日々是好日

身辺雑記です。今昔あれこれ思い出の記も。ご用とお急ぎでない方はどうぞ・・・。

またまた一弦琴「漁火」

2006-11-30 22:34:51 | 一弦琴
「漁火」を久しぶりに唄ってブログにアップロードしたのが11月16日、それから2週間お浚いを重ねてきた。とにかく弾いてみた、という最初のゆとりのない状態から少しは脱却でき、音楽性もある程度顔をのぞかせてきたように思う。

口幅ったい言い分であるが、音楽をどのように作り上げるか、そのイメージを自分なりにまとめ上げることから、一弦琴の演奏が始まると思う。大きく云えば、オーケストラの指揮者と同じような仕事をしなければならない。その独自の世界を、一枚の板に一本の弦を張っただけの、世の中でもっともシンプルな楽器と、声というもっとも身近な楽器のアンサンブルで作り上げるのだから、なんとも大したものである。

とはいいながら、今のところ「漁火」のイメージの出来は八分で表現は七分足らず。目指す到達点の前途遼遠なのがまたよい。


長岡京市 光明寺の紅葉

2006-11-29 16:40:57 | Weblog

紅葉が素晴らしいとかねて聞き及んでいた洛西の光明寺を、前の土曜日(10月26日)に訪れた。阪急長岡天神駅前からシーズンのせいか臨時バスも出ていて、待つことなくバスに乗れてかれこれ10分余りで到着した。ちょうどお昼時だったので、案内板が目に入った「いっぷく亭」で腹ごしらえをした。

11月初旬から12月初旬にかけては、紅葉期の入山有料期間とのことで、500円の入山料を払った。総門をくぐり、傾斜の緩やかな参道を上っていくと、彩りの異なる両側の紅葉が美しいが、それよりも左手に木立をすかして見える紅葉の方が気にかかる。コースが一方通行になっていて、帰りに通ることになりそうだ。



突き当たりが御影堂である。靴を脱いで上がり、ご本尊を拝んでから回廊づたいに釈迦堂に移る。石庭に心を遊ばせてから外に出る。この先の帰り道が「もみじ参道」で紅葉のトンネルになっている。色のグラデーションが実に美しい。



法然上人が開山第一世で熊谷次郎直実が創建に力を尽くしたとか、この光明寺は由緒あるお寺なのだが、紅葉の見事さに圧倒されて、そちらまで気が回らなかったのが心残りとなった。


有権者を虚仮にした自民党と復党議員11名

2006-11-28 18:26:54 | 社会・政治
郵政反対派12人が復党願 自民、平沼氏受け入れぬ方針(朝日新聞) - goo ニュース

自民党への復党を申請した12名の国会議員のうち、平沼赳夫氏を除く11名が、中川秀直幹事長の求めに応じて誓約書を提出したそうである。《次のことを、自由民主党および有権者に対し誓約いたします。》ということで、誓約は三項目にわたるが、その三つ目が《一 前項の誓約に違反した場合は政治家としての良心に基づき議員を辞職いたします。》なのである。私はこの順番が間違っていると思う。これらの11名の国会議員は、まず議員を辞職するのが筋なのである。

この11名の議員は、去る9月の第44回衆議院議員総選挙では、郵政民営化法案反対を訴えて選挙戦に臨み、選挙区有権者の支援を受けて国会議員として復活したのである。しかし党公認候補に対立して選挙に臨んだことから、自民党の離党勧告を受けて離党した。

ところがこの造反再選議員たちは、第163特別国会で政府が再提出した郵政民営化法案に賛成票を投じることで、今度は有権者に対して造反しているのである。第44回衆議院議員総選挙で郵政民営化法案賛成を訴えた自民党が296議席を、与党の公明党が31議席を獲得して、その合計議席数が衆議院議員定数の3分の2を上まわったことを、「それが民意だ」と、変節の言い訳にしたのである。

この時点で既に11名の造反再選議員は、選挙区有権者の『郵政民営化法案反対』という意思を踏みにじったのであるから、元来はここで議員を辞職するのが筋なのである。『郵政民営化法案反対』を訴えて有権者の支持を得たにもかかわらず、選挙後一ヶ月も経たないうちに有権者を裏切ってしまったからである。

なるほど小選挙区の有権者が、『郵政民営化法案反対』だけでこれらの議員に投票したわけではないかもしれない。これらの議員は地縁を頼りの情にすがっての当選であったかもしれない。しかし郵政民営化法案に関して云えば、それに反対して支持を受けたとみるのが『筋』というものだ。今回あらためて《郵政民営化を含む第44回衆議院総選挙の政権公約2005の実現に邁進し》と誓約するのであれば、先ずは選挙区有権者に信を問うのが筋である。

中川幹事長は、『筋』を通すために、誓約書提出など復党に際して厳しいハードルを設けたと説く。造反再選議員たちが『民意』を免罪符代わりに、特別国会で郵政民営化法案に賛成したのは、ある意味では議員個人のレベルでの話であるから、個人個人が責任を負えばよい。しかし、自民党への復党条件が、造反再選議員の選挙区有権者への裏切りを条件としている以上、これは自民党そのものの意思ということになり、公党としての存在基盤を自ら否定することになる。

中川幹事長が国民のだれもが分かる形で筋を通したいのであれば、造反再選議員に対して、「あなた方は選挙区有権者の意思に反した行動を取ろうとするのだから、まずは選挙民に信を問うのが先決である。そのためには議員を辞職し、あらためて自らの変節の是非を選挙民に仰ぐべきである。復党希望はその後に審議する」と諭すのが筋というものだ。

もしこのまま復党問題がなし崩しに終わってしまうのであれば、有権者を虚仮にする自民党に対して、国民は次の選挙で厳しい判断を下さなければならない。

強い全日本男子バレーチーム

2006-11-27 17:44:57 | Weblog
バレー世界選手権の試合で全日本男子が強い。昨日のチュニジア戦に3-2で勝ち、24年ぶりに世界選手権で8強に入った。

これまで女子バレーは観てきたが、パッとしない男子バレーにはご無沙汰だった。今回は女子に引き続き男子の試合が始まったので、その流れで観だしたところ、女子と違った力強いパワーに見応えを感じた。

エジプト相手の第1戦ではフルセットの末先ず1勝、次の中国にはフルセットまで持ち込んだが最後のセットを13-15で落としてしまった。しかし第3戦のプエルトリコ戦ではセットカウント2-1の後、第4セットではなんとジュースにつぐジュースで、最後は36-34と突き放したのは嬉しくなってしまった。精神力の強さが粘りを生み出したのであろう。これで肩入れ気分一段と高まった。

第4戦にもその勢いが持ち越されて、セットカウント1-1のあと、第3セットはジュースの末27-25で、第4セットも同じ27-25の接戦を制しての勝利となれば、もう全日本男子の試合を見逃すわけにはいかなくなった。第5戦こそポーランドにストレート負けしたが、一方的に抑えられたわけではなく、3点差、1点差まで追いつめていた。

第2次ラウンドの第1戦、対カナダでも1セット目は失ったもののあとは3セットを連勝し、昨日の対チュニジア戦では2セットを連取されたものの、フルセットまで持ち込んでの逆転勝利だからご立派としか云いようがない。これまでの成績は、ルールで第1次ラウンドの対中国、対エジプト戦の結果はカウントされないとのことで、4勝1敗の好成績である。

日本選手でも身長が190cmを超える選手が珍しくなく、もっとも背の高い205cmの斉藤信治選手などは、最高到達点が356cm、すなわち私の身長の倍以上の高さに手が届くのだから恐れ入る。外国選手にくらべて体格的には遜色のないのが嬉しい。ねばり強さをバネに、ぜひ世界のトップを目指して頑張って欲しい。

テレビ観戦をしていると、選手が大写しになることが多い。それはそれでいいのだが、コート全体を真上から撮した映像が、全体の動きをくまなく伝えるのが実にいい。ボールがどのように飛び回っているかが一目に分かって、観戦がとてもスリリングになる。真上からでなくやや斜め、いわゆる鳥瞰図として撮してもらえるとより臨場感が高まることだろう。私の好みでは鳥瞰図と大写しが7:3ぐらいがいいように思う。

それと、これは望んでもまず無視されるだろうが、以前にも取り上げたように、あの大型ソーセージのようなものを打ち鳴らしての「日本コール」は止めて欲しい。威嚇的なスピーカーでの連呼は控えめになったと思うが、対戦相手も同時に応援するのならともかく、応援の全時間が日本チームの応援のみに当てられるのはどう考えてもフェアーではない。せっかく全日本男子がいい成績で勝ち進んできていても、こういう状況下での勝利だと、心から素直に喜べないのである。あおの応援グッズに何か印刷されているので、多分スポンサーの提供かな、と思うが、即刻止めて欲しいものである。

いいプレーには敵味方を問わず惜しみなく拍手を送る。その様な世界に通じるマナーで観戦を楽しめないものだろうか。

35年ものの靴下

2006-11-26 18:08:48 | Weblog

戦後強くなったものの双璧は女と靴下であると云われるが、この靴下とは正確にはナイロン製のストッキングであるらしい。天然素材であった絹に合成繊維が取って代わり、物理的な強度が高まったからであろう。強くなったのは女物のストッキングだけではない。男物の靴下もそうで、素材が丈夫になったのであれば当然のことであろう。

私が今朝はいた靴下は35年ものである。その昔、Sears & Roebuckの店で買った。私が始めて渡米したのは1966年のことで、日本ではようやく名神高速道路が全線開通して間もない頃である。もちろんショッピングセンターなんてハイカラなものはなく、高速道路にせよショッピングセンターにせよ、アメリカで始めて経験させて貰った。郊外のショッピングセンターでSears & Roebuckの大きな店舗に足を踏み入れた時は、だだっ広い店内に商品が溢れかえっているのには圧倒されてしまった覚えがある。

半ダースかひとくくりになった靴下が目に入った。地も厚手で頼りになりそうだし、それに暖かそうである。茶色と黒をそれぞれ買って帰った。アメリカに2年滞在している間、ずーっとこの靴下で過ごした。100%ナイロンだったのか、この靴下は実に丈夫だった。いつまでたってもすり減らない。ガーターもしっかりとしている。日本に帰ってきてからも愛用した。1971年に再渡米した時に、同じタイプの靴下をSears & Roebuckで探し出して何足か持ち帰った。今はいているのはその時の靴下で、足底をすかしてみても、布地が薄くなっているようにはみえない。今でも秋から夏の始まるまで、家ではほとんどこの靴下で過ごしている。もちろん数足を代わる代わるはいているのであるが、それにしてもすでに35年間、へたることなく現役を続けている。

ものを大切に扱うことを子供の頃から叩き込まれた世代の人間として、この靴下は申し分のない出来である。でも私なりにある疑問が生じた。私が5足ほどを順繰りにはいている分には、この靴下はまだ10年そこそこは保ちそうである。でも売る方は大変、ある店員が一度この靴下を私に売ったら、次に買ってもらえるのは約半世紀後、もう定年退職後であろう。これでは商売にならないではないか。

私のような経済音痴でも考えられるようなことに、Sears & Roebuckの担当者も思い当たったのだろうか。1975年にもう一度この靴下を買いに立ち寄ったら、もはや同じタイプの商品は置いていなかった。それでも数足買って帰ったが、混紡になったり編み方が変わったのか、弱くなっていて、適当にへたってくれた。

外出用に靴下を時々買う。足底は簡単に薄くなってくれるし、ガーターのへたばりも早い。消費拡大が日本経済の活性化に欠かせないようなので、ほどほどに協力はしているものの、かくも頑丈な靴下を製造したアメリカ人の愚直さに、私は心からの共感を抱くのである。

舞台の写真撮影で思ったこと

2006-11-23 19:42:22 | Weblog
プロの芸術家が入場料を取って演じる舞台を、観客がカメラやビデオで撮影することは、いろんな利害関係があるので許されていないことぐらいは理解できる。しかし子供がピアノを習っていて、その発表会などで、フラッシュを焚かないとか、周りの人に不快感を与えないとか、それなりの気配りをしながら、親が写真なりビデオを撮影するのは別にいけないこととは思へない。ところがその中間の状況では問題が生じる。

過日、兵庫県立芸術文化センター中ホールで催された「ぐるっぽユーモア」によるオペラ「魔笛」の公演がそうであった。

私のカメラに手ぶれ防止機能があったので、「ぐるっぽユーモア」の以前の公演で、舞台写真をフラッシュを焚かずに撮影したところ、友人の舞台姿が思いのほか綺麗に撮れたので本人に差し上げて喜ばれた。入場料が無料の頃で、学芸会感覚であまり気にせずに写真を撮ったのである。それがきっかけになり、今回も友人に撮影を頼まれたのがことの起こりである。

開演に先立ち、写真撮影や録音はお断りします、とのアナウンスがあった。これは無料会場でもあったことなので、気にせずに撮影することにした。しかし撮影にあたってはそれなりに気を遣ったつもりである。

まず通路側の座席を占めることにする。自由席なので早くから並ばなければならないが、開場1時間前から並んだおかげで確保できた。撮影にはもちろんフラッシュは焚かないし三脚も使わない。座席で中腰になったり左右に身体を動かすようなことはしない。普通の観劇の姿勢のまま撮影する。芸文センターの中ホールは座席の配置が良くできていて、それで十分舞台が見渡せるのである。シャッター音が私の耳にはやけに響くが、周りの人に聞こえないことを願いつつ、静かにシャッターボタンを押す。

ところがこの会場では係員が客席に注意を払っていたとみえて、撮影の最中に「撮影をおやめください」と口頭で注意を受けたのである。注意を受けた以上は私も大人しくその指示に従った。せっかく楽しんでいるのに、その雰囲気を壊したくなかったからである。しかし何故いけないんだろう、と疑問は残った。

「写真(ビデオ)撮影と録音の禁止」が主宰者の「ぐるっぽユーモア」の意思なのだろうかと思い、その後友人に確かめたが、どうもそうではなさそうである。となると芸文センターの意思ということになる。しかし『意思』というほどのはっきりしたものがあるのかどうか、私には見当がつかない。一般的な規則ということで、自動的にそのようにアナウンスすることになっているのかも知れない、と思ったりもする。

一度芸文センター側に理由を聞いてみようとは思ったが、考えてみれば舞台をそのまま素直に楽しめばいいのである。舞台写真を売って生計を立てるわけでもなし、目くじらを立てるには及ばない。来年も「ぐるっぽユーモア」はこのホールで公演することになっているので、その時は写真撮影で周りに気兼ねすることもなく、私はもっぱら舞台を楽しむつもりだ。

それにしても客席で結構フラッシュが光っていた。私がその隣に坐っていたらやはり気になるから、ご遠慮願うように声をかけることと思う。私はこのような気楽な舞台では、フラッシュ使用禁止だけは徹底して、写真撮影を許してもいいように思うが、いかがなものだろうか。

一弦琴 郷愁の音色

2006-11-22 10:54:59 | 一弦琴
昨日(11月21日)は一弦琴のお稽古日で、いつものごとく京都に出かけた。小春日和とかで穏やかな天候が有難い。

習っているのは昭和の曲で 「玉簪花」(ぎぼし)、オリジナルは漢詩で「牡丹」と同じく花崎花崎采えん(王扁に炎)さんの訳詞に山城一水さんが曲をつけたものである。詞の趣というか風情が私にはぴったりとくる。琴の間奏が三味線をつま弾いているように流れるのが面白く、曲全体がとてもお洒落で弾いていて楽しい。それに音域がやや高音側に寄っているので、従来の女性向きの調弦で私も十分唄える。出来たら年内に仕上げたいものである。

10月29日の定期演奏会の紹介記事が、「一弦琴 郷愁の音色」の見出しと、大きな写真入りで地元の京都新聞に掲載されていた。そのコピーお師匠さんにお願いしていただいたが、写真に「優雅なしらべを披露する一弦琴京都山水会のメンバーら(京都市上京区・河村能舞台)」のキャプションが添えられている。「須賀」を演奏したときの舞台だと思う。私も最後列に顔をのぞかせているのがご愛敬である。

ぐるっぽユーモア風オペラ「魔笛」

2006-11-19 16:11:11 | 音楽・美術

一昨日(11月17日)、「ぐるっぽユーモア」第11回定期公演の「魔笛」を、西宮芸文センター中ホールで観劇した。友人が出演することもあって、この年一回の公演を楽しみにしている。

「ぐるっぽユーモア」は素人集団とのことである。オペラを演じるようなグループでありながら、脚本演出の岡崎よしこさん、そしてオーケストラ代わりのピアノ伴奏の加藤英雄さんを除いては、音楽を本職としていない方々の集まりと解していいのだろう。

音楽を本職としている歌手なら、芸文センター中ホールのような舞台に立つことを励みとする人も多かろう。それを素人がやってのけるのだから、それだけでも快挙である。

ぐるっぽユーモア風オペラには不思議な魅力がある。それがどこにあるのか、簡単には表現できない。でも歌い手に話を限ると、もし一人でもプロ顔負けの歌い手がおれば、アマチュアのアマチュアたるところだけを対比的に浮き上がらせるから、全体の調和が崩れてしまう。ところがこのグループでは歌い手それぞれが、ほどほどに上手いのでバランスが取れて、全体でなかなかよいハーモニーを作り出しているのである。

とはいいながら、一応人前で演じるわけだから、それなりのものはある。アマチュアの演じる夜の女王が、第二幕のアリアであのハイF(3点F)を出し切るのには恐れ入って もうそれだけでもOKとか、一方、ザラストロが最低音を出すと、やったね、と一人で頷いたり、自分も参加しているような気分になる。それがまたいい。パミーナは役柄にふさわしい気品のある歌い方に安心感があって、この人と二重唱ができたらな、と思ったりする。タミーノは元来は「テノーレ・リリコ」が演じるが、それににふさわしく、力むことなく軽く明るい声をしていいし、歌も芝居も達者で舞台慣れを感じさせるパパゲーノは、享楽派の存在感を誇示していて、つい同感してしまう。要するに、少々の歌好きなら、同じ目線で舞台を眺めることのできる、それが大きな魅力なのである。

いつも感心させられるのはピアノ伴奏の加藤英雄さんである。始めから終わりまで、ピアノを弾き詰めで、ほとんど休む暇がない。よくぞ指の痙攣も起こさないものだと、ただただ感心する。タミーノが魔笛を吹くとちゃんと笛が鳴る。あれれ、と思ってよく見ると、加藤さんがピアノと直角に右側に置いたエレクトローンだろうか、鍵盤を弾いて笛の音を出しているのである。

モノスタトスはザラストロの奴隷頭でかなりのワルであるはずだが、マザコンのいかれポンチでパミーナに横恋慕する軽薄な男になってしまっていた。岡崎よしこさんが魔法で変身させてしまったのである。役を演じる歌い手に合わせて役柄、状況設定をかなり大胆に変えられているように思う。アマチュアを指導、統率してとにかく舞台を作り上げてしまう情熱のパワーに感心してしまう。

オペラと言えば舞台芸術の中でも一番の金喰いと云われるほどの贅沢なお遊びである。ぐるっぽユーモアの台所事情は知るよしもないが、昨年までは誰でも無料で観劇を楽しめた。素人が自分たちでも楽しみまた大勢の観客を楽しませる、いわば究極の旦那藝で、演じる方にも観る方にもとにかく贅沢なお遊びである。

ぐるっぽユーモアがお遊びから道を踏み外すことなく、何時までもその極致を目指すと同時に、われわれを大いに楽しませていただきたいものである。


一弦琴「漁火」 あるお遊び

2006-11-16 17:38:16 | 一弦琴
「漁火」は一弦琴の名曲である。

  もののふの 八十氏川の
  網代木に いざよふ波の
  音澄みて 影もかすかに
  漁火の あかつきかけて
  汀なる 平等院の 後夜の鐘に
  無明の夢や さめぬらむ

詞は不詳とあるが、万葉集にある柿本人麿の

  もののふの 八十宇治川の 網代木に
    いさよふ波の 行くへ知らずも

が元歌になっているのであろうか。人麿が近江の国から上ってくるときに、宇治川の辺りまでやってきて作った歌である(万葉集 264)。

作曲者は松島有伯で、宮尾登美子著「一絃の糸」に実名で登場する。この小説の主人公、沢村苗の一絃琴の師であった門田宇平(実名)の師範代であり、宇平の没後、苗が師事することになる。盲目で京からのお人という以外に素性が分からないかなりの変人として描かれている。

その教授法はユニークである。「一絃の糸」ではこのようである。

《・・・宇平の塾で、教え方と云えば一曲をいく段かに分け、少しずつ口移しで伝えるのが定石と云うもので、琴譜はあってもそれは家で一人浚えるときの手引き、と云うかたちだったのに、ここでは先ず有伯が歌詞を読み、次に弾いてみせてからすぐそのあと、
「さ、今度はそなたじゃ、今のを自分流に弾いてみなされ」
と早速に促される。師の演奏をうっとりと聞いていた苗はそう急に云われても手も足も出ず、居竦んだ儘琴に触れられもせずいるのを、破れ鐘のような怒声は遠慮会釈もなく苗の頭上に落ちてくる。
「いったいそなたはここへ何しに来られた。私の物真似なら稽古はお断りすると最初から申してある。性根を据えておれば自分なりに弾けぬ事はない筈」》

いつも師匠から「あなたのは○○(私の姓名)流」と注意される私も、有伯の弟子ならひょっとして勤まったのかも知れないと秘かに思うが、それはさておき、この有伯が「漁火」を作曲して苗に伝授する。

苗のモデルは高知系一絃琴を広めた島田勝子(1850-1930)であろうと思う。江戸末期から明治時代にかけて、一絃琴を全国に広めた真鍋豊平(1809-1899)に師事した。「清虚洞一絃琴」の流祖徳弘太(とくひろたいむ)とは相弟子になる。

苗は養女を貰った。小説では稲子で、島田勝子の養女、島田寿子がそのモデルであろう。驚いたことに、その島田寿子が演奏した「漁火」のテープが残っており、それがウエブサイトに公開されていることを、ほんの数日前に知った。

私は何年か前に定例の演奏会でこの曲を演奏したが、同じ曲でありながら演奏の趣が大きくことなる。とくに後半の琴の音が弾んで流れるところに、夢の中、迦陵頻伽の舞を連想した。

「一絃の琴」の考証では、「漁火」は作曲者松島有伯が島田勝子に直伝し、勝子が養女寿子に伝えたことになる。となると「漁火」の演奏はこちらが本家であろう。そこで「清虚洞一絃琴」の流れに連なる身ではあるが、両者を取り混ぜた私流の演奏を試みてみた。至って稚拙で、寿子女史の枯淡にくらべるべきもないが、それだけにこれからの精進のしがいがあるというものだ。

追記(11月20日)
少し稽古を重ねての演奏に昨日差し替えた。稚拙さを僅かでも克服できたかなとおもっている。声がかすれているのは、早くも枯淡の境地に到達したのではなくて、ただ喉を少々傷めているからである。自己採点ではいいところ75点なり。

追記(11月22日)
少しは進歩したかと演奏を差し替え。今度は76点。

核保有論議よりも「非核二原則」の是非を国民に問え

2006-11-14 11:17:47 | 社会・政治
もう一ヶ月前になるが、北朝鮮の核実験に対する制裁論議が持ち上がった時に、私は《北朝鮮に対する『制裁』を本気で考えているのなら、少なくとも日本本土にアメリカの核配備をしないといけない》と自分の考えを述べた。

最悪の事態として北朝鮮からの攻撃を想定した上の話であるが、このようにも述べた。

《私が首相なら直ちに日本本土への核配備をアメリカに要請する。もちろん国内での必要処置、たとえば国会での承認を得た上でのことである。日本への核攻撃を絶対に許してはならない。今こそアメリカの『核の傘』を目に見えるような形で頭上に広げて貰わなければならない。非核三原則、特に核を持ち込ませないなんて云うのは、日本がアメリカの『核の傘』の下にある現実を直視しない自己欺瞞そのものではないか。》

昨夜(11月13日)「たけしのTVタックル」を観ていたら、何人かの論客が日本への核の持ち込みを認める『非核二原則』論を持ち出していた。その根底に私の認識、すなわち《日本がアメリカの『核の傘』の下にある現実を直視しない自己欺瞞》と共通したものがある。

日本が自前で『核兵器』を保有しようとすると、それは日本を現在の北朝鮮と同じ立場に置くことになる。私は現実的であるとは思わない。

核保有論議そのものを私は排除しない。いかなる立場の人であれ、自分の信念に基づいてある事柄を論議したいのなら、公にすればよい。そのことを論議すること自体反対、という意見も含めて、お互いが意見を出し合えばいいのであって、『タブー』があってはならないと思う。

しかし今の今、中川自民党政調会長や麻生外相が持ち出した核保有論議は、行き着くところ非核三原則に抵触することは間違いないのに、その非核三原則は堅持しつつも、と恰好だけはつけている。核保有論議をするためにも非核三原則の論議が先になければならない。安倍自民党なら、非核三原則から『核の持ち込みを認めない』を外した非核二原則の是非を、来る参院選の争点にしても違和感を覚える人は少なかろう。

日本から『核の配備』を要請されたアメリカが、どのように出るのか、それもまた見物である。