道を歩いていたら「オークション 代理出産」の幟が目に入ってドキッとした。が、よく見ると「代理出品」、ヤレヤレと胸をなで下ろした。私はわが国においては代理出産を禁止すべきだと考えている。ところが根津八紘医師が閉経後の50代女性が娘夫婦の受精卵で妊娠、代理出産したと発表するに及んで、なんだか政府周辺の動きが怪しくなってきた。
厚生労働省は2003年の専門部会で「罰則付きで禁止するべき」とした報告書をまとめたが、法制化するに至らず今日に経っている。ところが《柳沢伯夫厚生労働相は17日の閣議後の記者会見で、「代理出産を支持する世論も見られるようになってきた、政府全体で世論を慎重に見極めながら検討していきたい」と表明した。厚労省の専門部会は3年前「罰則付きで禁止すべき」との報告書をまとめているが、その見直しも含め、国としての方向性やルールを再検討する考えだ。》(Nikkei net)とか《塩崎恭久官房長官は16日の記者会見で、代理出産について「大変重要な問題であり、少子化時代のなかでぜひ関係省庁で検討していくべきではないか」と述べ、法整備も含めて検討を急ぐ必要があるとの認識を示した。》(Nikkei Net)などと報じられに及んで、何か結論先にありけり、のようは雲行きになりそうである。塩崎官房長官の発言に至っては噴飯もの、少子化が代理出産でどうなるとでも云うのか。卵をせっせと産んでいる養鶏場の鶏を連想しているのでもあろうか。
一方、法的拘束力はないものの、代理出産を禁じていた日本産科婦人科学会が、《代理出産の是非などは学会が結論づけるレベルを超えているとして「国としての早急な対応が望まれる」とするコメントを発表した。 》(Nikkei Net)一歩退いた形になっている。
2003年の「罰則付きで禁止するべき」とした報告書がありながら、3年間無為に時間が流れた今、何故あらためて代理出産の是非を検討しなければならないのか、私は釈然としないが、その是非を議論することには異議はない。人間という存在の根幹に関わる問題であるから、国民が議論に参加すればするほど良いと考える。
私の基本的な考えは《原因が何であれ、女性に妊娠能力が欠けている場合は、受胎を諦めるしか仕方がないのではないか。世の中には諦めなければならないことが山ほどある。そのうちの一つなのだ。自分が受胎できないからと云って代理出産に依存するのは、欲望を野放ししているようなものだ。いかなる欲望であれ、それを理性で制御するのが人間としての証ではないのか》にある。代理出産に反対の立場である。
朝日新聞10月21日の朝刊に「どうみる代理出産」との特集記事が出た。渦中の人物である根津八紘医師も寄稿しているので、これを賛成側の代表意見としよう。その冒頭に一つの考えがはっきりと現れている。
《熱心に不妊治療に取り組む医師の多くが行き着くところが、卵子や精子がない、子宮がないという、いわば「不可能」の領域だ。それでも子を持ちたい人を前に医師はどうするか。日本産科婦人科学会(日産婦)が禁じているからといって、目を背けるのでは、患者に尽くせなかったと、私の心が救われない。》
患者の要望がある以上、「不可能」をも「可能」にするべく全力を尽くす、それが医師の本分である、と仰っているのである。私もこの職業倫理観そのものは理解できる。しかしそれに先立つ患者の要望そのものを私は問題視しているのである。
患者の要望に応える、まさに医師はそうあって欲しい。患者の要望が『ことの始まり』なのである。「子供が欲しい」というのは夫婦間の問題であり、子供を持つ持たないは夫婦が決めること、医師と雖も介入の余地がない。だからといって『患者の要望』がオールマイティかと云えば、それはないだろうというのが私の立場なのである。
私たちがこの世にいったん生をうけた以上、時には「生んでくれと頼んだわけではない」と両親に憎まれ口を叩くことがあっても、自分の存在そのものを運命と受け入れて人生を誠実に生き抜いていくのである。この地球に生命が誕生して34億年、気の遠くなるような長い年月にわたって、生物は『自然の摂理』にしたがって誕生と死を繰り返してきた。人間の誕生と死もその延長線上にあり、われわれはその悠久の流れに身を委ねている安堵感が命を支えている。
代理出産は『自然の摂理』に適ったものではない。人間の思い上がった小手先細工なのである。
生体臓器移植の場合、臓器のドナーとレシピエントは共にこの世に生を受けている人間である。臓器移植はその両者の合意により、それも緊急の場合に限ってなされる医療行為である。それに較べて、代理出産はこの世に新たな生命を作り出そうとするもので、臓器移植とは根本的に異なる行為なのである。もちろん作り出されようとする新たな生命体が同意したわけでもなんでもない。代理出産子は、それと知れば、自分の存在そのものを『自然の摂理』として納得することの出来ない人為的な作品なのである。
私は不妊治療そのものに反対しているのではない。子供を切望する夫婦のために医師が可能な限りの手助けをする、当然のことである。しかし手助けの範囲が問題なのであって、母胎は実質的な婚姻関係にある男女の女性に限定すべきである。これがギリギリの『自然の摂理』だからである。代理出産により誕生した生命は、あれやこれやの手だてを尽くして、無理矢理作られたものにほかならない。
無限の欲望に歯止めをかけるべく、「そんない欲しがるもんじゃありません」とたしなめるべき立場にある娘の母親が代理母になる。なにをか言わんや、である。『無い物ねだり』をたしなめる、それが健全な社会のありようだろう。『無い物ねだり』の行き着くところが無償の好意を相手に期待する代理出産であり、他人をそれと意識せずに『孵卵器』として使う発想が、人間を道具視する社会を育てていくことになる。
今回の代理出産を手がけた根津医師の側にも問題がある。それは代理出産が通常の医療行為から大きく逸脱しているとの認識が欠如しているからだ。
閉経後の50代女性による代理出産はいわば博打のようなものである。たまたま『出産』に関しては一応成功したのであろうが、これは『人体実験例』が一つ記録されたに過ぎない。これが新薬の開発であるなら動物実験から始まり大規模な臨床試験を経て有効性、安全性などが確認されて始めて実用化される。人体の安全に関して云えば同じこと、元来は新薬開発と同じような高齢女性を対象とした数多くの人体実験データに基づく安全性の確認が必要であるが、誰が考えても分かるように、このような人体実験は不可能である。その意味では根津医師は医師免許証を免罪符としてスタンドプレイを演じたとしか云いようがない。代理出産は単なる医療行為ではないのに、その行為が医師免許証があれば許されるとでも根津医師は思ったのだろうか。代理出産のどの点が単なる医療行為とは異なるのか。
代理出産に伴う最大の難問題は、代理出産子の生誕から死に至るまでの社会との関わり方がまったく未知数であるということだ。代理出産に関わった当事者のある時点での取り決めの有効性からして問題になる。長い年月の間にお互いの気持ちがどのように変わることやら、それは誰にも分からない。子供に事実を伝えるのか伏せるのか、最初の約束がどう変わるか誰にも分からない。不測の事態で代理出産子が自分が無理矢理に作られた事実を知ったときに、どのように自分を納得させていくのか、未知の領域である。代理出産子は生物学的存在であると同時に社会的存在でもあるのだが、とくに後者の側面をも含めた『人体実験』は非現実的で不可能と断じてよいだろう。こればかりはネズミと使った動物実験で代用するわけにはいかない。生物的のみならず、社会的にも無害であることが実証され得ない代理出産、あってはならないことである。
受精卵を子宮内に着床させることで細胞核分裂→細胞分裂が始まり、一個の受精卵が増殖して60兆個の細胞になる現象を、核爆弾の動作原理である『核分裂』に準えてみてはどうだろう。そのとんでもないことを人間が気軽に弄ぶべきではない。