昨日(30日)の朝日夕刊に「さよなら『出版の街』 丸善心斎橋店閉店へ」の記事を見た。今日、7月31日で閉店だそうである。2年前に神戸から丸善が姿を消して今度は大阪でも、と一瞬淋しさを感じたが、記事をよく読んでみると9月に新装開店するそごう心斎橋店に現在の1.7倍の面積の新店がオープンするとのことなので安堵した。とはいえ私がかってよく訪れた青春の舞台が一つでも姿を消してしまうのは寂寥感を誘うものである。
手元に一冊の本がある。大きさは16.5 x 25.5 x 7cmで重さは秤量2kgの秤では針が振り切れてしまう。2.5kg前後はあるだろうか、タイトルは「ORGANIC CHEMISTRY BY PAUL KARRER」、有機化学の教科書で約980ページの大冊である。著者のPaul Karrerは1937年に「カロテノイド類、フラビン類およびビタミンA、B2の構造に関する研究」でノーベル化学賞を受賞したチューリッヒ大学教授。原書はドイツ語で書かれたものであるが英語訳も第一版が1938年に出版されて私の手元にあるのは1950年出版の英語第四版である。
この本にお目にかかったのが丸善心斎橋店で書棚に一冊だけ収まっていた。背表紙の一部が赤地になっていてORGANIC CHEMISTRYの文字が浮かび上がっているのが私の目を惹いた。手にとるとどっしりとした重量感と新知識を運んでくれる充実した内容に魅了されてしまった。無性に欲しくなったがおいそれと購入できる値段ではない。それ以来何回か店を訪れてご対面しては無事を確認しつつお金を貯め、ようやく手に入れたときは文字通り欣喜雀躍したものである。書き込みによると1955年2月18日でその後私の座右の一書となった。
大学では何人かの教授が手分けして有機化学の講義を担当していた。そのお一人がアミノ酸の研究で令名高き赤堀四郎先生で躊躇なくその講義を選択した。先輩たちからかねて耳にしていたことであったが、その評判通り講義される声がとても小さい。聞き取るだけで神経を消耗する。そこで先生の目を避けるようにしながらノートを取る代わりに講義をKARRERの本でチェックし始めた。すると当然のことながら『KARRER』のほうが遙かに分かりやすいのである。となるとわざわざ講義に出るまでもないということですっぽかし、それで試験を受けるだけでは失礼だからと単位を取ることを遠慮した。そして有機化学は他の教授の講義も受けることなくひたすら『KARRER』に親しんだのである。
今から思うとその頃の大学はとても自由で必修科目のような定めはなかった。学部に進学した最初のガイダンスで「せっかく生物学科に来たのだから修得した単位が数学ばっかり、なんてことにはならないように」と云われたのが今でも記憶に残っている。だから自分の思いのままに講義を選択できたのである。
大学4年の夏休みに天草にある九州大学の臨海実験所で実習することになった。私の大学の生物学科は戦後創設されたいわばアプレの学科で臨海実験所は他の大学のものを利用させていただいていた。それまでは京都大学の白浜臨海実験所が決まりのようであったが、化学科の学生が工場見学を名目に遠いところまで何泊かの遠征旅行に出かけるのが羨ましく思っていた。そこで級友たちと相談して出来るだけ遠いところ、例えば九州の天草の臨海実験所に行きたいと希望を出しそれが認められたのである。私もその前後あちらこちらを歩き回るべくルックザックを整えたが重さも顧みず『KARRER』をそのなかに忍ばせた。
長崎、熊本、鹿児島、宮崎などを二週間ぐらい歩き回ったが、その間『KARRER』はいつもルックザックに納まっていた。見物に忙しくて本を広げる時間はなかったが、絶えず背中を介して私の肌身に接していたせいで本の中身が私に浸透してしまったようである。その年の秋、大学院の入学試験で有機化学の設問にも自信をもって答えることができた。筆記試験のあとの口頭試問で赤堀先生が「君は有機化学を取っていないのによくできているね」と訝しげに仰ったのに「Karrerの本を何回も勉強しておりますので」と慎ましげにお答えしたものだった。
その後私が大学院に在学中の1960年代はじめに有機化学の教科書「L.F.Fieser,M.Fieser:Textbook of Organic Chemistry」が日本で学生たちから熱狂的に迎えられた。しかしこれはアメリカで流布している本そのものでなく日本で印刷製本されたもので丸善が刊行していた。一般に洋書そのもの値付けがべらぼうに高く学生が気軽に手を出せるものではなかったからそのような便法が取られたのであろう。Amazonを通して、場合によっては定価よりも安く購入できる今からは想像出来ない時代であった。