日々是好日

身辺雑記です。今昔あれこれ思い出の記も。ご用とお急ぎでない方はどうぞ・・・。

靖国神社は国営化して宮司に皇族も一案

2006-07-30 17:28:15 | 社会・政治
A級戦犯、広田元首相の遺族 「靖国合祀合意してない」 (朝日新聞) - goo ニュース

国のために命を捧げた英霊の鎮魂を国が司るのは当然のことである。そのための施設として靖国神社があった。この新聞記事からも読み取れるように戦前・戦中の実態ははっきりしていた。

《靖国神社の合祀の審査は戦前、神社を所管する陸海軍省が行ったが、戦後は宗教法人となった神社に決定権が移り、旧厚生省や各都道府県に照会した戦死者らの資料に基づき判断した。審査の過程で遺族の合意を得ることはなく、過去には太平洋戦争で戦死した台湾先住民の遺族らが「無断で祀るのは民族の意思に反する」として合祀取り下げを求めたが、神社側は「神として祀った霊を分けることはできない」と断っている。》

ややこしくなったのは戦後である。元来国が所管すべきことを、それなりの経緯があったにせよ、一宗教法人に移管してしまった。私はこれは誤った戦後処理であったと思う。やはり国が所管するのが筋であろう。

私は靖国問題を自分で考えはじめて最初にぶつかった疑問は、その祭神がどのようにして選ばれるのであろうか、ということであった。

この記事では神社が決定権を握っていることになっている。しかし祭神の選別を一宗教法人が行うこと自体、極めて僭越である。元来国が行うべきことを一宗教法人に『丸投げ』とはいかにも便宜的である。

ここまで書き擱筆している間に、昨日(7月29日)の朝刊に次のような記事が現れた。

靖国合祀、国主導の原案 「神社が決定」に変更 (朝日新聞) - goo ニュース

この記事では《戦没者の靖国神社への合祀(ごうし)をめぐり、旧厚生省が1956年2月の時点で、合祀者は国が決定するなど国主導で合祀事務を実施するとの要綱原案をまとめていた》とのことで、それなりに筋が通っていると私は思う。しかしこのやりかたでは《新憲法の政教分離原則に触れる疑いが濃く、2カ月後にできた要綱では、神社が合祀者を決め、国は照会に応じるものと変更された》のだそうである。

『新憲法の政教分離原則に触れる疑い』のために、現実には国の行政機関が合祀予定者の選定に尽力をしながらも、最終決定は靖国神社が行うという『辻褄合わせ』をしたのが真相なんだろうか。

日本国憲法に次のような条項がある。

「第20条 信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。
2 何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。
3 国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。」

しかし、靖国神社に英霊を祀ることは『宗教的活動』なのだろうか。

もともと政治をまつりごと(祭り事)をいうぐらいだから、『英霊の鎮魂』のために英霊をまつることは、政治的行為であると割り切ればそれでいいのではないか。ましてや『英霊の顕彰』は政治的行為そのものである。アメリカのような新興国には無縁のことであるが、日本のような『長寿国』では、かって祭祀と政治が密接な関係にあり、だからこそ政治を「まつりごと」とよんだのである。祭祀権の継承が政治権力を掌握する重要な条件であり、少なくとも古代日本では天皇家がその担い手であったのである。

なるほど明治維新後、明治天皇の詔勅にもある「神祇を尊び、祭祀を重んじるは、皇国の大典、政教の基本なり」の精神に則り、新政府の基礎は政教一致にあった。そして国家神道が明治維新後第二次大戦の敗戦にいたるまで国家的イデオロギーのよりどころとなっていた。天皇が神話的祖先である天照大神から万世一系の血統を継ぐ神の子孫であり、自ら現御神(あきつみかみ)である。また日本は特別に神の保護を受けて神国である。さらに日本は世界を救済する使命があり、他国への進出は聖戦としての意味を持つ、等々がこの教義の基本であった。今時のアメリカやアラブ諸国の先駆けである。

第二次大戦の戦勝国アメリカが最も恐れたのは軍事大国日本の復活であり、その精神的支柱であるとみた国家神道の廃止をはやばやと指令した。昭和20年12月15日に出された「国教分離指令」で「国家神道」は「日本政府の法令に依って宗派神道或いは教派神道と区別されたる神道の一派即ち国家神道乃至神社神道として一般に知られたる非宗教的なる国家的祭祀として類別されたる神道の一派(国家神道或いは神社神道)」として定義されている。

この定義の私が赤字で強調したところで明らかなように、国家神道を宗教と占領軍はみなしていなかった。彼らにしてみれば国家神道なるものは現代風に云えばカルトの一種で、キリスト教などと同列に並べられ宗教とはほど遠いものだったのであろう。占領軍にとって国家的祭祀は宗教ではなく政治(まつりごと)なのであった。

ところで『国家的祭祀』が宗教ではないことを最初に明確にしたのは占領軍ではなくて、実は明治政府なのである。大日本帝国憲法の発布(明治22年)で信教の自由が規定されたが、その際に仏教・キリスト教はもちろん教派神道は別として、国家としての祭祀は宗教ではないと言う見解を明治政府はとっているのである。明治維新以降日本が戦争に負けた後も一貫して『国家的祭祀』が宗教であったことはないのである

靖国神社に個人がどのような思いで参拝するかは全く個人の自由である。しかし公人が参拝するとなると過去の『国家的祭祀』の流れで、これを政治的行為と受け取られても仕方がない面がある。それに対して公人が『宗教的行為』であることを強調するのは、日本の歴史の流れに無知であることをさらけ出すだけのことである。

結論を急ぐと、私は靖国神社を国営化すべきであると考える。それが本来あるべき姿なのである。もともと国家的祭祀の場であった靖国神社での行事は非宗教的なものであり、靖国神社の国営化は日本国憲法の『政教分離の原則』と抵触するなものではない。

靖国神社国営化の暁には皇族が宮司に就くのも一案である。社号の「靖国」とは天皇の国家を安んずる意とか、特に今度の大戦での戦没者は天皇の御為に国に殉じたのである。戦争責任の一端を担う天皇家が、その行動により思いをいたすに恰好の機会になるのではなかろうか。

参考:「国史大辞典」(吉川弘文館)

一弦琴「浮世草」のお浚い

2006-07-30 11:53:57 | 一弦琴
一弦琴「浮世草」を思い出しながら久しぶりに唄ったのはほぼ十日前である。録音を聞き返すと正直なところヘタである。ヘタであることが分かる分だけ習い始めからは進歩したのだろう。と、自分を勇気づけてしばらくお浚いを繰り返してきたが、今回の出来映えはどうだろう。

一つはしっとり感が少しは変わるかも知れないと思い調弦を変えてみた。

また息づかいも変えた。と言うよりこれは歌い方と関係してくるが、ふだん出来るだけ声量を上げる歌い方をついついしてしまう。というのも、年一回能楽堂で催されるの発表会てのマイク無しの独演をイメージするからである。すると息が続かないものだから、どこか適当なところで息継ぎをしないといけない。が、それを意識するとかなか歌に集中できない。しかし一弦琴の音色はもともと弱々しいもので、それを奏でながら一人静かに座敷で唄うのが筋というものである。そのつもりで唄うと途中の息継ぎを気にすることなく、歌の心を素直に表現できるような気がする。

お師匠さんに始めて稽古を付けていただいたときからかなり時間が経っていたので、ところどころの歌い方の特徴は記憶に残っているが、それを忠実に再現する自信はない。とするとつい譜面を頼りにする。ところが譜面通りに演奏すると記憶とは明らかにことなる演奏になるところが結構ある。たとえば、この曲の終わルところの前回の演奏は記憶を頼ったもので、今回のはやや譜に忠実な歌い方である。元来は両方が一致して欲しいのだが、なかなかこちらの注文通りにはいかないのが悩みの種でもある。

これをお師匠さんの前で唄えば手厳しく直されるような気がするので、ここで隠れ唄い。浮世なりけり、である。

追記 お浚いを重ねているうちに、自分なりのイメージが形づくられていくように思う。これは今日の出来上がりである。(8月3日)

『パロマ器事故』に使用者の心得をおもう

2006-07-26 18:27:55 | 社会・政治
パロマ中毒死、修理が不具合原因か (朝日新聞) - goo ニュース

問題になっているパロマ工業の半密閉式瞬間湯沸器は、燃焼用の空気を屋内から取り入れて、燃焼排ガスを排気筒で屋外へ排出する設計で、有効に換気が行われていれば問題はない。何らかの不都合により排気ファンが働かなくなると、安全装置が働いて燃焼器へのガスの供給が遮断され、炎は消えてしまうことになっている。

従って排気ファンが正常に働いていたら、安全装置の出番はない。排気ファンが止まった場合にこそ安全装置の出番がある。

この問題でマスメディアは安全装置の『不正改造』に報道の焦点を当てているが、事故の直接の引き金になりうる排気ファンが正常に働いていたのかどうか、その検証が乏しい。
上の記事によると、上嶋さんの住んでいた《アパートは68年に建てられた3階建て。事故が起きた湯沸かし器は20年前ごろに設置されたらしい。湯沸かし器はパロマの委託業者が90年に修理したとみられるが、その後に修理・改造されたかどうかについては分かっていないという》。

なんと湯沸かし器は20年前ごろに設置された年代物である。ガスを燃やすのだから結構高温に曝される部分もあるだろうし、金属部分も酸化されて、もしこれがガスの通過するパイプなどであれば器壁も薄くなるだろう。要するに器具の経年劣化は必然的に進行している。よくぞ20年間も働いてくれたものである。排気ファンも20年間の年月、よく回ってくれたものだ。私の常識では明らかに耐用年数が超えているから、もし自分で使い続けるなら、それなりの注意を十分に払うだろうと思うが、耐用年数に対する一般の認識はどのようなものなんだろう。

90年代に修理されたとあるが、もしこれがいわゆる『不正改造』で、その後なんら手が加えられていないとすると、この器具は少なくとも『不正改造』後の15年間は一応問題なく動いていたことになる。それとも、なにか異常を再々入居者が感じてはいたが特に手を打たなかったのだろうか。

さらに私が不思議に思うのは、上嶋さんの事故が起こったときの状況である。朝日は19日の記事で《上嶋さん方では、以前から湯が十分に熱くならず、上嶋さんが室内の異臭や頭痛を訴えるなどの兆候がみられたという》と報じている。それよりなにより、上嶋さんが死亡した事故で、《直前に上嶋さんの兄(25)が湯沸かし器で風呂に湯を張ろうとしたが、水のまま温まらないなど不完全燃焼の兆候があったことが分かった。》そして現に上嶋さんの兄はそのあと病院に50日間も入院していたのだという。

これだけ異常な徴候があったのにもかかわらず、上嶋さんは湯沸かし器の不調を疑わなかったのだろうか。そして7月20日付の産経によると、《排気ファンのコンセントが抜け、湯沸かし器が稼働してガスが2時間以上放出されていたことを示す屋外のガスメーターが点滅》というのである。

排気ファンのコンセントが抜け、というのは正に異常である。どうしてコンセントがぬけたのだろう。それとも誰かが抜いたのだろうか。

排気ファンも使い続けていると『がた』が来て、回っているときの音が大きくて五月蠅くなっていたのだろうか。それでコンセントを抜いたのかも知れない。もしこのコンセントが一本しかないのなら、このコンセントを抜くことで安全装置がたとえ正常でも動かなくなるのではないだろうか。

コンセントが外れていたために排気ファンも働かず、もちろん安全装置も働かなくて不完全燃焼が起こり、一酸化炭素中毒を繰り返して引き起こしていたと考えると、以前からなぜトラブルがあったのかが分かるような気がする。

いずれにせよ、20年もののガス湯沸かし器を「もったいない」と思って使うこと自体、決して悪いことではないが、年代物であることの危険性を、使用者は同時に脳裏に焼き付けておくのが肝心である。さらに、このような器具の正しい使用法を心がけるのは、近隣にも被害を拡大させないための社会人の義務であろう。そして何か異常を感じたときには直ちに最善の対策を考える。この当たり前のことを使用者が心がけていると、被害も最小限に止まったのではなかろうか。

製造メーカー、修理業者、アパートの所有者・管理人、それぞれの責任が明らかになったとしても、自分の命が失われてからでは意味がない。この際、自分のしなければならないこと、出来ることなどを改めて確認してみてはどうだろう。

『パロマ器事故』のどこにメーカー責任があるのか?

2006-07-23 16:21:44 | 社会・政治
パロマ器事故、改造「単純作業で可能」 安全装置働かず (朝日新聞) - goo ニュース

これはパロマ工業のガス瞬間湯沸かし器による一酸化炭素ガス中毒死事故が最初に報じられた頃のニュースである。その事故は次のように説明されている。

《経済産業省やパロマによると、事故は(1)排気ファンがきちんと動かず(2)その場合に作動するはずの安全装置も働かなかった。このため、湯沸かし器から一酸化炭素が室内に充満して起きたとされる。》

そしてその原因は次のように報道されている。

《パロマが原因として強調するのは安全装置が作動しなかった点だ。同社は15日、以前から把握している事故は6件ではなく7件だったと説明を変えたが、いずれも不正改造が施され、安全装置が機能を失っていたとしている。》

パロマ工業は製品自体の問題ではなくて、『不正改造』こそが事故原因であると強調した。ではなぜこの『不正改造』がなされたのかについて、《パロマは14日の記者会見で、「耐用年数を超えた機器を延命するためではないか」と指摘した》とのことであった。

しかし朝日新聞は《改造による危険は極めて大きい。何のために危険を冒したのかは、まだはっきりしない。》とも報じている。

その後、マスメディアは『不正改造』まずありき、を大きく伝えたが、何のための『不正改造』であるのか、それが私にはひとつピンとこなかった。誰がどのような利益をうるのだろうか、とも勘ぐってみた。

そのうちに『不正改造』というのは安全装置の働きを抑えるもので、ではなぜ安全装置の働きを抑えないといけないのか、そのような改造が行われた理由が次第に分かってきた。

パロマ製湯沸かし器の安全装置は、排気ファンなどの異常を感知した際に本体への電流を止めて作動しないようにする役割を持つ、とのことである。その結果、上の新聞記事からは明らかではないが、ガスの供給が遮断されるのだろう。

○「安全装置が利き過ぎてすぐお湯が出なくなる」→ だから『不正改造』して安全装置をバイパスする。
○「パロマの(事故機の一つの)PH-101Fなどはクレームが多かった。修理にはコントロールボックスの交換が必要だったが、パロマの製造が間に合わず改造で急場をしのいでいた」→ 『不正改造』して安全装置をバイパス。
○「パロマ工業(名古屋市)製の瞬間湯沸かし器による死亡事故が相次いだ問題で、複数の修理業者が、警視庁捜査1課の調べに、安全装置と連動する「コントロールボックス」(制御装置)の構造上の問題点を指摘する証言」
○「コントロールボックス内の基板異常で、湯沸かし器が正常に作動しなくなっていたのを、端子を針金でつなぐなどしてガスが止まらないよう改造されていた」
○「コントロールボックス内のはんだ割れが多い」「耐用年数が短い」

そして『不正改造』の発端を示唆するもととして、7月20日付の読売新聞に次のような報道がある。

《パロマ工業製の瞬間湯沸かし器で一酸化炭素(CO)中毒による死亡事故が相次いだ問題で、販売会社のパロマが1980年代、修理を手掛ける「パロマサービスショップ」に、安全装置に連動する「コントロールボックス」(制御装置)を通さずに配線する不正改造を促す文書を配布していたことが20日、警視庁捜査1課の調べでわかった。》

これで浮かび上がった事故につながる出来事の連鎖は次のように考えられる。

『基盤異常、もしくは経年変化による安全装置の不具合』 → 『安全装置をパロマが十分に確保していなかった、もしくは費用節約?』 → 『応急処置?としての不正改造』 → 『換気が不十分』 → 『安全装置が働かずに事故』

このように整理すると、『不正改造』を引き起こしたそもそもの原因は、安全装置の基盤異常ということになりそうだが、それがメーカーの責任かとはまだ即断できない。もしその基盤異常というのが『はんだ割れ』のことを指すのであれば、経年変化の疑いもありうる。メーカーの責任を取り上げる前に『基盤異常』の詳細が明らかにされなければならない。

ところで上にまとめた出来事の連鎖は、実は新聞などに報道されたことを寄せ集めて、あたかも因果関係があるかのように並べたに過ぎない。ある特定の事故についての因果関係ではない。

これまでメーカー側の対応に問題がありそうなのが、上記の7月20日付の読売新聞が報道したことである。しかし、一方、すでに7月16日付の朝日新聞が《(パロマは)88年には「事故が発生すれば責任を問われる」として、不正改造の禁止を全国の営業所に通達した。》との記事を載せている。時系列的には読売新聞の報じる出来事のあとのことと見るのが素直であろう。従って『不正改造』がどのような状況下でなされたのか、こごのケースで明らかにされないことには、『不正改造』へのメーカーの関与を結論することはできない。

現時点でもしメーカーの製造責任を問うとすれば、『不正改造』を許すような製品を作ったことが悪い、ということになるのだろうか。しかし事柄はそれほど単純なものではない。事故死に至るまでの過程がすべての事故に共通ではないからだ。確かに事故に対するメーカーの責任はそれなりに追及しないといけないが、一方、自分が事故の犠牲者にならないために、自分で注意しなければならないことがあるように思うのである。

つづく

『昭和天皇靖国発言メモ』の怪

2006-07-21 17:59:00 | 社会・政治
私が目にしているのは朝日新聞2006年7月20日の夕刊である。それと同日の正午、午後7時と午後9時のNHKニュース、以上が『富田メモ』に関する私のニュースソースである。

このニュースに接して私の最初の反応は、なぜこの時期に昭和天皇の『靖国発言メモ』がでてきたのだろう、という疑問であった。

NHKニュースだけを見たらNHKのスクープだと思うし、朝日新聞だけを見たら朝日の大スクープだと思ってしまう。どのような経緯でこの『富田メモ』が舞台に登場したのか、その経緯が一切語られていないからだ。となると『富田メモ』を発見した主体はこのメモの存在を報じたNHKもしくは朝日新聞だとつい思ってしまうのだが、本当のところはどうなんだろう。

と思っていたら、NIKKEI NETの記事が目に止まった。

《昭和天皇、A級戦犯靖国合祀に不快感・元宮内庁長官が発言メモ
昭和天皇が1988年、靖国神社のA級戦犯合祀(ごうし)に強い不快感を示し、「だから私はあれ以来参拝していない。それが私の心だ」と、当時の宮内庁長官、富田朝彦氏(故人)に語っていたことが19日、日本経済新聞が入手した富田氏のメモで分かった。昭和天皇は1978年のA級戦犯合祀以降、参拝しなかったが、理由は明らかにしていなかった。昭和天皇の闘病生活などに関する記述もあり、史料としての歴史的価値も高い。 (07:00)》

この強調部分から察するに、どうもこれは日本経済新聞のスクープ記事らしい。それをマスメディア各社が慌てて追っかけたのだろう。NHK、朝日新聞が口を濁すのもよく分かる。ところがこの『富田メモ』に関しては私には分からないことだらけで、知りたいことが山ほどある。

①『富田メモ』の所有者は誰なのか。
②『富田メモ』に問題の昭和天皇ご発言のあることを、誰が何時どのような状況で見付けたのか。
③日本経済新聞はこの『昭和天皇靖国発言メモ』をそのようにして入手したのだろう。『入手』を私の大好き『新明解さん』は「価値の有る物を、自分の物にすること」と説明している。日本経済新聞はこのメモの所有者に大金を支払って購入したのだろうか。
④朝日新聞夕刊には半藤一利氏の「メモや日記の一部を見ましたが、メモは手帳にびっしり張ってあった」との発言が掲載されている。手帳に直接に書き込まずにメモが手帳に張られている、というのはどうも不自然に感じるが、この件にかんして何か合理的な説明があるのだろうか。
⑤メモは88年4月28日付と報じられているが、メモの筆跡とかインクとか、要するにメモを特徴づけるものが、この日付と矛盾しないことが科学的に確認されているのだろうか。
⑥昭和天皇は誰に向かってこの発言をされたのだろうか。当時の富田朝彦宮内庁長官に言われたのだろうか。4月28日と言えば昭和天皇御誕生日の前日である。なにか特別のイベントでもあって、このようなご発言になったのだろうか。富田長官以外に同席者はいなかったのだろうか。
⑦天皇のこのご発言は靖国参拝を最後にされた75年11月より10年以上経っているが、その10年間、この問題に関して昭和天皇はひたすら沈黙されていたのだろうか。
⑧昔から言われていることは天皇こそが公(おおやけ)なのである。『新明解さん』も「もと天子・朝廷の意」と説明しているぐらいである。四六時中公である天皇に接する人ももちろん公ごとを共にしていることになる。ということは国家公務員である富田長官は職業上知り得た秘密をそのメモに記していたことになるるのであって、それを公の同意なしに公表したことは、公務員の『守秘義務』に触れるのではないのか。

しかし最大の疑問は、メモから引用した下記の内容が、確かに昭和天皇のご発言だろうか、ということである。

《「私は或(あ)る時に、A級(戦犯)が合祀され その上 松岡、白取(原文のまま)までもが 筑波は慎重に対処してくれたと聞いたが」
「松平の子の今の宮司がどう考えたのか 易々(やすやす)と 松平は平和に強い考(え)があったと思うのに 親の心子知らずと思っている」
「だから私(は)あれ以来参拝していない それが私の心だ」》

私にはこのご発言自体がどうもしっくりこないのである。帝王らしからぬお振る舞いであるからだ。帝王学を学ばれた昭和天皇が「あれ以来参拝していない それが私の心だ」なんて言い訳めいた発言をされるのだろうか。

ひょっとすると昭和天皇と『A級戦犯』との特別な関わりが関係しているのだろうか。

二・二六事件の際、昭和天皇の反応は素早かった。本庄侍従武官長の日記にお言葉が残されている。

「朕が股肱の老臣を殺戮す。かくのごとき凶暴の将校らは、その精神においても何の恕すべきものありや」
「朕がもっとも信頼せる老臣をことごとく斃すは、真綿にて朕が首を締むるにひとしき行為なり」

A級戦犯こそかっては昭和天皇の股肱の臣であったのである。天皇の目線で見るA級戦犯は、国民の目線で見るA級戦犯とは明らかに異なっているはずである。そのA級戦犯が靖国神社に合祀されることで、もし昭和天皇が何らかのこだわりを感じられたとするなら、それは昭和天皇が国民の目線をもお持ちであったからではなかろうか。そうすると靖国参拝もままならない。厄介なことを松平宮司はしてくれたものよ、と思われたのかもしれない。

しかし、たとえそうであろうと、靖国参拝を中止されたことで昭和天皇は忸怩たる思いを持たれており、それがつい『愚痴』としてもれたのだろうか。

『富田メモ』の信憑性は今後厳しく検証されるべきであると思う。じっくり時間をかければいいのであって、今更大騒ぎすることでもあるまい。

なぜこの時期に昭和天皇の『靖国発言メモ』がでてきたのだろう?

2006-07-20 17:13:03 | 社会・政治
昭和天皇「私はあれ以来参拝していない」 A級戦犯合祀 (朝日新聞) - goo ニュース

お昼のNHKニュースで、昭和天皇がなぜ靖国神社への参拝をされなくなったのか、そのご発言を記した『富田メモ』の内容が紹介されていた。もちろん新聞各社もそれを夕刊で報じた。

《【北京19日傍示文昭】中国を訪れている日本遺族会会長の古賀誠・自民党元幹事長は19日、北京で中国共産党対外連絡部の王家瑞部長と会談し、日中関係冷却化の最大の要因となっている靖国神社問題について意見を交換した。王部長は、古賀氏が提唱しているA級戦犯の分祀(ぶんし)論について「注目し、期待しており、日本国内で受け入れられるのであれば良い方向だ」と述べ、期待感を表明した。》(西日本新聞)のニュースが報じられた、その直後である。

なぜこの時期に『富田メモ』がタイミング良くマスメディアに登場したのか、その経緯をこそ私は知りたい。この経緯を調べて報道するマスメディアこそ『国民の知る権利』を真剣に考え行動する真のプロというものだ。

『靖国神社問題』に関してこれまで私が考えてきたことを、その都度このブログに書き連ねてきた。それを時間順に並べたのが下のリストである。そして辿り着いた私なりの結論は⑦に述べている。その要点は『A級戦犯の分祀』である。しかしこの問題は、これまで日本人が避けてきたことであるが、日本を敗戦に陥れた『戦争責任者の断罪』を避けて通るわけにはいかないであろう。われわれ日本人の正しい歴史認識にも通じる道である。



①私の『靖国神社』問題 ― 知らないことだらけ

②私の『靖国神社』問題 ― 英霊は納得しているのか

③天皇、皇后両陛下のサイパン島ご訪問と私の私の『靖国神社』問題

④私の『靖国神社』問題 ― 『A級戦犯』を『犯罪人』とは思えないが・・・

⑤私の『靖国神社』問題 ― 東条英機元首相の心の内は?

⑥私の『靖国神社』問題 ― 天皇陛下にお伺いするしか・・

⑦私の『靖国神社』問題 - 後藤田正晴さんと多くの共通点

⑧首相なんぞお呼びでない靖国神社

子育てに悩めるお母さんにお勧め 藤原てい著「流れる星は生きている」

2006-07-19 19:18:22 | 読書

著者の藤原ていさんは、「国家の品格」などの警世の書で、今、時めいている藤原正彦氏のお母さんである。私も北朝鮮からの引き揚げ者なので、引き揚げに関する書物には深い関心があり、もちろんこの本も出版間もない頃に読んでいると思う。先日立ち寄った三宮のジュンク堂に藤原正彦氏のコーナーがあり、そこで目にとまったこの文庫本をもう一度読みたくなって買った。1976年2月10日初版発行、2006年6月5日改版9刷発行と奥付にある。

昭和20年8月10日の早朝、満州国新京の観象台の官舎をていさんは三人の子供を連れて後にした。上から数え年で六歳、三歳、そして一ヶ月である。最初の連絡があって3時間の余裕しかなかった。これが昭和21年9月12日に博多港に上陸するまでの、一年あまりになる『引揚げ行』の始まりである。

藤原ていさんの連れ合いは作家の新田次郎氏、でもそのころは観象台の勤務で、公の仕事に携わっているいたことなどが妨げとなって、かなり長い間、家族から離ればなれになっていた。だからていさん一人が三人の幼い子供の面倒を見なければならなかった。そして数多の紆余曲折を経ながら過酷な状況をくぐり抜けて、三人の子供を無事日本に連れて帰ったという、まことに奇蹟の物語である。

この本を再読して、何百万人もの引揚げ者がいるなかで、このような記録を残した藤原ていさんは希有の存在なんだと改めて思った。私の両親は引き揚げにまつわる話はほとんどしなかった。私が聞いた覚えがあるのは、鉄原から京城に逃げ帰ったときにアメリカ軍の戦車に乗せて貰ったこと(私にはこの記憶はぜんぜんない)と釜山の埠頭でDDTを吹っ掛けられたことぐらいである。

文庫本の「あとがき」で《いつの間にか、私共夫婦の間には「引揚げの話」は、禁句になってしまった。》と書かれているので、「引揚げの話」を封印してしまった引揚げ者が多いことは容易に考えられる。話をするだけでもそうであるのに、それを本にまとめたのだから、ていさんにはよほど強固な動機があったのだろう。

著者はこのように述べている。

《引揚げてきてから、私は長い間、病床にいた。それは死との隣り合わせのような日々だったけれども、その頃、三人の子供に遺書を書いた。口には出してなかなか言えないことだけれども、私が死んだ後、彼らが人生の岐路に立ったとき、また、苦しみのどん底に落ちたとき、お前たちのお母さんは、そのような苦難の中を、歯をくいしばって生き抜いたのだということを教えてやりたかった。そして祈るような気持ちで書きつづけた。
 しかし、それは遺書にはならなかった。私が生きる力を得たからである。それがこの本になった。》

「国家の品格」もいいけれど(実は私はそれなりの理由があって読んでいないが)、その著者正彦氏を生み育んだ母親ていさんの土性骨を、子育て真っ盛りの悩み多き若いお母さん方にぜひこの本から学び取ってい頂けたらと思う。

ここで因縁話を一つすると、私の弟が正彦氏と同じ昭和18年生まれで、私は弟を背負って引揚げて来たのである。その頃は『母』のみならず『少年』も強かったと思う。正彦氏につい『弟』を感じてしまい「負うた子に教えられる」にはまだ早いとばかりに、「国家の品格」も遠ざけているのかもしれない。

藍川由美さんと歌う日本語の歌「悲しい酒」

2006-07-18 20:55:53 | My Song
日本の伝統的な歌唱法とは何か。藍川由美著『「演歌」のススメ』の中に、山田耕筰の解説を引用しているので、そのまま拝借する。

《強弱に就いて見れば、洋楽の場合には、上昇する場合に多く漸強を用ひ、その反対に、下降時には漸弱を採る。しかし日本的歌唱法は全くその逆である。邦楽の歌唱に注意すればこの行き方は直ちに感得できる。長唄、常磐津、浄瑠璃、清元、新内はもとより俚謡、民謡の唄ひ方にもこの方法が用ひられてゐる。それは恐らく、日本語そのものの特性が要求するのであらう。》

音階が上がるにつれて軽くぬける、そのためには常にリラックスしておらねばならない。そうするとコブシのような細かい節回しを自由にこなせる。これは歌い方になるが、このようにリラックスしていると日本語の発声も無理なくできるのであろう。

私はかねてから藍川由美さんの日本語発声を真似したいと心がけているが、なかなか近づくことすら大変である。それでもリラックスを心がけてゆとりをもって歌うと、新たな地平線が開けてくるような心地がする。美空ひばりが歌ったあの名曲「悲しい酒」をまずは藍川さんと歌ってみた。

日本語の歌を歌うのに何が必要か

2006-07-17 12:15:18 | 音楽・美術
時間にゆとりが出来てからヴォイストレーニングを学び始めて、もう六、七年になる。これは洋楽である。一方、一弦琴も同じ年月ぐらい習っている。これは弾き語りが主である。

一人の人間が歌を歌う以上、洋楽であれ邦楽(純正!)であれ、日本語であれば同じ発声になるのが一番自然である。その発声の上に歌い方が重なってくる。洋楽のつもりで一弦琴で唄うと、お師匠さんに「歌ってはいけません」と言われてしまう。ではどうすればいいか。それを懇切丁寧に教えていただけるといいのだが、「真似ること」と言われたら、これは正論であるだけに逆らいようもなく、「はい」と引き下がってしまう。

ところが洋楽でも日本語の歌をどう歌えばいいのか、これが大きな問題のようである。

もう亡くなったが、音楽学者であった小泉文夫氏はこのようなことを言っておられる。
「私は何回か日本のオペラを見にいったことがありますが、そのほとんどは、もう絶望的な状態です。といいますのはだいたいベルカントの発声法(イタリアの歌唱法)で日本語の歌を歌うということ自体がたいへんむずかしいことなのです。日本語とベルカントの発声というのは合わないものだというその科学的認識をもっと肝に銘じて、声楽家あるいは作曲家は考えていかなくてはならないのに、いつまでたっても西洋のテクニックを土台として日本語の歌を歌おうとしています」(團伊玖磨+小泉文夫『日本音楽の再発見』講談社現代新書462から。以下の引用も同じ)

これは私のような素人にもよく分かる。ヴォイストレーニングでは確かに発声法は教わってきたが、それはイタリアのカンツォーネを歌うための訓練であったと私は理解している。日本語をどのように発声するかは残念ながら教わってこなかった。それもその筈、専門家のあいだでも日本の歌の声をどう作るかが大問題になっているのである。

なぜ大問題になるのか。

團伊玖磨氏はこういっている。
「声楽家の間にも、従来の西洋の発声に、口ではいわなくてもからだのなかで不満が起こっているのですよ。日本の歌曲を歌うのにベルカント唱法ではおかしい。そのおかしさが最近(本の出版は昭和51年)わかるようにはなってきたのですね。そこで日本の歌を歌う発声がなければならないことから、小泉さんに講演をお願いにもあがるわけでしょう。しかしその人たちの間違いは発声というものはたんなる技術だとかんがえていることです

話はよくわかるが、だんだんと難しくなる。たんなる技術でないとすれば、なにが問題になるのだろう。少し長いが團伊玖磨氏の引用が続く。

発声ということは自分の表現のために、おのずから始めからあるべきものであって、なにを歌いたいからこの発声にしましょうというのは順序が反対です。ところがベルカント唱法で歌ってみて変だから、じゃ、こういう発声にしようかというような、安易な技術と考える人がおおいのですよ、発声というものは、もっとその国の言葉、生活環境、風土、思想、あるいは民族の骨格、そういうあらゆることが加わってできてきたものなんですからね

嬉しいじゃないですか。私が直感的に感じたこと、すなわち上に述べた《一人の人間が歌を歌う以上、洋楽であれ邦楽(純正!)であれ、日本語であれば同じ発声になるのが一番自然》という考えが的はずれでないことを、ちゃんと裏付けてくださっているのである。

でも具体的にはどうすればいいのか、團伊玖磨氏はヒントを下さっている。
「隣の中国では現代の歌を歌うときにも西洋の発声はしないですよ。中国の発声をしている。フランスやドイツで勉強した人たちはたくさんいるにもかかわらず、フランス発声、ドイツ発声はしない。国境を越えたとたんに中国人にもどるのですね。そして中国の発声から客観的に西洋の発声を見ながら、新しい発声をつくろうとしている。そうしてできたものがまだ不完全なものであっても、そこに将来があるとぼくは思います」

では『日本の歌の声をどうつくるか』、ここでお二人は森進一と布施明を例に引く。

團「歌の世界の常識では、森進一という人の声は常識外のものでしょう。クラシックの発声から見たら、彼の声は八十五パーセント息が漏れている。(中略)
邦楽のなかには、西洋音楽からみたら奇怪ともいえる発声がありましょう。しかしそこに日本人が永年培ってきた声の美学が存在しているわけだから、そういったものと森進一の声とが続いているかもしれない(後略)」

小泉「森進一の歌い方は、義太夫とか新内のテクニックですね。それが開き直って出て来た(後略)」

お二人のウマが合うというのか、ノリノリになってくる。

小泉「藤山一郎さんや四家文子さんかが流行歌をうたっていたころは、上野の音楽学校(現在の東京芸術大学)で正統派の声楽を習った人が、非常に遠慮しながら、しかしいい声で歌う。それがあのころの大衆の憧れでもあったのですね。それが淡谷のり子、美空ひばりといった人たちが出てくるに及んで、だんだん大胆になり、大衆の趣味がおくめんもなくというか堂々と人前に姿を現すようになり、さらにそれが感動的なものに成長していったわけですね。なにに成長したかというと、それが新内や義太夫といった古いものであった。布施明の歌い方にもそういうものがあります」

團「森進一もそうですね。聞いてみると低く感じますが、ピアノのキーで探ってみると「襟裳岬」のいちばん高いところは加線一本のAフラットで、これは素人では出ません。でもあの人の新内風の発声は下の方に共鳴音が多くある関係で、低く聞こえるのです」

小泉「布施明の歌も聞いた感じでは普通の音域で歌っているように聞こえるけれども、実は高い音を出していて、真似て歌おうとしてもできませんね。しかしそれが浄瑠璃の太夫さんの歌うのを聞くのと同じ体験を与えてくれる。声のテクニックが、ふるわせかたからなにから、ほんとうに清元によく似ている。布施明はおそらく清元なんて勉強していないだろうし、彼の歌を作曲した人やレコードを売り出した人たちが清元のファンであるとはちょっと考えられない。ところが出て来たものは江戸時代あるいはそれ以前からの伝統につながっている」

まさに歌の『先祖返り』である。

昨日佐藤千夜子と歌っていて、私はお師匠さんと差し向かいで一弦琴のお稽古をつけて貰っているような錯覚をふと覚えた。というのも、佐藤千夜子の歌がお師匠さんの唄声に感じが凄く似ていたからである。

佐藤千夜子はそれこそ上野の音楽学校で音楽教育をちゃんと受けている。しかしその頃の付け焼き刃的な教育法では、彼女の身体に染みついていた邦楽感性を追っ払うには力不足であったのだろう。しかし、彼女の唱法に満たされないものがあったのも事実である。

これから私の進むべき道はどこにあるのか。森進一、布施明を乗り越えたらいいのである。洋楽であれ邦楽であれ、私が歌う以上は『それっぽく』を意識する必要はない。その流儀でいえば『私らしく』歌えることを目指せばいいのである。言うは易く行うは難し、だからこそ精進のしがいがあるというものだ。