日々是好日

身辺雑記です。今昔あれこれ思い出の記も。ご用とお急ぎでない方はどうぞ・・・。

佐野眞一著「枢密院議長の日記」を読んで

2007-10-30 11:11:31 | 読書

新聞でこの本の広告を見た。何だか凄そうな本なので高いかなと思ったのに、値段はただの950円、9の前の数字が落ちているのではないかとよく見たが間違いではない。「講談社現代新書」であることに気づいて納得した。

この日記を書いたのは倉富勇三郎という人物である。

《ペリーが浦賀に来航した嘉永六(1853)年、久留米藩の漢学者の家に生まれ、明治、大正、昭和の時代を生きて、戦後の昭和二十三(1948)年に数え年九十六年の生涯を閉じた》
《東大法学部の前身の司法省法学校速成科を卒業後、東京控訴院検事長、朝鮮総督府司法部長官、貴族院勅撰議員、帝室会計審査局長官、宗秩寮総裁事務取扱、李王世子顧問、枢密院議長などの要職を歴任》という方らしい。

枢密院議長といえば初代の伊藤博文とか山県有朋などの名前は知っていたが、倉富勇三郎という名前は歴史好きの私ではあるが知らなかった。倉富の宮中序列の最高位は、昭和天皇即位の大礼の際に、大勲位東郷平八郎、大勲位西園寺公望、内閣総理大臣田中義一に続いて第四位であったというから、位人臣を極めたと云える。

この倉富の日記が国会図書館の憲政資料室に所蔵されており、《日記の巻数は小型の手帳、大学ノート、便箋、半紙など二百九十七冊を数え、執筆期間は大正八年一月一日から昭和十九年十二月三十一日まで、二十六年におよぶ。》とのこと。

《一日あたりの執筆量は、多いときには四百字詰め原稿用紙にして五十枚を超えるときもある。まずは世界最大最長級の日記といってもいいだろう。》というのである。そのうえペン書きの文字は、まるでミミズがのたくっているようで、ほとんど判読不能なのである。

佐野眞一氏は他のスタッフともども、七年間の歳月をかけて大正十年と十一年を中心とした約二年分の日記と、大正十二年の虎ノ門事件や昭和七年の五・一五事件前後の日記を解読し、そのなかから興味をひいた事柄にまつわる数々のゴシップを紹介している。まさに私の大好きな話なので、あっという間に読み上げた。

著者の労苦を思うと、面白そうな話を私がつまみ食いをしてここに紹介するのは気に引けるので、二点だけに止める。

一つは、昔の皇族・華族というものはとんでもない『金食い虫』だったのだな、ということである。随所にそのような話が出て来る。宗秩寮というのは皇族、王、公族、爵位、華族、朝鮮貴族、有位者に関することなどを扱う部署なので、自ずと情報が集まったのである。今日の朝刊の週刊誌広告に《「皇室はストレスの塊」発言の衝撃 三笠宮寛仁親王 「朝起きて朝食を食べ、昼食を食べ、夕食を食べ・・・。365日くり返す。それが皇室に生まれたもののつとめだよ」》とある見出しとなかみだダブってきた。

もう一つは次の記述。
《倉富が金銭に恬淡とした性格だったことは、大審院以来の友人で、柳田国男の養父となった柳田直平も認めている。昭和三年十一月二日の日記に書かれた倉富との雑談で、柳田はこんなことを言っている。
<柳田「或る人が『栄達して金銭に淡泊なる人は少し。維新後にては大久保利通、伊藤博文と君(倉富)との三人なり』と云い居りたり。大久保は死後負債ありたりとのことなり。伊藤は貯蓄はなさざりしも、彼の如く贅沢を為したる故、真に金銭に淡泊なりとは云い難し」>》

二世三世の国会議員に聞かせてやりたいものである。


一弦琴「愛宕の四季」

2007-10-29 17:55:56 | 一弦琴

一弦琴秋の演奏会が終わった。私の所属する会は徳弘太(とくひろたいむ、1849-1921)の開いた「清虚洞一絃琴」の流れを汲むもので、演奏する曲もこの琴譜にあるものが中心になる。毎年演奏する曲が変わり映えもしないのに、聴きに来てくださる方がいるなんて有難いことである。私は昭和の曲、「愛宕の四季」を唄ったが、出来はいつもの如く今ひとつ、もっとも一生かかっても満足する演奏なんて出来ないだろうが・・・。それでも終わってやれやれである。

私が一弦琴を始めたときに、まさか舞台で演奏することになろうとは夢にも思っていなかった。自分が好きで始めることと、人に聴かせることとは私の頭の中ではまったく別物であった。ところが他のお稽古ごとを始めて分かったことであるが、教える側のいわゆる先生方は、年に一度ぐらいは発表会というのか演奏会というのか、そのようなものをするのが決まりのように思っているようである。

私の場合、一弦琴を能舞台の上で演奏するのである。何事も経験で初舞台では緊張したものの、なんだか晴れがましい気分になって、それはそれでよかった。それが励みになって精進を重ねる人も当然いるだろう。ところが回を重ねても、自分で納得のいく演奏が出来ないので、だんだんと舞台に立つのが億劫になってきた。それでお師匠さんにはかなり以前から舞台に立つのは勘弁して欲しいとお願いしているのに、なかなか聞きいれていただけない。枯れ木も山のにぎわい、ということなのだろうか。

私が好きなのは自分一人で唄い琴を奏でることである。それを録音して聴き戻すと欠点がよく分かるので、直してはまた唄う。それをくり返している内に、少しはいいかな、と思える演奏が出来るようになる。私が重宝している録音機はRoland製EDIROL「WAVE/MP3 RECORDER R-1」(販売完了、後継機はR-09)で、高性能のバックエレクトレット・コンデンサー・マイクを内蔵しており、CDを超えた品質の録音が可能である。記録メディアはコンパクトフラッシュで、容量が1GBあるものを使うと、MP3フォーマットで約12時間分の録音が出来る。操作は「録音準備」、「録音開始」、「ストップ」のボタン操作でOKであるから、メモリー・カードの残量を気にすることなく歌い続けが可能である。録音/保存したサウンドは、USB接続により簡単にパソコンに取り込むことが出来る。



昨日の舞台よりずっとましかな、と思える「愛宕の四季」の演奏をサイトに登録した。

追記(11月9日)
11月9日の演奏に差し替えた。

阪大下村事件の続きと終わり

2007-10-27 17:58:54 | 学問・教育・研究
昨年来、論文捏造で揺れた大阪大学で、二つの異なる処分が責任者である教授二人に下された。一つは大学院生命機能研究科による懲戒解雇処分であり、もう一つは大学院医学研究科による軽い停職処分であった。この時に停職14日の処分を受けた医学研究科の下村伊一郎教授に対して、その後新たに浮かび上がった論文疑惑で医学研究科教授会が『論文取り下げ勧告』をこの6月に行い、それに沿う形で「Science」誌掲載論文が今回撤回されたものと私は思っている。

第一次下村事件では下村教授は停職14日の処分で済んだが、この度の第二次下村事件で新たな処分が下されたのかどうか、外部には伝わってこない。もしかすると『論文取り下げ勧告』そのものがすでに処分であって、医学研究科では万事まるく修まっているのかもしれない。真相はどうなのだろう。それはともかく、論文捏造に対する処分内容が同じ大阪大学内であっても大きく異なることについて、私は以前から疑問を抱いていた。しかし、今回撤回された論文に改めて目を通して、私がこれまで見逃していたある事実に気づき、私なりに納得することがあった。

問題の論文は下記のもので、共著者は22名で所属機関は7カ所に亘り、最後に下村教授がコレスポンディングオーサーとして名を連ねている。



その下村教授の所属として3カ所挙げられており、その一つに私の目が向いた。「Department of Internal Medicine and Molecular Science, Graduate School of Medicine, Osaka University」とある。「Internal Medicine」と云えば内科ではないか。アレッと思い大阪大学医学部付属病院のホームページの「診療科のご案内」から「内分泌・代謝内科」を訪れると「診療科長 下村伊一郎」の名前があった。下村教授は歴とした臨床の教授だったのである。これで私の疑問は氷解した。

何事にも例外はある。しかし私の限られた見聞きの範囲であるが、臨床の教授でまともな『研究』に時間を割く余裕のある人がいるとは思えないのである。日常は『多忙』の一言に尽きるようである。従って私のいう『研究者』の範疇からは大きくはずれる存在なのである。そのような臨床の教授にとって論文とは形式としてただ名前を載せるだけである。御神輿に乗っかっているだけなのに共著者が不正を働いたからといって一々責任を取らされていたら臨床の教授は堪ったものではなかろう。医学研究科教授会の構成メンバーに臨床の教授が含まれている以上、いつかは自分に降りかかってくるかも知れない災難を避けるためにも、同僚に厳しい処置を科せるはずがないのである。

私が急に物わかりがよくなったのには理由がある。私も臨床の教授と共著の論文が何編かあるせいか、古めかしくも「仁義」という言葉が頭を横切ったのである。何となく云いにくいことがある。それにあれやこれやと私が問題視する内実をあげつらったところで、それだけでは積極的提言にはなかなか繋がらない。今云えることは、中身もよく分かっていないのに教授であるが故にコレスポンディングオーサーとして論文に名前を連ねる『古き良き慣習』を、医学部臨床部門の中に閉じこめておいて、外部に拡散させないことである。

ところで、これは本題から離れるが、下村教授の内分泌・代謝内科に私はちょっとした因縁のあることが今回分かった。下村教授が師事したとされるTS先生とはかって科研費特定領域の研究班で何年かご一緒させていただいたことがある。だから弟子は師の姿を見て育つものとはなんとなく口に出しにくくなった。さらにこの「内分泌・代謝内科」の前身は「第二内科」だというではないか。

つい最近もブログで取り上げた母校である高校に在学中、年に何回か実力試験というものがあって、各学年成績順に名前を廊下に貼りだしていた。私とクラスは違っていたが女子のトップにいつも名前を見るKさんの母親と、PTAの何かの役で一緒になった私の母から、Kさんの父親が阪大医学部の先生であると聞かされたことがあった。Kさんは文学部、私は理学部とそれぞれ阪大に入学したが、阪大での高校出身者の会でKさんの兄さんであるKTさんに紹介された。私より確か2年先輩の医学部学生で、それからは顔を合わせると立ち話をする間柄になった。その兄妹の父親のKT先生が何代か前の第二内科教授をされていたのである。先輩のKTさんはその後微生物病研究所付属病院の教授になられた。

こういうことが分かってきたので、私の下村問題はこれで終わりとする。


阪大教授論文取り下げ、この続きは?

2007-10-26 11:55:36 | 学問・教育・研究
以前のエントリー大阪大学大学院医学系研究科教授会の摩訶不思議な行動で私はこのようなことを述べている。

《私は論文捏造事件の責任者である下村教授が現職にとどまっていることには納得していない。しかしその心情と、今回の教授会の決定に対する私の不審とは別物である。教授会が同僚教授に対して「論文の出来が悪いから取り下げよ」と云うのは、それが強制力を伴わない現状である以上、たんなるお節介に過ぎないのである。そういう無意味なことに教授会が時間とエネルギーを浪費すべきではない。》

《繰り返しになるが私は下村教授の肩を持つのではない。大阪大学大学院医学系研究科教授会の私の常識では理解できない『論文取り下げ勧告』という行動に、私の『天の邪鬼』が勝手に反応してしまったようである。教授会は中途半端な処置でお茶を濁すのではなく、阪大杉野事件で大阪大学大学院生命機能研究科が作成した調査報告書のようなものをまずは公表すべきである。》

ここで述べたような調査報告書が公表されたのかどうか私は知らないが、今朝の「朝日」は「阪大教授、論文取り下げ 実験不備 科学誌掲載では異例」の見出しでことの経緯を報じていた。その記事の一部を引用する。



この引用の最後の部分、「大学や同誌が取り下げを求めていた」は「朝日」お得意の中身の伝わらない記事であるが、それはともかく、問題論文が結局「Science」誌から取り下げられたことを報じている。しかしこれでもって『下村事件』の大団円にしてはならない。

私は大阪大学がはき違えていることでも大阪大学の対応を批判したが、下村教授はこの時の「Nature Medicine」誌への発表論文に引き続いての今度は「Science」誌からの論文撤回である。世間では「二度あることは三度ある」という。『食品の偽装』も「ミートホープ」、「白い恋人」、「赤福」に「比内地鶏」と相次いで不祥事が浮かび上がった。大阪大学が適当なところで手を打つのも、なにか連鎖反応を警戒してのことだろうか。げすの勘ぐりであってほしいものである。

ブログのドイツ語表示に落とし穴

2007-10-23 12:43:14 | Weblog
私はふだんブラウザーにFirefoxを使っている。現在のバージョンは2.0.0.8でOSはWindows XP Home Edition Sp2である。一昨日、シューベルトの「菩提樹」歌詞をドイツ語で表示するつもりでその方法を調べたところ、極めて簡単にできることが分かった。

Firefox上でドイツ語表示

「コントロールパネル」の「地域と言語のオプション」アイコンをクリックして開いたウインドウの「言語」を選び、「テキストサービスと入力言語」の項目の下にある「詳細」のボタンを押す。

新しく開いたウインドウの「インストールされているサービス」の右横下にある「追加」ボタンを押し、「入力言語の追加」の「入力言語」に下向き矢印をクリックした開いたテーブルから「ドイツ語(ドイツ)」を選択し、さらに「キーボード レイアウト/入力システム」に同じく下向き矢印をクリックして「ドイツ語」を選択する。最後に「OK」ボタンを押す。そうすると「インストールされているサービス」のウインドウに「ドイツ語、キーボード」の組み合わせが新たに表示される。再び「OK」ボタンを押し、最後に残った「地域と言語のオプション」ウインドウの「OK」ボタンを押して作業を終了する。

私のキーボードは「コントロールパネル」の「キーボード」アイコンをクリックして、現れたウインドウの「ハードウェア」を選択すると「101/102英語キーボードまたはMicrosoft Natural PS/_」と表示されているタイプである。通常はこれを日本語入力のキーボードとして使っているが、ドイツ語を入力したいときは「左Alt」キーと「右Shift」キーを同時に押してドイツ語用のキーボードに切り替える。そして下のキーボード配置に従って文字を入力すればよい。「Y」と「Z」が入れ替わっているので切り替えの確認は容易である。



再び「左Alt」キーと「右Shift」キーを同時に押すと日本語入力用に戻る。操作はきわめて簡単である。

テキストエディターで私は「Der Lindenbaum」をドイツ語で入力し、その文章をブログサイトに投稿した。Firefox上で私のサイトを見るとちゃんとドイツ語が表示されていたので、めでたしめでたし、これで一巻の終わりのはずであった。ところがInternet Explorer上ではなんと文字化けが起きたいたのである。となるとドイツ語表示にキャラクター・セットを使わざるを得なくなった。

ブラウザーに依存しないドイツ語表示

キャラクター・セットは「HTML/XHTML Character Entities」を使う。

例えば大文字のÄの場合は、《Auml》を《&》と《;》で挟んだものをテキスト入力すると、HTML文書ではÄとして表示される。 《Auml》からこれは大文字のAウムラウトであることが直ぐに分かるが、念のために《&》と《;》で挟む部分を下に挙げておく。

  ä   auml
  Ä   Auml
  ö   ouml
  Ö   Ouml
  ü   uuml
  Ü   Uuml
  ß  szlig

もちろんフランス語であれギリシャ語であれ他の異文字も上記のキャラクターセットを使って同じように入力すればよい。Firefoxでのドイツ語入力が簡単だったので、IE上での文字化けは思いがけぬ落とし穴であった。



「音楽著作権法」をかいくぐり歌った「Der Lindenbaum」

2007-10-21 18:36:11 | My Song
月に2回ヴォイストレーニングを受けている。その間、ほとんど声を出さないから進歩はない、ただ退化をかろうじて防いでいるつもりである。

昨日(10月20日)、例年より一月以上も早く勉強仲間のリサイタルがあり、私もシューベルトの「菩提樹」を歌った。練達のピアニストが伴奏をシュタインウエイピアノで弾いてくれたのに、舞台では一カ所歌詞を誤魔化したのが残念だった。そこで帰ってきてからDell嬢の伴奏で歌い直した。お耳汚しでよろしければどうぞ。

     Der Lindenbaum

Am Brunen vor dem Tore da steht ein Lindenbaum;
ich träumt' in seinem Schatten so manchen süßen Traum.
Ich schnitt in seine Rinde so manches liebe Wort;
es zog in Freud und Leide zu ihm mich immer fort.

Ich mußt' auch heute wandern vorbei in tiefer Nacht,
da hab ich noch im Dunkel die Augen zugemacht.
Und seine Zweige rauschten, als riefen sie mir zu:
komm her zu mir, Geselle, hier find'st du deine Ruh'!

Die kalten Winde bliesen mir grad' ins Angesicht,
der Hut flog mir vom Kopfe, ich wendete mich nicht.

Nun bin ich manche Stunde entfernt von jenem Ort,
und immer hör' ich rauschen: du fändest Ruhe dort!

Nun bin ich manche Stunde entfernt von jenem Ort,
und immer hör' ich rauschen: du fändest Ruhe dort,
du fändest Ruhe dort!

これだと歌詞は原語なので悪法「音楽著作権法」に縛られずに自分の歌をネット上に公開できる。

歌の相棒とはMendelssohn Duetteから「Gruss」と季節に合わせて「Helbslied」を歌った。一応の出来だったとは思うが、先生と仲間が思っている以上に褒めてくれるのが気味が悪い。でも落ち着いて考えてみると、少なくとも仲間は選曲を褒めてくれていたのだった。

ますますかわいそうな赤福餅

2007-10-19 18:08:06 | Weblog
今回の赤福餅事件に関して、私は《出荷しなかった製品を品質を損なわないように冷凍し、ふたたび出荷する前に解凍して、消費期限をその二日後(これは製造業者の判断で決められる)と設定してもなんの問題もない。》という判断に基づき、今後表示方法を適切にするならば、今回のことは大目に見てもいいのではないかと思った。そして売れ残った赤福餅が《多くの仲間と焼却炉に投げ込まれる運命にあるそうだ》ということで、「赤福餅の気持ち」を大いに分かってあげようではないかとまで主張したのである。

朝日朝刊(10月19日)によると「赤福」は当初の調べに対し「店頭に並べた商品は消却処分しており、再利用していた事実はない」と説明していたにもかかわらず、売れ残った商品を餅とあんに分離して「むきあん」を他の和菓子会社に売り、「むき餅」の一部を原材料として再利用していたとのことである。

「捨てるともったいないからなんとか再利用する」との精神は大いに買うものの、消費者にその事実を公表せずに結果的に騙したことになる。しかも事件発覚後も嘘の説明をしていた。「赤福」は人々の信頼を回復するチャンスを自ら抛棄したことになり、厳しい前途を招き寄せたことになる。「赤福餅の気持ち」を作り主こそ分かってあげるべきだった。

企業からやって来た研究生

2007-10-18 22:01:34 | 学問・教育・研究
かれこれ半世紀前、私が院生だった頃の話である。ある日研究室に研究生が入ってきた。その頃としては珍しく酵素の工業的利用に取り組んでいる地元の中堅会社からの派遣であった。ある酵素を精製してその性質を調べ、また反応機構を明らかにするのが目的であったと思う。研究生といっても年格好は40歳代の、それも後半ではなかっただろうか、私にとっては立派なおじさんであった。

このおじさん、KKさんと呼ぶが、が来て大異変が起こった。朝、研究室に足を踏み入れるとなにかが違う。板張りの床が綺麗に掃き清められていたのである。それだけではない、セミナー室と呼んでいた大部屋の真ん中に据えられた大テーブルの上も、ふだんならごろごろ転がっている飲んだ後の、また煙草の吸い殻を突っ込んだままの湯飲みなどが見あたらない。みな綺麗に洗われて納まるところに収められていた。朝7時台に研究室にやってくるKKさんの仕業であった。

私たちは夜が遅い分、朝も来るのが遅い。綺麗に片付けられた部屋に入ると、もうKKさんは仕事を始めている。これがくり返されているうちに、なんだか落ち着かない気分になってきた。人生の大先輩に掃除などをして貰うのが気がかりになって、どうも落ち着かないのである。止めて欲しいというわけにもいかず、結局私たち若い者が相談して当番制みたいなことにして誰かが早く来ては掃除するようになった。濡れ新聞をちぎって床にまき箒で集める。人によっては薬缶から直に水を撒いたりした。

工場での作業衣を着たKKさんの働きぶりには無駄が見えないというか、研究室にいる間は息抜きをすることなく絶えず体を動かしている。予定をこなすとさっと工場に帰る、そのような勤勉で効率的な仕事ぶりがとても印象的だった。この精勤ぶりを私たちは真似をしようとはせずに、やっぱり会社勤めは大変、これでは研究室から離れるわけにはいかないなと思ったものである。KKさんが研究室で過ごした期間がどれぐらいであったものか、私の記憶は定かでない。研究の完成にかなりに日時を費やされたように思うが、いずれにせよ目出度く論文博士が誕生した。

今でも大学に研究生制度は生きているのだろうか。なかなか融通の利く制度であったと思う。受け入れ側さえうんと云えば、それなりの授業料は払わないといけないが、大学院のややこしい入学試験を受けなくても研究室に所属出来て、一定の条件を満たせば博士号の取得が可能であった。KKさんが研究室に来るに当たって、企業側が酵素精製の技術の習得を期待したのか、それともそれまでの貢献に学位をとらせようとしたのか、その経緯は知らないが、外部に対して開かれた大学として大いに機能した制度であったと思う。

地方自治体のとある研究所からの研究生もいた。私と同い年ということもあって、後に彼の結婚披露宴で私が司会を勤めるほど親しくなったKSさんは、なかなかユニークな途を歩んだ。学位を得た後に米国に留学したが、帰国後は大手化学繊維メーカーの研究所に移り、日本におけるインターフェロン研究の牽引車となり、その医薬品化に大きく貢献した。そして、為すべきことを成し遂げては、はやばやと天国に旅立ってしまった。

製造会社に就職して会社に慣れ親しんでから、再び研究生として舞い戻ってきた先輩卒業生もいた。会社から女子薬科大学卒の才媛を研究補助員(身分上は研究生?)としてつけて貰ってである。もちろん他の大学からも院生のままか研究生としてやって来た人も数々おり、私たちは居ながらにして大学外からの人々との交流が生まれ、いろいろと得るところが多かった。恩師OK先生の当然と考えておられた門戸開放主義によるものであったのだと思う。

KKさんが学位を受けて数年後にその息子さんが卒業実験で研究室に入ってきた。確か修士課程を終えて大手の薬品会社に就職したと思う。会社が大きすぎたせいかどうか、その後博士の学位のために派遣されて・・・という話は耳に入ってこなかった。

大学院制度抜本的改革私案 不要な院生をつくらないためにも

2007-10-16 14:02:54 | 学問・教育・研究
私の大学院制度抜本的改革私案の大きな狙いは二つ、将来社会の需要を上回る博士を作らないこと、それと企業の求めるマンパワー育成に「企業のただ乗り」をやめさせることである。

「企業のただ乗り」とはなにか、それをまず説明する。

修士の企業への就職は今や定着しているが、現行制度では学生一人一人が自分の意思で大学院修士課程に進むことを決め、授業料を払い、奨学金という借金を自ら背負い、またさらなる国費をも費やし、大卒より少しだけ箔をつけて企業に採用される。この2年間の教育経費はすべて学生個人の負担であるし、細かいことをいえば、大学院で過ごした年数は厚生年金などの算定にマイナス要因となり、その分、個人負担も増えるというものだ。学生側では『よりよい会社』に就職するための投資と割り切ってきたことだろうが、修士を採用する企業側にすれば修士の『付加価値』をただで手に入れたことになる。これが私の云う「企業のただ乗り」である。

その昔、大きな企業では自社の工員を独自の養成工制度で育成したものである。私の中学の同級生でもよく出来たのに経済的事情などから、地元の三菱や川崎などの養成工の途を選んだものが何人もいた。採用後、一人前の働き手となるべくその企業で教育訓練を行うのである。養成工上がりは現場でのエリートで、なかには労働組合の幹部になったものもいた。昔は養成工でよかったけれど、今や修士も戦力として企業が欲しいというのであれば、それを自前で育てるべきなのである。といっても企業に大学院を作らせるのではない。大卒を採用し、そのなかから企業が選別した社員を費用全額負担で大学院に送り込むのである。社員だから給料を貰うのは当然のこと、『勤勉手当』を増額して貰ってもいい。授業料を始めとする学費はすべて企業持ち、さらには社員を受け入れた研究室にそれ相応の研究費を寄付するのである。もちろん必要な税制処置を前提とする。

大学院の方でも企業から送り込まれた「社員院生」は原則として無試験で受け入れることにする。もちろん年齢性別関係なしである。受け入れに先立ち、「社員院生」一人一人の教育・訓練内容のプログラムを企業、本人、大学院の三者で相談して決める。そのプログラムに従って、「社員院生」が一つの研究室に留まるか、場合によっては1年ごともしくは半年ごとに研究室を移り歩くことになるのか、まったく自由にすればよい。教員によっては教えるだけで自分の手足に使えないのならかえって足手まといだから、と受け入れを拒否するのもまた自由である。とにかく企業が修士を戦力として本心から必要とするのなら、この私案が一番現実的であろう。これで国も大幅に国費を浮かせることになる。浮いた分は以下に述べる関連目的に転用するのであって、国が召し上げては困る。

これでお分かり頂けるように、私の「改革私案」では修士課程を企業戦士養成コースに模様替えをすることになる。企業に就職するのか、研究人生を選ぶのかを大学卒業の時点で学生は決断することになる。これを修士(企業)コースと名付けよう。このコースへの入学資格は企業からの派遣者に限定するのである。これでモラトリウム院生の発生する余地はなく、国費の節約になる。

大学院にはこの修士(企業)コースに加えて博士(学者)コースを設ける。大学人後継者の育成のためのもので、4年なり5年の一貫教育訓練システムで、このコース修了者には博士の学位を与える。定員はアカデミック・ポストを充たす程度にすればよいから、現在の定員から大幅に減ることになる。入試ではきめ細かい資質試験を行い、合格者には将来のアカデミック・ポストが保証されていることを自覚させるのである。国費を必要とする院生数が大幅に減るから、授業料を免除するのは当たり前として、生活費も支給すればよい。ちなみに防衛大学校では学生は国家公務員の身分で、学費は無料、給与は月額106,700円、年2回の期末手当が年額約380,000円支給されている(Wikipedia)。

私の「改革私案」で困る人が必ず出て来る。最近では「敬老の日」に歌舞伎役者と大学教授をくらべるとで取り上げたが、私がかねてから問題視している『実験をしない教授』『論文に名を連ねる資格のない教授』などである。いつからか精進を怠り、自ら実験が出来なくなった研究者が頼りにするのが院生であった。その院生が激減するかいなくなる。博士は制度的には皆就職であるからポスドク制度は必ずしも必要でなくなる。院生がいなくなると手足がもぎ取られることになるからと大恐慌を来すかも知れない。しかしちょっと待って欲しい。

私はこの抜本的改革には研究補助員、いわゆるテクニシャン制度の確立が不可欠だと考える。医師の医療行為に看護師・准看護師、臨床検査技師を始めとするいわゆる「コ・メディカルスタッフ」(和製英語)が必要不可欠であるのと同じく、研究者には器具洗いのような単純作業から、時代の最先端の技術を使いこなせる研究補助員が必要である。もちろん自分一人でやるのは自由であるが、支援スタッフに支えられて本当の研究大好き人間は心置きなく自分の研究を推し進めることができる。大学付属病院ではこのような「コ・メディカルスタッフ」を正規職員としているように、大学で研究補助員を正規職員とするのである。職員の定員増加はすんなりといかないだろうが、助教以上、研究費で研究補助員を雇用することから出発して、実績を重ねた研究補助員を正規職員と採用するなど、それなりの智恵を働かせばよいと思う。要はテクニシャン代わりの院生を、研究補助員で置き換えるわけである。

大学院制度の抜本的改革はきわめて重要な課題であるので、この提案はあくまでも素案に過ぎない。しかし企業が本当に優れた人材を必要とするのであれば、お金を出すかわりに口を出せるので、企業の意図に適った人材育成が可能になるはずである。大学院教育には口を出すより金を出せばと合わせて読んでいただければと思う。もし企業が博士レベルの人材を必要とするのであれば、「社員修士」を費用全額負担で博士(学者)コースに送り込める制度を補助的に作ればよい。





赤福餅がかわいそう

2007-10-14 14:59:38 | Weblog
赤福餅が受難である。

《 創業300年の餅菓子の老舗(しにせ)「赤福」(三重県伊勢市)が商品の「赤福餅」の消費期限を偽って表示、販売していたとして、農林水産省は12日、日本農林規格(JAS)法に基づき、改善を指示した。赤福は出荷しなかった商品の包装をはがして冷凍保存し、解凍した日を改めて製造日と偽り、再包装して消費期限を改ざんしていた。同様の手法で長期にわたって消費期限の偽装は続けられていたという。JAS法は原材料名を質量の多い順に記載するよう義務づけている。同省は、赤福が原材料名を「小豆、もち米、砂糖」の順に記載していたが、実際は砂糖の質量が最も多かった。同省はこの点でも改善を指示した。同省によると、赤福は、いったん包装した商品を冷凍保存させて、再包装する手法を「まき直し」と呼び、日常的に消費期限を改ざんしていたという。改ざんは少なくとも04年9月からの3年間で総出荷量の18%にあたる605万4459箱に上るという。》(asahi.com 2007年10月12日)

またか、と思う。マスメディアの「赤福」叩きである。そして

《赤福(三重県伊勢市)が商品の「赤福餅」の製造日を偽装した問題で、同社は13日から製造・販売部門の従業員ら約360人を自宅待機にした。本社には問題が発覚した12日から「商品をこのまま食べて大丈夫か」「返品したい」などと苦情が殺到し、社員が24時間態勢で対応。本店などは休業を続けている。》(asahi.com 2007年10月14日07時51分)とのこと、いつもと変わらぬ報道スタイルである。ついでに、いつもながらasahi.comの記事は紛らわしい。上記のオレンジ文字の部分はこの報道の趣旨なら「消費期限」を「製造日」としないといけない。

確かにJAS法は原材料名を重量の多い順に記載するよう義務づけている。元来「砂糖 小豆、もち米」とすべきところ「小豆、もち米、砂糖」としていた。「きまり」に背いたことはまずいが、「決められたとおりにちゃんと表示してくださいよ」「はい、分かりました」で済む話である。

問題は「製造日」の偽装と報道される部分である。赤福ではその日に作って出荷しなかったものを冷凍保存し、後日解凍して出荷した日を「製造日」としたとのことである。Google画像から赤福餅を探してみると、包装紙に次のようなスタンプの押されていることが分かる。



これでは「謹製」に騙されたと世間の人が思うのも無理はない。しかしそれも考えようでは本質的な問題にはならないと私は思う。

たとえば冷凍マグロであるが、これは普通は-40℃~-50℃で長期保存されている。そうでもしなければ日本から遙か離れた遠い漁場から持って帰れるはずがない。消費者の手に渡る前に解凍されて、その日から消費期限の設定されるのが普通であろう。

赤福餅も同じように考えてもよい。出荷しなかった製品を品質を損なわないように冷凍し、ふたたび出荷する前に解凍して、消費期限をその二日後(これは製造業者の判断で決められる)と設定してもなんの問題もない。時事通信社によると製造日の偽装が34年前から行われていたということだ。またここ3年間に総出荷量の18%が製造日の偽装が行われていたにもかかわらず、品質に関してのクレームが問題にならなかったことは、品質が冷凍・解凍によっても確保されていたことの証明にもなる。

私も過去何回となく赤福餅を食べたことがあるが、あのどちらかと言えば水気たっぷりのやわらかい赤福餅を、冷凍・解凍を経ているにも拘わらず製造時と同じかそれに近い状態に戻しているのが事実なら、私は過去の経験に照らしてこれは大した技術だと高く評価するぐらいである。この技術を製品の製造・出荷調整に積極的に使うと、売れ残りの製品を無駄に廃棄するというもったいないことを最小限に抑えることができる。企業はこのような智恵をこそ大切にすべきである。

1995年3月までは「製造年月日」を表示することになっていたが、1995年4月から「消費期限」「賞味期限」の2種類に切り替えられることになった。早く傷みやすいものについては「消費期限」でこれは5日未満、5日を超えると「賞味期限」となる。それこそ冷凍保存の技術の進歩とか輸送手段の効率化で、製造日を問題にするよりは美味しく頂ける目標日時を製造者に明示させるのが狙いであった。

だから今回の赤福餅騒動は、表示しなくてもよい「製造年月日」を「19. 2. 2 謹製」のようなスタンプをわざわざ押したことが「偽装」の口実を与えたことになる。これは明らかに状況判断を誤った赤福側の手落ちであるが、消費者に対して実質的な損害を与えるものではない。「赤福」も凍結・解凍を常時のプロセスとして、解凍・出荷日を基準にして「消費期限」を定め、この期限だけを表示しておれば今回のような問題は起こらなかったはずだ。

かわいそうなのは赤福餅である。自分には何の罪もないのに、こうなるとやたらに張り切るマスメディアに煽られて、たまたま悪い時期に巡り合ったばかりに、多くの仲間と焼却炉に投げ込まれる運命にあるそうだ。この短絡的行動にも私は人間の傲慢さを見てしまう。「りんごの唄」ではないが「りんごの気持ち」を分かる人もいるように、「赤福餅の気持ち」を大いに分かってあげようではないか。