日々是好日

身辺雑記です。今昔あれこれ思い出の記も。ご用とお急ぎでない方はどうぞ・・・。

エアコン水漏れの簡易撃退法

2007-06-28 11:41:53 | Weblog
エアコンのシーズンがやってきたが、今年も昨年同様に水漏れがひどい。ポタポタと水滴が落ちてきて、下に敷いたタオルを濡らしていく。風向き具合でプリンターの上にも落ちてくる。このエアコンは買って10年目になるし、そろそろ買い換えの時期なのかも知れない。と思ったものの、水漏れ以外に異常はなく、作動音も正常で冷房効果も落ちていない。どう考えても買い換えるのはもったいない。その思いが神に通じてかあるアイディアが心に浮かび、昨日それを実行に移した。すると驚くなかれ、水漏れのトラブルがピタリと止まったのである。何をしたのか、エアコンの今の状態をご覧に入れる。



30cm×1mのガーゼを買ってきた。130円也である。これを15cmのところで切って二分した。その一片を二つ折り、さらに四つ折りして切れ目のある側を糸で縫いつけて、扁平な紐を作った。あとはこれまで水滴が溜まってきたエアコンの下部に、両面テープでこのガーゼを接着して、その一端を下に垂らして終わりである。両面テープは全面ではなく5カ所に留めた。これで終わり。

水滴でガーゼが一様に濡れてくる。しかし下には水が直接には落ちない。エアコンを入れて2時間ほどで垂らしたガーゼが上から20cmほど濡れてきている。やがてはここから水が滴り落ちるはずである。それを何か容器で受ければよい。ドレインが完全に詰まっているのならともかく、それ以外の原因の水漏れはこのやりかたで撃退できるだろう。

このアイディアのヒントは、叔父の葬式で目にしたしめ縄にあった。


追加(6月28日深夜)

今日のところ簡便水漏れ対策はうまくいったようだ。下に垂らしたガーゼの先端からはやがて水滴が滴り落ちた。



ところが垂らしたガーゼ部分が最初は40cm近くあったので、水分を十分に含むとその分重くなり、接着部分が徐々に剥がれかけたので10cm程度残して先はカットした。これで剥がれることはなくなったが、時々接着をやり直した方がよいのかも知れない。

ガーゼの先端を容器に入れて水を回収した。あとは容器の入れ替えが簡単にできるように、何か工夫してみるつもりである。正味6時間ほど運転して溜まった水の量は50cc程度であった。


神道の葬式とふるさと納税

2007-06-27 23:37:57 | Weblog
父の兄弟でただ一人生存していた叔父が亡くなった。六人兄弟の一番下である。その葬儀が神道で営まれた。私にとって年の離れた兄のような存在でもあったので、感慨も一入であった。しかし大正10年生まれだから86歳での大往生、良き人生を全うしたことと羨ましくすら思う。

もともとわが家は天台宗である。ところが叔父はゆえあって他家に入り婿したものだから、神道になってしまった。この神道の葬式が実にいいのである。いろんな儀式からなりそれぞれに呼び名があるのだが、私はまったく不案内なのでふつうの言葉で語ることにする。

まず故人は神になる。太郎さんが亡くなれば太郎大人之命(たろううしのみこと)になる。仏教の戒名に較べて簡単で分かりやすい。戒名を生前から貰っている人ならともかく、普通は死んでからつけられるもの、そんな聞き慣れない名前で呼ばれても返事のしようがないではないか、と私なんかは思ってしまう。それに戒名はお金がかかるけれど、大人之命はタダだという。これだけでも有難い。

いろいろと発見することがあった。先ず祝詞。神主が故人の経歴や人柄などを祝詞口調で唱えるものだから最初は戸惑ったが、耳をよく傾けると、普通の内容を話しているのが分かってきた。「ウオーキングを楽しみ・・・」なんて片仮名言葉が出て来るのが面白かった。でも考えてみれば祝詞は、参列者に伝えるべき内容を伝える役割を果たしているのだから当然であろう。「心筋梗塞とか申す病にて身まかり・・」というのも浮世離れしていてよかった。それにしても祝詞(のりと)に祝という文字が出て来るが、何かそれなりの意味があるのだろうか。

祭壇が簡素なのがまたいい。仏式と同じで値段で変わるのかもしれないが、必要最小限度は整っていた。仏式では生臭物として敬遠されるのだろうが、見事な鯛が形良く整えられて供えられていたことには意表をつかれた。さらに驚いたことに、神主が祝詞をあげている時に供え物がひとりでに動いて大きな音を立てたのである。二三回あった。その時は分からなかったが、あとで聞くとまな板ではなく三宝の上の鯉がはねたとのことだった。

仏式の焼香のかわりに玉串奉奠をする。お通夜の時に参列者が予想より多かったのか、玉串が足りなくなってしまった。すると神主がいったん供えられた玉串を元の台に戻し、お祓いをしてまた参列者に渡しだした。リサイクルの原点、その発想がとても自然でよい。

式を終えるに当たり神主が挨拶した。仏式ならお説教に当たることになるのだろう。ところが故人のことをあれやこれや語るうちに、絶句して、そして泣き出したのにはまた驚いてしまった。韓国などでは泣き女が葬式などで派手に泣くのは知っていたが、神主が泣くとは知らなかった。ところがあとで聞くと、神主は故人とかねて親交があり、その個人的な感情からの発露であったようだ。

式次第が笙の演奏で進められた。女性奏者による練達の演奏であった。私も一弦琴で笙と合奏したことがあるが、心の洗われる思いのする音色である。笙はいわばパイプオルガンを手で持てるほどに小型化したもののようで、パイプは17本の竹管で出来ている。和楽器には珍しく和音を出す。吹いているうちに内部が結露するので、ニクロム線の電熱で温めては演奏していた。笙の奏者がそれほどいるとは思えないので、この方は雅楽の演奏活動をしておられるのでは、と思ったりした。

出棺に際して、最後の対面をして棺桶を蓋で覆い、くぎ打ちをせずにしめ縄で周りを縛ったのも清々しく感じた。

神道では死者の魂が先祖の所にもどるそうである。自分の郷土、生まれ故郷に戻り空を飛び回っているのだろうか。心やすく飛び回るには「ふるさと納税」をしておくのもいいのかも知れない。魂に呼びかければ多分聞こえるのだろ。気安く心を通い合わせることが出来そうだ。そして時には残された人の上に降り立つのだろう。極楽に上がってしまった仏さんと違って、われわれの身近にいるというのにも親近感が持てる。

そういえば不思議なことがあった。先週の土曜日のお昼頃、地下鉄県庁前駅で降りて栄光教会に出る階段を昇った。私は体調を試すために普段は階段を2段ずつ昇る。しかしここの階段は一段が高いので一段ずつ、しかし勢いをつけて昇った。上で待っていると程なくして妻とかなり年配の老人が上がってきたが、その老人とふと目が合ったかと思うと「ご主人、おいくつです?」と声をかけてこられた。とっさに聞かれても自分の年が出てこない。それに何故年を聞くのか、との私の疑問が伝わってのであろう「とてもいい姿勢でサッサと歩いていかれるし、体格も立派だし」と(私がいうのではない)なんだかほめてくださるのである。そこで「昭和○年生まれですが」と答えると、その方は「私は大正13年です」といわれた。

見知らぬ男性にこのように話しかけられたことは、これまでもなかったように思う。ところがあとで分かったことであるが、ちょうどその頃、叔父の連れ合いが病床の側でもう最後が近いことを私に告げる手紙をしたためていたのであった。叔父の亡くなったのは翌朝の8時過ぎ。叔父がその老人の姿を借りて、私に別れを告げてくれたような気がしてならない。

私は仏さんにはなりたいとは思わないが、どこでもすぐに飛んでいける神さんならなってもいいような気がしている。

息子に見破られた偽装?コロッケに発して・・・

2007-06-25 17:12:23 | Weblog
妻が時々昔の苦労話をする。今も昔も家内のことは一切妻にまかせているので、初耳のことも多い。今、巷を賑わせている牛ミンチ偽装事件のテレビを観ていて、「偽装コロッケを見破られたことがある」という。

1966年から68年にかけてアメリカで生活していたころは、生活費に気を遣うことは一切なかった。一週間に一度、スーパーに出かけて食料品を仕入れる。必要なもの、目についたもの、値段のことをとくに気にすることなくボンボンとカートにほりこむ。その一回の買い物の写真を披露したことがある。その時はよかったのだが、帰国してからが大変だった(そうである)。まず肉の塊なんて日本での安月給で買える代物じゃない。塊どころかスライスすら物珍しくなった。もっぱら買うのはミンチ肉で、ステーキといえばハンバーグステーキであった。

鶏肉はあまり買わなかったようである。長男が嫌いだったらしい。ある日妻が一計を案じて、普段は牛ミンチをつかっているコロッケに、手作りの鶏肉ミンチを入れたところ、ものの見事に見破られたそうである。何だかおかしいと長男がいって、コロッケの中の肉片を一つ一つお箸でほじくりだし、絶対に牛肉でないと断じた上、冷蔵庫を調べて鶏肉を見つけ出したという。わが息子ながら天晴れである。見破られたとはいえタダで引き下がる妻ではないから、以後、意地でも牛ミンチに鶏肉ミンチを分からないように混ぜたであろうと想像したが、あえて聞きたださなかった。

舌が食べ物の味を覚えていると、何か異様なことがあればそれにかんずくのでは、という例に持ち出したつもりであるが、舌に限らず目で見てものに触れて何であるかを判断する、そのような動物的な感覚を人間は失いつつあるのだろうか。今回の牛ミンチ偽装事件でもその思いを深くした。

ミートホープ社の出鱈目ぶりは、マスメディアの報道の話半分としても相当なものだ。取引停止が相次ぐのは当たり前であり、いずれ消え去っていくだろう。善良な消費者を騙した罪は重い。しかし騙したところを除くと、田中稔社長は単なるお飾り社長ではなくて、現場で自ら仕事に取り組むアイディアマンであったようだ。牛ミンチ肉といわずに「何でもミンチ肉」と名付けておればよかったのでは、と思う。屑肉でも何でも上手に加工すると、われわれ消費者は文句一ついわずに美味しく頂くということを実証したのだから、その功績は極めて大きいといえる。

ひょっとしたら私もミートホープ社のミンチ肉の入った製品を何か食べているかも知れない。生協をよく利用しているからだ。外でコロッケも時々買う。しかし何の挽肉を使っているかなんて、これまで気にしたことがない。またいろんなコロッケを味わって、これは紛い物の肉が入っているなんて、感じたこともなければ疑ったこともない。多分ほとんどの方がそうではなかろうか。それはマーケットで売られている食品に対して、そこはかとなく安心感を抱いているからだ。その根底に、仕事に携わっている人への信頼がある。

ところが私が解せないのは、「何でもミンチ肉」の現物を直接目にし、また触れる立場にある人が、このような細工に誰も気がつかなかったのか、ということである。如何に偽装されようと、牛ミンチに他の動物のいろんな部位の挽肉が混ぜられているのを、そういう立場の人々が全員見分けられなかったとは私には信じられないのである。「何でもミンチ肉」の流通経路をすべて明らかにして、仕事に不誠実であった人々を洗い出し、不正に気付かなかったのかそれとも黙認したのか、その経緯などをつまびらかにすることが、このような事件の再発防止に欠かせないと思う。

そして極めて残念なのはミートホープ社の元役員の内部告発を受けたにも拘わらず、農水省が適切な対処を怠ったことである。この元役員は昨年春に苫小牧市にある農水省北海道農政事務所の出先機関にこの問題を告発した。そして《元役員は2度にわたって偽牛ミンチの現物を示し、調査を依頼したが、同事務所は受け取りを拒否。その1カ月半後に「具体的な疑義が特定できなかった」とする公文書を作成していたことがわかっている。》(asahi.com 2007年06月25日13時06分)とのことである。なぜそうなったのか、調査報告が待たれる。

ところで、ミートホープ社のやったことが大なり小なり食肉加工業界の慣行になっていて、農水省もそれを黙認していたとなると、John Grisham(「ペリカン文書」の作者)の出番になるのだが、果たして真相はどうなのだろう。

先生は偉いのだ、が教育の原点

2007-06-24 17:10:45 | 学問・教育・研究
中央公論7月号の内田 樹、諏訪哲二両氏の対談記事「”時代遅れ”の学校が子どもの下流化を食い止める」を読んだ。内田さんは『下流志向』(講談社)の著者(私はまだ読んでいない)で、諏訪さんは高校教師を定年退職後、「プロ教師の会」会長を務めておられる。一昨日、学ぶことについて一文を書いたあとだったので、私の考えを整理していただいたかのように感じた。その上、教育問題の専門家として数々のご意見に目を開かれる思いがした。

小学校で給食の時間、児童が一斉に「いただきます」と言って食事を始める。「ちゃんと給食費を払っているのに、何故いただきます、と言わないといけないのか」と学校にねじ込んだ親がいる、という話を聞いたことがある。『モンスター・ペアレンツ』の一例であろう。私の感覚では「変なことをいう親」なのだが、そのような親がいつ頃から出て来たのか、昔の学校しか知らない私には理解できないことであった。ところが内田・諏訪対談にその経緯が出ていたのである。その辺りの意見をピックアップしてみよう。「・・・」は私が省略した部分である。

《・・・教育行政が教育を「商品」と考えている・・・。そして今は、親や教育行政だけでなく、子どもたちまで、学校をお金を払って教育サービスを受けるところ、つまり「等価交換」をする場所だとおもっている・・・。》(諏訪)

《その意識の転換があったのは、一九八0年代です。七0年代までは、教師も生徒も、教育は国家や共同体から国民に与えられる「贈与」だと思っていました。あくまでも教師は「上」であり、生徒は教師から「贈与」を受けることで学ぶことができ、その積み重ねでより良い近代が作られると思っていたんです。》(諏訪)

なるほど、である。

六0年代末にあった学園闘争で学校、とくに大学が大きく揺れたが、それについても

《学生が教師に反抗するにしても、「こうすればもっと教育が良くなる」という主張なわけで、結局、「教育によってより良い共同体を作る」という教師と同じ目標を持っていた。それが八0年代に入ってからは、お互いの言葉がまったく通じなくなった・・・。》(諏訪)

そう、立場は異なっても学生と教師のあいだに連帯意識があったと私は思う。それが八0年代に入り、私語を注意すると、「私語なんかしていない」と平然というが、それも当然、この子たちが嘘をついてしまったと心を痛めたりはしていない、というのである。

《今から考えれば、「認める」よりも「認めない」ほうが自己利益になると本気で思っている。》(諏訪)

そういえば私が六0年代の半ば過ぎにアメリカに留学した際、先輩連に「アメリカではどんなことでも自分の非を認めたらそれで終わりやて」といわれたことがある。

諏訪さんはそのような子どもたちの変容に接して絶句し、最近になって、これは「等価価値」をしようとしているんだという一つの仮説を思いついたのである。

ではその変容がなぜ起こったかであるが、「社会的イデオロギーに大きな変化があった」というのが内田さんの見方で、諏訪さんは「イデオロギー的な変化というより、やはり消費社会になったことが一番の原因」と考える。

《子ども自身がイデオロギー的に判断を下したのではないと思います。でも、社会全体として、「自立しろ」「家族単位で行動するな」といったイデオロギー的な圧力はあったと思うんです。》(内田)

そして結果として

《「それぞれ部屋を借りて、自分のライフスタイルにこだわりましょう」というふうに風向きが変わった。(中略)この風潮をマーケットは歓迎した。消費単位が細分化すれば、マーケットは拡大しますから、当然といえば当然です。そういう風潮の中で、「集団でいることは悪いこと」「個人でいた方が自己利益が増す」という感覚が刷り込まれていった・・・。》(内田)

《・・・家庭と地域そして学校までもが消費社会に取り込まれてしまった。家事労働がなくなって、家の中のこともすべてお金でやりとりするようになり・・・、子どもがまったく保護されずに社会の風にさらされるという状況・・・。》(諏訪)

になったのである。

私なりに把握できたことは、損得勘定で子どもも大人も判断し動くようになったのであるが、問題は、

《今の消費社会は、きわめて幼児的な価値基準しか持っていない子供にも、自分で価値判断できるし、しなければならないと教えています。だから構造的に成長できるはずがない。実年齢は三十歳でも論理や情緒は小学生並みと言う人がいくらもいる。》(内田)

というところある。

問題の解決はこれからである。

このようになってしまった子どもは

《教師との間に非対称的な垂直的な関係を構築することに耐えられないから、学校がもたらす最良のリソースを拒否してしまう。基本から始めて順番に階梯を登り、知識や技芸を習得しつつ自己変革するという学びの原理そのものが理解できない。》(内田)

なるほど、と納得である。それを別の言葉でこう語る。

《先生に出会って師事するとき、弟子はこの先生がどう「すごい」のかを自分の言葉では説明できない。その先生の「すごさ」を計量する度量衡をまだ持っていないんですから。学びはこの「自分の度量衡が使いものにならない」という不能の覚知からしか始まらないんです。》(内田)

まったく同感である。やはり教育の原点は『先生は偉い』にある。その偉さが見えると先生を尊敬する気持ちに自然に繋がっていく。しかし小学生にそれを期待するのは無理のような気がする。『先生は偉い』を親が子どもに躾けなければならない。それには親自身が先生という職業に敬意を払うことがまず肝要であろう。何かあると先生を論うのは百害あった一利無し、先ずそういう親に退場していただかねばならないのかと思う。『モンスター・ペアレンツ』退治に教育者側が積極的に立ち上がりそうな最近の流れを歓迎する。

『モンスター・ペアレンツ』なる言葉が歩き始め、マスメディアも取り上げる。珍しいから、また異常だからニュースになるのだと思えば、私は大騒ぎすることもあるまいと思う。現場の教師の教育にかける情熱と、それに応える健全な家庭がまだまだ多数だと信じているからである。

学びの本道とは そして一弦琴「明石」の再演

2007-06-22 13:55:18 | 一弦琴
今週は一弦琴のお稽古があった。2週間前の稽古では「明石」のお浚いをさせられたことがちょっと不満だった。新しい曲に進む予定だったからである。ところが、お浚いをしているうちに、これもいいなと思った。

以前に習った曲でもどのように演奏したのか、時間が経つといい加減忘れてしまう。それをお浚いが思い出させてくれる。初めに習うときはお師匠さん(おっしょさん)の演奏を真似して覚えるだけで精一杯である。ところがお浚いでは、お師匠さんの指使いをちらちら見るゆとりがでてくる。この時はどうされるのだろう、と自分で「知りたい」ポイントで、注意を払うのである。

お師匠さんの演奏姿勢は美しい。手の動きも滑らかで、踊りのようにも見える。それでいて要所要所では手の位置がピシッと決まる。その要所をおさえるのが難しい。「ピシッと止めて」とよく注意される。私の手が「惑い箸」よろしく、フラフラ揺らいでいるからだ。

声の出し方はよく注意されていた。実は私はオペラのアリアを何曲かは歌いたい、と一念発起してヴォイストレーニングを受けている。それでついつい口を開けてしまうのだ。すると「声は前に出すのじゃないの。ここに当ててご覧なさい」と後頭部をぺたぺたと叩かれる。ところがそれがいつまで経っても出来ない。一人の人間が声を前に出したり後に当てたり、そんな器用なことができるか、と居直っていたこともあった。そしてお師匠さんに「出来ません」を連発していた。

ところがある時ふと思ったのである。我流を押し通すのなら、何もわざわざ神戸から京都までやってきて、自分の出来ないことを棚に上げて、お師匠さん議論を吹っ掛けることもないじゃないか、と。ましてや一弦琴を通じてでも昔の人と心を通わせたい、と思っている私にとって、お師匠さんは『口寄せ』ではないか。そこで、私はお師匠さんの云われることに素直に耳を傾けて、その通り実行することにした。

すると面白いもので、何を注意されているのかが分かってくる。例えば「明石」の出だし、「所から」と私が唄うと、「あなたの『ら』こう。このように出してご覧なさい」とお師匠さんが私の『ら』とご自分の『ら』を歌い分けてくださる。その違いがはっきりと区別できるのである。それでは「後に当てる」というのを自分の言葉で説明できるか、といえば、私には自信がない。それなのに説明の言葉に拘りすぎていたのである。言葉での説明で分かるのなら、本を読んでも分かることだろう。わざわざ人に教えて貰うことはないのである。

お師匠さんの発声をとにかく真似る。駄目なら直されるし、よければそのまま進む。我を出さずにひたすら真似る。学ぶとは真似ることなのであった。

日本国語大辞典(第一版)にも《まな・ぶ【学】(まねぶ(学)と同源)①ならって行う。まねてする。》とあり、《まね・ぶ【学】①他の者の言ったことやその口調をそっくりまねて言う。口まねして言う。》とある。私はその学びの本道から大きく逸れていたのであった。

出来る限り我を抑えて「明石」をお浚いした。


追記(6月29日)
後半部分をアップロードした。

「グローバルCOEプログラム」を大砲巨艦建造に終わらせないように

2007-06-20 23:04:31 | 学問・教育・研究
平成19年度の「グローバルCOEプログラム」審査結果がこの度公表された。63件が採択されて、今年度の予算額は158億円とのことである。5年間継続のプログラムなので、単純計算では総額790億円になるから、金額的には巨大計画である。

その「グローバルCOEプログラム」審査結果についてに目を通すと、《「グローバルCOEプログラム」は、我が国の大学院の教育研究機能を一層充実・強化し、世界最高水準の研究基盤の下で世界をリードする創造的な人材育成を図るため、国際的に卓越した教育研究拠点の形成を重点的に支援し、もって、国際競争力のある大学づくりを推進することを目的としている。》

さらにこう続く。

《本事業は、国公私立大学における大学院研究科専攻等(博士課程レベル)が、国際的に卓越した教育研究拠点を形成するための事業計画に対して補助を行うもので、
① 学長を中心としたマネジメント体制による指導力の下、大学の特色を踏まえた将来計画と強い実行力により、国際的に卓越した教育研究拠点を形成する計画であること。
② このグローバルCOEプログラムで行う5年間の事業が終了した後も、国際的に卓越した教育研究拠点としての継続的な教育研究活動が自主的・恒常的に行われることが期待できる計画であること。
研究プロジェクトではなく、世界最高水準の優れた研究基盤や特色ある学問分野の開拓を通じた独創的、画期的な研究基盤を前提に、高度な研究能力を有する人材育成の機能を持つ教育研究拠点(人材養成の場)を形成するものであって、将来の発展性が見込まれる計画であること。》(後略)(強調は私)

すなわち「グローバルCOEプログラム」は単なる研究プロジェクトではなく国際的に卓越した教育研究拠点を形成する計画であることを強調している。

この『作文』が具体的に意味するところは、その予算の使途を目にすることが出来ないので直ちに判断できないが、私にはこれもまた大型実験装置など『箱物』作りのように見えてくる。「世界最高水準の研究基盤の下で」なんて、書かれているからである。研究プロジェクトではなくとのことわりが目つぶしで、とどのつまりこれまでのような大型プロジェクトと大同小異なのではなかろうか。

「グローバルCOEプログラム」が目指すのが国際的に卓越した教育研究拠点を形成であるのなら、出来上がった『拠点』は何の為に使われるのか。云うまでもなく高度な研究能力を有する人材育成であろう。しかし現存の教育・研究施設では物足りないのだろうか。私にはそうとは思えない。現に各分野に於いて世界に誇る業績を挙げている研究者は大勢おり、その様な方々がこのプロジェクトでも拠点リーダーとして名のりを上げているではないか。

まだまだ大型実験装置が足りないということで、どんどん買い込むなり作ったとしよう。しかしそのランニングコストはどうなるのか。上に《② このグローバルCOEプログラムで行う5年間の事業が終了した後も、国際的に卓越した教育研究拠点としての継続的な教育研究活動が自主的・恒常的に行われることが期待できる計画であること。》と述べられている。しかしそのための5年後の予算処置は見えてこないから、現時点では『作文』に終わっていると云わざるをえない。これは燃料を確保する目途もないまま、燃料大食いの戦艦大和・戦艦武蔵を建造した旧日本海軍の頭脳構造と変わらない。早々に『みずくかばね』になりかねない。

そう思うと『教育研究拠点』という発想が『戦争ごっこの陣地作り』に見えてくる。大砲巨艦に陣地、それを造れば事足れりで終わっているようで、もっとも肝腎なその先が見えてこない。その先とはもちろん高度な研究能力を有する人材育成なのである。この目的を達成するのに最も必要なことは大砲巨艦の建造、陣地の構築ではない。若手研究者が自らの発想でテーマを定め、自ら研究を推し進める環境を整えることである。『箱物』は現在あるものを活用すれば十分ではないか。

一言で云えば「グローバルCOEプログラム」は高度な研究能力を有する人材育成には迂遠なものである。と云うより、『人材育成』が大砲巨艦の建造、陣地の構築の口実になっているようにも見える。これを本末転倒という。

COEなる言葉が先ずありき、で拠点作りの発想になったのであろうか。横文字かぶれの悲しさである。風林火山ではないが、人は城人は石垣人は掘である。『人材育成』にこそ新しいプログラムを発足さすべきであったのだ。

高度な研究能力を有する人材育成を本気で目指すのなら、またそうであるべきだが、若い能力のある研究者に思う存分自分の発想で研究をさせる、それが最も望まれることである。若手研究者とはポストドクと30歳代前半の助教クラスを主体に、特例として博士課程の大学院生とするのが妥当であろう。彼ら自身が研究リーダーになるのである。「ポストドク募集」に群がるようなシステムではない。自ら研究費と生活費を獲得するのである。

「グローバルCOEプログラム」はとにかく発進した。仕事がらみで直接お話ししたことのある方が四名ほど拠点リーダーとなっておられるが、若いときから頭角をあらわした方々である。だから研究費が獲得できたということに個人的にはCongratulations!なのであるが、その運用に裁量を大いに発揮していただきたいものである。例えば自分が評価可能な領域の研究テーマを若手研究者から募集して、採択をリーダーが決定すればよいのである。遅くとも10年後にはその決定の是非の評価は定まることであろう。

生命科学系なら、基本的な実験器具・装置一式を備えた40~50平米ぐらいの研究スペースを各人に与え、研究費・生活費を年額500~1000万円程度は支給する。これで思う存分3~5年間研究に没頭させるのである。

この夢のような話が現実になれば、ゆくゆくは世界中の主要な大学・研究所で日本人リーダーが指導的役割を果たしているような時代が生まれることであろう。「グローバルCOEプログラム」による拠点作りを早々に飛び越えて、『人材育成』に全てのエネルギーを集中することこそタックスペイヤーである国民の負託に応える途である。

若手研究者の育成については、私見を以前のエントリーノーベル医学生理学賞が日本に来ないのはなぜ?でも述べたことであるので、お目通しを頂けたらと思う。



実験再現の難しさを考える

2007-06-17 17:23:34 | 学問・教育・研究
6月15日の私の記事「大阪大学大学院医学系研究科教授会の摩訶不思議な行動」の中で《新聞記事からは何が発端になってこの論文が問題になり、またどのような経過をたどって教授会が下村教授にこの論文を取り下げるように通知するに至ったのか、その詳細が一切分からない。》と記した。

ところが私が拠り所としたasahi.comの記事は、朝日新聞本紙の記事の抜粋であった。6月15日朝日朝刊一面中央の《阪大教授、論文に不備 教授会「実験ずさん」判断 取り下げ要求》の見出しに続く記事に、《この論文に対して「不正行為があった」という申し立てが昨年4月に同研究科にあり、同研究科のの研究公正委員会が下村教授らから聞き取り調査などをしていた。》と述べられている。朝日新聞がこの問題の発端とその経緯について、一応の説明をしていたことになるので、この旨を前回の記事に補足させていただく。

一方、YOMIURI ONLINEの《医学論文は「不適切」…阪大で同僚教授に取り下げ求める》(2007年6月15日 読売新聞)にも、問題の発端と経緯が簡潔にまとめられていた。

《昨年4月、「実験の結果に再現性がない」などとする訴えがあり、同研究科の研究公正委員会が不適切と考えられた8項目を調査。ビスファチンが糖を脂肪に変える仕組みを調べるため複数回行った実験では、想定上の結果が出たデータだけを取り上げ、仕組みを説明していたことがわかったという。》

《遠山正彌(まさや)研究科長は「実験結果が再現できないという報告は海外の研究者からも出ていた。記述の修正だけでは適切な論文にならないと判断したので、取り下げを求めた」としている。》

《同研究科教授会は14日、「都合のよい実験結果をもとに構成している」などとして、取り下げるよう下村教授に求めた。》

このようにYOMIURI ONLINEの記事を連ねると、朝日新聞の「不正行為があった」よりもう少し具体的な「実験の結果に再現性がない」との訴えがことの発端のようである。いずれにせよ表面的なことは分かっても、ことの実態は見えてこない。

《「実験の結果に再現性がない」などとする訴えがあり》とあるが、誰が(単数、複数?)誰に訴えたのだろう。

研究者は自分の研究に関わりのある面白そうな結果が論文で報告されると、追試をしてその事実を確認したくなることがある。うまく再現できればその旨を自分の論文に記し、相手を評価するメッセージを加えることもある。

確認したくても出来ないこともある。たとえば相手が特殊な測定装置を手作りして、いわば世界で一台しかない装置を使って得たデータは、第三者には確認のしようがない。自分がその装置を持つまでは相手の独擅場である。また経験の違いによる力不足で、報告された結果をなかなか再現できない場合もある。たとえば技術の洗練度が問題のように感じたとすると、礼を尽くして相手に教えを乞うのもままあることである。

実験を再現出来ない、それは相手の実験とその解釈に問題があったからだ、と云う場合もある。その『誤り』を正すことを論文の主題とすることもある。

以上述べたような事例は、直接に接触するか論文を介しての応酬になるにせよ、研究当事者同士のやりとりで、ごく当たり前のことである。

YOMIURI ONLINEの伝える「実験の結果に再現性がない」とは、どのような状況でのことだろう。追試者がどうしても実験を再現できず、それ気になれば、最初に話し合うべき相手は下村教授であろう。ところがこの記事では追試者が誰であったのかは分からず、また訴えられて行動を起こしたのが同研究科の研究公正委員会とのことであるので、研究当事者同士の研究上のやりとりではなくなっている。結局この問題は朝日新聞が報じるように『研究不正の告発』なのであろう。

ここで私は教授会の対応を改めて取り上げたい。教授会は「論文取り下げを求めた」のであるが、私は一昨日の記事で「アホかいな」と呟いたり、「教授会はお節介」と決めつけたりした。これはasahi.comの記事に基づいての反応であったが、今でも変わらない。その理由をYOMIURI ONLINEの記事で私が強調表示した二カ所との関わりで説明してみようと思う。

まず実験結果が再現できないということについて、実験結果を再現することが容易でなかった一つの例を取り上げてみる。

「タンパク3000プロジェクト」でもテーマの一つになったのではないかと思われるのは膜タンパクの構造決定である。その最初の例が「光合成反応中心の三次元構造の決定」で、それを成し遂げたJ.Deisenhofer、R.Huber、H.Michelの三博士が1988年ノーベル化学賞を受賞している。そして膜タンパクとして二番目に構造決定されたのが、呼吸に重要な働きをするチトクロム酸化酵素である。この酵素の結晶化の過程を取り上げたいのである。

牛心筋由来のこの酵素の結晶化の最初の報告は、アメリカのJBC誌に1961年に現れた。
「Studies on Cytochrome Oxidase  III. IMPROVED PREPARATION AND SOME PROPERTIES」で「Green crystals from a highly concentrated and purified preparation of cytochrome oxidase in the presence of a detergent,Emasol 4130 (X600)」という説明付きで結晶写真が示されている。

タンパクが結晶化すると云うことは、そのタンパクの純度が極めて高いという指標にもなる。従ってタンパクを精製する人にとっては結晶化が一つのゴールになる。しかし水溶性ではなく、可溶化に界面活性剤を必要とする膜タンパクの結晶化は至難の業とされていたのである。その最初の報告例であった。

この報告が出て私もこの酵素の結晶化を試みたが、なかなかうまくいかなかった。そこで卒業実験(1969年度)に来た学部学生にこの酵素の結晶化をテーマに与え、学生と四苦八苦の末、遂に結晶化に成功したのである。貴重な結晶であったのでその顕微鏡写真を他の研究室の顕微鏡写真のエキスパートに撮っていただき記念とした。結晶化のみに専念したのではないが、再現までに9年かかったことになる。しかし単なる追試だから論文には値しなかったし、また結晶化の再現度は低かった。結晶化の論文が次に現れたのは1980年、アメリカのPRONAS誌上である。

「Crystallization of part of the mitochondrial electron transfer chain: Cytochrome c oxidase-cytochrome c complex」で、膜タンパクの結晶化に新機軸を持ち込んだからこそ論文の価値があった。最初の報告からかれこれ20年経っている。そして三番目が1988年、同じくPRONAS誌に発表された。最初の報告から27年経っている。

「Crystalline cytochrome c oxidase of bovine heart mitochondrial membrane: Composition and x-ray diffraction studies」で、この論文が画期的なのはこの酵素を単に結晶化したというだけに留まらず、X線回折のパターンを得たことで、立体構造決定への道を開いたからである。「X-ray diffraction pattern of a cytochrome c oxidase crystal.」の説明付きで回折パターンが掲載されている。そしてこのグループが1996年にこの酵素の完全な立体構造を、動物由来の膜タンパクとしては始めて決定する偉業をなしとげた。

以上は極端な例かもしれないが、このように実験を再現するのはおおごとなのである。結果を出すまでの実験過程を規定する条件が多ければ多いほど再現が難しくなる。私自身が経験したチトクロム酸化酵素の結晶化でも、一度成功したらと云って、そのあと必ずうまくいくものではない。私が自分自身で繰り返しても失敗の連続だった。しかし一度でも結晶化し、しかもその証拠を写真として残しているからには、本人にとって結晶化に成功は動かない事実なのである。失敗を繰り返しているうちに新しい知見が蓄積し、ブレイクスルーを経て再現性確実な段階に至るのである。

ここで私は実験結果が再現できないとは、そう簡単に云いきれるものではないことに注意を促したいのである。その前提で大阪大学医学系研究科教授会の都合のよい実験結果をもとに構成しているとの批判を見直してみるとどうなるか。10回試みたうち一度でも(結晶化に)成功したら、成功は本人にとっては事実なのであるが、これが取りようによっては「都合のよい実験結果」と見なされてしまうだろう。しかしその一度だけの成功を公表するかどうかは、まったく研究者の判断にかかっている。ここに研究者の本能が働く。再現性が100%容易に確認できるような実験は、いわば凡庸な研究であるともいえる。再現の確率が極めて低くても研究者の本能がその正しさを確認する。ここに科学の創造がある。この過程に第三者は関与することができない。多数決で決めるようなことではないからである。このような微妙な問題に教授会は足を踏み入れてしまったのである。そして私の批判的反応をひきおこしたと云える。

大阪大学医学系研究科教授会はあくまでも『研究不正』の有無を明らかにすることに徹すべきであった。その『研究不正』とは極めて限定的な内容のものでなければならない。例えば理化学研究所が平成18年に制定した「科学研究上の不正行為への基本的対応方針」の中では研究不正を次のように規定している。

《「研究不正」とは、科学研究上の不正行為であり、研究の提案、実行、見直し及び研究結果を報告する場合における、次に掲げる行為をいう。ただし、悪意のない間違い及び意見の相違は研究不正に含まないものとする。(米国連邦科学技術政策局:研究不正行為に関する連邦政府規律2000.12.6 連邦官報 pp. 76260-76264の定義に準じる。)

(1) 捏造(fabrication):データや実験結果を作り上げ、それらを記録または報告すること。
(2) 改ざん(falsification):研究試料・機材・過程に小細工を加えたり、データや研究結果を変えたり省略することにより、研究を正しく行わないこと。
(3) 盗用(plagiarism):他人の考え、作業内容、結果や文章を適切な了承なしに流用すること。》私も極めて妥当だと思う。

6月15日朝日新聞は《捏造、改ざん、盗用などの証拠は認められなかったが、実験がずさんで不備があり不正の疑いがあると判断した》(強調は私)と教授会の発表をまとめている。教授会はこの強調部分のみで判断を下すべきであった。「研究不正」の証拠は認められなかったら、『疑いをかけられた人』は白とすべきなのである。ところが捏造、改ざん、盗用などの証拠は認められなかったにも拘わらず、「不正の疑いがあると判断した」と結論するのは、この結論が先にありきの疑いを強くさせる。教授会に強調部分で留めるべきとの良識的な判断が働かなかったことを極めて残念に思う。

以上は新聞の限られた報道にもとづく私の見解であるが、大阪大学が詳細な報告を公表すれば改めてその内容を精査したい。しかし私の見解の本質は大きくかわることはないように思う。


大阪大学大学院医学系研究科教授会の摩訶不思議な行動

2007-06-15 19:46:09 | 学問・教育・研究
《大阪大学医学系研究科は14日教授会を開き、同研究科の下村伊一郎教授らが、肥満と糖尿病に関する研究で04年に米科学誌に発表した論文を取り下げるよう、本人に通知した。捏造(ねつぞう)、改ざん、盗用などの証拠は認められなかったが、実験がずさんで不備があり、不正の疑いがあると判断した。同大は、指導していた学生がデータを捏造して論文を書いたとして、昨年2月にも下村教授を停職14日の懲戒処分にしている。》(asahi.com 2007年06月14日)

下村伊一郎教授といえば論文データ捏造事件で停職14日の処分を受けた方である。私はその処分の軽さに唖然として大阪大学大学院医学系研究科教授会の見識を疑ったことがある。そ話がまだ続いているのかとちょっと教授会を見直しかけたのであるが、どうも話の辻褄が合わないことに間もなく気付いた。

データ捏造事件で取り下げた論文は「ネイチャーメディシン」に一度は掲載されたものである。ところが上の記事で問題にされているのは、米科学誌サイエンスの電子版に04年12月、雑誌に05年1月に掲載されたものと云うではないか。また新しい事件なのである。

報道された掲載時期から判断すると、これはScienceに掲載された「Visfatin: A Protein Secreted by Visceral Fat That Mimics the Effects of Insulin」というタイトルの論文であると思われる。しかし新聞記事からは何が発端になってこの論文が問題になり、またどのような経過をたどって教授会が下村教授にこの論文を取り下げるように通知するに至ったのか、その詳細が一切分からない。その事情が分からないままではあるが、データ捏造で論文を取り下げた責任者の下村教授を停職14日で済ませたこの教授会の見識のなさに呆れた私の先入観が働いて、つい「アホかいな」と呟いてしまった。

教授会がお節介なのである。私の論文に教授会が「捏造(ねつぞう)、改ざん、盗用などの証拠は認められなかったが、実験がずさんで不備があり、不正の疑いがあると判断したから、取り下げるべきである」などと、私も納得する根拠なしに、横から口を出したとしたら、怒髪天をつくであろう。研究者であることを否定する不法干渉だから当然である。

私は論文捏造事件の責任者である下村教授が現職にとどまっていることには納得していない。しかしその心情と、今回の教授会の決定に対する私の不審とは別物である。教授会が同僚教授に対して「論文の出来が悪いから取り下げよ」と云うのは、それが強制力を伴わない現状である以上、たんなるお節介に過ぎないのである。そういう無意味なことに教授会が時間とエネルギーを浪費すべきではない。

重要なことは上記のScience論文の評価を確立することである。具体的には以下に引用する抄録に記されているいくつかの結論の正否を明らかにすることである。必要とあれば当事者に追試をさせればいいではないか。

「Fat tissue produces a variety of secreted proteins (adipocytokines) with important roles in metabolism. We isolated a newly identified adipocytokine, visfatin, that is highly enriched in the visceral fat of both humans and mice and whose expression level in plasma increases during the development of obesity. Visfatin corresponds to a protein identified previously as pre-B cell colony-enhancing factor (PBEF), a 52-kilodalton cytokine expressed in lymphocytes. Visfatin exerted insulin-mimetic effects in cultured cells and lowered plasma glucose levels in mice. Mice heterozygous for a targeted mutation in the visfatin gene had modestly higher levels of plasma glucose relative to wild-type littermates. Surprisingly, visfatin binds to and activates the insulin receptor. Further study of visfatin's physiological role may lead to new insights into glucose homeostasis and/or new therapies for metabolic disorders such as diabetes.」

結論はきわめて明瞭である。これらがたとえ一つでも事実と異なっていることを教授会は確認しているのだろうか。

上記論文は発表されてから2年以上経過しており、その間すでに少なくとも200編ほど他の論文により引用されている。論文が200回も引用されるとは大変なことであると私は思う。分野で違いがあるにせよ、私の論文で100以上引用されたのは残念ながらない。それでも二桁引用で十分満足しているのである。上記の下村論文を引用している論文全てが、下村論文を否定し去っているとは私には思えないのである。

下村論文が200編もの論文にどのように引用されているかを調べるだけでも、かなり客観的な判断を下すことが出来るはずである。その様な調査をも行った上での今回の教授会の決定なのであろうか。そのあたりの事情をぜひ明らかにしてほしいものである。

繰り返しになるが私は下村教授の肩を持つのではない。大阪大学大学院医学系研究科教授会の私の常識では理解できない『論文取り下げ勧告』という行動に、私の『天の邪鬼』が勝手に反応してしまったようである。教授会は中途半端な処置でお茶を濁すのではなく、阪大杉野事件で大阪大学大学院生命機能研究科が作成した調査報告書のようなものをまずは公表すべきである。

戦艦陸奥爆沈で思い出した学生時代

2007-06-11 16:08:36 | Weblog
6月8日のお昼にたまたま回したテレビチャンネルで、戦艦陸奥爆沈にまつわる話を伝えていた。みのもんた氏が司会する番組の中の「今日は何の日」のコーナーであった。このコーナーはその日に関わるいろいろなテーマについて、例えばその日が誕生日とか命日の誰かの話とか、その日に起こった歴史的な出来事とかを、丁寧な取材に基づいて紹介するもので、なかなか興味深い話が多い。「フーテンの寅さん」的司会者みのもんた氏のコーナーに留めておくのがもったいないような番組なのである。

戦艦陸奥は戦艦長門とともに、戦艦大和、武蔵の完成まで日本海軍の中心的主力艦であった。世界で最初に16インチ(41センチ)砲八門を搭載し、また最高速度が26.5ノットという世界で最強・最速の戦艦であった。大正10年に建造されたが、昭和10年に水平・水中防御の強化を図って大改装が行われ、排水量が当初の33000トンから40000トンに増加した。ところが戦争さなかの昭和18(1943)年6月8日、呉軍港外の柱島泊地に係留中、火薬庫爆発により瞬く間に爆沈したのである。死者は艦長以下1121名と云われる。

その3日前の6月5日には、4月18日に戦死した連合艦隊司令長官山本五十六元帥(5月21日に公表)の国葬が行われたばかりである。ほっとする間もなく起こったこの陸奥爆沈に震撼した海軍上層部は、爆沈の事実の秘匿を厳重に計ると共に原因解明に直ちに取りかかった。この経緯は吉村昭著「陸奥爆沈」に詳しい。吉村氏は可能な限りの関連文書を精査し、また生存する関係者をつぶさに調べ上げて自らインタビューして陸奥爆沈の謎に迫ったのである。そして、公の報告では原因不明とされたが、実は人為的な原因による可能性が極めて高いことを、容疑者の氏名を把握した上で強く示唆している。第一級のドキュメンタリー作品であると私は思う。



吉村氏が資料収集の過程で、それまで秘匿されていた大日本帝国海軍軍艦で発生していた火薬庫爆発事故の記録を発見したことは注目に値する。「陸奥」以前にも、日本海海戦で旗艦だった「三笠」の爆沈を始めとして、七件の火薬庫爆発事故が発生していたのである。原因としては、乗組員の行為によるものが三件、同様の行為によることが確実なものが二件、そして原因不明が二件とされているのであるが、原因不明二件も人為的疑いが濃厚であると吉村氏は結論しているのである。

重大事故の秘匿は軍機にかかわることゆえ、当時としては当然のことであろう。しかし軍紀厳しいはずの日本海軍で、人為的原因で七件もの重大事故(七件のうち四件が爆沈)を起こしたことに、昨今世上で批判的に取り沙汰される原子力発電所や企業におけるモラル・ハザードの原型を見てしまう。ましてや『軍隊ではないはず』の自衛艦で起こったような『機密漏洩』に、驚く方がおかしいのかもしれない。

かっての『軍国少年』は、当然ながら?戦記に対する関心が一入である。この「陸奥爆沈」も出版当時早速買い求めて一気に読み上げたが、この時に思いがけない発見に興奮したのである。

陸奥爆沈の原因として敵潜水艦による魚雷攻撃も考えられた。しかし魚雷の航跡を見たものもなければ、魚雷命中の衝撃を感じたという証言もないし、舷側に上がるはずの水柱を目にしたものもいないのである。必然的に内部爆発の可能性が高まった。そしてこのような記述が続く。

《この点については、ほとんど決定的とも思われる証拠が提出された。それは、救難隊の潜水調査によってあきらかにされた爆発箇所と思われる切断部分の外板が外側にまくれているという事実と、呉海軍病院外科部長○○軍医大佐の内部爆発説を裏づける意見であった。○○大佐は、「陸奥」の負傷者を診断し、足首の部分を骨折している者の多いことに注目した。この現象ははげしい衝撃が下方から突き上げた、つまり艦内から爆発の衝撃が起こったことをしめすものだというのだ。》(100ページ)

私は以前偉かった昔の教授で、《私が卒業実験のために所属した研究室では教授は既にベンチワークから退き、実際の研究指導は助手の先生から受けた。研究室でのあらゆることから始めて実験材料、実験器具などの取り扱い、実験手技にデータのまとめ方、論文の書き方のすべてを日々の『共同生活』を通じて教わってきた。》と述べたことがある。○○軍医大佐こそ、この助手の先生の父君であったのだ。

この助手の先生SIさん(私のいた研究室では教授のみを先生と呼び、あとの教官はすべて「さん」付けであった)は、私が研究生活に足を踏み入れるにあたって、文字通りの師匠であった。卒業研究から始まり、修士論文の仕上げに学術誌への発表まで、懇切に指導していただいた。旧制一高の卒業で阪大理学部生物学科の第一期卒業生、そして卒業と同時に助手になられた。私が四、五番目ぐらいの弟子になるのだろうか、その四人で撮った写真が残っている。写真の左手に見えるのが確か研究室の窓だったと思う。背筋のスラッと伸びた紳士がSIさん、といっても腰に手ぬぐいをぶら下げているところは蛮カラ高校生風、また難民のような風体の男が私で、引き揚げ者用に特配になった毛布で母が仕立てた服を着ている。当初父が着ていたが、戦後10年過ぎて労働着に転用したのであろう。



私も少しは旧制中学の蛮カラ気風を引き継いでいたところがあって、研究室内では夏冬問わず裸足で過ごしていた、いや、過ごそうとした。靴底の減りがもったいなかったこともある。ところが私の裸足がどうも目障りというか、問題視されていたようで、SIさんからもしばしば注意を受けていた。適当に聞き流していたがある日、「○○君、頼むから裸足をやめてくれ。ガラス切れでも踏んで怪我をされたら俺の責任になるから」と懇々とさとされて、やむなく古靴を履きだした覚えがある。

自分でいうのもなんであるが私は小憎たらしい学生だった。その頃の研究室ではタンパクの精製が大きなテーマであった。色の付いたタンパクをイオン交換樹脂クロマトグラフィーで精製する時などは、長さが1メートル以上もあるガラス管にイオン交換樹脂を詰めて試料の入った溶液を上から流す。色が付いた溶液が下からで始めるとそれを集めるのであるが、なかなか時間がかかる。そこで時にはその横で先輩連がパチパチと碁などをうって気長に時間を過ごすのである。いつの間にか岡目八目が集まる。これが結構五月蠅いのである。それである日先輩連に「神聖な研究室で碁を打つとはなにごとぞ」と文句を云ったりしたのである。それ以来一目を置かれている?ようなところがあったが、何かの折に「そう云うけどな、お前らの歌、結構五月蠅いんやで」と云われてギャフンとなった覚えがある。教養時代に一緒にコーラスをやっていた友人と同じ研究室に入ったものだから、実験室に隣り合ったセミナー室で、人のいない時、ついつい二人で歌ってしまうのである。でも声は実験室に筒抜けになっていたのである。

クロマト用のイオン交換樹脂も自分たちで完成品にする時代だった。樹脂の塊を小さく砕き、大きなすり鉢で細かい粒子にまでする。それを篩いを組み合わせて一定の粒度のものを集めるのである。何十時間もかかる作業で、すりこぎをモーターで回すものだから噪音も凄かった。

タンパク分離用の新しいクロマト担体がアメリカで商品化されて、その威力が喧伝された。DEAEセルロースである。しかし輸入品を気軽に買えるようなご時世ではない。その製法がアメリカ化学会雑誌に出ているということで、SIさんに勧められて私がそれを合成することにした。原料は東洋濾紙から購入した濾紙パルプである。高校時代に化学研究部でのクラブ活動を心の拠り所にしてやるのだから、無謀といえば無謀である。そして案の定、事故が発生した。モノは一応出来上がったのであるが、夜遅く家にたどり着くころから目が痛み出した。痛みでほとんど一睡も出来ず、朝が明けるのを待って目を開けることが出来ないので母に連れられて病院に行った。

DEAEセルロースの合成の過程で発生したアルカリ性の有毒ガスにやられたのである。痛みは激しかったが、幸い目に損傷を受けることもなく、一週間もすれば眼を開けられるようになったが、SIさんにすっかり心配をかけてしまったのである。そのSIさんも実験中の事故で爆発した小型ガラス容器の破片が眼球にささったことがある。この時も幸い失明には至らなかったが視力が低下されたようだった。

そう云えば、中庭に隔てられた隣の棟にある化学の研究室ではよく人がぶっ倒れた。距離はあまりないから動静がよく分かる。ドタッと大きな音がする。それにバタバタ、ドタドタと足音が続く。ここでは青酸を使ったシアンヒドリン法でアミノ酸を合成していたようで、ボンベからの青酸ガスが時々洩れるらしい。ドタッというのはそれを吸った人が床に倒れる衝撃音なのである。あとは倒れた人を仲間が急いで担ぎ出すその足音である。私の知る限り、亡くなった方はいなかったようだ。「またやりよった」とわれわれも慣れっこになっていた。せっかくカナリアを飼っているのに、あまり役に立たなかったようだ。われわれの起こした事故と云い、安全に対する意識がなんとも低い時代だった。

徹夜実験が当たり前の時代だった。仮寝に寝袋を持っている人はブルジョアで、私は着のみ着のままでセミナー室の大テーブルの上に直に寝た。冬は寒くて、若き日のキュリー夫人を真似て木製長ベンチを身体の上に置いたりしたが、寒さよけには効果がなかった。そんなある日、皆が大騒ぎしながら部屋の壁を見ている。何だろうと思ったら、小さい粒々が天の川を形づくって壁面を移動している。ダニの巨大集団だったのである。それ以来少し衛生環境を整備しようということになった。

このような話が次から次へと心に浮かんでくるが、またの折に譲ることにする。ただ一つ、この機会に記しておきたいことがある。

この写真の右手にある建物(写ってはいないが)にかってサイクロトロンが設置されていた。荷電粒子の加速装置で、先日述べた「タンパク3000」プロジェクトで、タンパク分子の立体構造決定にSpring-8の果たした役割について少し触れたが、サイクロトロンはいわばその前身である。アメリカのE.O.Lawrenceが考案したこの加速装置が最初に建設されたのは1931年、その5年後、昭和11(1936)年に28インチ(71センチ)サイクロトロンの建設が阪大で着工され、翌年に一応完成した。理研では阪大に先立ち昭和10(1935)年に着工したが、完成は阪大の方が1ヶ月早かったので、阪大のが世界第二番目のサイクロトロンということになる。そしてわが国の原子核物理学の実験的研究の中心となったのである。

敗戦後の1945年、このサイクロトロンは理研の2基、京大の1基とともに占領軍により破壊されてしまった。占領軍はこれで日本の原子爆弾製造への道を断ち切ったとでも思ったのかも知れないが、「羮に懲りて膾を吹く」の類の、アメリカ軍の蛮行であると云えよう。写真の背景は文明破壊の荒涼とした雰囲気を伝えているようにも思えるのである。

閑話休題。

SIさんは私が大学院の博士課程に進んでまもなく米国に2年余り留学され、その間、私は博士号を取得した。帰国後は留学の成果を生かして新しいプロジェクトに取り組まれた。その頃は助教授になっておられて、私がこれまでの研究路線を引き継ぐような形となった。私がエール大学にResearch Associateとして留学したのもSIさんのお勧めと紹介によるものだった。神戸港からさくら丸で渡米することになり、1966年7月、船内でお見送りを頂いたのが永の別れとなったのである。

昭和42(1967)年の暮れ、私はカリフォルニア大学サンタバーバラ校で研究に従事していた。同じくアメリカに留学していた研究室の先輩から電話でSIさんの訃報を知らされたのである。朝、電車の駅から大学構内までどなたかと一緒に話をしながら歩いて来られたが、構内に入って急にパッタリ倒れ、そのまま亡くなられたとのことだった。呆然とした私は言葉もなかった。40歳になられたばかりではなかったか。SIさんが早逝されることがなかったら、私の運命も別の道を辿ったことは間違いない。

「陸奥爆沈」が出版されたのは昭和45年5月、すでにSIさんは亡い。生前も直接ご父君の事をお聞きした記憶はない。研究室の誰からかお父さんが海軍の偉い軍医さんと聞いていたと思う。しかしご父君も戦後まもなく亡くなられたとのことだった。その姓名が非常に珍しいので、外科部長○○軍医大佐がご父君であることは確実である。○○軍医大佐、イニシャルで以降SE軍医大佐ともうしあげるが、その後ラバウルの海軍病院の病院長をされ、海軍軍医少将に昇進しておられたようだ。

戦時中、朝鮮京城の国民学校生であった私たちは大声を上げて「ラバウル海軍航空隊」を歌ったものである。

♪銀翼連ねて南の前線 ゆるがぬ護りの 海鷲たちが 肉弾砕く 敵の主力 栄えあるわれら ラバウル航空隊

歯切れがよく心が躍動する軍歌だった。東京オリンピック賛歌の作曲で世界に名をとどろかせた古関裕而の作曲(知ったのはもちろん戦後であるが)であったのだから、当然と言えば当然であろう。SE海軍少将がこのラバウル海軍航空隊基地の海軍病院の病院長をされていた、というのだから、そこに歴史の不思議な糸を感じてしまうのである。

かれこれ20年ぐらい前になるが、浜松に用事で赴いたその帰途、新幹線浜松駅の待合いロビーに人が大勢群れ集まっているのに出会した。幟を何本も立てているので、戦友会の集りであると察しがついた。その中に私は確かに「ラバウル第八海軍病院」の文字を見たのである。思わず駆け寄ってお話しを聴かせていただく誘惑に駆られたが、好奇心丸出しの自分を意識して、足が動かなかった。

昭和は遠くなりにけり、と云われるようになった。しかし私の心の中では、遠きにありて思うもの、でもあるようだ。

ホワイトプランのあとは電話とメールに特化した携帯が欲しい

2007-06-08 16:55:38 | Weblog
携帯電話業界の5月の契約純増数が、ソフトバンクが16万2400件、KDDIが13万8500件、ドコモが8万2700件と発表された。ソフトバンクの首位は統計データのある1996年1月以降では始めてのことらしい。この1月から始めた月額基本料980円のホワイトプランが、利用者の支持を得た結果とのことで、ご同慶の至りである。私も4月からホワイトプランに変更したからである。

ホワイトプランは、料金がきわめて分かりやすいのがいい。基本料金でソフトバンク同士なら、家族間では24時間、何時通話しても余計な費用がかからない。第三者に対しても1時~21時では国内通話し放題で、それ以外の時間帯では30秒当たり21円(税込み)になる。またメールはし放題で、ソフトバンク以外へのメールのみ料金を払う。このように料金体系が簡単で透明性が高い。

《他社の携帯へのメールのやりとりやウエブも見るにはS!ベーシックパックに加入しないといけない。これが月額315円で両方合わせた1295円が実質的な月額基本使用量になる。家族割引のような割引がないのがかえってスッキリしており、二人合わせると2590円が基本使用料になるのだろうか。それに通話・通信料が加わることになるが、合わせても3000円を大きく上回ることはなさそうである。》と以前の記事に書いた。では実際にどうであったか。

4月分の料金は4546円で、思ったよりは高かった。なぜなら私の場合は「ソフトバンクアフターサービス」という名目で毎月300円(税抜き)、妻の場合は「スーパー安心パック」という名目で475円払っていたからである。アフターサービスも要らなければ安心もしたくない、というのであればこの余計な費用は省ける。しかしこれまで何年か払い続けてきた料金、たとえば2006年11月分の7774円よりは3200円ほど安くなったのである。

ホワイトプランが利用者の支持を得たということは、利用者がそれを望んでいたからである。押し売りをする携帯電話料金に嫌気がさしていた人が多かったのであろう。このように料金システムは分かりやすくなったが、依然として分かりにくいのが携帯電話本体の価格設定である。

ホワイトプランへの変更手続きをする際に、妻の古くなった携帯を買い換えることにした。持ち帰り0円とか、似たような宣伝文句が携帯の世界に氾濫しているが、無料という意味ではないことが販売店の説明で分かった。なんとかプランに入って月額いくらかの料金を支払っていると、携帯がタダになる、というのである。要するに分割払いであるが、分割払いなら品物の代金を払い終えたら終わりなのに、なんとかプランでは未来永劫に払い続けなければならない。私の理解ではこれはペテンである。そのうえこの携帯の料金がべらぼうに高く設定されていたのである。

こんな変なプランに加入するの嫌なので、妻の携帯をまず普通の商品として購入することにした。SoftBank 810SHであったが、そのまま買おうとすると驚くなかれ6万円台なのである。今まで貯まったポイントを使ったり、「スーパー安心パック」に入るとまた割引があるが、これは後で適当なときに解約すればいい、とか、変な策を授けられて実際支払ったのが3万前後になった。

それにしても携帯に6万円以上の価格設定とは頷けない。私の使う機能は電話とメールだけである。後は何もいらない。ところがこの機能だけを備えている携帯が見つからないのである。私の持っている機種はすでに古くなったVodafone 903Tであるが、その取扱説明書のサイズは新書版を一回り大きくしたぐらいで、厚さが16ミリもある。電話とメールだけならその十分の一の薄さで十分である。どれだけ余分なものを買わされているかと思う。

世の中には、私のように電話とメール機能だけで十分、という人が大勢いると思う。ところがその要望に応える機種を販売せずに、不要な機能をあれこれ押しつけて高い値段で売りつける、これは悪徳商法そのものではないか。ぜひ電話とメールのみに特化した携帯を製造販売する業者が現れて欲しいものである。完成品はもちろんであるが、キットなどで販売されたら私はすぐにでも飛びつきそうだ。今の携帯が壊れるまでにぜひ出現してほしいものである。