日々是好日

身辺雑記です。今昔あれこれ思い出の記も。ご用とお急ぎでない方はどうぞ・・・。

携帯音楽プレーヤーとぼやき

2004-10-30 17:43:42 | 音楽・美術
ソニー製のNET MD WALKMAN MZ-N1というポータブルの音楽再生装置が私の手元にあった。一枚のMDにCD何枚分の曲を録音、再生できるというのが売り物であった。これは有難いとばかりに飛びついたが思ったほど使いこなせなかった。

まず音飛びが結構あってそれが耳障りなのである。これでは音楽を素直に楽しめないので初期不良品に当たったのかと思った。早速クレームをと思ったが、時間は取られるし神経は使うはでどうも御輿が上がらない。それに使う側にしても、ひょっとして自分の使い方に何か問題があるのではないかと思ったりする。この製品の場合も本体をポケットなどにいれて歩きながら演奏させると音飛びをよくするが、机の上などに静置して使うとまあまあいける。そうするとポータブルとはいざとなったら手でもって動かせるという意味なのか、と一人合点したりする。やりとりの煩雑さを避けたいとの思いが思考のスイッチを「我慢」の方へ倒してしまうのである。

問題はそれだけではない。数枚分のCDを一枚のMDに収納するために、もとの曲データを圧縮するのであるが、その方式がソニー独自のもので汎用性に富んでいるとは云えない。ソニー製品と心中する覚悟があれば迷うことはないが、そこまでする謂われもないので全ての曲をこの方式でまとめるにはなんとなく不安がある。

その上厄介なことに著作権の問題が絡むのであろう、CDの曲を気ままにMDに移すことが出来ない。CDのデータをいったんパソコンに収録してMDプレーヤーに移す際に、その回数を数えて3回までは送り出しが出来るがそれ止まり。理には適っているのであろうが、自分だけのために使うにしてはいかにも監視されているという感じが嫌だし、また作業が煩雑すぎる。

さらにマニュアルを常時手元に置いておかないと望む操作がなかなかできない。四六時中使っているのであれば操作も自然に覚えるかもしれないが、ちょっと間をおいて使おうとすると、マニュアルをまた読み直さないと先に進めない。このようなものにも使い勝手の良い装置が出来て欲しいと思うが、そこまでじっくりと取り組むようなゆとりのあるメーカーはないものか。

ぼやきから話が始まったが、私は好きな音楽をどこにいても手軽に聴きたいだけのことなのである。でもMDプレーヤーはあまり期待に応えてくれなかった。しかし最近手に入れたHDD内蔵の携帯音楽プレイヤーには今のところ満足している。CREATIVE MuVo2 FMという製品で、HDD容量は5GBそしてFMも聴ける。MDプレイヤーよりもサイズが2割方小型で携帯性が良い。

この製品も実は初期不良で取り替えて貰った2代目である。ヨドバシカメラの通信販売で購入したが、PCから音楽データを取り込める状態になってくれない。ある段階で止まってしまうのである。ヨドバシに電話をする(神戸からの長距離である)と先ずメーカー側から説明させると云うが、週末だったので直ぐには連絡が取れない。それよりなによりまだ使える状態にならない内のトラブルはまさに初期不良としか云いようがないのに、私がメーカーサイドと直接やりとりする謂われはないはずである。現にヨドバシからの買上票の裏には「初期不良による返品・交換」の項に、事前に連絡のうえ返送するようにとの指示が明記されている。こうしたやりとりの末、ようやく交換品を送って貰うことに決着した。

こんなことがままあるので、気力が充実している時でなければ、クレイムをつける気にならないのである。

交換品は何の問題もなく正常に動いてくれた。CDから曲をPCに取り出しMP3形式のフォーマットに変換のうえプレイヤーに転送、すでにCD10数枚分の曲が収まっている。歌手毎にフォルダーを作成してそのなかにCDをサブフォルダーとして纏めた。嬉しいことに音飛びもなく何時何処にいても演奏を楽しむことが出来るようになった。あとは音量に注意してただでさえ難聴になりやすい耳を労るだけである。

このお気に入りのプレーヤーに一つトラブルがあった。写真のコントローラーに金属製のクリップが目立っている筈である。元来のプラスチック製クリップがいつの間にか脱落してしまったのである。取り付けのピンに欠陥があったのだろうか、三菱の車で云えば車軸が落ちたようなものだ。クレームで取り替えるのもいいけれど、やりとりを考えると気が重いので、東急ハンズで代用になるようなものを見つけて万能接着剤で固定した。

街角の出会いと初体験

2004-10-19 12:48:05 | 音楽・美術
今年の夏は一段と暑かった。関西でも連続真夏日の記録更新に青息吐息であったが、気がついてみるとどうであろう、一週間も経たないうちに私の薄い掛け布団が羽根布団に変わってしまった。いよいよ秋の到来である。

台風襲来のニュースに警戒はしたけれど、結局空振りに終わった10月9日の翌日は快晴に恵まれ、三宮から元町あたりをぶらつくことにした。9、10の両日は神戸ジャズストリートがあり、恒例のデキシーバンドが11時に阪急三宮駅の北側から出発して、北野坂を上っていく。今年もあとをついてぞろぞろと歩いていく。

楽隊は流れ解散になり、一隊はとあるビルの前で演奏を続け、派手派手おじさんが興を添えている。このおじさん、形は派手なんだけれど表情が硬い。もっとにこやかにすればと思ったが、皮膚を動かすと飾りが落ちてくるのを警戒しているのかもしれない。それでも女性を惹きつけるなにかがあるのだろう、妻が嬉しげに側に寄り添っていくものだから、ツーショットの記念写真を撮った(ただし非公開)。

このジャスストリート、今年の1日券は確か4500円なり。じわじわと値上がりしているようである。しかし今年は他にあてがあるのでツーショットを撮ったあと、ロシヤ料理の店でボルシチーの昼食を済ませて元町通りに向かった。こちらでも街頭で多くのグループがおもいおもいの音楽を演奏しているのである。神戸元町ミュージックウィークがそのイベントの名称である。

元町1丁目から6丁目にかけてそれぞれのグループが持ち時間30分ほどの演奏をしている。ジャンルはさまざまであるが、私の好みで歌とかコーラスに的を絞った。男性歌手がアコーデオンの伴奏でシャンソンを唄っている。ほんとうに楽しそうに唄っている。自分の好きなものに打ち込み、また人前で披露する。幸せな人生である。女性コーラスも聴いた。明石からのグループで40代50代が主力であろうか、秋にちなんだ唱歌のメドレーがよかった。声が伸び伸びと出ている。ハーモニーもいい。みんな練習日が待ちきれずに家事もそこそこに飛び出して来ているような雰囲気を感じて心地よかった。

西元町駅から電車に乗るつもりで歩いてきたら、ヴァイオリンの演奏が聞こえてきた。聞く予定にはしていなかったのだが、演奏のすばらしさに立ち止まってしまった。金関環という男性楽師。ジプシー音楽などを演奏していたけれどショーマンシップも立派なもので、身体は動いてしまうし心はとろけてしまう。情熱的なチャルダッシュに思わずブラボーの一声を献上、この年になっての初体験であった。

この楽師の経歴をみるとなんとこの人ジュリアード音楽院を出て修士課程にも進んでいる。プロとしての経歴も長いようである。元町5丁目にある音楽喫茶「アマデウス」で次の土曜16日にサロン・コンサートをする予定だったのでさっそく予約を申し込んでしまった。  続く


鶏肉にピータン入り雑炊

2004-10-17 15:58:13 | Weblog
秋の好天に誘われて妻は家を出て行ったしまった。一人取り残されて私は仕事に没頭、気がついたらお昼である。例によって冷蔵庫を開けてみた。

タッパーウエアに入ったご飯がある。冷凍庫には使い残りであろうか鶏の胸肉にきざみねぎ、野菜庫にはキャベツの切れっ端が私に呼びかけるが如く横たわっている。そうだ、ピータンがあるはず、と先日南京町で買ったことを思い出した。

キッチンは妻のテリトリーである。何をどこに仕舞うのか、その時の気分で決めてしまうので、留守に探し物をするのは大変である。戸棚から引き出しから開け回って最後には諦めるのが常であるが、今日は先行きがいい。あのあたり、と見当をつけて戸棚の奥をまさぐったら、指先がグニュッとした感触のものを探り当てた。何故かしら珍味を目に触れにくい所に隠す習性があるのを知っているからだ。

鶏肉を電子レンジで解凍してスライスし、キャベツは細切りにしてスープの素で冷えご飯共々火を加え、沸騰してきたら弱火にして炊く。その間、ピータンの殻をむき適当な大きさに切っておき、鶏肉が柔らかくなりご飯粒が伸びたころに加えて、最後にきざみねぎを入れ、さっと煮立たせて出来上がり。調理時間は15分ほど。

テレビをつけるとちょうど三枝の「新婚さんいらっしゃい」が始まったところ。最初のカップルは柔道部の先輩後輩の間柄とかで、二人とも体格がいい。夫が寝言で女性の名前を口にしたばっかりに妻に柔道の技で締め上げられて白状させられる。なんでも500円でオッパイ揉み放題の女性の名前だったらしい。500円は安すぎる、本当はもっと高かったのに奥さんが怖くて騙したのでは、と疑問に思ったが真偽の確かめようはなし。

昼の日中からこんな話に妙に感心しながら出来上がった雑炊を一人で啜っている。ふと、「小人閑居にして・・・」なる一節が頭を横切った。穏やかな昼下がりである。

哲学者の道への道(1)

2004-10-15 15:55:57 | 海外旅行・海外生活
別に思索するためではないが、京都に住んでいた頃「哲学の道」を四季折々よく散策した。小間物屋風の土産物店などをひやかすのも面白いし、時には床几に腰を下ろして甘酒、おぜんざいを味わうのもいい。「マクベス」の冒頭に登場する魔女かとおぼしき老婆が注文を聞きに来る廃屋風のカフェーに立ち寄るのも一興である。

今は銀閣寺町から若王子町にいたる疎水沿いの道が「哲学の道」として知られているが、もともとは疎水の東の山際の道が、ハイデルベルグにある「哲学者の道」と地形が似ているためにそう呼ばれた、との説もあるらしい。

今回のドイツ旅行で目指した場所の一つがこの「哲学者の道」であった。ハイデルベルグにはおよそ30年前に一度訪れたことがあったが、その時は古城を訪れ街をぶらついたただけで、古城からネッカー川を挟んだ対岸にあるこの場所に行きそびれたからである。(理由はまたおいおいと述べる)

フランクフルトからジャーマンレイルパスを利用してハイデルベルグに到着、徒歩でまず古城に向かった。行き当たりばったりに街を通り抜け、川辺に出たり、マルクト広場にたどり着いてから古城に登った。私には再訪になるが、妻が初めてだったのでサービスをした次第である。昔はガイドツアーで古城跡から地下酒場のような所に入っていった記憶があるが、今回はその代わりに薬学博物館を見学した。壁面一杯にならべられている権威の象徴のような数多の薬瓶を眺めては、もし自分がこの時代に生きていたなら、いかにもお金がかかりそうなこれらの恩恵に浴することができたのかどうか、心許なく思った次第である。

ネッカー川の対岸のほぼ同じ目線のあたりがどうも「哲学者の道」のようである、と見当をつけて目指すことにした。古城から坂を下りマルクト広場を過ぎて立派な塔が端に建っている橋を渡って対岸に出た。どこかに表示でもあるかと目をこらしてみると、余り大きくはないが矢印で方向を指した掲示板を妻が見つけた。となるともう少しで登り口にさしかかるはずだ、と川沿いに歩いていっても、なかなか登り口らしいものに出会わない。幾らなんでもおかしいと思い掲示のあった場所に戻ると、案内板の直ぐ角の細い道がどうも登り口のようであった。

私の感覚では道しるべなるもの、まず手前に予告があるべきなのである。ところが私の気のせいかドイツではその箇所に目立たないように印があるだけ、見つけたら即反応しないといけないようだ。他二三の場合にも同じような思いをした。

それに登りの道幅があまりにも狭い。まさに路地であって、まさかこれが世に喧伝されている「哲学者の道」へ通じているとは思えない。それに足を踏み入れて坂を上り始めるにつれて、ひょっとして間違いじゃないのかとの思いが深まる一方である。勾配が大きい。道はくねくねと曲折が激しいから前方の視野が極めてせまい。見通しがきかないだけよけいに不安になる。汗が噴き出してくるし息は荒くなる。妻が引き返そうかと言い出した頃、展望台のようなところが目に入った。ということはやはり間違いではないようだ。

このような休憩所が全部で3カ所あったと思う。それぐらい長い道のりなんである。私どもが休んでいると、若い東洋の青年が飲料水のペットボトルを片手に元気よく通り抜けていった。さあ、どれぐらい時間がかかったのだろう、ようやく登り道の終点が目に入ってきてほっとした。

躍り出た先はなんのこともないアスファルトの変哲もない道、川側に無粋なパイプの手すりがある。道ばたのベンチに、先ほど勢いよくわれわれを追い越していった若者が、精も根も使い果たした風情でぶっ倒れていた。ここからの眺望はさすがに見事。道のほとりにここが「哲学者の道」と呼ばれる由縁をしるした案内板があった。

私が思うにこの道は眺望を愛でるにはうってつけであろうが、思索しながら歩くような雰囲気のところではない。それよりも私たちが辟易した急坂を毎日上り下りすることで、剛健な思索者としての体力を養ったことに、「哲学」ならぬ「哲学者」の名称の起源があったのだろうと一人で納得した。

始めに述べた「地形類似説」、この方の信憑性がどうも高いように私は思う。
これが私の思索の成果である。

半分こ

2004-10-13 13:53:54 | Weblog
最近でこそ妻と出かけることが多くなったが、以前、旅は一人でするものだった。
ヨーロッパではユーレイルパスさえあればよかった。次の日の予定ぐらいは決めて汽車に飛び乗る。着いた先では駅前あたりの案内所で宿を紹介して貰い、歩くか電車、バスを利用して宿にたどり着く。タクシーなどには縁がなかった。

食いしん坊だから食事にはこだわりがあった。ランチこそスナック・バーですませることが多かったが、夜ともなると服を着替えて出直すことが珍しくなかった。でも、店に入ると案内されるテーブルが入り口近くだったり、店内の見通しが余り良くないところであったり、心なしか余計もの扱いだった。

デカンターで供されるテーブルワイン、前菜にときには好物のスープまたはサラダ、そしてアントレを注文するのが常であった。メニューを決めるまでが苦労でありまた楽しみである。英語で記されておれば上々、ドイツ語ではまあまあ、ところがフランス語にイタリア語だと見当はつけてみるものの自信なし。そこで英語のわかるウエイターを呼び寄せて、説明を聞きながら選んだものである。

慎重に選んだつもりではあるが、口にするまでは安心できない。イメージ通りの料理であれば万々歳であるが、味に裏切られることがけっこう多い。薄味なら塩胡椒にマスタードなどで適当に好みに近づけられるが、味の濃いときが問題、とびっきり塩辛いものとか酸っぱいもの、これは諦めるしか仕方がなかった。それに劣らず気をつけないといけないのが量。総体に一皿の量が多いから、へたするとアントレをかなり諦めるという事態にもなりかねない。食糧難を痛いほど味わった私として、食べ残しは絶対にしない、との誓いを心ならずも破ることは苦痛でさえあった。

妻と出かけるようになって一番嬉しかったのは、レストランに二人連れで意気揚々と入っていけたこと。予約をするときでも胸をはって二人、と云える。(ちなみに二番目に嬉しかったことは、駅などで大きな荷物の番をさせてゆっくりとトイレを済ませることであった。)さらに前菜にせよアントレにせよ、それぞれ異なるものを注文して、二人で分けて食べると味わいが2倍になる。分けるから、とウエイターに告げると必ず余分の皿を持ってきてくれる。そして食べ残しもなくなった。私以上のグルマンのおかげである。

ベルリンで妻が怪我をした日は、夜の食事を摂りに出かける気にならず、ホテルの食堂で済ませることにした。ゆとりのある空間にあまり客は入っていなくて、プライベートなくつろぎを感じた。例によってシェアーするから、と注文をした。すると料理をちゃんと二皿にはじめから分けて持ってきてくれた。念のために確かめると、こちらであらかじめ分けました、との返事。よくみるとステーキこそ半分に切っているが、付け合わせの野菜などはそれぞれに一人前が載っかっている。料理を作る人、給仕をする人の人情に、先ず心が豊に満たされた。

同じようなことはそのあとプラハのレストランでも経験した。ちょっとした心遣いで客はとても幸せな気分になる。日本でもこのようなサービスが定着して欲しいものである。高齢者の二人ずれ、一人前で済ませられるなんて不必要な無駄が省けるではないか。

腕自慢?

2004-10-12 16:35:24 | Weblog
食い意地が張っているので、せっかく外国に来た以上は本場物を味わってみないといけない。ハンブルグでハンバーガー、フランクフルトではソーセージ、ベルリンでアイスバイン、ウイーンでウインナコーヒ、マルセイユではブイヤベース、ロンドンではローストビーフ、ブダペストではグヤーシュなどなど、ようするにミーハーなのである。

問題なのは目指している料理をどのお店で頂くのかで、ガイドブックなどを参考にはするが、歩いていてたまたまぶつかった感じの良いお店に入ることが結構多い。自慢をすると、ガイドブックのお店で期待を裏切られたことはかずかずあるが、私の感で選んだお店で失望を味わされたところは一カ所たりともない。

最近で一番失望したのは、既に2年前になるが、ブイヤベースである。マルセーユの駅からタクシーで港近くのホテルに乗り付けた。ここを拠点にして歩き回って良さそうな店を見つけようと云うわけである。旧港の波止場では数多くの店が軒を連ねている。まだ日が高い時分であったので店はまだしまっている。そこで店頭に掲示されている献立表の値段などを見て回り、候補を一軒に絞った。なぜか値段が他の店に比べて格段に高いところがあったが、ガイドブックにも紹介されているの店なので、格別の期待を抱いたのである。

適当に街をぶらぶらしてからいよいよ乗り込んだ。迷わずにブイヤベースにワインを注文する。待つ間もなくプレートに材料を盛り上げたものを、テーブルまで持ってきて披露してくれる。お客さんが次第に増え始め、儀式があちらこちらで繰り返される。そして待望のブイヤベースの大鍋がやってきた。まずスープだけが供される。魚介類のエッセンスはほどよくスープに移っているようで、素材の味わいを楽しんだ。が、なにか物足りない。何かが欠けている味わいなのである。そして、魚介類が取り分けられた。余りにも大量なのである。少々食べ進んでも中身が減らない。そして大味。これでいいのかな、これでいいのかな、と自問自答を重ねつつ、満足感を味わえないまま終わってしまった。

妻もまったく同意見、期待が大きすぎたのである。それと、私が自分で作る書生流のブイヤベースが余りにもわれわれの舌に合っていて、プロの漁師風が素朴すぎていたようである。サフランの香りも乏しかった。書生流では実はかならずカニと蛤を入れる。これがスープを豊潤にして手応えを与えるのである。私の作るブイヤベースがどれほどのものか。かって単身赴任をしていた頃、若い連中に振る舞ったことが幾度かある。私が食べる間もなくお代わりの給仕に追われ、気がつけば私の分が残ることはなかったのである。

教訓。普段美味しいものを食べ慣れないようにしましょう。外での食事がまずくなります。
それに、量の多い料理は敬遠しましょう。


鴎外二題

2004-10-11 09:14:23 | 海外旅行・海外生活
その一、ライプチッヒの地下酒場に森鴎外が留学中に頻繁に通った、なんて前回紹介したけれど、これはガイドブックからの引き写しである。書いてしまってから気になり、ちょっと調べることにした。

まずは鴎外がライプチッヒに到着するまで。

岩波書店から昭和50年に発行された鴎外全集第35巻、87ページから191ページに亘って明治17年10月から同21年5月までの「独逸日記」が収められている。そして添付の月報35では「17年8月23日出発10月12日伯林着ライプチッヒ大学に入る19年5月ミュンヘン大学20年4月伯林大学に入る」と独逸での動向が簡潔に記されている。「独逸日記」によると「22日、午後2時30分、汽車にて伯林を発す。ライプチッヒに達せしは5時35分なりき。」とあって、ベルリン、ライプチッヒ間が約3時間であることが分かる。現在はその170km余りをICEが2時間足らずで走るが、当時数えで23歳の鴎外青年にとって時速60kmで走る汽車は飛鳥の如く感じられたにちがいない。。

「独逸日記」に注意深く目を走らせたが、この地下酒場のことが出てくるのは一カ所で、明治18年12月27日、「・・・夜井上とアウエルバハ窖 Auerbachskeller に至る。ギョオテの「ファウスト」Faust を訳するに漢詩体を以てせば・・・」とあるのみ。ミュンヘンに移るまでのほぼ1年半の間、ここ以外の酒場、カフェーに顔出ししていることが日記から分かるが、地下酒場を頻繁に通った事実を裏付けるものはなかった。ただ大学のキャンパスからも近いので、昼食を摂るにはもってこいの所、ある時は一人で黙々とジャガイモ料理を食べ、ある時はビール片手に仲間との談論を楽しんだことであろう。鴎外は几帳面だったようであるから、もし出納帳を残しているのなら間違いなく酒場通いも記録されているであろう。。


その二、鴎外記念館に偶然出くわした話である。妻が転倒して額の傷の手当てを受け、病院から解放されたのは午後2時過ぎ。外に出てまず目に入ったカフェーで巨大なケーキとコーヒを注文して昼食代わりとした。終わったのが3時頃、店を出て周囲を見渡すと鉄道の高架が目の前の通りの遙かかなたに見える。そちらの方に行けばいずれは駅が分かるだろうと歩き出してしばらくすると、妻が「鴎外記念館がある」という。足元に気をつけなかったからひっくり返ったのだから、おそるおそる路面を見下ろしながら歩くのかなと思ったのに、脚下照顧もなんのその、視線を上に向けて闊歩していてかなり高いところにある案内板に気づいたらしい。歩いてきたLuisenstrasseに面して入り口があった。
明治20年4月15日、鴎外はライプチッヒの後ミュンヘンに移り、そして最後の滞在地ベルリンにやって来たのである。「ロウベルト、コッホ Robert Koch に従いて細有機物学を修めんと欲するなり」がその動機である。夜汽車であったが車中、ハプニングのおかげで一睡も出来ずにベルリンに到着したらしい。翌16日の昼時にベルリンに到着し、早くも18日に宿として落ち着いたのがこの建物である。Marienstrasse 32 bei Frau Stern。Luisenstrasse とのちょうど角になる。鴎外在独中の下宿でここだけが唯一現存しているとのことである。閉館が4時なので滑り込んだもののあまり時間が残されていなかった。

2階に上る。フロア全体が記念館のようである。いくつもの部屋に展示品があり、本で占められた部屋もある。鴎外全集はもちろんのこと岩波の古典文学全集なども揃っている。説明によるとこの記念館は、現在ベルリン・フンボルト大学日本文化研究センターの付属機関となっているので、研究の用にも役立っているのであろう。

鴎外が生活をしていた部屋が再現されていた。窓二つを備えて一隅に暖房用の陶器製煙道が設けられていた。ベッド、洗面台、机に椅子、書棚などが20畳前後の部屋に配置されている。ストイックではあるがゆとりのある設えで、政府からの官費留学生であった若きエリートの豊かな生活を彷彿とさせるものである。

ところが入居して2ヶ月も経たないうちに鴎外はこの下宿を逃げ出している。「(6月)15日。居を衛生部の傍らなる僧坊街 Klosterstrasse に転ず。」これに引き続いて理由を述べている。それを私流に解するとこうなる。

この家主は40ばかりの寡婦で17歳の姪と一緒に住んでいるのだが、その二人とも浮薄このうえもなく、お喋りで遊び好き。家に居れと云われるぐらいなら死んだ方がましと云って出歩く。だから自分がいないと届いた郵便物なども受け取って貰えないし、来客があってもサービスしてくれない。それにこの17歳の姪は夜になると部屋にやってきて、わがベッドに座っては話し込む。悪意があるのでは無いが、この懐の暖かい自分を籠絡してやろうとの魂胆は見え見えである。そのくせ、日頃教育のある人種との付き合いなどないものだから、学問に精励するものを役立たずの勉強馬鹿とののしり、自分をその親玉のように云う。こんなところはもう我慢できない。

あらためてベッドを見るとこれはシングルベッド。そこを占拠されたら鴎外は机の前の椅子にでも座っていたのだろうか。今でもそうだがヨーロッパの小さな宿のベッドは、長年の使用なのか真ん中が落ち込んでいるのが多い。横に座るわけにはいかないだろう。

鴎外が帰国後、独逸から彼を追って来日した女性の存在はよく知られていること。その頃既に付き合いが始まっていたのであろうか。また調べる材料が出てきたところで今日はお仕舞い。

慌ただしく駆け抜けて記念館から出てきて妻は「これ見つかったのは怪我の功名」と鼻高々だった。

悪魔の出た地下酒場

2004-10-08 15:18:57 | 海外旅行・海外生活
旅に出て楽しみの一つは食事である。その土地の美味しい料理を味わう期待感に胸はふくれるものの、それを満たすのは必ずしも容易ではない。始めて訪れた不案内の土地で、どのお店のどの料理が美味しいものやら分かるはずがない。ガイドブックのレストラン案内が参考にはなるけれど、これまでの経験から当たりはずれが必ずあるし、それよりなにより、地図を片手にそのお店を探し出すのが一苦労ということが多い。

今回のドイツ・チェコ旅行でぜひ訪れなくちゃ、と探し探し求めたレストランはただ一つ、ライプチッヒのアワーバッハス・ケラーである。ゲーテが学生時代によく出入りし、森鴎外も留学中に頻繁に通ったといわれるレストランである。ライプチッヒの目抜きのアーケード商店街、その入り口にある地下への階段を下りたところにある。「地下に」とは思いもしなかったので最初は見過ごしてしまい、同じ場所をぐるぐる回ったあげく人に尋ねて、なーんだ、と分かった次第である。ケラーとは地下酒場のこと、とようよう思い当たった。

地下階段の入り口に銅像が建っていて、台座に銘板が埋められている。それによると「ファウスト」にこの酒場が出てきて、そこにメフィストが登場するのであろう。銅像はメフィストとファウストであろうか、怖さを感じさせない親近感のある悪魔である。だからこそ本当は怖いのだろうか・・・・。手前に姿を現しているのは現代の「赤衣の小悪魔」である。この銅像が目に入らなかったのはどうかしている。まさか酒場がこんな高尚なシンボルを掲げているとは思いもしなかったし、赤提灯の雰囲気が地下に姿を潜めていたからである。

通されたのはだだっ広いホール、お昼時をかなり過ぎていたせいか客はまばらである。階段を下りたところでこちらのホールに入ったが、その対面にもドアがあり、そちらは閉じられていた。なにか秘密の扉のような趣があるので、多分その奥にメフィストが出没したのであろう。料理はサラダにシチューのようなものを注文したが、味は可もなく不可もなく、ビールの酔いが回るにつれ魂は幻想の世界に彷徨い出た。