日々是好日

身辺雑記です。今昔あれこれ思い出の記も。ご用とお急ぎでない方はどうぞ・・・。

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元東大教授の懲戒解雇適法のニュースに思うこと

2009-01-30 15:22:16 | 学問・教育・研究
昨日(1月29日)、私の以前のブログ記事画期的な多比良和誠東大教授の懲戒解雇処分理由へのアクセスが急増した。もしやと思ったら、やはり裁判で争われていたこの問題に対して、東京地裁の判決が出たのであった。時事ドットコムは次のように伝えている。

《元東大教授の懲戒解雇適法=論文不正「信頼性に最終責任」-東京地裁

 リボ核酸(RNA)研究論文の不正疑惑で、東京大を懲戒解雇された多比良和誠元教授が、同大を相手取り、教授としての地位確認を求めた訴訟の判決で、東京地裁は29日、「不正が疑われる元助手の実験で確認を怠ったのは、研究者として考えられない態度だ」として請求を棄却した。
 中西茂裁判長は「責任著者は論文全体の信頼性について最終的な責任を負う」と指摘。多比良氏は実験や執筆を担当しておらず、解雇権の乱用だと訴えたが、「責任は著しく重く、懲戒解雇とした判断は相当」とした。》(2009/01/29-20:45)

東大が発表した懲戒解雇の理由は公開文書にあるが、次のように締めくくられている。

《責任著者としての同人の論文の作成・発表に関する行為と、研究室の最高責任者としての同人の助手等の指導監督や研究室の運営を巡る種々の怠慢は、直接・間接に本学における研究活動と科学の健全な発展をその本質において脅かす深刻な結果を招いた。》

私は上記のブログで次のように述べた。

《責任著者が、論文の科学的な信頼性について最も重い責任を負い、論文の発表に関する最大の権限を有する立場にある、との判断は実はまったく当たり前のことなのである。しかしこの正論が大学では通用してこなかった。》

そして

《このたびの東京大学の処分理由は、その正論を正義のよりどころとした点で画期的であると私は思う。ようやく当たり前のことが当たり前として通用するようになったのである。》と。

この当たり前のことが裁判所でも妥当と認められたことの意義はきわめて大きいと思う。大学の良識が世間の常識でもあったのである。しかしすべての大学でこの世間の常識が通用するかと言えば私はお寒い現状ではないかと推測する。たとえば大阪大学医学部論文捏造事件をご覧じろである。げすの勘ぐりをすれば、多比良氏が東大出身者ではなくいわばよそ者であることが東大の正論を勢いづかせたのに対して、阪大の場合は多比良氏と同じ立場の責任著者が阪大出身者であったことが、停職14日の軽い処分になったのではなかろうか。

東京地裁の請求棄却の判決に対して、朝日新聞は《多比良氏の弁護団は「科学研究の実態と大きく異なる判決で、到底納得できない。控訴を検討している」との談話を出した。》(asahi.com 2009年1月29日21時26分)と伝えている。「科学研究の実態と大きく異なる判決」が何を意味するのか確かめようがないが、これが私には「教授である以上、何をしようとしようまいと、研究室から出る論文に責任著者として名を連ねるのは誰でもやっていることではないか。そんな程度のことで責任だけを取らされてはたまったものではない」との居直りの弁のように聞こえてくる。もし居直ったのであれば、控訴審で弁護団が知り得た限りのこのような実例を明らかにするのも、「悪しき慣習」を一掃する切っ掛けになっていいかなと思ったりもする。

いずれにせよこの機会に「責任著者」の重みを研究者一同噛みしめていただきたいものである。

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春節祭の後は本屋へ

2009-01-29 20:14:39 | 読書
陽気に誘われてお昼前に家を出た。ブラブラと歩いているうちに元町で春節祭を催していることを思い出して南京街に向かった。ついでに用事も思い出したからである。3時から出し物があるとのことだったが、それには1時間以上もあるので見物は諦めて用を足すことだけにした。



最近妻が南京街で買ってきた中国茶が、これまでは500グラムが2100円だったのに、300グラムが2100円になり味も変わっていたので、その変わった理由を聞いてみようと思ったのである。ところがお茶屋さんの手前にある漢方薬局の前を通りかかってあれっと思った。確かにその中国茶が300グラム2100円で売られているのだが、いつも買う店ではないのである。そこで二三軒先のお茶屋さんに行くといつも買う銘柄の中国茶が500グラムが2100円で並んでいる。妻が買う店を間違えたのである。いわば隣同士のような店で同じ銘柄の中国茶でありながら、品質も値段も違うのを目の当たりにして驚いた。薬局の中国茶の方がなにか良いのだろうか。今ある分を飲み終えるまでに結論がでればよいのだが・・・。

その足で元町の海文堂に向かい次の二冊を買った。塩野七生さんの本はその上巻を年の暮れに買ったので下巻が出るのは一年先かと思っていたら早くもお目見えである。せっつかれているようで大変大変である。もう一冊は寿命のことを生物学者がまともに論じていて面白そうな内容だったので手を出した。最近園芸をはじめて一年草とか多年草とかにお目にかかりその名前の意味することを生物学的に理解したいと思っていたら、ちゃんと説明が出ているのがよかった。

そして因縁好みの私を喜ばせることがあった。今日は1月29日なのにこの二冊とも奥付きの出版日が明日の2009年1月30日となっていたのである。こう言う偶然の一致が私には何か意味ありげに感じられるのである。





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「研究室間格差」は大学が多すぎるから

2009-01-29 17:41:51 | 学問・教育・研究
夕べは久しぶりに研究室の後輩と出会って話をしているうちに、あれっ、なぜ仕事の話をしているんだろう、もう引退したはずだのに、と不思議に感じて、そうだこれは夢に違いない、と思った途端に夢から覚めた。昨夜寝る前に「5号館のつぶやき」さんの「研究室間格差」と、それに寄せられたコメントに目を通していて、なるほどなるほど、と頷いたりしていたものだから、それがどうも夢に繋がったらしい。何にどのように反応したのか、私はアカデミックな大学の数を大幅に減らせばよいとこれまでに述べてきているが、その考えと合いそうな箇所を取り上げてみる。前後のつながりをあえて無視してコメントの中身のみの引用であることをお断りする。

①《(ちゃんと研究室を選べるというのも実力のうちなのでしょうけれど)》(hanahiさん)

貧乏研究室で修士を2年、博士を5年も院生として苦労された方の体験談から出てきたコメントであるが、その通りだと思った。高校生の頃から大学の研究室で物理学を研究することに憧れて選んだ道を歩みたいのであれば、研究に支障を来すほどの貧乏研究室を選ぶべきではなかったのである。状況判断の誤りに気づくのが遅かったのが惜しまれる。

②《ラボが貧しく業績が出ないのはPIの能力不足でしょう。生き残れないPI,教授はこの世界から早々に御退散願い、かわりに若い人にチャンス(=独立支援と研究費援助)を与えた方がいいと思います。少なくとも国立理学あたりでは准教授、教授を全て任期制にして、一定の研究&教育業績を果たした者のみがlabを運営する資格を付与するのがいいでしょう。底辺層は一旦崩してしまい、能力と可能性のある若者に限られたパイを与えるのが科学の発展のために必要かと思います。》(yugo-yuzin-hanaさん)

このご意見に私は全面的に賛成である。

③《おっしゃることもわかりますが、競争的資金は応募者の20-30%しか当たりません。簡単な数字なのでおわかりいただけると思いますが、人を変えても事情は変わりません。》(stochinai管理人さん)

これもその通り。制度を変えないといけないのである。後ほどのコメントにも関連するが、私は真のアカデミズムを育むにしては今の大学が多すぎると思っている。最近では庭仕事から大学制度へ話が飛ぶでも述べたが、旧帝大を核にしてその倍ぐらいの大学をアカデミック大学として残し、そこでは以前は校費と言ったが基本経費を大幅に増額して、大型の装置でも買うのでなければそれだけで日常の研究活動を行えるようにするべきなのである。

④《私のところでは研究費は年間5万円の交通費のみです。その他はすべて私費です。科学研究費補助金などをとれればよいのですが,申請するにはある程度の研究成果が必要です。古株教員は景気の良い頃に購入した実験機器をもっていますが,私のような新参者は何から何まで私費なので限界があります。他大学に移るにしても実績を作ってからの話ですから,なかなか抜け出せません。格差の拡大を実感します。》(地方教員さん)

何をか言わんや、である。この方の頭の中にある「研究」がどういうものを指しているのか、私には見当がつかない。

⑤《それから、科研費についても、20?30%にしかでないというのは、20?30%のくらいしか、教育者として適任ではない、つまり、それ以外は若手を育ててほしくないので研究費はあげないという見方もできるのではないでしょうか。》(ななしさん)

「若手を育ててほしくない」のかどうかはともかく、この着眼点が秀逸。国としてはそれぐらいは出せるという現実はあるのだから、パイの取り分ではなく取り手を減らすのが研究の遂行に最も効果的であろう。

⑥《それから競争的研究費総額と想定採択率より、「研究者」総数が決まってくるはずなので、「合理的に」考えれば、現状維持であれば研究者数を減らす、あるいは総額を増やす・採択率を上げる(1件あたりの粒度が小さくなる)といった全体での整合性を保つ舵取りをおこなう必要があると思うのですが、現状はそのために文科省が市場原理っぽい仕組みを導入している最中なんでしょうか?》(個々の事例はともかくとしてさん)

「市場原理」が何を意味するのか少々分かりかねるが、この方の現実的な見方には賛成である。上にも述べたように、私は大学を淘汰して、すなわち研究者総数を大幅に減らして、その代わり全ての研究者が日常の研究活動を行える資金を恒常的に支給すればよいと考えている。研究者としての淘汰を早めに行って、三十歳ぐらいで第一関門を突破すれば毎年数百万円程度の研究費を支給し、10年ごとぐらいに適格審査を行えばよい。

⑦《研究者間の競争を活性化するという目的なのでしょうが、もともと一定の数の研究者は良い研究をすることにストイックなほど賭けているわけで、市場原理など持ち込まずとも切磋琢磨するんじゃないでしょうか。》(通行人さん)

まったくその通り。その一定数の研究者以外は要らない。

⑧《もう一つ、学生が教員の研究費獲得の影響を大きく受けるシステムはおかしいです。完全にはできないと思いますが、教育と研究の区別をもう少ししても良いのではと思います。》(かぴばらさん)

その通り。たとえば院生一人に年間経費として100万円がついて回るようにすればどうだろう。以前から研究室への予算配分に院生経費が頭数に応じて割り当てられていたと思うが、もう細かいことは覚えていない。これで自ずと院生と教師の関係もお互いをより認め合うことになることだろう。院生は教育を受ける権利があるのだ。そのために授業料を払い国がさらに後ろ盾になっていることを教員に悟らせることになってよい。

⑨《子どもの数が減ってるのに大学の数は大幅に増えたという背景がありますね。文科省も減らしたいと思ってることでしょう。合併するのがいいと思うんですけど、なかなか話が進まないので、じりじりとお金を減らす作戦をとって、つぶれるまで、我慢比べように待ってるんでしょうか。》(123さん)

その通り、兵糧攻めと積極的に受け取って、研究者は自分が生き残る術を身につけるべきなのである。しかし兵糧攻めで相手が潰れるのを待つのは為政者のすべきことではない。だからこそ大学制度の抜本的改革を急がねばならないのである。

⑩《科研費の総額や配分に問題が大有りなのは分かるのですが、予算が取れないPIにももう少し工夫してもらいたい気はします。特に研究室の代表ともなれば経営者でもありますから、研究室が機能するだけの予算を確保するのは責務だと思います。》(hanahiさん)
 《科研費を取るにも、採択傾向を調べたり審査者に伝わりやすい記述を心がけるなどの積極的な工夫が必要なのではないでしょうか。》(hanahiさん)

まったく同感。自分のやりたい研究を推し進めるのに、必要な経費を確保することが個人の努力にかかっているのが現実である。「天は自ら助くる者を助く」である。現状では研究費稼ぎの敗者が研究の敗者であるのに、その負けたことを認めたがらない人が多すぎるのではなかろうか。もちろん捲土重来を期するぐらいの覇気はなければならないが、ことの見極めも大切である。それにしてもコメントにあるように的確に物事を見ておられる方が多いことにある意味では安堵した。ぜひ生存競争を生き抜いて頂きたいものである。

岡目八目の気炎を上げていたら、その最中にかっての院生から教授就任の知らせが舞い込んできた。嬉しい限りである。夢に現れた後輩とは別の人物であるが、やはり夢には不思議な力があるような気がする。

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KEN FOLLETTの「WORLD WITHOUT END」を半額で

2009-01-27 20:57:14 | 読書

思いがけず「ボヘミアン」の次男と梅田のヨドバシで待ち合わせることになった。用事を済ませてから10日ほど前に訪れたばかりの伊達屋でタンシチュー定食をご馳走した。この息子は以前ハリー・ポッターで獲らぬ狸の皮算用で登場させたが不遇のゲイジツカなのである。身過ぎ世過ぎもままならない日々を、自ら湧き上がってくる衝動にかき立てられて創作に励むとは感心なことと思わぬではないが、日々の糧を切らしてはいないだろうかと気がかりなものである。親としては作品が第三者の共感を呼び、願わくは生計の途につながればと念じるのみなのである。その息子にちょっと嬉しい話があったことを今日聞かされた。

日本で資本金ベスト20にはいる大会社の会社案内冊子を息子のイラストが飾っているのである。50ページあまりの冊子を手に取ると、表紙裏表紙続きの一枚絵に加えて、イメージキャラクターがあちらこちらに顔を出してなかなか良い雰囲気を作り上げている。会社のイメージアップに寄与していることは疑いなかろう。こういう形で第三者に評価されたことが機縁になって、この不況にもかかわらず新しい仕事が持ち込まれるようになって欲しいものである。(親ばかの巻はおわり)

その足でジュンク堂の梅田ヒルトンプラザ店に向かう。昨年11月15日に5階6階を占めるようになってから初めてであるが、確かに品揃えもよくなっている。これならわざわざ堂島の大阪本店まで行かなくてもたいていの用は足せそうである。その洋書売り場で目に入る品物が皆半額になっている。そこでKen Follettの新作「World Without End」のハードカバーを見つけた。2000円ちょっとでペーパーバックの倍の値段になるが、ゆったりとした気分で読んでみようかとこれに手をだした。Ken Follettも私の好きな作家で、ほとんどペーパーバックで読んでいる。「大聖堂」だけは新潮文庫で読んだが、これが12世紀のイングランドを舞台に建築職人トムが大聖堂を復活させていく物語であったのに対して、「World Without End」はそれから2世紀後の同じ町が舞台になっての大歴史絵巻だとのこと。1000ページを超える大冊だが引きずり込まれそうな予感がする。何週間後になるか分からないけれど、読み終わったと大いばりで報告したいものである。
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寒中に歌う「The Last Rose of Summer」

2009-01-26 18:26:32 | My Song
アイルランド民謡「庭の千草」は母の愛唱歌であった。なにかあると歌っているものだから私も子供の頃から歌っていた。英語を習い始めてとにかく原語で歌いたかったのがこの歌である。原題は「The Last Rose of Summer」でアイルランドの詩人Thomas Mooreの作詞である。

Tis the last rose of Summer,
Left blooming alone;
All her lovely companions
Are faded and gone;
No flower of her kindred,
No rosebud is nigh,
To reflect back her blushes,
Or give sigh for sigh!

I'll not leave thee, thou lone one,
To pine on the stem;
Since the lovely are sleeping,
Go sleep thou with them.
Thus kindly I scatter
Thy leaves o'er the bed
Where thy mates of the garden
Lie scentless and dead.

これが明治18年6月刊行の小学唱歌集第三編には里見義作詞として、あの人口に膾炙されることとなった「庭の千草」に姿を変えている。「夏の名残のバラ」が季節をずらして「初冬の残菊」となったのである。読売新聞文化部「愛唱かものがたり」によるとThomas Mooreはこの詩の冒頭に「旋律は(ブラーニー森)を用いる」との注釈があり、すでにこのメロディーが存在していたことになる。

ところでこのブラーニーは十五世紀に築かれた石造りの城が今でも残っており、高さ二十五メートルの城壁の上から身を乗り出し、その先にある石にキスすると、雄弁家になれるとの言い伝えがあるそうだ。今では女性を口説こうとする男ども、政治家を目指す野心家たちが次々と訪れて、この不思議なご利益を授かっているとのこと。ひょっとしたらオバマ大統領も石にキスをしてきたのかも知れない。

「The Last Rose of Summer」は私が英語で歌う歌第二弾。つくずく英語は難しいと思いながらも母を偲んで歌った。
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FosterのBeautiful Dreamerを

2009-01-24 17:00:06 | My Song
私の歌った「ドン・ジョヴァンニ」でドン・ジョヴァンニとツェルリーナの歌う二重唱「手をとり合って うちへ行こう」の歌い出しの文句「la ci darem la mano」をGoogleで検索すると、上位二位がYouTubeのサイトで三番目に私の歌が出てくると1月9日に記したが、いつの間にかトップに躍り出ていることを昨日に知った。今朝の検索結果である。



Googleではそれなりの理由があって私の歌を世界の三大テノールよりも、さらに言えばプロのあらゆる歌手よりも高く評価してくれているのである。良い気分になったところで(だからイチャモンは一切お断り)今度は英語の歌にチャレンジしてみた。おなじみ、フォスターの「夢見る人」である。昔からよく知っている歌だけれどちゃんと歌ったのは初めてで、私の苦手とする9/8拍子であることに気がついた。それに録音を聴いてみると私の英語が思っていたよりはるかに下手であることを発見した。これではヨーロッパ生まれ(非英語圏)のプロ歌手の英語と変わりがないではないか!??

おかげで努力目標が出来たというものだ。目指すはAndy Williamsである。
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オバマ大統領の就任演説にあらわれた科学観 そして期待するもの

2009-01-22 17:25:52 | 社会・政治
オバマ大統領の就任演説をThe New York Times ホームペジーのビデオで視聴した。なかなか格好の良いスピーチで、若い国アメリカのイメージそのものを体現しているようだった。しかし話の中身が盛り沢山すぎて私にはやや散漫に聞こえた。

ポイントは「And why a man whose father less than 60 years ago might not have been served at a local restaurant can now stand before you to take a most sacred oath.」に尽きると思った。このように劇的な選択を行ったアメリカには前人未踏のことを成し遂げる力がまだ十分に備わっていることをオバマ大統領の出現自体で示しているからである。あとは誰が大統領になっても言えることだから、付け足しは最小限に止めて演説時間を五分ぐらいに縮めておけば、小学校ぐらいからでも生徒のよい暗記材料になるだろうに、と思った。

The New York Timesの口述記録では二十分足らずの演説が拍手で中断したのは十二カ所になっているが、実際に聴いた限りでは中途半端な拍手が二、三箇所であった。演説の途中で拍手が湧き上がったところもあった。

「We will restore science to its rightful place and wield technology's wonders to raise health care's quality...

(APPLAUSE)

... and lower its costs.」

の箇所である。もっともその直前に「We will build the roads and bridges, the electric grids and digital lines that feed our commerce and bind us together.」とあったので、道路や橋を建設するところに反応したのかも知れないが、演説の中にscience、科学がこのような形で現れたのは以外だった。朝日新聞上の邦訳では「科学を本来の姿に再建し、技術の驚異的な力を使って、医療の質を高め、コストを下げる」となっている。

「科学を本来の姿に再建」とはどういうことなんだろう。これは科学の現状に対する痛烈な批判ではないのか。オバマさんには今の(アメリカにおける?)科学の現状が本来の姿ではないと映っているのである。では科学のどういうところが本来のあるべき姿ではなくなっているのだろう。私は答えを知っているつもりである。

私は大学人、とくに生命科学研究者は特許申請に超然たれマイケル・クライトン(Michael Crichton)の死去を悼むでも述べたことであるが、いかなる形であれ「ヒトの細胞」を材料にする研究を特許の対象にすべきではないと提言している。科学の研究成果を特許の対象とすることはとどのつまり科学の商業化に手を貸すことになり、特に生命科学領域での特許合戦はひいては医療費の高騰化を招くことにある。この一例に見る科学の商業化が科学の本来の姿でないことは一目瞭然であろう。現状は上記のマイケル・クライトンの言葉を借りると「Universities that once provided a scholarly haven from the world are now commercialized―the haven is gone. Scientists who once felt a humanitarian calling have become businessmen concerned with profit and loss.」なのである。その意味で私は「科学を本来の姿に再建」を「科学の商業化」に対するアンチテーゼと受け取ったのである。政治活動資金を大企業に依存する必要のないオバマさんに先ず期待することはBayh-Dole法の廃棄である。クライトンによるとBayh-Dole Actというのは大学の研究者が、たとえ税金で研究を行ったとしても、その発見を自分の利益のために売り渡すことを認めたもので、1980年に議会を通っている。

それにしてもオバマさん、あの長い演説をぜんぶ頭の中に入れていたのだろうか。ビデオを注意深く(意地悪く?)見ていたつもりだが、どこかに草稿を用意していてそれに目をやるような素振りは見えなかった。それだけでも格好よかった。

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山本一力著「道三堀のさくら」 江戸の水事情

2009-01-21 16:13:20 | 読書

山本一力さんの時代小説はもともと好きなんだけれど、さらに文庫本に縄田一男さんの解説が付いていたら儲けものをした気になる。縄田さんの感性と作品に対する眼力に触れるのが楽しいのである。その縄田さんの解説を借用すると「道三堀のさくら」の支えになっているのが次のような江戸の町人の暮らしなのである。

《本書の主人公である龍太郎の職業は「水売り」。一〇〇万人都市江戸はベニスと並ぶ水の都でもあったが、こと飲料水となると、どんな水でもいいというわけにはいかない。山本さんが多くの作品の舞台にしている深川は埋め立て地であり、井戸水にはどうしても海水が入ってきて飲みにくい。従って口に入れる水はどうしても買わなければならない。そのために「水売り」という職業が必要なわけだが、「水売り」たちは、道三堀に架かる銭瓶橋と一石橋のたもとから流れる水道の余り水を樽にため、水船で運んで、主に飲料水のない待ちの人々や料理屋に売ることになる。》

《主人公である龍太郎の元締め虎吉の、金儲けではない、水売りを人の暮らしを支える稼業とわきまえる覚悟のほどが綴られる。それは、降っても晴れても、そして天気や季節にもかかわりなく、一年同じ水を売り続ける、と心に決めた男の見事生での肚のくくり方である。》

龍太郎は水船を船着き場につけると、水船の水槽から水桶二つに汲み入れ、これを天秤棒の前後に担ぎ得意先まで運ぶ。前後の桶で一荷、水で満たすと50キロ近くなる。それを毎日百回往き来するのだから骨身にこたえる。

水売りから買った水を長屋の連中は始末して使った。洗い物などには井戸水を使い、買った水は飲み水と料理用に使った。どれほど貧しい家にも一荷入りの水がめがあり、数日おきに水を買った。というのも夏場なら二日、冬場でも四日しかもたないからである。使い残したとしても日が経つと水が傷んだ。急場の折は川の水を煮沸して使うとか、水の中のゴミを白木綿の水こしで除くなど、江戸時代の庶民は自分の五感で判断するという智恵に加えて数々の工夫を凝らしていたのである。

私はここしばらく伊藤ハム「シアン問題」に関連して水の問題を考えてきたが、一つはっきりしたことは、東京工場で井戸水を汲み上げてそのまま使っておれば今回の問題は起きるはずもなかったと言うことである。汲み上げた井戸水にわざわざ塩素を含んだ薬剤を加え、そのために値の張る分析装置を使い余計な費用をかけて水質を検査する、挙げ句の果てにもともと井戸水にはなかったシアンを分析の過程で作り出し(もしくは混入させ)、役所が暇つぶし?に作った規制に見かけ上引っかかったと言うだけで大騒ぎをしては貴重な食品を無駄にしてしまう。このような現代文明がもたらした愚行を目の当たりにしたばかりだったので、この小説に出てくる江戸時代の水事情の話がとても面白かった。

もちろん龍太郎とおあきの恋物語も大切な筋書きである。二人の結婚に機は十分に熟していたのに、おあきが簡単に心変わりをしてしまう。それを傍から眺めている龍太郎にはおあきの片思いであることがみえみえであるだけに、余計にやるせない。龍太郎は天職と信じる水売り商売に精を出すことで気持ちを整理できたが、話がどう展開するのか、「道三堀のさくら」に聞かないと分からない。耐える男の健気さが爽やかな読後感を残す。


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淡路島で魚料理のあとは灘黒岩水仙郷へ

2009-01-20 18:50:19 | 旅行・ぶらぶら歩き
震災の日の1月17日、天気が穏やかでお出かけ日和だなと思っていたら家人に声をかけられ、灘黒岩水仙郷へ車を走らせることになった。「しあわせの村」から阪神7号線に入り、神戸淡路鳴門自動車道で明石大橋を渡り西淡三原ICで出た。お昼前だったので美味しい魚でもと気にかけていたら道ばたの看板が目にとまり、標識に従って「はぶ荘」に辿り着いた。



4台ほど駐められる駐車スペースが運良く空いていたので車を置き店に入ると、下の漁港からまだ主人が魚をもって帰っていないのでしばらく待って貰えるかと聞かれた。別に急ぎでもないので通された小部屋で膝を抱えて待つこと30分あまり、ようやく調理場で料理が始まった。おまかせ定食が1500円から。私はそれで十分だと思ったが2500円になると煮魚が付くという。そこでそれぞれを一つずつ注文することにした。どこがどう違うのか、見比べる楽しみもあったのである。上が1500円、下が2500円でこれに天ぷらが別に運ばれてきた。天ぷらは同じだったが刺身は微妙に違う。しかし材料は新鮮そのもので実に美味しい。また煮魚のメバルは小ぶりでそのせいか2匹盛られている。母がいなくなってからは食卓に煮魚の上がることが少なくなったのでまことに美味しく頂いた。もちろん私の取り分は一匹である。さよりだと思うが三枚に下ろて身の天ぷらは言うに及ばず、残りの頭に背骨を揚げたものはせんべいのような歯触りでシャリシャリと頂けてこれもなかなかよかった。次から次へと客が押し寄せてなかなかの繁盛であった。




食後は落ち着いて灘黒岩水仙郷に向かう。ところが水仙郷より遙か手前のところで係員が駐車場に入るように手招きをしている。どういうことかと思っているとこの第五駐車場から水仙郷へはマイクロバスで送迎すると言う。なんと2、3キロ離れているのである。それまでは車もまばらでのんびりとドライブを楽しんでいたのに、忽然と車と人が湧いて出たようである。水仙郷では水仙の原生している急な斜面を遊歩道に沿って登っていくのであるが、脚に自信のない人は無理をせずに下から眺めあげる方が良いのかも知れない。遊歩道は人が密集していて遠くから眺めた時はアリの行列のように見えた。風もなく海も穏やかで頂上付近では早くもほころびかけた梅の香りが漂っていた。



帰りは洲本ICから再び神戸淡路鳴門自動車道に入る。土曜日とあって通行料金はETC搭載車では半額となり、往復で5000円前後で、家を出てから6時間ほどの小ドライブであった。
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伊藤ハム「シアン問題」 2号井戸原水からシアン検出の謎にせまる その2

2009-01-18 19:31:18 | 学問・教育・研究
前回の記事2号井戸原水からシアン検出の謎にせまる その1に引き続き、2号井戸原水に0.037 mg-CN/Lのシアン化物イオン及び塩化シアンが検出された経緯の謎を取り上げる。と言ってもさほど難しいことではなく、2号井戸原水を分析した登録水質検査機関Bでの具体的な分析手順が調査で明らかにされればよいのである。その結果で問題の在りかがさらに絞られることが期待される。

試料水に含まれるシアン化物イオン及び塩化シアンの分析法は厚生労働省告示第261号(平成15年7月22日)別表第12の中で次のように記されている。

《3 試料の採取及び保存
試料は、精製水で洗浄したガラス瓶又はポリエチレン瓶に採取し、①試料100mlにつき次亜塩素酸ナトリウム溶液(有効塩素0.05%)1mlを加えてゆっくりかく拌し、更に酒石酸緩衝液(1mol/L)1ml及び酒石酸ナトリウム緩衝液(1mol/L)1mlを加えた後、満水にして直ちに密栓し、冷蔵して速やかに試験する。
なお、試料に結合残留塩素が含まれていない場合には、次亜塩素酸ナトリウム溶液(有効塩素0.05%)1mlを加えてゆっくりかく拌する操作は省略することができる。》

また水質基準に関する省令の規定一部改正(平成17年3月30日)では次のような改正がなされた。
《(8) 別表第12
検水に結合残留塩素が含まれるときは、試料採取時に次亜塩素酸ナトリウムを添加し、遊離残留塩素に変化させてから分析すること等とした。》ここで①、②、③強調は私が以下の説明のために付け加えてものである。

ところで厚生労働省の定めた分析法が現場でどのように使われているのか、和歌山市水道局工務部水質試験課がまとめた「シアン化物イオン及び塩化シアンの操作手順書」(文書番号:S-5.3-27)がインターネット上に公開されているので、試料水の取り扱いに関する部分を引用する。上記の文章と比較して頂きたい。



この操作手順書にはの部分の操作が定法として記されており、試料が井戸水の場合は原水であれ処理水であれ一様にの操作を行うことになっている。はある条件下ではの操作を省略することが出来ると規定しているだけなので、省略しなくてもよいことになり、和歌山市の操作手順書がの部分を記載していないからと言って間違いにはならない。さらにを定法としている限りによらずともすでに次亜塩素酸ナトリウムを添加しているのであるから、わざわざを考慮するには及ばないことになる。だからは手作業で原水の分析を行うような場合には次亜塩素酸ナトリウム添加の手間を省けるぐらいの便利さをもたらすが、多数の試料を連続的に分析機器で分析する際には井戸原水と処理水を区別せずにの操作を行う方がはるかに便利である。

さらに細かいことを言えば、厚生労働省の文書では「満水にして直ちに密栓し、冷蔵して速やかに試験する」との文言があって、速やかに試験するように指示しているが、和歌山市の操作手順書にはこの文言がない。アンモニア性窒素を含んだ試料水に次亜塩素酸ナトリウムと酒石酸緩衝液成分を加えて長時間放置すると塩化シアンの生成量の増加することが下にも述べる再現実験で確かめられていることからみると、和歌山市の操作手順書で速やかに試験するとの文言を省略したのは国の定めた手順から外れていると言わざるをえない。その意味でも登録水質検査機関Bが分析を行った具体的な手順が明らかにされるべきなのである。

伊藤ハム「シアン問題」の調査対策委員会報告書(平成20 年12 月25 日)は2号井戸原水にシアン化物イオンおよび塩化シアンが検出されたことに関して「(1)考えられる原因」の中で、《塩化シアンは、シアンが塩素処理によって生成する化合物であり、塩素処理を行っていない井戸水原水では検出されることはあり得ない。また、井戸水原水では、結合塩素が検出されなかった(当然のことではあるが)ため、分析時に次亜塩素酸ナトリウム(0.05%)も添加していない。》(45ページ、強調は引用者)と述べている。その論理に間違いはないが、登録水質検査機関Bでは次亜塩素酸ナトリウムの添加に先立って結合塩素の検出を実際に行ったのかどうかは疑問である。結合塩素を分析するより次亜塩素酸ナトリウムを定法に従って添加する方がはるかに楽であるからだ。それに2号井戸原水の分析を最初に行った際に分析時に次亜塩素酸ナトリウム(0.05%)も添加していないことが事実であることを確認したとはどこにも明言されていない。46ページに《塩素処理を行っていない井戸水原水であるにもかかわらず、シアン化物イオン及び塩化シアンが検出され、しかも、原水試料に塩素が混入する可能性が皆無と思われることからすれば、原水採水後から分析結果までに何らかの塩素混入があった可能性を疑わざるを得ない。》とあるが、この強調部分は登録水質検査機関Bで確かに前処理過程で次亜塩素酸ナトリウム(0.05%)を原水に加えていないことを確認してから始めて可能になる主張であろう。

報告書(35ページ)によると2号井戸原水にアンモニア性窒素が2.40mg-N/L含まれている。もしこれが100%塩化シアンに変化したとすればその濃度は4.46mg-CN/Lとなり、現実に検出された値0.037 mg-CN/Lはその百分の一以下になる。2号井戸原水に上記の分析手順に従い次亜塩素酸ナトリウムと酒石酸緩衝液を加えて、意地でも塩化シアンを作ってみせると条件探しに頑張れば0.037 mg-CN/Lの塩化シアンぐらいは出来てくるのではなかろうか。現に再現実験Aでは2号井戸原水(塩素添加量/塩素要求量=0.00)を定法に従い次亜塩素酸ナトリウムと酒石酸緩衝液を加えて22時間放置する(登録水質検査機関Cの前処理・分析条件7)ことで0.0017mg-CN/L程度のシアン化物イオンおよび塩化シアンが検出されているではないか(図4、報告書32ページ)。

(補足説明 前処理で試料水100mlに次亜塩素酸ナトリウム溶液(有効塩素0.05%)1mlを加えたとして、この混合溶液中の有効塩素濃度はほぼ0.0005%となる。すなわち5mg-Cl/Lで上記塩化シアン濃度4.46mg-CN/Lの82%の当量比となる。言葉を変えれば計算上、井戸原水中のアンモニア性窒素の最大82%が塩化シアンに変化しうると言うことでこれは3.7mg-CN/Lに相当する。)

登録水質検査機関Bで原水に限り前処理で次亜塩素酸ナトリウムを加えていないことが確認されて始めて基準値の3倍以上のシアン化物イオン及び塩化シアンの出所がミステリーと化すのである。

私が現役時代に青酸と慣れ親しんでいた?ことが根底にあってついつい伊藤ハム「シアン問題」に深入りしてしまった。それというのも調査対策委員会報告書(平成20 年12 月25 日)が数々の問題を含んでいるにせよ、今後類似の事件が発生した時に企業がとるべき対応に対する有益な示唆があり、またそれだけに報告書のあるべき形として一科学者としての意見が触発されたからである。そこで私は出来上がった最終見解だけを提出するのではなく、思考過程そのものから公開することが科学的に考えることの一つの実例として受け取られることを期待しつつ順次見解を公開してきた。常識さえあれば誰にでも科学的にものごとを考えることが出来ることを示したかったのである。


伊藤ハム「シアン問題」の過去ログ

伊藤ハム「シアン問題」調査対策委員会の報告書は出たものの
伊藤ハム「シアン問題」の謎について
伊藤ハム「シアン問題」調査対策委員会報告書のあれこれ
謎は謎を生む伊藤ハム「シアン問題」
伊藤ハム「シアン問題」は幽霊事件?
伊藤ハム「シアン問題」 2号井戸原水からシアン検出の謎にせまる その1


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