日々是好日

身辺雑記です。今昔あれこれ思い出の記も。ご用とお急ぎでない方はどうぞ・・・。

「師」ならではの本 内田樹著「日本辺境論」

2010-01-03 15:09:13 | 読書

かって先生は偉いのだ、が教育の原点(2007-06-24)と文学者の文章 MetaphorがJargonを生む(2009-02-22)で内田樹さんを取り上げたことがあり、この方のお名前はよく存じているが、その著作を読んだことはなかった。書店では「内田樹コーナー」が出来るほどの売れっ子で、またけっこう多作の方なので「天才は多作である」の逆も真、ひょっとして天才?との思い込みで敬遠していた。それなのに年の暮れ、ついに「日本辺境論」(新潮新書)に手を出してしまった。やはりよく売れているとみえて、2009年11月20日発行で1ヶ月後の12月20日には早くも第5刷となっていた。

決して読みやすいという本ではないが、一日でとにかくおわりまで読み通したものだから大したものである。「終わりに」の始めにでてくるが、「最後までお読みくださってありがとうございます」との挨拶を受けるだけの資格はありそうだと誇らしげな気分になれた。

かって村上春樹さんがエルサレム賞を受賞した時、その受賞スピーチが何を言いたいのか、私にははっきりしないので、他の人がどのように受け取っているのだろうかと思っていたところ、内田さんのブログ記事に出会ったのである。その文章を読んだ私は内田さんを村上春樹さんの「伝道者」役をかってでているように思い、文学者の文章 MetaphorがJargonを生むで次のように述べた。意は通じると思うので、このやや長い引用を読み飛ばしていただいても結構である。

私は言葉というものは伝えたいメッセージを一義的に相手に伝えるための道具であると思っている。言葉の受取手がそのメッセージを一義的に了解してこそ言葉が言葉たる機能を発揮したと思っている。ところが私には村上氏のメッセージが彼の言葉を介して一義的に伝わってこないものだから、何を言いたいのか分からないと述べたのである。では他の人はどのように村上氏の言葉を正しく受け取った(と主張できる)のだろうかと疑問に思っていたら、内田樹さんの文章「壁と卵(つづき)」にぶち当たった。私のように村上氏の「たとえ話」が分かりにく人が多いと思われたのか、「伝道者」役を買って出られたようである。この中で内田さんは

System というのは端的には「言語」あるいは「記号体系」のことだ.
私はこのスピーチをそう理解した。
「政治」とは「記号の最たるもの」である。
現に、このスピーチの中の「システム」を「記号」に置き換えても意味が通じる。》と述べている。

この方は凄いと思った。独自の文章解析眼でもって私が理解をあきらめた「wall」の「metaphor」である「The System」を「言語」あるいは「記号体系」のことだと理解されたのである。ところが、である。「The System」がさらに「言語」あるいは「記号体系」あるいは「記号」と言葉を換えたものだから、「The System」だけでチンプンカンプンな私にはますますお手上げでなのである。でも私が世間の人に比べて文章理解力がそれほど劣っていることはあるまいとの自負心も多少はある。と思ったら「The System」も「言語」も「記号体系」も「記号」も、「metaphor」ではなくて「jargon」に見えてきたのである。

「日本辺境論」にも「はじめに」のところで

最初にお断りしておきますけれど、本書のコンテンツにはあまり(というかほとんど)新味がありません。(「辺境人の性格論」は丸山眞男からの、「辺境人の時間論」は澤庵禅師からの、「辺境人の言語論」は養老孟司先生からの受け売りです。この場を借りて、先賢に謝意を表しておきます)。
とあるので、このところを一応文字どおり受け取ると、ここでも内田さんは先賢の「伝道者」を自認しているとも言えよう。

多くの先賢からの引用が随所に出てくる。アルベール・カミュ、カール・マルクス、ローレンス・トープ、司馬遼太郎、梅棹忠夫、川島武宣、吉田満、ルース・ベネディクト、池部良、山本七平、等々である。あえて告白すると、私はここで引用されている文章はもちろんのこと、これらの著書(小説を除く)に目を通したこともない。だからこそどのような小さなことでも、すべて私が頭の中で組み立てた考えを自分の言葉で語らざるをえないのであるが、そのような思考・表現行動が身についてしまっている私には、先賢の言葉を一々気にしないといけない「伝道者」がとても窮屈な存在に見えてきて、その思考過程について行くのも面倒になる。ところが私が読みづらいと思うこの本にも多くの読者がついているのである。不思議に思ったが、その謎には秘密がありそれを私は解き明かすことができたのである。いや、実は謎でもなんでもなく、この著書で内田さん自身が公開しているのである。学びの極意としてこのようなことを述べている。

 弟子はどんな師に就いても、そこから学びを起動させることができる。仮に師がまったく無内容で、無知で、不道徳な人物であっても、その人を「師」と思い定めて、衷心から仕えれば、自学自習のメカニズムは発動する。(149ページ)

さらに『こんにゃく問答』という落語を持ち出して、

 奥の深い落語です。『こんにゃく問答』のすごいところは、この学僧はこんにゃく屋の六兵衛さんから実際に深遠な宗教的知見を学んでしまったということです。弟子は師が教えたつもりのないことを学ぶことができる。(強調は著者)これがダイナミズムの玄妙なところです。(150ページ)

師弟関係が成立しておればこのように弟子は師が教えたつもりのないことを学ぶことができるのである。この真理さえ心得ておけば「師」は「師」らしく振る舞うだけでよい。その極意は、数語で表現できる真理を引用やMetaphor、Jargonで飾り立てることで、要するに何を書こうと中身は問題ではない、ただ弟子の考えようとするモチベーションをかき立てればそれでよいのである。「師」が何を宣おうとファンは、いや「弟子」は自ら会得したことを「師」の教えとあがめ奉る仕組みとなっているのである。この仕組みを早々と見抜き、あまつさえそれを堂々と開陳する内田さんはなんと自信に充ち満ちたお方であろう。敬服に値する。しかしその仕組みが分かったからには、今後本のタイトルと帯の文句を目にするだけで満足するファンも増えることだろう。

私の初遊びはこれでおしまい。




最新の画像もっと見る