日々是好日

身辺雑記です。今昔あれこれ思い出の記も。ご用とお急ぎでない方はどうぞ・・・。

今もアメリカの『占領下』にあるわが祖国日本

2005-02-28 10:50:42 | 社会・政治
すでに述べたことであるが、私は純粋培養された『軍国少年』のなれの果てである。

この『軍国少年』という言葉を私は自然発生的に使っているのであるが、果たしてこの一文を眼にされる方にその意味が素直には通じるのだろうか思い、辞書に説明があるがどうか調べてみた。

「新明解国語辞典」「広辞苑」「大辞泉」「大辞林」「日本国語大辞典」「日本史広辞典」「国史大事典」「世界大百科事典」など、手元にあるこのいずれにも『軍国少年』の項目はない。

『軍国主義』はさすが項目に取り上げられている。

「広辞苑」では《国の政治・経済・法律・教育などの政策・組織を戦争のために準備し、軍備力による対外発展を重視し、戦争で国威を高めようとする立場》と説明されている。
これを見ると、『軍国少年』はその『尖兵』として期待されていたのかと想像する。

ところが『軍国主義』という言葉を、戦時中に私が耳にした記憶がない。ではいつ頃その言葉が世間に現れ、どういう経緯で辞書に収録されるに至ったのだろう。

「世界大百科事典」では『軍国主義』が次のように説明されている。
《国家と社会において軍人や軍隊が特権的・優越的な地位を有し、戦争を肯定する立場から政治、経済、教育、文化など国民生活のあらゆる領域を軍事化使用とする思想ないしは体制をいう》で、ここまでは「広辞苑」の説明と軌を一にしている。しかし続きがあった。

《ただし、この言葉は、本来、フランスの第二帝政とドイツ第二帝政に対する共和主義者や社会主義者の批判の中から生まれ、第一次大戦と第二次大戦において、連合国の側がそれぞれ当時のドイツ第二帝政と大日本帝国に対抗するための宣伝戦の中で<軍国主義打倒>という文脈で用いるという経過を経て、社会科学の世界に入り込んだものである。その意味で、この言葉には政治的・宣伝的な色彩がつきまとうもので批判的・限定的な使用がもとめられるともいえるが、・・・》

ここまで読んでくると、私が戦時中に『軍国主義』なる言葉を聞かなかったことも頷けられる。そして『軍国少年』なる言葉も、否定的な意味合いで世間に流布しているのではないか、と覚らされるのである。

しかし私は『軍国少年』を「戦時中に国民学校で教育を受けたことのある少年」と定義しておく。現象的にははっきりと規定できるからである。

『軍国少年』のなれのはて、と私がいうと、そういう過去があるものだから、現在の自分を恥じているかのような印象を与えるかも知れない。そうではない。それは言葉のあや、格好良くいえば謙譲の姿勢をとりながら、心の中の誇りを表現しているのである。

ここで本論に戻る。この『軍国少年』の眼で眺めると、今の日本が未だにアメリカの『占領下』にあるというは厳然たる事実なのである。日本の固有の領土に外国であるアメリカの軍隊が駐屯している、この事実だけでそのように判断するのである。

『大東亜戦争』では神州の寸土をも敵に渡すじと日本は戦ってきた。日本の領土に外国の軍隊を入れないために戦ってきたのである。しかしその戦争に負けたから日本は連合国に占領された。わが国固有の領土に外国の軍隊が駐屯することが占領の証であった。

日本を占領したアメリカ軍が、サンフランシスコ講和条約で『占領軍』を『駐留軍』と呼び名を変えただけで、戦後60年間途切れることなく日本に居続けているのは厳然たる事実である。

言葉の言い換えで国民を言いくるめるのは日本政府のお家芸。『敗戦』を『終戦』と言い換えたりするものだから、前の戦争に勝った日本が、負けたアメリカ軍を『番犬』に雇っていると思う新人類が出現しても不思議ではないのである。『占領軍』を『駐留軍』と言いくるめるのは、それと同じ線上にある。

沖縄の米軍基地の移転問題がこの2月に入って、またニュースに取り上げられるようになった。沖縄の中でも、また他の都道府県でも、『基地』が自分のところに押しつけられそうになると、避けるのに一生懸命になる。『占領軍』に近づいて欲しくないからで、これは当然の感情である。

自国固有の領土に駐屯する外国軍隊は、その存在理由に百万言を並べ立てたとしても、そこにいるという事実の前には説得力を失う。『占領軍』が事実なのである。これがまともな国のまともな国民感情でもある。

卑近な例を挙げよう。

今のイラクの状況を眺めたらいい。わが国の『自衛隊』を占領軍だとみなすイラク国民の反応が報道されている。日本の自衛隊もイラクまで「出てくる敵は 皆々殺せ」のラッパを吹きつつ入っていったのではない。『人道支援』を旗印に掲げたのである。しかしイラク国民には本質が見え見えである。自国固有の領土に駐屯する外国軍隊はすなわち占領軍。ごくあたりまえの反応を示したに過ぎない。

『フセインの圧政』下にあったはずのイラク国民と、アメリカが世界に誇れる最大の世界遺産である民主主義国日本の国民、そのどちらがよりまとも国民なのだろう。

小泉首相は或る意味では現実的な政治家である。日本がいぜんとしてアメリカの占領下にある認識を持っているからこそ、イラクへの自衛隊の派兵も即決した。この恭順な態度に欣喜雀躍したアメリカの有頂天振りはわれわれの記憶にも新しい。。
少し生まれるのが遅かったばかりに、口惜しくも『軍国少年』になり損ねた小泉首相に、せめて絶叫させて上げよう。「戦後60年も日本に居座っているアメリカ軍、これは占領軍そのものじゃ無いですか!」

サンフランシスコ講和条約があるじゃないか、日米安全保障条約があるではないか、と仰る御仁がおいでかもしれない。日本が今もアメリカの『占領下』にあるというのは妄言であると仰りたいのであろう。

『条約』などというものは悠久の歴史の時間軸で眺めれば、当事国の力関係を反映したその場での『つじつま合わせ』に過ぎない。これも間近なところに分かりやすい例がある。

日本による大韓帝国の併合をみたらよい。これも政府間の一応形式の整った『条約』に基づく行為である。だからといって、今でも大多数の大韓民国、北朝鮮の国民が、併合はまともなことであった、と云っていますか。

明治維新後の日本国政府が不平等条約撤廃にどれほどの心血を注いできたのか、歴史をすこし繙くだけで、先人の卓見と努力におのずと頭が下がるであろう。その、直系の後裔である今の日本人の『誇り』の欠如こそ、まさにアメリカ占領政策の成果なのである。

アメリカ軍は日本固有の領土から完全に撤退していただく。言葉を換えれば日本は基地の提供を一切廃止する。『占領軍』の撤退でもって、始めてわが祖国日本は文字通り独立国の体裁を取りうるのである。

『占領軍』が存在する状況で日本国憲法の『改正』を論じること自体、自由な発想が妨げられる。そして国民の国民による国民のための『軍隊』の創成論議自体がゆがめられてしまうことを私は恐れる。

以上ががかっての『軍国少年』の見抜いた『まやかし』なのである。


『ふるさとの四季』から『愛国心』へ

2005-02-25 13:34:50 | 音楽・美術
カレンダーを見て、木曜日はブログがお休みであることに気がついた。
ああ、そうか、と思った。
木曜日は忙しいのである。

9時前後にいそいそと家を後にする。
地下鉄、JRと乗り継いで、行く先は歌のレッスン場、30人ぐらい入れるスタジオである。10時に始まり休憩時間を挟んで正午まで、クラスの仲間とみっちりヴォイストレーニングを受ける。お昼は気のあった、そして声の合った男性5人で食事を共にして、1時から3時まで、今度は男性重唱の練習に勤しむ。

これだけ声を出していると疲れる。といっても心地よい疲労感で、帰宅後もその余韻に浸っている。ブログがお休みになる所以である。

私は子供の頃から歌が好きであった。そのせいか学芸会でも独唱をした。
戦時中であったが、亡母が女学校で習った歌であろうか、折に触れて口ずさんでいるのを耳にしながら育ったせいもある。母の好きな歌の一つが

♪ぶなの森の 葉がくれに         
 宴ほがい 賑わしや       
 松明あかく 照らしつつ      
 木の葉敷きて 倨居する♪    

で始まるRobert Schumannの「流浪の民」、訳詞は石倉小三郎である。
歌い進んで、♪慣れし故郷を放たれて(ハナタレテ)♪のくだりに差しかかると、鼻の下に人差し指と中指を当てて、ズルッと鼻汁の垂れ下がる仕草をするのである。先生に隠れて悪さをしていた昔を思い出していたのであろうか、その母の姿が今の私には懐かしい。

私が人と一緒に歌を歌い出したのは大学に入ってからである。
混声合唱を楽しんでいた。
「流浪の民」のテナーソロを受け持ったこともある。

しかし、我流で始めて我流を通したものだから、発声は滅茶苦茶、長時間は歌えない。喉が疲れてしまうのである。それに『縮緬ビブラート』。なんとか気持ちよく声を出したいと思い、ヴォイストレーニングを受け始めたのが定年になってからである。

私の属しているヴォイストレーニングのクラスには男性が5人いる。女性が10数人で、このような『カルチャー・スクール』はどこもかしこも『天鈿女命(あまのうずめのみこと)』に制覇されてしまったこのごろ、男性の高い比率は珍重すべきで、それだけに仲間意識が高い。

このクラスに通い出して5年は経過している。1回が2時間で年に40回、とすると延べ時間が年間80時間、5年間で400時間。音大で声楽の実技が1回45分で年間25回程度とか耳にするので、それだと年間20時間にも満たない。となると、時間数だけでは私は音大の大学院をもとっくに修了していることになる。

確かに歌い続けていると疲れはするけれど、喉が疲れるという感じはしなくなった。そうこうしているうちに、この鍛え抜かれた『美声』でもって、ハーモニーを楽しみたいとの思いが湧き上がってくるのは当然の成り行きであろう。ヴォイストレーニングはあくまでも発声練習が主体で、歌も歌うがいわゆる斉唱だからである。そこで昨年秋に立ち上げたのがわれわれ男性5人の重唱グループである。いずれ披露するがすでに立派な名が付いている。

今取り組んでいるのが源田俊一郎編曲の、男声合唱のための唱歌メドレー『ふるさとの四季』である。「故郷」から始まり「春の小川」「朧月夜」「鯉のぼり」「茶摘み」「夏は来ぬ」「われは海の子」「村祭」「紅葉」「冬景色」「雪」と四季を辿り、最後に再び「故郷」で締めくくる。練習を重ねるにつれてお互いの声も聞こえるようになり、ハーモニーも楽しくなって来だした。馬齢を重ねてきたもの同士、あまり先のことを考えるのは現実的ではないので、できるだけ早い時期に人前で披露したいと考えている。

ところで話は変わるが、この「われは海の子」、今時、知る人も少なくなっていると思うので、その最後の歌詞を紹介しておく。

♪いで大船を 乗出して
 我は拾わん 海の富
 いで軍艦に 乗組みて
 我は護らん 海の国♪

かっての『軍国少年』である私は、『愛国心』をこういう形で涵養された世代に属することを、誇りに思っているからである。

他国の軍隊に守ってもらう自衛隊の『突撃ラッパ』に思う

2005-02-23 19:58:58 | 社会・政治
小泉首相ならびに英国のブレアー首相からの電話による依頼で、オーストラリアのハワード首相が450人ほどの歩兵部隊と40両の装甲車両を新たにイラクに派遣することを決したとのことである。ハワード首相は「イラクは今、国土再建と民主化に向けて非常に大切な時期であり、これまで日本の自衛隊を守ってきたオランダ軍の部隊の撤退に伴い、自衛隊も撤退するような事態を避けるため、決断した」と話している。

要するにこれまで自衛隊を守っていたオランダ軍が撤退するのを受けて、自衛隊を守るために新たにオーストラリア軍を派遣するというのである。

能力的には『軍隊』である自衛隊が、他国の軍隊に安全を守って貰うなんて、マンガでもあるまいし、なんと情けないこと、と思った。自衛隊に自分を守る能力が欠けているとは思えない。その能力を発揮できないように自らその手を縛っている日本の有り様が情けないのである。

これも日本が未だ真の独立を回復できず、自衛隊を軍隊として保持しえていないからだと私は思う。ここでお断りしておくが、私は平和主義者である。戦争は嫌いである。しかし独立国であるのなら当然の備えとして日本も軍隊は持つべきであるというのが私の主張である。

このニュースに接して私はある場面を思い出した。

イラクに自衛隊が派遣されることになって、航空自衛隊の先遣隊が出発する際の壮行式だったと思う、式典が講堂のようなところで行われていているのをテレビで観ていると、なんとも懐かしい喨々たるラッパの響きが流れ、ハッと背筋が伸びた。

「デテクルテキハ ミナミナコロセ デテクルテキハ ミナミナコロセ」と子供の頃口にしたあのラッパの響きである。

「出てくる敵は 皆々殺せ 出てくる敵は 皆々殺せ」とラッパは歌う、そう、大日本帝国陸軍の突撃ラッパなのである。

フィリッピンのルパング島で敗戦後も20数年孤軍奮闘を重ねた日本軍人がいた。かっての上官の任務解除を受けてマルコス大統領に降伏した小野田少尉の敬礼姿に接した時、私は粛然とした思いを覚えたが、その同じ思いが再び私を襲ってきた。

ちょっと大袈裟ないい方であるが、大日本帝国陸海軍の伝統が脈々と伝えられているのだな、という感動である。

なんて書くと、ほとんどの方はなんたる時代錯誤であること、と仰るに違いない。
その通りであろう。だからとりたてて反発はしない。
しかし一つだけ理解して頂きたいことがある。
私は純粋培養された『軍国少年』のなれの果て、なのである。

昭和16年3月に公布された国民学校令により、それまでの小学校制度が廃止されて、昭和16年4月から22年3月に至るまでの6年間、初等教育機関としてその機能を果たしたのが国民学校である。私はその一期生として国民学校に入学し、6年間の学業を終えて卒業すると同時に国民学校が再び小学校に改編されたのである。近代日本の教育制度で6年間しか存在しなかった国民学校をフルコースで終えたのは私の年代だけである。その意味では希有の存在なのである。

国民学校の目的は「国民学校ハ皇国ノ道ニ則リテ初等普通教育ヲ施シ国民ノ基礎的錬成ヲ為ス」のであり、「皇国民の錬成を目指し心身一体として教育すること」とされたのである(国史大事典 吉川弘文館より引用)。

「皇国」なんて言葉は戦後の教育を受けてきた世代には無縁であろうから、少し補足すると、「日本は神国で、神の子孫である「万世一系」の天皇が統治する」、その国という意味である。さらに付け加えると、その皇国では国民の天皇に対する忠誠が最高の美徳とされていたのである。近くの何処かの国を直ちに連想される方は、頭の働きがまだまだ正常であることに自信を持たれたらよい。

戦争に負けたのが国民学校5年生の夏休みの頃であるから、国民学校教育の錬成度はかなり高かった筈で、軍国少年がほぼ出来上がっていたと云っていい。私は朝鮮の国民学校に在学していたから、日本人としての誇りを特に心に刻み込まれたと思う。(朝鮮人を前にして)見苦しい真似をしてはいけない、模範にならないといけない、と教え込まれた。

戦争に負けて大日本帝国陸海軍が消滅してしまった。しかし、軍国少年にとっては敗戦は『臥薪嘗胆』の始まりで、かならずや何時の日か軍隊は甦るべきものであった。小野田少尉もそうであったが、航空自衛隊の「突撃ラッパ」が風化したかのようにみえる私の中の『臥薪嘗胆』を、ピリッと刺激したのであるとも云える。

ことほど左様に教育の効果は大きいのである。

アメリカ合衆国占領軍の敗戦国日本の『民主化=無力化』の成果は『アメリカにとって』実に素晴らしいものであった。その自負が今回アメリカをイラクの『民主化=無力化』に走らせた遠因になっていると思えるぐらいに、である。

云うまでもなくアメリカの『民主化=無力化』の最大の狙いは日本の戦力の無力化で、その『成果』は日本国憲法の前文と第9条に集約されている。そしてそれを日本国民に受け入れさせたことである。たった一度、戦争にに負けただけでもう軍隊は持ちません、と云っているのである。歴史に学ぶというのであれば、どういう状況にあるどのような国が一度の敗戦で軍隊を持たなくなった事例があるのかどうか、よく調べて決すべきであろう。そのような事例を私は寡聞にして知らない。

現実は誰もが知るとおり、今の日本には『軍隊』と呼ぶこの出来ない自衛隊が現存する。アメリカが日本の『民主化=無力化』に成功したおかげで、日本国は世界に醜態を曝している。『軍隊』である自衛隊をいろんなしがらみで『軍隊』と言い切ることが出来ないばかりに、自衛隊の安全を他国に委ねるという格好のつかないことを、国として恥ずかしげもなくやっているのである。はやくこれを改めないといけない。

アメリカの日本『民主化=無力化』の最大の成果は、日本人にそれと覚らせることなしに、日本を永遠にアメリカの占領下におくことをに成功したことである。そのまやかしを見抜くことの出来るのは、実はわれわれ『臥薪嘗胆』組ではなかろうか。確かに『臥薪嘗胆』は風化した。その風化した『臥薪嘗胆』で私は『アメリカへのリベンジ』を唱えるのではない。日本の真の独立回復を求め、そこで自衛隊ならぬ、ましてや大日本帝国陸海軍ならぬ、国民の国民による国民のための『軍隊』の創成を唱えるのである。

何を『まやかし』というのか、稿をあらためて述べるつもりである。

包丁買う時に『住所氏名』? 阿呆な!

2005-02-22 09:57:18 | Weblog
兵庫県川西市は大阪府寝屋川市で刃物による小学校教職員殺傷事件が起こったのを受けて、市内で包丁を購入する人に対し、住所や氏名、購入目的を所定の書類に記入することを義務づける条例を制定する方針を発表した、とのことである。

やっぱりでた、というのが第一印象。
なにかあると俗受けを狙って目立ちたがるおっちょこちょいが必ずいるからである。

身分証を提示する義務はなく、違反者への罰則もない。

啓発と問題提起に主眼を置いたからだという。

もしこれが本当に刃物による犯罪抑止を狙ったものであるとするなら、その効果の期待できることを『資料』などに基づいて市民に納得させないといけないのであるが、もちろんそこまで考えられた真面目なものではない。


『啓発と問題提起』?

いったいこれ、なんのことや?

刃物で人を傷つけたらいけません。

あたりまえのことやないか。
包丁を買うのに住所・氏名を書かされんと分からん、と云うようなもんとちゃうわい。

問題提起?

誰が誰にもの云うてはりますねん。
わてら川西の人間をそんなものの道理も分からんあほやとでも云わはりますのか?
そんなこと、市役所のお人に云うてもらいたくないわ。
そんなことより、川西でも大阪の市役所のやっているようなこと、ようさんしているのと違いまっか。そっちの『問題提起』なら話に乗りまっせ。

大阪のおばちゃんなら、もっとコテンパンやで。

在朝日本人の回想 内地の引き揚げ列車

2005-02-21 17:07:05 | 在朝日本人
引き揚げ船『こがね丸』で からのつづき

「こがね丸」で一夜を明かし翌朝上陸が始まった。炊き出しのおにぎりかなにか貰ったような気がするが、記憶はおぼろげである。しかし記憶に鮮明に残っている光景がある。

埠頭でいわゆる人夫仕事をしている人達が全部日本人なのである。朝鮮では考えられなかった光景で、大きな衝撃を受けた。今ならカルチャー・ショックと云えただろう。一体どうしたことだろう、と私の頭では整理がつかなかった。

貨車に乗り込んだ。この貨車が子供の国の貨車のように小さいのである。これもまたショック、朝鮮の貨車に比べると本物の貨車のようには思えない。「エッ、コレ、ナニ?」なのである。急に狭いところに閉じこめられる恐怖感に襲われて、少しでも広く荷物で陣取りをしたけれど、段々と押し狭まれてしまった。

昭和15年、朝鮮に渡った時はまだ就学前だったので、内地の生活でおぼろげに記憶に残っていたのが昭和13年の阪神大水害、それに昭和15年の紀元2600年祭ぐらいである。私のすべては朝鮮で形作られたものと云ってよく、博多港に上陸した私にとっての日本は『異国』であったのだと思う。懐かしさというような感情とはおよそ無縁であった。

関門トンネルを通り抜ける時は興奮した。朝鮮に住んでいる間に完成したことを知っていたからで、引き揚げ船の着く港が山口県の仙崎ではなく、博多であることを聞いた時から期待していたのだ。その関門トンネルを通り抜ける前の門司だったか、後の下関だったか覚えていないが、そのいずれかで貨車から客車に乗り換えたと思う。

広島が原爆の被害にあったことを知らなかったと思う。引き揚げ列車は当然広島を通過したはずであるが、その状況についての記憶は皆無である。最後に記憶しているのは汽車が姫路駅に到着して家族全員が下車した時のことである。

プラットフォームに荷物と一緒に佇んでいる間に、父が駅長室を尋ねて行った。母の姉の連れ合いがかってはお召し列車を運転したことのある運転士で、まずはその家を頼るべく消息を聞きに行ったのだ。しかし駅長室から戻った父は、その伯父が空襲で爆死したことを伝えたのである。

それからどのようにたどり着いたのか、気がつけば加古川にある母の実家に一家が転がり込んでいた。やがて父が鐘紡に復職して、私の生誕の地である播州高砂の鐘紡社宅に舞い戻ったところから一家の再生が始まった。

新聞・テレビに『殺人報道』はいらない

2005-02-20 15:52:00 | 社会・政治
私が子供だった頃、『人殺し』が世の中に無かったわけではないだろうが、新聞であれラジオであれ雑誌であれ、子供の耳目に触れることはまずなかった。今でも何一つ思い出すことが出来ない。私の知る人の死は『戦死』であり『玉砕』であり『自爆』であった。それでもまともな社会人に成長した。

今はどうであろう。世の中、『殺人報道』だらけである。
私はかねてからマスメディアによる『殺人報道』の取り上げ方に疑問を持っていた。
そして思うのである。新聞・テレビに『殺人報道』はいらない、と。

最近の例、『寝屋川殺傷事件』をNHKは午後7時のニュースのトップで何日も報じた。NHK(お金を取るNHKに代表して貰ったけれど、もちろん民放も含む)は何をどのように考えてこのニュースを流したのだろう。

社会的影響の『大きな事件』だから、と云うのかも知れない。
国民は知らなければそれまでのこと、大きく取り上げるから『大きな事件』になるのではないか。もともと世間を騒がせるニュースなんてありやしない。元来犯罪は秘匿性の高いものだし、『事件』もふつうは音声の到達する範囲で知られるに過ぎない。マスメディアが騒ぎ立てるから世間が否応なしに知らされるのである。

では何故マスメディアは国民に知らせるのだろう。
こういう痛ましい事件の再発防止のために世間の注意を喚起するのだと云うのかも知れない。

私に云わせると、中身のない言い抜けに過ぎない。
マスメディアはこれまでことあるたびに悲惨な『殺人事件』を報じてきた。それが奏を効して、『殺人事件』が減るとか、その報道が減ったりしたのだろうか。私の印象ではそれとは反対にますます『殺人事件』が増加しているように思う。再発防止に無力であることは統計データが裏付けるだろう。

時には被害者の告別式の様子までが報道される。悲嘆に暮れる遺族のインタビューさえ流される。これが国民の『知る権利』に応えたことになっているのだろうか。このような報道はまったく無用である。静かにしてさし上げることが、無念の思いを必死に耐えている遺族への最低のマナーなのではないのか。

『加害者』についてまたあれこれと並べ立てる。生い立ちとか性行とか、場合によれば『専門家』らしき人のコメントが加わってくる。そして『動機』についての憶測が飛び交う。ある種の予断を与えるだけに過ぎないこのような報道内容は一切不要である。人間の行為の跡づけが、その心の動きまでを含めて簡単に出来るほど『人間』は理解可能なものではない。

『殺人事件』を報道する側の理屈を機会があればお聞きしたいものであるが、既に『事件記者』という言葉が辞書にも載っているぐらいであるから、ひょっとしたら『殺人事件』の報道はマスメディアの反射行動に定着しているのかも知れない。

午後7時といえばわが家では夕食の時間である。『殺人事件』のニュースが流れるとチャンネルを切り替えることにしている。テレビを観ながら食事を楽しんでいる家庭が日本中に多いだろうに、この時間に『殺人事件』をはじめとする殺伐たるニュースを反射行動的に流す不躾さは言語道断である。

未成年者の『殺人事件』が発生すると、世間は『殺しの番組』の影響などと取りざたする。『番組』が絵空事であるのに比べて『殺人事件』はまさにリアルそのもの。『俗悪番組』を論うのもいいが、それよりなにより『殺人事件』の報道をなくすべきである。『殺人報道』以外に能がないというのなら、せめて子供の寝静まる深夜にでもひっそりと流せばいい。ゴールデンタイムにこれでもかこれでもかと陰惨なニュースを視聴者に押しつける品性欠如のマスメディア、『殺人報道』をTPOを顧みずにオンエアする無神経さはいい加減にご免被りたい。

試しに一年間でいい、あらゆるマスメディアに『殺人事件』の報道を停止して頂く。国民は何一つ不便を感じることはない。そして日本が明るくなり活気を取りし景気がよくなることは確実である。


在朝日本人の回想 引き揚げ船「こがね丸」で

2005-02-19 17:58:06 | 在朝日本人
朝鮮からの引き揚げの挿話を書いたのがきっかけで、この機会に私の『在朝日本人』としての回想をまとめようと云う気になった。思い浮かぶままのまとまりのない小文である。

船の舳先に頭を向けて甲板に寝転がっていると、船のローリングに合わせて身体がゴロゴロと右側に、左側に転がっていく。日差しがとても快い。海が蒼い。ゴミゴミした下の船倉にくらべると、まるで極楽である。

舳先近くには機関銃なのか機関砲なのかが据え付けられている。日本軍は武装解除されたはずなのに、その脇に兵隊さんが匍匐姿勢で構えている。双眼鏡で監視している兵隊さんに聞いた。「兵隊さん、何をしているんですか」「浮遊機雷を見張っているんだ」と返事が返ってくる。私も東郷元帥になったような気分で玄界灘を睥睨する。

釜山での『収容所』生活にもそろそろ飽いてきた頃、ようやく引き揚げ船の順番が回ってきた。それこそ触雷の危険があるので航行は明るい内に限られる。早朝船に乗り込んだのであろう。どこでどう知ったのか、船の名前は「こがね丸」であった。昭和15年朝鮮に渡る時に下関から乗り込んだ関釜連絡船「崑崙丸」は、とっくに敵潜水艦からの魚雷に沈められてしまっていたのである。どのような船に乗せられるのか気がかりであったが、大きな日本の船であることが嬉しかった。

どのような船室に入れられたのだろう。大きなテーブルの上に荷物を載せたような気がする。身動きもままにならない、というほどの混み具合でもなかったと思う。好奇心に溢れた少年の私が船中を探検して廻ることができたのだから。飯盒で炊いたご飯の美味しかったことははっきりと覚えている。飯盒に紐を付けて下にたらし、海水を汲み上げてはそれでお米を洗い、その塩水で炊いたご飯の塩加減がよかったのだ。炊事場で順番に炊いたのだと思うが、飯盒がかなり沢山並んで湯気を出していた光景が思い浮かぶ。

太陽も落ち、辺りは暗くなった。エンジンの音が軽く聞こえだした。いよいよ日本が間近、博多港に近づいたのだ。なんだか人が騒いでいる。満艦飾の軍艦が何隻か港に停泊していて、色とりどりのイルミネーションで一帯が燃え上がっているかのように明るい。生まれて初めて目にする絢爛豪華な光の饗宴に心を奪われてしまった。

どうした因縁か、それから7年後、高等学校の修学旅行で神戸港から別府港までこの「こがね丸」に再び乗船したのである。船首に記された「こがね丸」のエンブレムを見て、あっ、あの引き揚げ船だ、と異様に興奮した。早速船内を歩き回ったが、引き揚げ時の記憶を呼び起こすものは何も見あたらなかった。友人にはこの船に乗って朝鮮から引き揚げてきたんだ、と話をしたものの、これがあの引き揚げ船の「こがね丸」なのかどうか、もう一つ確信が持てなかった。

この思い出を記すにあたって、インターネットで資料を探してみた。

こがね丸

《こがね丸KoganeMaru 竣工昭和11年8月29日 三菱神戸造船所 大阪商船
1,905Gt 317Dt 74,512,05,8 デイーゼル2基2軸2,807HP 17,4Kt/14Kt 一等28,二等132,三等550名

昭和10年7月に沈没した緑丸の代船として竣工した阪神~別府航路用旅客船。船体を10の水密区画に分け連続した2区画が破壊されても沈まない設計とされ安全性が向上している。昭和17年5月の関西汽船設立に伴い移籍し、昭和18年8月に海軍の特設運送船となり、蘭印方面で活動。昭和21年9月から復員船として引き揚げ輸送に従事した後の昭和24年別府航路に復帰。となるが、昭和55年4月に解体された。》

これで見ると修学旅行で乗ったのはまさしくこの「こがね丸」であるが、一方復員船として活躍したのは昭和21年9月からなので、私が引き揚げた昭和20年11月にどうであったのか、この記述でははっきりしない。しかし昭和18年に海軍に徴用されていることから考えると、海軍省が勅令で廃止されたのは昭和20年11月30日であるので、それまでは海軍省の管轄下で引き揚げ船として働いていたことは十分に推測できる。

もう一つ付け加えると、この船が建造された三菱神戸造船所の近くにある遠矢の保育園で、私は紀元2600年の式典を祝った。これもなにかの因縁である。

もしこの一文が機になり、その辺りの事情をよくご存じの方からご教示を得ることが出来れば望外の喜びである。

JRからの回答

2005-02-18 18:00:47 | Weblog
一昨日ブログで述べたJR列車内での『迷惑行為』について、JRに電話で問い合わせをしたところ今日の午前に電話で回答があった。

車掌からはそのトラブルについて引き継ぎと報告があり、私の述べたよう事実は把握しているが、その場で解決できなかったことについての謝罪があった。

『迷惑行為』への対処を含む車内秩序維持は、車掌に全てが委ねられているそうである。痴漢とか窃盗のような犯罪行為についてはそれなりの対処が決められているようであるが、『迷惑行為』に対してはどうも処置が手ぬるいように感じた。

「迷惑をお掛けしたことをお詫び致します」との挨拶を受けたが、喫煙に騒音発生など迷惑をかける側にどうしても甘いのは日本の宿痾としか云いようがない。

馬齢を重ねたおかげで『怒り』を持続させるエネルギーも枯渇気味である。この問題もこれで『幕』にする。

朝日新聞対NHK、『取材源の秘匿』は騙しの手口にもなる

2005-02-18 13:52:54 | 社会・政治
久しぶりに朝日新聞からNHKとの『バトル』にかかわる記事が現れた。

私がこのブログ上で朝日新聞にこのような注文を述べた。
《・・記事の根拠となった取材経緯、取材内容をそれらを裏付ける具体的な証拠と共にまず読者につまびらかにすることが、「欠陥商品」を売ることを許されない商売人に課せられた最低の義務であろう》と。

ほぼ一ヶ月経って紙面に現れた記事は、朝日新聞とNHKの応酬を適当に縮めて報じているだけで、私のような疑問を感じる読者が納得できるような内容からはほど遠いもの、その意味では読者不在の記事である。

何をもって読者不在というのか。その記事の一節を引用しよう。

『NHKの公開質問状は1月21日付で出されていたが、質問状の中に虚偽が含まれていることや、取材の経過を明かすよう迫るなど「ジャーナリズムに携わる者として信じられない内容だ」とし、朝日新聞社は回答を保留していた。しかし、今月1日付の文書でNHKが「取材の経過を明かすようにとは求めていない」と表明したことや、元放送総局長に対する再調査が実施されていることが16日の記者会見で明らかになったと判断したことなどから、この日、回答書を送付した』

私が強調したいのは『取材の経過を明かすよう迫るなど「ジャーナリズムに携わる者として信じられない内容だ」とし、朝日新聞社は回答を保留していた』の部分。

私は『記事の根拠となった取材経緯、取材内容をそれらを裏付ける具体的な証拠と共にまず読者につまびらかにする』を注文した。ところが朝日新聞はNHKが取材の経緯を明かすよう迫ったことに対して『ジャーナリズムに携わる者として信じられない内容だ』と噛みついている。『同業者』としての仁義を欠いていると責め立てているのである。そして『ジャーナリズムに携わる者』の馴れ合いは『NHKが「取材の経過を明かすようにとは求めていない」と表明したこと』から以降のくだりでさらに裏付けられる。なぜNHKが引き下がったのか、これはこれでまた問題ではあるが。

『読者の知る権利』が記事内容そのものに止まるのではなく、場合によればその取材経緯までにも及ぶことを『ジャーナリズムに携わる者』が一顧だにしていない理由が、これでも明々白々、私が『読者不在』を言い立てる所以である。

読者を念頭におかない今や'olds'になった'news'のことは実はもうどうでもいい。ここで'quality paper'を目指す新聞社があるとすれば、一言だけ提言しておきたい。

『取材源の秘匿』がマスコミ関係者にとって後生大事な呪文であることは、或る意味ではよく分かる。『弱い立場にある情報提供者』を守るというよりは、信頼性の低い記事に至る杜撰な取材経緯を隠すために使うには格好の口実になるからである。ウソかホンマか確かめようのない記事は『ヨタ記事』同然である。そこで『取材源の秘匿』なんて、正義の騎士ぶったもっともらしいスローガンをまず撤廃していただく。

そして、取材は事実の確認に始まり確認で終わる。それで必要且つ十分。記事の信憑性は必ず検証可能でなければならない。
そのために、また記事の正確さを期するために、このITのご時世、取材対象者とのやりとりは全て録音するなどして記録を残す。表に出したくても出せないような隠し録りをして、卑屈な思いをすることはこれでなくなる。
必要とあれば公開を前提とした取材に協力を得られない相手からは取材しない。無駄金を使うことはない。
そうそう、取材対象者には応分の謝礼を支払うのである。情報の価値を一番知るはずの『ジャーナリズムに携わる者』が、情報の提供者に対価を支払うのは当然のことである。情報を買うと思えばそれなりに取材も慎重になる。『情報提供者』も情報を売り渡した以上は、その使われ方にそれなりの覚悟を持つであろう。

そんなことでは取材が出来なくなるとお嘆きのジャーナリズムに携わる諸氏へ。不可能を可能にする工夫をこらすのがプロなんです。


『迷惑行為』にJRはどう対処するのか

2005-02-16 21:39:00 | Weblog
中田喜直氏はいみじくも《喫煙も騒音と同じ、粗雑な神経の人達》と仰った。この度の三朝温泉行きで旅館では喫煙に不快な思いをし、帰りの列車では『騒音』に悩まされるなどその二重苦をまことに効率よく味わったのである。

帰途、2月15日午前10時59分JR倉吉駅発の特急スーパーはくと6号(写真)の禁煙指定第3号車に乗る前から嫌な予感がした。グループ客一行のなかに声のよく通る男性が一人いて、プラットホームで車両清掃の終わるのを待つ合間もよくおしゃべりをなさっている。ドアーが開きグループ客は向かい合わせにした5列、6列目の計8席を占めたようである。妻と私は11列のA、Bであった。

列車が走り出して酒盛りでも始まったのだろうか、なかなか賑々しい様子である。一際声のよく通るのがかの御仁で、「魚屋さん、八百屋さん向きだね」「いや、坊さんでも務まる。声明などいいかもしれない。あんなによく通る声が羨ましいね」と妻に軽口を叩いているうちはよかったけれど、だんだんとうるさくなってきだした。

倉吉駅を出て小一時間も経った頃だろうか、そのよく通る声が「すんません」とか何とか云っている。様子を窺うと、7列C席の男性客が我慢できずに苦情を述べたようである。ああ、これで静かになるかな、と思ったのも束の間、今度はその男性に絡み始めた。「すんませんと云うたやろう。何とか云わんかい」と云う調子である。

その間、若い女性客が通路を往き来しているかと思ったら、車掌さんに事情でも話したのだろうか、荷物をまとめて隣の車両に移った。そして延々と独演が続く。実際はグループの誰かとも話しているのであろうが、その相手の声はほとんど聞こえてこないので、一人で騒いでいるかのように伝わったのであろう。声そのものもさることながら、周りにいる乗客の迷惑を一切顧慮しない独善的な態度に腹が立ちだした。それでも極力意識しないようにしてとにかく弁当をすませた。

実は私は邦楽の演奏で唄をうたう。だからその御仁のよく通る声が羨ましいのも事実である。生まれつきでそのような声がでるのか、相当の訓練で出せるようになったのか教えを乞いたい思いも一面ではあるが、何はともあれ今はとにかくやかましい。騒音である。
そこで弁当の空き箱を捨てに行く途中にその男性に話しかけた。「よく通る声をお持ちですね」と。もちろん褒めるのが目的ではない。話の切っ掛けである。とにかく車両中響き渡る騒音で、いい加減迷惑を被っている。せめてマナーモードでお願いできないか、と云った。

帰ってきた返答は実に端的。「うるさいのならおまえが余所に行け」である。しばらくやりとりを交わしたけれど、「ああいえばジョウユウ」(ちょっと古いかな)で埒が明かない。と、車掌さんが通りかかったので事情を説明して今度は車掌さんに説得を委ねたけれど、もちろんのれんに腕押し、糠に釘。車掌さんも諦めてしまった。

たった一人の心なき乗客のために不愉快な思いを残しつつ背に腹は替えられぬ、とばかりに、三宮で下りるところを予定変更して明石駅で下車し快速に乗り換えた。

個人的には車掌さんに同情はするが、携帯電話はマナーモードで、としつこいぐらいアナウンスを繰り返すJRが、携帯電話の通話なんて吹っ飛んでしまう『騒音』を、取り締まるどころか成り行きに任せる、という姿勢は納得がいかない。そこでJRに次のようなことを聞いてみた。

「迷惑行為にどのように対処するのかJRにマニュアルの有無」
「迷惑行為判定基準の有無」
「迷惑行為を働いた乗客を強制的に下車させるような取り決めの有無」

さらに、今回の件で車掌からトラブルの報告があったかどうかをも調べた上、解答して頂くようにお願いした。返事は明日以降になるそうだが、返事が到着次第その内容をまたお知らせする。