日々是好日

身辺雑記です。今昔あれこれ思い出の記も。ご用とお急ぎでない方はどうぞ・・・。

私の大好きな{白鳥の歌」

2007-12-31 09:07:22 | My Song
また五郎部さんと歌ってしまった。若山牧水の短歌三首に古関裕而が作曲した「白鳥の歌」である。

   白鳥は 哀しからずや
   空の青 うみのあをにも
   染まらずただよふ

   幾山河 越えさり行かば
   寂しさの はてなむ国ぞ
   今日も旅ゆく

   いざゆかむ ゆきてまだ見ぬ
   山をみむ このさびしさに
   君はたふるや

私のこれからの人生の道しるべとも道連れともなる歌、そういう想いで歌うと不思議と力が湧いてくる。

2007年も今日で終わり、皆さん、どうかよいお年を!

忙中閑ありで歌った「あざみの歌」

2007-12-30 10:19:30 | My Song
昨日中に年賀状も送り出した。とたんに気が大きくなって家の片付けなど、まだ明日があるとばかりお遊びを始めてしまった。五郎部俊朗さんとのデュエットである。プロを相手に恐れ多いことであるが、歌唱法の勉強にはもってこいである。アップロードするのは音楽著作権とかなんとか難しい話もあるかもしれないが、年忘れと言うことでお目こぼしをいただこう。

薬害肝炎訴訟の全面解決 「歩み寄り」を評価

2007-12-29 08:00:32 | Weblog
《薬害肝炎被害者の救済法案をめぐり、与党プロジェクトチーム(PT)と原告側は28日、国会内で協議し、法案骨子と和解基本合意書の骨子案について合意した。鈴木利広全国弁護団代表は「われわれの意見はすべての項目について、しっかり入っている」と述べ、今後、東京、大阪、仙台、名古屋、福岡の各地裁、高裁で順次、和解手続きに入る方針を表明。同訴訟は提訴から5年ぶりに全面解決することになった。》(2007/12/29付 西日本新聞朝刊)とのことである。

さらに西日本新聞はこのように解説している。

《法案づくりで焦点だったのは国の責任をめぐる表現。前文に「甚大な被害が生じ、その拡大を防止しえなかったことについて責任を認め」と盛り込まれた。被害を発生させた責任を認めるよう主張していた原告側は「極めて明確に責任を認めている」と評価した。
 一方、厚生労働省幹部はこの書きぶりについて「発生させた責任まで認めたものではない。そこまで認めてしまうと薬事行政全体に影響する」と指摘。双方が納得するぎりぎりの一致点とみられるが、「玉虫色」の感は残る。》

この解説はポイントをよく伝えている。「発生させた責任」が法案に明記されていないのにもかかわらず、《薬害を発生させた国の責任と謝罪を明記する》(産経新聞 2007年12月26日(水)16:46)ことを強く求めていた原告側が「極めて明確に責任を認めている」とは、まさに「歩み寄り」の結果である。私も原告側の政治的決断を評価したい。

私は27日のブログで《薬害肝炎の発生原因を特別チームを作って徹底的に調査をして明らかにすることが、原告側の求める薬害再発防止への大きなステップになると思う》と述べた。厚生労働省の速やかな取り組みを期待したい。

薬害肝炎 議員立法法案に「薬害を発生させた国の責任と謝罪を明記する」ことの無意味さ

2007-12-27 20:42:59 | Weblog
薬害肝炎訴訟問題で福田首相が被害者の救済に向けて、議員立法を指示したことから局面が大きく変わった。原告団は各政党を歴訪して支持を求めており、民主党も原告団が同意するような法案なら国会で賛成もありうるとのことである。ところが原告団が同意するには、その法案に《薬害を発生させた国の責任と謝罪を明記する》(産経新聞 2007年12月26日(水)16:46)ことが最低限欠かせないようである。私はこの点にひっかかった。

25日の薬害肝炎被害者救済の議員立法に望むことで私は《この報道のある点に私は違和感を抱いた。「国が薬害被害を起こした責任を認め、被害者の苦痛に心から謝罪する」という内容を法律に明記することがなぜ必要なのか、私が被害者でないこともあってかどうも理解できないのである》と述べた。原告団は二度と薬害を起こさせないためにこの文言を法律に明記することが必要であると主張しているようだ。しかし「薬害を発生させた国の責任」の実体が私には見えてこないから、これではただの言葉遊びのようにしか感じないのである。それどころか、こういうことに固執していると、日本の薬事・医療行政制度の崩壊をも招きかねないとすら思えたのである。

血液製剤の製造・販売・使用を国が認めたことが「薬害を発生させた国の責任」になるのだろうか。制度的に薬剤の市場への導入には政府の許認可がなければならない。国民の医療の向上のために政府は新しい薬剤の使用を認めるもので、認可に至るまでには薬効、副作用を中心に慎重な審査が行われる。日本ではなぜか新薬認可に長期間かかるが、そのことがかえって審査を慎重に行っているかのような印象を与えているのかも知れない。しかし人智に限りがある以上(これを認めることが出来るのは科学的素養のある人々である)いかなる意味でも完璧はありえない。だから新薬認可がいかに慎重に進められたとしても、事故、すなわち薬害は起こりうるものであるとの認識が根本になければならない。そして万が一の事故発生に備えて迅速な「事故への対応」が講じられていなければならない。

「事故の発生」とはたとえば薬剤の製造工程で汚染が生じ、それが見逃されたままに出荷されて患者の健康障害を引き起こす場合とか、医療現場でその使用方法が適切でなかった場合とか、もろもろのケースがあり得る。このような場合でも薬害を発生させたとして国が責任を問われるのだろうか。もしそうだとすると、死刑執行命令書に在任中署名を拒んだ法務大臣がいるように、新しい薬害被害者を作るのはもちろんのこと、補償で国に多額の出費を強いる恐れのある行為に荷担できないと、在任中に新薬認可の署名を拒む厚生労働大臣が出て来ても不思議ではない。薬事・医療行政制度の崩壊である。

「事故の発生」を完全に抑えることは出来ないことを前提とする、これが科学的な判断というものである。その上で事故が発生した場合に、被害の広がりを最小限に抑えるための手段を確立する。最も効果のある対策は、薬剤の使用でそれとの係わりが疑われるような事故が報告されたら、即刻その薬剤の使用を停止させることを法律で定めておくことである。

かってJRで人身事故があったときに、乗客に不便をかけさせないためにと、事故処理と運転再開を急いだあまりに第二の人身事故を引き起こしたことがある。それ以来JRは一旦人身事故が発生するとこんなところまで、と訝しく思える広い範囲で運転を一斉に停止する挙に出た。そのお蔭で私も何回か会合の約束に遅れることがあった。今でもJRでの人身事故の起こるたびに運転停止のお蔭で不便を蒙る人数が大幅に増えているが、諦めムードが一方では定着してきているようすら思える。

薬剤の使用に関して言えば、服用者の異常行動が問題視された「タミフル」でも、一つの事例であれ責任者が判断して即刻使用停止にすることになる。因果関係の調査はそれからのことで、医学・科学者が納得のいく結論を導き出すまでは使用停止にする。もちろんすべての薬剤が同じような扱いを受けることなる。どのような混乱が、また問題が発生するかは、少し頭を働かせるだけで直ぐに分かることである。

厚生労働大臣が信条として新薬認可に絶対に署名をしないとか、たとえ一例でも疑わしき事例の発生で薬剤の使用を即時停止させるとか、極端なケースのように受け取られるかもしれない。しかし薬害肝炎訴訟の原告団に《薬害を発生させた国の責任と謝罪》を言いつのられたら、このような極端な対応をも視野に入れた論議が涌き起こることは必須である。それよりも重要なことがあるではないか。薬害肝炎の原因の究明である。

私は薬害肝炎の発生原因を特別チームを作って徹底的に調査をして明らかにすることが、原告側の求める薬害再発防止への大きなステップになると思う。今回の議員立法で救済される薬害肝炎被害者はひとまず1000人程度と見積もられている。厚生労働省はいろいろな研究班を組織しているが、その一研究班程度の陣容があれば十分に調査が可能である。被害者1人1人についてカルテを調べ、また聞き取り調査でどのような状況で血液製剤が投与されたのかを明らかにする。わが国では諸外国に較べて血液製剤が極めて大量に使われたという経緯がある。過剰医療なのではなかったのか。その検証過程で医師の判断とか医療機関の経営手法との係わりも浮かび上がってくることは必定である。そのすべてを含めて、血液製剤の投与と感染との因果関係を各被害者全員について明らかにすることが、薬剤被害の再発を抑える具体的な方策に繋がっていく。医療にかかわった誰がどのような責任を負うべきなのかもその過程で明示されることになるだろう。薬害肝炎被害者はこの調査に積極的に協力するという行動で薬害再発防止への意気込みを表していただきたいものである。「言葉遊び」で問題の焦点をずらすべきではない。

薬害肝炎被害者救済の議員立法に望むこと

2007-12-25 18:17:54 | Weblog
福田首相が政治決断をして、薬害肝炎被害者救済のための法律を議員立法で制定することになった。22日のブログで私は《「大阪高裁の和解骨子を尊重しつつ(枕詞)、血液製剤の投与されたことが立証されたC型肝炎感染者はみな等しく一定の補償を受けられることとする」ということで、原告・被告がさらに歩み寄れないものだろうか。》と述べて早期解決を望んだ。この強調部分が救済の骨子であるべきだと考えたからである。

血液製剤の投与されたことが立証されたC型肝炎感染者」は誰が考えても血液製剤投与の被害者である。この被害者が血液製剤投与を受けた時期でなぜ「線引き」されるのか、そこが私には理解しがたいのである。具体的には血液投与を受けた時期が1985年8月~1988年6月の範囲内か範囲外かで「線引き」されると言うのである。そこで問題をこのように言い換えてみた。裁判所が国の責任範囲期間と認めた期間外に投与された血液製剤で実際にC型肝炎感染者が発生したのだろうか。また発生したのが事実ならどのような経緯で感染したのだろうか。実はこのようなことを私は知りたいのに、これに答える報道のないのが残念である。

責任範囲期間後でも汚染血液製剤が回収されずにそれが投与された可能性もありうるだろう。場合によれば病院の、そして医師の直接責任があるのかもしれない。しかしこれを一々立証していくのはおおごとである。ここでは国が病院・医師の責任を肩代わりすることが被害者の救済に欠かせないだろう。一方、責任範囲期間前ではどうだろう。この時期のウイルス不活化法ではC型肝炎ウイルスも不活性化されていたとされるが、原理的にはたとえそうであっても、製薬会社から出荷された製品に不適格品が混入していた可能性を完全には否定できないだろう。もちろん責任範囲期間後でもこの可能性はありうる。従って国がたとえ万全の対策をとっていたとしても、現実にはその末端で血液製剤投与による感染者が発生することは十分にあり得ることである。従って血液製剤の投与が立証された被害者が一律に救済されるべきであるのは素直に分かることである。そしてその方向に向けての新しい動きがあった。議員立法である。

時事通信社によると《薬害C型肝炎訴訟で福田康夫首相が議員立法による被害者一律救済の意向を示したことを受け、全国の原告・弁護団は24日、東京都内で会議を開き、法案に「国が薬害被害を起こした責任を認め、被害者の苦痛に心から謝罪する」と明記すべきだとする意見書を発表した。》(2007/12/25-00:28)とのことである。

ところがこの報道のある点に私は違和感を抱いた。「国が薬害被害を起こした責任を認め、被害者の苦痛に心から謝罪する」という内容を法律に明記することがなぜ必要なのか、私が被害者でないこともあってかどうも理解できないのである。「国が薬害被害を起こした責任を認め、被害者の苦痛に心から謝罪する」と政府が認めたからこそ、具体的な和解案の提示になったのであり、また議員立法の運びになったのではなかろうか。政府のこの具体的な行動で原告側がなぜ納得できないのか、その理由をぜひ国民に分かりやすく説明していただきたいものである。

私がこの点に拘るのは、これに原告側が固執すると議員立法もままならなくなることを恐れるからである。現実に起こった事かどうか、私は確認していないが、上に述べたような製薬会社、病院、医師の薬害C型肝炎への関与を完全に否定することは不可能であろう。となると今度は責任を国とそれ以外とでどのように分かち持つのかが問題になるであろう。その点を明らかにせずに、こうなればすべては国の責任としますと決められては、便宜的な法律の制定を国民に印象づけて、ひいては法治国家への信頼性を低下させることになる。

現行の法律でなぜ血液製剤の投与されたことが立証されたC型肝炎感染者はみな等しく一定の補償を受けられることとすることが出来ないのだろう。それが私には分からない。この矛盾点を解決するための議員立法なら私は大いに賛成である。しかし「被害者の一律救済」を急ぐあまりに、薬剤製造・販売・使用の許認可権を政府が持つからには薬害被害者の発生は政府にすべての責任があり、従って被害者への補償も政府が全責任を負うものである、との論法が罷り通るようであれば、上に述べた問題点について思考停止をした揚げ句の愚案であると言わざるをえない。さらにその補償が国民の税金によりなされる以上、この愚案が素直に国民に支持されるとは思えない。

血液製剤の投与されたことが立証されたC型肝炎感染者はみな等しく一定の補償を受けられることに道を開きながらも、筋の通った議員立法に関係者は衆知を傾けていただきたいものである。


追記(12月26日)
論点をより明確にするためにやや多目の加筆修正を最後から二つ目の段で行った。


クリスマスイヴに歌う「おお 愛しの恋人よ」

2007-12-24 23:24:10 | My Song
別にクリスチャンではないけれど、練習を始めて少しは歌えるようになったかな、と思えるようになったのが12月24日のクリスマスイヴ、というだけのことである。

                
    O del mio dolce ardor

       Christoph Willibald Gluck 作曲

  O del mio dolce ardor bramato oggetto,
  l'aura che tu respiri, alfin respiro.
  Ovunque il guardo io giro
  le tue vaghe sembianze
  amore in me dipinge:
  il mio pensier si finge
  le più liete speranze;
  e nel desio che cosi m'empie il petto
  cerco te… chiamo te… spero e sospiro.

オペラ「オルフェとエウリディーチェ」で知られるGluck(1714-1787)の同じくオペラ「エレーナとバリーデ」の中のアリアで、演奏会などでも歌われる。

伴奏のDELL嬢はいつもながら私の思い入れには無関心にただ淡々と弾いてくれる。折り合いをつけるのがなかなか難しい。私が譲ればいいのだが・・・。

薬害肝炎訴訟の原告・弁護団が和解協議 原告も「政治的決断」を

2007-12-22 14:44:42 | Weblog
薬害肝炎訴訟を審理している大阪高裁の和解勧告を受けて、政府が出した和解案に関するニュースが沢山流れているが、原告の主張に同情的な報道が圧倒的に多くて、政府の対応は冷ややかな視線にさらされているようだ。一昨日(20日)夜9時のNHKニュースだったか、野党がすべて政府の対応を非難していた。いや、公明党までも意見ありのようで、政府はまさに四面楚歌である。

私は日頃このニュースを丹念に追っているわけではないので、表面的なことしか分からないが、治療目的で投与された血液製剤によりC型肝炎ウイルス感染を受けた被害者が、国と製薬三社に損害賠償を求めて起こした訴訟であると理解している。

訴訟における和解とは原告・被告が判決ではなくて、話し合いで問題の解決をはかることなのであろう。原告が裁判に訴えたのにもかかわらず、裁判所が話し合いによる解決を勧めるのは、それなりの理由があってのことなので、裁判の長期化により被害者の救済が手遅れになることを裁判所も案じてのことではないか、と私なりに想像している。

原告と被告の間で何が争点になっているのか、裁判記録を目にしたわけではなく、また簡単に目にするわけにもいかないので、どうしてもマスメディアが伝えることに依存せざるを得なくなる。ことの経緯は読売新聞によると次のようなことである。

《国側の修正案は「(大阪高裁の、引用者注)和解骨子案と矛盾しない内容が前提」として、国側の基本的な考え方には変わりがないことを説明した。

 高裁の骨子案は、3月の東京地裁判決の責任認定期間内に血液製剤を投与された患者について、未提訴者も含め、症状に応じて1200万~4000万円(弁護士費用は除く)の「解決責任に基づく和解金」を支払うが、期間外の原告には「訴訟活動・支援に基づく和解金」8億円を、原告・弁護団が設立する財団に一括して払い、配分は原告側にまかせるとしている。

 この日示された国の修正案は、この8億円に22億円を積み増し、30億円に増額するという内容。原告側が、現在の原告約200人のほか、新たな提訴者が最大約800人と推定していることを考慮して積算した。東京地裁の責任認定期間内と期間外の被害者の比率は7対3と見込まれており、最大で合計1000人の3割にあたる300人に30億円を分配すると、1人当たりの平均は少なくとも1000万円となる計算だ。

 厚労相は「輸血などによる別の原因の感染者を除いて薬害被害者を救済する必要があると考え、検討したが、骨子案に矛盾する内容での和解はできない。その上で、最大限皆さまを救済する案を考えた」と述べた。》(2007年12月20日 読売新聞)

この政府案では、救済対象者を「3月の東京地裁判決の責任認定期間内に血液製剤を投与された患者」のみに限るのではなくて、「東京地裁の責任認定期間」外の感染者に対しても実質的に救済の枠を広げたものと思われる。対象者総数は1000人ほどと見積もられていて、原告の概算と大きくは異ならない。したがって厚労相が「骨子案に矛盾する内容での和解はできない。その上で、最大限皆さまを救済する案を考えた」と言うのも、それなりに一理があるものと私は思う。

原告側はかねてから「投与時期や血液製剤の種類、提訴の有無により責任を認める対象を区切ったり、補償内容に差を付けたりしないこと」を求めていたとのことである。その立場からすると、政府側が「東京地裁の責任認定期間」内なのか外なのかで患者を分けることは「線引きのない全員一律救済」の主張とは相容れないことになる。

今回の訴訟で目立ったのは「政治決断」と言う言葉である。大阪高裁が司法判断として「東京地裁の責任認定期間」内外で被害者の線引きをし、政府がそれと矛盾しないやり方で、実質的に全員救済につながる「政治決断」を下したものと思われる。一方、原告は司法判断を「政治決断」で覆し、被害者を線引きをしないとに踏ん切れ、と政府に迫っていることになる。

司法が下した判断に異議があれば、あくまでも裁判の場で争っていくのが筋というもので、大阪高裁の和解勧告を受け入れずに裁判の続行に踏ん切るのも一つの選択肢ではあろう。しかし政府が「線引き」を前提としながらも、原告の要求に応える内容と規模の現実的な解決案をそれなりの政治判断で出してきたからには、原告側も「線引きのない全員一律救済」というスローガンに拘ることなく、さらに協議を進めるという政治的決断があってもいいのではなかろうか。そもそも和解の前提にあるのは「譲り合い」である筈だ。「線引きのない全員一律救済」が理念的であるだけに中身をいじくるわけにもいかず、認めるか認めないか「all or nothinng」の選択しか結論がなく、譲り合いをむつかしくすることを恐れる。

また政府に責任を認めさせると言っても、福田首相に「謝れと言うのなら謝りますよ。謝ればいいんでしょう。ごめなちゃい」なんて言われても、嬉しくも何でもないだろう。行政の最高責任者として謝る立場にいる人に向かっての要求には自ずと限界があるように思う。言葉ではなくて実際の行動にもとづく状況判断こそ重要であろう。

今朝の朝日新聞によると大阪高裁は、原告側から再修正案の提出を受けたうえで、第二次和解骨子案を出す方針を固め、一方、和解協議打ち切りを表明していた原告も、再修正案を25日にも提出することにしたそうである。「大阪高裁の和解骨子を尊重しつつ(枕詞)、血液製剤の投与されたことが立証されたC型肝炎感染者はみな等しく一定の補償を受けられることとする」というようなことで、原告・被告がさらに歩み寄れないものだろうか。

海自ミサイル迎撃試験成功に水を差すが・・・

2007-12-19 15:44:14 | Weblog
海上自衛隊のイージス艦「こんごう」がハワイ・カウアイ島沖で、アメリカの実験的に発射したミサイルを海上配備型迎撃ミサイル・SM3で邀撃に成功したということで、「こんごう」の管制室であろうか、乗組員が大喜びしている光景をテレビで観た。それほど喜ぶべきことか、と私はその光景を冷ややかに眺めたのである。

海上自衛隊員はボタンを押しただけではないか、と思ったからである。邀撃ミサイルシステムのいったいどこに人力の関与することがあるというのだろう。どこからかわが国にミサイルが飛んでくる。それを探知すれば直ちに邀撃態勢が自動的にとられて、ボタンが押されて迎撃ミサイルが飛び出すのであろう。このボタンと言ってもたんにシステムを稼働させるためのものかも知れない。弾道計算に手回しの計算機や計算尺が幅をきかせていた時代ではないのである。人間のすることは何もないではないか。大喜びしている隊員、それに嬉しげなコメントを述べる政治家はバッカじゃなかろうか。

ミサイル攻撃に対抗するミサイル防衛(MD)システムと言ってもこれは全くのアメリカ製で、重要な機密が日本に明かされているはずがない。ブラックボックスだらけのものであろう。その意味では制御装置を触らせてもらったとしても、ゲーム機をいじくっている感覚と変わりはあるまい。ゲーム機と違うのはシステムの配備に膨大な費用がかかっていることである。私の推測では今回の迎撃ミサイルSM3一発が数十億円ほどになるだろう。高すぎるお遊びである。パチパチ手を叩いている場合か。

撃ち落としたのはアメリカの模擬ミサイルだそうである。あらかじめ発射される場所も、飛んでくるミサイルの種類も分かっている。不意をつかれたわけでもない。速度が圧倒的に遅いとか、落として貰いやすいように仕組まれた実験であるのかも知れない。同じ実験をするのなら、中国とかロシアに実戦配備のミサイルと飛ばして貰ってそれを撃ち落とすぐらいのことをしないと、実験の意味はない。

北朝鮮、中国がそれぞれ1000基以上の弾道ミサイルを持っているそうである。MDシステムが実戦配備されたとしても、飛んでくるすべてのミサイルを100%の確率で撃ち落とすことは到底不可能である。というより100%の確率で撃ち落とせるという科学的なデータがあるはずが無いではないか。MDシステムはそもそもアメリカ防衛のもの、アメリカに向かって飛んでいくミサイルを手を拱いて眺めているしか出来ない日本に、アメリカが本気で日本防衛に手を貸すと考えること自体が大間違いである。アメリカにミサイル発射の情報を抑えられ、肝腎の邀撃ミサイルの供給をストップされる可能性を考える政治家が1人ぐらいはいてよさそうなものである。

戦争回避のためには全力をつくす。しかし核弾頭がいざ飛んできたら座して死を待つのも一つの選択肢かなと思う。しかし日本防衛のためにどうしてもミサイル防御システムが必要と国民の総意でそうなるのなら、アメリカを含めて他国に依存しないわが国独自のシステムの開発をすべきなのである。強力なエネルギー光線で一瞬にミサイルを気化するとか、わが国全体をすっぽりと覆い被してミサイルの進入を絶対に許さない目に見えない障壁を開発するとか、それぐらいは出来るのではなかろうか、とその昔、山中峯太郎、海野十三や平田普策の熱血武侠小説に耽溺した元『軍国少年』は思うのである。

一弦琴「土佐の海」をもう一度

2007-12-19 11:51:34 | 一弦琴

「土佐の海」からまだまだ卒業できない。

          詞 真鍋豊平
          曲 真鍋豊平

  土佐の海 底の海石(いくり)に 生ひいづる
  珊瑚の玉の 玉なれや 赤き心の 貫之の
  大人(うし)の命(みこと)の 住みませし
  昔しのべば 今もなほ その名は高く 
  世にめづる 宇田の松原 うちよする
  波の音清く 見る目ゆたけし 土佐の海原

先生にお浚いをみていただいたあとの演奏を12月15日にアップロードしたが、17日には演奏をいったん差し替えた。唄い方に満足できないこともあるが、私なりに考えるところもあるだ。

私の用いている琴譜は徳弘太著「清虚洞一絃琴譜」に先生が手を加えたもので、原本とは必ずしもおなじではない。たとえば私は二行目は上の歌詞のように「珊瑚の玉の 玉なれや」と唄っているが、徳弘本では「さんごのたまの あかだまの」となっている。大西一叡著「一弦琴 一つ緒のみち」にある「土佐の海」でも、「さんごの玉の 赤玉の」となっているに、琴譜では「赤玉の → 玉なれや」になっているのである。なぜこのように変わったのか、まだ先生にお聞きしていない。私も「赤玉の」と唄ったりしたが、「さんごのたまの あかだまの」ではちょっと品がないように感じたので、あえて原本には従わなかった。

五行目の「(宇田の)松原」のところは

  まつゥばァらァァ (徳弘本、大西本)
  まつゥゥゥばァら (徳弘・松崎一水改訂本)

と本によって唄い方が違うので、12月17日は後者の唄い方をしたが、やっぱり前者の方が私の好みなので、唄い方を元に戻した。松崎一水さんは徳弘太の三女で清虚洞宗家三代目を名乗っておられる方であるが、何をもって新しい唄い方をよしとして改訂されたのか、私には分からない。

と言いながら、私も自分の演奏を何回も聴き直しては、新しい唄い方にしたり元に戻したりして、自分にしっくりくる演奏を探し求めている。人に教える立場にある人がお稽古のたびに唄い方を変えると、弟子は堪ったものではないが、幸い私は学ぶ身なので試行錯誤を大いに楽しめるのが嬉しい。


PhotoshopとIllustratorで「清虚洞一絃琴譜」のお手入れ

2007-12-18 17:38:55 | 一弦琴

国立国会図書館の所蔵する徳弘太著「清虚洞一絃琴譜」のコピーを入手したことはすでに述べた。国会図書館から送られてきたものは、下に示すように、B4サイズの用紙に見開き2頁分がコピーされているが、このままでは使い勝手が悪い。そこで全巻をPDFファイルとしてまとめることにした。



作業の第一歩は各頁を再びスキャナーで画像データとして読み込むことであるが、この画像をいろいろと加工することになるので、Photoshop7.0を使うことにした。10月に買ったばかりのCanon MP610のスキャナー機能が役に立つ。グレースケールを用いて必要部分のみをサイズを決めて取り込む(トリミング)。Photoshopで画像がもし傾いておればまっすぐに直す。次に文字と符号が読みやすいように、黒い部分はより黒くなるように色調補正>レベル補正を行う。図書館でコピーするときに、裏の文字を薄くするためにコントラストを落としているので文字などが薄くなっている。その補正である。一方、文字・符号を濃くすると汚れなども目立ってくるので、これは消しゴムで消すことになる。

琴譜はA4サイズの用紙に2頁分を印刷しても読むのに何の支障もない。そこでIllustrator10でA4用紙を横方向に開き、その上に琴譜2頁分を印刷可能な範囲一杯に配置することにした。必要とあれば各頁の画像サイズを微調整する。用紙の中心線を2画像の境とすることは言うまでもない。出来上がりは以下の通りである。



図書館コピーとの違いが一目瞭然であるが、その同じところを見比べると加工部分が分かると思う。IllustratorのファイルはPDFファイルとも互換性があるので、最終的にこの琴譜の全巻をPDFファイルとして保存できる。



このような作業を始めると時間が直ぐに経ってしまう。幸い今は隠居生活の身なので時間に追われることもなく、マイペースでこの仕事を片づけるつもりでいるが、始め出すとついカッカとなってしまうのが怖い。