日々是好日

身辺雑記です。今昔あれこれ思い出の記も。ご用とお急ぎでない方はどうぞ・・・。

戦時中の昭和19年に出版された英語の化学専門書

2007-08-31 12:48:41 | 学問・教育・研究
整理したくてもなかなか捨てきれない本がある。たとえば次のような本である。



この本を広げて撮った写真で、大きさは125×182ミリで400ページほどある。紙質は悪く表紙も中とほとんど変わらない。表表紙には「ACID-BASE INDICATORS」とあり、背表紙には表題の下に「KOLTHOFF AND ROSENBLUM」と著者名が、一番下には「MACMILLAN」と出版社の名前が入っている。そして裏表紙に「REPRINTED IN NIPPON」と印刷されているのが目を引く。もちろん中身は英文で書かれている。

私はかってpH関係の仕事をしたことがある。pH indicators、すなわちpH指示薬を使っての仕事だったので、勉強にと古本屋で買ったのである。最近蔵書を整理していてこの本を手にしたところ、ある面白いことに気づいた。この本の奥付である。



発行が昭和19年1月30日となっている。この二日後の2月1日には《アメリカ軍、マーシャル群島のクェゼリン・ルオット両島に上陸(6日、両島の日本軍守備隊全滅)》し、また2月21日には《東条英機首相兼陸相、参謀総長を兼任(嶋田繁太郎海相が軍令部総長を兼任)、一部に憲法違反の非難がおこる。》(日本史総合年表、吉川弘文館)と云うように、頽勢が顕著になり出した時期である。3月には政府が「決戦非常措置要綱ニ基ク学徒動員実施要綱」を閣議決定し、中等学校生徒以上の全員が工場に配置されるようになっている。

巷ではすでに昭和18年3月10日陸軍記念日の頃から敵性語としてカタカナ英語や英語が追放され、英語教師は肩身の狭い存在になっていた。このような時期に英語版の「ACID-BASE INDICATORS」が300部も発行されたのである。発行者の名前は明記されているが、どのような動機で、またどのような購買対象を想定してこの本の発行を思いついたのだろうか。8月23日に学徒勤労令が公布されたが、大学・高等専門学校2年生以上の理科系学生1000人が辛うじてその適用を免れている。そのうちの何人かでもこの本を手にしていたのだろうか。

「ACID-BASE INDICATORS」は化学の基本的な理論の本で、戦争完遂目的とはおよそ無縁の専門書である。狂気の時代と一口に切り捨てられかねない戦時に、この本の刊行に携わった日本人の心意気を想像して私の心も高揚した。もちろんこの本は今で云う海賊版である。しかし「REPRINTED IN NIPPON」と印刷した日本人の律儀さに、私は自然と微笑んでしまった。

ところで以下は著者のKolthoff博士にまつわるおまけの話である。

大学人の業績で分かりやすいのは発表した論文の数である。分野によって、人によって、たとえば英文の論文以外は認めないとか、数え方にもいろいろあるので同じ基準での比較は難しいが、一応の評価にはなる。量より質、との意見も出て来るだろうが、『天才は多作である』は芸術の世界のみならず、学問の世界にも通用するのではないかと私は思っている。

その多作ということでも有名なのがこのDr. Izaak Maurits Kolthoffなのである。1884年にオランダで生まれ、ユトレヒト大学で薬学を専攻し、1918年に化学での博士号を得ている。1927年にはアメリカミネソタ大学化学科の分析化学の教授になり1962年に引退し、1993年に亡くなった。分析化学の父ともいわれた方で、私の世代で化学を専攻した人なら必ず彼の著した教科書のお世話になっているはずである。

どれぐらい多作かというと1917年から1962年の引退までの間に809編の論文を出している。年平均18編、ということはほぼ20日に1編の割合になる。化学には論文量産者が多いと聞くが、それにしても勤勉である。しかし話はここで終わらない。アメリカでは大学教授は引退後も研究費を獲得しては研究生活を続ける人が多い。彼も引退後、30年にわたってかっての弟子たちと共同で136編の論文を出したというのだから驚く。

このKolthoffの最初の著書が1922年に出版されたドイツ語の「Der Gebrauch von Farbenindikatoren」(Julius Springer, Berlin)で、その後版を重ねて英語にも翻訳された。1937年には英語の増訂版「Acid-Base Indicators」がC. Rosenblumを共著者としてNew YorkのMacmillanから出版され、その『海賊版』が私の手元にあるという次第である。

Kolthoffが指導した大学院生は67人でその多くが学究生活に入って孫弟子、ひ孫弟子を育てているので、Kolthoffが亡くなる1993年までに彼の系譜に連なるPh.D学位保持者が1500人にも達したとのことである。

ついでに紹介すると、Koltohoff博士に優るとも劣らぬ凄い日本人の記事が最近の朝日新聞に出ていた(8月20日)。HO先生のことである。教え子から150人を超える大学教授が生まれて、ひ孫弟子まで含めると1000人を超えるとのことである。

原子力発電所を頑丈に作りすぎるとどうなるのだろう

2007-08-29 12:24:06 | Weblog
裏の擁壁工事の進み具合を眺めるのがこの一月ほど楽しみだったが、一段落した模様である。擁壁は完成して土ももとに戻された。その過程の記録である。


擁壁外側の枠板とその内側の鉄筋作り(8月4日)



擁壁内側の枠板(8月5日)



足場を組んでコンクリートの流し込み(8月8日)



枠板を取り除いてコンクリート壁の出来上がり(8月10日)


 

コンクリート壁の内側に割石を一つ一つ人手で積み上げる。(8月20日)



割石のレベルまで土を戻すと、さらに割石をコンクリート壁に沿って積み上げた。(8月21日)



ほぼ出来上がり(8月24日)その後、さらに土を増やした。


取り壊した古い擁壁はほとんどがコンクリートで、申し訳程度に縦方向の鉄筋がちょろちょろと顔をのぞかせていた。それに較べると新しい擁壁の鉄筋量は段違いである。神戸市基準というのがあって、それに従っているとのことである。工事の人が「これだけ頑丈だと、今度壊すときが大変ですよ」と云っていた。

それで連想したのが原子力発電所である。柏崎刈羽原子力発電所の耐震強度への疑念から、現存の原発の補強に始まり今後ますます堅固な原発の建設ということになるのだろうが、そんな頑丈なものを作ってその先がどうなるのだろう。

私が1971年、アメリカニューヨーク州オルバニーに一時住んでいた頃、週末になると必ずドライブに出かけたが、私の好きなルートの一つがMohawk Trailと呼ばれている沿線が実に風光明媚なルート2であった。そのルート沿いにあるYankee Rowe Nuclear Power Stationという原子力発電所を訪れて見学したことがある。アメリカでは3番目、ニューイングランドでは最初の商用原子力発電所で、1960年に稼働をはじめたが32年後の1992年には完全に稼働を停止している。その後の運命がどうなったのか知らないが、原発の施設もそのまま『凍結』されてしまったのだろうか。

日本の原子力発電所も耐用年数がくれば、いずれは稼働を終える日が来るに違いない。頑丈に作れば作るほど壊すのに費用がかかりすぎて、その頃の日本の体力では放置するより仕方がなくなるのかもしれない。どのような見通しをそれぞれの電力会社が持っているのだろうか、知りたくなった。

Yankee Rowe原発のように山中に作られたものはいずれ樹木に覆われ埋没していくのだろうか。それに引き替え日本の原発は海岸沿いの景色のよいところに作られているようだ。100年後にはどのような姿になっているのだろうか。これが姫路城やノイシュバインシュタイン城のようなものならいくら古くなっても環境客を呼べるが、朽ち果てた原発ではそうもなるまい。

頑丈に作りすぎたものの付けがどう廻ってくるのか、なんとなく気にかかる。

さて防衛大臣は

2007-08-27 08:32:58 | Weblog

安倍改造内閣が今日発足する。すでに閣僚の下馬評に何人かの候補者の名前が挙がってきた。しかし防衛大臣はまだ水面下、姿が見えてこない。そのなか、次期防衛大臣をGoogleで検索すると石波茂氏の名前がトップに出て来た。なんと、私の8月19日のエントリーが274000件のトップにランクされているのである。ますます改造人事の行方から目を離せなくなった。

歌手が大化け そしてキリ・テ・カナワも

2007-08-26 17:35:02 | 音楽・美術
数日前、心斎橋そごう劇場に出かけた。出演者七人が第一部では歌曲、ミュージカル、カンツォーネから、第二部にはアリアを歌うという催しで、私のヴォイストレーニングの先生も出演されたからである。歌を気軽に楽しみつつ応援もして、と云った気持ちであった。300席足らずの劇場はチケット完売とのことで、それだけでも来た甲斐があったというものだ。

この日は不思議な体験をした。第一部でトスティを歌ったソプラノの出来があまりよくない。丁寧に一生懸命歌っているのに声がついていかない。少し痛ましい感じすら覚えた。だから第二部でレオンアカヴァッロのアリアで登場したときも、ああ、あの人、とあまり期待をしていなかった。ところが歌い始めるとアレッと思った。そして歌が進んでいくうちに、だんだんと引き込まれていった。丸で別人のよう、『大化け』しているのである。発声が落ち着いてとても安定感がある。高音もまろやかで美しく伸びる。歌がとても楽しい。エッ、エッと驚きも連続で、歌い終わったときは口の中で小さくブラヴィーと賞賛をおくった。

コンサートのあと歌仲間と軽い食事をとった。私が彼女の『大化け』に驚いたと感想を述べたところ、友人も同じように感じたとのことで、私の一人合点ではなかったようだ。出来不出来にはいろんな要素が絡んでくるから『大化け』の本当の理由は分からないが、第一部ではかなり緊張して思う存分に歌えずに、本人も不出来を覚り、それならと居直ることで本来の力を発揮できたのではなかろうか、と私なりに想像してみた。舞台の上に自ら求めて立とうとするような人が、後ろ向きであるはずがないからである。

そこで思い出したのが、この『大化け』とは意味が違うが、歌手の成長という意味で化けの軌跡を残しているキリ・テ・カナワのことである。「The Young Kiri」という二枚組のCDセット(POCL-1085/6)に1964年から1970年にかけての録音を納められている。



オペラアリアにミュージカルに民謡など、ポピュラーな曲ばかりで楽しく聴けるのではあるが、アレッと思う歌もある。たとえばミュージカルの「すべての山に登れ」などはなんと音程が不安定なのである。それに「私の名はミミ」をはじめとする数々のイタリアオペラのアリアを英語で歌っていることもあって、どうも締まりがない。もちろん声は美しいし時には重い質感の片鱗を覗かせもするが、後年の背筋をゾクッとさせる凄みとはまだ無縁の歌い方である。一口にいえば若さに満ちあふれている分、未完さがそれと分かるように顔を出しているのである。

耳年増もどきで偉そうなことを云ったが、その云いついでにこのCDを声楽に励んでいる音大生に勧めておきたい。あの偉大なキリにしてからこういう時代もあったと知れば、精進に励みがつくのではないかと思うからである。

小池防衛相の動物的嗅覚に脱帽

2007-08-25 18:01:25 | Weblog
なんと卑怯な小池百合子防衛大臣といったり、次期防衛大臣は石波茂氏がいいで、《国家公務員人件費の4割を消費する大自衛隊を率いる防衛大臣として、その器量不足をさらけ出した小池氏もさらばである》とか、少々慎みのない云い方をしたことで忸怩たる思いがあった。

しかし今度は

マスメディアはパキスタン、インド歴訪から帰国した小池百合子防衛相が25日午前、防衛相続投を希望しない考えを表明したと伝えている。沈没船から真っ先に逃げ出すのはネズミとか、27日に発足予定の安倍改造内閣の運命を予知したのか、小池大臣の動物的な嗅覚には文句なしに脱帽である、と持ち上げておく。

大学院はモラトリアム人間の棲息地

2007-08-24 18:20:34 | 学問・教育・研究
昨日(8月23日)の朝日朝刊に「ニュースがわからん! 博士になっても就職難?」との記事が出ていた。世間の人は、博士号をもっているような優秀な人材は、引く手あまたで一流企業への就職も思いのままと想像しているのに、ということの裏返しなのだろうか。大学人の間では昔々から大きな問題となっているのに、である。

ここに過去約半世紀にわたる大学院在学者数の推移図がある(教育再生会議資料から)。S35、すなわち昭和35(1960)年といえばまさに私が大学院博士課程に進学した年なので、この年の博士課程在学者数7429人のうちの一人ということになる。それが46年後の平成18(2006)年に博士課程在学者が75365人というから、ほぼ10倍に増えたことになる。ただ修士課程在学者がもっと高い倍率で増えているから、大学院生全体としては昭和35年の15734人に対して平成18年は261049人で17倍弱の増加率となる。よくもまあ、増えたものである。



一方、博士課程修了者の進路状況について、平成8年から18年までのデータがある(文部科学省データから)。最新のデータで就職率が57.4%というから4割強が失業者となる。一時的な仕事に就いたものにポスドクが含まれるとすると、これは失業者予備軍と考えた方がよいのかも知れない。



このグラフを見る限り、この4割強の失業者が平成11年から毎年恒常的に生まれていることになる。しかしこれだけでは『失業者』の実態が見えてこない。私が博士課程を修了したのは昭和38年であるが、その当時でも教務職員に採用されたのがほぼ1年半後で、助手になったのがさらに半年後であった。すなわち2年遅れで何はともあれ教育職に就いたわけだから、ある年度での『失業者』がたとえば2年後に全員何らかの職を得たとすると、問題になるのはその『浪人期間』の過ごし方ということになる。

これに対して『失業者』が毎年増加していくのであればこれは問題になる。その実情調査があることを期待するが、私はまだ目にしていない。「博士になっても就職難?」と取り沙汰されるのをみると、やはりこの深刻な状況がすでに生まれているということなのだろうか。そして、このあり地獄のようなところに性懲りもなく飛び込んでいく人の心はどうなんだろう。

国としてはかなりの費用をかけて博士を養成したのに、博士の働き場所がないとはこれまたもったいないことである。結果的には博士を作りすぎたことになる。そこでこの朝日の記事によると《文科省は昨年度から、大学などを対象に若手の博士が企業に就職するのを支援する事業を始めた》とのこと、もちろんこの試みがうまく行けばよいが、私はこの泥縄的対処にはあまり期待が持てないと思う。なぜかといえば大学院が「モラトリアム人間」の棲息地になっていて、その付けが廻ってきただけ、と考えるからである。以下に私なりの考えを述べてみるが、もしかしてこの認識から『失業者』問題解決の積極策が生まれるかもしれないと期待もするからである。

小此木啓吾氏の名著「モラトリアム人間の時代」が出版されたのは昭和53年、すでに約30年も経っている。しかし視点の新鮮さは色あせていないと思う。大学生諸君にもぜひ読んで欲しい本である。



たとえば次の文章はどうだろう。

《企業の中では、今の職業を一生の仕事にするかと問われて、イエスと答えない青年が珍しくなくなったし、何を専攻するかときかれて、もうしばらく広くいろいろと勉強してからと答えるのが、大学院生や研究者の一般的風潮になってしまった。形の上では就職しても、その企業職員としての自分を本当の自分とは思わず、本当の自分はもっと別の何かになるべきだ、もっと素晴らしい何かになるはずだ、と思いながら、表面だけは会社の仕事をつつがなくこなし、周囲に無難に同調するタイプのサラリーマン。既に形の上では結婚し、子どもさえできていても、それで本当に自分に身がかたまったと思っていない男女。みんなが、その実人生においてお客さまで、自分が本当の当事者になるのは、何かもっと先ででもあるかのように思っている。》(11ページ)

当事者意識がなかったり当事者になることを嫌い、それぞれの場所でできるだけお客さま的存在であることを望む若者、その後30年を経てますます増加傾向が止まらないのではなかろうか。

このような万年青年的な心性の持ち主を小此木氏は「モラトリアム人間」(猶予期間にある人間)とよんだが、《今や、「モラトリアム人間」は、留年学生、大学院生といった表だった形を取るものだけでなく、(中略)企業組織の管理者、官僚、政治家といった要職にある人々の中にさえも広く潜在し、エーリッヒ・フロムのいう意味での、一つの「社会的性格」になろうとしている。》(12ページ)のである。

ここですでに大学院生が「モラトリアム人間」視されているが、「モラトリアム」とはどういう意味合いで使われているのか。そもそも「モラトリアム」は、青年がオトナ世代から知識・技術を継承する研修=見習い期間として存在するもので、高度の知識・技術の習得が不可欠な専門職の卵では、必然的にこの期間が長くなる。もちろん大学院生がこれに入る。そして《教育者はもちろん、大学にのこる学者、研究者をはじめ、見習い研修期間の長い医師、裁判官は、いずれもこのモラトリアム精神を自分たちの職業意識にすると共に、社会の側も、これらの職業の専門家たちに、その時代・社会における政治状況からの局外中立の自由を認めている。》(15~16ページ)すなわち《一時的に、社会に対する義務と責任の決済を猶予されている》のである。

この一時的と言う言葉が重要な意味を持つ。なぜなら《旧来の社会秩序の中では、このモラトリアムは、一定の年齢に達すると終結するのが当然のきまり》(17ページ)だったからである。これを「古典的モラトリアム心理」と小此木氏は位置付けている。ところがこの「古典的モラトリアム心理」が変貌して「新しいモラトリアム心理」が出現する。それが上記の当事者意識がなかったり当事者になることを嫌い、それぞれの場所でできるだけお客さま的存在であることを望む若者の出現なのである。それを小此木氏はこのように述べている。

本来のモラトリアムは、青年が、社会的現実から一歩距離を置いて、その自我を養い、将来の大成を準備するという明確な目的をもった猶予期間だったのであるが、もはや現代のモラトリアムでは、そのような目的性は希薄化し、本来なら社会的現実と対立するはずの猶予状態そのものが、次第に一つの新しい社会的現実の意味をもつようになった。そして、古典的なモラトリアムの心理そのものの質的な変化があらわれはじめた。》(21ページ)

その質的変化がどのように起こったのかは小此木氏の論考に委ねるとして、古典的な図式ではモラトリアムを終えた青年は《最終的には、職業選択、配偶者の選択、行き方などについて、オトナとしての自己選択を行い、既存社会・組織の中に一定の位置づけを得なければならない。ところが、この最終的な決着、ふんぎりのつかぬ青年たちがふえはじめたのである。》(28ページ)かくして《大学で何回も留年をくり返して卒業を延期し、就職によって特定の社会組織にとりこまれ、サラリーマンとしての自分を限定してしまうことにささやかな抵抗を続ける留年学生。大学院生になって、いつまでも博士論文を書かぬ青年たち》が生まれるのである。

この「新しいモラトリアム心理」を自分たちの生活感情や生き方にしているのが小此木氏の唱えた「モラトリアム人間」であるが、それが既に一世代を経ての現在のフリーター全盛の予見とも云える。そして大学では大学院がこの「モラトリアム人間」の絶好の棲息地になったというのが私の見解なのである。

修士課程を終えて就職する大学院生は、いわば正当なモラトリアムの継承者であるから、ここで取り上げる対象者外となる。私がここで問題にするのは博士課程に進学する大学院生である。この中にかなりの「モラトリアム人間」が紛れ込んでいると私は見る。大学院も世間から懸絶した聖地ではないからである。確かに「モラトリアム人間」の存在がすでに現在社会で普遍的現象ではあるが、それに大学院を棲息地として提供したのは大学側である。

4年間(あるいはもっと)の大学生活を終えた学生にとって、フリーターより恰好のよいのは大学院生である。博士課程まで進めば5年間は猶予期間を延長できる。あわよくば博士号も手にしうる。奨学金の当たりもよくなったし、景気のよい教授につけば返還無用の『給料』にもありつける。頭を使わなくても何をどうすればよいか、すべて指示は与えて貰える。大学院の入学試験なんかチョロいもの、大学ではどう頑張っても無理だった超一流校に、大学院なら滑り込みも夢ではない。とにかく筋金入り「モラトリアム人間」にとって、大学院は天国である。

そういう不埒な「モラトリアム人間」の潜入を阻止するのが元来は大学院教員の使命でもあるのだが、大学院定員を満たすために、また自分の戦力確保のためについつい妥協してしまう。COEプログラムでリーダーが主体となって大学院生に各種の経済的援助を与えられるようになったことが、さらに「モラトリアム人間」の跋扈を許すことになる。リーダーが後始末を自ら行う、もしくは後始末をせずに済むように、最初から策を立てる。この当事者意識をリーダーが持ち合わせていないとすると、リーダー自身の「モラトリアム人間」化を疑った方がよい。

大学院(博士課程)に多くの「モラトリアム人間」が棲息しているとの前提に立つといろいろと見えてくるものがあるし、就職問題を含めていろいろな問題解決に方策の立てようもあるというものだ。ヒントは小此木氏の著書にあるが、その気になれば私の見解をまた述べてみようと思う。最後に、私はそのような「モラトリアム人間」とは無縁の真摯な求道者であると思っておられる多くの大学院生諸氏には、自ら信じる目標を目指してただひたすら邁進していただくことを期待する。



またまた21世紀COEプログラム

2007-08-21 16:19:35 | 学問・教育・研究
京都大学の21世紀COEプログラム「世界を先導する総合的地域研究拠点の形成」の研究成果報告書(以下報告書と略記)に目を通して、私の感じたことなどをこれまで二度にわたって書いてきた。この時に、あまり細かいことに立ち入ってもと思い、草稿からかなりの部分を削除した。その骨子は次のようなものである。

報告書30ページには《FSを活用した臨地教育(オンサイト・エデュケーション)の成果としては、以下のような点があげられる。まず、大学院生と教員が一緒にフィールドワークをおこなうことにより、その現場において、大学院生の研究方法・目的等の不備を直接に指導し、高度な教育を効率的にすすめることができた。》と記されている。「ほんとかな?」という気持ちがあったので、改めて野暮を承知で報告書を見直しFSに対する疑念を述べることにした。

このままに置いておくつもりでいたが、今日のエントリー「機長の姿の見えてこない中華航空炎上事故」を書いたときに、そういえば教員の姿の見えてこない報告書だったな、とこの削除した部分を思い出してしまった。そこで「見ず知らずなのに、ここまで真面目にこの報告書を見てくれる人がいたのか」とリーダー諸氏にちょっぴり手応えを味わっていただければと思い、以下に「教員の姿の見えてこない」話を復活させて続けることにした。


インドネシアには二カ所FSが設けられた。そのうち報告がよりしっかり書かれているインドネシア(ボゴール)でのFSの活用に注目してみた。

《ボゴール・フィールド・ステーション(BFS)は、2003年3月にインドネシア国立ボゴール農科大学(IPB)と交渉を始め、2004年2月に契約締結を終わり、事務室、会議室、実験室を伴ったオフィスとして開設された。事務機器や実験機器の整備はまだ十分されていない。2004年度には、研究対象地域のデジタルマップをコンピュータに組み入れた設備を整備し、ASAFAS、CSEASの学生、教員ばかりでなく、日本の他大学の学生、教員、インドネシアの研究者も利用できる研究、情報交換の場として、より活用を広めていきたいと考えている。》(報告書65ページ)

このボゴールに平成13(2001)年度入学の大学院生KMさん(♀)が以下のような日程で派遣された。
     ①平成16(2004)年 1月7日~3月30日
     ②平成16(2004)年 6月15日~平成17(2005)1月2日 
     ③平成18(2006)年 1月9日~2月4日
     ④平成19(2007)年 1月~2月

先ず最後の④であるが、この21世紀プログラムは平成18年度で終わりの筈だから平成19年の1月~2月というのは幕切れの直前。この期間に《CIFORに研究ベースおいて、インドネシア、東カリマンタン、マリナウ、ロング・プジュンガン、ロング・ブラカ村において、プナン・ブナルイの植物に関する民俗知識の収集と証拠標本の採集を行っている。CIFORでは博士論文の執筆も行っている》(報告書68ページ)のであるが、仮にその通りだとしても、私には幕切れ寸前の駆け込み予算消化のように見えた。

そしてこの「CIFORに研究ベースおいて」の部分が注目に値する。CIFORとはCenter for International Forestry Research(国際林業研究センター)のことで、世界の森林に関する資料・情報が収集されているセンターであり、FSとも近い距離にある。このCIFORでKMさんは博士論文の執筆までも行っているのである。このようにすぐれた研究センターがあるにもかかわらず、わざわざFSを作ったところにFSの『たまり場』的性格が見えてくる。

次に注目したいのは②である。この半年を超える期間にKMさんは《インドネシア、東カリマンタン、マリナウ、ロング・プジュンガン、ロング・ブラカ村において、プナン・ブナルイの植物に関する民俗知識の収集と証拠標本の採集をおこなった》のである。上の④での記述と重なるところがあるものの、この半年間にどの程度現地に出かけ、どれぐらいFSなりCIFORに滞在していたのかは分からない。

『植物に関する民俗知識の収集』を現地住民から直接行ったのか、それとも既にアーカイブ化されているデータベースから収集したのか、どちらなのだろう。『証拠標本の採集』とわざわざ『証拠』を強調しているのはどういう意味だろう。データベースに出ている植物を、実物はこれだ、と示すために採集したということなのだろうか。どのような新しい知見があったのかどうかを含めて、研究報告に記されていることを期待するしかない。

ここで私が問題にするのはKMさんが現地でどのような臨地教育を受けたのか、ということである。

この報告書にKMさんの研究成果が記載されている。内容は口頭発表から出版予定のものまでいろいろであるが、それにしても2002年から2007年の間に和文が17件、英文が7件あり、KMさんが勤勉なうえに極めて優れた能力をお持ちの方のように私には思われた。17件の和文全てと英文4件がKMさんの単独名で発表されているからである。

そこで逆に疑問が持ち上がる。この21世紀COEプログラムの目玉である臨地教育の指導者の姿が見えてこないからである。何故だろう

一つの可能性を想像してみた。人文系の教育者・研究者には個人プレイが基本である。研究とは違うが小説は一人で書くし、評論も一人で書く。研究論文も研究書も単独執筆が当たり前の世界である。もちろん研究仲間の間では意見交換は活発にするだろうが、それは切磋琢磨の場では当たり前のこと。ちょっと院生の相談にのっただけで研究指導をした気になり、論文に臆面もなく名を連ねるのが当たり前とする、一部の自然科学系研究指導者ほど気がせせこましくないのではなかろうか、と。

しかしKMさんは単純に人文系ではなさそうだ。

KMさんの英文報告にethnobotanyなる言葉が出て来る。民族植物学とか伝承民族植物学とかいう意味で、これなら私にもある程度内容が推察可能だ。Wikipedia(英語版)によると、食物、医薬、まじない、化粧、染料、繊維、建物、道具、衣料など、植物が人間社会でどのように利用されてきたのか、また使われているのかを調べる学問のようである。そのためには研究者には植物を同定することから始まり、採取した植物を標本として保存したりする、植物学の基本的な知識・技術が備わっていることが要求される。さらに人類学的研究の下地が必須になる。現地の社会に溶け込むのだからまず言葉が分からないといけない。KMさんが堪能なのは何語なんだろう。そして現地の人々の風俗習慣を学んで理解できなければならない。ということで、人文系と自然科学系が融合しているような学問分野のようである。

このように考えると現地の住人と接触するところから始まり、現地人の生活にも溶け込む所まで実地教育をしてくれる指導者の存在意義は大きい。そして長期間にわたるフィールドでの調査研究では共同行動が欠かせないだろう。それぐらい教育・研究活動に密接にかかわりのある指導者なのに、その存在がKMさんの場合にはっきり見えてこないのは何故なんだろう。その存在に関する一つのヒントは英文報告2件に出て来る共著者の名前である。それぞれ別人であるが、一人は報告書にただ一度顔を出すだけなので無視することにする。

KMさんとここのFSでの滞在期間が重なる教員が一人存在し、それが英文報告のもう一人の共著者MKさん(♂)なのである。彼は《(2004年)3月15~17日の期間に、ワークショップの準備と発表のために出張した》記されている。KMさんの①と若干時期が重なるが、研究指導を行ったとの記述はない。このように少なくともこの報告書からはKMさんの現地調査の状況が研究指導者の存在ともども分からないのである。もちろんKMさんの研究報告を見れば分かることであろうが、ここでは報告書に目を通して感じた疑問を記すだけにした。

これはただの一例であるが「一事が万事」式で考えると、上に引用した《FSを活用した臨地教育(オンサイト・エデュケーション)の成果としては、以下のような点があげられる。まず、大学院生と教員が一緒にフィールドワークをおこなうことにより、その現場において、大学院生の研究方法・目的等の不備を直接に指導し、高度な教育を効率的にすすめることができた。》は単なる作文に過ぎないと云えそうである。

そしてFSの現状はどうなんだろう。もう答えが出ているはずである。後始末がどうなったのか、この報告書からは見えてこないので言及のしようがない。


以上で草稿の復活は終わる。それにしても優秀な学生が集まってくる大学の先生は幸せである。教えなくても学生が勝手に勉強してくれるからである。そういえば現役時代、私もその幸せを噛みしめていた。

機長の姿が見えてこない中華航空炎上事故

2007-08-21 11:07:44 | Weblog
那覇空港に到着したばかりの中華航空機の炎上事故は凄まじいものだった。エンジンから黒煙が出ているところから始まって炎が上がり、やがて爆発を起こして一挙に炎が広がる。懸命の消火活動でようやく鎮火するまでに1時間もかかり、あとには無惨にも破壊し尽くされた機体が残った。

緊急用脱出シュートから乗客らが脱出し完了したのが、大爆発の起こった午前10時35分の1分前というから、全員無事は奇蹟ともいえる。ほんとうによかった。

テレビに釘付けになっていて、一番もどかしく感じたのは、乗客の脱出にいたる経緯が一つも伝わってこないことであった。今日の朝日朝刊でようやくその一部を知ることが出来たが、かなりの混乱があったようだ。

《右翼エンジンからの煙はもう炎に変わっていた。左側の窓の向こうにも火柱が見えた。あっという間に両翼とも炎に包まれていた。「早く下りろ。降りないと危ない!」 それでも乗務員は「大丈夫です、大丈夫です」と繰り返していた。機長からは席を立たないようアナウンスがあった。》

《2、3分後だったと思う。ようやく前方のドアが開いた。足元には脱出用のシュート。乗客はそれぞれの居場所からの近いシュートをめがけて駆けだした。乗務員たちが中国語で「ここから飛び降りて」と叫んでいた。》

私が不審に思うのは機長の姿が見えないことだ。爆発寸前にコックピットの窓から脱出する乗務員の姿があったが、その一人が機長だったのだろうか。それまでの動きが「席を立たないよう」のアナウンス以外に見えてこない。この一連の出来事の中で機長はいったい何をしていたのだろう。

中華航空機が駐機場の41番スポットに到着した午前10時32分、地上の整備士二人が《右側エンジンから燃料が洩れているのを見つけ、操縦席への交信でエンジン停止を要請した。さらに、同エンジンから煙が出ているのを確認、消火装置を作動させることと、緊急脱出を相次いで求めた。》とのことである。整備士からの要請にしたがって機長が初めて緊急脱出の指示を出したようである。

事故原因の本格的調査はこれからであるが、燃料漏れの直接原因とともに、何時機長が気付いていたのか、が問題になると思う。計器類が正常に働いていたとすると、整備員からの連絡で燃料漏れを初めて知ったとは考えにくいからである。一歩まかり間違えれば大惨事になりかねなかっただけに、機長の姿の見えてこない背景が気になった。

大阪市立東洋陶磁美術館特別展「安宅英一の眼」へ

2007-08-20 15:20:36 | 音楽・美術
大阪市立東洋陶磁美術館で開館25周年記念特別展「安宅英一の眼」が催されている。この美術館の名前は今年2月に訪れた台北故宮博物院での北宋汝窯特別展にその所蔵品が何点か参考出品されていたので知っていた。大阪市中之島中央公会堂の向かいにあるこの美術館に夏の一日、厳しい残暑を押して出かけた。

安宅コレクションの所蔵で有名であるが、パンフレットはこのように説明している。

《安宅コレクションとは、かって日本の十大商社の一つであった安宅産業株式会社が、事業の一環として収集した約1000点におよぶ東洋陶磁コレクションです。》

《安宅コレクションの母体である安宅産業は昭和52年、事実上の崩壊に追い込まれました。幸い、安宅産業の主力銀行であった住友銀行を中心とする住友グループ21社によって、コレクションは大阪市に寄贈され、散逸を免れることができました。大阪市はそれを受けて昭和57年、大阪市立東洋陶磁美術館を設立しました。》

この美術館の成り立ちの経緯がよく分かる。

中途半端な収集ではない。今回は特別展ということで、惜しげもなく展示された国宝2点と重要文化財12点の素晴らしさにはただただ圧倒されてしまう。コレクターの安宅英一氏は安宅産業のオーナー社長であったのだろうか。戦前ならともかく戦後にこれだけ収集をやってのけたとは気宇壮大な方である。『収集』と『会社崩壊』の因果関係を私は知らないが、会社を潰してでもの意気込みを私は感じてしまった。

この東洋陶磁美術館の建物はこぢんまりとしていて、中にはいるととてもアットホームな感じがする。感心したのは青磁の色が最も美しく見えるように、と自然光で照明する特別な仕掛けの展示室を一室設けていることである。確かに自然光の暖かみと柔らかさがいい。展示品はすべてガラス越しに鑑賞することになるが、反射を可能な限り抑えるためにこの展示室ではよく磨かれたガラスが使われているとのことであった。

これはすべての展示室でそうであるが、ガラスに沿ってちょうど適当な高さに木製の手すりのようなものが張り巡らされている。他の人への気配りさえ忘れなければ、ここに肘をついて気に入った展示品をゆっくりと思う存分鑑賞できるのが素晴らしい。大阪市はいいこともしているんだな、とふと思った。

国宝の一つが関白秀次の許にあったと伝えられる油滴天目茶碗で、もう一つが飛青磁花生、ともに中国からの輸入品であろう。この2点が並べておかれている。眺めているとうっとりとしてきた。大阪市長にでもなれば、この茶碗でもてなして貰えるのだろうか。

途中でボランティアの女性が説明して廻る一群に合流した。要領を得た説明でとてもいい勉強になった。そのあとで見逃したものやらもう一度見たいものの所に戻ったが、入館者もほどほどで自由に動き回れたのがよかった。休憩場所も何カ所かにあり坐っているとついうとうと、一時のまどろみをとても贅沢に感じた。

追加(8月20日)
美術館ホームページで割引券をプリントして持参すると800円の入場券が650円になる。




次期防衛大臣は石波茂氏がいい

2007-08-19 10:55:19 | Weblog
今回の防衛省事務次官問題でふだん表に出ないことが国民の眼に曝された。

政治主導で大臣が人事権を行使するさいに、官僚の抵抗を排除するためにも官邸に設けられたのが正副官房長官が構成する人事検討会議だそうである。各省次官人事もここで決定される仕組みとか。すでに大臣経験者の小池防衛相は当然この仕組みをご存じであろうに、このたびは何故この手順を踏まなかったのだろう。在任5年に及ぶ守谷次官を更迭するのが目的であれば、もし守谷次官の抵抗があったとしても、小池大臣が初志を貫徹するのに人事検討会議の存在は力強い味方の筈である。それなのに通常の手続きを踏まなかったばかりに、人事検討会議を経ずに次官人事を決定したことは正規の事務手続きに反するとして、こともあろうにターゲットである守谷次官から反撃されたのだから、これは小池防衛相の失態としか云いようがない。大臣としての面目丸つぶれである。

人事検討会議に次官人事を案件としてあげる前提として、小池大臣は守谷次官に先ず退任を申し渡し、事務手続きを進めるべく指示を与えるべきであった。それが人を遇する道である。理由は何であれそれを怠った小池大臣は《臆病というのでなければ卑怯である》

この件を巡って小池防衛相と守谷次官とのやり取りが面白い。nikkansports.comはこう伝える。先ず小池氏の言い分。

《人事構想を伝えようと6日夜、守屋氏の携帯電話を2度鳴らしたが、コールバックは7日朝だったと指摘。(中略)小池氏は「携帯に夜電話しても返事が翌朝というのは、危機管理上どうか」と述べ、「新聞を見て驚いたというが、私は連絡を取ろうとしていた」と批判した。》(2007年8月16日7時28分 紙面から、以下同じ)

いざと云うときに防衛大臣と事務次官との間で連絡がとれない、このお粗末には恐れ入った。小池大臣が云ったとか伝えられる「危機管理上どうか」という人ごとにしてよい問題ではない。そしてここでいろんな疑問がわき上がる。

ここで使われた携帯電話は絶対に盗聴される恐れのない内閣特別仕様なのだろうと、Dan Brown大好きの私は勝手に思っているが、たとえそうであっても連絡の具体的手段を防衛大臣たる者が軽々しく口にすべきでない、と「壁に耳あり障子に目あり」と防諜教育を受けた元『軍国少年』は思う。

といいながら詮索したくなるのが人の常、携帯電話が通じなければ直通の赤電話か何かを何故使わないのだろう。それより一体全体、緊急事態に防衛省の連絡手段がどのように機能するのか、そちらの疑問が大きくなってしまった。

次に守谷氏の言い分。

《「大臣から電話をいただき、2度つながらなかったことはあるが、その都度折り返している」と述べ、電話に出なかったのは小池氏と言わんばかり。》

「その都度折り返している」の先はどうなったのか、これを聞き出して伝えるのが報道の役割だろう。小池氏から電話があって守谷氏はなぜすぐに電話に出なかったのだろう。通話相手が小池氏であることがディスプレイに出ているからいったん無視して、それからおもむろに電話をかけ直したのだろうか。小池氏は受け取ったのだろうか、そして出たのか無視したのか。実はそんなことはどうでもいい。こういう『痴話げんか?』めいたやりとりを、マスメディアに公開するこの無神経な小池・守谷両氏が防衛省のトップであることに今更ながら唖然とした。

守谷氏の退任は決定したとのこと、当然である。いかなる事情であれ政治主導の人事に異を唱えたとあっては去っていただくしかほかに道はない。

国家公務員人件費の4割を消費する大自衛隊を率いる防衛大臣として、その器量不足をさらけ出した小池氏もさらばである。そこで私の好みの次期防衛大臣は石波茂氏であるが、安倍首相の面前でご本人に一度退くよう献言した以上、三顧の礼を尽くされても受諾するかどうかは微妙であろう。「云うことはしっかりしているが、目が据わるのが怖い」と妻は云っているが、これは『威』に転じればよい。