日々是好日

身辺雑記です。今昔あれこれ思い出の記も。ご用とお急ぎでない方はどうぞ・・・。

メトロポリタン・オペラ「アルミーダ」からロッシーニの室内歌曲・重唱曲へ

2011-02-28 16:20:53 | 音楽・美術
もう40年以上も前になるが、米国の西海岸、サンタバーバラに住んでいた頃に買ったLP2枚組セットがある。


歌曲の伴奏ピアニストとして一世を風靡したGerald Mooreが67才で引退するのを記念して、1967年2月20日に催されたコンサートの記録である。おそらく発売されたばかりのセットを買ったのだろう。伴奏ピアニストだからと言ってピアノだけの演奏では様にならない。そこでこの三人の名だたる歌手が歌で華を添えたのである。そして意表を衝かれたのがVictoria de los AngelesとElisabeth Schwarzkopfによる「猫の二重唱」であった。私がとやかく言うよりもこの時の演奏がYoutubeに素敵な猫のアルバムと一緒に登録されているのでまずお聴き頂きたい。この楽しい曲を作ったのがロッシーニであった(偽作との説もあり)。もう2曲、二重唱曲が収められていたがなかなか軽妙で音楽性も高く、すぐに好きになってしまった。これが彼の室内歌曲・重唱曲とのつきあい始めでる。



ロッシーニは生涯に39のオペラを作曲したが、1829年に「ウイリアム・テル」を発表したのを最後に、まだ37才でオペラ作曲からは足を洗い、それからは宗教曲や小品のみを作曲するようになった。その一つのジャンルが、貴族や上流階級がそれぞれの舘で催す音楽会で演奏する声楽・器楽曲であった。もともとロッシーニはこうした階級の洗練されたアマチュア音楽家の要望に応えて、おもに個人的に演奏される楽曲を数多く作曲してきた。彼らには自分たちの世界があり、公な場で演奏するなんて発想がなかったのである。ロッシーニ自身もアマチュアとプロフェッショナルが出会い一緒になるような音楽夜会をよく主催した。歌曲の作曲ではロッシーニはいろいろなところから歌詞を探し出してきて組み合わせを楽しんだり、またオペラの曲を組み替えたりしている。私が気付いた「アルミーダ」のなかの合唱曲がその一つであったようだ。

ロッシーニの室内歌曲・重唱曲のCDを探し始めた頃は国内盤はほとんどなく、輸入盤に頼ったり外国で見つけたりした。そのうちの一部をお目にかける。




メトロポリタン・オペラ「アルミーダ」のなかに出てきた私が慣れ親しんだ歌が、一番左上のCDでは5番目に、その右隣のCDでは9番目に「Ridiamo cantiamo che tutto sen va」として入っている。次のような曲である。



歌詞の英訳を引用しておく。

     Let us laugh, sing, for all passes on
     If we lose it, our good age will not return
     Life last but a moment,to be enjoyed,   
     With a single breath the wind may carry us away.

最後がこのように終わる。

     Let us laugh, sing,
     While we have our precious youth.

ソプラノ、メッゾソプラノ、テナー、バリトンの4人が歌っているが、ロッシーニの時代にアマチュアがこれだけのアンサンブルを作り上げていたとすると、相当の技倆をマスターしていたことになる。そして右側CDの解説に次のような一文がある。


「アルミーダ」では妖精が合唱していて、そのタイトルが「Canzoni amorose」となっているが、歌っている内容は両者とも似ているようである。面白いのはロッシーニが「アルミーダ」から転用したこの曲をちゃっかりとAlvancey卿に捧げていることで、解説にある’carpe diem’とは「現在を楽しめ」ということらしい。曲が軽快に楽しく響くのは納得がいく。その世界を「アルミーダ」の束の間のシーンでお楽しみあれ。





アマゾンからメトロポリタン・オペラ、RossiniのArmidaがやって来た

2011-02-26 21:58:52 | 音楽・美術

2月25日に注文したメトロポリタン・オペラ、RossiniのArmida(「アルミーダ」)が26日の今日、早くも届いた。普通便でこの速さには驚く。しかも嬉しいことにRegion Codeが0(worldwide)、ということは手持ちのDVDプレーヤーで観ることが出来るのである。それは有難いのであるが、よく見るとアマゾンの商品説明とは異なる商品が届けられたようである。



リージョンコード、画面サイズ、ディスク枚数にASINコードまでが異なる。厳密にいうと間違った商品を送ってきたことになる。私とすれば予想に反し手持ちの装置で再生出来たのでそれはよかったのであるが、リージョンフリー DVDプレーヤーの購入をまともに検討していたことでもあり、やはり正確な情報を提供すべきであろう。それはともかくリージョンコード0に対応してであろう、字幕は英語、仏語、ドイツ語、スペイン語、中国から選択が可能になっているから問題はない。

それにしてもルネ・フレミングとローレンス・ブラウンリーの二重唱とからみあい?をたっぷりと楽しめるのは嬉しい。競演の時点で51才のフレミングに対してブラウンリーは38才、近頃流行の逆年齢差カップルの二人ががっぷりと組んで、3時間におよぶ舞台を引っ張り盛り上げていくそのパワーが感動的である。DVDだと聴きたいところにいとも容易に行けるので、これから思う存分楽しむことにする。

ところでこのDVDの購入を急いだのには、また別の理由があった。このオペラを観たのは始めてであるのに、不思議にも私が大好きで、だから慣れ親しんでいる曲が出てきたのである。その関わりを知りたく思ったが、そのためにはこの曲がオペラのどの場面で歌われるかが確認しないといけない。それがDVDのお陰で分かったのである。これにまつわる話を次ぎにしようと思う。


メトロポリタン・オペラ「アルミーダ」(NHKハイビジョン)を観て

2011-02-25 14:32:00 | 音楽・美術
メトロポリタン・オペラ(NHK-BShi)の第四夜、「ハムレット」(トマ)は残念ながら私の好みではなかった。シェクスピアの「ハムレット」ではなくてフレンチ・オペラの「ハムレット」だそうであるが、ハムレットが葡萄酒を頭から浴びて鮮血色に染まったり、オフィーリアまでも小刀で手首を傷つけて純白の衣裳を血で染めてしまうのだからもう観ておられない。大団円間近であったと思うがテレビを切った。グロテスクな演出への拒絶反応である。

それにくらべて昨夜の「アルミーダ」(ロッシーニ)は、予備知識なしに見始めたが、最後の最後まで舞台に引きつけられてしまった。とにかく歌が素晴らしい。次に出てくる歌を歌手がどのような技巧で歌うのだろうかとか、緊張が絶えないのである。超絶高音に超絶技巧を休みなく歌手に要求するロッシーニ、その挑戦を真っ向から受け止め果敢に立ち向かっていく歌手たちのバトルが私の心をとらえて放さない。とくに「ダマスカスの王女・魔女」、アルミーダを演じるルネ・フレミングと「アルミーダの恋人だった騎士」、リナルドを演じるローレンス・ブラウンリーの二人が舞台の上にいるともう目が離せない。ソプラノのみならずテナーもコロラトゥーラを実に頻繁に駆使するのである。幕間のインタビューでは、コロラトゥーラというよりはヴァリアンテというのか、歌手が自由に装飾的に歌うことが多いと言っていたように思う。いずれにせよなんとも華麗な歌唱に酔ってしまう。ローレンス・ブラウンリーの名前を新しく覚えてしまった。いわゆるロッシーニ・テナーなんだろうか。

見終わったあとで調べてみると、「The Metropolitan Opera」のホームページにその作品紹介があった。「アルミーダ」の初演は1817年11月にナポリのナポリ、サン・カルロ劇場で行われたとのことであるが、なんとメトロポリタンでは今回が初演なのである。さらにYoutubeを調べてみると、早くもこの公演のいくつかの場面が登録されている。その一つが次の「愛の二重唱」である。もうポーッとするしか仕方が無い。珍しいテナーの三重唱も併せて掲載しておく。これもまた感動的である。





ついでにアマゾンを見ると、この公演のDVDが2月7日に発売されていたのでさっそく注文してしまった。輸入盤でリージョンコードが1。だから手持ちのDVDプレーヤでは再生出来ないかも知れないが、その時はその時である。そのせいであろうか、価格は3490円で嘘みたいに安い。



NHK-BSハイビジョンでメトロポリタン・オペラを楽しむ

2011-02-23 21:59:02 | 音楽・美術
今週は嬉しいことにNHK-BSハイビジョンでメトロポリタン・オペラを観ることが出来る。第一夜は「ばらの騎士」(R.シュトラウス)で日曜日午後10時45分に始まり、終わるのが翌月曜日の午前2時25分の予定であった。こんな時間まで起きていられるかなと案じていたら、案の定、第一幕ですでにウツラウツラが始まった。目の前にベッド・シーンが演じられていたせいなのかも知れない。

しかし第二夜の「カルメン」(ビゼー)、これは始まったのが午後10時なので午前1時までは大丈夫、ということでじっくりと楽しんだ。物語の展開はもちろん、演出や舞台装置などにも注目したいところがたっぷりあるので、おちおち居眠りなどしておられなかった。ホセを演じるアラーニャはまさにはまり役といった感じで、ホセそのものになりきっている。一年ほど前にゲオルギューとアラーニャのメトロポリタンオペラ「つばめ」 迫真演技の謎?で、《2009年8月11日にゲオルギューが年末にメトでアラーニャと共演するはずの「カルメン」への出場を個人的な理由と言うことで取り消したので、この「つばめ」が二人の最後の共演舞台となったのだろうか。》と書いたが、二人の夫婦別れは現実のものになったのだろうか。そのゲオルギューに代わってカルメンを演じたのがエリーナ・ガランチャで、私はこの舞台が初対面であったが、もうぞっこん惚れ込んでしまった。歌といい演技に踊り、これまたカルメンそのものである。

外国で上演されたオペラがテレビで放映されるのは、たとえそれが1年以上前の舞台のものであろうと問題ではない。居ながらにして新しい演出とか舞台装置の工夫を目にすることが出来るからであるが、一番楽しみなのは新しい歌手にお目にかかれることである。エリーナ・ガランチャもそうで、「カルメン」を観た後で調べてみると、ラトヴィアのリガで1976年生まれとのこと。ヨーロッパの数々の舞台での活躍ぶりが報じられており、今や注目の的だそうであるが、私には初見参であった。つい最近もロシア生まれのソプラノ、アンナ・ネトレプコにYoutubeでたっぷりお目にかかったばかりだったので、もしかして二人のデュエットがあればと思い探したら、ちゃんと「ホフマンの舟歌」が登録されていた。人も歌も美しい。二曲目はLeo Delibesのオペラ「Lakme」からの「花の二重唱」。この二人にもう嵌ってしまった。





この「カルメン」については「After 24 Years, the Met Finally Has a Great ‘Carmen’ Again」との見出しで丁寧な舞台評があるので、興味のある方はご覧あれ。

夕べの「シモン・ボッカネグラ」(ヴェルディ)ではシモン役がなんとテナーならぬバリトンのプラシド・ドミンゴ。年齢を感じさせない熱唱と迫真の演技にただただ酔いしれる。ここでもシモンの娘を演じたアドリエンヌ・ピエチョンカに、その結婚相手であるジェノバの貴族を演じたテナーのマルチェルロ・ジョルダーニと二人の歌手を新に覚えて、その歌いっぷりを探す喜びが増えた。

それに楽しみなのがルネ・フレミングによる出演者のインタビューである。観客が知りたいようなことを実に上手に出演者に喋らす。幕間を利用しての限られた時間だけに、その簡にして要を得た問いかけがまた芸術的である。なんて書いているうちに10時からは「ハムレット」(トマ)が始まる。何はともあれ投稿を済ませて、手直しはあとに回そう。

岩田健太郎著『「患者様」が医療を壊す』あれこれ

2011-02-21 18:55:46 | 読書

タイトルが面白そうだったので本屋で見たときには中身も見ずに買い、この週末に読み上げた。著者の意見に頷くところが多いが、饒舌というのだろうか言葉数が無闇に多くて読むのに少々疲れた。さらに言えば、矛盾するようであるが、読みやすくて結構分かりにくいという印象を持った。この本を読んでも、なぜ『「患者様」が医療を壊す』のか、私には結局分からなかったのもそのせいなのかも知れない。

著者は医科大学を1997年に卒業して医者になり、海を渡って沖縄の県立病院で研修を受けてさらにアメリカに行き、ニューヨーク市の病院で3年間内科のトレーニングを受けた上に、感染症専門医になるために2年間の研鑽を重ねた。北京インターナショナルSOSクリニックや亀田総合病院勤務を経て2008年に神戸大学大学院医学研究科教授に就任、神戸大学医学部付属病院感染症内科診療科長とのことである。なかなかユニークな経歴である上に、医学部卒業後10年ほどで臨床の教授とはこれまた異例であろう。

それはともかく、臨床家として患者に接する日常体験に基づいて感じたこと、考えたことを話としてまとめているので難しい専門語が飛び出るわけでもなく、その意味では読みやすいのである。ところが喋りまくる。「患者か、患者様か」(23ページ)で、なぜ「患者様」が医療を壊すことになるのか、その手がかりがあるのかなと思って読んでも、岩田節?が炸裂しっぱなしで、話がなかなか先に進まない。そしてカタカナ語が気になる。この「患者か、患者様か」の小節にも「ポリティカリーにコレクトなボキャブラリー」なんて出てくるかと思うと、その続きの節は見出しそのものが「レトリックではなくダイアレクティク」とカタカナ表現になっている。これはやばいなと思っていると案の定「ルサンチマン」なんて、見たことはあるようだが私自身知らない言葉が出てきた。使ったことがないので(恥ずかしながら)意味が分からない。新明解には出てこないので広辞苑(第五版)を見ると、《①ニーチェの用語。弱者が強者に対する憎悪や復讐心を鬱積させていること。奴隷道徳の源泉であるとされる。》なんて出てきて、なるほど、私が知らなかったわけだと始めて納得する始末である。こういう調子でなにやかや引っかかる上に話があれもこれもと続くのでポイントがハッキリせず、だから分かりにくいのである。長々と書き連ねるのは誰でも出来る。推敲を重ねてピリッと引き締まった形にするには、現役の診療科の教授であるがゆえの時間不足だったのであろうと納得することにした。

ところで患者様ではなく患者が医者と良好な関係にあると、病気そのものもよくなるという話が出てくる。ではどのようにして良好な関係が生まれるかといえば、自分の主治医を心から信じればよいのである。そしてここに著者のひねりが入る。

主治医を信じるという「フィクション」に身を任せればよいのです。つまり、患者さんの方も心の底では、これはファンタジーだよ、とこっそり感じ取っていればよいのです。(47ページ)

またこうもいう。

 病院に来たら、そこには適切なファンタジーの手順というものがあるのです。それはヴァーチャルなものではありますが、有効な医者患者関係を築く上ではとても役に立つのです。それが、お医者さん「ごっこ」です。
 あなたの主治医は偉大です。あなたが心の底から信頼し、尊敬しても良いのです。
 というファンタジー。(49ページ)

そして「ごっこ」だから医者の方も適切に振る舞うことが期待される。

 患者さんは、「この先生についていきたいわ」と敬意を持ってついていくのが、「適切な振る舞い」です。それに応じる医者も「適切に」振る舞う必要があります。これが「お医者さんごっこ」というゲームのルールです。あるファンタジーを振る舞うという行為(ゲーム)には当然両者に了解されるルールが必要なのです。(53ページ)

この提案、間違っているとは思わない。しかしこの種の心理劇を演じるには患者・医者の双方がかなりの名優でないと終わりまで芝居がもたないのではなかろうか。医学生に患者と医者のロールプレイ(カタカナで失礼)を演じさせるのならともかく、そういう「演技」を普通の患者に期待するのは高望みではなかろうか。もっともルサンチマンなんて言葉をすらっといえるような知識人患者は別であろうが。そしてこんな話も出てくる。

 率直に言って、僕にとっての患者さんよりも自分の家族の方が大切です。患者さんの生活よりも自分の生活の方が大切です。(中略)僕は自分の家族のほうが、患者さんやその家族よりも大切、という世界観で生きています。(89ページ)

まったくその通り。でもそれは言わずもがなのことではないのか。八百長相撲の電子メールが出てきたようなものである。これでは患者が医者に抱きかけた「お医者さんごっこ」のファンタジーがペシャンコになってしまう。ファンタジーを持って貰わないといけないが、あまり美化されては迷惑なんだ、なんてことさら言わなくても誰にでも分かっていることではないか。先生とこ一家でエーゲ海クルーズに出かけてお休みなんだって、で文句をいう患者なんていないだろうに。実はこの部分、本では違う文脈で語られているのであるが、患者にファンタジーを抱かせればそれで十分と私が勝手に単純化したので、著者の言い分については本文に当たって頂きたい。

ところでこの本、臨床医を目指す医学部受験生が読めばいいのにと思った。たとえばこれからの医療のあり方について的確な意見が述べられている。これをやってのけるスーパードクターが社会で活躍するようになれば、医療現場がますます活気を帯びたものになっていくことだろう。

 いずれにしても、医療において「絶対的に」正しい行為や判断というものはだんだん減ってきており、「何が正しいか」という問いに対する簡単な答えは見つけにくくなっています。そこで、医療の現場を「正しい行為を行う場」というよりは「患者さんと価値観の交換を行う場」として機能させたほうがより健全なのではと思います。寿命を重視する人、仕事を重視する人、家族を重視する人、趣味を重視する人、それぞれの価値観に報じて「適切な」医療のあり方は異なってくるでしょう。(192ページ)

それでふと思ったが、この著者の岩田先生、一人ひとりの患者を診るのもよいが、厚生労働省で医療制度改革を積極的に推し進めていく役割を担われるのはいかがなものだろう。停年を迎える頃、この医療制度は僕が作ったんだ、と胸を張って言えるのも格好が良さそう。



菅総理に残されたのは暫定予算を成立させて衆議院を解散すること

2011-02-20 10:55:15 | 社会・政治
この頃の政治の動きはわけが分からない。あんなこと、こんなことがあったりして、平成23年度の予算案が成立しても、関連法案が国会を通る見込みがないから、予算の執行が止まってしまうということらしい。政治家はどのような方策でこの事態を切り抜けようとしているのだろうか。

私は宮中歌会始 菅第二次改造内閣 The Perfect Stormで、《わが日本国の舵取りをするのは、当面この内閣以外にはないのである。好き嫌いはともかく、この自称「実務協力推進内閣」はなんとか頑張っているなと国民の目に映る実績をとにかく挙げて欲しいものである。》と述べたものの、早くも先行きが危うくなってしまった。しかしもともと菅内閣はなぜ衆議院解散・総選挙をしないのか  追記有りとかリーダーの器でない菅総理と大臣に値しない柳田稔法相というような意見を持っているので、決して菅内閣を積極的に推していたわけでもない。

この時期に及んで菅総理の出来ること、しなければならないことは、暫定予算を成立させて衆議院を解散し、まずは国民に政権の選択を丸投げすることであろう。民主党のリーダーが誰になるにせよ単独過半数は間違い無く無理であろう。民主党に火中の栗を拾う次のリーダーが現れてもよいが、菅総理が昨日、一体改革実行前に「必ず選挙行う」と言ったことでもあり、税と社会保障の一体改革の骨子を前面に出して選挙戦に臨む体勢を組むのもよかろう。

解散前提の暫定予算成立にことさら反対する野党もないだろうから、解散・総選挙は早ければ早いほどよい。統一地方選挙とのかかわりで各党の党利党略が働いて、解散がすぐにとはならないかも知れないが、ここは菅さんの最後っ屁のほうがカードが上である。即刻カードを切るべきである。今の閉塞感さえ打破されれば、後のことはなるようになるものである。菅総理の一刻も早い決断を期待したい。

MARUZEN & ジュンク堂書店梅田店の在庫にない本

2011-02-18 20:38:45 | 読書
今日の朝日朝刊経済面に米国で約670店を抱える書店チェーン第2位のボーダーズ・グループが16日に倒産したとの記事があった。


ピークの2005年には1200店を超えていたが、米アマゾンのネット販売が広がるのと軌を一にして売上高が下降線をたどり、07年度にはボーダーズの売上高とアマゾンの北米での書籍などの販売額が逆転し、06年度からは赤字が続いていたそうである。

このニュースに、一昨日、MARUZEN&ジュンク堂書店梅田店で感じたあることを思いだした。この店舗は地下1階から7階までのフロアを占めるが、レジカウンターがあるのは1階だけである。すべての買い物客がこのカウンター前に一列で順番に並び、窓口が空くとそこに赴き、精算を済ませることになるのだが、私が並んだときの行列はせいぜい数人であった。窓口は5カ所以上あったせいか待ち行列の動きが早く、行列もほとんどないような状態でた。開店当日の賑わいとは大違いで、全館の買い物客がたったこれだけで果たして商売が成り立つのだろうかと気になったのである。そこでちょっとこんな計算をしてみた。

私が精算を済ませたのは午後3時半頃であったが、待ち行列から大体30秒間隔で一人の客が空いた窓口に向かっていたように思う。これを平均値とすると1分間に2人で1時間に120人。午前10時の開店から午後10時の閉店までに1440人となる。もし1人平均3000円買ったとすると、1日の売上高が432万円になる。年間営業日が360日なら総売上高は15億円強となる。一方(株)ジュンク堂書店の売上高推移を見ると、2008年が406億円、2009年が422億円、2010年が446億円と順調に増加しており慶賀にたえないが、全国にジュンク堂書店が30店舗以上あるとしても、旗艦店であるこの店の年間売り上げは15億円とは淋しい。もっと上回って欲しい気がする。もちろん店側には正確なデータがあるわけだから、ご心配ご無用と言われることを期待しよう。

私のような昔人間は、本はやはり本屋で手に取ってみるものなのである。ネット販売がいくら便利になっても自分の目で内容も確かめ納得のうえ買いたいものである。ところがこのMARUZEN & ジュンク堂書店梅田店で、ちょっとどうかと思うことがあった。本日開店 MARUZEN & ジュンク堂書店 梅田店へお出かけに書いたことであるが、この開店日に私は平凡社が発行したばかりの東洋文庫「訓民正音」を購入しようとした。ところが売り場にはなかったので店員さんに聞いたところ調べてくれて、「開店準備に取り紛れてまだ入荷していない」との返事が戻ってきた。ところが開店後50日以上経った一昨日もこの本が見当たらない。検索したところ、次のようなメッセージが返ってきた。


ここにもあるように昨年11月に発行された本である。しかも東洋文庫と言えば学術的ににも評価の高い作品を刊行していることでよく知られており、私に言わせると決してマイナーのものではない。それなのに新刊書が棚にも在庫にもないのには失望してしまった。取り寄せを依頼するよりは直接ネットで注文するほうが手っ取り早いので、帰宅早々アマゾンに発注した。ネット購入では確かに本を手にとって見ることが出来ない。しかし今やネット上でも目次とか最初の何ページかは閲覧可能である。これが訓民正音のページである。これを見たものだから私は即注文してしまったという次第である。

このMARUZEN&ジュンク堂書店梅田店は、「在庫数200万冊という品ぞろえは、これ以上広ければ陳列する本がないという規模の売り場面積です。日本中の出版社に出品を依頼して、この店に置いていなければ出版社にも在庫がないという品ぞろえを目指しました」をうたい文句にしているが、今は道半ばである。その実現にぜひ一層の努力を傾けて、今はせめて月に一度は神戸から訪れたいと思っているその回数を、もっと増やしたくなるような気分にさせて欲しいものである。


佐渡裕プロデュースオペラ2011「こうもり」のチケットをゲット

2011-02-17 17:12:31 | 音楽・美術
喜歌劇「こうもり」は私の大好きなものの一つ、それが佐渡裕プロデュースオペラ2011として上演されることになり、これまた大好きな塩田美奈子さんに森麻季さんが同じ舞台で競演する。それにCDでしか知らなかったあのカウンターテナー、コヴァルスキーも出るとあっては見逃すてはない。先行予約会員受け付け開始の今日、午前10時から電話とインターネットで、一番高い席でもC席を目標に申し込みを始めた。

先ず電話、かかるはずがない。11時ごろまでは「大変混み合っていますので・・・」の機械的なメッセージが流れるだけで、てんで相手にして貰えない。インターネットの方でも「兵庫県立芸術文化センター」の日本語サイトにすら入れない。しかし11時かなり過ぎた頃だろうかインターネットが繋がり、ようやく7月の公演予定から初日16日のチケット購入の手続きに入った。やっぱりE席D席はもう満席で残るC席も多くない。幸い2009年の「カルメン」を観た席から1番ずれた2席が空いていたので、それを申し込むことにした。ところが問題が発生、会員番号は記入できたが暗証番号を用意するのを忘れていたのである。思いつくところを探したが出てこない。暗証番号を忘れた人は電話で問い合わせるように指示が出ていたが、これは予約申し込みと同じ電話番号なので、簡単に繋がるはずがない。しかしこれが最後の手段とばかり、ひたすら再ダイヤルを繰り返した。

有難いことに今度は10分もしないうちに繋がり、事情を話したら、身元確認をされた上いったん電話を切り、折り返しの電話で暗証番号を知らせて貰った。インターネットに戻り暗証番号を入れて先に進もうとしたが、接続が時間切れのメッセージが帰ってきた。30分以上操作をしていなかったので、接続が切られたのであろう。そこで「戻る」を繰り返して「チケット購入」の画面に戻り、申し込み手続きを再開した。私がモタモタしているうちに、先ほどは座席ブロック内の残席数が6であったのに、今や2席しか残っていない。ところがよく見るとそれは私が確保しようとしていた2席なのである。有難や、と今度はスムーズに手続きを進め、目出度くC席チケットを手に入れたのである。「チケット予約完了通知」のメールのタイムスタンプは「2011/02/17 12:01:13」、たっぷり2時間を費やしての作業であった。一週間以内に窓口でチケットを購入して完了である。

私が始めて舞台でオペラを観たのが「こうもり」で、まだ学生の頃であった。確か労音の主催で、立川澄人さんが出ていた記憶がある。それ以来の「こうもり」ファンだから、それなりの年季が入っている。高画質のレーザーディスクが登場して、当時評判となったRoyal Operaの「Die Fledermaus」がリリースされた時に、思い切って再生装置共々購入した記憶がある。それ以来何回となく観ている。


178分におよぶ舞台が2枚のレーザーディスクの表裏、4面に納められており、価格は10300円。ということは消費税が3%の時代であり、1990年代の初めであろうか。歌手だとばかりに思っていたドミンゴの指揮には度肝をぬかれたが、キリ・テ・カナワやヘルマン・プライなど好きな歌手の歌と演技を始めとして、オルロフスキー公爵の館での華やかな舞踏会の場面など、何回見ても楽しい。現在この映像は小学館刊行の「魅惑のオペラ」シリーズ第7巻のDVDで観ることができる。芸文センターでの公演まで、2、3回は観ることになりそうである。


阪大医学部の不正経理について思うこと 加筆あり

2011-02-15 22:44:30 | 学問・教育・研究
この事件の速報は昨年夏にあったが、その最終調査結果が今回公表された。公表されたといっても、私が知り得たのは大阪大学のホームページからアクセス出来る「調査結果の概要」に過ぎない。一部の新聞は購入した物品について、低俗な興味を掻きたてるような報道をしているが、どのような経路でその情報を入手したのか分からない。

正直なところ、かっては私も身を置いていた大学での出来事が、このようなスキャンダルとして世間に広がるのは堪忍して欲しいという思いがある。苦しい財政状況であるにもかかわらず、教育・研究の灯をか細くさせまいと政府が来年度予算案で、科学研究費については本年度予算より230億円増の2230億円を計上し、目下国会で審議が進められている最中である。このスキャンダルが逆風を引き起こさないことを祈るのみである。

私はここで不正経理という言葉を使っているが、報道で使われているからそれを踏襲したまでで、具体的にその内容を理解しているわけではない。それでも定められたルールから外れた予算の使い方をしたことを指しているのだろうなとは想像出来る。しかし、そのルールが必ずしも研究現場の実態に合わないものであれば、研究者はきわめて合理的な判断をする能力に秀でている(筈だ)から、予算をより有効に使うために知恵を働かせるだろうとは容易に推測可能である。だから過去に不正経理にかかわったり見聞きしたことはありませんかと問われると、白鵬関に倣うわけではないが、「それはないとしか言えないじゃないですか」と公には言わざるを得なくなりそうである。

たとえば科研費を申請して、3年間で目標を達成する(つもりの)研究計画が認められたとする。研究が開始されると研究室は戦場である。といっても幸い実弾は飛んで来るわけではないから、3年間は休戦や停戦を抜きに一心不乱ひたすら勝利を目指して突進する。もしルール通りにまず1年目の予算を遣い終えたら、改めて事務手続きを済ませて継続が公に認められるまでの数ヶ月間、業者からは何を買っても借りてもいけないと決められると、否応なしに研究はストップしてしまう。そういう事態が生じないように研究者はそれぞれ知恵を働かせたのであるが、表面だけを眺めると不正経理になってしまうのであろう。こういう矛盾に長年苦しめられてきた研究者の切なる要望に応えて、「最先端研究開発支援プログラム」の研究費は多年度での運用が可能になったが、この手法が科研費にも適用されるようになったとのことである。そうなると「架空伝票操作による物品の購入」は根絶可能であり、また根絶すべきなのである。

私が大学院学生だったほぼ半世紀前は、年に一二回ある学会での研究発表に出席しようとすると、経費は旅費を含めてまったく自分で工面しなければならなかった。奨学金を貯めアルバイトで稼ぎ費用をひねり出していた。ところが私が教員となり、時代も遙かに下ってくるにつけ、大学院生に旅費を出す研究室も現れてきた。そのような使用が認められた寄付金でもない限り出来ないことである。ところが現実には大学院生に旅費を出す研究室が増えてきた。ではどこからお金をひねり出したかというと、これはもう豊かな想像力を働かせていただくしかない。しかし今や大学院生にも原則として旅費の支出が可能になっている。えらい様変わりであるが、ようやく研究の実態に即した予算の使い方に改められたことはご同慶の至りである。

このように社会の取り組みが前向きに進んできたのに反して、伝えられる限り阪大の今回の不正経理の手法があまりにも古典的なので、私はタイムスリップしたかのような錯覚を覚えた。今回の事件で阪大総長コメントが出ていて、次のような一節がある。

 不正使用防止につきましては、本学においても、これまで、研究費の管理・監査体制や関係制度の整備、教職員の行動規範の策定等、様々な取組みを推進してまいりましたが、それでもこのような事態が生じたことを重く受け止め、本学において、二度とこのような事態を引き起こさないという決意の下、今回の事案を踏まえての再発防止策をとりまとめ、その一部については既に実施しているところです。

この強調部分が実際に働いているのなら今回のような不正経理が起こりようがないはずである。しかし現実に起こった以上、この強調部分がただの飾り文句にすぎなかったのか、それとも具体的な取り組みが実効を発揮しえなかったのかということになるが、いずれにせよ不正経理が行われたという現実の前には、この強調部分が色あせてしまうことは事実であろう。新機軸の「不正経理手技」が持ち込まれたのならともかく、旧態依然の手法がそのまままかり通ったのであるから、大学側の管理体制がなっていなかったことになる。しかし考えてみれば、この大阪大学の「おおらかさ」こそ学術研究の場に相応しいもので、糾弾されるべきなのはあくまでも不正を働いた側である。このようなスキャンダルがあったからとて、不正経理防止を旗印に煩雑な事務手続きを増やすことになれば、角を矯めて牛を殺すことになりかねない。理性的な対処を期待したい。

不正経理の状況を朝日新聞は次のように報じている。

 研究費の不正使用が判明したのは、森本特任教授が昨年3月まで教授を務めていた環境医学講座の研究室。大阪大の調査委員会は2004年4月から6年2カ月分の資料を調べ、関係者に聞き取りをしてきた。

 その結果、研究員のカラ出張1328万円、森本特任教授のカラ出張362万円や海外出張で事前の届け出と違う413万円、さらに消耗品を買ったことにして実際はパソコンや家族へのブルーレイ・ディスクプレーヤーを買うなど架空伝票操作での物品購入1593万円、タクシー代335万円など不適切な使い方をした分も含め計4176万円を不正使用と認定した。この間に受けた研究費は計約2億2500万円。不正支出は森本特任教授の指示や認識のもとで行われたとした。

これだけ巨額の研究費補助を受けていながら、研究目的の達成に何が不足だったのだろう。あり得るはずがないと思うのに、約2億2500万円の研究費のうち、不正使用と認定されたのが4176万円とは多すぎる。しかしこの4176万円の具体的な使い道が詳細に示されていないので、なぜそこまでして「裏金」を作らなければならなかったのか、動機が見えてこない。ただ断言出来るのは、この研究室には「金余り現象」が発生していたということである。

かって私は最先端研究開発支援プログラムを凍結出来なかった民主党で次のような引用をしたことがある。これは最先端研究開発支援プログラム問題についての引用であるが、科研費一般を対象にしても言えることであると思う。民主党科学技術政策ワーキングチームの一員である参議院議員藤末健三氏が、研究者のなかから指摘された問題点を紹介したものである。

 採択プロジェクトが決定した後、本制度には直接関係がない私のところにも数多くの研究者や関係者から問題を指摘するメールが入りました。直接私の事務所まで来られた方も何人もいらっしゃいます。

 こうした話をまとめると、

(1)すでに十分な研究費をもった研究者に研究費が集中しすぎ。若手研究者に研究費を回すべき。著名な研究者に数十億円の研究費が集まると、その研究者に多くの若手研究者が集まらざるを得ず、若い研究者が新しいテーマに挑戦する機会を逆に奪ってしまう
(2)巨額の研究費の配分を決めるにしては審査手続きが不十分。実際、相当な労力を使い申請書を書いたのに数十分くらいの審査で終わった。審査委員が研究分野の専門家ではないことも問題。
(3)研究費が大きすぎて、研究費がずさんな使われ方をするのではないか。例えば、研究評価は総合科学技術会議が実施することになっているが、これでいいのか疑問。プロジェクトを選択した組織が、自分自身が選択したプロジェクトを失敗だと評価するはずがないの3点に問題点はまとめられるように思います。

研究費が一部の研究者へ集中することの弊害が、研究者自身によって的確に指摘されている。「金余り現象」を生み出す一部の研究者への研究費集中、これを排除するための方策を立てることが焦眉の急であろう。

それと同時に、すでに実施されているのかも知れないが、科学研究費すべてに亘って、未使用予算の返却を義務づける制度がなければならない。水増し予算が通って処理に困っては大変だし、上手に予算を使って余らせたとやりくりの才を誇る人が出てくるのもよい。世の中万事、計算通りにことが運ぶわけではない。ただ辻褄合わせで見かけを飾るのがほとんどであろう。そうではなく、必要なものならコンドームであれ得体の知れない本であれ、何でも買いこめばよいのである。

私はかって研究費でパンティストッキングを買えるようにのような記事を書いたことがあるので、コンドームぐらいで驚きはしない。誰も思いつかなかった発想こそ研究者の命である。取材記者が不審を抱いたのであれば、とことん経緯を追求した上で、たとえばコンドームがいかに無駄な出費であったのかを読者に納得させるぐらいの意気込みが欲しいものである。それが今回は見えてこなかった。もちろん研究者が購入物品がどこでどのように研究に使われたのか、当然説明と報告の義務があるが、そこまで調査がなされたのかどうかも分からない。

少し脱線を元に戻せば、大阪大学の調査結果(概要)で私が注目したのは「特任研究員等の給与の支給と一部戻し」の部分である。

(4)特任研究員等の給与の支給と一部戻し
○ 特任研究員が欠勤している期間について、970,427円の給与が支払われている。
○ 特任研究員等5人が、支払われた給与から少なくとも合計3,781,057円を研究室に戻している。

過去の産経新聞に次のような記事があった。

 大阪大学大学院医学系研究科・医学部の元教授(64)の研究室で、非常勤の研究員が毎月、大学から受け取った給与の約半額を“キックバック”の形で研究室内の事務担当者に返金するよう研究室側から指示され、その金は部外者に分からないようプールされていた疑いがあることが12日、産経新聞の取材で明らかになった。阪大は公金である研究員の給与が、返金させられた事態を重くみて、学内で調査委員会を立ち上げ本格調査に乗り出すとともに、文部科学省にも通報した。

 阪大や複数の関係者によると、要求されていたのは中国籍の30代男性。

 この男性は、独立行政法人「科学技術振興機構」(JST)から、この元教授の研究室が受託した研究に携わるため、平成20年5月から阪大と雇用契約を結び、「特任研究員」と呼ばれる非常勤の研究員として勤務していた。JSTは16~21年度の6年間、研究費として約5千数百万円を阪大に支給しており、阪大はこの中から研究員に給与を支払っていた。

 研究員の給与は原則的に時給制で、就業時間などの雇用条件は研究室で決定できるといい、男性は当初、毎月約10万円の給与を受け取っていた。

 ところが20年秋ごろ、研究室の会計担当者らから、「JSTの研究費が700万円余るので使い切りたい。手取り分として5万円を上乗せするから、振り込んだうち半分を返金してほしい」と持ちかけられ、了承した。

 翌月から約1年間、男性の銀行口座には毎月三十数万円が振り込まれるようになったが、男性は約半額の15万円程度を毎回引き出し、事務担当者に現金で手渡していた。事務担当者はこの金を研究室関係者の名義とみられる口座に入金していたという。キックバックの総額は200万円前後に上るとみられるという。

 男性は産経新聞の取材に「要求を断り切れなかった。働き続けたかったので、大学に通報もできなかった」と話している。

「キックバック」の実態についてことさら説明を付け加えるまでもなかろう。それにしても口入れ屋のピンハネまがいとはあまりにも古すぎる。これではまるでかっての政治家と変わりがないではないか。それよりも注目すべきなのは、この研究費の出所が独立行政法人「科学技術振興機構」(JST)になっていることなのである。文部科学省は広い意味の科学研究費を「日本学術振興会」と「科学技術振興機構」という二つの窓口を通じで研究者に研究費を配っている。文科省での日本学術振興会と科学技術振興機構の共存が基礎科学の発展を邪魔するで述べたが、この制度こそ《すでに十分な研究費をもった研究者に研究費が集中しすぎ》を生んでいるのであって、阪大のケースがそれに当たると言えよう。《すでに十分な研究費をもった研究者に研究費が集中しすぎ》を防ぐにはどうすればよいのか。具体策を作り上げていくのにぜひ考慮すべきなのは、この程度の仕事(研究)にどれぐらいお金がかかるのかを見抜く目の存在である。私は楽観的かも知れないが、ある程度の研究生活を経験している人なら、そのようなことは調べ上げる能力を確実に持っていると思う。そういう人たちをどんどん活用すればよいのである。

もう一つ気になったのが旅費がきわめて高額になっていることである。これも阪大の調査報告である。

(1)旅費
○ 森本教授について、平成16年度以降、3,626,310円のカラ出張等が認められる。
○ 研究室の助教等の名義の旅費について、平成16年度以降、13,288,670円のカラ出張等が認められる。
○ 森本教授の海外出張について、出張伺いと実際の出張の内容が不一致なものがあり、4,134,295円を返還する必要があると認められる。
○ 森本教授の海外出張における出張旅費の内453,690円については、森本教授の家族の旅費であると認められる。


「旅費」と名目がつくと阪大では無条件に支出が認められているようである。私の現役時代は確か旅費は総予算の何%以内と決められていたような気がするが、今やその制限がなくなったのだろうか。上記の産経新聞記事に次のような下りがある。

 元教授は産経新聞の取材に対し「私は教授なので出張が多くすべて担当制にしていた。担当者に責任を持ってやってもらっている」と釈明し、関与を否定している。

世間の人は「私は教授なので出張が多い」と聞けば、なるほど、外での用事が多くなるんだ、と納得するかも知れない。さらには大学に、研究室にほとんど居ない教授ほど偉い人と思うかも知れないが、それは本末転倒である。自分の主宰する研究室を留守がちにしてまで政府関係の各種委員会を始めとして、各種学会の会議や研究会等々に顔を出すのを生き甲斐のようにしているような教授は、実験一筋の科学者には、うさんくさくてまともには見えないのである。(私はプロフェッショナルな「科学管理職」が日本に確立していないものだから、古手の教授がその役割のある面を担わされているのが現実だと認識している。それが米国では科学者や研究者がそれまで属していた研究分野から転進して担うべき職務になっている。日本でもたとえば一定年齢以上の教授を「科学管理職兼教育者」と「研究者」に制度的に分離すれば、論文に名前だけを載せる教授は存在し得なくてってすっきりとする。)もちろん政府関係委員会の仕事などは頼まれてのことであろうが、それも人の頼みを断れないただの尻軽なお人好しに過ぎないと言ってしまえばそれまでのことである。研究現場にでんと構えてこそ研究者なのである。私がここまで言いきるのは、学部長の要職を務めながらも、時間が少しでもあれば寸暇を惜しんで自ら実験に没頭し、また教室員をつかまえては、口角泡を飛ばす議論に引きずり込むのを常としていた、ある医学部教授を長年身近に見てきたからなのである。

現に「私は教授なので出張が多くすべて担当制にしていた。担当者に責任を持ってやってもらっている」と言っていた元教授だからこそ、世間から糾弾されるような不祥事を引き起こしたとも言えよう。若い研究者の妥協しない眼差しが、こうした似非研究者をいたたまれなくさせるようになれば、日本の科学研究環境が大きく変わることは間違いない。

お断り(2月17日)
少々修正した上、舌足らずを補うために加筆した。




JR舞子駅での人身事故報道のその後

2011-02-13 20:45:27 | Weblog
JR山陽本線舞子駅には数えるほどしか乗降したことがないので印象が薄いが、昨年の暮れに快速電車から降りた主婦がホームから転落し、動き出した電車に挟まれて死亡したとのニュースに接した時には、あり得るはずがないという思いから、いったいどのような状況で事故が発生したのか知りたいと思った。ところが私が調べた限りでは、事故発生の経緯すら納得出来るような報道がないのである。そういうことをJR舞子駅での人身事故 新聞もつぶやくだけ?で述べたのが、昨年の12月23日である。

今日の朝日朝刊の社会面に、広告を除いた紙面のほぼ半分をつかって、次のような見出しで始まる記事が載っていた。


JR西は1月末、舞子駅で先頭車両同士の連結部が止まる場所3カ所のうち、車掌から最も遠い1カ所にのみ固定柵(幅約2.5メートル、高さ約1.2メートいる)を新設した。

との対策がなされたことをうけての記事であろう。そして今まで曖昧模糊であった事故の状況が少し分かってきた。朝日新聞記者が亡くなった主婦の夫に取材したからである。

 兵庫県警によると、同市西区の主婦が電車からホームに降りた後、4、5両目の連結部付近でふらついて、頭から線路に転落した。先頭車両同士が連結された部分で、通常の連結部にある転落防止用のガードがなかった。
 主婦はすぐに立ち上がり、ホーム上に頭を出した。しかし、約160メートル離れた最後部の車掌は転落に気付かず、直後に動き出した電車とホームに挟まれて死亡した。(中略)

 (主婦は)飲食店のアルバイトなど四つの仕事を掛け持ちし、当日も日本料理店で勤務した帰りだった。会社員の夫は事故同夜、勤務先から帰宅しない妻を心配し、携帯に電話をかけ続けた。10回ほどかけた時、電話に出た警察官は「奥様は亡くなられました」と告げた。
 「直線のホームなのに、車掌はなぜ見えへんかったんやろ」。夫はインターネットで情報を探そうとしたが、「酔っぱらい」「間抜けな死に方」と書き込まれた掲示板を見て、パソコンを閉じた。

これで一つ分かったことがある。この主婦はホームから転落したがすぐに自力で立ち上がり、ホーム上に頭を出したというのである。私の疑問はブログで次のように書いたが、自力で立ち上がることまでは想像もしなかった。だからこそ気がついた人が彼女をホーム上に引き揚げようとしたのだろうか。つくづく車掌の気づかなかったことが悔やまれる。さらには悔いても詮無いことであるが、この主婦はなぜ頭をホームの上に出すのではなく、ホームの下にある待避空間に入らなかったのだろうか。咄嗟の判断を間違えたのが残念である。

被害者について、asahi.comは《ホームにいた女性が停車中の快速電車の連結部分から線路に転落。その後、電車が発車し、異常に気付いて車掌が約10メートル先で停車させたが、女性は死亡したという》のように《線路に転落》と報じたが、NHK、産経ニュース、読売新聞、時事通信なども《線路に転落》とこれに与している。ところが共同通信は垂水署への取材として《女性がホームと車両の間に頭を挟まれた状態で電車が進んでいた》と報じており、線路への転落とは明らかに状況が異なる。共同通信から配信を受けたのだろうか日刊スポーツも同じ内容である。微妙なのが毎日新聞で《ホームから車両間の連結部分に転落》というから、線路上に転落とは受け取りにくく、どちらかと言えば共同通信の線に沿っている。いずれにせよ線路上に落下していたのか途中で止まっていたのか、私には判断のしようがない。

しかし依然として主婦が酔っていたのかどうかへの疑問は残されたままである。何がどうなのかを次のようにブログに書いた。

毎日新聞はこの被害女性が《友人の女性(28)と同県加古川市で飲食し、事故当時は酔っていたらしい》と報じており、日経も《女性2人は同県加古川市で飲酒し、帰宅する途中》と伝えている。私が最初に見たasahi.comでは女性が飲酒したとか酩酊状態であったとかの報道は皆無であった。未だに真偽の確かめようはないが、女性が酩酊状態にあったとすれば、この人身事故に対する世間の見方が大きく変わってくるかもしれない。

今日の朝日の記事は最初の報道のように酩酊状態の有無には触れないという線を貫いているようである。被害者の血中アルコール濃度を取材すれば済むことであろうに、それを黙殺していることには不審を感じる。

「対策あれば救えた」というこの見出しは正論である。しかし、である。ホームから転落すると危ないというのは誰しも心得ていることであろう。転落すれば頭を打つこともあれば足をくじくこともあろう。そういう危険性を乗客が心得ていることを前提に交通機関が危険対策を立てるべきで、思いつくまま、言われるままの安全策を実施に移すにはお金が幾らあっても足りないだろうし、それはすべて乗客の負担に跳ね返ってくる。そこでどうも気になるのがJR舞子駅での柵の設置法である。記事を繰り返すとJR西は1月末、舞子駅で先頭車両同士の連結部が止まる場所3カ所のうち、車掌から最も遠い1カ所にのみ固定柵(幅約2.5メートル、高さ約1.2メートいる)を新設したの部分である。転落防止柵を文字どおり受け取れば連結部が止まる場所3カ所すべてに柵を設置すべきであろう。車掌の目の届く範囲ならすぐに気がつくだろうから、ここは設置しなくても済む、では筋が通らない。

JRとしてはホームから落ちないように元来は乗客が気をつけるべきであるのに、乗客何万人か何十万人か、または何百万人に1人の割合で、原因は何であれ結果としてホームから転落する希有な人のために、無駄な費用はかけたくないという発想で今回の処置になったのではないか、とげすの勘ぐりが働いた。しかしかりにこの勘ぐりが事実であったとしても、柵の設置に関しては私はJRの判断を支持したい。しかし異常が発生したことを車掌、もしくは運転士に即刻知らせる有効な手段を整備することは、これまた安全対策の基本として徹底すべきであろう。