日々是好日

身辺雑記です。今昔あれこれ思い出の記も。ご用とお急ぎでない方はどうぞ・・・。

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生体臓器移植の盲点?

2011-06-29 19:44:22 | Weblog
以前の万波誠医師に関する私のブログへのアクセスが急増したのは、生体腎移植のための臓器売買という臓器移植法違反事件が起こり、それに執刀医として万波医師が関わっていたことによることが分かった。医師でもある患者が臓器提供者を暴力団関係者を通じて探し求めて該当者と養子縁組を結び、臓器の提供を受けたが、その際に金銭のやりとりがあったとの事である。

養子縁組がどの様ないきさつで結ばれたのか、また金銭が介在しているのか、そこまでを医師を含む医療関係者に解明を求めるのは過重な負担ではないかと思い、直感的に養子は臓器提供者にはなり得ないと法律で定めるのがこういう事例を防止する早道ではないかと思った。ところが考えて見ると生体臓器移植は脳死臓器移植のように法律でいろいろと規制されているわけではなく、その始まりから医療機関内の医療行為で、大学病院ならせいぜい学内に設けられた「倫理委員会」で審議され承認されればそれで良かったのである。もちろんドナーとレシピエントの関係は各医療機関で定められているので、今回も養父と養子との条件を満たしたのであろうが、それなら親子関係の場合でも養子縁組の場合は認めないようにすれば良いのではなかろうか。かねてから取り沙汰されているこのような偽計が実際に起こった以上、親族の定義をより明確にすべきであろう。それより問題なのは姻族の場合で、偽装結婚による偽計を見破る手だては容易なことではあるまい。
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KEN FOLLETT著「FALL OF GIANTS」の読みはじめ

2011-06-27 18:05:22 | 読書
Amazonに予約していたこの本が、検査入院の二日目に届いたので病室に持って来てもらった。最終が941ページとまさに大作である。登場人物がヨーロッパ7、8国にまたがり、そのリストだけで6ページにもなるので、始終お世話になりそうである。

1911年6月22日、英国王ジョージ五世の戴冠式に日に、ウエールズの炭鉱町では13歳の少年Billy
Williamsが始めて炭鉱の底まで下りて仕事を始める。なかの良い友達と一緒であったが、下に降りると別れ別れになり、彼は一人だけ他には誰もいない作業場に連れてこられる。仕事は下に溜まった炭くずをトロッコにシャベルで積み込むことらしい。その指示を与え、そこまで彼を連れて来た監督がBillyのオイルランプを見て、これはまずいと言って自分のランプと取り替えて戻って行った。ところがこのランプの炎がやがて細くなりついに消えてしまい一寸先もわからない暗闇になった。

そこから彼の前向きの闘いが始まる。ここで弱音を吐くわけにはいかない。テストのような気がするからである。手探りでトロッコの有り場所を探し、効果的な作業方を工夫して知っている限りの聖歌を歌ってリズムを取りながら仕事を全くの暗闇で続けた。母親の作ってくれた弁当に紅茶をも暗闇ながら食べ物を狙ってやってくるネズミを追っ払いながらなんとか食べ終える。長時間暗闇に一人で閉じ込められた恐怖と戦う力となったのは、母親のいつもJesusが一緒にいて下さるとの言葉であった。そして、ついに丸一日の仕事が終わる頃になって、監督が迎えにきた。

地上へ上がるカゴで一緒になった仕事仲間が詮索気味に顔を見る。新人を暗闇に一人残すのはやはりある種の歓迎儀式のようなものであった。しかし普通はせいぜい短時間で、彼のように丸一日のというのは全くの例外で、彼の家族にある含みを持つ監督の嫌がらせでもあったのである。しかし彼の頑張りに皆が心を打たれて、どうしてそのように頑張れたのかと聞く。Jesusと一緒にいるからとこたえたことからそれ以来彼はBilly-with-Jesusと呼ばれるようになった。

これが序曲でそしていよいよ物語が始まる。展開が楽しみであるが、Billyの極限の状況よりも私の今の状態の方がまだましかなと思ったりする。ちょっとしたことでも心の励みになるのが嬉しい。
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ご飯のない生活

2011-06-25 15:03:18 | Weblog
一日朝昼晩、三度の食事を摂る生活から、食事抜きの点滴生活への瞬時にしての転換は、まるでタイムマシンで未知のワールドへ連れてこられた感覚であった。今日で四日目に入るが、おかげでメリハリのない生活になってしまった。朝、コーヒー豆からパーコレーターで珈琲を入れるところから一日が始まり、最後は食器などの後片付けなどで終わるが、食事の支度が始まるともうご飯だな、と一日の時の流れを実感する。点滴液は24時間流れっぱなしで何の刺激もない、ということは時間が止まっているのと同じである。点滴液が勝手に体内に入っていくのだからものを摂取したという感覚がなく、考えようでは霞で生きている仙人と変わりない。しかしそれほど格好の良いものではない。





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急転直下病院ぐらし

2011-06-23 22:10:17 | Weblog
昨日の朝、今回お世話になっている医院へ紹介状を貰いに行った。先日の血液検査の結果から本格的な検査をした方がよいということで、総合病院へ行くように指示を受けたのである。直ぐに行ったほうがよいと言われ、その足で直行した。

軽い気持ちでレントゲンやCTを受けたが、さらには腸の内視鏡検査も受けさされて、挙げ句の果て入院して貰いますと言われてしまった。直腸に狭窄があり普通の食事を続けているといずれ通らなくなるので、早く処置をした方が良く、そのために点滴で栄養補給を行いながら検査を続行するというのである。抵抗する理由が見つからなかったので観念せざるを得なかった。

そして入院した。今朝は胃カメラに始まり病院の持てる装置を総動員するような勢いであれこれと調べて下さる。話には聞いていたが、医療機器の進歩ぶりには正直驚かされた。測定が終わったかとおもうと、その結果を画像で説明して下さる。そしてさらには造影剤を使って詳細に調べるとのことである。技術の到達点を見せてもらえるのは楽しいが、これでは医療費の高騰に歯止めをかけるのは容易でないことを実感した。

私にとって食事抜きの生活は始めてのことで、おそらく手術をするまでかなり続くことであろう。食べることを忘れてしまってはおおごとである。何とかしなければと余計な心配が増えた。その一方、手術後とにかく一度は元の生活に戻りたいとのささやかな人生目標が生まれたのも事実である。上にぶら下がっている点滴液の袋一つでこれまでとはまた異なる世界が拡がりそうである。



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急転直下病院ぐらし

2011-06-23 17:55:03 | Weblog
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「福島第一原発汚染水処理が5時間で停止」 シャープレス遠心分離機の導入は?

2011-06-21 16:36:14 | 昔話
本稼働を始めた福島第一原発の高濃度放射能汚染水の浄化装置が5時間で停止してしまった。汚染水が入る最初の「吸着塔」の表面線量が毎時4ミリシーベルトになると吸着塔を交換する計画であったところ、稼働から5時間足らずで4.69ミリシーベルトに達したと言うのである。東電は当初高濃度汚染水に含まれる油や汚泥が予想より多く、放射性物質が早く溜まったと推測したが、20日になって、放射能測定計器が、吸着された放射性物質の線量のほか、装置を流れる汚染水の線量をも含む形で誤って検知していた可能性が高いと発表した。もしこれが本当なら、本体よりもかなり重い風袋を引き忘れたようなものでなにをか言わんやである。問題がこれで終わればよいが、なかなか一筋縄では行きそうもない。それよりも私が引っかかったのは、当初原因として疑われた高濃度汚染水に含まれる油や汚泥が予想より多く、放射性物質が早く溜まったの部分で、高濃度汚染水の外観・性状を想像させるからである。となると、そのような汚染水をどのような前処理で浄化装置で送り込んでいるのだろうと疑問が湧いてくる。

高濃度放射能汚染水はおそらく油まじりの泥水であろう。プールに貯留されている間に汚泥はかなり沈殿し、油は浮上すると思われる。しかしどの部分から汚染水を取り出しているのかは分からない。汚泥の大部分は有機汚泥ではなく無機汚泥と思われるが、もしこれが浮遊物質として定義されるものなら直径2mm以下の粒子状物質ということになり、汚染水にどの程度含まれているのかその濃度にもよるだろうが、透明な水のように浄化装置をスイスイ通り抜けて行くとは想像しがたい。浄化装置が詰まるのを防ぐためにもこの汚泥を出来る限り取り除いておくにこしたことはないが、どのような前処理がなされているのか不明であるが、浄化装置が停止した際にまず疑われたのが高濃度汚染水に含まれる油や汚泥が予想より多く、放射性物質が早く溜まっただとすると、有効な前処理が行われているとは考えにくい。凝集沈殿装置なども含めておそらく幾つもの手段があることだろうが、ここで私が思い浮かべたのが遠心分離による浮遊物質の除去である。大学院生だった頃の経験を思い出したからである。

遠心分離機は遠心力を利用しては微細粒子も含めて固形物を液体から分離する装置である。たとえばジュースミキサーでりんごジュースを作り、それを数本のボトルにバランス良く分注し遠心機にかける。適当な回転数で一定時間回すと固形物がボトルの底に溜まり、液体部分から綺麗に分離出来る。酵素の精製などには欠かせない手段であるが、ジュース(あくまでも例として)が数リッター程度なら遠心分離を繰り返せばよいが、これが何十、何百リッターとなるとことである。ところが遠心分離機を連続運転したままジュースを連続的に遠心機に注入すると固形物が分離機内に残り、液体のみが外部に出てくるような装置がある。シャープレス型連続遠心分離機もしくは簡単にシャープレス遠心分離機と呼ばれるものである。当時私の聞いた話ではオイルタンカーが原油を運んでくる際に、その原油からタンカーに設置されたシャープレス遠心分離機で重油を分離し、それを燃料にしながら船を走らせると言うことであった。いずれにせよ分離機内に残る固形物はジュースを流せば流すだけ増えてくるので、そのうちに分離機を止めて固形物を取り出さないといけないが、一度にかなり大量のジュースを処理することが出来る。私が所属していた研究室は微生物学講座で微生物の培養はお手の物であり、大量に培養しては菌体を集め実験に必要な酵素などを精製していた。大量の培養液から集菌するためにこのシャープレス遠心分離機の導入が上の方で検討されたのである。

ある日恩師のOK先生から、四国の観音寺にある阪大の微生物学研究所(現在は一般財団法人阪大微生物病研究会観音寺研究所としてワクチンなどを製造しているようである)に出かけるようにとお達しがあった。そこではシャープレス遠心分離機が実際に使われているのでよく見せて貰い、研究室でも使い物になるかどうかよく調べて報告せよとのことであった。おそらくメーカーの人が同行したのではないかと思うが、四国へは連絡船で渡る時代で車窓を楽しんだ覚えはある。実際に動いている様子を見せて貰い、性能をはじめ扱いやすさなどいろいろと問題点を話し合い、導入可の報告を済ませた。OK先生は新しい実験機器の導入にはきわめて前向きの方であったが、それだけに実際に役立ちうるかをきわめて慎重に判断された。当時としては珍しいことに理学部の一研究室に1トン(1000リッター)の微生物培養タンクが設置され、集菌にこのシャープレス遠心分離機が活躍することになった。

かりに油、汚泥混ざりの高濃度放射能汚染水からこれらをシャープレス遠心分離機で可能な限り取り除き、透明度の増した汚染水として浄化装置に注入すれば、浄化装置の負担を大きく軽減出来ることは間違いなかろう。ただ問題は遠心分離機に溜まった固形物が恐らく高い放射能を帯びていることゆえ、人手で簡単に固形物を除去出来るとは考えにくいことである。しかし人智を傾ければなんとかなるもので、この際、微粒子を含む夾雑物まじりの高濃度放射能汚染水を全自動で処理して夾雑物を取り除く装置を開発出来ないものかと思う。昔話まじりにふとこんなことを考えた。

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菅首相とカダフィ大佐 生き残りをかけて

2011-06-18 17:27:03 | Weblog
菅首相はリビアのカダフィ大佐に負けず劣らずタフである。東日本大震災が発生してから間もないころ、米英仏などの多国籍軍がリビアに対して軍事介入を開始した。当初のうちは多国籍軍の派手な軍事行動が注目を引き、カダフィ大佐が亡命かとの憶測も早々と流れた。しかしほぼ三ヶ月たった今、国際社会から見限られてもなんのその、カダフィ大佐は依然として(反乱軍に)徹底抗戦を続け再び攻勢に転じるなど、多国籍軍も打つ手がなく事態は膠着状態に陥っている。菅首相とカダフィ大佐、表面的な比較ではあるが置かれている状況がよく似ている。

政治の世界で言った言わないは不毛の論議になる。テレビを見ていると「菅さんが辞意を表明した」と野党に加えて一部の与党の面々が既定事実のように声高に叫んでいるが、私は既に狐と狸の化かし合いは狐の勝ちだったが・・・でも述べたように、必ずしもそのようには受け取っていない。

私が理解できなかった「若い世代の皆さんにいろいろな責任を引き継いでいただきたい」という菅さんの言葉が、鳩山さんには辞意表明と理解できたということなのであろう。しかしこれでは第三者に対して説得力はゼロである。その後伝わってきた話では上の三つの目標として挙げられた確認事項の書面には、首相退陣を約束または示唆する文言はどこにも無い。さらに言質として取られかねない署名文書は、首相の「同じ党の人間だから、信用してください」の一言に躱されてしまったと伝えられている。信じられない詰めの甘さであるが「Trust me」を乱発した鳩山さんの自縄自縛であろう。

すなわち私は菅さんが辞意表明をどこかでしたとは思っていないのである。

民主党は既に国会で内閣不信任決議案に反対投票をした。菅内閣を信任したのである。菅さんが「辞意を表明した」からその内閣を信任した、とまともな顔つきで断言できる民主党議員は一人も(いや、一人を除いては)居ないはずである。民主党代議士会での菅さんの発言は、あくまでも内閣の信任への支持を訴えたのであり、それに民主党議員が、だから国会が応えた、でなければ筋が通らない。

特例公債法案成立の代償に野田財務大臣が「首を差し出す」と言ったとか、しかし、野党がそれに対して非協力的な態度を貫くことはおそらく出来ないだろう。予算が動かなければ国民生活がもろに影響を受けることは誰にも分かること、政略の具としては今や諸刃の刃なのである。チキンレースとなれば、野党が腰砕けになることは目に見えている。民主党じっくりと構えれば良いだけである。

ここにきて菅さんは長期政権の基盤を固めるのにとても強力な武器を手にしたように見受けられる。「再生可能エネルギー促進」運動である。浜岡原発全原子炉停止は数々の問題があるにせよ、菅さんだから出来たことは衆目の一致するところであろう。菅さんが辞めると必ずや再稼働の動きが息を吹き返すことは間違いない。このことも含めて、「再生可能エネルギー促進」は今や国民の多くが関心を寄せまた支持することだろうから、国民運動としては小泉さんの郵政改革よりもはるかに分かりやすい大きな行動目標となる。となると市民運動家出身の菅首相はまさに水を得た魚で、改めて国民の大きな支持を集める可能性が極めて高い。そこまで見越したら衆議院解散は何時でも打って出ることができるし、それが早ければ早いほど、国民の支持が期待できると言うものだ。

それにしてもカダフィ大佐とわが菅首相、どちらがしぶとさに勝ることだろう。
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見事な菅首相の政権執着力

2011-06-16 17:52:33 | 放言
最近はかなり距離を置いて政治の動きを見ているが、それにしても菅首相の政権の座への執着ぶりが凄まじい。ここ何人かの総理大臣と比べて特筆に値する。ここまで欲望を剥き出しにすると、虚飾がなく爽快感まで感じるくらいである。そして第1.5次(?)補正予算案、特例公債法案、東日本大震災や原子力事故関連の法案の成立を、国会の会期を大幅に延長して図るなど、積極的な攻勢に出ている。それに対して内閣はもちろん民主党執行部もただただ引きずられるばかりであるし、自民党などの野党も菅首相を退陣に追い込むには全く手詰まりの状況である。一口にいえば菅さんの首相の座にしがみつこうとするエネルギーが、それに対抗するエネルギーの総量を上回っているからである。批判・反対勢力が本気になっていないからと言える。例えは悪いが、山口組が長年にわたる国の撲滅攻勢を跳ね返して依然としてその勢力を保っているようなもので、生き残りにかける真剣度がそれを潰そうとする真剣度を大きく上回っているからである。

こうなれば菅さんの手練手管をじっくりと見極めたい気がする。そして、国民の総意によらない首相の存在そのものがおそらく最大の問題点になろうが、議会内閣制の数々の問題点をあぶりだせればそれなりに無駄ではない。どうせ政治空白の続いている日本である。

これほどまで類を見ない菅さんの政権執着力を、本当に国民のための政治力に転換できればと僥倖を期待する気もないわけではないが、奇跡頼みはよそう。先行きにどのような見通しがあるわけではないが、もし菅さんを辞任に追い込む機運が民主党内で高まれば、閣僚が揃って辞表を提出するのが奇策ではあろう。それに菅さんがどう対抗するのか、そこまで見せてくれたら「見世物」としてはまずは満足できそうである。
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スペイン内戦にフランコと戦った分子生物学者

2011-06-15 22:20:44 | 
最近私の楽しみがひとつ増えた。以前にノーベル医学生理学賞が日本に来ないのはなぜ?でご登場いただいた旧知の増井禎夫さんとSkypeで時々おしゃべりをさせていただいているのである。ご夫妻はカナダのトロントにお住まいで時差は13時間、こちらが午前10時とするとトロンとは午後9時でちょうど昼夜が逆転している。おしゃべりには絶好の時間帯(その逆も)で、つい話が弾んでしまう。先だってもゴシップ大好きの私がぞくぞくとする話が飛び出たので、増井さんにお断りした上でここに紹介させていただく。

増井さんがYale大学で所属したのは、当時生物学部のチェアーマンであったClement L. Markert教授の研究室であった。このマーカートさんが研究室に来て1週間経つかたたない増井さんをつかまえて、「日本に駐留している米軍のことをどう思うか」と聞かれたそうである。「いざとなれば日本を守ってくれるのでしょう」の答えに、「それは甘い。アメリカはよその国のために戦うようなことはしない」と言われたそうである。なんと風変わりなプロフェッサーと私は一瞬思ったが、それよりもっと凄いのがマーカートさんが学生時代に歴史にも名高いAAbraham Lincoln大隊に加わってスペインでフランコ軍を相手に戦ったという話であった。スペイン内戦>ヘミングウエイ>「誰がために鐘は鳴る」と連想が走って興奮してしまったのである。さらにはマッカーシズムの嵐をもろに受けてMichigan州立大学で停職処分になったりとか、すでにそれだけでも波乱万丈の生き方に感銘を受けてしまった。その経緯がよくまとめられているので、とわざわざ増井さんから送っていただいた次の冊子と「Clement Markert, 82, a Biologist Suspended in the McCarthy Era」と題したThe New York Timesの追悼記事(1999年10月10日)をもとに、私なりに要点をまとめてみた。


1917年にコロラド州(Las Animas)で生まれたマーカートさんの父親が製鋼所の労働者で、大恐慌時代に鉱山や製鋼所が閉ざされたためにその影響をもろに受けた。この経験がマーカートさんの社会的良心を育むことになった。学業成績が優秀だったので与えられた奨学資金のおかげでUniversity of Colorado at Boulderに進むことができ、生物学を学ぶことになった。その頃、国際舞台での出来事、とくに労働者階級が必要とするものが叶えられないのは、資本主義経済が破綻しているからであると感じられることに関心が向けられた。そして社会主義思想を受け入れ、大学で共産主義者のグループを組織するに至ったのである。ほどなく彼の社会理想を実践に移す機会が訪れた。スペインのフランコに象徴されるファシズムと戦うために、学業を中断して2800名からなるAbraham Lincoln Brigadeに加わることにした。そのために大学のルームメイトと貨車に乗って東海岸に出て、当時米国はスペインへの旅行を禁じていたのでフランス行きの商船で密航したのである。

スペイン内戦は1936年月7月17日にスペイン領モロッコで勃発してスペイン全土に拡大し、39年4月日に終結した。これで王制を覆して成立した第二共和制が崩壊し、フランコ政権が確立した。この内戦は世界的な反響と関心を呼び、単なる一国内の内戦として片付けられるべきものではなく、第二次大戦の序曲でその実験でもあった。ドイツ、イタリアがフランコ側につき、ソ連が共和政側についたある種の代理戦争のようなものでもあった。右派にとってこの内戦は共産主義に対する十字軍の戦いであり、左派にとってもファシズムに対する大十字軍であった。スペインで戦場となった地形がマーカートさんの育ったPueblo, Colo.の地形とよく似ていて、そこでの山岳体験が時には敵の背後にも回る偵察行動に生かされた。クラスメイトは戦死したが彼は数少ない生存者の一人となったのである。次の記事が残されている。

In an obituary for Markert in The New York Times(October 10, 1999) he was quoted as having said in a 1986 interview, “I felt the most concrete thing I could do at the time was to destroy fascism, and Spain was the battleground on which to do that.”

対ファシズムの戦いに敗れて帰国後はコロラド大学で学業を終え、UCLAの大学院で脊椎動物の発生学の研究を始めた。しかしアメリカが第二次大戦に参戦したのでマーカートさんはファシズムへの個人的な戦いを再開する道を選び、修士号を1942年に得てから米国陸軍に入隊しようとした。しかし当時の政治情勢では彼が米国とスペインの共産党員と関わったことが引っかかり、軍務に服すことができなかった。そこでサンディエゴで港湾労働者として働き、やがて商船隊に受け入れられて、太平洋上の米国艦隊への補給船で通信士として勤務したのである。

戦争の時期を通り抜け、マーカートさんはJohns Hopkins Universityで生物学の博士コースに入り、当時国内で最も注目されていた発生生物学者Benjamin H. Willier教授指導のもとで研究を進めて、1948年に学位を得た。1950年、University of Michigan in Ann Arborの生物学部でAssistant Professorの職を得て研究者として独立した。ところが幸せな研究生活を送っているそのさなか、あの「マッカーシー旋風」をもろに受けることになった。非米活動委員会で証言を拒んだことにより他の同僚二名と共に停職となった。しかし再審議の過程でマーカートさんの人間としての誠実さに揺るぎない信頼を抱いた大学の仲間達、そして科学的洞察力に深い感銘を受けた科学者たちの強い支持により、ただ一人だけ復職が認められた。これについて次の言葉が残されている。

Markert would later relate this experience to his students to emphasize the importance of standing up for one’s convictions, whether scientific or political, regardless of the cost.

マーカートさんの若い時代の社会主義者としての積極的行動は後々までも物議を醸した。1957年に彼の大学院の指導者であったWillier教授が退職することになったのでJohns Hopkins Universityの発生生物学のポストに応募した時のことである。選考委員会は彼を推薦したが、大学管理部門が異を唱えたのである。しかしその膠着状態は時の学長であるMilton Eisenhower博士(Eisenhower米国大統領の弟)がマーカートさんを直接に面接したことで一挙に解決した。彼を正教授に推薦して、もし任命が認められなければ自分が辞職するとまで主張したからである。Yale大学生物部のチェアーマに任命されるにあたっても、時の学長Kingman Brewster博士が彼の過去の全てと、これからも社会の大義名分を追って活動を続けていくつもりであることを承知してもらうことに心を砕いたのである。ちなみにこのBrewster学長は時の人とかでTime誌の表紙を飾ったこと、そして学長主催の留学生歓迎パーティでは私立ち握手で出迎えてくださったことを今でも覚えている。増井さんご夫妻と出会ったのもこの時であった。

この誠実なお人柄があってこそ、ノーベル医学生理学賞が日本に来ないのはなぜ?で引用させていただいた増井さんの次の言葉が心にしみ入るのである。

マーカートの研究室では最初、ペンギンの発生に関係する酵素の分析を手伝ったが、一つ論文ができたところで、「君の好きなことをやりなさい」と言われた。ニ、三アイディアをもっていくと、日本でもできる安上がりの仕事にしたらどうかと言う。とても現実的な対応だ。夢は夢、その中から現実性の高いものを選んでいくのが本当の選択だと教えられた。それで、若い時からの夢である核と細胞質の相互作用が、卵の成熟の時にどのように起きるかをテーマにすることにした。これだったら、材料はカエル。あとはガラス管と顕微鏡とリンガ一液があればできる。しかも、たった一つの卵細胞が一つの方向に変化していくのを追っていけばよいのだから、系としても簡単だった。

The New York Timesの追悼記事は次のように締めくくられる。

Associates said Dr. Markert never lost his interest in politics over the years or his commitment to what he believed was justice. But in his 1986 interview, Dr. Markert said he had had to forgo his activism.

''I made the conscious decision that I could not be both a first-rate scientist and a social activist,'' he said.

社会活動家として、科学者として、理想と行動に道を極めた巨人にしてはじめて言える言葉だと思う。こんな人が実在していたのである。

院生時代、今、デモに参加すべきなのか実験に集中すべきなのか、仲間たちと侃侃諤諤の論議を交わしていたことを、ふと思い出した。
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ヴェニス・サンマルコ広場で出会った慶応大学文学部の女子学生

2011-06-12 16:32:24 | 昔話
産経新聞読書欄の「手帖」に、文学部の魅力をアピールする書籍が相次いで刊行されたと、慶応大学文学部が高校生ら一般読者を対象に作った叢書「文学部は考える」シリーズがまず紹介されていた。この慶応大学文学部という文字に刺激されてある記憶が蘇ったのである

かれこれ四半世紀以上前のこと、ヴェニスのサンマルコ広場でのことである。夕方、といっても既に日は落ちて暗くなっていたが、広場に設けられた仮設舞台を取り囲んでか、それとも大道芸人を取り巻いてか、大勢の観客がそれを見物していた。その中に目立った風体の女性がいた。バックパッカー姿で、ヴェニスのカーニバル用の仮面がリュックにぶら下がっていたのである。なんとなく日本人のような気がしたので近づいて声をかけてみると、やはりそうであった。お互いどういう旅を続けているのかなど、旅行者同士のたわいない話を交わして別れた。

数日後、私はフィレンツェの街を歩いていた。とあるジェラート屋の前を通りかかり何気なく店内に目を向けたところ、どう見てもあのサンマルコ広場の彼女が列に並んでいるのである。そして、まさに彼女であった。ジェラートはフィレンツェが発祥の地というから私も一つ買い求め、美味しく味わいながらこの奇遇をやや興奮気味に話していたら、「観光客の行くところはだいたい決まっているから、こんなこと珍しくありませんよ」といとも沈着は返事が戻ってきたので、私の浮かれぶりが気恥しくなってしまったものである。彼女は慶応大学文学部の学生で、卒業研究の課題に仮面を選んだのでカーニバルの仮装行列、そして仮面で有名なヴェニスを訪れたと言うのである。しっかりしているはずである。お互いに夜は時間が空いていることが分かったので、ここは年長者の私がディナーへの招待を申し出ていったん別れた。

フィレンツェには日本でもよく知られたSabatiniというトスカナ料理のレストラン(そういえば新神戸駅近くのビルに同名のレストランがあって、そこのディナーショーに出演!したことがる)がある。以前、そこに入ろうとしたらたまたま着飾った日本人の団体客にぶつかったので敬遠して数軒離れたレストランに入ったところ、そこのアット・ホームな雰囲気に料理がとてもよかった覚えがあるので、そこに予約をいれた。どこでどのように待ち合わせをしたのかは覚えにないが無事再会をはたし、思いがけなく心豊かにディナーを楽しむことが出来た。頼んだ前菜がふたりとも生ハム・メロンであったことが不思議と記憶に残っている。食後、お互いの前途の無事を祈念して別れた。名前は名乗りあったと思うが今や忘却の彼方である。

話はこれだけである。ただ強いていえば伏線があったように思う。三田の慶応学舎である会合があったときに、話の種に一度覗いてみましょうという誰かに誘われて文学部の食堂に行ったことある。確かに魅力的な女子学生が多くて、固い一方の国立大学の学食とは別世界のような華やな雰囲気を漂わせていた。その意識が頭のどこかにあって彼女を招待に駆り立てたのだろう。このような昔話を持ち出したのも、もしかしてこの一文が周り回って彼女の目に触れて、もしコンタクトを頂けるとまさに奇跡だと思ったからである。そんな事があれば数日前に記した私の「宿痾」が一気に吹き飛ばされるかもしれない。
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