日々是好日

身辺雑記です。今昔あれこれ思い出の記も。ご用とお急ぎでない方はどうぞ・・・。

庭仕事から大学制度へ話が飛ぶ

2008-11-29 22:14:50 | 学問・教育・研究
古希を過ぎてどうしたことか庭仕事を始めた。庭木の植え替えこそ庭師さんにお願いしたが、花壇にテラスなどすべて私の手作りである。ようやく全体の形が見えてきたが本格的な完成は年を越えそうである。試行錯誤の繰り返しが多いせいである。そして草花に野菜も育て始めたが、そこで思い知らされたのは私が卒業した理学部生物学科で習ったことがわずかな例外を除いて何一つ役に立たないと言うことであった。

肥料の三要素が窒素、リン、カリであると言われてはじめてそれと認識したし、ましてや窒素が茎や葉を育て、花にはリンが根にはカリが大切だなんて頭の片隅にすらなかった。見覚えのあるのは窒素、リン、カリをそれぞれ表す元素記号のN、P、Kぐらいだった。

草花を育てるのに土が大切だと言われても、現実に瓦礫混ざりの粘土質の土壌をどのようにすればいいのか、これもさっぱり分からない。庭師さんに本格的に植物栽培に適した土にするには土をトラックで運んできて入れ替えないといけない、なんて言われてもそこまでする気は起こらなかった。そこで花壇の土だけは赤玉土や腐葉土に牛糞などをホームセンターで買ってきて適当に混ぜ合わせてそれらしきものにしたが、それ以外のところではその場その場で部分的な改良に止めている。

夏前に花一輪つけたヒマワリの苗を買ってきて地植えにしたが大きくならずに失敗、ブルーベリーも接ぎ木で丈夫だからと言われて買ってきたが、これもいつの間にか枯れてしまった。来年の結実を期待してジューンベリーに最近植え替えたところである。♪サルビヤは赤いぞ、と歌の文句に誘われて植えた苗は大きく育ち、何種類かのコリウスは美しい葉色で楽しませてくれた。しかしパンジーとかビオラがどうも大きくならない。手引き書を見ても花壇で育てるのなら最初水やりをしっかりしたら後はほっとけ、と言うのもあるし、液体肥料を一週間に一度はやりましょうと言うのもあるので、何を信じて良いのか分からない。そうこうしているうちに地元のCOOPが園芸の三回講座を催すことを知って参加を申し込み、一回二時間、計六時間のレッスンを受けることになった。

講師の話は昨今の園芸事情から始まり、用土、肥料、害虫退治に病気の予防などに及んだ。私の知りたいことを次から次へと話してくれるので、全てが頭の中にすーっと入っていく感じだった。疑問には的確な答えが返ってくる。自分でも園芸店を経営している人の話だから、何事も具体的でなかなか説得力に富んでいた。ホームセンターなどえ溢れかえっている肥料や農薬などについてもどのように選ぶのが良いのか、業界の裏話を交えた説明はきわめて実用性が高い。たとえばバラの肥料とか、ブルーベリーの肥料とか特化したものがいかに割高であるか、それを避けるためには特化肥料に似たN:P:K比の一般肥料を買えばよいとか、そういう実用的な知識を授けていただく。

世間にはたとえば液体肥料を1000倍に希釈すると言われてもどうすればよいのか分からないから、希釈済みですぐに使えるボトルを原液と同じ値段で買う人も結構多いなんて話を聞くと、この時はメスシリンダーを使って試薬作りをした化学の実験室実習が生きていることを実感した。希釈さえ出来れば原液を買うことで、単純計算であるが、1000分の1の費用で済むからである。

最後の30分は実習と言うことで寄せ植えをした。



この材料の一つがパンジーである。講師によると花を咲かせたパンジーの苗を買った時点で、すでにパンジーは瀕死の状態にあると言うのである。花は花を咲かせたらあとは種を作りそれで終わりだからだそうである。従って苗を地植えにする場合に、最初の1ヶ月は花が開けばそれを摘んで花を咲かせないようにする。そして花を咲かせようと思う時まで株を大きく育てるのだ大切だという。花咲じいさんでもあるまいし、自分でどうして花を咲かせる時を決められるんだろうと不思議に思ったが、話を聞いているうちに疑問が氷解した。その時期が来るまではとにかく花を摘む。そうすると株が大きく成長しつぼみがだんだんと増えていく。だから3月始めに咲かせようと思えばそれまではとにかく花を摘む。いよいよ咲かせる時が来たらそこで花を摘むのを止めればいいのである。ただそれだけ、なんとも分かりやすい話でまさに目から鱗であった。上手にすると一株がシーズンの間に400個以上もの花を咲かせるそうである。こういう調子なので全ての話に熱中したのである。

ここで私が園芸をするのに大学で習ったことはNPKと希釈のことを除いては何も役に立っていないということに話を戻す。この園芸セミナーで必要なことは、講師の喋る言葉そのものとその意味が理解できることなのである。配られた教材を読む能力も必要であるしまた簡単な計算が出来た方がよい。いわば古くから言われている「読み書きそろばん」の能力が備わっておれば講師の話にはちゃんとついていけるのである。「読み書きそろばん」の能力は小・中学校の義務教育で最低限必要なことは身につくであろう。もう少し高度な基本知識を身につけたいと思うものだけが高校に進むか、生計を立てる上で必要な実用的知識を授けてくれる専門学校などで学んでいけばよい。大学なんて無くて済む。そう考えると大学に進むのはよほどの変わり者で、学者になりたいと考えるのはその最たるものであろう。

一方、大学で教えなければならないものて何だろう。医者、農・工技術者のような実学者や教師を目指す学生に対しては最低限教えなければならないことが自ずと定まってくるだろうが、これはそれぞれの専門学校、師範・高等師範学校で十分教えられることである。弁護士や裁判官などももちろん実学系になる。戦前は医学専門学校、工業専門学校、農業・農林専門学校などからは有能な技術者が輩出していた。こういう実学系学校が戦後大学に統合されていったからここに大学教育制度の混乱が生じたのである。

実学系で何を学ぶべきか、目標がはっきりしている場合には教えなければならないことも焦点を絞りやすい。しかし理学部や文学部のようなアカデミックな分野では発展の可能性が無限にあるものだから、教える目標を定めること自体本来は無意味なのである。結局教師一人ひとりが自分が教えられることを喋っているだけのことであって、もともと実生活にすぐに役立つような知識を授けるわけではない。というより実用的なことを講義しておれば同僚・学生にバカにされるので、ことさら高踏的な話をしては自分で酔ったりする。戦後の大学乱立時代にその存在理由を深く考えること無しに(と私は思っている)各種専門学校を大学に統合・昇格させたばっかりに、実学教授の面が見せかけのアカデミズムに『毒されて』弱体化してアカデミックでもなければ実学教育でもない中途半端な名ばかり大学が蔓延ることになったのである。専門学校を形だけの大学にすべきではなかったのである。

大学は元来アカデミックなものでなければならない。その大学のなかに実学を目指すべき専門学校が取り込まれ、両者の境界が曖昧になるばかりではなく実学の影が薄くなるとともにアカデミック大学そのものの全般的な弱体化されてしまったと私は思う。大学が改めて実学とアカデミズムとに分かれるべき時期がすでに来ているのであり、昨今取り沙汰されている「大学の質の保証」はアカデミズムへの回帰を強調したものと受け取ればよい。そのためにはまず実学系を分離すべきなのである。以前にも私が教員にも通信簿というご時世? 自己評価制度を作る阿呆に乗る阿呆で《私は国立大学の大規模な統廃合が避けられない時期が必ずやってくると見ている。最終的には旧帝大を核としてその倍ぐらいは残るかも知れない。道州制の先行きとも密接に関連してくるだろう。》と述べたが、これはアカデミック大学を指しているのである。このアカデミック大学から脱落した大学は、名称はともかく、実体がかっての『専門学校』に戻るべきなのである。この問題はまたあらためて取り上げることにする。

園芸セミナーで実学とアカデミズムとの乖離を実感したことが、私の持論をさらに展開させることになった。


ぐるっぽユーモア風オペラ 今年は「フィガロの結婚」

2008-11-25 12:59:58 | 音楽・美術
勤労感謝の日、今年も西宮の兵庫県芸文センター中ホールで「ぐるっぽユーモア」のオペラ公演があった。出し物はおなじみ「フィガロの結婚」で、平成11年に続いて二度目のステージであるが私は今回が初めてである。指揮者・岡崎よしこさんと今回が初デビューのピアニスト・橋爪由美子さんが登場、ピアノから転がるように流れ出てくる軽快な序曲に合わせて舞台に横並びの出演者によるコーラスが始まった。元来なら序曲はオーケストラ演奏なのに、と思って耳を傾けると、これから始まる物語のあらすじを歌で紹介しているのである。日本語の発音がよいからちゃんと聞き取れる。そして幕が上がりフィガロとスザンナによる掛け合いの二重唱が始まった。

ポピュラーな「フィガロの結婚」だし、プログラムに全四幕の解説が要領よくまとめられているので話の展開が分かりやすい。フィガロとスザンナに加えてバルトロ、マルチェリーナ、ケルビーノ、バジリオ、伯爵と役者が舞台の上に出揃う頃には、早くも舞台と観客席との一体感が醸し出されていたようだ。なんだか出演者の皆さん、歌にそして芝居がなかなかお上手になって、だから舞台も引き締まっているのである。これは私だけの印象ではなく、後で話を交わした何人かの方の意見もそうだった。第二幕で伯爵夫人ロジーナが登場して、スザンナ、ケルビーノと合わせてソプラノ勢がなかなか達者な歌い振りで舞台を華やかに盛り上げる。ロジーナ、スザンナの「手紙の二重唱」などは、「素人」を強調されたらそれが嫌みに聞こえるぐらい美しかった。舞台が引き締まっているもう一つの要素は、皆さんの演技がお上手になってきたことで、スザンナがロジーナと共謀して伯爵を騙して裏庭に誘い出そうとするコケティッシュな演技の迫真性に、手玉に取られる好色者の伯爵に同情を覚えたぐらいだったのである。

男性陣もフィガロと伯爵の二本柱はベテランで固めていたのだろうか、奮闘振りが目立った。しかし違和感もなきにしもあらずであった。幕開けに登場するフィガロは存在感がありすぎて、伯爵の従僕と言うよりは老執事の風貌。素のままで役を演じることでおかしみを生み出すのが「ぐるっぽユーモア」ならではの持ち味と言えないこともないが、一生懸命にそれと分かる若作りをしてそれで笑いを誘う演出もあったのでは、と思った。フィガロが自分より遙かに?若く見える女中頭マルチェリーナの子供であることが分かり、「ママ」と呼びかけてその倒錯の面白みに観客が拍手喝采したにせよ、である。フィガロにスザンナ、バルトロにマルチェリーナの二組に加えてバジリオまで結婚させられるお遊びにはニヤリとしたが、それにしても舞台での演技・台詞に観客が思わず笑声をあげ拍手する場面がこれまでになく多かったのは、間違いなく出演者がうまくなったせいである。うまくなった、なんて仲間か、さらには上からのような言いぐさであるが、自然にそういう言葉が出てくるのは親近感のなせるわざとお許しあれ。

一幕と二幕、間に20分の休憩を挟んでさらに三幕と四幕、全公演時間はおよそ150分と長丁場であったはずだが、軽妙に流れる舞台に時間を感じなかった。最後に出演者を代表して「伯爵」が挨拶をしたがそれがまた出色、日ごろの精進振りから家族への感謝など言いたいことが山ほどあったのだろう、他のメンバーが時間を気にしだしても長々と話が続く、ついには出演者に引き戻されてしまったが、思いがけないハプニングも大いに楽しませて貰った。この口上がやりたいことをやって自ら楽しみ人をも楽しませる出演者の「あるお目出度たさかげん」を体現しているように思えたからである。これぞ「ぐるっぽユーモア」の神髄ではなかろうか。

今回も座席数800の芸文センター中ホールは満席だった。よくあるお稽古ごとの発表会などでは義理でのお付き合いがほとんどであろうが、「ぐるっぽユーモア」の公演ではそのような観客は一人も居ないことだろう。出演者の家族とか知己も多いかも知れないが、それでも皆楽しみにして来ていることでは観客一同である。会場を満席にすることに気を遣わなくてもすむ、プロも羨む素人集団「ぐるっぽユーモア」はそれだけでも特筆に値する存在であると思う。サポーターである観客も含めたユニークな演劇活動として遙か彼方への到達点を目指してますます発展していただきたいものである。来年はオッフェンバックの「天国と地獄」とか、新機軸が今から楽しみである。


朝日社説子に欲しいプロ意識

2008-11-22 12:32:33 | Weblog

朝日朝刊(11月21日)の社説の冒頭部分である。

《首相はこう述べた。「(医師は)社会的常識がかなり欠落している人が多い。価値観なんかが違う」
 何を言いたくてこの発言になったのかよく分からないが・・・》(強調は引用者、以下同じ)の強調部分のところで私は首を傾げた。この引用部分の言わんとするところは私も同感である。現に20日のエントリー麻生首相の「医師、社会常識欠落した人多い」発言に思うことで、首相の発言がどういう話の流れで出てきたのか、またその真意が分からないと述べた。しかし《取材したマスメディア関係者も同じような疑問を持ったのではなかろうかと思うのに、この『問題発言』の真意を首相に質した関係者が一人も居なかったのだろうか。それが不思議である。》と続けているのである。

朝日社説子は首相がこの『問題発言』で何を言いたかったのか、それがよく分からないと私と同じ疑問を持ったのだからごくふつうの常識を備えていると言える。しかし新聞を作る側が読む側と同じになって何を言いたくてこの発言になったのかよく分からないがなんて言うのでは様にならない。発言者の発するメッセージを正しく読む側に伝えるのが新聞人の責務であるからだ。そのために疑問があれば発言者である首相に真意を問いただし、その発言の背景にある問題点を読む側に伝えるのが報道人に求められている。ところがこの責務を果たすべき報道人の代表である朝日社説子が一読者に過ぎない私と同じように何を言いたくてこの発言になったのかよく分からないがなんて、他人事のように言っているのだから様にならないのである。

首相の真意がわからないと言いつつその部分の発言だけを強調して報道する。すると『問題発言』だけが一人歩きして多くの人々の頭に浸透し、その人たちの関心を問題の本質から逸れた方向に誘導する。このような世論の意図的なミスリードこそ報道人の禁忌であるにもかかわらずに、である。

疑問に感じた発言の真意を首相に質すことがなんらかの事情で出来なかった場合は、首相の発言の一部を恣意的に取り出すのではなく、全文を掲載することで判断を読者に委ねるぐらいの分別はあってしかるべきであろう。それをしないのは報道人としての怠慢が浮き彫りされるのを恐れてなのだろうか。ここで首相の発言要旨をよりよく伝えている毎日新聞によると冒頭部分を見ることにする。

《麻生首相の全国都道府県知事会議で行った、医師確保に関する発言の要旨は次の通り。 医者の確保は、自分で病院を経営しているから言うわけではないが、大変だ、はっきり言って。社会的常識がかなり欠落している人が多い。うちで何百人扱っていますからよく分かる。ものすごく価値観なんか違う。そういう方らをどうするかっていうのは真剣にやらないと。》(毎日新聞 2008年11月20日 東京朝刊)

自分で病院経営しているという経験から(自分のところでは)社会的常識がかなり欠落している人が多いと首相は言っているわけだから、どのように社会的常識がかなり欠落しているのか、その具体例を聞きただせばよいのである。またものすごく価値観なんか違うと言うことも、その具体例をいくつか挙げて貰えばよいのである。その返答で自分のなかで脈絡がつかなければ、それがはっきりするまで問い詰めればよいのである。プロの仕事師として最低限やるべきことだろう。もちろん第一次取材は現場の記者が行うのであろうが、その取材記者に朝日社説子が疑問に思うことを徹底的に聞きただす。そうすれば何が分かって何が分かっていないかが分かる。取材記者の怠慢で質すべきことを質していないことが分かればきつく叱り置くだけではなく、そういう脈絡の認められない記事を論説材料に取り上げないぐらいの見識があってしかるべきである。

毎日朝刊はさらに次のような麻生発言を伝えている。

《小児科、(産)婦人科が猛烈に(医師が)足りない。急患が多いからだ。皮膚科なんか水虫の急患はいない。だったら(多忙な診療科は)その分だけ(診療報酬の)点数を上げたら、どうですかと。いろいろ言っていると問題点がいっぱい指摘できる。》

《臨床研修医制度の見直しは改めて考え直さないといけないし、大学の医学部定員は過去最大級まで増やしたが、今からは間に合わない。目先のことをどうするか、医師不足を真摯(しんし)に受け止めないといけない。》

これで首相はそれなりに現在の医療問題の本質にかかわる重要な問題提起をしていたことが分かる。そちらの方に国民の目を向けることが報道人の務めであろうに、その代わり『問題発言』に私と同じように首をひねっているのがこの朝日社説子なのである。プロ意識が欠けていると言われても仕方あるまい。このような仕事ぶりでいったいいかほどの年収を得ているものやら、知りたいものである。

ところで20日のエントリーのおかげで一昨日の訪問者数が569名に急増したかと思ったら、なんと昨日は2175名と私にしては未曾有の訪問者を迎えた。また下図は11月22日正午現在、Googleで「医師、社会常識欠落した人多い」を検索した結果で、私の20日のエントリーが約7万件のトップに早くも出ている。それだけ注目を浴びたとは面ばゆいが、たとえ限られた方とはいえ、私のブログにアクセスしていただいた方に報道のあり方に対する私の批判態度と自ら考える姿勢を共有していただければ望外の喜びである。




麻生首相の「医師、社会常識欠落した人多い」発言に思うこと

2008-11-20 11:37:29 | Weblog
昨夜のNHKニュースで麻生首相が「社会的な常識がかなり欠落している人が多い」と発言したことを報じた。全国知事会の席上、地方が抱える医師不足の問題についてどう考えるかとある知事が質したのに対して、首相が自分の考えを述べるなかで飛び出した発言だそうである。どういう話の流れのなかでのことなのか、そしてこの発言の真意を知りたいと思ったのに、その後の官邸での記者団とのやりとりで「まともな医者が不快な思いをしたというのであれば、それは申し訳ない」と首相が謝罪した、とニュースは伝えてそれで終わりであった。

今日の朝日朝刊を見て、少しはその流れが見えてきた。《首相はさらに「(医師不足が)これだけ激しくなってくれば、責任はお宅ら(医師)の話ではないですかと。しかも『医者の数を減らせ減らせ、多すぎる』と言ったのはどなたでした、という話を党としても激しく申しあげた記憶がある」と続けた。その上で、医師不足の一因とされる臨床研修制度の見直しなどに取り組む考えを示した。》

上の『問題発言』とされる発言のあとで、このように話が続いたのである。それでも「社会的な常識がかなり欠落している人が多い」とのつながりが私にはすんなりとは見えてこない。取材したマスメディア関係者も同じような疑問を持ったのではなかろうかと思うのに、この『問題発言』の真意を首相に質した関係者が一人も居なかったのだろうか。それが不思議である。もし記者の一人でも麻生首相にその発言の真意を質せば、次のような答えが返ってきたかも知れない。「考えてご覧なさい。高齢者社会になって医師の需要がますます増えることはとっくの昔に分かっていた。国はだからこそ一県一医科大学の設置を推し進め、医学部定員を大幅に増やしてきた。それを医師会などは医者が増えると収入が減ると強引に政府にねじこんで、医学部定員を一割以上も削減させた。それが昨今問題になる医師不足の一因にもなっているではないのか。社会的使命より自らの収入を優先するような医師が居るからこそ社会的な常識が欠落している医師が多いと私は云ったのだ」

朝日新聞の伝える首相のその後の発言から私なりにこのような答えを忖度したのであるが、これが首相の真意であったとすれば『問題発言』でも何でもない。一つのまともな考えであるからだ。私が理学部から医学部に移った昭和54(1979)年に医学部の入学定員は120名であったがそれがやがて100名に削減され、その定員削減に関しては『医師会の圧力』が医学部常識になっていたからである。この辺りの事情は「医学部の定員の削減を望んだのは誰で、何故か」で詳しく述べられているが、昭和58年3月30日の参議院文教委員会における高木健太郎議員(医師)の次のような発言は『医師会の圧力』の代表的なものであろう。

《きょうの朝日新聞を見ましても、診療所の平均所得が、五十六年には年収に換算して約二千万円ぐらい、一般サラリーマンが平均年収が三百三十万円ですから、約六・五倍の診療所の収入があった。ところが、五十一年の場合にはサラリーマンの収入が二百四十万、そして診療所の方は一千九百四十万で、そのときには八倍であった。それがいまはもう六・五倍になった。これがさらに進むというともっと下がっていくんだ、しかも診療費その他の締めつけが、あるいは薬価基準等の締めつけがございまして収入が非常に減ってきた。こういうことから、お聞き及びだと思いますけれども、医科大学をつくり過ぎたんではないかという、そういう非難といいますかね、批評があるわけですね。》

一般サラリーマンの平均年収の約6.5倍に年収が下がった(当時)からと不満を述べる医師、どう考えてもまともな社会常識を備えているとは云えないだろう。

マスメディア、とくにNHKは麻生首相の『問題発言』の真意を質した上で報道すべきであったと私は思う。これは「漢字も読めない」麻生首相とは別の次元の話である。もし真意が私の忖度したようなことであったら、報道の主体は『問題発言』より医師不足問題の本質にもなり得たと思うからである。


YouTube で「手を取りあって」を

2008-11-18 13:42:59 | 音楽・美術
何組もの歌手が歌っているDon Giovanniの「Là ci darem la mano」がYouTubeにアップロードされているのに驚いたと先日のエントリーで述べたが、このYouTubeに埋め込み用のタグが用意されていることは、ご自由にお使いくださいとのことと解釈して自分用に整理することにした。

最近のMedia Newsによると《日本音楽著作権協会(JASRAC)は10月30日、ニワンゴが運営する「ニコニコ動画」と、米Google傘下の「YouTube」上で使用されているJASRAC管理楽曲の利用料を、それぞれの運営企業から支払ってもらう契約締結に向けて協議に入ったことを明らかにした。年内にも暫定的な契約を結ぶ予定だ。
 契約を結べば、一般ユーザーが音楽会やライブなどでJASRAC管理楽曲を演奏した映像や、レコード会社が公式に配信する楽曲などを、両サイトに合法的にアップロードできようになる。》とのことなので、個人的な楽しみ方がますます拡大しそうで嬉しいことである。

①最初の動画はDon GiovanniがSimon KeenlysideでZerlinaがPatrizia Pace、室内合奏団の演奏に合わせての二重唱で、字幕を見ていただくとどのような場面であるかがよく分かる。




②次はDmitri HvorostovskyとRenee Flemingの組み合わせ。Flemingがややねちっこく歌うので恋の駆け引きに長けたZerlinaと云った感じである。




③2000 Metropolitan OperaではBryn TerfelとHei-Kyung Hongが歌っていて、歌は美しいがDon Giovanniの迫り方が性急で激しすぎる。私のお手本にはできそうもない。




④Gilles CachemailleとJuliane Banseが演じているGlyndebourne Festival Operaでの演出は衣裳が現代風で、二重唱での演技が手の込んだものになっている。柔らかい歌い方はなかなかなもので私の好みでもある。字幕には英語が流れる。




⑤スカラ座でのThomas AllenとSusanne Mentzerの舞台はまことに古典的な演出になっている。




⑥同じThomas AllenがLucia Poppを相手にした舞台では⑤に比べてなんだか泥臭く、歌も時代がかっているように感じた。

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⑦Don Giovanniは普通バリトン役であるがテナーも演じる。Pavarottiも歌っているがここではPlacido DomingoとKathleen Battleが歌っている。これは東京での公演のようで映像がよくないのが残念である。口の動きと歌も合っていない。どうしてなのだろう。Domingoは50代初めと若い。




⑧DomingoとSarah Brightmanとの組み合わせがまた秀逸。⑦より12年後、2000年の演奏であるが実に瑞々しい。朗々と歌い上げるのがまたよい。ただ音量が大きいので少し下げたほうがよい。




⑨さらに4年後、Domingoのお相手はMirella Freniである。円熟した二人の歌は安心して聴ける。東京での演奏会のアンコールのようである。映像のよくないのが残念。




⑩再びバリトンに戻ってDietrich Fischer-DieskauとErika Kothが1961年にベルリン・オペラで歌ったもの。ドイツ語で歌っているせいかこんな誘われ方をされたら怖くなるような歌い方である。もっともZerlinaがウンと云った後は軟化する。このような歴史的な映像にYouTubeでお目にかかれるなんて有難い。





ところで前の日曜日、西宮芸文センターの練習室でピアニストの伴奏に合わせて「 Là ci darem la mano」を歌ってみた。相手役はヴォイストレーニングの先生である。素人としては恐れ多いことであるが何はともあれぶつかってみた。声の響きが違うのは当然のことであるが、途中で手を出せとか催促されたり、とにかくZerlinaに圧倒されっぱなしのDon Giovanniだった。本番まで少しは成長したいものである。

ドン・ファンになるのも難しい

2008-11-15 22:20:35 | My Song
ヴォイストレーニングを感心なことに続けているので、年末恒例の発表会も今度で四回目になる。今年は少し欲張ってモーツアルトのDON GIOVANNIに挑戦することにした。一曲目はドン・ジョバンニがマゼッタとの結婚式に行く途中のツエルリーナを誘惑して小屋に連れ込もうとするとこまではうまく行ったが・・・、という場面で歌われる小二重唱「手を取り合って」である。

歌い出しの「La ci darem la mano」をGoogleで検索するとYouTubeで何組もの歌手の演奏が観られるのには驚いた。ここではS. Keenlyside と C.Schafer を先生役に歌った。本番ではとても美しい声のチャーミングなソプラノ歌手に相手役をしていただくことになっている。

二曲目はカンツォネッタ「窓辺に来ておくれ」で、今度はドン・ジョバンニを追っかけ廻しているドンナ・エルヴィーラの小間使いを窓辺に引き寄せようと甘ったるく歌うセレナードである。いずれにせよ実生活で経験を積んでいると歌の雰囲気を上手に作り上げられるのだろうが、いかんせん未熟者の私ゆえ歌が硬い。ドン・ファンになるのも修業がいるとはこれまた大変である。あと1ヶ月足らず、特訓に明け暮れることにしよう。

参議院外交防衛委員会委員長の問題にならなかった問題発言

2008-11-12 15:41:44 | Weblog
昨日(11月11日)の参院外交防衛委員会で行われた田母神俊雄・前航空幕僚長の参考人質疑の詳報は以下の通り、と産経ニュースはその内容を伝えている。一読して質問内容の程度の低さは、一部の例外を除いて、相変わらずのものと思ったが、それよりも私は北沢俊美・参院外交防衛委員長の冒頭発言に何度か首をかしげてしまった。

《北沢俊美・参院外交防衛委員長「テロ対策海上阻止活動に対する補給支援活動の実施に関する特別措置法の一部を改正する法律案を議題とし質疑を行います。本日は参考人として前防衛省航空幕僚長、田母神俊雄君にご出席をいただいております」(中略)
「本日、参考人に出席を求めた趣旨は、国民の代表機関たる国会の場において政府に対し、この問題をただす一環として招致したものであり、決して本委員会は、参考人の個人的見解を表明する場ではありません。参考人におかれてはこの点を十分に理解し、質疑に対し、簡潔にご答弁をいただきますようようお願いをいたします」》

なぜ『テロ対策海上阻止活動に対する補給支援活動の実施に関する特別措置法の一部を改正する法律案を議題とし質疑』に、田母神前航空幕僚長が呼び出されないといけないのか、私にはそれがすんなりとは分からない。補給支援活動に航空自衛隊が特別に出動するわけでもなし、そのような職務がらみで田母神前航空幕僚長が発言したわけでもなんでもないからである。『警察による別件逮捕』のようなものが『良識の府参議院』でもまかり通るとはこれいかに、である。。

制服組自衛官、それも上層幹部がどのような考えを持っているのか、常日頃知りたいとは思っているが、なかなか耳にするチャンスはない。自衛官が外に向かって発言すると今回のようになにかの跳ね返りがあるから自衛官が自制するのだろうか。となれば田母神前航空幕僚長の参考人招致はその考えを聞かせて貰うのにまたとないチャンスだと思うのに、外交防衛委員長が「決して本委員会は、参考人の個人的見解を表明する場ではありません」と口止めにかかっているのである。これは国民の知る権利への真っ向からの挑戦ではないか。民主党・犬塚直史議員が浜田防衛大臣とのやりとりのなかで《「今の説明は問題がある。国民の目の前で、自説を述べてもらう。有権者の信託を受けているわれわれの前で述べてもらう。徹底的に審議していることについて、時間がかかるからまずいとか、逃げているような印象を持つ」》(強調は引用者、以下同じ)には同感である。

委員長の冒頭発言は続く。

《「昭和の時代に文民統制が機能しなかった結果、三百数十万人の尊い人命が失われ、また、国家が存亡の淵に立たされたことは、忘れてならない過去の過ちであります。国家が存亡の淵に立った最初の一歩は、政府の方針に従わない、軍人の出現と、その軍人を統制できなかった政府議会の弱体化でありました。こうした歴史を振り返りつつ、現在の成熟した民主主義社会の下において、国民の負託を受けた国会がその使命を自覚し、もって後世の歴史の検証に耐えうる質疑をお願いする次第であります。それでは質疑のある方は順次、ご発言をお願いします」》

昭和の時代に文民統制が機能しなかった結果、三百数十万人の尊い人命が失われ、また、国家が存亡の淵に立たされた」とはまた珍奇な歴史観である。明治憲法に軍人に対する文民統制がうたわれているとは私は寡聞にして知らないが、北沢委員長は天皇の大権である統帥権に文民がどのように介入し得たとの認識でこのような発言をしたのだろうか。この統帥権の独立への反省が新憲法下での文民統制を生んでいる歴史的事実を委員長はまったく認識していないようである。さらに文民統制が機能しているはずの米国ブッシュ大統領が始めたイラク戦争でどれだけの犠牲者がでているのか、よもや北沢委員長がご存じでないとは云わせない。参考人には口枷をはめるやら、浅薄な歴史観を冒頭発言するやら、その発言に自ら酔うてか、委員長の『後世の歴史の検証に耐えうる質疑をお願いする』発言に至っては「ちゃんちゃらおかしい」と切って捨てざるを得ない。

と、まず委員長発言で引っかかってしまったが、田母神前航空幕僚長の懸賞論文を私は評価はしないものの、彼の発言がきわめて率直、直裁的であることには好感をもった。要は「国を守ることについて意見が割れるような憲法は直したほうがいい」であり、社民党・山内徳信議員の「あなたは、集団的自衛権も行使し、あるいは武器も堂々と使用したいというのが本音ですね」との質問に対して「ええ、私はそうするべきだと思います」と答えていることである。私は日本が文字どおり如何なる武力をも放棄するのでなければ改憲で自衛隊の制式軍隊化すべきであると考えているので、田母神前航空幕僚長の発言を素直に聴けたのである。日本国憲法第九条第二項の《前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。》といいながら、軍隊でない自衛隊を保有する日本政府の欺瞞性こそ自衛隊をめぐる『諸悪の根源』であると私も信じるからだ。

今回も文民統制のあり方が問われることになったが、それが自衛官の言論統制に繋がることには私は基本的に反対である。職務上の立場では公に意見を述べない方がよさそうだという自衛官の政治的判断を期待することでいいようにも思う。本当に文民統制が機能しているかどうかは、自衛隊にクーデターを起こさせないためにどのような手立てが講じられているかを検証すれば済むことであるが、この委員会での質疑応答に目を通す限りそこまで考えている政治家がいないことの方が怖ろしくなった。

「定額給付金」をもう使ってしまった

2008-11-10 21:22:03 | Weblog
去る土曜日(11月8日)の朝日朝刊に《自民、公明両党は7日、新総合経済対策の柱となる定額給付金の支給額を1人あたり一律1万2千円とし、18歳以下の子供と65歳以上の高齢者にはさらに8千円を上乗せすることで大筋合意した。》と出ていた。この通りに決まるとわが家では夫婦二人の4万円がいただける。これは有難いとさっそくヨドバシカメラに買い物に出かけた。

わが家に液晶テレビがやって来たのは2月末で、それ以来鮮明な画像を楽しんでいる。それはよいのだが、チャンネルにより、番組により、音の大きさが変わるのが気になった。とくに私の好きなBS音楽番組などで音が小さくなるので、音量をかなり上げるがそれでも満足できない。それで別途にアンプで音量をあげることを考えていた。それを買いに出かけたのである。

考えていた製品は「オンキヨー」の「HTX-22HD」という「シアターパッケージシステム」なるもので、フロントスピーカーが2個にアンプと一体になったサブウーファーが付いている。出力は30W以上なので能力に不足はない。49800円也、10000円近くの持ち出しになるが、これも景気浮揚策への協力である。

昨夕品物が配達されてきたので今日の午後、取り付けた。わが家はケーブルテレビなのでデジタルチューナーからHTMIケーブルでテレビ本体に信号が入ってくる。そのせいかテレビ本体から「HTX-22HD」へ音声を取り出すことがマニュアル通りにはいかない。結局デジタルチューナーから音声出力を直接にアンプに取り出して音量を上げることが出来た。出力の半分ぐらいで十分音量がある。これで音楽番組も楽しめそうである。

夜7時のニュースでこの定額給付金の支給に所得制限を設けるかわりに、申告制にするとかどうとかややこしいことを云っていた。先に使った方が勝ちである、と思っていたら、伏兵が現れた。妻の分まで私が勝手に使ってしまったのはけしからん、私の分を返せ、と妻が迫るのである。そう云えば給付金を上手に使ってきたよ、とは事後通達であった。「まだ貰っていないものを返せますか」と突っぱねているが、雲行きが怪しい。わが家では世間の景気浮揚よりこちらの方が重大課題になってしまった。



マイケル・クライトン(Michael Crichton)の死去を悼む

2008-11-07 23:21:11 | 学問・教育・研究
昨日(11月6日)日経夕刊にマイケル・クライトンの訃報が載せられていた。



つい四日前に「Amazon.co.jpのお客様へ、 Amazon.co.jpで、以前にMichael Crichtonの本をチェックされた方に、このご案内をお送りしています。『Michael Crichton Thriller Two』、現在好評発売中です。」とのメールが届き、どうしようかなと考えていたところだったので驚いた。まだ66歳だから若い。ガンで亡くなったとのこと、自分でも知識があり最新の情報にも通じていただろうに尽くす術がなかったのだろうか。新作をいつも心待ちにしていただけに残念である。

クライトンの小説は「Sphere」以降は全部ペーパーバックで読んだ。つい最近、買ったままにしていた「NEXT」を読み終えたところでもあった。



遺伝子ビジネスの近未来を描いた作品で、麻薬などへの依存症をひきおこす遺伝子を同定して新薬開発に走ったり、ヒトとチンパンジーの遺伝子操作で生まれた人間並みの知能のあるチンパンジーが活躍したり、人と何カ国語も使って会話の出来るおうむが登場するのはお愛嬌で、その実、米国における遺伝子にかかわる特許制度のあり方とか、人体組織の取り扱いなどを規定する法律への批判、そして提言などを作品の中に織り込んだ、なかなか社会性の高い作品だった。しかしこれまでの作品でもそうだったが、それにもまして話の展開のスピードが早く、また並行的に進む物語が多すぎて頭の混乱を来したりするものだから、やや散漫との印象を持った。今になって思えば、著者の病の進行が影響したのだろうか。

彼がこの著作のために遺伝子ビジネスについて、いろいろと調べて到達した結論を著者ノートにまとめている。

1. Stop patenting genes.
2. Establish clear guidelines for the use of human tissues.
3. Pass laws to ensure that data about gene testing is made public.
4. Avoid bans on research.
5. Rescind the Bayh-Dole Act.


私は今年初めのブログ万能細胞(iPS細胞)研究 マンハッタン計画 キュリー夫人で次のように述べた。

《京都大学(山中教授)が万能細胞研究の人類全体の医療に及ぼす影響の普遍性にかんがみ、すべての研究者が特許出願を抛棄するべく全世界に率先して働きかけて欲しいものである。研究者が自らの研究の社会的意義を考え、特許を念頭に置かずに研究成果をすべて公表する、これは一人一人の研究者の判断で出来ることであろう。科学者の社会的責任を今原点に戻ってじっくり考えていただきたいと思う。》

この特許についての私の考えはクライトンの考えと基本的には一致している。とくに大学における特許問題について最後の「Bayh-Dole法を破棄せよ」での指摘はまったく同感するところである。著者によるとBayh-Dole Actというのは大学の研究者が、たとえ税金で研究を行ったとしても、その発見を自分の利益のために売り渡すことを認めたものであるとのこと、1980年に議会を通ったそうである。その結果どういうことになったか。

《Academic institutions have changed in unexpected ways: The original Bayh-Dole legislation recognized that universities were not commercial entities, and encouraged them to make their research available to organizations that were. But today, universities attempt to maximize profits by conducting more and more commercial work themselves, thus making their products more valuable to them when they are finally licensec.・・・・・. Thus, Bayh-Dole has, paradoxically, increased the commercial focus of the university. Many observers judge the effect of this ligislation to be corrupting and destructive to universities as institutions of learning.》

さらに続く。

《Secrecy now pervades research, and hampers medical progress. Universities that once provided a scholarly haven from the world are now commercialized―the haven is gone. Scientists who once felt a humanitarian calling have become businessmen concerned with profit and loss.》

わが国の大学もすでにこのような商業化の道を辿りつつあるのだろうか。気になることである。このような確固たるバックボーンを根底に、SF小説でその時その時の科学問題を読者に伝えともに考えさせてきたマイケル・クライトン、その早世が惜しまれる。  

【追記】大学での特許問題についての私の考えは以下の通りである。

iPS細胞の特許問題に思うこと
大学は特許料収入でいくら稼ぐのか 知的財産管理・活用ビジネスのまやかし
角田房子著「碧素・日本ペニシリン物語」 そして大学での特許問題へ
学問の自由は今や死語?


留学生の息子を大統領に選んだ米国民は素晴らしい

2008-11-06 22:58:28 | Weblog

アメリカの次期第四十四代大統領に民主党のオバマ氏が選ばれた。朝日新聞朝刊の第一面トップの見出しに「オバマ氏 黒人初大統領」と大きく出ている。変なことにこだわるようだが私はこの『黒人大統領』という表現がどうも気になった。なぜならオバマ氏は黒人と白人の間に生まれているからだ。朝日朝刊は下のように伝えている。



「父はケニア出身の留学生、母は米国生まれの白人」ならオバマ氏はいわゆる混血児である。それなのになぜ『黒人大統領』なのだろう。しかしNew York Times(NYT)も「an African-American for president of the United States」とか「a new era in a country where just 143 years ago, Mr.Obama, as a black man, could have been owned as a slave」と表現しているので、米国でも父系でその血統を示すことになっているのだろうか。それともオバマ氏は肌の色や顔立ちが黒人の特徴を強く表しているので、そこから来ているのであろうか。

オバマ氏がハワイで生まれたのは1961年であるが、その頃はまだ人種差別があからさまな形で残っており、法の上での人種差別が終わりを告げたのは1964年の公民権法が制定されてからである。公民権運動の中心人物のマーティン・ルーサー・キング・ジュニア牧師が1968年に遊説先のテネシー州メンフィスのモーテルのバルコニーで白人男性に銃撃され死亡した。その三年後、たまたまメンフィスでの会議に出席した際に主催者からそのモーテルに案内されたことを思い出したが、キング牧師はそのメンフィスで死を予感ししたかのような演説を行い、その演説を引用した81歳の黒人のコメントをNYTは次のように紹介している。

「King made the statement that he viewed the Promised Land, won’t get there, but somebody will get there, and that day has dawned.」そしてキング牧師がモーセに、オバマ氏がその後継者ジョシュアに擬せられている。「If Dr. King was the movement’s Moses, doomed to die without crossing the Jordan, it would fall to Mr. Obama to be its Joshua」となれば米国ではオバマ氏は「an African-American black」でなければならない事情が浮かび上がってくる。しかしオバマ氏はかねてからcolor-blindness(ここでは、白人と黒人を区別しないこと)を標榜しているようで、大統領受諾演説の次の一節からもその姿勢をくみ取ることが出来る。

「It's the answer spoken by young and old, rich and poor, Democrat and Republican, black, white, Latino, Asian, Native American, gay, straight, disabled and not disabled ? Americans who sent a message to the world that we have never been a collection of Red States and Blue States: we are, and always will be, the United States of America.」ここでの「answer」とは自分が大統領に選ばれたと云うことである。

このように公民権運動を身近に見聞きしてきた米国人に『黒人大統領』が格別の意味をもってしかるべきだと思うが、日本人の私はオバマ氏が『黒人大統領』よりも『留学生の息子』であることの方に大きな感銘を受けたのである。時事通信社は《第44代米大統領となる民主党のバラク・オバマ上院議員(47)は、ケニア人の父、カンザス州出身の白人の母を持ち、異母・異父きょうだいが7人もいるなど、その家系の多彩さは歴代米大統領の中でも群を抜いている。(中略)オバマ氏の父、故バラク・フセイン・オバマ氏(1936-82年)はハワイ留学中の60年、2人目の妻として故アン・ダナムさん(42-95年)と結婚、61年にオバマ氏が生まれた。 (後略)》(2008年11月5日(水)18:30)と報じている。このようにオバマ氏は日本流に云えば門地門閥ゼロの人物である。『天敵』世襲議員が跋扈し政治を壟断しているわが国から見ると、このような人物を大統領に選んだ米国国民の勇気にただただ感服する。またそこに国の底力を見る。

昨夕のテレビニュースに出た鳩山由紀夫民主党幹事長が「日本もチェンジが必要だという思いに国民がなるのではないか」と云うようコメントをしていたが、その通り、日本でまず起こすべきチェンジは二世、三世の世襲議員の廃止である。この鳩山幹事長にいたってはたしか四世議員で、門地にあぐらをかいているだけの存在だし、麻生首相、民主党の小沢党首を筆頭に門地門閥頼みの議員をまず追っ払うべきなのである。世襲議員の存在そのものが新進気鋭な政治家の出現を潰しているのである。

来る総選挙では、自民党、民主党を問わずいかなる政党でも、世襲議員候補者には絶対に投票しないことを有権者が徹底すれば、日本に大きなチェンジがもたらされることはゆめゆめ疑いなしと声をあげたい。