日々是好日

身辺雑記です。今昔あれこれ思い出の記も。ご用とお急ぎでない方はどうぞ・・・。

一弦琴の会を退会の弁

2008-10-31 21:01:19 | 一弦琴
私の入っている一弦琴の会は毎年10月、最後の日曜日に演奏会を開くことになっている。今年も去る26日、京都三十三間堂の近くにある法住寺陵と隣り合わせた法住寺で演奏会が開かれた。平安の昔、この辺りは法住寺殿という後白河上皇の院政御所であった。後白河帝は平清盛の台頭から源頼朝への覇権の移り変わりの激動期における強かな政治活動でよく知られている一方、遊び好きが高じて今様を集めて『梁塵秘抄』を編纂されたとのこと、邦楽の流れに繋がる一弦琴と縁がなくもないと云えそうである。

この演奏会が終わって、私はかねてから心に温めていたことであるが、師匠に一弦琴の会からの退会を申し出た。そして昨日(10月30日)稽古場にうかがい、あらためて退会の挨拶をしてご了承いただいた。入会させていただいたのが2000年だったから、丸八年在籍したことになる。四年制大学で云えば裏表在学したことに相当し、それ以上は居残りを望んでも強制的に追い出されてしまう歳月である。ところが一弦琴の会では年限の決まりがないので自分で決まりをつけることにしたのである。

2000年春にNHKが宮尾登美子原作『一絃の琴』の連続ドラマを公開するのに先立って宮尾さんとの対談番組を放映したが、その時に流れた一弦琴の音色に引かれたのがこの道に入るきっかけとなった。インターネットで調べて私の師匠に辿り着き、それ以来師匠の編纂になる『一絃琴清虚洞新譜』を巻一から巻四まで、それに別巻とさらにいくつかの現代曲を学んできた。一通り習い終えてからは復習に移り今日まで続けてきた。そしてこの復習段階で、これまでなにかと引っかかっていた問題点がいくつか浮上してきた。最大の問題点は私の弾き方が明らかに『我流』になってきたことである。しかもその『我流』を改めようとするどころか、さらに磨きをかけたいと思うようになったのである。その経緯を自分なりに整理すると次ようになる。

これまでも折に触れて述べてきたことであるが、私はまず楽譜ありき、の立場を貫きたいと思っている。国立国会図書館で徳弘時聾(太)著『清虚洞一絃琴譜』にお目にかかっり、その複製を手にしてからはますますその思いを強くした。録音機の無かった時代には伝承がこの楽譜に結実していると思ったからである。師匠の『一絃琴清虚洞新譜』の元になったものだし、これまでも『新譜』について私が疑義をただすと、師匠は『清虚洞一絃琴譜』に戻って照合されるのが常だった。そこで私は師匠にもお断りして復習を『清虚洞一絃琴譜』で始めることにしたのである。稽古を始めた頃は毎週師匠宅に通っていたが何年か経つと月二回になり、お浚い(復習)に入ってからは月一回となった。自分なりに納得のいく演奏ができてからみていただくつもりだったのである。

師匠と差し向かいで稽古をつけていただく時の録音は残していない。だから記憶に留めるだけだったが、たとえば翌日、一人で弾き始めると、肝心なところでその記憶がもう曖昧になっている。すると否応なしに楽譜を相手に自分なりに会得した演奏をするようになる。それを録音しては聴き、また修正する。この稽古を納得いくまで繰り返していると、まさに私流の演奏に落ち着いていくのである。それでも始めの頃は差し向かいで師匠の演奏をなぞることにしていた。いわば面従腹背の構えである。しかしこれでは稽古に通う意味がない、とばかりに『我流』を披露し始めた。師匠のスタンスは私の入門当時から振れることなく、ご自分がその昔大師匠から習得された演奏を暗譜でなさる。これではまず楽譜ありき、でお浚いを重ねてきた私の演奏とは油と水で稽古にはならない。そこでまず私一人の演奏を聴いていただいた上でご意見をくださるようにお願いしたこともあったが、ついつい『口三味線』をはさんで私の演奏リズムをで変えようとなさったりする。

師匠は折に触れて私の演奏を○○節とか○○流と呼ばれる。実は二年前の私のエントリー一弦琴「漁火」 あるお遊びで、《いつも師匠から「あなたのは○○(私の姓名)流」と注意される私》と書いているくらいだから、○○流も結構年季が入っている。○○流なる云い方を肯定的に受け取ると、私がすでに一派を作るぐらい腕を上げたと云うことになるのだろうが、私もそれほどの世間知らずではないので、やはり我流を押し通すことが師匠の気に入らないのだな、と受け取る。では○○流から脱するにはどうすればいいかと云えば、師匠流になるしか他に手がなさそうである。手っ取り早いのは師匠の完璧な物まねなのだろうか。○○節とか○○流のように十把一絡げの云い方をされては、こういう気の廻し方しか出来なくなってしまう。このようにいわば師匠流と○○流がぶつかり合うようになった現状で、身を引くのは弟子の方であろうと思い退会するにいたったのである。

一弦琴を始めた頃は一対一の差し向かいの教授法というのはなかなか新鮮で、また得るところがきわめて多かった。問題はどれぐらい続けられるかにあると思う。最初は学ぶとは真似ることであると言い聞かせて、師匠の演奏を真似ることに集中した。これまではまったく縁のない世界でのことであるので、邦楽を習うとはそういうものであると割り切ったのである。しかし上に述べたように師匠の『口移し唱法』か楽譜のいずれを取るかで、楽譜を私が選んだ時点で『差し向かい』が意味を失ってしまったと云える。

清虚洞の流れを汲む師匠クラスの方が何人か演奏を残しておられる。耳を傾けていると共感するところがある一方、ちょっと違うなと思うところもある。根底に『清虚洞一絃琴譜』のあることが共通しているが、結局それぞれの方が自分流で演奏しておられるのである。となると私だけが遠慮することもあるまい。そう自分で言い切れるところまで導いてくださった師匠のご薫陶を多としつつも、思えば師匠離れの時期がやって来たのである。古希過ぎて立つ、まさに古来稀なり。(^^)



体罰容認発言の橋下知事は戦後の『間違った教育』の申し子?

2008-10-29 18:33:51 | 学問・教育・研究
この頃ついテレビのニュースを見逃すし、新聞も見出し程度で終わることが多い。ところが《橋下知事「手を出さないとしょうがない」 体罰容認発言》(asahi.com 2008年10月26日22時49分)が目を引いた。現在、教育の場で体罰がどのように行われているのか私はなにも知らないが、この見出しからは元来体罰が禁止されているにもかかわらず橋下知事が容認したとのニュアンスで受け取ったからである。それで「ウィキペディア(Wikipedia)」で「体罰」を調べてみると、昭和22年制定の学校基本法第11条に体罰についての規定がなされているのである。

《第11条 校長及び教員は、教育上必要があると認めるときは、文部科学大臣の定めるところにより、児童、生徒及び学生に懲戒を加えることができる。ただし、体罰を加えることはできない。》

ところで体罰とはなにか。ウィキペディアは《日本の学校で、正課教育に関連して伝統的に行われている/行われていた体罰の主なものには、以下のものがある。》として、

  ○教鞭などで頭を打つ。
  ○廊下等に立たせる。
  ○頬を平手で打つ。
  ○顔を殴る。
  ○尻を打つ。
  ○正座をさせる。

などの例を挙げている。

昔はどうだったか。戦時中の国民学校で女先生が鞭で生徒の手の甲をピシッと叩いたのを見たし、また私自身、男先生に額を爪弾きされたことがあった。国民学校で罰を受けたことは後にも先にもこのことだけなのでその状況は今でもよく覚えている。授業の最中に鼻を親指と人差し指でつまみ鼻の穴を押しつぶし、口をつぐんで空気を吸い込む。その頃ははな垂れが珍しくなかったので鼻汁の粘着力で鼻の穴が引っ付いてしまう。そこで指を離しどれだけ長い時間鼻の穴をふさいで居られるかを隣席の友達と競い合っていた。それを先生に見つかって二人ともパッチンとやられたのである。その上あろうことかそのことを通信簿に書かれてしまった。母が朝鮮から引き揚げの時に持ち帰ってくれた通信簿の通信欄にある「時々粗野ナル言動アリ」の実態は上のような大気圧を視覚化する独創的理科実験だったのである。なんだ、教師はえらい大げさな物言いをするものだな、と思ったものである。



ところがウィキペディアに次のような文章が続いているのを見て驚いた。《誤解が多いが下記(上記の体罰例、注)のような体罰が行われ始めたのは主に戦後からであり、戦前は小学校令(戦時中に制定された国民学校令も同様)により体罰は一貫して禁止されており、小さな体罰でも教師が処分されることがあった。》なんと、体罰は戦後になって行われるようになったというのである。そういえば教師は鞭で頭を打つことはせずに手の甲を打ったし、私も額を爪弾きされたことは上の体罰例には当てはまらない。『小さな体罰でも教師が処分されることがあった』ということを教師はちゃんと心得ていたのだろうか。となると戦後の体罰はリンチが横行した旧日本軍の復員兵士が教壇に立って始めたことなのだろうか。

そこで橋下知事が実際にどう云ったのか知りたくなって探すと、ちゃんとyoutubeに記録が残っているのである。




これを見て私は橋下知事は戦後の体罰世代なのだな、と思った。自分たちが学校でそのような目にあってきたから、「ちょっと叱って、頭をゴッツンしようものなら、やれ体罰と叫んでくる。これでは先生は教育が出来ない。口で言ってわからないものは、手を出さないとしょうがない」のような言葉が素直に出てきたように思えてきた。

そう思えばこのyoutubeは橋下徹知事と府教育委員らが教育行政について一般参加者と意見を交わす「大阪の教育を考える府民討論会」を録画したものだが、要は全国学力調査で大阪府の成績が振るわなかったから成績を上げなければ、ということに問題の発端があったのだろう。漏れ聞くところではあの全国学力調査は当時文部科学相であった中山成彬氏が「日教組(日本教職員組合)の強いところは学力が低いんじゃないか」との思いつきを調べたくて始めたとか。結果的には中山説を実証できなかったようであるが、そういう無駄なことに国費を使うこともさることながら、その点数という結果に振り回されている橋下知事は体罰に対する姿勢にも現れているように、戦後の『間違った教育』の申し子のようにも見えてくるのである。視野をもっと拡大すべきであろう。

この録画にあるように自分の言葉を語ることの出来る橋下知事はたしかに希有の為政者である。しかし主張の後には人の意見を聞き入れる度量を同時に期待したい。

NHK + 朝日新聞 = 一人前 補足あり

2008-10-24 13:04:52 | Weblog
夕べ(10月23日)午後7時のNHKニュースで、赤坂御苑で開かれている秋の園遊会の模様が映し出された。その中にひときわ背の高い三人の姿があった。北京五輪で金メダルを獲得したソフトボールの上野由岐子投手、柔道100キロ超級金メダルの石井慧選手、それに水泳金メダルの北島康介選手である。天皇陛下がまず上野選手と話を交わされる場面が流れた。しかし私の興味はすでにその横の石井選手に陛下がにお声をかけられるかどうかに移っていた。

私が北京五輪で石井慧選手に注目したのは、試合そのものではなくて、表彰式で君が代が流れている間、口を一文字に結んだままの姿勢であった。一方北島選手もソフトボールチームも表彰台で君が代を歌っていたことを私のブログ国旗掲揚・国歌演奏なし 金メダルだけのオリンピックにしてみたら?で触れたことがあるが、その三選手が園遊会で顔を並べたのである。

石井選手は発言が面白いとかで一時テレビにもよく登場したが、格闘技に転じると言い出したと思ったら前言を撤回したり、なにかと世間を騒がせたようであった。この何を言い出すか予測しかねる石井選手だから、陛下が話しかけられることがないように周りが余計なお膳立てをしているのではないか、と私は思ったからである。案の定、陛下が次に話しかけられたのは北島選手だったので、私の感は当たったものと一人合点をしたのである。

今朝の朝日新聞にその場面の写真が出ていた。なんと陛下が石井選手にもちゃんと声をかけておられるのである。そして石井選手の「この次のオリンピックのほうは目指しません」との言葉を引き出されたのである。古武士のごとき石井選手のことだから、陛下に明言したこの言葉を違える時は切腹するだろうな、と潔さに心打たれたのである。



新聞写真を眺めると陛下が石井選手と話された以上、記事には取り上げられていなかったが上野選手、北島選手ともお話をされたのだろうと想像することは容易である。これに反してテレビの映像は白黒があまりにもはっきりしている。陛下と石井選手との会話の場面はNHKが勝手にカットしていたのであろうが、映像が流れなければ何もないことになってしまう。もちろん記事でも同じようなことがいえるが、あったことを無いものにする恣意的な力で報道はどうにでも操作できることを改めて思い知った。しかしこの機会に、たまたまであろうが、君が代好きなNHKと、君が代嫌いな朝日新聞の報道を合わせてやっと一人前ということが分かったのである。

補足(10月24日) 私の記事に対して十楽人さんから以下のようなコメントを頂戴いたしました。私が観たのは7時からのニュースでしかも途中からでしたので、冒頭にご指摘のような場面が放映されたとしたら見逃している恐れはあります。私が注意して見ていた限り、陛下と石井選手との会話の場面は流れなかったのが印象的だったので上のような記事をしたためましたが、私の注意力が途絶えることはなかったかと問われると、「なかった」と断言できる自信はありません。7時のニュースの園遊会の場面で私の記憶と異なり、陛下と石井選手の会話が放映されていたことが明白になれば訂正文を出す所存です。

ASUS「EeePC1000H-X」か東芝「NB100」

2008-10-22 11:42:49 | Weblog
以前のエントリー梅田でぶらぶら その二、ヨドバシでミニノートパソコンとiPhone3Gをでは梅田のヨドバシカメラでEeePC901-XとiPhone3Gを見比べて、《ミニノートパソコンにしてもこれからまだまだ性能の良い機種が各社から出て来そうだし、iPhone3Gもそのうちに現行機種と変わらない通話機能を具えたものが出てくるかも知れない。しばらくは様子を見た方がよさそうである》と結論した。これが8月11日である。

昨日(10月21日)の日経夕刊二面に「iPhoneに失速説」「相次ぐ不具合、悪評呼ぶ?」との見出しでかなり大きな記事が出ていたが、さもありなん、であろう。ミニノートPCに気持ちの傾いた私はその後新製品の情報に注意を払っていたが、予想通りにDellが「Inspiration Mini9」を出し、NECが「LaVie Light」を、そして東芝が「NB100」を出すなどのニュースが相次いで流れてきた。EeePC901-XはHDDの代わりにフラッシュメモリドライブを使っているせいか、バッテリー持続時間が8.3時間と長い。これが魅力であったが店頭で実物に手を触れると、キーボードが小さくて入力がしづらい。だから手を出さなかったのであるが、その点では「NB100」が目を引いた。これだとキーピッチが15.9mmだというので、入力に不便を感じることはなかろうと思ったからである。120GBのHDD搭載なので、そのせいかバッテリー持続時間は2.9時間と短い。しかし日常の使用に不便はなさそうである。私はこれまでDynabookを何台か使ってきたので、東芝の製品には信頼感を抱いている。だから10月下旬発売予定の製品を店頭で見て問題がなければ即購入かと思うようになっていた。ところがここでASUS「Eee PC 1000H-X」のニュースが飛び込んできた。

最大サイズの10型ワイド液晶や最大容量の160GBのHDDを搭載、それにもかかわらず連続駆動時間は最長で約6.9時間というではないか。さらにキーボードは標準の92%と大きくなり、Bluetooth2.0に加えて東芝にはない130万画素Webカメラを備えている。それでいてヨドバシ価格は59800円と「NB100」の69800円よりは安い。カタログ仕様では「Eee PC 1000H-X」に軍配が上がるが、こうなれば両製品が発売される10月下旬以降、店頭で両者を比較して決めずばなるまい。

日本分子生物学会「論文調査ワーキンググループ報告書」の何が問題なのか

2008-10-20 20:50:23 | 学問・教育・研究
私のサイトに急にアクセスが増えたのはどうも日本分子生物学会「論文調査ワーキンググループ報告書」に失望しての記事のせいのようである。現にGoogleで『日本分子生物学会「論文調査ワーキンググループ報告書」』を検索すると次のような結果で三番目に顔を出している。一番目、二番目の分子生物学会の公式サイトにひき続いての場所なので人目を引いたのであろうか。ところが私はこの記事の中で《論評するにも値しないような出来であるのに失望した》とこの報告書に断罪を下しているのである。具体例を一つ挙げてなぜ私が失望したかを述べているので、私の意味するところは読者にご理解いただけるとは思っているものの、「論評するにも値しない」とは年甲斐もなく木で鼻を括ったような決めつけであることが気になりだした。なぜ「論評するにも値しない」のかもう少し説明をすべきではないかと思い始めたところに、都合良くこのGoogleの検索に出てきた二つの記事が私の目にとまったのである。


   (2008/10/19 17:33現在、20日午後6時25分現在ではトップに出ている。)

六番目のエントリーは「地獄のハイウェイ」さんの分子生物学会のカミングアウトという記事で、分子生物学会が《「学生の資質が低下」「学位審査が甘くなっている」とはっきりと書いてあるし自立した若手研究者の育成が、実際にはほとんど行われていない》ことなどを分子生物学会がよくぞ自ら認めたものよ、との趣旨のものである。

また七番目のエントリーは「ある理系社会人の思考」さんの大学院教育がイマイチだと学会が認めたという記事で、そのタイトルように趣旨は「地獄のハイウェイ」さんと共通するところがある。現役のお二人は報告書のこの部分の文章を違和感なく受け取られたようであるが、一昔前に現場を離れて大学事情に疎くなった私には引っかかるところだらけなのである。そういうことから論評に値しないと云いきってしまったのである。そこで「地獄のハイウェイ」さんが引用されている報告書3ページにある次の文章を例に、そのどこがどう問題なのかを順を追って述べたいと思う。

《しかし、大学院の重点化で学生の資質が相対的に低下し、自立を促すような教育が以前より難しくなっていること、および最終的な学位審査が甘くなっていることが懸念される。また、学問の専門性の深化に加え、大学の法人化等による組織の変動や研究者への職務の負荷の増大のため、研究者間の交流がより難しくなっていることは憂慮するべきことであろう。今一度、単に研究成果だけを求めるのではなく、自立心のある若手研究者の育成を可能とし、相互批判できる研究者社会の再構築を考えるべき時期にあるのではないだろうか。》(強調は引用者、以下同じ)

この文章全般の問題は、具体的な内容が伝わってこないのに、自己反省的な弁が一人歩きをして、それにほだされてか多くの人が満足してしまうところにある。

まず強調部分の『大学院の重点化で学生の資質が相対的に低下し』とはどういうことなのか。大学関係者が折に触れて仲間内でこのようなことを話しているのかも知れない。しかし国民をも視野に入れての報告書となると仲間内での言葉は通用しない。大学院の重点化で学部教育より大学院教育が重視されるようになり、大学院生のより手厚い教育が可能になったと世間では受け取るのではなかろうか。そう思っているところに『学生の資質が相対的に低下し』なんて唐突に云われると、頭脳が思考停止してしまう。しかも『相対的』とは何に対してどうだと云うのだろう。この『学生』が大学院重点化を遂げた大学の内にいるのか、外にいるのか、それとも内外を問わずなのか、それすら分からない。このように説明が絶対的に不足しているものだから、並べられた言葉が何の意味も持たないのである。

次に『自立を促すような教育が以前より難しくなっている』とはどういうことなのか。まず早い話が『自立を促すような教育』とは何を指すのか。というよりそもそも院生や若い研究者をテクニシャン代わりに使ってきた指導者に『自立を促すような教育』という意識が一欠片でもあったのだろうか。

私が博士課程の院生を指導していた頃は、研究テーマを与えてからは論文の作成、投稿に至るまで、一貫して院生が研究を主導した。その間、新しい実験結果が出る度に共に検討を行い、お互いが納得するまで実験を繰り返してそれが完成すると次の実験に移っていくのが常であった。論文執筆ももちろん院生が一から始めて原稿がまとまったところで私が査読し、徹底的に朱筆を入れる。それをもとに院生がまた書き直す。私の朱筆が気に入らないと自説を強硬に主張する院生もなかには居て、十回近くもやりとりを交わす場合もあった。全過程を通じて徹底的な議論は当然の前提であった。

これが私の行ってきた『自立を促すような教育』で、この「しごき」に堪えられた院生のみが晴れて博士の学位を得ることが出来た。私の周辺ではこのような研究指導・教育が至極当たり前のことで、指導者と院生の共通認識であった。この『自立を促すような教育』を念頭に置いて上記の文章を見ると、次のような疑問が生じてくる。

私のやり方で『自立を促すような教育』をすることが『以前より難しくなっている』とは具体的にはどういうことなのか、私には理解できない。そこで報告書の中の気になる部分に注目しよう。4ページの真ん中からやや下がったところの《PIが、筆頭著者となる大学院学生などには論文を書く実力が足らないと考え、また、研究競争に不利にならないよう、自らが効率よく複数の共著者のデータをとりまとめ論文の執筆を行うことは、昨今ではしばしば耳にする。》という文章である。

『昨今ではしばしば耳にする』とはまるで他人事のようであるが、この報告書を作成した委員全員が自分の行っていることをこのように婉曲に表現したとしよう(反論があればどうぞ)。とするとこの強調部分は私が云う『自立を促すような教育』なんて、もともとから分子生物学会関連研究室では行われていなかった、と云っているようなものである。『自立を促すような教育が以前より難しくなっている』の『より』は「比較」の基準を示す格助詞ではなく、時間的起点を示す格助詞と受け取って『以前から難しくなっている』と解するべきなのであろうか。それはそれなりに意味が通じることになる。しかし報告書を読む者に、このように「一体何を云いたいのだろう」とあれやこれやと考えさせる文章なんて最低で、これが私が以前のエントリーで《国語能力の欠如》と指摘したものの一例である。

『最終的な学位審査が甘くなっている』のは、当たり前のこと。上の強調部分にあるようにPIが自分の欲望追求のために研究指導・教育をないがしろにし、PIが執筆した論文で院生に学位を取らせているのだから。

これではっきりしているのは、研究指導者がまともに研究指導・教育を行っていないことが『自立を促すような教育』の欠如になっていることなのである。まさにそれを裏付けるように報告書の引用部分で『学問の専門性の深化に加え、大学の法人化等による組織の変動や研究者への職務の負荷の増大のため、研究者間の交流がより難しくなっていることは憂慮するべきこと』と述べ、外的環境の変化を研究指導・教育に十分時間を取ることの出来ない言い訳としている。

しかしこの引用箇所も具体的に何を云っているのか理解しにくい。『学問の専門性の深化』とは何を意味するのか。私が現役時代の昔でも『学問の専門性の深化』は存在していた。たとえば実験で新しい測定技術を導入する。それも自分で工夫したその当時は世界でただ一つしか存在しない装置で新しい現象を発見する。これこそ『学問の専門性の深化』で、私自身それを成し遂げたという些かの自負はある。それにより世界のあちこちから共同研究を申し込まれる機会が増えたのだから、『学問の専門性の深化』で『研究者間の交流がより難しくなっている』とは私の経験とは真っ向に相反していることになる。だからこの報告書を素直に受け取れないのである。報告者は一体何を云いたかったのだろう。

同じく『大学の法人化等による組織の変動や研究者への職務の負荷の増大』とは何を指すのか、これも具体的な事例で昔の大学人にも分かるように説明していただきたいものである。最近私にもよく理解が出来るある酵素に関して特許申請がされていて、たまたま私は申請書に目を通すことが出来た。私は研究結果を特許の種にすることにはもともと反対なのであるが、その立場を離れたとしても、なんと無駄、無益なことに今の研究者がエネルギーと時間を浪費しているのかとの思いを深くした。そしてそのような駆り立てられる研究者に一面では同情の念を抱いた。しかしそのような行為がただ特許申請という実績作りのためだけのもので、いかにその申請内容、申請行為が馬鹿げているかは申請者自身が一番よくご存じのことであろうと私は確信している。となればそのような馬鹿げたことを自分でやらなければ済む話である。今の評価システムで研究者の評価を上げることにはならないが、そんなことはどうでも良いではないか。自分が何をなすべきか、それを真摯に考えれば、研究や教育を阻害しかねない一切の余計なことを勇敢に廃することが出来るではないか(機会があればこのような特許申請がいかに愚行であるのか詳しく論じたいと思う)。

また新しいご時世というのか、大型予算が組まれるようになり旅費が潤沢になったせいだろうか、研究室を留守にして出張にあけくれる研究者をけっこう見聞する。私の大学時代の恩師はそれこそ海外には一度もお出かけにならなかった。その代わり外国からノーベル賞クラス(実際の受賞者も)の学者が多く訪れてきた。もうすでに恩師は実験はされなかったが、教授室には居られるのが普通のことであったので、教授室の前を通る時は足音を忍ばせたものである。ノーベル物理学賞の益川博士がパスポートを持たれたことがなかったことが大きな話題になったが、私の恩師はまさしくその先駆者でもある。このような教授を身近に見て私は育ったものだから、研究室を留守にすることの多い教授の存在が理解できないのである。この報告書では《杉野元教授は、米国NIEHS/NIH に長期的に出張し、研究室を不在にすることが多かった。例えばここ数年は、数名の学生とともに夏に1ヶ月以上滞在していた。》と、教授の研究室からの不在を問題視しているが、教室員に教授の勤務評定をさせたら杉野氏なみに、もしくはそれ以上に、研究室を留守にすることの多い教授が続出するのではなかろうか。

話がやや横に逸れたが、要するに研究指導者が研究・教育以外の『雑務』を切り捨てる勇気があれば、私が云うところの『自立を促すような教育』に真正面から立ち向かえる時間てら十分にひねり出せるであろうと私は云いたいのである。それなのに『大学の法人化等による組織の変動や研究者への職務の負荷の増大のため、研究者間の交流がより難しくなって』なんてただ受け身となって託っているようでは不甲斐ないとしか云いようがない。

日本分子生物学会「論文調査ワーキンググループ報告書」は今ここに取り上げた数行の文章に対してすら、これだけの疑問を私は抱くのである。もしこの報告書全体を私が閲読するとすれば無数のクエスチョンマークと朱筆で埋め尽くされること必定である。これでもって私が以前のエントリーで《全般的に科学者の報告書とは思えない曖昧さを多く残したままにしており、稚拙な論理の組立と国語能力の欠如と相まって、この報告書は真面目に読もうとするものを苛立たせるだけなのである》と述べたことの理由をご理解いただけたかと思う。

没後80年記念 佐伯祐三展にでかけて

2008-10-19 15:55:05 | 音楽・美術

先週天王寺の大阪市立美術館で開かれている佐伯祐三展にでかけた。副題に「―パリで夭折した天才画家の道―」とあった。三連休の中日で正午過ぎということもあり、入館者はほどほどで2時間ほどかけてゆっくりと作品を見て回ることができた。時間がかかったのは思いの外作品が多かったせいで、カタログによると佐伯祐三の作品だけでも139点を数える。

佐伯祐三の作品を画集で見たのは大学院の頃だったかと思う。当時からジョルジュ・ルオーの作品に惹かれていて、それと何か相通じるものを佐伯祐三の作品から受け取った記憶がある。そして佐伯祐三からモーリス・ド・ヴラマンクに辿り着いたのである。ある日、研究室に入ってきた後輩とルオーやヴラマンクの話をしていた流れで佐伯祐三の名を出すと、彼が「高校の先輩です」と誇らしげに云ったものだから、私も負けん気を出して「ああそう、うちの高校の先輩にも小磯良平に東山魁夷がいるんや」なんて子供じみたやりとりを交わした覚えがある。佐伯祐三は大阪府立北野中学校の卒業生、私の出た兵庫高校の前身が兵庫県立神戸第二中学校なのである。

小磯良平、東山魁夷にくらべて佐伯祐三の名を知る人は少ないのではないかと思う。明治31(1898)年に現在の大阪府北区中津にあった浄土真宗本願寺派の光徳寺で生まれ、昭和3(1928)年にパリ郊外の病院で30才の生涯を終えていることがその一因であろう。ところで清岡卓行著「マロニエの花が言った」は上下二巻の1200ページに及ぶ大著で、下巻の帯にあるように「輝ける時代の国際芸術都市パリへの著者一生の思いを託す渾身の大河小説」なのであるが、このなかで佐伯祐三が登場するのはただの15行なのである。しかし作者がこの15行に祐三の人生を実に見事に凝集しているのでこの部分を引用させていただくことにする。これ以上に私が口を挟むことはほとんどないのである。当時パリにいた岡鹿之助のことを事細かに述べているのであるが、1925年に鹿之助が二点の油彩をサロン・ドートンヌに出品して一点だけが入選したことを記して次のように続く。



《奇しき縁というか、同じサロン・ドートンヌに佐伯祐三の『靴屋』と『煉瓦屋』ならびに同夫人米子の『アルルのはね橋』という三点の油彩が初入選していた。祐三はそのころ、モンパルナス駅からすこし南のシャトー街十三番地にある集合住宅の四階の部屋に住んでおり、その一階入り口の横の靴屋が入選作一点の題材になっていた。
 鹿之助と祐三は同年の生まれで、東京美術学校の卒業とパリ到着はどちらも祐三の方が一年早かった。二人のあいだに交際はなかったが、じつに対照的な人生行路を歩んでいる。
 祐三は美校時代に肺結核となり、当時は怖ろしいものであったこの病気のためか、画業への性急な情熱に燃えた。パリでは、兄からの送金があったが、妻と幼い娘を伴った滞在の生活はあまり楽ではなかった。画題としてはとくにパリの庶民的な町や人物を好み、そうした対象への親近感に、画家内部の沈鬱や激情がさまざまな度合いで結びつく、ときに明るい逞しさや寂しさの、ときに暗い狂おしさの油彩を描きつづけた。
 サロン・ドートンヌに入選した翌年に東京に戻り、その翌年またパリにやってきて、教会や町の中の広告のある石の壁などを猛烈に描きつづけるが、さらにその翌年、肺結核に精神分裂症気ぎみの兆候も加わり、精神病院で死亡する。愛した家族のうち、六歳になっていた娘はその二週間後に肺結核で死亡し、もともと松葉杖を離すことのできなかった妻だけが残る。
 佐伯祐三の生涯を示す彼の絵の展覧会を眺める人はおそらく、そこに現れる悲劇的な調子に胸が痛くなってくるのを覚えないわけにはいかないだろう。彼の画業には壮烈な戦死とでも呼ぶほかはないようななにかがある。》(上巻、89-90ページ)

確かに悲劇的といえるのかも知れない。しかし萩原朔太郎が『旅上』と題した次の人口に膾炙した詩を発表したのがまさに同時代、1920年代の前半である。

   旅上  萩原朔太郎

 ふらんすへ行きたしと思へども
 ふらんすはあまりに遠し
 せめては新しき背廣をきて
 きままなる旅にいでてみん。
 汽車が山道をゆくとき
 みづいろの窓によりかかりて
 われひとりうれしきことをおもはむ
 五月の朝のしののめ
 うら若草のもえいづる心まかせに。

このことを思うと、そのフランス行きを家族三人で実現させ油彩三昧に耽ることの出来た祐三に、私は超エリートとしての幸運を羨む気持ちさえ湧いてくる。そう思ってみると祐三の残した作品群はノブレス・オブリージュの証なのである。私もあらためてこれからの自分の人生に立ち向かう勇気を得たように思う。これだけの作品を一堂に集めた主催者の努力を多とするが、個人的には石橋財団ブリジストン美術館が所蔵するはずの『テラスの広告』にお目にかかれなかったのが残念であった。


日本分子生物学会「論文調査ワーキンググループ報告書」に失望して

2008-10-16 12:18:03 | 学問・教育・研究
科学論文のデータの捏造と改竄を教授自らが行ったという特異なケースとして注目を浴びたいわゆる阪大杉野事件が表沙汰になったさいに、私は阪大杉野事件への関連学会の対応は?で、以下のような問題提起を行った。

《今回は杉野教授がJBCに発表した論文の『不正』がことの発端であったが、「Genes to Cells」にも杉野研究室からの論文が掲載されている。私は日本分子生物学会がこれらの論文についても信憑性を独自に検討するべきだと考えるが、現在のところかりに動きがあるにしても外部には伝わってきていない。

日本分子生物学会といえば、同じ仕事仲間同士が集まっている、その意味ではもっとも血の濃いいもの同士の集団である。なにか『徴候』を感じる人が一人ぐらいはおってもいいような気がするが、今はそのことを深く問わない。しかし現実に他誌への投稿論文に不正があったことが判明した以上は、この学会誌への掲載論文について学会として何らかの対応をなすべきである。自浄能力は大学だけに問われているのではないことを、学会員は心に銘記すべきなのである。

日本分子生物学会は何がどの程度まで明らかにされうるかはさておいても、阪大杉野事件にそれなりのコメントがあってしかるべきだろう。極めて難しい問題ではあるが、関係者の前向きの取り組みがお互いの信頼感をより強めることになることは間違いない。》

この10月10日に日本分子生物学会が「論文調査ワーキンググループ報告書」ならびに「意見書(杉野元教授)」を公開したのである種の期待をもって目を通したが、結果を先に述べると、論評するにも値しないような出来であるのに失望した。その不誠実さの一つを取り上げると、なぜ私が失望したかお分かりいただけると思う。

5人のメンバーからなる「日本分子生物学会論文調査ワーキンググループ」が設置されたのは、私の問題提起から半年以上も過ぎた2007年4月である。《杉野元教授を主要著者としてこれまで発表された論文について、あらためて共著者への聞き取り等をもとにして調査した》ところ、《最近発表された下に掲げる論文5 報の図のいくつかについて疑義が呈された》というのである。その論文とは以下の5編である。

  1. JBC. 2006, Epub on July 12 (already withdrawn)
  2. JBC. 2006, 281; 21422-21432. (already withdrawn)
  3. JBC. 2002, 277; 28099-28108: Fig. 1E, 3, 5C
  4. JBC. 2002, 277; 37422-37429: Fig. 2, Table 3
  5. Genes Cells 2005, 10; 297-309: Fig. 3, 6, 7

5番目の「Genes Cells」は正しくは「Genes to Cells」ではないかと思うが、それはともかく、これが日本分子生物学会の学会誌であるので、ここに掲載された杉野氏の発表論文の信憑性の追求を私は望んでいたのである。この論文に関する報告書の部分は次の通りである。

《論文5に関しては、共著者から提出された資料にもとづいて、本WGで内容に誤りがあると判断し、ここに新たに報告する。杉野元教授は、実験データの一部が何者かに持ち去られてしまったので有効に反論できないと主張されている。》(強調は引用者、以下同じ)

「ここに新たに報告する」とあるから、大阪大学大学院生命機能研究科研究公正委員会の行ったような精緻な調査報告が続くのかと思ったら、なんとなんと、ただこれだけで終わりなのである。あまりの呆気なさに私は目をぱちくりとさせてしまった。日本分子生物学会はこの報告書の「はじめに」で《杉野元教授の論文問題に対する説明責任を果たす》と宣言している。その答えがもう一度引用するが後にも先にも、《論文5に関しては、共著者から提出された資料にもとづいて、本WGで内容に誤りがあると判断し、ここに新たに報告する》、ただこれだけなのである。杉野氏の「Genes to Cells」に掲載された論文が何編で、それを全部調査したのかどうかも分からないが、論文5の内容に誤りがあったことだけを鬼の首でも取ったかのように吹聴してそれで終わり、これには杉野氏も反論のしようがないだろう。

以上はこの報告書のクオリティを示すほんの一例で、全般的に科学者の報告書とは思えない曖昧さを多く残したままにしており、稚拙な論理の組立と国語能力の欠如と相まって、この報告書は真面目に読もうとするものを苛立たせるだけなのである。嘘だと思ったらどうぞ論文調査ワーキンググループ報告書にお目通しあれ!杉野氏の意見書も含めて9ページのPDFファイルである。

本当はこれで終わりにしたかったのであるが、ひとつ見逃すことの出来ない次のような言説があったので取り上げる。その言説とは「おわりに」に出てくる以下の部分である。

《今回の論文問題を含め、昨今研究社会で稀ならず露見する研究不正問題は、研究の競争環境も背景にあり、もし今後、競争的研究環境が強まる中で研究者社会が性善説で成り立っていかない状況になれば、上記のような事後処理的なしくみだけでは不十分であるということになるおそれがある。そのような場合には、内部告発に頼ることなく、研究者による調査機関、あるいは第3者の調査機関が、定期的に研究グループの研究体制を調査し、また発表論文については抜き打ち的に研究者の保有する生データと発表内容を対比するような調査をすることが必要となることも考えられないことではない。》

強調の部分は、たとえば永井荷風の「断腸亭日乗」などに出てくるが、戦前、私娼窟の取り締まりを抜き打ち的に行っていた警察の臨検を思い出させるものがある。こういうことを連想する私も古いが、その私が驚く学問・思想の自由に真っ向から対立する『臨検』なる発想を研究の場に持ち込む可能性をこの報告書は示唆しているのである。そのような報告書を公表する日本分子生物学会の体質とは一体なんだろうか。

「杉野元教授の論文問題の背景についての考察」の冒頭に《杉野研究室における個々の研究指導は、一般的な研究室のものと大きくかけ離れてはいなかったと思われる。》と記しておきながら、その数行後には研究指導の実態として《1つの研究課題に必要な実験を細分化して複数の学生や若手研究者に分担遂行させる研究体制》とも、《研究の全体構成を把握しているのは杉野元教授だけであることが多く(ただし、杉野元教授は、説明はしていたと主張している)、個々の担当者の研究内容は必ずしも系統的でなく、その時に必要な実験を場当たり的に分担する状態であったようである。また、共同研究者や学生が全体構成を把握しているか否かにかかわらず、このような分担の指示があった場合には、立場上、断れない状況であったとの関係者の指摘もあった。》とも述べられている。また「PI (principal investigator;研究責任者)を中心とした研究グループ」では、それに続いて《今回の事例では、特有の背景を指摘することもできるであろうが、グループ構成員とPIとの議論や研究進行中のグループ内の交流は確保されていたことも認められる。その点ではごく一般的な状態の研究室で起きた事件であり、今後の研究者の姿勢について多くの教訓を示している。》とも記されている。

私がかねてから指摘しているように学生や若手研究者をテクニシャン代わりに使っているとしか思えない杉野元教授の研究指導が、分子生物の「一般的な研究室のものと大きくかけ離れてはいなかった」とか、「ごく一般的な状態の研究室で起きた事件であり」と云うのであれば、これはこれでおおごとである。これが『臨検』的発想が日本分子生物学会内ですんなりとまかり通る風土ということになるからである。

論評するに値しないといいながら、ついつい筆が滑ってしまったので、もう一つ当今の学者・研究者のだらしなさを指摘しておこう。それはこの報告書につけられた杉野元教授の意見書の次の一文にある。

《今回の件で最も致命的なことは、阪大調査委員会の為の資料提出の準備中、大学の私の教授室の書架に置いていた1999年から2006年までの私の実験ノートファイルが紛失しているのが判明したことです。2006年8月11日以降(8月10日には書架に実験ノートファイルがあったことを私の秘書が確認しています)、私がアメリカ出張から帰国して大学に出勤した8月31日迄の間に何者かがこれらを持ち去ったと考えられます。このノート紛失がこれら全ての件に関して私が行った実験の生データの証拠提出が不可能となり、私の立場がより一層不利になってしまいました。》

Dan BrownやMichael CrichtonのSFでもあるまいに、このレベルの弁明で世間が納得するとでも思っているとしたら杉野氏は文字どおりの学者馬鹿である。当然警察へは盗難届が出されていることと思うが、捜査の進捗具合を知りたいものである。これに対して報告書はなにも触れていないので読む者にフラストレーションを残すだけとなっている。

学問・思想の自由を守ることに鈍感な日本分子生物学会の会員から、これからも不祥事が露呈したとしても私は少しも不思議には思わないだろう。若い将来のある学問の担い手が不祥事に巻き込まれないよう、ただそれを祈るのみである。

阪大杉野事件に関して、私なりの考えは阪大杉野事件の結末・・・にまとめたつもりである。


巨峰で氷菓

2008-10-14 18:32:18 | Weblog

テーブルに出ている今朝の「巨峰」はなんだかおかしい。皮の表面が白っぽく変色していてカビのようにも見える。まさか貴腐菌が付いたわけではなかろうと思い、触れてみると冷たくて硬い。アイスワインが出来そうだなと想像を巡らせていたら、「巨峰のシャーベット」と妻が宣う。と、疑問が氷解した。

私は葡萄のたぐいが好きなので、今は嬉しい季節である。母がよく買ってきたのはその当時出回り始めたのだろうか小粒で甘いデラウエアで、指先でつまんで上手に潰すと中身が口の中に飛び込む。手を房と口先の間を忙しく動かして、リズミカルに食べたものだ。今も時々店先で見かけるが、忙しなく食べるというイメージがあってほとんど手を出すことが無くなった。

かっては高級果物だった巨峰が今やスーパーにふんだんに出まわるようになり、手頃な値段だと思うと自分でも買ったりする。しかし巨峰とカノンホール・マスカットを交配したピオーネは私にとっては今でも高級品で、巨峰と並んでいるとつい巨峰に手を出してしまう。もっとも巨峰とは名づけられているものの、食べてみると食感が必ずしも同じではなく、ふつうの葡萄のようなものもあるのでご時世がら偽装品かなと思ったりすることもある。

巨峰もそろそろシーズンの盛りを越えたからだろう、房からもげた粒だけのパックを先日妻が3ケースも買ってきた。嬉しそうに「これで200円」という。まともなら1000円は優に超すほどの量だから確かに安くて良いけれど、もう痛みかけであまり時間をおくわけにはいかない。そうかといってガツガツと餓鬼のようにむさぼり食うのは紳士の沽券にかかわる。それなのにあまり食卓に姿を見せない。どうなったのだろうと思っていたら妻が冷凍庫で凍らせていたのである。

食事の始まる前に食卓に出しておくと、ちょうど食事を終える頃に巨峰の表面だけが適当に柔らかくなり、皮がつるっと綺麗に剥ける。口に入れると冷たいがコロコロと口中で転がすと果汁がじわっと味覚を刺激する。果肉はナタ・デ・ココのような歯ごたえがあってなかなかの食感である。これはお勧め、新しい氷菓の誕生である。

ノーベル賞雑感 そして思うは巨大粒子加速器より人材育成を

2008-10-10 11:10:18 | 学問・教育・研究

昨日の朝刊に続いて今朝の朝刊も日本人ノーベル賞受賞の記事が一面トップに大きく出た。昨日はノーベル物理学賞、今日は化学賞でその下村さんの受賞がなければ間違いなく東証終値952円安、過去三番目となる下落率の記事が一面を真っ黒に埋め尽くしていたことだろう。ノーベル賞様々である。ついでに医学生理学賞も日本人が取っておれば良かったのに、と、これは叶わぬ願いであった。受賞された方々には心からお祝いを申し上げる。

今夜のNHKクローズアップ現代に益川敏英、小林誠両氏が生出演されていたが、お二人の人柄が素直に感じられて良かった。マスメディアに追い回されて少々お疲れの様子であることが、ノーベル賞受賞がまさに社会的現象で、そのインパクトが株価大暴落を上回るものであることを図らずも証明しているようであった。

ノーベル物理学賞が素粒子理論で米国シカゴ在住の南部陽一郎氏と上記の二氏に与えられたと聞いて、私はこれぞノーベル賞らしいノーベル賞だと思った。理論物理だからアイディアだけが勝負の世界、研究費は「紙と鉛筆」があれば十分だから、いわば誰でもレースに参加できる。研究費がないから研究できない、なんて言い訳が通らないこれほどフェアな世界は他にない、と思ったからである。

ところが昨日の日経夕刊に掲載された益川博士の記者会見での発言に、私は一瞬、はてなと首をかしげた。「自然科学は研究のための大変な予算を国民の皆様から頂いており、成果を還元していかなければならない」がその発言である。益川さんに実感のある自然科学とは、「紙と鉛筆」があれば十分にやっていける素粒子理論の研究であるだろうに、なぜ「大変な予算を国民の皆様から頂いており」と言うことになるのだろうと素朴な疑問を抱いたからである。しかしふと思い当たった。「小林・益川理論」はもともとは仮説で、それが実験により正しいことが確認されたがゆえに理論として意味を持つようになったのであろう、と。その実験設備に膨大なる国家予算が使われているのである。そのことを益川博士がいわれたのだとすると私も納得できる。自然科学ではまず仮説があり、その正しさが何らかの手段によって確認されてこそ始めて仮説が理論に昇格するのであって、実験による証明があるなしで、同じことを言っていてもその重みに雲泥の差がある。科学者が同じ社会的発言をしていても、ノーベル賞を貰うと俄然世間がそれを重く受け取る、それ以上の差が仮説と理論の間にはある。

となると私の素朴な疑問は「小林・益川理論」の提案者である両氏と、その正しさを実験的に確認した研究者とのセットでノーベル物理学賞になるのではないのか、ということである。ところが巨大設備を動かすには多くの研究者・補助者が共同で作業することになるので、その成果をまとめた論文には、場合によれば無数の著者名がずらりと並ぶことになる。ノーベル賞は一つの分野で受賞者は三人までの原則を拡大しない限り、関係者の誰もが異存のないかたちで実験担当者を受賞者に選ぶことは不可能であろう。それではいくら巨大設備を作っても、作った側にノーベル賞がやってくるという意味でのメリットは無いことになる。このようなミミッチイ話になるのも、読売新聞の伝える次のニュースを見たからである。

《河村官房長官は8日午前の記者会見で、日米欧などが進める巨大粒子加速器「国際リニアコライダー」(ILC)計画について、「政府として本格的に取り組むときが来た。関係府省で検討する仕組みをつくる必要がある」と述べ、日本国内への誘致に前向きな姿勢を示した。(中略)ILCは、全長約40キロ・メートルのトンネル内で高速の電子と陽電子を衝突させ、宇宙誕生のビッグバンに相当するような高エネルギーを発生させる大規模な実験装置だ。建設費は数千億円ともいわれ、候補地や費用の負担が計画の関係国の課題となっている。》(2008年10月8日19時29分 YOMIURI ONLINE)

「政府として本格的に取り組むときが来た」そうであるが、早くもこの件で閣議決定でもなされたのだろうか。そうではあるまいと思う。河村官房長官は小泉内閣で一年間ほど文部科学大臣をなさった方なので、当然職務上この巨大粒子加速器計画のことはご存じであったのだろう。それでノーベル物理学賞三氏受賞のニュースに、乃公出でずんばとつい舞い上がって、政治家のお好きな箱物作りを短絡的に唱道なさっているな、と私は思った。ノーベル賞でしか科学研究の価値を判断できない政治家の方に申し上げるが、上にも述べた理由で、巨大設備が巨大設備であるほど、それを作った側からはノーベル賞は遠のくのである。いかに基礎科学の発展に欠かせないとしても、このような巨大設備はもはや一国がその国威発揚をかねて建造する時代はもう過ぎ去った。科学は全人類のものである以上、国際協力が主軸となるのは必然の成り行きで、わが国は国力に見合った寄与は当然行うべきであると私は思う。しかし今のわが国にとって巨大設備作りよりも遙かに大切なものがある。私がかねてからタンパク3000プロジェクトとB29の絨毯爆撃などで唱えている人作りである。物理学賞の南部博士と化学賞の下村脩博士の経歴にますますその思いを深くした。

物理学賞の南部博士は1961年に発表した論文が、また化学賞の下村脩博士の場合は1962年のイクオリンとGFPの発見が基になっているとのことある。ともに四十代、三十代に米国で挙げられた業績で、もう40年以上も前の出来事である。「長生きしてラッキー」という下村さんの言葉が新聞紙上にあらわれたが、まさにご本人の実感であろう。南部さんにしても同じようなことが云えるように思う。そしてこのお二人を学問的に育てたのが米国であるという事実に私は思いを馳せる。

朝日新聞は下村さんの次のような言葉を伝えている。「米国に居続けたのは?」と聞かれて「昔は研究費が米国の方が段違いによかった。日本は貧乏で、サラリーだってこちらの8分の1。それに、日本にいると雑音が多くて研究に専念できない。一度、助教授として名古屋大に帰ったんだけど、納得できる研究ができなかったので米国に戻った」と答えている。この下村さんの経歴を拝見して、私は野口英世博士を連想してしまった。 南部さんにも米国に定住し、1970年には米国籍を取得されたそれなりの重い決断がおありになったのであろう。そのお二方が選ばれた日本ではない新天地での業績が今回の受賞に繋がったことの意味することは大きい。私が渡米したのは1966年でお二方の時代よりやや下がるが、それでもその頃の時代背景の多くを共有していたと思う。事実私自身も米国に留まるよう具体的な提案を頂いたし、私の知己・友人が何人も米国に定住している。それに関する身近な出来事を以前ブログで取り上げたこともある。米国移住は他人事ではなかったのである。

ノーベル賞ダブル受賞ニュースで沸き立つ興奮が落ち着いたところで、南部、下村の両氏に米国での研究環境をできれば日本での環境と対比してじっくりと語っていただき、日本における人材育成のシステム作りにぜひとも生かすべきである。 二十代、三十代の若い研究者に思う存分能力を発揮させる人材育成のシステム構築こそ、行き所のないポスドクを拙速に乱造した政府の反省の言葉すらまともに聞こえてこない今、巨大粒子加速器建造よりも焦眉の急である。益川さんも「日本の科学 安泰でない」と、「入試のあり方なども含め、この機会に教育環境を再検討した方がいい」と警鐘を鳴らしておられるのも同じ思いからなのではなかろうか。

書き始め(10月9日)てから書き終わるまでに日付が変わってしまったことをお断りする。


文科省の「女性研究者増やせ」には男が変わらなくちゃ

2008-10-07 22:59:56 | 学問・教育・研究

一昨日(10月5日)の朝日新聞朝刊に載っていた記事である。現在わが国の女性研究者の割合は12.4%であるが、女性研究者を増やすために第3期科学技術基本計画(06~10年度)は採用の25%を女性にする目標を掲げた、とのことである。文部科学省が来年度から《女性の割合がとくに低い理・工・農学系を対象に、人件費の一部と初期の研究費として、女性研究者の新規採用一人当たり年600万円を3年間補助する》、というのが注目を引く。

女性研究者の割合を増やすとの趣旨は結構なのであるが、この強調部分が何を意味するのかこの記事だけでは分かりかねる。従来の定員外に女子研究者を別個に新たに雇用するという意味だろうか。それとも定員内ではあるが大学が女性研究者を一人雇うとその大学に600万円余分に支払うということなのだろうか。いずれにしても女性研究者を増やすために予算措置を考えているのだから、文科省はかなり真剣なのであろう。

私は予算面で女性研究者個人を男性研究者に比べて優遇する必要はないと思う。女性であるが故にもし研究費が何百万円も余分に与えるというのに大義名分があるとは思えないからである。しかし女性研究者が働きやすい環境を整備するのには十分な予算を注ぎ込むべきで、たとえば大学における保育所の完備などがまず挙げられるだろう。しかし女性研究者の採用やその昇進に関わる男性の意識が変わらない限り、なかなか実効が上がらないのではないかと恐れる。

私の限られた見聞の範囲ではあるが、女性研究者は間違いなく差別的に扱われてきたように思う。私が理学部の生物出身であるせいか、数学、物理、化学などに比べて周りに女性研究者が多かったと思う。ある時期には六研究室からなる生物学教室に、正規の教員として勤めている夫婦が二組いたことがある。ご本人たちをよく知る者の間では研究者としては奥さんの方の評価が高いのにもかかわらず、旦那が教授で奥さんが助手でいるのを不思議と思う人はまずいなかったと思う。数の限られたポストを夫婦で二つも占めることに対するある種の遠慮のようなものが夫婦にあり、となると女性が一歩下がって旦那を立てることになったのかも知れない。一方、奥さんを教授に旦那を助手にする手もあっただろうが、当時の男性社会ではただただ異端視されて終わりであっただろう。口さがない連中の評価が必ずしも的外れでなかったことに、研究者夫婦のなかで晩年には奥さんの方が学界において遙かに活発に活動していたという事実がいくつかある。

大学で研究者として職を得た女性は、その後の処遇にいろいろの不満があったとしても、職を得たということだけでも恵まれていたのであって、十分能力があるのにもかかわらず、男性社会であった大学・研究機関に受け入れられなかったり、また正当に扱われなかった女性研究者に同情の念を覚えることがままあった。この当時と今と、男性の意識がどのように変わっているのだろう。この新聞記事を読んでそう考えさせる伏線が私にはあったのである。

かれこれ30年ほどは前になるだろうか、私はあるユニークな学会が出す隔月刊機関誌の編集委員長をしていた。その時に私のある提案が編集会議で認められて動き出すことになった。その提案とは、手元に資料がないので正確なタイトルではないが、「女性研究者の座談会」を催して学会所属の女性研究者に云いたいことを思う存分云っていただき、その記録を機関誌に掲載して男性の蒙を啓こうと云うものであった。編集委員から寄せられた候補者をもとに参加者を人選したが、その中には何人か私の意中の方が含まれていた。

そのユニークな学会とは日本生物物理学会である。「生物物理」とは当時科学研究費の申請でも確か「複合領域」に分類されていたと思うが、新しい学問領域で、面構えからしてやる気満々の若手が寄り集まって出来た学会で、女性とても例外ではなかった。そのなかでやる気があるだけではない、学会でも高く評価される成果を挙げつつある女性研究者に出席をお願いしたのである。座談会は京大会館で開かれ、黒一点の私が司会を務めさせていただいた。

そのお一人GMさんは、私にもある程度理解できる分野で素晴らしい理論的なお仕事をされていた。ヘモグロビン遺伝子の塩基配列と、ヘモグロビンのX線結晶解析で得られた原子座標とというまさに生物と物理の究極データをそれぞれ使いながら解析プログラムで両者の相関を解き明かし、タンパク分子の立体構造を特徴付けるドメインを構成するサブ構造の存在を見出したのである。このサブ構造がマウスのような真核生物では遺伝子のエクソンに対応しており、いくつかのサブ構造がドメインを構成する際に、タンパク質に翻訳されない部分のイントロンでエクソンが分離されていることを明らかにされた。のちにこのサブ構造はモジュールと名づけられたが、GMさんはこの生物物理の理論的研究の論文を単独名でNatureに発表されていたのである。当時世界的に大いに注目された業績であった。GMさんは現在母校の大学学長として社会的にも幅広く活躍しておられる。

この座談会に出席された女性研究者の多くは助手クラスであったが、その後各分野で活発に研究を推し進め、それぞれ立派な業績を挙げて教授に昇進された。その中でもう一人取り上げさせていただくのがOTさんで、この方は私が1940年朝鮮に渡る前に神戸で幼稚園に通っていた頃、同じ社宅のご近所さんだったという不思議な因縁がある。OTさんは同じく研究者であった夫君と共に日本を飛び出して米国の大学で私と同じ研究分野の物理化学的な仕事で時代をリードする業績を挙げておられた。たまたま来日中だったので座談会への出席をお願いしたのであるが、OTさんは研究の話に加えてある意味ではエポックメイキングな話題を提供されたのである。今(1980年前後)米国の大学でセクシャル・ハラスメントが大きな問題として取り扱われている、ということで、その実情を報じる大学のキャンパス新聞を回覧された。いずれ日本でも問題になるでしょうから、女性としてはその横行を許すようなことがあってはならないと警鐘を鳴らされたのである。

「ウィキペディア」によるとセクシャル・ハラスメントと言う概念が《日本では、1980年代半ば以降にアメリカから日本に輸入された》と記されているが、この座談会の記事が機関誌「生物物理」に掲載されたのは遅くとも1980年代の始めである。従って日本でセクシャル・ハラスメントが公の形で紹介されたのはこの座談会をもって嚆矢とするのではなかろうかと私は思っている。それはともかく、OTさんが警鐘を鳴らしたように日本でも大学における女性へのセクシャル・ハラスメントが根強く蔓延しており、マスメディアでもしばしば報じられている。職場における男性の女性に対する卑劣な振る舞いこそ今では刑事罰の対象となっているが、セクシャル・ハラスメントを頂点として男性の女性に対する蔑視とは云えないものの、ある種の差別感が大学における女性研究者の処遇に現れているように私は思う。

米国でおいてすら大学や研究機関で女性研究者が採用や昇進で不利な扱いを受けていると云われている。それに関連してMITの利根川進博士が二年ほど前にニュース種になったことがある。「The Boston Globe」は《Eleven MIT professors have accused a powerful colleague, a Nobel laureate, of interfering with the university's efforts to hire a rising female star in neuroscience.
The professors, in a letter to MIT's president, Susan Hockfield , accuse professor Susumu Tonegawa of intimidating Alla Karpova , ``a brilliant young scientist," saying that he would not mentor, interact, or collaborate with her if she took the job and that members of his research group would not work with her.》のような記事を載せている。本当に女性差別があったのかどうか真偽は定かではないが、このように11人の女性教授から女性研究者のMITでの採用を利根川博士が妨害したと訴えられた事実は残る。そしてこの2006年をに利根川博士は突然MITのThe Picower Institute for Learning and Memory所長の職を辞している。

男女共同参画白書平成20年版にある「研究者にしめる女性割合の国際比較」を見る限り、日本の大学・研究機関で女性研究者の採用・昇進に関与する立場にある男性の意識がこの30年間に大きく変わったとは私には思えない。



保育所のような女性研究者が働きやすい環境を整備するにはある程度お金があればよい。しかし女性研究者を採用する際に、育児休暇や子育てなどで女性が時間を取られることを一切問題にせずに、ただ研究者としての資質のみで判断するように男性の意識を変えることは至難の業のような気がする。場合によれば保育所を作るよりも男性の意識改革のための教育プログラムを走らせる方が先決であるかも知れない。採用・昇進に公正な選考プログラムが動き出せば、ことさら女性優遇策を採らなくても女性研究者の割合が自然増加することは疑いなしと私は見る。北京五輪での女性の活躍を観れば誰でも納得できるのではなかろうか。