日々是好日

身辺雑記です。今昔あれこれ思い出の記も。ご用とお急ぎでない方はどうぞ・・・。

スペイン内戦にフランコと戦った分子生物学者

2011-06-15 22:20:44 | 
最近私の楽しみがひとつ増えた。以前にノーベル医学生理学賞が日本に来ないのはなぜ?でご登場いただいた旧知の増井禎夫さんとSkypeで時々おしゃべりをさせていただいているのである。ご夫妻はカナダのトロントにお住まいで時差は13時間、こちらが午前10時とするとトロンとは午後9時でちょうど昼夜が逆転している。おしゃべりには絶好の時間帯(その逆も)で、つい話が弾んでしまう。先だってもゴシップ大好きの私がぞくぞくとする話が飛び出たので、増井さんにお断りした上でここに紹介させていただく。

増井さんがYale大学で所属したのは、当時生物学部のチェアーマンであったClement L. Markert教授の研究室であった。このマーカートさんが研究室に来て1週間経つかたたない増井さんをつかまえて、「日本に駐留している米軍のことをどう思うか」と聞かれたそうである。「いざとなれば日本を守ってくれるのでしょう」の答えに、「それは甘い。アメリカはよその国のために戦うようなことはしない」と言われたそうである。なんと風変わりなプロフェッサーと私は一瞬思ったが、それよりもっと凄いのがマーカートさんが学生時代に歴史にも名高いAAbraham Lincoln大隊に加わってスペインでフランコ軍を相手に戦ったという話であった。スペイン内戦>ヘミングウエイ>「誰がために鐘は鳴る」と連想が走って興奮してしまったのである。さらにはマッカーシズムの嵐をもろに受けてMichigan州立大学で停職処分になったりとか、すでにそれだけでも波乱万丈の生き方に感銘を受けてしまった。その経緯がよくまとめられているので、とわざわざ増井さんから送っていただいた次の冊子と「Clement Markert, 82, a Biologist Suspended in the McCarthy Era」と題したThe New York Timesの追悼記事(1999年10月10日)をもとに、私なりに要点をまとめてみた。


1917年にコロラド州(Las Animas)で生まれたマーカートさんの父親が製鋼所の労働者で、大恐慌時代に鉱山や製鋼所が閉ざされたためにその影響をもろに受けた。この経験がマーカートさんの社会的良心を育むことになった。学業成績が優秀だったので与えられた奨学資金のおかげでUniversity of Colorado at Boulderに進むことができ、生物学を学ぶことになった。その頃、国際舞台での出来事、とくに労働者階級が必要とするものが叶えられないのは、資本主義経済が破綻しているからであると感じられることに関心が向けられた。そして社会主義思想を受け入れ、大学で共産主義者のグループを組織するに至ったのである。ほどなく彼の社会理想を実践に移す機会が訪れた。スペインのフランコに象徴されるファシズムと戦うために、学業を中断して2800名からなるAbraham Lincoln Brigadeに加わることにした。そのために大学のルームメイトと貨車に乗って東海岸に出て、当時米国はスペインへの旅行を禁じていたのでフランス行きの商船で密航したのである。

スペイン内戦は1936年月7月17日にスペイン領モロッコで勃発してスペイン全土に拡大し、39年4月日に終結した。これで王制を覆して成立した第二共和制が崩壊し、フランコ政権が確立した。この内戦は世界的な反響と関心を呼び、単なる一国内の内戦として片付けられるべきものではなく、第二次大戦の序曲でその実験でもあった。ドイツ、イタリアがフランコ側につき、ソ連が共和政側についたある種の代理戦争のようなものでもあった。右派にとってこの内戦は共産主義に対する十字軍の戦いであり、左派にとってもファシズムに対する大十字軍であった。スペインで戦場となった地形がマーカートさんの育ったPueblo, Colo.の地形とよく似ていて、そこでの山岳体験が時には敵の背後にも回る偵察行動に生かされた。クラスメイトは戦死したが彼は数少ない生存者の一人となったのである。次の記事が残されている。

In an obituary for Markert in The New York Times(October 10, 1999) he was quoted as having said in a 1986 interview, “I felt the most concrete thing I could do at the time was to destroy fascism, and Spain was the battleground on which to do that.”

対ファシズムの戦いに敗れて帰国後はコロラド大学で学業を終え、UCLAの大学院で脊椎動物の発生学の研究を始めた。しかしアメリカが第二次大戦に参戦したのでマーカートさんはファシズムへの個人的な戦いを再開する道を選び、修士号を1942年に得てから米国陸軍に入隊しようとした。しかし当時の政治情勢では彼が米国とスペインの共産党員と関わったことが引っかかり、軍務に服すことができなかった。そこでサンディエゴで港湾労働者として働き、やがて商船隊に受け入れられて、太平洋上の米国艦隊への補給船で通信士として勤務したのである。

戦争の時期を通り抜け、マーカートさんはJohns Hopkins Universityで生物学の博士コースに入り、当時国内で最も注目されていた発生生物学者Benjamin H. Willier教授指導のもとで研究を進めて、1948年に学位を得た。1950年、University of Michigan in Ann Arborの生物学部でAssistant Professorの職を得て研究者として独立した。ところが幸せな研究生活を送っているそのさなか、あの「マッカーシー旋風」をもろに受けることになった。非米活動委員会で証言を拒んだことにより他の同僚二名と共に停職となった。しかし再審議の過程でマーカートさんの人間としての誠実さに揺るぎない信頼を抱いた大学の仲間達、そして科学的洞察力に深い感銘を受けた科学者たちの強い支持により、ただ一人だけ復職が認められた。これについて次の言葉が残されている。

Markert would later relate this experience to his students to emphasize the importance of standing up for one’s convictions, whether scientific or political, regardless of the cost.

マーカートさんの若い時代の社会主義者としての積極的行動は後々までも物議を醸した。1957年に彼の大学院の指導者であったWillier教授が退職することになったのでJohns Hopkins Universityの発生生物学のポストに応募した時のことである。選考委員会は彼を推薦したが、大学管理部門が異を唱えたのである。しかしその膠着状態は時の学長であるMilton Eisenhower博士(Eisenhower米国大統領の弟)がマーカートさんを直接に面接したことで一挙に解決した。彼を正教授に推薦して、もし任命が認められなければ自分が辞職するとまで主張したからである。Yale大学生物部のチェアーマに任命されるにあたっても、時の学長Kingman Brewster博士が彼の過去の全てと、これからも社会の大義名分を追って活動を続けていくつもりであることを承知してもらうことに心を砕いたのである。ちなみにこのBrewster学長は時の人とかでTime誌の表紙を飾ったこと、そして学長主催の留学生歓迎パーティでは私立ち握手で出迎えてくださったことを今でも覚えている。増井さんご夫妻と出会ったのもこの時であった。

この誠実なお人柄があってこそ、ノーベル医学生理学賞が日本に来ないのはなぜ?で引用させていただいた増井さんの次の言葉が心にしみ入るのである。

マーカートの研究室では最初、ペンギンの発生に関係する酵素の分析を手伝ったが、一つ論文ができたところで、「君の好きなことをやりなさい」と言われた。ニ、三アイディアをもっていくと、日本でもできる安上がりの仕事にしたらどうかと言う。とても現実的な対応だ。夢は夢、その中から現実性の高いものを選んでいくのが本当の選択だと教えられた。それで、若い時からの夢である核と細胞質の相互作用が、卵の成熟の時にどのように起きるかをテーマにすることにした。これだったら、材料はカエル。あとはガラス管と顕微鏡とリンガ一液があればできる。しかも、たった一つの卵細胞が一つの方向に変化していくのを追っていけばよいのだから、系としても簡単だった。

The New York Timesの追悼記事は次のように締めくくられる。

Associates said Dr. Markert never lost his interest in politics over the years or his commitment to what he believed was justice. But in his 1986 interview, Dr. Markert said he had had to forgo his activism.

''I made the conscious decision that I could not be both a first-rate scientist and a social activist,'' he said.

社会活動家として、科学者として、理想と行動に道を極めた巨人にしてはじめて言える言葉だと思う。こんな人が実在していたのである。

院生時代、今、デモに参加すべきなのか実験に集中すべきなのか、仲間たちと侃侃諤諤の論議を交わしていたことを、ふと思い出した。

児玉清さん 逝く

2011-05-19 12:08:26 | 
テレビの画面に、児玉清さんが体調不良で司会を休むという旨のテロップが流れた。これを見たときに、もう駄目なのかもしれないと思った。長年続いてきたクイズ番組の司会を休むなんて、背筋のシャキッとした児玉さんだけに、とことん頑張って来た末の決断だとするとかなり重篤なんだと直感したからである。不幸にも当たってしまった。

私が児玉さんに親近感を抱いた理由が二つある。一つは本が大好きということ、そしてもう一つは同じ昭和9年生まれであるということである。と思っていたのに、念のために今、児玉さんの生年月日を調べたところ、なんと本当は1933年12月26日生まれであることが分かった。当時は数え年で年齢を数えていたので、1週間足らずで2歳になるのを嫌った親が出生日を1934年1月1日として届けた、とあった(ウイキペディア)。当時はそのようなことが可能であったのである。同い年の方の訃報を目にするとついわが身を思ってしまうが、この分だとまだもう少し行けそうで、思いがけぬ贈り物を頂いたような気分になった。

それはともかく、読書家と言うことについては今朝の朝日「天声人語」で《蔵書で自宅の床が傾くほどの読書家で、米英の小説は原書で読んだ》と紹介されているし、「産経抄」ではもう少し詳しく述べられている。

 「もう翻訳は待ちきれない。原書を買って読もう」。こんなかっこ良すぎるセリフも、児玉清さんなら許される。16日に、胃がんで77年の生涯を終えた二枚目俳優は、物心ついた頃から本を読まなかった日はないという、芸能界きっての読書家だった。

  ▼母親の急死で、ドイツ文学の研究者への道をあきらめた。就職先を探していたら、偶然東宝映画ニューフェースに合格する。それから二十数年、40代半ばの児玉さんは俳優として大きな曲がり角にいた。台本を読んでからでないとテレビドラマに出演しない。そんな原則を守っていたら、依頼がほとんど来なくなった。

 ▼鬱々とした気持ちを紛らせてくれたのも読書だった。とりわけお気に入りの英米ミステリーの翻訳を読み尽くしてしまい、仕方なく原書のハードカバーを入手する。ところが存外楽に読め、翻訳本より喜びが深いことに気づいたという。

 ▼以来、ひたすら面白い本を追い求め、人に魅力を語っているうちに、翻訳本の解説を書き、テレビの書評番組の司会を務めるようになった。平成16年からは、小紙にも海外ミステリーの書評を寄稿している。

  ▼1回目に取り上げたのが、米国で発売されたばかりの『ダ・ヴィンチ・コード』だった。「予断を許さぬ激しい場面転換に読者の心は●(つか)まれたまま、ジェットコースターライドの切迫感で巻末へと放りこまれる」。日本でもブームに火が付いたのは、薦め上手の児玉さんの力が大きかったはずだ。

 ▼36年にわたり司会を務めてきたクイズ番組『アタック25』で、最近本に関する問題の正答率が低いことを憂えていた。本離れと電子書籍の普及という激震にあえぐ出版界は、偉大な応援団長を失った。
(2011.5.19 03:20)

 「もう翻訳は待ちきれない。原書を買って読もう」とはやっぱり格好がよい。私もたまに本屋で翻訳が出る前の原書を見つけて読むことがあるが(たとえばKEN FOLLETTの「WORLD WITHOUT END」)、ほとんどの場合は翻訳の出たのを書店で見つけては、安く挙げるためにペーパーバックスを買うのが常だからである。《翻訳本の解説を書き、テレビの書評番組の司会を務める》とは立派な「職業的」読書人であるから、本を渉猟する姿勢に根本的な違いがあるのは当然としても、同年配の本好き仲間を失った寂寥感が大きい。

南相馬市桜井勝延市長のYouTubeが世界を動かす

2011-04-07 11:16:50 | 
私はThe New York Times(NYT)の次の記事でこのことを知った。

A Desperate Plea From a Japanese City to the World Is Heard

MINAMISOMA, Japan ― It was a desperate plea for help, spoken into a small digital camcorder by the mayor of this seemingly forsaken city, and posted on the Internet like a bottle tossed into a digital sea.

In the 11-minute recording, the mayor, Katsunobu Sakurai, described the dire situation facing Minamisoma, whose residents were still reeling from a devastating earthquake and 60-foot tsunami when they were ordered to stay indoors because of radiation leaks from Japan’s crippled nuclear plant, 15 miles away. Those who had not fled now faced starvation, he said, as they were trapped in their homes or refugee shelters by the nuclear alert, which also prevented shipments of food from arriving.

“We are left isolated,” Mr. Sakurai said urgently into the camera, his brow furrowed and his voice strained with exhaustion. “I beg you, as the mayor of Minamisoma city, to help us.”

The video, posted on YouTube a day after it was recorded late on the night of March 24, became an instant sensation, and has since drawn more than 200,000 viewers. Almost two weeks later, the city hall is still getting phone calls, most from non-Japanese calling from abroad with offers to help. The city has also received hundreds of boxes of food and other supplies from individuals, and truckloads of relief goods from nonprofit organizations.
(April 6, 2011)

南相馬市は福島第一原子力発電所半径20・第二半径10キロメートルの避難対象地域と半径20~30キロメートルの屋内待避地域を抱えている。

このビデオが撮られた3月24日、南相馬市では避難した市民がいる一方、屋内待避を余儀なくされた市民も2万人ほどおり、30キロメートル以内への運搬を運送業者が拒否したことで食料に燃料が不足していた。さらには余震で家具などが絶えず揺れ動くし福島原発でまた爆発が起きるのではとの心配は絶えないし、市民は最悪の事態に直面していた。町が日本中から見放されたかのように感じ、市役所の記者クラブに詰めていたレポーター達も全員逃げ出したことで南相馬市がニュースからも消えてしまった。このような時に地域の住民が市役所を訪れ、ボランティアをほとんど見かけないことに不満を漏らして、市長がインターネットを通じて世界に直接に訴えることを持ちかけたのである。YouTubeを使ったことのない市長は最初は懐疑的だったものの、この追い詰められた状況で出来ることは何でもする気になってこのビデオに向かったのである。従来はマスメディアがやって来てビデオを撮るのを待っていたが、その逆で自分たちでビデオを撮りそれを放映することになったと市長は振り返っている。

現在南相馬市は徐々に日常生活を取り戻しつつある。屋内待避勧告は依然として有効であるもののこの地域の住民の多くはそれを無視し、ガソリンスタンドやコンビニは店を開き始めた。しかし主な大通りこそ車も多く見かけるが、脇道や店は不気味なほどガラガラである。そのなかでも放射能の危険があるのでボランティアではなく物資をとの市長の訴えが実を結び、中には運搬を拒む運送業者もいるが、食料や燃料が送り込まれつつあるということである。

国が頼りにならないと見極めた危機的な状況でなされたこの櫻井市長の訴えは、淡々とした言葉のすべてに、市民を護らなければならないとの強い意志のこめられていることに私は深い感動を覚えた。実際に現地に赴くことなく電話取材でこと足れりとするマスメディアへの不信もうかがわれるがさもありなんである。私も外信でこのニュースを知ることになった。


三島由紀夫の素晴らしい言葉

2010-10-22 21:50:35 | 
昨日の産経新聞がとてもいい記事を載せていた。私はiPhoneでダウンロード可能な無料の紙面で見たのであるが、こういう記事に接すると無料が申し訳ない気になる。

「音楽という世界共通の言語にたずさわりながら、人の心という最も通じにくいものにも精通する、真の達人となる日を、私は祈っている」(三島由紀夫)

 渡欧から2年後の昭和36(1961)年4月、小澤征爾は数々の栄冠を手みやげに凱旋(がいせん)帰国を果たした。翌37年6月、26歳の小澤はNHK交響楽団と契約を結ぶ。すべり出しは上々だったが、5カ月後、楽団員が小澤が指揮する演奏をボイコットするという事件が起きる。(中略)

38年1月、そうそうたる文化人たちが「小澤征爾の音楽をきく会」を開催、小澤は、日本フィルと満員の聴衆を前に、涙と汗のタクトを振った。

 冒頭は、発起人でもあった三島由紀夫が小澤に贈った一文。
(MSN産経ニュース 2010.10.21 03:18 )

成熟したそして深みのあるこの言葉をおくられた小澤は26歳で、おくった三島は38歳。天才は天才を識るとはこういうことかと思う。若い人たちに三島のような心強いメッセージを発することの出来る大人が、今の世に一人でも多からんことを願う。

日航機123便墜落事故から25年にある脳科学者との思い出が甦る

2010-08-12 22:17:04 | 
1985年8月12日に日航機123便が墜落して520人の命が失われた。今年でちょうど25年目に当たる。このニュースがテレビで流れたがそれで思い出したことがある。この事故で亡くなられた脳科学者の塚原仲晃氏(当時大阪大学基礎工学部教授)とのほんの淡い触れあいである。

この事故の2、3ヶ月前に私は中国を訪れていた。太湖のほとりにある無錫市で開かれた日中合同生物物理学シンポジウムに出席するためである。学会そのものもさることながら、初めての中国訪問で上海と無錫間の汽車の旅に加えて、無錫から蘇州までハイヤーで出かけるなど旅情を大いに楽しんだ記憶が鮮明である。この帰りに上海駅であったと思うが、時間待ちの時にたまたま塚原さんと隣り合わせになった。

私が阪大理学部にいたころ、塚原さんが隣の基礎工学部にある新設の生物工学科に教授として赴任されたが、その時はまだ三十代の中頃ですでに脳科学者としての令名が高く、その評判が伝わって来たのである。後で分かったことであるが塚原さんは私より一歳年長ですでに教授、助手であった私からは遙かに仰ぎ見る存在に感じた覚えがある。しかし専門分野が異なることもあって、何かの折りにこの方が塚原さんと認識できたが、同じ学会に所属しておりながらも接触はないままであった。その後私が京都に移り、そして偶然にも上海駅頭で隣り合わせになったのである。

私がかって阪大理学部にいたことや研究分野のことから自己紹介をはじめ、何かを話しているうちに、そうだ、この機会に一つお聞きしてみようとの思いに駆られて、「脳を働かすことで脳の働きを理解できるようになるのですか」というようなことを口走ったのである。「ハイゼンベルグの不確定性原理」なるものがチラッと頭を掠めたような気がする。今から思えばいわば初対面の方に、どう答えていいのか見当のつきかねることをお聞きするなんて失礼この上ないことであったが、私としては生徒になったつもりだったのである。「さあ、どんなものでしょうね」なんて受け答えした下さったような気がするが、話の中身は今となっては忘却の彼方である。10分そこそこの短い触れあいで、やがて移動している間に離ればなれになってしまった。これが塚原さんとの触れあいのすべてである。

日航機123便の乗客名簿だったか、塚原さんのお名前を見たときには信じられない思いであった。塚原さんを長とした大きな研究プロジェクトが、まさにスタートしようとした矢先ではないか。そんな不条理があり得るはずがないと思ったが、大阪大学松下講堂であったかと思うが、そこで催された追悼の集いに出席した時には事実を受け入れざるをえなかった。


ごく最近、書店で塚原さんの著書が文庫本で出ているのを見つけて購入した。脳のことなど分かるだろうか、とこれまでも脳関係は敬遠してきたが、今あらためて手に取ってみると私の脳でも何とかついて行けそうである。少なくとも30ページまでは違和感がないどころかぐんぐん引きつけられていく。これは面白い。塚原さんと25年ぶりに対話を楽しむことにしよう。


久米三四郎さんのこと

2009-09-04 15:37:17 | 

昨日(9月3日)朝日朝刊社会面が久米三四郎さんの死去を報じていた。私のイメージにある久米さんに、83歳という年齢はてんでそぐわないな、と思ったのが第一印象である。

昭和31年の春、当時中之島にあった阪大理学部に神戸から通い始めた。家から通える大学、というのが五人兄弟の長男である私に両親が示した進学条件だったのである。生物学科に進んだが、化学も好きだったので分析化学の実習を選択した。当時は学科の壁は無いのも同然で、最初のオリエンテーションで教室主任の本城市次郎先生から、せっかく生物学科に来たのだから、卒業するときに履修した単位が数学だけだった、ということにはならないように、と釘をさされたぐらいであった。その分析化学実習で指導して下さった先生方のお一人が、当時助手の久米三四郎先生だった。質問攻めが私の趣味だったので、なにかとまとわりついたことだろうと思うが、具体的なことは何も覚えていない。先生と学生の接触はこの実習だけで終わってしまったが、後年、思いがけないことである関わりが生まれたのである。

私は理学部の助手になっていて、阪大理学部教職員組合の委員長をしていた。そこで久米さん(と呼ばしていただく)と対峙することになったのである。その当時、教職員組合はおもに事務職員の待遇改善などに取り組んでいて、理学部長との交渉などを通じて一定の成果を挙げていた。組織率は教員で三分の一から半分、事務職員はもう少し上回っていたかもしれない。わりと大きな組織だったと思う。この組合は日教組の傘下にあって、日教組の指令によりストライキめいたことも時にはやっていた。すると処分を受けるのは決まって事務職員で、教員(当時は文部教官といっていた)には甘いところがあって、そのせいもあってか、組合委員長は教員の指定席のようなもので、余程の事情が無い限り選ばれた教員はその役を受け入れるのが常であった。

私が委員長に就任したときは大きな問題が進行中だった。大阪大学で各学部にそれぞれある教職員組合を大阪大学教職員組合に統合し、各学部にあった教職員組合は、その支部とするとの動きなのである。理学部でも統合について侃々諤々の議論が湧き上がっていたが、久米さんはその統合に反対のお一人であった。理学部執行委員会では統合に決まり、それを組合員大会に諮ることになったが、統合反対派はもし阪大教職員組合に一本化されるのであれば、組合を脱退すると意思表示をして、一本化反対を迫った。私は立場上、反対派の人々に留まっていただくべく、時間を割いて一人ひとり説得に乗り出したのである。

久米さんを始めとして反対派の人々は、それまでも組合活動にも熱心に参加しており、考えも主張もはっきりしており、私は逆に教えられることが多かった。論点の細かいことはもう記憶にないが、一口に言えば反対派は今の「小さな政府」、「地方分権派」で、私も個人的には惹かれるところが多かった。それと理学部ではストライキ処分を巡って、裁判が進んでいた。ストライキに参加したことで処分された職員が、それを不当処分として提訴したのである。今はその中身には触れないことにするが、形の上では個人訴訟であるものの、教職員組合は職員の側に立って支援する立場をとっており、現実には久米さんはその有力な支援メンバーだった。もし組合が統合されると、この支援基盤が弱くなるなるのでは、と懸念されたことも統合化反対の一つの理由であった。

久米さんとは何回かお目にかかって、話し合いの時間は延べにすると数時間におよんだ。私の話にもよく耳を傾けて下さったが、一方では諄々と私を翻意させんとばかりにご自分の考えを述べられた。何が意見に違いの生み出しているのか、そこまで話し合って明らかになった以上、後はお互いが自分の信じる行き方を選択するだけだ、と納得ずくで話を打ち切ったのである。反対意見のものであれ、理性的にまた粘り強く自分の考えをぶつけることの出来る器の大きな人、とその人柄に打たれた思いがある。結局、私は阪大理学部教職員組合の最後の委員長となった。

久米さんが科学者としての健全な批判的精神を行動規範とし、行動する科学者として知る人ぞ知る大きな存在となられたのは、さらに時間が経ってからのように思う。記事に『反原発住民運動の「理論的支柱」「知恵袋」として知られた』とあったが、あのままの久米さんだったのだ、と私は思った。

私のあらまほしく思う日本人がまた一人、この世から姿を消した。



フェスティバルホール 大阪大学フロイントコール

2009-01-02 21:11:42 | 
大晦日の朝日新聞一面に「おやすみなさい 名ホール」の見出しで、大阪・中之島のフェスティバルホールが建て替えのために一時閉鎖するので、30日に50年の歴史を締めくくる最後の公演が行われたとの記事が出ていた。新ホールは2013年に開館する予定とあったから、お目にかかれるのかどうか微妙なところである。このホールが出来たのはちょうど私が大学を卒業して大学院に進んだ年で、朝夕その横を通って通学していた。世界に自慢できる設計のホールだと大きな話題になっており、そのようなホールが身近にあることだけで誇らしげな気分になったものである。しかし貧乏学生にとってはそこでのコンサートなんて高嶺の花で、行けるようになったのははるか後年である。そのようなことを思い出していると、半世紀以上も前に出会った人物の記憶が蘇ってきた。

阪大理学部に入学して教養時代は豊中の待兼山キャンパスで過ごした。高校の先輩に声をかけられたのがきっかで、ある読書サークルに参加するようになった。メンバーは10人足らずの所属年齢が雑多な集まりで、科学史関連の本を読んでいたように思う。はっきりと記憶に残っているのは岩波新書の「科学と宗教の闘争」(ホワイト著、森島恒雄訳)で、侃々諤々の議論を大いに楽しんでいた。そのころ大学書林から出たばかりの「共産党宣言」の対訳本にも取り組んだように思うが、まあそのような性格のサークルでそのリーダーがHMさんだった。HMさんはすでに理学部を卒業していたのに文学部に入り直し、哲学を専攻していた。ひときわ年長であったのにわれわれの中に自然に溶け込み、それでいて一目置かれる存在であった。そのHMさんは音楽好きでもあり、音頭を取って立ち上げた大阪大学中央合唱団というたいそうな名前の合唱団に誘われたのである。

入った頃は「国際学連お歌」とか「若者よ」など勇ましい歌を歌ったものであるが、次の年だったろうか新入生を勧誘した結果団員が大幅に増えた。嬉しいことに女子学生が多く入ってきてまともな混声合唱が出来るようになったのである。その頃の写真が何枚か出てきたが、最初のは昭和29年の初夏であろう、みな良い表情をしている。



その秋だと思うが待兼山祭で「白鳥の湖」を演じた時の記念写真で、前列右にしゃがみ込んでいるのが私である。たまたまレコーダーを持っていたものだから、印度のコブラ使いにさせられたのである。



舞台となった講堂の様子は次のような有様で、戦前からの幕などがだらしなく垂れ下がったままであった。



この合唱団ではよく遊んだ。夏は合宿、春秋はピクニックに出かけるし、冬になるとクリスマス・パーティである。交渉術に長けた仲間が学生食堂に掛け合って調理場込みで食堂を使わして貰ったりした。規則で雁字搦めとなった現在では考えられない大らかさである。調理場ではまだおくどさんが幅をきかせていた。たまたま私がお釜の蓋を取ろうとした時の写真が残っていた。たぶんおぜんざいを炊いていたのだろう。お釜をそのまま持ち込むわけにはいかないので鍋に移したようである。パーティ会場にちゃんとその姿が見える。どうも私が司会していたようである。





合唱団の名前が表していたように、その後ピークに達した歌声運動のはしりのようなものであった。その頃よく歌った歌は今でも歌声喫茶に行けば定番になっているのであろう。かなり政治性の高い歌もあったが、メンバーが増えてくるとそのような歌を敬遠する動きも生まれてきて、その動向が選曲に反映されるようになった。そして私がある事情で教養部に残留することになった三年目に入り、合唱団の名前を大阪大学フロイントコールと改めたのである。残念ながら改名披露パーティの写真は見あたらなかった。この合唱団が今でも残っているとしたら50有余年の齢を重ねたことになろう。

合唱団の性格をめぐってよく議論を交わした仲間の一人にTTさんがいた。彼がその分野で名だたる音楽評論家になり本を何冊も出版するようになったが、それは後の話である。HMさんとTTさんとは卒業後も交友が続き、私の結婚披露にも出て寄せ書きを残してくださった。今見るとHMさんは「愛とは何か、60歳になった時に答えを聞きたい。それまでお互いに元気でいたいものだ」と、またTTさんは「時々城ヶ島の雨を唄ってください」とそれぞれ記してしてくださっている。「城ヶ島の雨」はその頃から私の持ち歌になっていたようである。

それはともかく、TTさんは音楽関係に進みそうな気配を漂わせていたが、意表を突かれたのがHMさんである。始まったばかりの「大阪国際フェスティバル」の事務局に入っていわゆる呼び屋の仕事を始めたのである。このような人だから中央合唱団を始めたものの、その後の若い勢力に押されて政治路線から芸術路線への転換をもあまり抵抗感もなく受容できたのではなかろうかと想像する。そのHMさんからフェスティバルホールのチケットをタダとは言わないが、割安で廻して貰えないだろうかと仲間で話し合った記憶がある。しかしそんな厚かましいことを、と自制が働きせっかくの名案も立ち消えになってしまった。

1980年代だと思うがフロイントコールの同窓会が一度あった。卒業後はぼ25年を経て創成期時代のメンバーが集まったことになるが、すでにみなさんは紳士淑女に変貌していた。それからさらに四半世紀、平成も二十一年となり昭和は遠く遠くになってしまったのである。






「さすらいの航海」を観て

2008-08-02 20:01:00 | 
夕べNHKハイビジョンでイギリス映画「さすらいの航海」を観た。1939年5月13日ドイツ・ハンブルグ港をナチス・ドイツから逃れようとする937名のユダヤ人を乗せたドイツ客船SSセントルイス号が出港した。キューバ・ハバナを目指しての航海であるが、この時期にユダヤ人の大量出国をナチス・ドイツが認めたのには裏があり船がハバナに到着しても乗客が上陸できない事態へと繋がっていく。米国に向かおうとしたが沿岸警備隊に追い出されやむを得ずハンブルグに引き返すことになった。そうなれば強制収容所送りが待っている。しかしユダヤ人の支援団体関係者の粘り強い働きかけが功を奏し、イギリス、フランス、オランダなどがユダヤ人を受け入れることになった。この間の様々な人間模様がスリリングに描かれていて、2時間半を超える放映時間があっという間に過ぎてしまった。居眠りをすることもなく、CMもなかったのでその間居場所を立つこともなくこの映画に引きずり込まれていた。1976年の作品なのに私はこれまで観たことがなかった。

この物語が終わって間もない1939年9月1日にナチス・ドイツのポーランド侵攻で第二次世界大戦が始まり、ヨーロッパ諸国は席巻されて占領された国のユダヤ系住民の多くが強制収容所に送られた。セントルイス号乗客のうち600名以上がその犠牲者になったとの後日談が心に重くのしかかってくる。そして、ふと知り合ったあるユダヤ系米国人のことを思い出したのである。

京都で仕事をしていた頃であるが、ある日、名古屋にいる大学の先輩から電話がかかってきた。とある関わりの米国人女性が一人で旅行中のネパールで事故にあい足を痛めて日本にやってくるが、京都に行きたいと言っているので面倒を見てくれないかとのことであった。すでにネパールで治療を受けていたが念のために病院を手配して診察・検査して貰ったところ、旅を続けるにはとくに差し障りなしということなので、京都などを松葉杖の彼女を案内して廻った。初対面ではあったが私と波長があっていろいろと会話が弾んだ。その二、三年後に学会に出席するご主人に彼女が同行して来日し、大学近くのイタリアン・レストランで遅くなって他に客が居なくなるまであれやこれやと話を楽しんだこともあった。日本人である私の感性に素直に共鳴するものがあって、それが何だろうと不思議に思ったものである。ご主人はニューヨークにあるマウントサイナイ医科大学の教授で、この大学の前身はユダヤ人のために設立されたマウントサイナイ病院だった。

この夫妻との再会とどちらが後先だったのか定かでないが、彼女の兄にあたる方にもお会いしたのである。学会に出席のため日本に行くのでお目にかかり、妹がお世話になったお礼に一夕食事を差し上げたいとの丁重な申し出をいただいた。この米国人はかって先輩が留学した先の大学の教授で、私とは専門が異なるけれどその分野の大ボスとしてもちろん名前は存じ上げていた。日本料理のよい料亭を予約して欲しいと云われたが私は少々当惑した。というのもこういう方はもてなし上手の日本人にこれまでもお客さん扱いを受けてきたものの、自分で料亭の支払いをしたことはなかろうと思ったからである。普通クラスの料亭でもアメリカでの一流レストランの支払いの何倍にかはなりそうである。そこで私は京都の料亭は高いから、と婉曲にお断りをしたが、自分も日本料理が好きだからぜひそうさせてほしいとの返事が戻ってきたので、事情通に勧められた先斗町のとある店に教授をお連れすることにした。

日本料理を好きだと仰る外国人も、いざ料理が出てくると選り好みされる方が結構多い。だから私は外国からのお客さんはふつうは洋風のレストランに案内することにしていた。しかしこの教授は出てくる料理をすべて美味しそうに平らげたので安堵した。そして、初対面だったが打ち解けた雰囲気で妹さんの時と同様に話が弾んだ。勘定書を廻す時になって、日本人である私には納得のいく金額なのであるが、彼の反応がどうだろうと緊張したが支払いは無事に終わった。そして店を出たところで「あなたの云う意味がよく分かった」と教授はかるくウインクをしてみせたのである。

「さすらいの航海」では船中のパーティーでひとりの女性が「ウィーンわが街」を物静かに歌い始めると、ホールで賑やかにさんざめいていた乗客が次第に話をやめ動きを止めて、物思いにふけるような表情でこの歌に聴き入るシーンがあった。ユダヤ人乗客の中にはウイーンを故郷として育ってきた人々も多かったのではなかろうか。その故郷を追われてさすらいの旅路に赴いたのである。ウイーンと云わず住み慣れた故郷に思いを馳せているユダヤ人乗客の姿と、敗戦で私の心の故郷となった朝鮮を追われて引き揚げ船で日本に向かう自分の姿が重なった時に、私がユダヤの人と感性の共鳴する理由を見つけたように思った。

最後の沖縄県知事島田叡を母校から

2007-10-12 18:52:24 | 
私は沖縄のことをほとんど知らない。北海道のことを知らないのと同じ程度だが、北海道は何遍も訪れているのに対して、沖縄はまだ訪れたことすらない。何となくためらうものがあるが、その正体ははっきりしない。多分沖縄に向かい合う自分の視点が定まっていないからだろう。ところがその沖縄にある人物を介してかぼそいつながりが出来ているのである。

戦場となることが必至であった沖縄へ、最後の官選知事として昭和20(1945)年1月赴任した島田叡(あきら)氏が、奇しくも私の母校である兵庫県立兵庫高等学校の先輩にあたる。島田氏はその前身である第二神戸中学校を大正8年に卒業され、その後第三高等学校、東京帝国大学法学部政治科を卒業、官界に入られた。

昭和39年に島田氏の追悼録「沖縄の島守島田叡」が母校兵庫高校から刊行され、それをたまたま私が古書店で手にしてこのような因縁を知ったのである。その巻頭に私が在校の時は教頭でおられた校長姉崎岩蔵先生が「母校から」の一文を寄せておられる。。



巻頭言によると、その2年ほど前に《三高時代島田さんの一年後輩で、同じ野球部の選手であった評論家の中野好夫氏が「最後の沖縄県知事島田叡」の冊子を刊行》され、これが切っ掛けとなって島田氏の顕彰事業が始まったとのことである。島田氏は大正4年朝日新聞社主催の第一回野球大会に二中が兵庫県代表として出場した頃の名選手だったのである。さらにこのような一節がある。

《本校は創立已に五十八年を迎えたが、開校以来質素剛健自重自治の校訓のもとに新興都市神戸としては特異な校風が培われた。その上楠公の墓畔に近い学校として当時その影響も大きかったことが考えられる。時代は変わったにしても、本校の伝統である正義感といかなる難局に処しても曲げ得ない理性的判断と強靱さは今なお卒業生の性格を形成しているかの如く見える。》

この強調の部分はまさしく私のバックボーンでもあるが、島田氏はそのさきがけであったのだ。中野好夫氏の文によると島田氏の前任知事や県首脳の一部の行動にいろいろと問題があり、前の知事が沖縄を捨てて逃げ出したと沖縄県人が見ていたそうである。そのような状況下で持っていくトランクに出来るだけの家庭薬と拳銃、青酸カリなどを用意し、1月31日に福岡から軍用機で現地に島田氏は単身赴任した。亡くなった日は定かでないが、軍司令官自決の時は民政長官もまた自決すべきであると島田氏が口にされていたことから、それは6月22日、牛島司令官自刃の日からほど遠くない頃で、26日に姿を見せたのが最後であったとの話が伝わっている。わずか5ヶ月の任期であった。

赴任後は住民の食糧確保に二月下旬に交通さえ途絶えがちな台湾に自ら台湾米確保の交渉に当たり、交渉は成立したものの遂に現物は届かなかったとのことである。また島田氏の二中先輩として面目躍如だと思われるのは、二月下旬、米軍来攻の見通しがほとんど決定的だということになると、警察部長を呼んでもう風紀取締はしなくてもよいと指示をしたそうである。非常時のゆえをもって禁じられていた村芝居の復活を狙ってのことだったらしい。また酒や煙草の増配をさせたという話も残っている。

島田氏は最後の沖縄軍司令官牛島中将とは上海の領事時代から肝胆相照らす仲であったとかで、それが本土防衛最前線であった沖縄の民政をまかせる知事として氏に白羽の矢の立った伏線だったのだろうか。もし住民が集団自決を軍により強制されたなどの話を島田先輩が仮に耳にしたら、即刻軍に掛け合い、このような将校を罷免させたことであろうと私は思いたい。

この追悼録で私は島田先輩の記念碑が母校に建てられたのを知っていた。10月3日と10日に沖縄戦についての記事を書いたのがきっかけで、以前から気になっていたこの記念碑を自分の目で確かめたくなり、今日何十年ぶりかで母校を訪れた。その碑は正門を入ってすぐ右手の植え込みにあった。



追悼録の写真に見る場所とは大きく変わっている。その後全面的に校舎が改築されて移転したのであろう。後に見える横幕に「2008年、兵庫高校は創立100周年を迎えます。武陽会」と書かれていた。


昭和39年頃の碑



詩人竹中郁氏による銘文


校庭のはずれにはその下でよく弁当の立ち食いをしたユーカリがそそりたっていた。島田先輩も同じようなことをしていたはずである。



昭和天皇まで一、二メートル

2007-04-30 09:05:23 | 
昨4月29日が今年から「昭和の日」と呼ばれるようになった。私がそのことを知ったのはほんの数日前である。しかしカレンダーにはちゃんと「昭和の日」と印刷されているから、決まったのは去年なのだろう。当然ニュースになったのだろうが私の記憶はまったくの空白である。馬齢を重ねて情報の取捨に偏りが生まれてきたようだ。しかしそのお蔭で発見もある。昨年のカレンダーを見ると、なんと4月29日が「みどりの日」となっていたのである。元来4月29日は天長節であったのに、戦争に負けたせいで天皇誕生日になったことは知っていたが、そうか、昭和天皇がおかくれになって天皇誕生日が移ったのだ、とあらためて認識した。それにしても「みどりの日」とはいったい何だ。「みどりのおばさん」を顕彰する日と間違えてしまうではないか。

国民の祝日に関する法律(昭和23年法律第178号)には「昭和の日」は「激動の日々を経て、復興を遂げた昭和の時代を顧み、国の将来に思いをいたす」とその意義が述べられている。昭和生まれで昭和育ちの私には特に違和感はないが、これからますます平成生まれが増えていくことを考えると、明治節が文化の日になったように、いずれ名称が変わっていくのは避けられない運命だろう。

しかし折角の第一回「昭和の日」にちなんで、私の生涯忘れられない貴重な体験を記すことにする。昭和天皇に1、2メートルのところまで接近した話で、それは昭和21年2月より始まる昭和天皇の全国ご巡幸にまつわるハプニングである。

入江相政日記第三巻昭和二十二年六月十一日(水)に次のようなことが記されている。

《九時大宮御所御出門。京都市民の奉拝は不相変盛んなものである。十時四十分神戸御着車。直ちに大阪商船ビルに成らせられる。この前あたり大変なひとである。又容易に出入り出来ない。次は神戸市立湊川多聞小学校、兵庫県庁で御昼食。ここの弁当もおいしい。午后は川崎車両株式会社、大阪鉄道局鷹取工機部、中央ゴム工業株式会社、信愛学園、県営庶民住宅とお廻りになって行在所たる県立神戸第一中学に着御になったのは午后五時過ぎ。後略》

新制中学一年生の私は級友たちと先生に引率されて、学校から2キロ足らずの道を歩いて天皇陛下の奉迎に向かった。場所は東尻池2丁目で市電高松線と松原線が直交する交差点あたりである。天皇が行幸される川崎車両はその交差点直ぐ側の南東にあり、私たちは交差点の北西で北側から来られるご一行をお待ちした。やがて鹵簿が近づいてくると号令が順次伝えられてきて私どもは最敬礼をした。

戦争中の朝鮮京城の三坂国民学校で、大詔奉戴日などには校長が奉安殿から勅語の入った箱を恭しく捧げ持って行く道筋の両側を、われわれ児童が整列して最敬礼して送り迎えするのが常であった。しかしこの時は本物の天皇陛下である。教師を始め皆コチコチに緊張しており、戦時中の雰囲気そのものだった。

鹵簿が川崎車両の門を通り中に入っていった。最敬礼から直ってわれわれは今度は伸び上がるようにしてその動きを注視した。お互いに興奮を隠しきれずに何や彼やを喋りあっていたと思うが、しばらく待っているうちに、今まで整然としていた人垣がざわざわとし出した。と、誰かが飛び出して川崎車両の門の方角に走り始めた。そのあとをわれわれが脱兎のごとく追いかけた。そして門の前は人混みで押し合いへし合いの状態になってしまった。日本の警察だけではなくてアメリカ兵のMPまでもが整理を始め、なんとか車の通る道幅だけは空けられた。嬉しいことに私は最前列にいる。やがて門から鹵簿が出て来た。後ろから身体を押してくる、それに逆らって後ろに押し返す。陛下の御料車がもう目前にある。後ろから押された、そして私はなんと御料車の前左の窓ガラス下の車体に手のひらをついて、身体を支えることになった。御料車はあずき色の角張った車であったように思う。

御料車内の陛下のお姿を一瞬目にしたような気がするが、どのようなお姿であったのか、今はもう遠い昔で記憶は定かではない。しかし御料車内の陛下と私の間の距離は1、2メートルほどであったことは間違いない。「目、潰れなかった」と誰かに話したように思う。

入江相政日記には上の段に引き続いて《今日の川崎車両なども思想的に面倒な所と聞いてゐたが、行幸を仰げば何の事も無い、皆難有がってゐた。御徳の御力である。》と出ていた。また翌六月十二日には次のご訪問地、たぶん神戸女学院であろうが、《御料車の前のジープの故障の為坂の処で御料車が停まったら女生徒がとんで来て手を振ってお名残を惜しんでいる。その中に男の生徒一人御料車の側迄来て、涙をふりしぼって「陛下しっかりお願ひします」と申し上げた。真に意味深長である。後略》との記述があり、私のように陛下を間近に拝した人々が大勢居たことが分かる。

それにしても昭和は遠くになってしまった。