日々是好日

身辺雑記です。今昔あれこれ思い出の記も。ご用とお急ぎでない方はどうぞ・・・。

芦屋をぶらぶら METZGEREI KUSUDAでランチ

2010-12-04 20:40:22 | 旅行・ぶらぶら歩き
黄砂がやって来るかと思ったのに雲一つない青空が広がっている。昨日はちょっと内緒の外出をしたので今日は家に居るつもりだったが、この快晴に身体がむずむずする。そして朝日朝刊の記事が火に油を注いだ。


《全国の20を超すレストランがほれ込んで取り寄せるハムやソーセージを作る神戸生まれの職人がいる》と言う記事である。《単身ドイツに渡って修業。身につけた600種類以上の製法を日本の食材に合わせて改良し、ヨーロッパ伝統の味を芦屋で再現している》とのこと。ランチはここと決め、場所を調べてパッと飛び出した。

阪神電車芦屋駅で下車、山側に出て東の方に数分歩くと宮塚公園に差し掛かり、南北に走る道路の向かい側にあるのがこの店である。中に入るとテレビカメラを担いだ四名ほどの取材陣がいて、男性が一人私に声をかけた。テレビ朝日のなんとかなんとかと番組名を告げて、「よくおいでになりますか」と聞く。「いや、はじめてで・・・」と答えるとサッと退いた。眼鏡違いであったらしい。大きなガラスケースに沢山の出来上がりの品物が並べられている。ドテッとした肉のかたまりがそのまま置かれ、お好みの量をお切りします、といった感じでちょっと日本離れしている。店内の一郭に小さな丸テーブルが四脚とそれぞれに椅子が二脚ずつ置かれ、「イートイン」が出来ることが分かってやれやれ。いろんな組み合わせで独自のメニューが可能であるが、「シュ-クル-ト・ガルニ」の文字が目についたのでこれを白ワインとともに注文した。わが家の定番メニューでもあるので、食べ比べである。


ザワークラウト(シュ-クル-ト)に塩漬けのすね肉、ソーセージ、ベーコンを煮込んだもの。ザワークラウトの酸味がそのまま残っているので私には少々きつい。わが家では軽く水洗いして酸味を下げている。ザワークラウトのないときはキャベツの千切りとキャラウエイシードをバターでよく炒め、レモン汁をたっぷりとたらし込んだものである。ソーセージがなかなか堅く、ドイツでもこんなに堅いソーセージはお目にかかったことがなかった。しかし味わいがあり、全体がまさにドイツ(アルザス?)風。さっぱりとした白ワインとで美味しくいただけた。

テリーヌが何種類もあるので決めるのが難しかったが、「テリーヌ クール ドゥ コション」と「テリーヌ ド パンタード アーモンド」なるものを買い求め、さっそく夕食にいただいた。田舎風というか質実剛健で素朴な味わいが私の好みに合う。夜も白ワイン、これでテレビを見始めたらコックリさん、間違いなしである。



城崎温泉で消えた腕時計がわが家のソファーに出現

2010-11-28 18:12:15 | 旅行・ぶらぶら歩き
11月7日から9日にかけて友人夫妻とドライブ旅行に出かけたことを二泊三日ドライブ旅行の終わりに書いたが、その時に書かなかったことがあった。城崎温泉の三木屋でチェックアウトを済ませたときに、妻が腕時計を忘れたと言い出した。部屋にとって返したがどこにも見当たらない。忘れ物のないことを確かめて部屋を出たのだから当然のことである。しかし妻の腕に時計がないのも事実である。ハンドバッグとかポーチとか、考えられるところを探しても出てこない。宿では片付けた夜具までも丹念に調べてくれたが出てこない。部屋に見当たらない以上、荷物のどこかに紛れ込んだのかもと考えることにして、手間をかけたことを謝して宿を後にした。心には引っかかるがミスはわが方にあり、そんなことで友人夫妻に気を遣わせても申し訳ないので、「もう忘れた!」と宣言してドライブを続けたのである。

先ほど妻がお茶をそちらですると言い出した。ケーキと紅茶を私の部屋に持って行くから部屋を片付けなさいとのメッセージなのである。ソファーの上などにもあらゆる物が積み上げられ座るところもなくなっていると、それを片付けさせようとするのかこういうお節介をする。仕方が無いのでソファーの上に脱ぎっぱなしにしていたセーターとかダウンベストを片付けようとしたところ、その下にきらりと光る物がある。それがなんと城崎で消えてしまった腕時計であった。失せ物が時空を飛び越え突如現れたものだから、まるで狐につままれたような気分になった。

腕時計が消えたのも現れたのもまさに忽然、だからどのような経緯でそうなったのか簡単には思いつかない。もしかして、と考えられるのはダウンベストの存在である。日本海から湖北方面に出かけるので用心のためにボストンに積めて行ったが、着用することはなかったと思う。しかし何らかの弾みで宿の机の上にあった(ことは私も確認している)腕時計が、口を開いていたボストンの中に落ち込んでダウンベストにひっかかり、家まで持って帰ったのではなかろうか。この数日、寒いのでダウンベストを纏ったが、ボストンからベスト取り出したときに腕時計がソファーの上に落ちたのではなかろうか。今のところベストが介在していたと考えるのがもっとも合理的なように思う。二十日ぶりに姿を現したこのソーラー腕時計はちゃんと正しい時を刻んでいた。

さっそく三木屋に電話をしてかくかくしかじかと状況を説明し、どのようにしては分からないまでも腕時計が出てきたことを喜んでもらった。オフイスに「○○様、腕時計」と掲示を貼りだしていたそうである。これで宿の方も安堵されたことだろう。そう思ったら、急に食べ残してきた蟹に未練が湧いてきた。

須磨離宮公園の怪

2010-11-26 13:06:59 | 旅行・ぶらぶら歩き
小春日和の昨日、身近なところで紅葉を楽しもうと神戸市立須磨離宮公園に出かけた。山陽電鉄須磨寺駅で下車、お昼にはまだ間があったので須磨寺を訪れ、緑の中に点在する紅葉を眺める。後戻りをして須磨寺門前商店街で昭和初期に店を始めたという「志らはま鮨」に立ち寄り、おすすめの「すまの浦」を注文する。タイムスリップをしたような気分にさせられるこのお店は私のお気に入りである。店に入ったのが12時前だったので先客は一組だけであったが、出るときには外に順番待ちの客がいた。

須磨寺横の坂道を登り、離宮公園の正門から園内に入り植物園に向かう。入園者はほどほどなのでのんびりとした気分になり、マイペースで随所で紅葉を楽しむ。鑑賞温室では洋らん展をやっていた。わが家にあるのは一鉢のカトレアだけであるが、普段お目にかからない風変わりな花が多いのに驚いた。温室を出て和室のある和庭園に向かう。この周辺には紅葉が多くて階調のある展開が見事である。腰を下ろしているといつのまにかウツラウツラし始めた。

異変を感じたのはその時である。異様に高く結い上げた髷頭が目に入ってきた。派手な服にブーツ姿の女の子で下の方から上ってくる。連れの男の子は和服で刀こそ腰に帯びていないがドラマに出てくる龍馬のような姿、そして二人とも信玄袋のようなものを担いでいる。面白い取りあわせに二人を目で追っていると和室に近づいた。和室と言っても日本家屋で、和庭園からは鉤形の広縁の外側はガラス戸に、内側は障子に囲まれた和室になっているように見えるが中を見通せない。ガラス戸の内側には「一般の人は立ち入れません」と掲示が出されている。ところが先ず男の子がガラス戸を手で開けた。鍵がかかっていなかったようである。信玄袋を広縁に置き履き物を脱いで広縁に上がり、行ったり来たりしている。どこから部屋に入り込むのかを探していたのだろうか、やがて障子を開けて中に入り込んだ。続いて女の子も縁側に上がり信玄袋に履き物までも部屋の中に持ち込み、ガラス戸を閉め障子も閉め、二人の姿は消えてしまった。まるで白昼夢の一齣である。

案内書によるとこの和室はお茶会や食事会などに貸室利用ができるとある。しかし催し事があるような気配はないし受付が出ているわけでもない。あの二人、中で何をしているのだろうと次第に気になりだした。隠れ場所の穴場として若者の間には知れ渡っているのだろうか。そう言えば入り込むときも周りの様子を窺うこともなく、後ろめたいことをしているようなおどおどすることもなかった。勝手知った振る舞いのようである。若い男女が人目に隠れて何を、と変な妄想も湧いてくる。いや、器物破損ということもありうるし、何か値打ちものを持ちだそうとしているのかも知れない。となれば神戸市民の一人として見逃すわけにはいかない。「御用だ」と踏み込んでやろうかとさえ思ったが、君子危うきに近寄らずとも言う。そこでiPhoneで公園事務所を呼び出した。

自分が和室・和庭園に居ることを伝え、ところで今日は和室が何かに利用されることになっているのかと尋ねたところ、使用届が出ているとの返事が戻ってきた。しかし念のために、変な格好をした男女が縁側から入り込むのを見かけたものだからと言うと、年配者の声にマッチしない言葉が飛び出した。なんとコスプレの集まりで、お互いに衣裳を取り替えては写真を撮りあうそういう催しだという。これで納得がいったが考えたら昨日は木曜日である。まともな若者なら働いているか勉強していなければならないはずなのに、こればかりは納得がいかなかった。

思いもかけずこういうことで時間を取ったものだから、レストラン花離宮2階で開かれている「離宮公園の魅力展~王侯貴族のバラ編~」はスキップして帰途についた。


伊丹市の荒牧バラ公園をぶらぶら

2010-11-15 16:00:32 | 旅行・ぶらぶら歩き
この週末、かねてから聞き及んでいた荒牧バラ公園に出かけた。前日の天気予報では土曜日は太陽が燦燦と輝き絶好の秋日和のはずだったが、朝からどんよりとして終日太陽が顔を見せることがなかった。横浜APECに出席する中国の胡錦濤主席とともにやって来た黄砂のせいであったようだ。阪急電鉄伊丹駅から市バス2番系統「荒牧バラ公園」行きに乗り、25分ほどで着いた。

ウィキペディア「荒牧バラ公園」の解説からその抜粋と公園風景を借用する。

荒牧バラ公園(あらまきばらこうえん)は、天津乙女やマダム・ヴィオレなど世界的に名高い薔薇の品種が生み出された兵庫県伊丹市にあるテラス式庭園で、南欧風にデザインされた園内に世界のバラ約250種1万本を栽培する。

伊丹市旧市街地の北4km、宝塚市との市境近くに位置する郊外型都市公園。植物園でのバラ展示を第一の目的として造成された公園で、西にある天神川の堤防の一部を取り込むことで高低差10mを得るという設計により、平坦地にダイナミックな景観を生みだすことに成功している。250種1万本のバラは芝生広場を囲むように階段状に植栽され通路は立体迷路状となっている。その色とりどりのバラの美しさを引き立たせるために、園内は白を基調とする南欧風にデザインされている。


まず特筆すべきことは入園料が無料なのである。それでいて園内はとても美しく整備されており、現に何人もの作業員が働いていた。もっけの幸いとばかりに問いかけて、整枝、剪定の仕方などを教えて貰った。ベンチがいたる所に配置されていて、しかも腰をかけると視野が区切られた空間に狭まるので、自分の為に作られた庭園にいるような錯覚を覚えた。どの区画も居心地が良いものだから、場所を移しながら、一日でもゆっくりと過ごすことが出来そうである。これも晩秋ならではのことで、バラが盛りの初夏では人出が多くこういうわけにはいかないだろう。ちょうど良い時期に訪れたものである。

バラ公園を出ても周辺の街路の両側にはバラがずらりと植えられていて、それぞれの品種を楽しむことが出来る。世知辛いニュースばかりが流れる一方で、いつの間にか日本もこのようなゆとりを楽しめる国になっているのだと思うと嬉しくなった。

篠山をぶらぶら 毬栗 古式特技法穴太流穴太衆石垣石積

2010-10-16 20:01:38 | 旅行・ぶらぶら歩き
ふとその気になって昨日は久しぶりに篠山まで車で出かけた。黒枝豆に栗が頭に浮かんだせいでもある。舞鶴若狭道が無料になったので、神戸Jctから中国自動車道に入り丹南篠山口で出るまでの通行料が200円とは有難い。三の丸西駐車場に車を駐めて歩き回ることにした。

一度食べたらもう十分の牛とろ丼で腹ごしらえをした。とろろは良いとして、牛肉だと思うが(猪肉もあるがこれは値段が張るはず)生肉片のようなものが混ぜられていて、これは私の好みではない。店によって違うのかもしれないが、食べ比べする気は起こらなかった。

まずは御徒士町武家屋敷群に向う。昔からの屋敷がかなり残っていて、手を加えたり敷地内に建て増ししたりして、先祖伝来の家に往事の武士の後裔が今も住んでいる様子である。もちろん取り壊された屋敷跡であろうか空き地が点在しているが、それがまたゆったりとした空間を生み出しているのがよい。道ばたに黒枝豆をスタンドに盛って売っている男性が、塩ゆでした枝豆を差し出してくれた。大粒のまめがほのかな甘味もあって、ふだん口にしている冷凍枝豆とは大違いに美味しい。1.2kgが600円と値段も手頃なので一束を買った。観光客の集まる店だとこの値段では買えない。

栗の木の植わった空き地があった。よく見ると下に毬栗が沢山落ちている。それも手つかずである。その瞬間、この前に地面に落ちた毬栗を見たのは、朝鮮で父に栗拾いに連れて行って貰った昔々のことだったと思い出した。国民学校の二、三年生のころである。落ちていたのはほとんど実の入っていない毬ばかりで、さんざん探し回ってようやくまともな毬栗を見つけ出したときは、とても嬉しかったことを覚えている。それがここでは毬栗がごろごろ、もちろん木にも沢山ぶら下がっている。さすが丹波栗の本場である。直ぐ近くのスタンドで毬栗が一個百円で売られていた。


またぶらぶらと歩くうちに予期もしない工事現場に差し掛かった。旧屋敷町の一郭で三、四百坪はあるだろうか、敷地の三辺に石垣を積んでいるのである。作業をしているのは、ショベルカーを操作して大きな石を吊り上げたり移動させている人ともう一人の二人組である。立ち止まって眺めている間に休憩だろうか仕事を中断したので、その一人に何を造っているのかを尋ねた。想像がつかなかったからである。すると驚いたことに、個人の家ですと返事が戻ってきた。




勤め人だった人がが仕事を辞め、隠居生活に入るに当たってかねてから思い描いていた石垣のある家を作ることになったというのである。地元の篠山にも石があるのに、滋賀県の坂本の石を使いたいからと、わざわざそこから300トンもの石を運んできたそうである。敢えて値段は聞かなかったが、運搬費も含めると相当な額であろうとは察しが付く。正面の石垣は出来上がり、右側の石垣を築きあげている最中であった。完成の暁には石垣の上に竹塀を組まれるとか、なんとも気宇壮大な話である。出来上りを見に来たくなった。


この石垣造りを請負ったのは作業小屋の横幕にあるように、古式特技法穴太流穴太衆石垣石積の伝統的技法を継承する建設会社である。今は十五代目で、自然石を加工せずにそのまま積み上げる野面積み(のづらづみ)を得意としているとのことであった。

この後、再建された篠山城大書院を訪れた。慶長14(1609)年に篠山城築城とほぼ同時に建てられ、幕藩体制の終わるまで藩の公式行事に使用されてきたが、昭和19年1月になんと失火で焼失してしまった。しかし古絵図、古写真、発掘調査などの学術調査に基づいて改めて設計し、12億円の総工費をかけて再建したとのことである。大書院の一室で「篠山城物語」をビデオで観ていたときに、この城の石垣を穴太衆(あのうしゅう)が築いたとの説明が流れたものだから、築城術が今にいたるまで、延々と引き継がれている歴史の流れをまさに実感した。織田信長の安土城の石組みなどに活躍した石工集団がその頃から穴太衆として呼ばれていたらしい。技術を伝えるには現場での仕事を次々とこなしていくことが欠かせないのに、なかなか仕事がないので、との先ほどの作業員の方の言葉が耳に残った。

城趾の一角にある天守台に上ると眺望が開けて、篠山が間近な山々に取り囲まれたこぢんまりした盆地であることがよく分かる。その中に静かに溶け込んでいくような心地がした。



英国の友人夫妻との二日間 広島原爆資料館 厳島神社 北淡震災記念公園 すき焼き

2010-06-13 22:44:57 | 旅行・ぶらぶら歩き
かっての仕事仲間で友人でもある英国人が会議で京都にやってきた。皇太子さま どうか親孝行をの中で「London大学King's Collegeの友人を訪問した。共同研究の打ち合わせである」と述べたことがあるが、その友人である。二回ほど自分で試料を持って京都の研究室までやって来て、私の考案による当時世界で一台しかないユニークな装置を使って一緒に実験をし、何編かの論文にまとめたものである。現在はSheffieldで研究をすすめているが、その彼が夫婦でやって来た。六年ぶりの再会である。

11日は京都から新幹線のぞみに乗った彼らと打ち合わせどうり新神戸で合流、と言っても自由席の別々の車両に乗ったのか車両内を見回した限り見つからない。車上で、でなければ広島駅の降りたプラットフォームで、と取り決めていたのでそのまま広島に向かった。後で聞くと彼らは3号車でに乗っていて、私たちが2号車に乗り込む後ろ姿を見て安心したそうである。


広島駅からタクシーに乗って原爆ドームに行き、原爆死没者慰霊碑を訪れて改めて碑文の「過ちは繰返しませぬから」にしっくりしないものを感じた。何故か、を以前に述べたことがある。「あなごめし」の昼食を済ませて広島原爆資料館に向かう。すべての展示とそれに添えられた英文の説明書を丹念に読んで行くものだから私は時々失礼して椅子に腰をかけたりしていた。彼女が特に関心を持ったのは、何故広島が原爆投下地として選ばれたか、ということであった。と言うのも彼女の父親は軍人で戦争中日本軍の捕虜となり、仙台にある捕虜収容所に入れられていたのである。そのようなこともあってか、彼女は日本に対して複雑な思いを持っていたようであるが、6年前に私たちと数日過ごし、また日本を旅行して回って日本に対する見方をが変わったとは後で聞いた話である。原爆投下地として候補に上った三箇所のうち、広島だけが捕虜収容所の無いことから最初の候補に選ばれたということを説明文で知り、納得したようであった。原爆資料館で2時間はたっぷりと費やしたがまだ日は高い。タクシーで広島駅に戻り今度はJRで宮島口に向かい、フェリーで宮島に渡った。


ちょうど大潮の干潮時に出くわしたものだから厳島神社の大鳥居の周辺は干潟になり、参拝客が歩いて鳥居まで行っている。私たちもそれに加わった。私自身厳島神社を訪れたのは今回が初めてなので、こういう機会を彼らに与えられたことになる。ところが彼らにとって厳島神社はガイドブックを見ただけでは行こうと思うような対象では無かったようである。しかし風光明媚なことと厳島神社の朱色のたたずまいは印象的だったようで、昔ながらの機械式ライカを愛用している彼には大鳥居などはよい被写体であった。一方、彼女がめざとく見つけたのが後白河法皇行幸松(遺木)のひび割れの隙間に硬貨が押し込まれていたことだった。Sheffieldの家は築230年で、その頑丈な梁のひび割れに古い硬貨が沢山埋め込まれているとのことで、似たような風習?に興奮していた。再び広島駅に戻り新幹線で帰途につく。私たちは新神戸で降り京都に向かう彼らを見送った。後で聞くと、私たちと入れ替えに新神戸から乗り込んだ日本人夫婦の男性が横に座り、彼らが話し合っているの聞いて英国人と見当をつけて話しかけてきたそうである。その男性はかってロンドン大学に留学していたとのこと。すでに京大を退職しているが、神経科学?の会議を神戸で開くための相談に神戸を訪れ、京都に帰るところであったそうである。旅での思いがけない出会いを喜んでいた。

二日目の12日は正午に在来線で神戸駅まで来てもらい、車で明石大橋を渡って北淡震災記念公園を訪れた。英国ではいわゆる地震はなくて、あっても弱いtremorであると言っていた。辞書で引くと「弱い地震」とある。断層のずれの大きさと地震の規模との関連が今ひとつ飲み込めないようであったが、震災体験室で震度7と余震震度4の揺れを体験して言葉を失っていた。わが家に戻ってきたのはもう4時で、あとはのんびりと寛いでいただくことにした。

Sheffieldは鉄鋼業の栄えた都市だとのこと、だから戦争中はドイツ軍の空襲で大きな被害を受けたそうであるがあまり古い建物は少なく、被害を受けた大聖堂などもヨーロッパの他の都市、特にドイツの都市で行われたようなすっかり元の形に再建するようなことはされずに、すっかり新しい建築物となったようである。現在も金属加工業が主要産業で、刃物産業が栄えているとのことだった。ということでペーパーナイフをお土産に頂いたが、イギリスの言い伝えではナイフや鋏のような刃物をプレゼントとして人に贈ると、それまでに築き上げてこられたつながりが断ち切られるのだそうである。でも刃物が土地の名産品であるだけにどうしても人に上げたくなる。ではどうすればいいのかというと、一番安い値段で買い上げて貰うことにするそうである。そこで私も1円で譲っていただいた。これで目出度しめでたしである。お返しには夫婦がほぼ同じ背丈なので、二対がほぼ同じ長さになるような輪島塗の夫婦箸を選んでおいた。

すき焼きでもてなしたが、脂の多いいわゆる霜降りの肉と、肉質が多いもも肉とを用意した。見慣れていないと霜降りは異様で、脂を警戒する人にとっては敬遠したくなるような代物でもあるからだ。ところがそれがKobe beefなのかと聞くので(本当は何肉なのか知らないが)そうだと答えると、好みがそちらに集中するので驚いた。やはり美味しいものは美味しいということなのだろうか。

彼らと話していると英国人と話しているような気がしない。日本人と同じようなことを言うからである。仕事に就かずぶらぶらしている若者が多い。働く意欲が減退しているので徴兵制度を復活して社会への貢献を忘れないよう鍛え上げるべきだと過激なことを仰る。政変に国の借金もまたしかり、日本も英国病を患うぐらい成熟したということなのかと思ったりする。研究予算も厳しいらしいが、それでも今回の会議には研究室から女性研究者ばかり4人も連れてきて、と彼女が彼をからかうように言う。対抗意識を出すわけではないが、私も先日生野コリアンタウンを朝鮮語教室の女性4人と探訪した時の写真を見せた次第である。

彼はあと3年半すると定年ということなので、一弦琴を奏で庭にも案内したりして今の暮らしをいかに享受しているかを身を以て少しは示したつもりであるが、さあ、どのように伝わったことやら。時間があっというまに過ぎ9時になったので、地下鉄の駅まで歩き、JR三宮駅の新快速まで送り届けた。最初は三日間お付き合いをする予定にしていたが、今日13日ぐらいは二人でゆっくりしてもらった方がいいだろうと思い、その代わり昨夜は遅くまで引き留めたのであった。今日は梅雨入り初日で一日中雨であったが、休養にはちょうど良かったと思う。





JR「奈良万葉きっぷ」をなぜ利用日当日に買えないのだろう

2010-06-08 16:51:58 | 旅行・ぶらぶら歩き
昨日の「山の辺の道」をぶらぶら 大神(おおみわ)神社のことでは触れなかったが、実は出かける前にあるハプニングがあった。JR西日本が「奈良万葉きっぷ」を発売していることをポスターで宣伝しているのでそれを買おうとしたところ、JR三宮駅の窓口で係員に「今日は乗れませんよ」と言われた。乗車日の一日前までに買わないといけないそうなのである。ポスターにはこのような文言は見つからなかったが、利用制限があるようなことが書かれている。多分それなんだろうと思い、仕方なくICOCAを遣って桜井線三輪駅まで行ったのである。片道運賃は1450円であった。

帰ってから調べるとネット上に次のような説明があった。


確かに「乗車日の1日前までの発売となります。※ご利用日当日の発売はいたしません」とルールがちゃんと記されている。それを確認しなかった手落ちは私にある。しかしこの切符を利用すると往復1300円で済むところ、その倍以上の2900円を私は払ってしまったのである。この違いはきわめて大きい。確かにルールはルール、つい最近も米大リーグで審判の世紀の大誤審により完全試合記録をふいにしたタイガースのガララーガ投手が、審判をとがめずにルールに従ったことで男を上げたばかりである。そこで私もルールを認めて静かにすれば男も上がるのだろうがそこが凡人の浅ましさ、このルールにちょっとイチャモンをつけたくなった。このルールの必然性が素直に理解出来ないからである。

50%以上の割引率は大きい。しかし専門家が検討してこのきっぷの発売を決めたのはそれなりに営業利益が確保できる見通しがあってのことであろう。それなのに利用日当日の発売をしないというのはどういうわけだろう。利用者の身になるどころか意地悪をしているとしか思えない。私のようなうっかり者相手に、売ってはやらないよ、とかっての統制経済時代の売り手のように、ある優越感を顧客に誇示することでなにかの鬱憤晴らしでもしているのだろうか。これ以上言うと私の恥ずかしい品性をさらけ出してしまうことになるのでここで止めるが、利用日当日に売る、売らないの違いが一体何なのか納得のいく説明が欲しいものである。

ちなみに、先月は阪神・近鉄電車で奈良まで「せんとくん平城京1日電車乗車券」で出かけたが、この1500円の割引切符は当日阪神三宮駅で買うことが出来た。私鉄で出来ることがJRではなぜ出来ないのだろう。


「山の辺の道」をぶらぶら 大神(おおみわ)神社のこと

2010-06-07 20:26:18 | 旅行・ぶらぶら歩き
一昨日、思い立って「山の辺の道」のぶらぶら歩きに出かけた。JRで三宮駅を出発、大阪駅で大和路快速に乗り換えて奈良駅へ、さらに桜井線に乗り換えて三輪駅で下車した。大神(おおみわ)神社を起点に「山の辺の道」を北上して歩けるところまで歩こうというのである。途中で疲れたとしてもまずは最寄りのJR駅まではたどり着かないといけないので、覚悟を定めて出発した。

まずは腹ごしらえである。大神神社二の鳥居前、少し左に入ったところにある旧家をそのまま使ったというお店で冷やしそうめんを注文した。かちわり氷できりっと冷やされたそうめんの歯触りがなかなかのものである。そうめんと一緒に柿の葉寿司を注文している人が目立ったが、後になって謎がとけた(と思っている)。そうめんの消化がよすぎて?、この後てくてく歩き続けるとあっというまに空腹になってしまったのである。


まずは大和国一の宮三輪明神 大神神社にお詣りする。古事記崇神天皇にその謂われが出ている。

 この崇神天皇の御世に、流行病が盛んに起こって、人民が死に絶えようとした。それで天皇はこれをたいへんご心配になって、神託を得るための床におやすみになっておられたが、その夜、大物主大神がが御夢の中に現れて、「流行病が起こったのはわが意志でやったことである。だから、わが子孫の意富多多泥古(おおたたねこ)をもってわれを祭らせるならば、神の祟りも起こらなくなり、国もまた以前のように平安になるであろう」と神託を下された。

天皇は早馬の使者を四方に遣わし意富多多泥古を河内の美努村(みめのむら)で見つけ出す。

ただちに意富多多泥古命を神主に命じて、神が天降りこもるという三輪山に意富美和之大神(おおみわのおおかみ)を斎き祭らせられた。(中略)これによって疫病の流行はすっかりやんで、国家は平安になった。
日本古典文学全集(小学館)「古事記・上代歌謡」

境内に三島由紀夫揮毫の「清明」記念碑があり、その説明から彼が「豊饒の海」第二巻「奔馬」で大神神社を取り上げていることを知った。帰って調べてみると次のような記述が見つかった。



従って大神神社には本殿がなくて拝殿だけがあり、拝殿の奥の三輪鳥居(三ツ鳥居)を通してお山を拝むのである。神社で頂いた「三輪明神縁起」から次の写真を転載する。


この三輪鳥居を幸いにも直接に目にすることが出来た。参集殿で三輪鳥居を拝見したいと申し出たところ、神主さんに導かれて拝殿の上に登り、お祓いを受けたのち拝殿の左側奥に案内された。そこから三輪鳥居を拝見したのである。この鳥居は拝殿と神体山のうち特に神聖な場所とされる禁足地とを区切るものとされて、拝殿の奥正面に建っている。神の籠もる清明の地に古代より代を継いで生い茂っている立木を目前にすると、思いがけず感動で身が震えた。まさに神代から今に至る連綿とした人の営みに自分も繋がっていることを実感したのである。

この神体山には境内摂社の狭井神社から入山出来るとのことであった。距離は2キロほどでも登って降りてくるのに2時間はかかるらしい。「奔馬」には次のような宮司の言葉が出てくる。『もちろん一般人は入ることができませんし、ふだんはよほどの古い崇敬者に限って入山をお許ししてゐるわけでありますが、それは森厳なものですよ。頂の盤座(いはくら)を拝まれた方は、神秘に搏たれて、雷に打たれたやうな心地になると言っておられます』。「奔馬」の舞台は昭和7年で主人公の本多は大阪控訴院判事だからこその特別の扱いなのである。今は誰でも入山出来るようになったが、そのせいもあってかマナーのよくない人が増えて、と神主さんはこぼしていた。もっともこの本多にしても盤座の直ぐ上にある高宮神社で参拝をすませたあと、『汗を拭ひ、案内人に許しを乞うて禁断の煙草に火をつけて、ふかぶかと煙を吸った』のである。この神域ではたとえ禁煙との注意書きが無くても、火気を控えるのが常識と思うが、当時の超エリートがそういう配慮の働かない男として描かれているのが面白い。無神経なのか「特権」をひけらかしたのか。

拝殿の表にも案内された。きざはしの下では参拝者が柏手を打っている。それを見下ろす形なので申し訳なく思ったが神主さんの説明に耳を傾ける。正面中央の欄間に竜馬の彫り物があり、竜と馬が一体になったような動物である。神様の乗り物なのだろうか、今NHKの大河ドラマのお陰でこちらの竜馬もテレビなどでよく紹介されるようになったとのことであった。ちょっと好奇心を抱いたことから親切な神主さんに出会い、懇切丁寧な案内を受けて恐縮してしまった。神様にさし上げたのはお賽銭だけだったのに・・・。

またとない体験をした後、狭井神社で薬井戸からわき出た御神水のペットボトル入りを100円で買い求め、「山の辺の道」を北に向かって歩き始めた。まったくの山道だったり、割石を敷き詰めた道だったり、暗い道だったり明るい道だったり、道に変化があって楽しい。行き交う人も結構多くて挨拶を交わしては道を譲り合ってすれ違う。日差しは強いが木陰に入ると涼風にほっと一息つく。果樹園の点在しているのが物珍しかった。

桧原神社の高みからはるか西方を見渡すと二上山が見える。案内板によるとトロイデ式火山で、右側の雄岳の山頂に大津皇子のお墓があるとのことである。父天武天皇の没後、異母兄である皇太子草壁皇子に謀反を企てたとして捕らえられ死を賜ったとの話、また伊勢神宮斎王であった同母姉大伯皇女を伊勢に訪ねた大津皇子が大和へ帰るのを見送って、皇女が詠んだ歌として高校の時に覚えたものを今でも記憶にとどめている。二上山をはじめて目にして、そのようなことも思い出していた。

     わが背子を大和へ遣るとさ夜更けて暁露に我が立ち濡れし


次ぎに景行天皇陵を目指した。神武(じんむ)、綏靖(すいぜい)、安寧(あんねい)、懿徳(いとく)、孝昭(こうしょう)、孝安(こうあん)、孝霊(こうれい)、孝元(こうげん)、開化(かいか)、崇神(すじん)、垂仁(すいにん)、景行(けいこう)、成務(せいむ)、仲哀(ちゅうあい)、応神(おうじん)、仁徳(にんとく)、履中(りちゅう)、反正(はんぜい)、允恭(いんぎょう)、安康(あんこう)、雄略(ゆうりゃく)、清寧(せいねい)、顕宗(けんぞう)、・・・と延々人皇第一二四代今上(昭和天皇)まで、歴代天皇のおくりなを国民学校三年か四年の国史の授業で暗記させられた覚えがある。今でもここぐらいまではすらすらと出てくる。その第一〇代崇神天皇陵と第12代景行天皇陵がこの「山の辺の道」に沿ってあるので、これもまた昔を懐かしみこの二つの御陵だけは訪れることにした。景行天皇陵から崇神天皇陵に抜ける途中、暑さで少々ばてかけたが砂漠の中のオアシスよろしく、卑弥呼庵なる茶房で供された冷たい飲み物で息を吹き返した。



ここで「山の辺の道」は半分来たぐらいであるが今回はここまでとして、桜井線の柳本駅を目指した。その途中に史跡黒塚古墳・黒塚古墳展示館に差し掛かり、展示館に入った。この地域一帯の航空写真に数多くの古墳が記録されていたが、一番大きいのが渋谷向山古墳で二番目に大きいのが行燈山古墳である。折角その近くまで来ているのにこれらの古墳をどうして見逃したのだろうと思ったが、よく見ると行燈山古墳とは崇神天皇陵、渋谷向山古墳が景行天皇陵のことであることが分かった。もっとも考古学の遺跡名にどのようにして天皇由来の陵墓名を割り振ったのかそれなりの理由があるのだろうが、両所とも宮内庁の管轄になっている。それにしても崇神天皇陵で見かけた立て札の文字を含めて品のないことよ。と思うのも戦中の国史教育を受けた世代限定の反応なのかも知れない。


「山の辺の道」の残りは秋風の頃に歩くことにする。


生野コリアンタウンのあたりをぶらぶら 牡蠣キムチ

2010-04-16 17:31:30 | 旅行・ぶらぶら歩き
朝鮮語教室の仲間に桃谷が面白いですよといわれた。JRで一駅北隣の鶴橋はよく出かけるが、いつもその周辺で満足してさらに足を延ばすことはしなかった。この辺りが昔は猪飼野と呼ばれていたことは知っていたが、それ以上のことは何も知らない。それで急に行ってみたくなったのである。

JR大阪環状線の桃谷駅で下車しておおよその見当をつけて桃谷商店街を歩き出した。天神橋筋商店街のミニチュアのようも見えるが長さもかなりあり、探訪するのも面白そうである。歩いていても先がなかなか見えてこないものだから、すたすたと歩いてく男性に声をかけてコリアンタウンへの行き方を尋ねたところ、まっすぐ歩いて行って広い通りに出たら左に曲がり、やがて神社が見えてくるからそこの信号で右に曲がりなさいとのことだった。とても分かりやすい教え方に感謝する。

この神社が御幸森天神宮(みゆきもりてんじんぐう)である。境内に「御幸森」なる地名の由来の説明板があった。

この辺りは、百済野(くだらの)といい、三韓(百済、新羅、高句麗) とくに、百済の人たちが多く住み、優れた文化の華をさかせていた。
又、この地は水鳥の群棲する景勝地であり、仁徳天皇は鷹狩りの為にしばしば行幸したり、この地の人々の状態を見聞するための道すがら度々当地の森に休憩したことから、この所を「御幸の森」と称するようになったと言われている。

天皇崩御の後、この地に社殿を建立して仁徳天皇を主祭神として祀り、御幸の宮と称したとのことである。

国史大辞典に次のような項目がある。


『日本書紀』にある「猪甘津に橋をつくる。この処を小橋と名付く」の猪甘津(いかいのつ)とは猪甘の港の意味で、猪甘は猪飼、猪養と同じく、朝廷に献ずるための猪(完全に家畜化した豚ではなく、半野生の猪といわれる)を飼うことを意味する。津、すなわち入り江が後には陸地化して「猪飼野」となったと言われているが、ここに猪飼部の民が多く居住していたのである。この由緒ある地名が1973年(昭和48年)2月の住居表示制度導入により生野区の町名から消えたとのことである。

『日本書紀』に出てきた小橋、または『古事記』の「難波の堀江を掘って河水を海に通し、また難波に小椅江(おばしのえ)を堀り」にある小椅は、いずれがいずれかはともかく、現在天王寺区小橋町と東成区東小橋にその地名を残している。小橋町と東小橋は地図を見るとJRと近鉄の鶴橋駅のそれぞれ北西と北東にあるが、では鶴橋と小橋の関係はとなると、神社の説明板によると、鶴橋のもともとの呼び名は「つるのはし」。歴史上の小橋には水辺のことゆえ鶴がよく飛んできて群れ集まったことからいつの間にか鶴橋と呼ばれるようになったとあった。長い年月の間に川の流れも変わり、橋も架け替えられ、歴史上の小橋の位置は分かっていない。

境内に歌を日本語とハングルで記した歌碑が建っていた。


「難波津に咲くやこの花冬籠もり今は春べと咲くやこの花」という歌は、約千六百年前、百済からの渡来人・王仁博士が、当神社の祭神である仁徳天皇のご即位を、春の到来になぞらえて祝い、難波津の歌を詠んだと伝えられている。2009年(平成二十一年)十月吉日「王仁博士「難波津の歌」和文・ハングル歌碑建立委員会とその説明板にあったが、歌碑はつい最近建てられたようである。ハングルは歌を朝鮮語に訳したものかと思ったがそうではなくて、日本語の読みをハングルで表したものである。江戸時代、対馬藩の元通訳官雲明の手によるものである。ハングルの縦書きははじめて目にしたが、なかなか味がある。毛筆で書くのも面白そうである。

そして目指す生野コリアンタウンである。入り口の門が三宮の南京街を思い出させたが、それよりも鄙びた感じでまた鶴橋よりも通り抜けやすい。食材やお総菜の店が目についたが、鶴橋と違って焼き肉屋など料理店はきわめて少ない。お昼を過ぎていたので入った店ではしばらく待つことになった。注文したのは1000円のスンドゥブチゲ定食。毎週朝鮮語教室の後何人か連れだって韓国料理の店でお昼を一緒にするので、いろんなメニューは経験済みであるが、スンドゥブチゲはメニューにないのではじめての試みとなった。まあこんなものか、という感じであった。寒い日だったが発汗覿面、頭皮から汗が噴き出るのが分かった。


店先に何十種類のお惣菜の瓶を並べている店に差し掛かった。ここまで来ないとお目にかかれないような珍しいものばかりである。たまたま店の人が牡蠣のキムチをお杓文字ですくって持ち帰りの容器に小分けしているのを見たらよだれが出そうになって、1パックを500円で買った。後で思ったことであるが、お杓文字で適当にすくうだけで、重さを量るわけではない。まったくの目分量であろう。それならそれで「三つ四つ、おまけに入れてよ」と言うべきであったのだが後の祭りである。ここで朝鮮語を使わなければせっかく勉強が無駄になる。返す返すも残念であった。

昨日は妻が出かけていないので私はひとり、さっそく牡蠣キムチを味わうことにした。大根、白ネギ、鶏肉、冷凍シーフーヅなど、それぞれ適当な大きさに切り、味覇(ウェイパァー)スープでやや煮込む。白飯を加えて雑炊とし、仕上げに溶き卵を垂らす。器に移しその上に牡蠣キムチを三粒置いて出来上がりである。


ひゃー、美味しい。牡蠣の味がなんとも濃厚で、凝縮した旨味がスープでほどほどに薄まると甘味がやや強まり、まろやかで豊饒の味となる。牡蠣をもう二粒足してしまった。


洋食屋がどんぶりや屋に でも味噌屋は味噌屋

2010-03-29 18:33:54 | 旅行・ぶらぶら歩き
先日梅田のヨドバシに出かけたとき、いつものことながらお昼を梅田地下の洋食屋で摂ろうとした。以前犬も歩けばオムライス 大阪のおっちゃんでふれた洋食屋である。とことが、あるべきところにこの店がない。あるのはどんぶり屋である。梅田に出たのは久しぶりなのでひょっとして場所を見間違えたのかなと思い、しばらくその周辺を歩いてみたが場所は間違っていない。洋食屋がどんぶり屋に変わったのである。主なメニューが500円なのでいわゆるファースト・フッドの店なのだろう。仕方がないのでこの店に入りカツ丼を注文した。味は少しきついがまあまあである。出がけにレジでいつから始めたのかと聞いたところ3月17日からとの答えが返ってきた。それにしても前の洋食屋さん、どうして無くなってしまったのだろう。お昼時しか知らないが、結構お客さんが入っていたと思うのに経営が難しかったのだろうか。オムライスを楽しみに行ったのに残念至極であった。それにしても大阪の人、洋食はハイカラすぎるのだろうか。

そしてこれからが私の好きな因縁話なのである。私は時々ある秘密の用事で大阪天満宮近くの秘密の場所に出かける。以前は阪急電車で梅田まで出て、地下鉄谷町線に乗り換え南森町で降りていた。ところが去年その顛末を野崎参りで思いがけないご利益で記したことであるが、JR東西線に乗ると三宮から大阪天満宮まで普通電車だと乗り換えなしに行けることが分かって以来、もっぱらJRを利用している。梅田ともちょっと縁遠くなったのは、これが与っていると言える。この大阪天満宮の近くに「とりゐ味噌」という老舗のお味噌屋さんがあって、いつぞや立ち寄って美味しいとの評判の柚子味噌を買おうとしたが、夕方時でもう売り切れてしまい、かわりに金山時味噌を買ったことがある。その時に谷崎潤一郎夫人の谷崎松子さんからの礼状のコピーを店内に展示しているのに気がついた。美食家と知られる谷崎潤一郎の朝食の食膳にこのお店の味噌が上がっていたのだろうか。というのもこの「とりゐ味噌」店はなんと創業が300年以上も前の元禄時代と言うから半端じゃない。その店で今でも遅く行くと売り切れ間違いなしという大勢の人に支えられた商品を作り続けているのだから凄いの一言に尽きる。洋食屋が太刀打ちするのも大変というのが分かるような気がする。

そこで因縁話というのはこうなのである。後で知ることになった梅田のどんぶり屋が開店したその日、秘密の場所に赴く途中この「とりゐ味噌」店に差し掛かり、なにげなく店を覗き込んでいたのである。そして店先に張り出していた下のビラに目が行ったときにあれっと思った。


なんと私の従兄弟の文章なのである。発酵工学を出ているので味噌とは関係大ありなのであるが、それにしてもこんなところでお目にかかるとはその偶然に驚いた。文章に目を通したが、「とりゐ味噌」を取り上げているわけではないので、谷崎松子さんの礼状とは趣が異なる。もしかして仕事の上で何かの関わりがあったのか、それともただ単に味噌が取り持つだけの縁なのか、この時は確かめる時間が無かったが、今度通りがかった時にもしこのビラが残っていたらその謂われを聞くのも面白かろうと思った。従兄弟にはまだ話していない。

左下のビラがそうである。