ぐるっぽユーモアの定期公演も第14回をむかえて、今年も昨29日、西宮芸文センター阪急中ホールで催された。いつもながら満員の盛況で、補助椅子まで出ていた。今年の出し物はオッフェンバックの「天国と地獄」(原題「地獄のオルフェ」)で、私にとって舞台では見始めのオペレッタである。もっともこの中に出てくる「地獄のギャロップ」こと「フレンチ・カンカン」はこれだけでも演奏されるお馴染みの曲で、去年は佐渡裕プロデュース「メリー・ウイドウ」で大いに楽しませていただいたものであるが、肝心の物語はこれがギリシャ神話の「オルフェウスとエウリディーチェ物語」のパロディぐらいとしか知らなかった。
このギリシャ神話はわが国のイザナギの黄泉の国訪問神話とそっくりなので知る人も多いと思うが、竪琴の名手オルフェウスの妻エウリディーチェが、散歩の途中牧人アリスタイオスに追われて逃げる間に毒蛇に噛まれてあの世に逝ってしまう。オルフェウスは愛する妻を取り戻すべく冥界に下り、竪琴で地獄のあらゆる住人を魅了してしまう。そこで冥界の神ハデスはオルフェウスが妻を地上に連れ戻すことを許すが、地上に出るまでは決してエウリディーチェの顔を見ないという約束をさせた。ところが地上に出る一歩手前でオルフェウスが誘惑に負けて後ろをふり返ったために彼女は再び地獄へ落とされた、と言うのである。
「天国と地獄」の物語は表面的には単純なので、パンフレットの解説でよく分かる。音楽院の院長オルフェとその妻エウリディーチェはもう倦怠期でお互いに浮気相手がいる始末。エウリディーチェが浮気相手実は地獄の大王プルトンに飲まされた地獄ワインで死んでしまうと、オルフェが嬉しい嬉しいの本心を隠しきれなく浮かれ出す、というようなところでそのパロディぶりが分かると言うものである。となるとあとは難しいことはいらない、舞台を楽しむだけである。
脚本・演出・指揮の岡崎よしこさんとピアノの橋爪由美子さんが登場、序曲が終わって幕が上がった。そして地上編、天国編、地獄編と話が進むのであるが、20分の休憩時間を含めて2時間半ほどの舞台があっという間に終わってしまったのである。テンポがよくて舞台が弾んでいたからであろう。全体を通して何に印象づけられたかと言うと、まず舞台への登場人間が多かったこと。八百万の神々ではないが、神様の多い方が舞台が映えていい。だから合唱で声のふくらみが実に豊であった。とくにソプラノの迫力は心打つ。出演者にコーラスメンバーの名前がずらずらと並んでいるのが伊達ではないことを証明したと言える。それに舞台装置とその転換が見事だった。解説では第一、第二、第三幕となっていたが、実際は第一幕一場二場、第二幕一場二場の仕立てで、一場は舞台の前面を使い二場で前面の背景を取り除いて行うダイナミックな舞台変換が鮮やかであった。第一幕では現世から天国へ一挙に移り、第二幕ではエウリディーチェが閉じ込められた小部屋から地獄の大広間へと移ったのである。また第二幕第一場で小部屋に一人座っているエウリディーチェの衣裳の空色と背景中央を左右に仕切る柱の赤の対比が美しく、私の好きなホッパーの絵画を連想させた。こういうオシャレな舞台装置を自前で作っていく意気込みに感動した。
この「天国と地獄」はぐるっぽユーモアの出し物として、うってつけのものではないかと私は思う。メンバーに音楽大学卒業生も仲間に入り、と紹介されているように、音大卒業生が主要な役で舞台を引き締める牽引車となるのは大いに結構なのであるが、全員がそれではぐるっぽユーモアの存在意義は消えてしまう。やはり歌うことが大好きな上に、人に聴いて貰う以上はそれなりの努力を惜しまない素人上がり全員が主役であることが大切で、そのためには一人ひとりに出番が欲しい。その出番作りをオッフェンバックは「天国と地獄」で準備してくれたとも言えるからである。
ナポレオン三世の第二帝政時代、オッフェンバックが当初持っていたライセンスでは登場人物は4人までの一幕ものオペラしか上演できなかった。しかし政府と交渉してようやく登場人物を増やしコーラスも加えたオペラが出来るようになり、そこで意気揚々作り上げたのが「天国と地獄」であった。その当時もてはやされていたのはオペラ・ガルニエに代表される豪華絢爛な建物(パリオペラ座が実際に完成した時は第三共和制に替わっていた)や、いかにもクラシックの代表とばかり君臨していたグルックのオペラなどであったが、オッフェンバックはこのような新古典派の流行にイチャモンをつけることで新しいライセンス獲得記念にしようとしたのである。そこで主な登場人物を一挙に14人に増やしてそれぞれの出番を作った。その一人、Public Opinion(世論)を神々と争わせることで第二帝政による社会的抑圧に対する批判としたのであるが、岡崎演出ではこの批判色を和らげた「世論」の役作りになっているように感じた、ぐるっぽユーモアの主要な登場人物は13人なので一人消えてしまっているが、多分そのことが合わせて物語を分かりやすくしているのかも知れない。いずれにせよ「天国と地獄」こそ、多数の登場人物にそれぞれの出番を与えているという意味で、ぐるっぽユーモアにぴったしと言えそうである。
ぐるっぽユーモア風のお遊びもよかった。今はプルトンの召使いが昔はハムレット王子様というのがそうで、もともとはアルカイダ、いやアルカディアの王子であった筈である。ドイツ民謡「乾杯の歌」が飛び出た時はお遊びと覚るまではすこし時間がかかってしまった。だからオルフェウスが「われエウリディーチェを失えり」をリリックに歌い出したときもまたお遊びかと思ったが、これこそオッフェンバックがあざけりの対象としているグルックをからかって、彼のオペラ「オルフェオーとエウリディーチェ」のアリアを歌わせるという仕掛けに出たのであろう。著作権法がなかったから出来たことなのだろうが、思い切ったことをしたものである。元来はバリトンかバスであるはずなのに、ソプラノのアリステ/プルトンが登場したときは、オッ、タカラヅカ!と思ったが、女性優位の団員構成を生かす術とはさすが岡崎マジックである。好色なジュピターが蠅に変身して地獄のエウリディーチェと戯れる場面など、蠅がエウリディーチェのどこかに入り込み彼女がエクスタシーに達するなんて演出があるそうなので、もうすこし羽目を外して稀少男性の存在を誇示して欲しい気がしたがこれは欲張りというものか。フィナーレの「地獄のギャロップ」の実に優美なカンカン踊りを観て、余計なことは言わずもがなの思いを強くした。上品なエロティシズムがなかなかのものであったからである。
「地獄のギャロップ」の踊りに入ると観客の手拍子が自然にわき起こって、観客が心の底から楽しんでいるとの思いで一緒になれたのがよかった。それに応えてアンコールが二度三度。このノリで行くと来年公演予定のオペレッタ、カールマンの「チャールダッシュの女王」では出演者の足腰が立たなくなるまでのアンコールが期待できそうである。楽しみ!
このギリシャ神話はわが国のイザナギの黄泉の国訪問神話とそっくりなので知る人も多いと思うが、竪琴の名手オルフェウスの妻エウリディーチェが、散歩の途中牧人アリスタイオスに追われて逃げる間に毒蛇に噛まれてあの世に逝ってしまう。オルフェウスは愛する妻を取り戻すべく冥界に下り、竪琴で地獄のあらゆる住人を魅了してしまう。そこで冥界の神ハデスはオルフェウスが妻を地上に連れ戻すことを許すが、地上に出るまでは決してエウリディーチェの顔を見ないという約束をさせた。ところが地上に出る一歩手前でオルフェウスが誘惑に負けて後ろをふり返ったために彼女は再び地獄へ落とされた、と言うのである。
「天国と地獄」の物語は表面的には単純なので、パンフレットの解説でよく分かる。音楽院の院長オルフェとその妻エウリディーチェはもう倦怠期でお互いに浮気相手がいる始末。エウリディーチェが浮気相手実は地獄の大王プルトンに飲まされた地獄ワインで死んでしまうと、オルフェが嬉しい嬉しいの本心を隠しきれなく浮かれ出す、というようなところでそのパロディぶりが分かると言うものである。となるとあとは難しいことはいらない、舞台を楽しむだけである。
脚本・演出・指揮の岡崎よしこさんとピアノの橋爪由美子さんが登場、序曲が終わって幕が上がった。そして地上編、天国編、地獄編と話が進むのであるが、20分の休憩時間を含めて2時間半ほどの舞台があっという間に終わってしまったのである。テンポがよくて舞台が弾んでいたからであろう。全体を通して何に印象づけられたかと言うと、まず舞台への登場人間が多かったこと。八百万の神々ではないが、神様の多い方が舞台が映えていい。だから合唱で声のふくらみが実に豊であった。とくにソプラノの迫力は心打つ。出演者にコーラスメンバーの名前がずらずらと並んでいるのが伊達ではないことを証明したと言える。それに舞台装置とその転換が見事だった。解説では第一、第二、第三幕となっていたが、実際は第一幕一場二場、第二幕一場二場の仕立てで、一場は舞台の前面を使い二場で前面の背景を取り除いて行うダイナミックな舞台変換が鮮やかであった。第一幕では現世から天国へ一挙に移り、第二幕ではエウリディーチェが閉じ込められた小部屋から地獄の大広間へと移ったのである。また第二幕第一場で小部屋に一人座っているエウリディーチェの衣裳の空色と背景中央を左右に仕切る柱の赤の対比が美しく、私の好きなホッパーの絵画を連想させた。こういうオシャレな舞台装置を自前で作っていく意気込みに感動した。
この「天国と地獄」はぐるっぽユーモアの出し物として、うってつけのものではないかと私は思う。メンバーに音楽大学卒業生も仲間に入り、と紹介されているように、音大卒業生が主要な役で舞台を引き締める牽引車となるのは大いに結構なのであるが、全員がそれではぐるっぽユーモアの存在意義は消えてしまう。やはり歌うことが大好きな上に、人に聴いて貰う以上はそれなりの努力を惜しまない素人上がり全員が主役であることが大切で、そのためには一人ひとりに出番が欲しい。その出番作りをオッフェンバックは「天国と地獄」で準備してくれたとも言えるからである。
ナポレオン三世の第二帝政時代、オッフェンバックが当初持っていたライセンスでは登場人物は4人までの一幕ものオペラしか上演できなかった。しかし政府と交渉してようやく登場人物を増やしコーラスも加えたオペラが出来るようになり、そこで意気揚々作り上げたのが「天国と地獄」であった。その当時もてはやされていたのはオペラ・ガルニエに代表される豪華絢爛な建物(パリオペラ座が実際に完成した時は第三共和制に替わっていた)や、いかにもクラシックの代表とばかり君臨していたグルックのオペラなどであったが、オッフェンバックはこのような新古典派の流行にイチャモンをつけることで新しいライセンス獲得記念にしようとしたのである。そこで主な登場人物を一挙に14人に増やしてそれぞれの出番を作った。その一人、Public Opinion(世論)を神々と争わせることで第二帝政による社会的抑圧に対する批判としたのであるが、岡崎演出ではこの批判色を和らげた「世論」の役作りになっているように感じた、ぐるっぽユーモアの主要な登場人物は13人なので一人消えてしまっているが、多分そのことが合わせて物語を分かりやすくしているのかも知れない。いずれにせよ「天国と地獄」こそ、多数の登場人物にそれぞれの出番を与えているという意味で、ぐるっぽユーモアにぴったしと言えそうである。
ぐるっぽユーモア風のお遊びもよかった。今はプルトンの召使いが昔はハムレット王子様というのがそうで、もともとはアルカイダ、いやアルカディアの王子であった筈である。ドイツ民謡「乾杯の歌」が飛び出た時はお遊びと覚るまではすこし時間がかかってしまった。だからオルフェウスが「われエウリディーチェを失えり」をリリックに歌い出したときもまたお遊びかと思ったが、これこそオッフェンバックがあざけりの対象としているグルックをからかって、彼のオペラ「オルフェオーとエウリディーチェ」のアリアを歌わせるという仕掛けに出たのであろう。著作権法がなかったから出来たことなのだろうが、思い切ったことをしたものである。元来はバリトンかバスであるはずなのに、ソプラノのアリステ/プルトンが登場したときは、オッ、タカラヅカ!と思ったが、女性優位の団員構成を生かす術とはさすが岡崎マジックである。好色なジュピターが蠅に変身して地獄のエウリディーチェと戯れる場面など、蠅がエウリディーチェのどこかに入り込み彼女がエクスタシーに達するなんて演出があるそうなので、もうすこし羽目を外して稀少男性の存在を誇示して欲しい気がしたがこれは欲張りというものか。フィナーレの「地獄のギャロップ」の実に優美なカンカン踊りを観て、余計なことは言わずもがなの思いを強くした。上品なエロティシズムがなかなかのものであったからである。
「地獄のギャロップ」の踊りに入ると観客の手拍子が自然にわき起こって、観客が心の底から楽しんでいるとの思いで一緒になれたのがよかった。それに応えてアンコールが二度三度。このノリで行くと来年公演予定のオペレッタ、カールマンの「チャールダッシュの女王」では出演者の足腰が立たなくなるまでのアンコールが期待できそうである。楽しみ!