その上繰り返しになるが『血筋』を確認するのにDNA 分析という現代人の後知恵に頼らざるを得ない。そこまでしないといけないことなのか。私は反対である。

男系男子により『血筋』を『神代』から継承している天皇家は日本が世界に誇る無形の『世界遺産』であり、それを可能にしたのが『見れば分かる』という只それだけの、だからこそ絶妙な仕組みなのである。『女帝』容認はそれを破壊してしまう。

つづく

おことわり 前稿を修正しました。

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阿呆な女子学生を『阿呆払い』に

2006-01-28 23:48:03 | 社会・政治
被害者泥酔「記憶ない」 合意不可能か 京大生強姦事件 (朝日新聞) - goo ニュース

マスメディアだけを喜ばす不愉快な事件である。

男子学生の肩を持つつもりはさらさらない。しかし報道されている通りだとすると、被害にあったとされる女子学生を単純な被害者として同情する気も起こらない。彼女らは云いようのない『阿呆』だからである。

深夜まで複数の男子学生と複数の女子学生が鍋料理を食らい酒を飲む。多分大騒ぎしながらであっただろうから近所は騒音で迷惑したのではなかろうか。戦前生まれの私にはそのような羽目をはずしたパーティに参加する女子学生がいること自体信じられないことである。と云ったのは言葉の綾、実は親元を離れた女子学生の無軌道ぶりはとっくの昔から私自身が見聞きしていたのである。

もう20数年以上も前のことであるが私が単身赴任時代に住んでいたアパートでも男女学生が大騒ぎしたことがあり、大家さんに連絡して警察を呼んで貰ったことがある。その事件の詳細は後日大家さんから聞いたがまことに奇妙きてれつのものだった。

女性の居住しているアパートの一室に男性が訪れてきて酒盛りを始め、興も高まり草木も眠る丑三つ時に女性が男性に『迫った』そうである。ところが男性の方はアルコールが入りすぎたかでものの役にたたない。それを女性がなじったのが切っ掛けで男性の方も切れて、家財道具をひっくり返し回る大騒ぎになったのである。その物音がただ事でなかったので私が目覚め、その騒音と罵声のすさまじさに怒りを発し警察を呼んだのである。

警官が駆けつけてその男性を引き立てて行った。そうすると女性の方が警官に組み付いてそれを止めようとする。それ自体も見物であったが、大家さんが云う「○○(私の名前)さん、見ておくれやす、あの子(女性)の下、すっぽんぽんでっせ」にはわが目を疑った。なるほどその女性の上半身はパジャマだが下半身は真っ裸である。だからこそ、事件後聞かされた女性が『迫った』のに、という話が素直に私の頭に収まったのである。この女性が男性を強姦未遂の罪に問われたのかどうか、そこまでは聞こえてこなかった。

今度の事件でも最初は女性が三人だったのが一人は途中で帰っていったそうである。そして残った二人が被害にあったとか。私に云わせれば自業自得である。男子学生だけが刑罰に科せられるのは私の感覚では片手落ちのような気がする。昔ならば男女双方とも『不純異性交遊』でたっぷり油を絞られる所業であるからだ。

新しい裁判員制度のもともし私がその裁判員に選ばれたとしたら、被害者とされる女子学生の『阿呆』ぶりを糾弾しそうである。『男はみんな狼よ』すら知らなかったのもさることながら、それよりなによりアパートの一室で近所に対する慎みもなく深夜までパーティを開くという『公序良俗』の破壊にも無知であったからである。その点では男女双方が共犯者である。

江戸時代には『阿呆払い』という刑があった。元来は武士に対する刑の一つであるが、「はだかにしたりしばったりして人々にあざけられるような姿で追放することを広く云う場合もある」(日本国語大辞典、小学館)とのこと。男を罰するのであれば、この『阿呆』の『阿呆払い』を是とするぐらいの『典範』を新たに作るべきである。
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不忠の『臣・茂』? 原彬久著「吉田 茂」を読んで

2006-01-26 11:34:16 | 読書

戦後初の国葬で葬られた大勲位吉田茂に私は何故か親近感をいだく。敗戦後の食糧難の時代にとにかく日本人を餓死ささないようにマッカーサーに掛け合い食料の確保に奮迅努力したその当時の首相としてのイメージが脳裏に焼き付いていることや、かずかずのエピソードがその親近感に手を貸している。

選挙嫌いの吉田茂がやむを得ず高知一区から代議士に立候補した時に《小学校が演説会場であれば、聴衆の選挙民を「小学生」と勘違いして「これからキミたちもよく勉強して・・・」とやる》(137ページ)なんてエピソードにはニコッとしてしまう。

この「吉田 茂」は岩波新書であるので身構えずに面白いところだけを読んでいけるところがいい。そういう読み方をして私なりに新しい発見があるのが楽しい。

《(前略)吉田はこの憲法九条に関連して、政府案が上程されたばかりの衆議院本会議(六月二十八日)で共産党野坂参三と論争している。野坂は「正シクナイ不正ノ戦争」すなわち侵略戦争と「正シイ戦争」すなわち自衛戦争とを区別し、政府案にある「戦争ノ抛棄」を「侵略戦争ノ抛棄」に変更べきことを訴える。これに対し吉田は「国家正当防衛権」を認めることが「偶々戦争ヲ誘発スル」がゆえに、「正当防衛権」自体を「有害」であると断言したのである(「第九十回帝国議会衆議院議事速記録第八号」)。》(124ページ)このくだりで共産党の『正論』に同感するのも本読みにはこたえられない楽しみである。

昭和天皇は《国民に戦争への自責と謝罪の念を表明》しようとするご意志をお持ちであったようである。ところがそれを形にする『退位』そして『謝罪詔勅』のそれぞれを吉田が握りつぶしてしまう。そして著者はこう述べる。

《天皇がその意に反してみずからの戦争責任を形にしえなかったというその歴史的含蓄は重い。》(以下153ページから155ページ)

《もし天皇が被占領時代はともかく独立を機に退位していたら、戦後日本の絵姿は大きく変わっていたであろう。天皇退位は日本が国内外に向けて少なくとも国家の道義的負債を精算していく最大かつ決定的な機会になったであろうし、ひいては独立回復後の国民にその再出発のための新たな道義的基盤を用意したであろう。》

天皇が退位をもって戦争への道義的責任を示したなら、軍部暴走と戦争にかかわった政治家、軍人、言論人等々は指導者としての出処進退を厳しく問われることになったであろう。そしてアジア諸国への賠償・補償もすべてはこの地点から始まっていたであろう。日本が占領軍による受身の懲罰ではなく、自身の意志によって戦争責任に明確活早期の決着をつけることが国家として必要であったなら、「天皇退位」は一つの重大な選択しであったに相違ない。

《過去の責任を曖昧にして道義的負い目を引きずっていく国家は、諸外国からその弱点を衝かれ、国内に無責任の風潮が瀰漫するのは当然である。》

《天皇股肱の臣吉田茂が、敗戦日本を捉えて離さなかったこの「天皇退位」という戦後史最大の難問を抱えて歴史の岐路にあったことは事実である。しかもこの歴史の分岐に立って吉田が天皇の「退位」のみならず「謝罪」をも否定するという、この上なく深大な決断を下したことだけは記憶されてよい。》

『人間天皇』を宣された昭和天皇の心を慮ることを吉田茂は僭越と懼れたのかそれとも己の情念にのみ忠実な尊皇家だったのか、結果的に昭和天皇のご意志を無にした『臣・茂』こそ『不忠の臣』ではなかったのか。

昭和天皇もやはり徒人(ただびと)ではない。吉田はなぜかサンフランシスコで開かれる講和会議に出席する気持ちはなかった。ここで著者は豊下楢彦を引用するのであるが《「首相の署名」を切望するダレスの意を受けて、天皇が吉田に影響力を及ぼし講和会議「出席」を決意させたのではないか、というのである。天皇制を守るために、誰よりも早期講和と日米体制強化を熱望する天皇が、講和会議「欠席」に傾く吉田を叱り翻意させたというわけである。》(190ページ)

しかし昭和天皇の次の行動には少し首をひねりたくなる。《天皇とダレスの共同歩調》のくだり(181ページ)、《ダレスが(中略)講和・安保両条約の案文づくりにに関連して天皇との間に秘密のチャンネルを確保していたということである。豊下楢彦によれば、前年六月勃発の朝鮮戦争がもしアメリカの敗北に終われば天皇制の危機と捉えていた昭和天皇は、吉田とは全く別のルートで早くからダレスにアプローチしていたというのである。》

そして焦点は米軍の駐留に基地の提供を求めるアメリカ側と、基地不要論を唱える吉田との間に天皇が介在したことである。

《共産主義から天皇制を守るためにも「日米結合」に執念を燃やす昭和天皇が、この日米間の行き違いに不安を抱いたのは当然である。ダレスは(中略)天皇と会見の機会をもつが、このとき天皇はダレスに向かって、アメリカの条件に沿う形での基地貸与に「衷心からの同意」を表明している。》これを著者は《天皇の超憲法的行動》であった、と断じている。

実はまだまだ引用したい箇所があるのだが、この小文が切っ掛けとなってこの「吉田 茂」を読まれる方のためにもここらあたりで止めておくことにする。戦後の日本史を概観するのにも手頃な一書を纏められた著者の労を多とする。
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森 麻季ソプラノリサイタル

2006-01-25 11:31:48 | 音楽・美術

《オール・モーツアルト・プログラム》の幕開け、モテット「踊れ、喜べ、汝幸いなる魂よ」を歌い出した彼女の容姿にロココの匂いを感じて一挙にその世界に引きずり込まれた。磁器を弾いたような透明な歌声がこの曲の曲想をしっかりと引き出す。とても心地よかった。

「ドン・ジョヴァンニ」のツェルリーナのアリア『恋人よ、さあこの薬で』、『ぶってよマゼット』では一転純朴可憐な村娘になりきってしまう。ドン・ジョヴァンニではないが「手をとりあって、うちへ行こう」と彼女に誘いかけるデュエットを一緒に歌えたら、う~ん、幸せ、と空想も膨らむ。

あっという間に時間が過ぎてアンコール。

第一曲がプッチーニ「ジャンニ・スキッツ」から『私の好きなお父さん』。力強い歌い方が新鮮、意志のはっきりした芯の強い女性を演じる。

二曲目が山田耕筰の”からたちの花”。

話は逸れるが最高音がハイGであるこの曲を素人が気安く歌えるものではない。山田耕筰の時代にそのような高音を美しく出せる人がそれほどいたのかな、どのような歌い手を頭に描きながらこの曲を作曲したのかな、と私が思うことがあった。

その思いをよそにそこがプロの聴かせどころ、彼女は実に美しく高音をたっぷり響かせてくれた。

森 麻季の伸びやかな歌声に連想したのがキャスリーン・バトルである。透明感も共通している。ただ森 麻季はやや華奢のように見受けられる。身体に丸みを帯びるようになれば声もそれだけまろやかになるのでは、と思った。

三曲目が「こうもり」からアデーレの『侯爵さま、あなたのようなお方は』。彼女は役になりきったコケティッシュで表情豊かな歌いぶりがとても魅力的。オペレッタの舞台にぜひ立って欲しいなと思っている間に終わってしまった。

アンコールでいいなと思ったのは、この三曲目に「最後に」と彼女が断って歌ったこと。聴衆もそれで納得する。そして花束贈呈とか余計なことのなかったのも良かった。そういえばグラスでつぶさに彼女を観察していた妻によると「指輪も光り物も何も無し」とのこと。清々しさが心地よかった。余計なことだけれど彼女も外国の男性に掠われそうな気がしてならなかった。そうでないことを願うのみである。

このリサイタルは1月23日夜いずみホールで催されたが何だか落ち着く。800席ほどの中規模のホールだが後方では座席の段差がはっきりしていて、近頃珍しくなくなった大柄の女性が前の席に座っても頭が邪魔にならない。前の人の頭の振りと反対側に自分の頭を振らなくて済むのが落ち着く理由の一つのようである。
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女帝か後宮制度か

2006-01-21 16:50:12 | 社会・政治

「皇室典範改正、通常国会で成立を」首相 (朝日新聞) - goo ニュース

「いずれの御時にか、女御更衣あまたさぶらひたまひける中に、いとやむごとなき際にはあらぬが、すぐれて時めきたまふありけり」

学校をでた日本人なら誰でも知っている源氏物語の冒頭である。

「女御更衣」とは平安時代に生じた後宮女官制度の一つ、その公の勤めは天皇の寝所に侍ることで、目的は天皇の血筋を絶やさないことであった。だからこそ天皇系図に従うと初代の神武天皇以来第125代目の今上陛下に至るまでの皇統が維持されてきた。

その間女性天皇は10代8方。奈良時代以前が8代6方で江戸時代に2代2方で125代のうちのわずか10代に過ぎない。しかもすべて男系女性である。

「皇室典範に関する有識者会議」の報告書にはこのような部分がある。

「伝統を踏まえたものであること 
憲法における天皇の位置付けの背景には、歴史的・伝統的存在としての天皇があると考えられるため、皇位継承制度も、このような天皇の位置付けにふさわしいものであることが求められる。
伝統の内容は様々であり、皇位継承についても古来の様々な伝統が認められるほか、戦後の象徴天皇の制度の中で形成されてきた皇室の伝統もある。さらに、例外の有無、規範性の強弱など、伝統の性格も多様であると考えられる。
また、伝統とは、必ずしも不変のものではなく、各時代において選択されたものが伝統として残り、またそのような選択の積み重ねにより新たな伝統が生まれるという面がある。」

この報告書にある「歴史的・伝統的存在としての天皇があると考えられる」のくだりはまったく同感である。しかしその考えの中に私がもっとも重要と考える事柄が欠落しているから、上っ面だけの論議に終わっている。それを指摘しよう。

「戦後の象徴天皇の制度の中で形成されてきた皇室の伝統もある」とのことであるが、この伝統はせいぜい新憲法の時代になっての僅か60年のもの、これを連綿と2666年間続いてきた皇統の伝統と同列に論じるところに有識者会議メンバーの歴史に面する謙虚さの欠如が表れていると云わざるをえない。さらに『皇室の伝統』は只文言として出て来ただけで中身は空疎、私の考える歴史・伝統とは相容れない言葉のつじつま合わせに終わっている。

その歴史・伝統の一つは現行典範に記されているように皇位継承者は『皇統に属する嫡出の男系男子の皇族』に集約されているが、しかしここにも歴史・伝統からの大きな逸脱がある。それは『嫡出の男系男子』の部分である。

この報告書の参考資料にも挙げられているが、明治天皇以前の121代(初代の神武天皇を除く)のうち嫡出は66代、非嫡出は55代とのことである。すなわち非嫡出男系男子の皇位継承があってこそ、天皇家の歴史・伝統が維持されてきたのである。「女御更衣あまたさぶらひたまひける」のも何故かと云えば、皇統の維持に必要不可欠であったからである。これが天皇家の存続に関わる日本の歴史・伝統なのである。

私が『軍国少年』であった頃、音楽の時間で次のような歌を習った。今でもちゃんと節を付けて歌える。

「金剛石も みがかずば
 珠のひかりは そはざらむ
 人もまなびて のちにこそ
 まことの徳は あらはるれ」

「時計のはりも 絶え間なく
 ・・・・・・・・・・・・」

と2番に続くが、これは昭憲皇太后のお歌で、刻苦勉励の教えと私たちは受け取った。

昭憲皇太后は明治天皇のお后で民草の尊崇を集めたお方である(と古めかしい云い方が素直にでてくる)。そのお二方の間にお生まれになったのが後の大正天皇である、とその頃の私たちは思っていた。

既にそのころの大人は知っていたことかも知れないが、大正天皇のご生母は柳原愛子(なるこ)で明治天皇の五人の側室の一人である。昭憲皇太后は残念ながらお子を身ごもられることがなかった。ちなみに明治天皇は五人の側室から十五人の皇子皇女を得られたが、成人されたのは五人だけである。

明治天皇の父孝明天皇には皇后に次ぐ女御がおられたが、明治天皇のご生母はその女御ではなく権典侍中山慶子(よしこ)、更に云えば孝明天皇もご生母は権典侍正親町雅子で、孝明、明治、大正と三代の天皇はいわゆる嫡出子ではない。従って当然のことであるが明治典範では非嫡出子も皇位継承資格を有することとされていたのである。

このように昭和天皇の先代、大正天皇の時代まで誰しも当たり前のように思っていた『非嫡出子の皇位継承資格』が現行典範から除かれたことを、私は歴史・伝統からの大きな逸脱というのである。

最初に取り上げた「歴史的・伝統的存在としての天皇があると考えられる」という以上、それを可能にした後宮制度の存在に目を瞑ることは出来ない。後宮制度のもとで生まれる非嫡出子の皇位継承を認めてまで維持されてきたのが男系男子による皇位継承のである。私に云わせると女帝を安易に容認することはこの歴史・伝統の破壊に他ならない。何故か、次のように考えれば分かりやすいのではなかろうか。

天皇家にはわれわれ庶民のように姓名の『姓』がない。だからぼやかされてしまうのだが、子孫を残さないといけない女帝は当然男性と結婚する。すると生まれた子供の姓は実は男性の姓になるのである。庶民感覚で云えば『家』が変わってしまうのである。これを何回か繰り返すだけで天皇家とは云うものの内実は田中さん、伊藤さん、佐藤さん、・・・・となってしまい、一般庶民となんら変わるところがなくなってしまう。天皇家は国民の親愛により存続できるものではない。歴史・伝統に起因する尊崇を受けるからこそ存続できるのである。一般庶民と同じようになると云うことは天皇家の消滅なのである。天皇家の廃絶を婉曲に目論むにはまず女帝を容認すればいいのである。

子供が出来るのか出来ないか、男の子なのか女の子なのか、それがあらかじめ分かっていて夫婦になるものではない。縁があって夫婦となり子供が欲しいのにどうしても出来ないとなれば、最後は諦めざるを得ないかも知れない。

同じことが天皇家にも云える。しかし男子出生は一般家庭とはことなる格別の重みをもつ。子供を産まなければならない、それも男の子を産まなければならない。これは科学を超越した神懸かり的な願い事である。先人の知恵が生み出した後宮制度は皇統の維持に必要不可欠な制度であったのである。

皇室典範に関する有識者会議には最初から結論があったと私は思う。メンバーの選択自体がそれを雄弁に語っている。10人のメンバーのうち6人が元大学教授もしくは大学総長。そして元最高裁判事に元官僚2名と経団連会長。論議を直接耳にしたわけではないが、後宮制度の歴史的意義を論じる人はおそらく皆無であっただろう。庶民代表で落語家一人入っておれば論議もまた違った方に行ったかもしれない。それよりなにより皇室の最も重要な事柄を決めるのに皇室から誰一人論議に参加されていないのが最大の欠陥である。

天皇家の方々こそ日本古来の歴史・伝統を自ら体現するものとしの自覚をお持ちであろうし、またそれを守り伝えていくことを最大の責務と心得ておられることであろう。そのご意見はぜひ国民の前に開陳されるべきである。

小泉首相の本心が自民党をぶっ壊し、ついでに天皇家も無くしてしまえ、でないことを念じたい。国会で十分論議を重ねた上でさらに継続審議に持ち込んで欲しい。

ドナルド・キーン著「明治天皇」上下巻にいわゆる後宮制度の内実が詳細に述べられているが、その一文だけを引用する。

「ヨーロッパでは、王の庶出の子供は王位を継承する資格がなかった。しかし伝統の異なる日本では、皇后に生まれた子供であれ、他の女性の腹を「借りて」この世に誕生した子供であれ、そこには何らの区別はなかった」

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米国産牛肉再び禁輸 政府もやるね

2006-01-21 00:28:05 | 社会・政治
米国産牛肉、再び禁輸に 成田の検疫で危険部位発見 (朝日新聞) - goo ニュース

米国側に言い分があるにせよ日本国政府と米国政府との合意により取り決められた米国産牛肉の『特定危険部位の除去』が米国側で約束通り行われていなかったことは極めて遺憾であるとしか云いようがない。しかしこのような危険性があり得ることは以前から指摘されていたことであり、その疑念に応えることなく輸入再開に踏み切ったわが政府の甘さは国民の厳しい批判にさらされるだろう。

成田空港で検疫手続き中の米国産牛肉から背骨の混入が見つかり、農相はまず「疑いの出た牛肉を扱った米国の食肉処理施設について、再び輸入を停止する意向を示した」。両国政府の取り決めが守られていないことが発覚したにしては農相の認識は甘すぎると思ったが、その後直ちに全面禁輸に踏み切ったことは近頃まれにみる迅速な対応として評価したい。

私は政府間の『取り決め』を侵した米国の行動は遺憾とするが、『取り決め』の中身に関してはややおおらかな意見を持っている。




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ライブドアを強制捜査 『タイムラグ』の怪

2006-01-16 23:31:11 | 社会・政治
ライブドアを強制捜査、関連会社が虚偽公表で株価操作か (朝日新聞) - goo ニュース

どのテレビ局もこのニュースを大きく報道している。ホリエモン氏が関わっているとあってマスメディアは大はしゃぎである。

容疑は《「ライブドア」の関連会社が虚偽の事実を公表して株価をつり上げた》とのこと、これが《偽計取引、風説の流布》ということで証券取引法に違反するらしい。

このようなことが起こったのは2004年10月から11月にかけて、丸一年も前のことである。この取引が行われた時点で何故証券取引等監視委員会が『不正』に気付かずに、今頃になってこの問題が顕在化したのか、これは誰しも抱く疑問であろう。

証券取引等監視委員会の機能、権限などについて私には何の知識もないが、『名は体を表す』でこの委員会の役割などを勝手に想像するのであるが、何か問題があれば当然関係者から事情を聴取する権限はあるだろうし、不正があれば罰則を科すのではなかろうか。ホリエモン氏に対して既に事情聴取を行ってきたのであろうか。

現在までの報道では証券取引等監視委員会のこれまでの動きが一切伝わってこない。これも『耐震強度偽装』事件で怠慢・無能ぶりが明らかになった『確認検査機関』同様の冬眠委員会なのだろうか。『不正』の発生した時点では気がつかず、かなり後になってようやく『たれ込みもしくは風説の流布』で始めて問題に気付いたのだろうか。それでは『監視委員会』の看板が泣く。

マスメディアに問われるのはそのあたりの事情を明らかにすることで、明朝のニュースで伝えて欲しいものである。
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花村萬月著「たびを」を読了

2006-01-14 17:18:27 | 読書

午前5時、1000ページにもおよぶ花村萬月の大作「たびを」を読み終えた。ベッドに仰向けに寝て、厚みが57mm、重さが910グラムの本を両手で支えての苦行を物ともせずにである。布団から外に出た両腕はこの寒気で完全に冷え切っている。

何故この本を読む気になったか。一つは日本一周は私のまだ見果てぬ夢であり、それを垣間見たかったのと、もう一つは本の分厚さである。読み通す気力があるかな、と問いかけられているような気がしたのでチャレンジした。嬉しいことに正味4日ほどでの読了したのだから、還暦ローティーンとしては立派であろう、と自画自賛。

主人公は改造原付二輪車で日本一周する19歳の浪人生谷尾虹児君。一夏100日ほどかけてのツーリング紀行である。旅に出るからには動機もあるだろうしお金もいる。汗水垂らして稼いだわけでもない大金が思いがけなく舞い込む次第などは本書に譲るとして、とにかくそのツーリングを追っかける。

旅ともなれば新しい土地との出会い、人との出会いである。改造バイクで日本を一周するのであるから見ること書くこと山ほどある。著者の花村氏の実体験が下敷きになっているとは容易に想像つくが、目に入るもの、出くわしたことがらの綿密な筆致が臨場感を盛りたてる。だからついつい読み進んでしまう。

犬、猫、鳥のように身一つとはいかないが、最小限の持ち物で移動するのが潔くていい。私には少年時代に体験した『朝鮮からの引き揚げ』とイメージの重なるところがあった。しかし食べ物が無くなればコンビニを見付ければいいのだから気楽なものである。まさに平和な時代の物見遊山、なんたる贅沢を虹児君、である。

私が面白く感じたのは旅の途中で出会う人々との関わり合いである。単独ツーリングしているもの同士がどこかで出会い、場合によってはしばらくツーリングを共にする。道ばたですれ違った犬同士がお互いの様子を窺い臭いを嗅ぎ合ったりするように、相手の性格などを探り合う、動物と同じような行動をとるその描写が面白い。

お互いの探り合いに人間同士だから言葉の応酬がある。小説仕立てだからそうなるのかも知れないが、皆さんなかなかの饒舌家である。舌がよく回りギャグの連発である。そのスピードは小説には現れないが、たぶんテレビタレントも顔負けのもの凄いスピードでやり合っているのだろうななと思ったら、異星人同士の遭遇を連想してしまった。気が合えばしばらくの旅の連れ合いができる。すぐには仲間になれなくても相手を意識してまわりをうろちょろしているうちにくっついてしまう。駆け引きの呼吸を楽しむのも時間に追われないのんびりとした旅ならではのことである。

この虹児君、童貞喪失が旅立ちの動機と大いに関係があるのだが、それで女性開眼を果たしたのか、このツーリングの最中に大勢の女性と《棚ぼた式》に知り合う。『プロの女性』もおれば単独行女性ライダー4人のうち3人と懇ろになる発展ぶりである。喋々喃喃が花村式記述で延々と続くと還暦ローティーンも落ち着かなくなる。

レアリズムの圧巻は大麻の吸引シーンである。あるとき同行した男性ライダーが大量の大麻を持っていて虹児君も初体験をする。そして行き着くところ、ライダー仲間の男性3人と女性3人がマンションに閉じこもり数日かけて大麻を全部煙にしてしまう。その間になにが起こったか、心卑しき人の想像は外れてナイーヴな人はただただ呆然とする。

小説で人殺しの場面がおどろおどろしく語られたとしても、それが著者の実体験だと思う読者はまずいないだろう。しかしこのマリファナの吸引の描写も著者の単なる創作なのだろうかというと、私は著者の実体験と断じたい。何故そのように断じるのか。ヒントは「あとがき」にある。なかったことはなかったこと、と種明かしされているのであるが、マリファナの吸引はなかったこととは述べられていない、ただそれだけの理由なのであるが。では何がなかったことなのか、それを先に知ってしまえば読書の楽しみが半減するから、これから読もうとする方は絶対に「あとがき」を先に読まないように忠告する。

旅をしていると考える時間がたっぷりある。虹児君はなかなか自省的な青年であれやこれやよく考えるのである。これが19歳の青年の考えることなのか、はたまた壮年花村氏の地が出て来たことなのか、その辺りをあれやこれや想像しながら読む楽しみもあった。

私はまだ還暦ローティーンの身、虹児君のようなハイティーンまでにはまだまだ時間がある。近い将来なんとかして日本一周の夢を実現させたいものと切に思うようになった。
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京都市地下鉄運賃改定と「新明解」さん

2006-01-10 22:32:21 | Weblog

今年初めての京都行きで四条から国際会議場前まで地下鉄に乗った。乗る前に「スルッとKANSAI」の残額を確認すると590円なので、片道260円の往復は出来るなと思っていた。
ところが国際会議場前駅で改札を通り抜けると残額が310円と出た。計算が間違っていると思った瞬間、運賃改定の掲示が目に入った。暮れも押し迫った12月27日にも地下鉄に乗ったがその時に「運賃改定」らしき知らせは気付かなかったので、なんだか唐突に感じた。値上げするからにはそれなりの理由があるのだろうがそれにしてもこの掲示の文言のなんたる素っ気なさ、典型的なお役所言葉である。

これは運賃の改定と言葉で誤魔化すことではない、明らかな値上げで利用者にこれまで以上の負担を強いるものである。「諸般の事情に鑑み運賃値上げのやむなきに至りました。乗客の皆様には負担をおかけいたしますが・・・」と素直に何故書けないのだろう。

せめて言葉の使い方にいちゃもんをつけてやろうかなと思い念のため辞書をひもといた。広辞苑第五版では《【改訂】従来のきまりなどを改め定めること》と味も素っ気もない。ところが私の愛する新明解国語辞典第五版では《【改訂】新たに取り決めること。「料金の―〔=値上げ。値下げを指すことはほとんどない〕》と血の通った説明がちゃんとされているではないか。妙に納得したらいちゃもんつける気が消え失せてしまった。
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何だか変、このニュース、『大本営発表』か

2006-01-06 11:53:27 | 社会・政治
めぐみさん、辛光洙容疑者「拉致したのは自分だ」 (読売新聞) - goo ニュース

上記のようなニュースがテレビ、新聞で報道された。この拉致事件を巡ってのマスメディアの報道にこれまでも私は違和感を抱いたことが多々あったが、また同じようなケースなので少々もの申すことにする。

この記事で私が違和感を抱くのは冒頭のこの部分である。
《1977年に横田めぐみさんが拉致された事件で、原敕晁(ただあき)さんを拉致したとして国際手配されている辛光洙(シン・グァンス)容疑者(76)が、曽我ひとみさん(46)に「拉致したのは自分だ」などと、拉致の実行犯であることを認めていたことが、関係者の話で明らかになった》

《関係者の話》とは誰が何時どのような状況で話したことなのだろう。

まさか曽我ひとみさんが昨日今日誰かに話したことではあるまい。彼女が帰国してからもう十分の年月が経っている。このようなことはとっくの昔に政府機関や関係者に語っていると想像するのが常識的な受け取り方というものだ。

では誰がどのような意図でこの『情報』をこれまで秘匿していたのだろう。この拉致実行犯は既に警察当局によって国際手配されていると云う。当然その犯罪容疑は公ごとになっていることだろうからこの『情報』を秘匿する必然性が理解できない。

私はこの種の『情報』がポロポロとニュースに登場するそのありように胡散臭さを感じる。誰かが何かの意図で人為的に操作しているとしか感じられないからだ。

それにしても情けないNHKに新聞各社だ。私のような疑問をもつ人間はこの世の中に五万といるであろうに、マスメディア関係者は誰一人として応えようとはしない。《関係者の話》としか伝えられないとは戦時中の『大本営発表』のまさに繰り返しではないか。

『情報』を操っているのが誰であれこれは国民を愚弄する行為であり、それをつまびらかに出来ないマスメディア関係者はその共犯者である。
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