日々是好日

身辺雑記です。今昔あれこれ思い出の記も。ご用とお急ぎでない方はどうぞ・・・。

鶴橋をぶらぶら キムチによもぎ餅

2009-02-27 17:16:53 | 在朝日本人
昨日は久しぶりにお日さんが照ったのでお昼前に家を出て鶴橋に直行した。あの辺りをブラブラしたくなったのである。しかし先立つのは腹ごしらえであるが、これと目指した店は皆満員で行列が出来ていた。それならと前にも訪れた鶴一本店に入ったが、すぐに二階に通されたとたんしまったと思った。一人なのに案内されたのは六人掛けの席で、テーブルの中央のコンロには炭火が勢いよく熾っていて、否応なしに焼き肉を注文せざるを得ない雰囲気なのである。メニューを見ても焼き肉がメインで、サイドオーダーとわざわざ断ったメニューにテールクッパなどが並んでいる。以前は焼き肉目当てで入ったからそれで良かったのが、今度は昼食にクッパが欲しかっただけなのである。と、ふと昔のあることを思い出した。

ニューヨークでほどほどのレストランに妻と入った時の出来事である。注文を済ませたところに若い女性の二人連れが入ってきた。少し離れた真向かいのテーブルに通されてメニューを時間をかけて眺めていたが、やがて相談がまとまったと見えて二人は席を立ちそのまま店を出て行った。値段が合わなかったのかなと彼女たちを見送っている私の視線をウエイターがとらえたかと思うと、「Happy girls!」と言って私にウインクを送ってよこしたのである。

私は「鶴一」をそのまま出ようかなと思ったが、メニューにお水、そしておしぼりを持ってこられてしまったので、格好悪い「A happy boy」になるのをあきらめて、ばらロースを余分に注文する羽目になった。もちろん焼き肉もテールクッパも申し分なく、思いがけなくヘビーな昼食を堪能してから探訪に出かけた。



私が通っている韓国・朝鮮語教室の先生は家庭料理の講師をも兼ねており、年末に教室の女性が何人か先生の自家製キムチを分けて貰い、なかなか美味しいと話し合っていた。それならと私も1キロ分けて貰ったが、熱々の白粥に冷たいキムチを載せながら頂くといくらでも食が進む。わが家で食べるのは私だけであるが、5、6回ほどで平らげてしまったのでその旨を先生に言ったら目を丸くしていた。私がキムチを食べ始めるとしばらくはキムチ漬けの日々が続くのである。そこでわざわざ鶴橋まで私の目に美味しそうに映るキムチを探しに来たのである。500グラム1000円で買ったキムチは生の牡蠣や木の実などを始め具が沢山入っていて見るからに美味しそう、あっという間になくなってしまいそうである。次はお餅を探した。



私が朝鮮で暮らしていた頃は朝鮮の人たちが食べているものを間近に目にすることはなかった。敗戦になって南大門広場に大がかりな闇市?が生まれ、白米を始めとする数々の食料品が実に豊富に出まわるようになり、露店で大勢の人が飲み食いするようになって食事の様子を始めて実見した。鉄原から引き揚げてきて日本に帰るまでの3ヶ月ほど明治町(今の明洞)にある会社の寮に入っていたので、毎日のように9歳下の弟を負んぶして、足の向くままあちらこちらを探検して廻っていた。食べ物などは珍しいので立ち止まってじっと眺めていると、時々オモニがお菓子などを呉れたりした。その時はじめて食べて美味しいとおもったのが朝鮮風のお餅である。

お餅といっても実に種類が多くて作り方もさまざまなようである。しかし臼と杵でつく日本のお餅と違って、朝鮮のは糯米やうるち米を粉にして、それにいろいろなものを加えて甑で蒸すのである。四角い型などに入れてカステラのように出来上がるとそれを適当な厚さに切って食べるのもあれば、ことさら型にはめずに日本の山菜おこわのように皿に盛るものもある。久しぶりの鶴橋で嬉しいことにいろんな種類のお餅を置いている屋台を見つけたので、よもぎ餅と蒸し餅をそれぞれ500円で買った。朝鮮でも決して食べ慣れたものではなかったが、子供の頃の思い出と重なって懐かしいのである。よもぎ餅は一夜でなくなってしまった。



3月20日には阪神電車の難波線が開通して難波で近鉄に乗り入れて、奈良まで乗り換えなしに行けることになる。すると鶴橋は難波から上本町の次の駅だから三宮から電車一本で気軽に行けるようになる。鶴橋詣でが増えそうである。




「容疑者の手などから採取した試料が被害女性のDNAと一致」とはやり過ぎではないのか

2009-02-25 11:37:51 | Weblog
高速バス内で寝ている女性乗客の体を触ったとして準強制わいせつ容疑で現行犯逮捕された容疑者の手などから採取した試料が被害女性のDNAと一致した、とのニュースをasahi.com(2009年2月25日8時16分)で見た。この記事だけでは詳細が分からないが、ちょっとやり過ぎではないかと私は思った。

どのような状況で容疑者の「試料」が採取されたのだろう。私がたまたまそのバスに乗り合わせていて、被害者の勘違いで犯人扱いされて警察に捕まったとする。もちろん私は容疑を否認する。それにもかかわらず私の手を始めとする身体の各所からDNA分析のための試料が強制的に採取されるのだろうか。そう考えただけでもぞーっとした。

犯罪捜査のためにDNA分析が重大な手がかりを与えることは容易に想像できる。性犯罪で犯人の遺留物である体液の分析などでは犯人を特定するようなケースである。しかしこのような性犯罪と同一視されるほど今回のように容疑者が被害者の下半身を触った疑いに重大な犯罪性があるとは私には思えない。それにもかかわらず一律に性犯罪容疑者であるということでDNA分析を受けさせられるのであろうか。

これまでも準強制わいせつ事件で被害女性の体に触れたとされる容疑者にDNA鑑定がなされてきたのだろうか。マスメディアで報道されていたのかもしれないが、私の目に触れたのは今回が初めてである。とするともしかして今回は警察に知恵者がいて、女性の下半身に触れたのかどうか、容疑者の手などからDNA分析のための試料を物的証拠として採取すればよいと思いつきそれを実行に移したのだろうか。もしそうなら私は違法行為のような気がする。

犯罪性の実証のための物的証拠収集には裁判所の令状が必要なのだろうと思うし、ましてやDNA鑑定の必要性を判断するのは裁判官なのではなかろうか。DNA鑑定に至ったまでの手続きを知りたいものである。皮肉なことに今回の準強制わいせつ事件の容疑者は現職の判事である。当然DNA鑑定が行われるまでの成り行きに、裁判官としての職業的判断が働いた上で試料の採取を許したのだろうと想像するが、実際はどうであったのだろう。専門家の解説が欲しいところである。

万が一私が不運にしてこのような事件に無実の容疑者として巻き込まれたら、なにはともあれ尿意を訴えて、用を済ませた後は手を綺麗に洗うことにしよう。どういう経緯で紛れ込んできたかもしれないDNA試料に振り回されるのは真っ平ごめんだからである。


文学者の文章 内田樹さんの「壁と卵(つづき)」を再考

2009-02-24 12:10:38 | Weblog
一昨日文学者の文章 MetaphorがJargonを生むで内田樹さんの壁と卵(つづき)にある文章を引用させていただいた。MetaphorがJargonを生む典型的な例だと思ったからである。しかしそうは思いながらも、多くの人に持てはやされる名だたる文学者の文章がまともに理解できない自分の格好悪さを気にもしたのである。

私は内田樹さんの著書が書店店頭に沢山並んでいるので売れっ子であることは知っていたが、売れっ子だからこそ私の変な天の邪鬼が頭をもたげて著書を手にすることはなかった。だから内田さんが「文学者」なのかどうか分からないが、これは「言葉のあや」とでも受け取っていただこう。その内田さんが昨日は小学生にはむずかしい文章なるブログを書いておられるので、私は内田さんにとったら小学生並みかも知れないと思いつつおそるおそるその文章に目を通した。

なんと、内田さんの次のような文章は私にもよく分かるのである。

《私は一度書いた原稿に「ここがわかりにくいので書き換えてくれ」とか「この字は読みなれていないので、ひらがなにしてくれ」とか言われるのが嫌いである。
だから、「そのままの原稿では出せません」と言われると、「あ、そうですか」とそのままオサラバすることにしている。
私の文章を読んで「意味がわかりません」という人間と「私の文章」を介して話し合いをすることは,論理的に考えて、純粋な消耗だからである。》

分かるからこそ内田さんのこの主張にはまったく同感と言える。しかも嬉しいことに「ここがわかりにくいので書き換えてくれ」と注文をつける編集者がやはりいるようなのである。そこで内田さんが小学校の教科書のために何か書いて欲しいとぜひにと頼まれて文章を書き教科書出版社に渡した、というところで次のように話が続く。

《しばらくして、やはり編集会議でボツになりましたという知らせが来た。
小学生にはむずかしいだろうという理由である。
なるほど。
まことに理にかなった展開である。
でも、せっかく書いたものであるから、その原稿をここに公開して、諸賢のご高覧に供したいと思う。》、ということでボツになった文章を再掲している。

ひょっとして内田さん、むずかしいからとどこかでボツになった壁と卵(つづき)をブログに公開したのかな。もしそうならまともに目を通して反応した私がウブだったのである。


ヨン様看板の店で眼鏡を購入

2009-02-23 20:48:41 | Weblog
今日は午前中の韓国・朝鮮語講座のあと三宮に出てヨン様が宣伝している眼鏡店で眼鏡を受け取った。以前眼鏡の値段のブログを書いて数日後に注文していたのが出来上がったのである。

30分以上は時間をかけたと思うが、一応納得のいくまで検眼して度合わせをした。遠近両用眼鏡なのであるが遠方を見る方はほぼ5年前と変わっておらず、近くを見る方で右目の乱視が進んでいたようである。と言っても裸眼で両眼視力が0.8あるので運転免許証では眼鏡着用なしなのである。フレームは韓国製かと思いきや中国製、しかしプラスチックレンズはニコン製で料金は眼鏡一式が18900円(税込み)で宣伝通り追加の料金は一切なかった。新旧フレームをくらべると、同じようなデザインを選んだので違いは目立たないが、新しいのは装飾性を排した実用一点張りである。写真でどちらがどちらなのか分かるだろうか。道具としてはこれで十分であるように思う。



出来上がった眼鏡では新聞広告のかなり小さな文字が鮮明に見える。これまでの眼鏡で眺めるとやはりぼやけている。明らかに見やすくなったが嬉しい。そこで手元にある古い眼鏡のフレームに今度は近々用のレンズを入れて貰うことにした。読書・パソコン用である。念のため検眼をし直して読書用にはより鮮明に文字が見えるように遠近用の場合よりも度を上げて貰った。レンズは同じくニコン製で10500円也。一週間後に出来上がる予定である。


文学者の文章 MetaphorがJargonを生む

2009-02-22 19:54:23 | 放言
村上春樹さんのエルサレム賞の受賞スピーチを一読して、《私の読解力が劣っているせいかも知れないが、一体この人は何を言いたかったのか私にははっきりとしなかったのである。》と村上春樹氏の分かりにくいメッセージで述べた。

受賞スピーチの中で村上氏は《To make judgments about right and wrong is one of the novelist's most important duties, of course.》と言っているのだから、話の流れからガザ地区を攻撃しているイスラエル(軍)と被害を被っている人民について、どちらが「right」でどちらが「wrong」なのか村上氏には自分の判断があるものだと思った。ところがどのようなやり方で「判断」を第三者に伝えるかは小説家一人ひとりが決めること、となんだか勿体をつけて村上氏は回りくどい「たとえ話」を持ち出したのである。

"Between a high, solid wall and an egg that breaks against it, I will always stand on the side of the egg."》と言う話がそれで、さらに

The wall has a name: It is The System. The System is supposed to protect us, but sometimes it takes on a life of its own, and then it begins to kill us and cause us to kill others - coldly, efficiently, systematically. 》と「wall」=「The System」なる言い換えを持ち込む。これに対して私は

《村上氏は「wall」を「The System」なるカフカ的言辞に止めたが、私なら暗喩ならざる暗喩になってしまうが「The Nation」としただろう。これだとメッセージが間違いなく強力に伝わったと思う。》と私なりの考えを述べた。

私は自分ならこう書く、と主張したまでで、村上氏が本当に言いたいことは何か、などと忖度したわけではない。私は言葉というものは伝えたいメッセージを一義的に相手に伝えるための道具であると思っている。言葉の受取手がそのメッセージを一義的に了解してこそ言葉が言葉たる機能を発揮したと思っている。ところが私には村上氏のメッセージが彼の言葉を介して一義的に伝わってこないものだから、何を言いたいのか分からないと述べたのである。では他の人はどのように村上氏の言葉を正しく受け取った(と主張できる)のだろうかと疑問に思っていたら、内田樹さんの文章「壁と卵(つづき)」にぶち当たった。私のように村上氏の「たとえ話」が分かりにく人が多いと思われたのか、「伝道者」役を買って出られたようである。この中で内田さんは

System というのは端的には「言語」あるいは「記号体系」のことだ.
私はこのスピーチをそう理解した。
「政治」とは「記号の最たるもの」である。
現に、このスピーチの中の「システム」を「記号」に置き換えても意味が通じる。》と述べている。

この方は凄いと思った。独自の文章解析眼でもって私が理解をあきらめた「wall」の「metaphor」である「The System」を「言語」あるいは「記号体系」のことだと理解されたのである。ところが、である。「The System」がさらに「言語」あるいは「記号体系」あるいは「記号」と言葉を換えたものだから、「The System」だけでチンプンカンプンな私にはますますお手上げでなのである。でも私が世間の人に比べて文章理解力がそれほど劣っていることはあるまいとの自負心も多少はある。と思ったら「The System」も「言語」も「記号体系」も「記号」も、「metaphor」ではなくて「jargon」に見えてきたのである。

jargon」とは研究社新英和大辞典(第六版)に、
《1(職業上の)専門用語、隠語、(特殊な人たちだけに通じる)通語;(学者間の)むずかしい専門語》と出ているので、私が何を言いたいのかお分かり頂けると思う。「The System」、「言語」、「記号体系」、「記号」は村上春樹さんとか内田樹さんとか特異な知性に恵まれた方の間だけで通じる言葉なのである。ちなみにこの大辞典には引き続き《2a (ちんぷんかんで)わけのわからない言葉;たわごと》と出てくる。私の今の心情にぴったりの説明になっている。

私はお二人ほどの知性を共有しないから「The System」を村上氏の文脈での理解を諦めた上で、《私なら暗喩ならざる暗喩になってしまうが「The Nation」としただろう》と、村上氏の文章を換骨奪胎してしまったのである。

実はこれからが本論なのである。

村上氏が《To make judgments about right and wrong is one of the novelist's most important duties, of course.》と言っているのだから、では、その通りにしたらどうだ、と私は言いたいのである。それも受取手が言葉の解釈をめぐって侃々諤々の議論をせざるを得ないような曖昧な言葉遣いをすべきではない。ましてや「metaphor」などはもってのほかである。村上氏の英文原稿に使われた「metaphor」の原義はWebster's Third New International Dictionaryによると

《:a figure of speech in which a word or phrase denoting one kind of object or action is used in place of another to suggest a likeness or analogy between them (as in the ship plows the sea or in a volley of oaths) :an implied comparison (as in a marble brow) in contrast to the explicit comparison of the simile (as in a brow as white as marble)》である。

これによると「metaphor」は「a figure of speech」、すなわち「言葉のあや」であり、「言い換え」はするもののその意味する内容が変わってはいけないのである。と言うことは「wall」であり「The System」の意味する内容が厳然と存在しており、村上氏はその内容を誰もがそれと分かる言葉で表現できるはずである。それが出来ておらず、このままでは理解されにくいと思ったからこそ内田さんがわざわざ「伝道師」の役割を果たそうとしたのであろう。しかし内容を包み隠したままでの「metaphor」は「jargon」を誘発するだけで終わってしまった。

私もそうであったが科学者が科学論文を書く際に、自分の伝えたい内容が受取手に正しく伝わることを第一に考える。そのために曖昧な表現は排除する。一つの文章がああともこうとも取れるようでは論文の体をなさないからである。また言葉で表現できた概念こそ実体なのであって、言葉で表現できないような概念が論文に現れることはあり得ない。相手に伝わらないからである。その伝で言うと村上氏が「The System」が意味する内容を誰もがそれと分かる言葉で表現していないのは、書き手の怠慢としか言いようがないのであるが、「伝道師」を必要とする文章を喜ぶ大衆が多いと言うことなのだろうか。文学者はそれほど高い存在なのだろうか。




「もうろう会見」報道で墓穴を掘ったのは?

2009-02-20 15:17:25 | 放言

中川昭一前財務相が「もうろう会見」の失態がもとで辞任し、この件はひとまず落着した。テレビ映像で見た中川氏のもうろう状態は褒められたものではないが、それで財務相を辞めるほどのことなのか、とも思った。早い話が中川氏が酔っぱらったことでG7そのものがチャラになったわけでもなければ、素面だったからと言ってG7にことさら重みを添えるものもない。株屋の思惑で株価ぐらいに少々影響が出たかもしれないが、経済環境が上向きか下向きか、どちらかに急変するようなものでもなかった。あんなもの、お愛嬌ではないか。日本人の面汚しと息巻く向きもいるようだが、電車の中で乗客のほとんどが酔っぱらっていなくても居眠りするのが独自の風物詩となっているお国柄である。中川氏のもうろう状態は格好良いものではないが、私なら日本の余裕のあらわれと外国に吹聴してやる。

中川氏も「もうろう会見」の席上で、眠気覚ましに小泉さんではないがモンキー踊りでも披露すれば良かったのだ。臨機応変の才覚を発揮し得なかったことだけが悔やまれる。その昔、中川氏の大臣職では大先輩に当たる元大蔵大臣泉山三六氏が酒癖で武勇伝を発揮した。「ウィキペディア」によると《予算委員会に泥酔して出席したことが問題となり、また廊下で山下春江議員に抱きついてキスを迫り、山下議員が抵抗すると顎に噛み付くなどの不祥事が発覚、同年(1948年、引用者注)12月に引責辞任し、また議員も同時に辞職した。》のである。このニュースに思春期の私などは興奮したものだから良く覚えている。そう言えば中川氏のご父君中川一郎氏も国会敷地内での立ち小便で名を上げた方で、これなどに比べても「もうろう会見」なんて、それだけ大臣が小粒になったせいかもしれないが可愛いげなもの、と私などはつい寛容になってしまう。ちなみに、泉山氏は《この一件で「大トラ大臣」として知名度が向上した事が功を奏してか、かえって一般人気は高まったと見え、1950年の参議院議員選挙では全国区から立候補、得票数第7位で当選した。以後2期12年務める》(「ウィキペディア」)のである。

中川氏の振る舞いよりも今回の事件で私の関心を惹いたのはG7出席者に同行した取材陣の存在理由である。今日の朝日新聞朝刊に次のような見出しでかなり大きな記事が出ているが、私が問題にするのは下の記事の部分である。




この記事は2月13日のことで《財務省幹部と打ち合わせ後の午後10時40分ごろから、中川氏が記者4人を呼び、宿泊先のホテル内で翌日午前0時半ごろまで懇談。中川氏はジントニック3、4杯を飲んだ。中川氏と麻布中・高校の同級生でもある財務省の玉木林太郎国際局長も加わった。 》(asahi.com 2009年2月20日10時33分)に続くのである。さらに次の記事がある。14日午前8時15分から、イタリア経済・財務省で始まったG7本会合に出席してからの行動なのである。

《中川氏は昼食会の途中で退席し、宿泊先のホテルに戻った。午後2時50分からのロシアのクドリン財務相との会談までの約40分間、レストランで昼食にサラダとパスタを食べた。
 昼食には、玉木局長ら職員3人と政務秘書官、通訳、旧知の知人に加え、前夜に懇談していた読売新聞の女性記者が同席。この場でも酒が出された。「大臣がワインを注文した。レストラン側からこのボトルでいいかと聞かれ、大臣がそれでいいと言った。大臣は口をつけた程度の飲み方しかしていない」「読売新聞の記者は取材で近寄ってきて、時間がないので入ってもらった」(19日の衆院予算委員会の玉木局長答弁) 》

ここで私が注目したのは読売新聞女性記者の存在である。ここまで中川氏に密着して取材している以上、マスメディア他社を寄せ付けない彼女ならではの独自の記事が読売新聞を飾っているであろうと思った。私は読売を購読していないので図書館にでも出かけないと調べようがないが、YOMIURI ONLINEの「激震・麻生政権」の特集記事に目を通す限り、私の期待する記事は見あたらなかった。反対に次のような言い訳がましい記事が目についた。

《読売新聞東京本社広報部の話「衆院予算委員会で取り上げられた14日の昼食に本紙記者が同席していたことは既に本紙で報じた通りです。G7取材の一環であり、記者は昼食の間、携帯電話に、原稿の問い合わせなどを受けて数回にわたり席を外したため、中川氏がワインを飲んだところは見ていません。中川氏はろれつが回らない様子ではありませんでした。記者自身はグラスに口をつけていません。前日の13日夜も他社の記者とともに中川氏と軽食をとりながら取材しました」》(2009年2月20日09時52分 読売新聞)

この記事を読んでこの女性記者はなんて失礼な人なんだろうと私は思った。上の衆院予算委員会の玉木局長答弁で「読売新聞の記者は取材で近寄ってきて、時間がないので入ってもらった」とあるその女性記者なのである。わざわざ割り込んだ昼食に同席しながら(食事をともにしたのかどうかわ記事からは分からない)その間かかってきた携帯電話のために数回席を外したというのである。これでこの女性記者には取材よりも携帯電話に出る方が大事だという判断のあったことが分かる。一国の財務大臣(大蔵大臣と言った方が私は重みを感じるのであるが)に取材している間にかかってきた携帯電話に出ること自体、取材相手に対してきわめて失礼であり、取材をいとも軽々しく放棄した以上、報道人としてはすでに失格なのである。

と私なりに正論をちょっと振りかざしたが、実は私は玉木局長の答弁も読売新聞東京本社広報部の話も信じていない。女性記者が14日の昼食に同席したのは取材なんかでありえないと思っているからである。曲がりなりにもG7取材に抜擢された読売新聞の女性記者が上に述べたような非礼を働く人物であるとは私の常識では考えられないからである。とすると答えは一つ、女性記者は取材ではなく、財務相の取り巻きの一人として昼食に同席したのである。

朝日新聞が《この席(14日夜、ホテルでの会合、引用者注)には朝日新聞記者はいなかった》というのも言い訳がましいが、自社の記者が「取り巻き」と決めつけられずに済むことにさぞかしホットしたことであろう。ここで明らかになったことは、朝日記者は少なくとも女性記者が取材したことになっている13日夜の会合にも14日の昼食にも同席していないのだから、取材チャンスにハンディキャップを背負ったことになる。ところが現実にはどうだろう。G7に関して朝日と読売とで「新s あらたにす(日経・朝日・読売)」に現れた記事は似たり寄ったりであった。私の上の推測と矛盾はしない。

今の経済情勢でG7での取り決めに何かの実効を期待する人が居るとは思えない。それをよく知っているはずの日本のマスメディアなのに大勢の取材陣を派遣する。全くの無駄遣い、他人事ながらマスメディアの経営感覚が心配になる。朝日朝刊記事によると記者会見の《会場は80席あり、メディアは50人程度。ほとんどは日本人で、外国人はイタリア人カメラマンら数えるほど》であった。しかしG7そのもので取り立てて報道すべきものは何もない。しかし大金をかけて「取材」に出かけたのに何も無いではまずいな、と思ったところへ「もうろう会見」は格好の材料を提供してくれた。しかも有難いことに外国のメディアが取り上げてくれた。後は尻馬に乗っかれば良いだけの話である。上の朝日の記事にしても良く読めば中川氏の実際の状況がどうであったのかを明らかにしたものではなく、朝日朝刊本紙には下の見出しで記事が続くが、これは事件の本質の探求、そして多くの読者の知りたいと思っている背景の解明を放棄したことへの言い訳の弁なのである。



「もうろう会見」報道で墓穴を掘ったのは中川氏だけではないように思う。


村上春樹氏の分かりにくいメッセージ

2009-02-18 18:03:53 | Weblog
小説家の村上春樹さんがエルサレム賞なる文学賞をエルサレム市まで出かけて頂いた時の受賞スピーチが評判になっている。賞をくれる相手国(イスラエル)で事実上イスラエル軍の過剰攻撃を批判した(毎日新聞 2009年2月16日 東京夕刊)と言うのである。面白い人だなと思ってそのスピーチを探したら原文が見つかった。一読するとガザ地区における戦闘について次のような言い方をしている。

《the fierce battle that was raging in Gaza. The UN reported that more than a thousand people had lost their lives in the blockaded Gaza City, many of them unarmed citizens - children and old people. 》

村上さんがそうだと思っている「事実」を述べているので、「事実」を述べたこと自体が批判と受け取られるかも知れないが、私はそうだとは思わなかった。それより私はこのスピーチで村上氏がどのようなメッセージを伝えたいと思ったのかに興味を持ち、私なりに検証してみた。ところが私の読解力が劣っているせいかも知れないが、一体この人は何を言いたかったのか私にははっきりとしなかったのである。

そこでお恥ずかしいことであるが、私の読解力の程度をお目にかけることにするので、お暇な方はお付き合いいただきたい。

まずは小説家とはなにものか、と話を始めている。
《a professional spinner of lies》なのだそうである。《the bigger and better his lies and the more ingeniously he creates them, the more he is likely to be praised by the public and the critics》というところが、嘘つき政治家、嘘つき外交官、嘘つき軍人、嘘つき中古車セールスマン、嘘つき肉屋や嘘つき土建屋と違うところで、ではなぜ小説家だけが嘘をついても大いばりでおられるのかと言えば
《by telling skillful lies - which is to say, by making up fictions that appear to be true - the novelist can bring a truth out to a new location and shine a new light on it》だからなのである。

ではなぜ小説家がそのよう器用なことを出来るかと言えば
《In order to accomplish this, however, we first have to clarify where the truth lies within us. This is an important qualification for making up good lies》、すなわち小説家は「真実」の在処をまず探り当てるからこそ、そのような芸当が出来るのであると説く。

村上氏は
《by telling skillful lies the novelist can bring a truth out to a new location》を小説の技法とするが、その技法でもって小説家がすでに掴んでいる「真実」を読者に提示すると言うのであろう。だからこそ
《Today, however, I have no intention of lying. I will try to be as honest as I can. There are a few days in the year when I do not engage in telling lies, and today happens to be one of them.》なる変貌が可能になるのであって、
《So let me tell you the truth.》となる。従ってここまでは小説家とはどのようなものであるかを説明しながら、次の話の導入部となっているのである。

ではどのような話が出てくるかと言えば
《A fair number of people advised me not to come here to accept the Jerusalem Prize. Some even warned me they would instigate a boycott of my books if I came. 》と切り出す。このような反対意見がなぜあるのかと言えば、として上に引用したガザ地区における戦闘の話が出てきたのである。ここまでは村上氏がエルサレムにやってくるまでの経緯を述べたまでで、イスラエルの人々に対するメッセージはこれから始まるのである。

そうして反対意見にもかかわらず自分がここに来たのはなぜか。
《One reason for my decision was that all too many people advised me not to do it.》
多くの小説家がそうであるように、反対されるとされるだけそれをやりたくなる「天の邪鬼」であるからだと言う。これは天性「天の邪鬼」である私にはよく分かる。それと
《Novelists are a special breed. They cannot genuinely trust anything they have not seen with their own eyes or touched with their own hands. 》、だから私はここにやって来たという。別に小説家でなくてもこんなこと、当たり前の事じゃないの、と突っ込みを入れたくなるが、まあそれはよいとして、では何を見に来たのか、また何を見たのかはこの受賞スピーチ賞では明らかに述べられていないので、後半分はただのレトリックであろう。

それでいよいよ何を言いたいのか、である。ところが
《This is not to say that I am here to deliver a political message. To make judgments about right and wrong is one of the novelist's most important duties, of course.》と、善悪に対する判断を下すのは小説家のもっとも重要な義務である、と見得を切ったものの、
《It is left to each writer, however, to decide upon the form in which he or she will convey those judgments to others. 》と、どのようなやり方で「判断」を第三者に伝えるかは小説家一人ひとりが決めること、として村上氏は回りくどい「たとえ話」を持ち出したのである。

《"Between a high, solid wall and an egg that breaks against it, I will always stand on the side of the egg."》

「wall」と「egg」が何を意味するか、
《Bombers and tanks and rockets and white phosphorus shells are that high, solid wall. The eggs are the unarmed civilians who are crushed and burned and shot by them.》と言うことでよく分かる。ところが誰でも分かりそうなこの例えにもっと深い意味があるというのである。少し長いがここを村上氏が強調したいのだろうから全文を引用する。

《Each of us is, more or less, an egg. Each of us is a unique, irreplaceable soul enclosed in a fragile shell. This is true of me, and it is true of each of you. And each of us, to a greater or lesser degree, is confronting a high, solid wall. The wall has a name: It is The System. The System is supposed to protect us, but sometimes it takes on a life of its own, and then it begins to kill us and cause us to kill others - coldly, efficiently, systematically.(強調は引用者)

これで「wall」の内容がもう少し明らかになった。そして村上氏のスピーチのクライマックスが
《Each of us possesses a tangible, living soul. The System has no such thing. We must not allow The System to exploit us. We must not allow The System to take on a life of its own. The System did not make us: We made The System. 》とつづき、
《That is all I have to say to you. 》と締めくくる。ところがこのように締めくくったクライマックスで村上氏が何を強調したかったのか、私にはあまりにも抽象的で分からなかったのである。いや、私だけでなくこの受賞スピーチを聞いた聴衆の反応も同じではなかったのではなかろうか。それは小説からしからぬ曖昧さ、いや小説家ならではの「韜晦」の度を過ぎたからではなかろうか。

私はかって大江健三郎氏が「沖縄ノート」のなかで作り出した造語「罪の巨塊」を大江氏による「罪の巨塊」の変な説明で批判したことがある。小説家は結構一人合点のところがあるが、村上氏の「The System」にも私は同じような思いを抱いた。村上氏は「wall」「The System」なるカフカ的言辞に止めたが、私なら暗喩ならざる暗喩になってしまうが「The Nation」としただろう。これだとメッセージが間違いなく強力に伝わったと思う。と言うことで上の文章の「The System」「The Nation」に変換しておく。もしこれが村上氏の本意であったとしたら、疑念を抱いたわたしの読解力も満更捨てたものではないことになるが、果たしてどうなんだろう。文学者の文章はどう受け取っても良いように書かれるので私は苦手である。

《Each of us possesses a tangible, living soul. The Nation has no such thing. We must not allow The Nation to exploit us. We must not allow The Nation to take on a life of its own. The Nation did not make us: We made The Nation. 》



大麻問題 騒ぎすぎでは?

2009-02-17 11:42:24 | 放言
法政大学の学内調査で男子学生8名がキャンパス内で大麻を吸引していたことが明らかになり、8名を無期停学処分にしたとのニュースが流れたかと思うと、今度は京都大学学生が大麻所持の現行犯として警察に逮捕された。大麻所持で大学生の摘発が相次いでいるが、いずれは東大をも含めたほとんどの大学がマスメディアに顔を揃えることと多くの人が思っていることだろう。

確かに大麻取締法という法律があって、次の条文を見ると一般の人が大麻を持っているだけで罰せられることになっていることは分かる。

《第24条の2 大麻を、みだりに、所持し、譲り受け、又は譲り渡した者は、5年以下の懲役に処する。
2 営利の目的で前項の罪を犯した者は、7年以下の懲役に処し、又は情状により7年以下の懲役及び200万円以下の罰金に処する。
3 前2項の未遂罪は、罰する。》

だから京大生が大麻所持現行犯として警察に逮捕されたのは当然のことなのであるが、なんだかモヤモヤとした思いが残る。法律に違反した疑いがあるからというのは分かるのであるが、大麻所持がどのような実害(たとえば吸引による健康障害)を人に与えるのかが私には理解できていないので、大麻取締法の必要性が分からないからである。

私はいまだかって大麻を見たこともなければ触れたこともなく、とうぜん吸引したこともない、と思っている。私がそれと知らずにどこかで植わっている大麻を見ている可能性は否定できないが、それとは認識していない以上私の関知するところではない。となると大麻は私にとっては言葉だけの存在なので、かりにこれが怖ろしい毒草だとか、また社会に害毒を流すからと言われても何一つ実感は湧かない。この点、阿片とかタバコの害に対する認識とは大きな違いがある。

阿片に関しても、それを見たこともなければ触れたこともなく、ましてや吸引したことがないという点では私にとっては大麻と同じである。しかし阿片の害については阿片戦争の事例もあり、中国で無数の阿片中毒患者が存在したことから医学的な研究も十分なされていることだろうから、私自身関連文献に目を通していなくても、研究にもとづいて唱えられている阿片の害を私は素直に認めることが出来る。

タバコの健康障害に関しても、タバコ吸引者が日常私どもの周辺に満ちあふれているので、研究対象にことを欠かないと言う利点があり、従って研究者に健康障害を説かれると、さもありなん、と受け入れることができる。ところが大麻の健康障害について阿片やタバコほどの研究がなされているとは思えない。疫学的研究が日本で大規模になされたとは私は寡聞にして知らないし、ましてや長期にわたる臨床試験などは皆無ではなかろうか。いずれにせよ疫学調査などは常習吸引者がいないことには研究自体が成り立たないので、誰もが納得する実験データが生まれるはずがない。

ところで、このような臨床試験、人体実験をも含めた研究が大麻取締法に抵触せずに可能なのだろうか。私は法律門外漢であるが条文を常識的に理解する限りこのような研究が可能のようなのである。

まず次の条文がある。

《第2条 この法律で「大麻取扱者」とは、大麻栽培者及び大麻研究者をいう。
2 この法律で「大麻栽培者」とは、都道府県知事の免許を受けて、繊維若しくは種子を採取する目的で、大麻草を栽培する者をいう。
3 この法律で「大麻研究者」とは、都道府県知事の免許を受けて、大麻を研究する目的で大麻草を栽培し、又は大麻を使用する者をいう。》

この第三項の『大麻を研究する目的』と言われても、大麻の何を研究するのかとは規定されていないのでこれ以上の解釈のしようはないが、次の『大麻を使用する者』のところで『(人体への健康障害を解明する研究に)大麻を使用する者』との解釈が成り立つのであれば、この「大麻研究者」は健康障害の研究を遂行するライセンスを得ていることになるのではないかと判断した。

一方、大麻取締法は大麻の栽培、所持、輸出入には罰則を科しているが、吸引に関してはいかなる規定もない。そうすると医師が「大麻研究者」としてのライセンスを得て、大麻取締法に抵触しない方法でボランティアとしての大麻吸引希望者に大麻を好きなだけ吸引させることが可能であろう。医師の厳重な健康管理下でこのような臨床試験を行うのであれば、吸引自体は法律に触れることではないから、ボランティアには事欠くまい。後期高齢者になれば好奇心旺盛の私なんか率先して希望するかも知れない。いずれにせよ科学的に納得されうるデータが存在しない現状で、大麻の健康障害は絵空事のようなものである。

臨床試験を経て効き目があるとして出まわった医薬品にしても、その後効き目がなかったとして撤回されることも珍しいことではない。一般の臨床試験よりも質量において遙かに劣る研究データにもとづくと思われる大麻の伝えられる健康障害に、どれほどの信憑性があるものやら分かったものではない。このように大麻の害毒が言葉だけのものとの前提で考えると、今のところ大麻の所持はたんなる法律違反という問題に帰することになる。となると道路交通法違反と変わることはない。いや、スピード違反や酒酔い運転は第三者に被害を与える恐れがあるから、こちらの違反の方が罪が重いとも言える。ところがスピード違反で学生が捕まって罰金を払わされたからと言って、無期停学処分をするような学校が日本にあるとは思えない。その意味で法政大学の学内調査で明らかになった大麻吸引学生に対する無期停学の処分はどうみてもヒステリックな行為としか言いようがない。事の軽重の判断力が欠如したマスメディアに煽られる世間に阿っているとしか思えない。警察沙汰になっていない以上、学内問題としてもう少し考えようがあるのではなかろうか。

それにしても警察に捕まった京大生、新聞で読む限り大阪アメリカ村のクラブに夜明け近くまで従業員として居たのか客として居たのか私には分からなかったが、警官に調べられる前に大麻・吸引具を処分する才覚すら働かなかったとは情けない。その上、親を泣かすとはなんたる親不孝者だろう。


「トトロの住む家」の焼失を悼む

2009-02-14 17:55:17 | Weblog
asahi.comで「トトロの住む家」全焼のニュースを見た。《07年に所有者が転居して空き家となったが、地元で保存の署名活動が起き、約6千人分を超える署名が集まった。これを受け、杉並区は08年6月に家の建物と周辺の駐車場などを約4億円で買い取り、公園としての整備を進めていた。》(2009年2月14日15時1分)。最近この周辺で不審火が10件以上相次いだということで、不審火との関連が調べられているとのことである。かって宮崎駿監督のアニメ「となりのトトロ」を観て「トトロの住む家」周辺のたたずまいにノスタルジックな思いにとらわれたことがあるが、そのモデルとなった家だそうである。

アニメを観た感銘で、本屋で宮崎駿著「トトロの住む家」を見つけた時にはすっと手が出てしまった。



《アニメ『となりのトトロ』に登場する、塚森の主、トトロ。そのトトロが喜んで住みそうな「懐かしい家」を訪ねてみた。》ということで、七軒の木造家屋が写真とイラストで紹介されているが、その最初に出てくるのが東京・杉並区阿佐谷・Kさん宅である。



asahi.comの焼失前の「トトロの住む家」として出ている下の写真の家であることが比べると分かる。



昭和初期に造られた木造平屋建ての洋風住宅とのことであるが、本にはこの家の中の写真もある。「教養人の住まい」と言うにふさわしい部屋が洋間と紹介されているが、ほかにも女中部屋もあったそうで、洋間とか女中部屋という言葉の響きが昭和一桁生まれの私には懐かしい。

宮崎さんは震災後に住宅地として開発された東京の西郊に限定して「良いと感じられる家」を探したそうで、たまたまこの家の前を通りかかり釘づけになってしまったと述べている。宮崎さんが《たからもの・・・・、そう表現するのが一番ふさわしい》家だったのである。この三月に東京に出かける予定があり、探訪してみたい候補地の一つであっただけになんとも残念である。誰が何を思って火をつけたのだろうか。


眼鏡の値段

2009-02-11 23:50:56 | Weblog
本を読むにしても景色を眺めるにしても、眼鏡のピントが合わなくなってかなりの時がたつ。運転免許証の更新の時にはっきりしたのだが、視力が良くなってきて眼鏡無しに運転可となったのである。でも眼鏡が合わないことには違いはない。とくに読書に不便なので眼鏡を変えなければ、とかねて思っていた。

今の眼鏡を買ったのが何年前なのか、覚えていないが東京丸の内の丸善本店が開店した年なので調べれば直ぐに分かる。開店早々の眼鏡売り場で眼鏡チェーンを買ったところ、検眼はいかがですか、無料でさせていただきますと言われてその気になって、そしてそのノリで眼鏡を新調する羽目になったのである。神戸から来ているのでと断りの口実にしたつもりが、では出来上がりは神戸の店に送らせていただきますから、と言われたので引っ込みがつかなくなって、では開店のご祝儀に、と誂えてしまったのである。10万円近い買い物であった。調べてみると開店が2004年9月14日なので、それから一週間も経っていないある日のことであった。かれこれ4年半前のことなので、眼鏡が合わなくなったとしても不思議ではなかろう。

午後、センター街を歩いていて安売りの眼鏡店の前にさしかかった。以前からこの店が気にはなっていた。表に出している20000円もしない値段は最低価格で、実際に買うとなると何だかんだが加算されて、結局はそれ相応の値段になるのだろうと勝手に思っていたのである。この店の宣伝を看板の中のヨン様がしているのを見て、ふと韓国・朝鮮語講座の先生に聞いた話を思い出した。韓国では眼鏡が安く絶対にお買い得だというのである。ヨン様 → 韓国 → 安い、と連想が働いて思い切って店に入った。店内に貼られたビラによると眼鏡一式18900円(税込み)というのはどうも間違いなさそうである。私の場合は遠近両用に乱視がはいっているが、店員に確かめるとそういうことは一切関わり無しに全商品が18900円であると言う。パンフレットにもそう出ていた。



店員が私の眼鏡を見て、よければ鼻パッドを無料で交換させていただきます、と言う。プラスチックに埋め込まれた金属部分に汗が入り込んで錆びが出たのか、それとも藻でも繁殖したのか、緑に染まっているのである。待つことしばしで新しい鼻パッドに交換してくれたので、それに釣られてまた新しいのを注文しそうになったが、今回はぐっと踏ん張り、もう少し他の店も調べてからでも遅くあるまいと、礼を言って店を出た。

とにかく安い。丸善の五分の一である。レンズ代にもならないではないかと思ったが、どういうカラクリになっているのだろう。丸善という店はかっては洋書輸入販売を大がかりにしていて私もよく世話になったが、現地価格の何倍かの値段で売っていた実績がある。その伝で、眼鏡も割高に売っていたのかもしれない。ところがインターネットで調べてみると丸善は今日2月11日からメガネフェアをスタートさせているのである。フレームとレンズのフェア特別セットがなんと15000円から33000円までとある。ところがよく見ると《「遠近両用レンズ」をご希望の場合はセット価格+12.000円からご用意しております。》と但し書きがあるので、私の場合は15000円+12000円=27000円からということになる。18900円よりは高いが、それでも丸善としては勉強したことになっているのであろう。

たとえ眼鏡といえどもレンズはレンズで、顕微鏡などの連想から私にとっては精密科学機器で、値段が高いのは当たり前という思い込みがあった。またフレームにしても材質と細工に対するある種の敬意から、高いのは当然という思いがあった。その思い込みが高価な眼鏡の価格によって確固たるものになっていたような気がする。しかし価格破壊は大いに結構、そして道具は使ってこそその値打ちが分かるもの、今週中にでも出直して18900円也の眼鏡を一度注文してみようと思い始めた。