日々是好日

身辺雑記です。今昔あれこれ思い出の記も。ご用とお急ぎでない方はどうぞ・・・。

日曜ドラマ三題 福士加代子選手 白鵬関 橋下徹弁護士

2008-01-28 20:15:48 | Weblog
昨日(1月27日)の大阪国際女子マラソンでトラックの女王福士加代子選手がマラソン初挑戦ということなのでテレビで観戦した。と言ってもテレビをつけた時はスタートからもう10分以上経っており、早くも福士選手が後続グループから抜け出して独走体勢に入っていた。さすがトラックの女王は速いなと思ったが、福士選手がこれまで30キロ以上は走ったことがないからそこは未知の領域だ、と解説者が語っているのがなんだか不吉に聞こえた。その不吉な予感が当たり、30キロを過ぎる頃からは後続グループの追い上げが急になり、35キロあたりでマーラ・ヤマウチ選手が追い抜く時には力の差が歴然としていた。それからというものは次から次へと後続の選手に追い抜かれるばかりで、その凋落ぶりがあまりにも痛々しかった。

アップに映し出される福士選手の顔面からは滝のような汗で素人目にも異常である。足取りも覚束ない。そして、ついに転倒した。でも起きあがり走り始める。伴走の監督が目に入ったのでストップをかければいいのにと思ったが、とにかく転びながらも競技場に戻り着いた。もうヨタヨタである。トラックでもまた転ぶ、ところがアレッと思った。立ち上がる福士選手の顔がなんだかほころび加減なのである。またがくっと膝をつく。そして立ち上がる。今度は間違いなく笑っている。トラックに入って転倒したのは3回だっただろか、最後に起きあがるときは「私の足が自分の思うままに動いてくれないことがあるなんて、大発見。これは面白!」と完全に自分を突き放して見ている福士選手がいた。自分を冷静に凝視するこの乙女のなんて逞しく素晴らしいこと、と私は大記録樹立よりも遙かにこのドラマに心を動かされたのである。

7時からのNHKニュースでは白鵬と朝青龍一敗同士の優勝決定戦が素晴らしかった。朝青龍には期待を裏切られ続きであった。次から次へと出て来る日本人力士にバタバタと投げ飛ばされる、そのシーンを見たさに毎晩テレビをつけたと言ってもよい。二日目、稀勢の里に後ろに回られて土俵下に突き落とされたときはやんやと喝采した。ところが不快なことにその後は私の期待に逆らってずーっと勝ち続けて千秋楽の優勝決定戦になってしまったのである。私が祈りを込めたから朝青龍が負けたでは面白くないから、この時ばかりは雑念を払って取り組みを眺めた。正直なかなか見応えのある勝負であった。お互いに意地と意地の突っ張り合い、力相撲のすえ白鵬が朝青龍を豪快に上手投げで仕留めたのでとにかくホッとした。

それにしても2場所も本場所から離れていた朝青龍に、稀勢の里以外の日本人力士が誰一人として刃が立たなかったとはあまりにもふがいない。なんとかして強い日本人力士を育てないことには話にならない。そのためにはどうすればよいのか、私には温めている一つの考えがある。相撲界をタックス・ヘイブンとするのである。

勝ち名乗りを受けて懸賞金の入ったのし袋の束を鷲掴みにする。後はどう使おうと力士の思うがまま、と思いきや、これを申告しないと脱税になってしまうらしい。お小遣いを貰っただけだと思うのになんとみみっちい話である。「タニマチ」が贔屓の力士にずっしりとした札束を与える。「ごっつあんです」と頂いたらあとはどう使おうと力士の勝手ではないか。ところがこれも税金の対象になるらしい。土俵に金が埋まっているとは昔から言われてきたこと、たとえ僭称であれ「国技」の伝統を相撲協会が言い、また国もそれを認めるのなら土俵を巡っての金の動きには昔同様、鷹揚であるべきなのである。「アメ」を引っ込めて「ムチ」だけで「国技」を維持するとはなんとも片手落ちと言わざるをえない。「アメ」で釣ってこそ新弟子たちも激しいしごきにも耐えられると言うものである。日本力士強化策として力士の貰う金には一切税金をかけない。効き目抜群であると思うのだが。

夜に入り大阪府知事選挙の開票が始まって間もなく橋下徹候補の当選確実が報じられた。38歳、全国最年少知事の誕生である。この年齢だけでも橋下氏に大きな期待をかけることが出来ると私は思う。というのは私が38歳ぐらいの頃、当時耳に入ってきたある説に力づけられて大いに仕事に打ち込んだからである。人間の創造的な能力が知力・体力相まって最高レベルに達するのが38歳頃という説が広まっていて、その証拠に、状況に応じて的確な判断をし、迅速な行動力が必要とされるアメリカの宇宙飛行士の平均年齢が38歳だというのである。素直にその説を信じて世の中に怖いものなしと張り切って仕事に打ち込んだ記憶が今でも生々しい。それから30年以上経っているから、現在では活力が最高潮に達するには40歳を超えるぐらいになっているかもしれないが、それならますます橋下氏には都合がよい。

私が橋下氏を知ったのは多分「たかじん」の番組のレギュラーとして出ていたからであろうと思う。実は昨日も女子マラソンと「たかじんのそこまで言って委員会」を往き来しながら観ていたのである。橋下氏に行政経験があるわけではなし、政治には全くの素人同然と言っていいのだろうが、だからこそそこに強みもある。ある一つの問題についてその本質が何であるのか、それを健全な常識で見抜く能力さえ備わっておれば、その解決に向けての方策を見つけるには大阪府職員が力強い助っ人となり実行に当たっても強力な戦力となってくれるであろう。大阪府民の生活向上に自分の人生を賭ける不退転の決意がありそれが府民に伝われば必ず人はついてくるものである。

自治体に議会などは不要というのが私の持論である。橋下氏はすべてを府民に直接訴え、その支持を基盤に大胆に自分の信じる道を歩んで頂きたいと思う。勇み足を恐れずに大いに問題発言をし、大いにもめ事を起こし府政を府民に分かりやすく伝えて頂く。過ちを覚れば直ちに改める柔軟性さえあれば、勇み足は前進への着実な跳躍台となる。府民との意思疎通に欠かせない広報活動にも新機軸を持ち込んで頂きたいものである。日和見の関西経済連合会のおじさまなどにも籠絡されず獅子奮迅の活躍を期待したい。

福士加代子選手、白鵬関、橋下徹弁護士と若い人々の活力に酔わされた日曜日であった。

一弦琴「後の月」再演 そして鼻濁音のこと

2008-01-27 17:57:31 | 一弦琴
「後の月」を琴譜を意識して唄うと、どうもプッツンプッツンになるところが多い。その大きな原因は私の唄い方にあると思う。私の唄い方は起伏や装飾を極力排しているので単純そのものである。声をまわして「間」を上手に埋めると唄が素直に流れるが、「雌鳥歌えば家滅ぶ」とは今は昔、「雄鳥歌えば家乱る」のご時世で私はひたすら静かに唄うので「間」がもたないのである。それならそれで身にあった流れを作り出すつもりで唄い方に試行錯誤を繰り返しているところである。

ついでにもう一つ、一弦琴を習い始めてからずっと悩まされていることがある。鼻濁音なのである。「後の月」でも

  初冬の たそがれ寒き・・・

の「たそがれ」に入ると途端にお師匠さんにストップをかけられる。「が」の発音よろしからず、なのである。「んが」「んが」「んが」・・・を繰り返しても自分でちゃんと発音できているのかどうか自信がない。唄いはじめからその「が」を意識すると俄然唄がぎこちなくなる。お師匠さんは私の「が」では詞が汚くなると言われるが、私に言わせると「んが」なんてクイーンズ・イングリッシュでもあるまいに、なのである。その善し悪しの違いが分からないからつい意識せずに唄い、そしてストップをかけられる。その繰り返しなのである。ところがWikipediaで「鼻濁音」を調べるとなんと私には嬉しい記述があった。

まず「鼻濁音」を《日本語にあって、濁音の子音(有声破裂音)を発音するとき鼻に音を抜くものを言う》と説明している。そしてNHKのアナウンサーが鼻濁音の発音訓練を受けるとの説明があって、このように続く。

《ただし話し手によっては鼻濁音を持たない。大別すれば、日常的に鼻濁音を使うのは共通語の基盤となった東京方言が話される地域を中心として東日本から以北に拡がっており、一方で四国や中国地方以西の地域ではほとんど使われない。ただし、もちろん両親、特に母親の出身地の違いや周囲の環境など様々な原因による個人差は存在する。昨今では東京周辺でも、中年より下の世代では多くが鼻濁音を使わなく(あるいは「使えなく」)なってきており、若者に於いてはそれが特に著しい。(中略)これは全国的な傾向で、鼻濁音は現在、日本語から失われてゆく方向にあるようである。》(強調は引用者)

「なーんだ」と思った。お師匠さんは東京生まれ、鼻濁音がお得意なのは当たり前なのだ。ところが私は播州生まれだからもともと鼻濁音とは縁がない。鼻濁音は私にとっては美容成形のようなものである。こだわることもあるまいと思うようになった。さて鼻濁音を意識せずに唄ったこの再演、出来はどうなんだろう。

追記(2月27日)
 清虚洞琴譜による演奏に差し替えた。


一弦琴「後の月」

2008-01-25 15:10:45 | 一弦琴
一月に入りいろいろなことが重なったので、下旬に入りようやく一弦琴のお稽古に出かけることが出来た。私の方からお願いをしてお浚いをみていただいたのが「後の海」である。なかなか流れに乗るところまで行けないが、出発点ということで記録してみたが、曲想を掴むのにまだまだ時間がかかりそうである。


               詞 中根香亭
               曲 真鍋豊平

  初冬の たそがれ寒き 人かげに
  うかれうかれて 思はずも 見あぐる望の 月のかげ
  友のさかなに 妻の酒 かさねて遊ぶ波の上
  やがて岡なる 山岸を あゆみつくして たちかへる
  舟の景色の かぎりなく 酔ひてぬるまの 夢のうちに
  まさしく見えし 仙人(やまびと)の 姿は鶴に かはりつつ
  雲ゐはるかに 飛びゆけど けうのあそびの つきぬ楽しさ


追記(1月26日) 演奏を差し替えた。
  (1月27日) ふたたび演奏を差し替えた。

  (2月27日) 清虚洞琴譜による演奏に差し替えた。


Italian Marchesiと居眠り磐音

2008-01-25 11:27:23 | 音楽・美術
昨日はヴォイストレーニングの日だった。一弦琴はたとえ夜中であっても弾き語りが出来るが、歌はそうはいかない。せいぜい湯船につかりながら、それも近所迷惑にならないよう時間を気にしながら声を出すだけだから、なかなか進歩しない。

音楽学校の生徒になったわけでもないからと屁理屈を言って、「Concone」でもやりましょうか、との先生の提案をにべもなく蹴ったものの、歌唱法を正式に習ったわけではなく、ただCDなどの演奏を頼りに物真似的に歌っているのに飽き足りないものを感じていた。ところが最近、先生にいいですよと勧められた教則本が気に入ったのである。Salvatore Marchesiの「ItarianMarchesi」である。1956年に畑中良輔氏編集で出版されてからこの半世紀の間に100刷を超えるベストセラーのようである。



20曲が収められていてメロディーにイタリア語がつけられているから、イタリア語の発音、フレージングの練習になる。それよりなによりこの20曲のそれぞれは歌唱法の課題をこなすようになっている。メッサ・ディ・ヴォーチェ、ポルタメント、平滑唱法、・・・、三連音、四連音、・・・、アルペジョ、反発漣音と回音、切分音、トリルなどなど、このような技術を身につけたら歌うのがますます楽しくなりそうである。ということで、この教本で練習をお願いすることにした。

ところでこのヴォイストレーニングを相棒さんと二人で受けている。2時間を二人一緒に声を出したり、またそれぞれの歌の練習をする。昨日も相棒さんが難しい曲にチャレンジしている間に、私は眠り込んでいた。実に気持ちがいいのである。小ぶりだけれどグランド・ピアノを入れている防音室で、ピアノはガンガンと鳴っているし、歌声もそれに負けじと響き渡る。そのなかで眠ってしまうのである。よくお休みでしたよ、と先生に言われてしまったが、実は常習犯なのである。音曲の振動が私の睡眠中枢を快く刺激しているに間違いないと思う。

そして居眠りと言えば、佐伯泰英作の「居眠り磐音 江戸双紙」の最新作「朧夜の桜」(24冊目)をあっという間に読み終えたところである。坂崎磐音、あらため佐々木磐音がようやくおこんさんと婚礼を挙げ仲良くお床入りとなったところで刺客との対決である。前作の「万両の雪」のあとがきで、著者が体調を崩ししばし休養を、とのことだったのに早々と最新作のお目見えとは嬉しいことである。私も居眠りしている間に歌唱法の真髄を会得する新機軸を出したいものである。

分かりにくい偽装再生紙問題

2008-01-22 12:50:38 | Weblog
製紙会社が購入者と契約していた古紙配合率よりも低い配合率の再生紙を製造販売したことが偽装だとして大きな社会問題になっている。金含有量90%と言いながら含有量10%の指輪でも売っていたのならこれは明らかに詐欺であるが、再生紙の場合は古紙の配合率を上げると紙質が下がるので、需要者の要望を満たすべく古紙配合率を下げて品質を高めた製品を売ったところ、それが偽装だとして非難されているのである。それがなぜいけないのか私には分からなかったので調べてみると、話はこういうことらしい。

グリーン購入法と呼ばれる「国等による環境物品等の調達の推進等に関する法律」(平成十二年五月三十一日法律第百号、改正 平成十五年七月十六日法律第百十九号)があって、その目的は次のように定められている。

《第一条 この法律は、国、独立行政法人等、地方公共団体及び地方独立行政法人による環境物品等の調達の推進、環境物品等に関する情報の提供その他の環境物品等への需要の転換を促進するために必要な事項を定めることにより、環境への負荷の少ない持続的発展が可能な社会の構築を図り、もって現在及び将来の国民の健康で文化的な生活の確保に寄与することを目的とする。》

要するに、「エコ社会」を目指して資源の再利用に力を入れましょう、ひいては国、独立行政法人等、地方公共団体及び地方独立行政法人などが範を垂れるために「エコ製品」を率先して使いましょう、と言うことなのだろう。「法律」ではこれを責務としているから拘束力が高くなる。

紙類に関しては平成13年2月2日の閣議決定で次のように定められている。



最新の平成19年2月2日の閣議決定では品目が増えて【情報用紙】としてコピー用紙、フォーム用紙、インクジェットカラープリンター用塗工紙、ジアゾ感光紙、【印刷用紙】として印刷用紙(カラー用紙を除く)、印刷用紙(カラー用紙)、【衛星用紙】としてトイレットペーパーにティッシュペーパーのようになっている。すなわち事務用に使うのはすべて再生紙であり、少なくとも古紙配合率が70%以上というのが基準である。

これに対して日本製紙、王子製紙、北越製紙、大王製紙、三菱製紙の製紙大手五社すべてが、グリーン購入法対象の印刷用紙の古紙配合率を70%より大幅に下げていたことが明らかになったのである。「技術的な限界」がどうも問題のようであり、定められた古紙配合率では求められる紙質をどうも実現しにくいらしい。また古紙の需要増で調達可能な古紙の品質が低下したこともその背景にあるようだ。。

現実に守られないような品質基準がどのような経緯で出来上がったのか、この辺りが分からない。現場を知らないお役人の机上の作文であったのだろうか。製紙会社も技術的に無理だと思えばそう言えばいいのに、罰則のないことをいいことに適当にお茶を濁すとはまさに「日本的」である。それにつけても日常使う事務用品である用紙の品質まで法律・規則でこまかく指示するとは本当に政府もお節介なことである。作らなくてもよい法律・規則で「罪人」を作ることの方が罪作りである。自由競争に任せればよいではないか。

今日の朝日朝刊は《文具メーカーのコクヨは21日、一部古紙再生品の生産を停止したと発表。「キャンパスノート」など772品目で、材料に日本製紙の「偽装再生紙」が含まれている商品が対象。2月上旬の販売再開を目指す。コクヨによると、日本製紙から17日、仕入れているすべての再生紙で配合率が公称より低かったとの報告があり、18日に商品の生産を止めた。》と伝えている。これもいらざる混乱で、官公庁だけがお得意さまでもあるまいし、コクヨもそこまで過剰反応しなくてもよいのではなかろうか。製紙各社は配合率が下回っていた製品について生産/受注/販売を中止するそうであるが、すでに製造された製品が破棄されるとか、ふたたび再生紙の原料に使われるとか、そういう無駄なことがあってはならないと思う。

ところで新聞紙。新聞社が使っている用紙の品質が契約通りになっているかどうか、どのように確かめているのか、知りたいものである。古紙配合率が公称より低いがゆえに高品質が保たれていた、と知ったら契約破棄をするのだろうか。

木を喰う木に金網を喰う木?

2008-01-21 15:34:55 | Weblog
震災以来更地となっていた一画に私は隠宅を構えたが、その裏は空き地で草花の生い茂るままに任されていた。それが昨年、ふとしたことから話がまとまり、家の敷地を延長する形で土地を買い取ることになって、現在、造成がのんびりと進んでいる。一応周りをフェンスで囲うことになり、そのためには何本かの木を伐採することになったので、赤い実で私の目を楽しませてくれていたクロガネモチもその運命を辿るはずであった。ところが木の具合をよく見ると、このクロガネモチは二本とも苦労もなしにすくすくと育っただけの木ではないのである。逆境をはねのけて逞しく成長した痕跡がくっきりと残っていて、これを切りとってしまうのが可哀相になった。そこで、根付くかどうかわかりませんよ、と植木屋さんに言われながらも移し替えて貰ったのである。



手前のは金網を食い込んで二本の幹が生長しているので、動かすのに幹の周りで金網を切りとらなければならなかった。右側の幹に網目模様が刻み込まれているのがはっきりと見られる。鳥が運んできたのだろうか、その種が発芽して金網を食い込みつつ大きくなったのに違いない。



もう一本の木も根元で柵の木材をくわえ込んだまま二本の幹に分かれている。上の方ではさらに金網をもくわえ込んでいる。



移植に先立ち枝を切り払いほとんど丸坊主になってしまったが、その旺盛な生命力でふたたび花を咲かせ実を結んで欲しいものである。

万能細胞(iPS細胞)から「人魚」作りの実現に向けて

2008-01-17 19:10:54 | 学問・教育・研究
1月15日のブログでそのタイトルを万能細胞(iPS細胞)で人魚を作れるかとした時に、「人魚を作れるか」にいくつかの意味を持たせたつもりであった。「そこまで思い切ってやる人がいるだろうか」とか「法律で縛られているのかもしれない」とか「はたして技術的に可能だろうか」と言うようなことである。この中で一番の障害になりそうなのは法的規制である。それが気になって調べてみると、やはり現状では「人魚」作りが出来ないようになっていた。しかし国民の支持があればこの規制を取り除くことは十分に可能であると私は思う。どうすればよいのか、私なりに考えてみた。

「人魚」作りを妨げているのは「ヒトに関するクローン技術等の規制に関する法律」(法律第百四十六号、以下「規制法」と呼ぶことにする)である。平成13年6月から施行されたもので、その目的は第一条に次のように記されている。要点は強調部分である。

《第一条 この法律は、ヒト又は動物の胚又は生殖細胞を操作する技術のうちクローン技術ほか一定の技術(以下「クローン技術等」という。)が、その用いられ方のいかんによっては特定の人と同一の遺伝子構造を有する人(以下「人クローン個体」という。)若しくは人と動物のいずれであるかが明らかでない個体(以下「交雑個体」という。)を作り出し、又はこれらに類する個体の人為による生成をもたらすおそれがあり、これにより人の尊厳の保持、人の生命及び身体の安全の確保並びに社会秩序の維持(以下「人の尊厳の保持等」という。)に重大な影響を与える可能性があることにかんがみ、クローン技術等のうちクローン技術又は特定融合・集合技術により作成される胚を人又は動物の胎内に移植することを禁止するとともに、クローン技術等による胚の作成、譲受及び輸入を規制し、その他当該胚の適正な取扱いを確保するための措置を講ずることにより、人クローン個体及び交雑個体の生成の防止並びにこれらに類する個体の人為による生成の規制を図り、もって社会及び国民生活と調和のとれた科学技術の発展を期することを目的とする。》(強調は引用者)

以前のブログに私は《こればかりはやってみなくちゃ分からない。マウスの受精卵に私のH-iPS(ヒト由来のiPS細胞)を導入してから「生みの親」となる雌のマウスに戻し子供の生まれるのを待つ》と書いたが、この法律では雌のマウスに戻すことが出来ないことになる。それでもう少し調べてみると「特定胚の取扱いに関する指針」の存在が浮かび上がってきた。

「規制法」第四条第一項に次のことが記されている。

《第四条 文部科学大臣は、ヒト胚分割胚(▲)、ヒト胚核移植胚(▲)、人クローン胚(●)、ヒト集合胚(▲)、ヒト動物交雑胚(●)、ヒト性融合胚(●)、ヒト性集合胚(●)、動物性融合胚(▲)又は動物性集合胚(▲)(以下「特定胚」という。)が、人又は動物の胎内に移植された場合に人クローン個体若しくは交雑個体又は人の尊厳の保持等に与える影響がこれらに準ずる個体となるおそれがあることにかんがみ、特定胚の作成、譲受又は輸入及びこれらの行為後の取扱い(以下「特定胚の取扱い」という。)の適正を確保するため、生命現象の解明に関する科学的知見を勘案し、特定胚の取扱いに関する指針(以下「指針」という。)を定めなければならない。》(●、▲は引用者の追加)

そこで文部科学省は「特定胚の取扱いに関する指針」(平成13年12月5日から施行)(以下「指針」)を定めた。ヒト又は動物の胚又は生殖細胞を操作するに当たっては、「規制法」と「指針」の両者に従わなくてはならないことになる。この「指針」が研究上作成できる胚の種類を限定しているのである。

《第二条 前条の規定にかかわらず、特定胚のうち作成することができる胚の種類は、当分の間、動物性集合胚とし、その作成の目的はヒトに移植することが可能なヒトの細胞に由来する臓器の作成に関する研究に限るものとする。
2 作成者は、動物性集合胚の作成にヒト受精胚又はヒトの未受精卵を用いてはならないものとする。》

すなわち「規制法」で定義されている9種類の特定胚のうち、動物性集合胚のみ作成することが認められているのである。ところが「規制法」第四条で定義されている動物性集合胚を作成するに当たってはヒトと動物が同等で、例えば動物の体細胞、胚性細胞で核を持つものがヒト除核卵と融合して生じる胚も、ヒトの体細胞、胚性細胞で核を持つものが動物除核卵と融合して生じる胚もともに動物性集合胚なのである。「指針」第二条第二項はここでヒト受精卵とヒトの未受精卵の使用を禁止することで動物性集合胚の範囲を大きく狭めてしまった。こうすることで動物性集合胚を基本的には動物胚と理解しやすいからであろう。その結果、動物受精卵もしくは動物未受精卵にヒト体細胞またはヒト受精胚を融合させて胚を作ることには何の支障もなくなった。この時点ではヒトの万能細胞(iPS細胞)はまだ生まれていなかったので対象にはなっていないが、ここでヒトiPS細胞と動物胚との融合により生じるヒト動物融合胚を10番目の特定胚として定義して、これを特別扱いすればよいのではないか。

すでに述べたが、現時点での「人魚作り」最大の障害は特定胚の胎内移植がすべて禁止されていることである。「規制法」第四条に現れる特定胚のうち、(●)で示したものは「規制法」第三条で人または動物の胎内に移植することは禁止されており、また(▲)で示したものは「指針」第九条で胎内移植が禁止されている。「規制法」第三条に違反すれば「十年以下の懲役若しくは千万円以下の罰金に処し、又はこれを併科する」となかなか厳しい。「指針」第九条違反の場合もこの罰則が適用されるのだろうか。ところが「指針」第九条には含みがある。

《第九条 ヒトに関するクローン技術等の規制に関する法律(以下「法」という。)第三条に規定する胚以外の特定胚は、当分の間、人又は動物の胎内に移植してはならないものとする。》

すなわち胎内移植の禁止は当分の間である、と言っているのである。万能細胞(iPS細胞)の誕生により事態は大きく変わった。「指針」第二条に記された「ヒトに移植することが可能なヒトの細胞に由来する臓器の作成に関する研究」が「人魚作り」で飛躍的に進歩することが期待されるようになったのである。私が万能細胞(iPS細胞)で人魚を作れるかで述べたように「再生医療へのH-iPSの利用に大きな注目が集まっているが、H-iPSから臓器を作ることが許されなければ臓器移植の材料にはなりえない。そして細胞、組織のレベルでの利用に止まっているのなら、ことさらH-iPSを使わなくても現時点では体性幹細胞を使う方がより直接的で、H-iPSの利点がはっきりと見えてこない」のである。「指針」第二条にも記されている「ヒトに移植することが可能なヒトの細胞に由来する臓器の作成に関する研究」のためにも、先ずはヒト動物融合胚の動物胎内への移植を認めるべきである。この実現に向けては迅速な法整備が望ましいが、果たして国民に支持されるだろうか。その動向を見守りたいと思う。

万能細胞(iPS細胞)で人魚を作れるか

2008-01-15 23:43:01 | 学問・教育・研究
今晩のNHK「クローズアップ現代」に山中伸弥京大教授が出演していた。人の皮膚から万能細胞(iPS細胞)を作り出したと言うことだけで、山中さんは科学界のみならず社会の賞賛を浴びる資格があると私は思っている。その山中教授の言葉、(再生医療への応用について)「まだ課題は多く、過度な期待は困るが、失望もしてほしくない」と述べ、また「iPS細胞」は自然界に存在しない人工的なもので、役に立たないと存在価値はない。自分で始めたことだから、最後までやりたい」を私は年頭のブログに引用した。その言葉に、一挙に時の人となって寄せられる過大な期待に対して、科学者としての戸惑いが込められているようにも感じたからである。そして1月12日の万能細胞(iPS細胞)研究 マンハッタン計画 キュリー夫人では、「山中教授の出来ることは実は限られていると私は思う」と万能細胞ブームに水を差すような書き方までした。それは人に由来する万能細胞(iPS細胞)を使ってどこまで実験が出来るかについて、社会の合意がまだ出来ていないから、科学者としてどうしてもやらなければならない実験が素直に出来にくい状況があるのでは、と私なりに思ったからである。

山中教授らは第二世代のマウス体細胞由来のiPS細胞をマウス受精卵に移植して、受精卵由来の細胞とiPS細胞由来の細胞が混じり合ったキメラマウスをすでに作った。これと同じような実験を、人由来のiPS細胞(これからはH-iPSと略記)を使って現実に出来るだろうか。私ならなんとしてでもやり遂げたくなる課題である。しかし容易ではなかろう。

まず人の受精卵を使うことは出来ない。しかしマウスの受精卵にH-iPSを導入しても今のところは差し支えあるまい、と私なら思う。H-iPSはブッシュ大統領はもちろん、バチカンも「歴史的な成果」と手放しで讃えているではないか。もちろんマウス受精卵は通常の実験材料、その二つを組み合わせてどこに問題があるのか、というのである。

こればかりはやってみなくちゃ分からない。マウスの受精卵に私のH-iPSを導入してから「生みの親」となる雌のマウスに戻し子供の生まれるのを待つ。ここまでは、自分の血液を実験に当たり前のこととして使っていた私にはなんの躊躇することもない。どんな子供が生まれるのかとワクワクして待つ。マウスの顔が私そっくりかもしれない。顔はマウスでも前足が人間の手の形をしているのかもしれない。それよりなにより、そんな子供が生まれてくるかどうかがまず問題であろう。うまくいくと豚の受精卵、猿の受精卵ではどうなのだろうと、怖いもの見たさでますます実験がエスカレートしそうである。そのうちに他の動物の受精卵を使わなくてもH-iPSを個体に成長させることが可能になるなら、それはそれでよいのではなかろうか、と思うようになるかもしれない。日本人の(私の?)感覚に「異常出生」を抵抗なく受け入れる素地があるとしたらどうだろう。

体細胞由来クローン作りの元祖は孫悟空であるが、種の異なる「生みの親」(代理母)に産んで貰ったのはかぐや姫である。「西遊記」よりも遙かに古く1000年ほど前に出来上がったと推測される「竹取物語」(日本古典文学全集 小学館)に次のように出ている。

《いまはむかし、たけとりの翁といふものありけり。野山にまじりて竹をとりつつ、よろづのことにつかひけり。名をば、さぬきのみやつことなむいひける。その竹の中に、もと光る竹なむ一すじありける。あやしがりて、寄りて見るに、筒の中光たり。それを見れば、三寸ばかりなる人、いとうつくしうてゐたり。》

これがかぐや姫であった。これには異説があって、鎌倉時代の「海道記」には
《翁が宅の竹林に鶯の卵 女形(をんなのかたち)にかへりて巣の中にあり》と鶯の卵から生まれたことになっている。

それはともかく竹から生まれたかぐや姫は成長が早く、
《この児、やしなふほどに、すくすくと大きになりまさる。三月ばかりになるほどに、よきほどなる人になりぬれば、》と三ヶ月で大人になってしまう。『実験動物』としてはもってこいである。しかしどこからどこまでも人間の形をしている『実験動物』を作ることは、日本人にはよくても外国の人が必ず異を唱えるに違いない。出来るとしても限界は異種動物とのキメラであろう。

再生医療へのH-iPSの利用に大きな注目が集まっているが、H-iPSから臓器を作ることが許されなければ臓器移植の材料にはなりえない。そして細胞、組織のレベルでの利用に止まっているのなら、ことさらH-iPSを使わなくても現時点では体性幹細胞を使う方がより直接的で、H-iPSの利点がはっきりと見えてこない。

遺伝子標的法の進歩によって今やマウスに人間の病気を起こさせることが可能になった。遺伝子のどこをどういじくれば病気になるのかが分かっているから、どのようにすれば治すことができるのかが調べやすくなった。開発中の薬の効果もより正確に評価できるようになる。そして病気を引き起こす遺伝子の欠陥を正常に戻せる新世代の「魔法の弾丸」がいずれは開発されることも期待される。この研究を進めるのに欠かせないのは遺伝子標的法で作り出された個体なのであって、標的とする遺伝子を破壊したノックアウトマウス、目的とする標的遺伝子でこれまでにある遺伝子を置き換えたノックインマウスがそれである。たとえH-iPSが人由来であっても、細胞レベルでの利用に止まっている限り、治療法の検定に関してはこれらの遺伝子操作を受けたマウスよりも実用性は劣ることになるだろう。

ご存じの方も多いと思うが、上に述べたことは2007年のノーベル医学生理学賞を「胚性幹細胞を用いるマウスの標的遺伝子改変法における原理的発見について」で受賞したマリオ・カペッキ、オリバー・スミシーズ、マーチン・エバンスの3氏の研究成果なのである。

このように考えるとH-iPSの利用が細胞または組織レベルで止まっている限り、その応用的価値に目新しさはないような気がする。そこでその積極的価値を求めるとすれば、ノックアウトマウス、ノックインマウスに相当する実験動物を人と異種動物とのキメラから作り出すことに尽きるのではなかろうか。人間の病気の解明と治療法の開発にノックアウトマウス、ノックインマウスでは得られないより本質的な知見が得られるのでは、と期待するからである。このキメラ由来実験動物を一応「人魚」と呼ぶことにする。まず人間感情が人魚創成への心理的、倫理的障壁を打ち破ることが出来るかどうか、それを乗り越えてはじめて人魚創成の技術開発が可能になり、ひいては人工臓器の作成も視野に入ってくるかもしれない。

生物学を少し囓っただけの私は、今取り上げている分野の専門家から見れば素人同然である。H-iPS研究のこれからについて、素人なりの怖いもの知らずの考えを述べたが、「人魚創成」を専門家ならどう見るのだろう。

鼠小僧次郎吉のご利益は本当だった

2008-01-15 00:07:36 | Weblog
以前のブログで私が両国回向院にある鼠小僧次郎吉のお墓を訪れたこと、「お前立ち」という石塊から削り取った石粉をお財布に入れておくとお金が増えるという言い伝えを紹介した。この石粉の御利益は本当だったのである。歳末のジャンボ宝くじを5枚バラで買い、石粉をおまじないにぱらっとかけておいたらそのうちの一枚が3000円になった。1500円の利益である。

二三日前に出版されたNHK出版生活人新書の「東京お墓巡り 時代に輝いた50人」にも鼠小僧次郎吉のお墓が取り上げられているが、御利益の話までは出ていないのでここにあらためて紹介する次第である。

神戸三宮 後藤書店の閉店

2008-01-13 17:45:16 | 読書
暮れの26日、センター街を歩いていると星電社の隣にある後藤書店に張り紙が出ているのが目に入った。よくみるとなんと閉店の知らせである。



この日は店が閉まっていたので中に入れなかったが、学生時代から前を通りかかると買う当てもないのによく本棚を一巡したもので、50年以上も続いていた習いががこれで途絶えるのかと思うと淋しい限りである。似たような顔立ちの二人兄弟で店を経営しており、店の一番奥で積み上げた本の前に坐っている姿がさまになっていて、突拍子もなく江戸川乱歩の世界を連想したものだった。

年明けに義母が亡くなったこともあって、ようやく一昨日店を訪れたときは本棚がかなり空いていた。触手の動きそうな本はもう見当たらないだろうと半ば諦めていたが、科学書のコーナーで思いがけないものを見つけた。G.サートン著「古代・中世科学文化史」(岩波書店)の五冊セットで、なんだか私を待ってくれているようだった。

大学の教養時代に仲間と科学史の読書会をしていて、テキストに岩波新書赤版のホワイト著「科学と宗教の闘争」を使ったのを今でも覚えている。チューターは理学部を卒業して文学部の哲学科に学士入学をした歌仲間でもあった。その頃すでに「古代・中世科学文化史」の第一冊目が平田寛氏の翻訳で出ていたが、なんせ値段が高かったこともあって手を出せなかった。10年以上もかかって全五冊の出版が完了していたがその当時は実験に忙しく、何時とはなしに忘れていたその本に巡り会ったのである。1981年にセット価格20000円に15000円の値段が付いており、年が明けてからであろうか全点50%オフになっていたので7500円で購入した。



実際に読むかどうかは分からない。本はそばにあるだけでよいのである。先ずは明日(14日)で廃業する後藤書店で買った他の本と一緒にまとめて、後藤書店コーナーを作ってやろうと思う。