日々是好日

身辺雑記です。今昔あれこれ思い出の記も。ご用とお急ぎでない方はどうぞ・・・。

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東大多比良事件の取材映像をみて

2006-12-30 10:50:55 | 学問・教育・研究
12月28日の私のエントリーにたいして29日の早朝にコメントを頂き、東京大学立花ゼミが渦中の多比良和誠氏をインタビューした取材風景の動画の存在を知った。「研究捏造問題」から動画のサイトにアクセスできる。

動画は7本に分割しているようだ。単純に計算すると総時間数は57分22秒に及ぶ。この動画公開に際して、《多比良氏本人に了解をいただき、多比良氏取材の動画を、急遽、ほぼ編集なしで公開することにしました。ゼミの取材班が体験したのと同じように多比良氏の話をそのまま聞くことで、果たして東京大学の処分が適切だったか、また、多比良氏の人間像がいかようなものかなどを、皆様一人ひとりに考えていただきたいからです。》のコメントが付されている。取材場所は見当がつくが、取材日時はなぜか明らかにされていない。

『象牙の塔』の中で発生した『不祥事』の当事者が、たとえ一人でもこのような形で自分の主張を述べ、またその映像記録が公開されたというのは画期的な出来事である。

多比良氏はまことに能弁で、淀みなく話が流れ出る。インタビュー相手にこれだけ喋らすことができるとは、聞き上手だな、とも思った。しかし聞く側が多比良氏の弁舌に酔ったような気配もある。そのせいかどうか、聞く側の突っ込みらしい突っ込みがほとんどないのが気になった。それが取材方針だったのだろうか。

論文の書き方を学生に指導する話が出てくる。多比良氏がたとえ学部の学生でも先ず学生に書かせて、それを原型が残らないぐらいまで学生とやり取りをしながら修正をしていくというのだ。私も多比良氏のこの指導法にここまでは100%賛成である。ところが続いてこのような話になる。「昼間電話その他で忙しいので、夜、学生には可哀相なんだけれど夜中に呼び出して朝までに終わるとか」。聞く側はそれで感心してしまっったのか、ただ承るのみである。

教育・研究が本務である筈の大学教授が「昼間電話その他で忙しいので」なんて云うと、「電話と研究指導とどちらが大事なんだろう」と私が学生の立場なら素朴な疑問が湧く。そして忙しさの中身を知りたくなる。「たとえばどのようなご用で?」と一人でもいいから聞き返して欲しかった。「教授リッチ(研究費が潤沢との意、注)で留守がよい」と一部では評判受けのするタイプであったのか、と私のようなげすは勘ぐってしまう。

突っ込みの欲しかったのはこの一例に止まらない。それが企画者の意図だったのかどうか、このインタビューは多比良氏の独演会のようなものに終わっている。せっかくの機会だからいろいろと事実関係をもっと明らかにして欲しかったの思いは残るが、多比良氏の『人間像』をある程度浮き彫りにした点では大いに評価できる。

さてその『人物像』である。

大阪大学杉野事件が表面化した際に、私は9月25日のエントリーで《在米期間が長かったと伝えられる杉野教授が、アメリカンスタイルをどうも持ち込んでいたらしい、と私は推測した。》と記した。そして、アメリカンスタイルとはどのようなものか、例を持ち出した説明した。ところがなんとここに実例があったのだ。アメリカの大学で専門教育を受けて学位も得た多比良氏が、アメリカンスタイルを自分の研究室に持ち込んだことをご本人が得々と語っているのである。研究ノートの一件である。

研究ノートの有無が東大多比良事件を特徴づけたぐらいそのウエイトは重い。私は研究ノートを撮した映像の一画面から、多比良氏は助手であった川崎氏に対しても研究ノートの『検閲』を目論んだなとの印象を持った。そう受け取られても仕方のない状況証拠なのである。私の印象がもし正しければ、これは紛れもなく『アカデミック・ハラスメント』になる。この問題は極めて重要であるので、年が明けてからまた取り上げることにする。

それはさておき、多比良氏はこのように仰っている。「私がデータを捏造すると、もっと早い時間に見つかっていた。というのは私は実験をやらないから。うん、実験をやった連中がすぐに気付く。私が何かデータを変えるとね」と。

ご多分に洩れず多比良氏も私が常に問題視する『自分で実験をしない、その実、実験をもはや出来なくなった教授』であったのだ。ところがその「実験をやらない」ことを逆手にとって、「だから私は捏造には関わっていない、それなのになぜ・・・」と暗に自己主張に結びつけるあたりは、さすがアメリカ仕込みの『debater』である。

この点でも聞く側の突っ込みがなかったのが心残りである。私が学生ならちょっと乱暴でも「先生、プロ野球でも、サッカーでも大相撲でも、プレイヤーが現役を退いたら、コーチとか監督とか親方になりますよね。そして後進の指導にあたる。現役のプレーヤーとは厳然と一線を劃しますよね。横綱が優勝すれば表彰されるのは横綱で親方ではない。先生が実験を止めたら現役を退くようなものではないですか。それなのに、先生が現場の研究者と同じように論文に名を連ねるなんて変におもわれませんか」と聞いてみて、反応を心待ちにするだろう。

ひょっとすると、東大の学生諸君にとって、多比良氏のように自分では実験をせずに大勢の教室員を使って『業績』をあげるような教授が目指す理想像なのだろうか、とも思った。それこそげすの勘ぐりで終わって欲しいものである。

このインタビューの映像を観て、それぞれの方がどのような感想を持たれるか、興味津々である。
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画期的な多比良和誠東大教授の懲戒解雇処分理由

2006-12-28 11:10:37 | 学問・教育・研究
東京大学は昨日、平成18年12月27日に「本学教員のRNA関連論文に関する懲戒処分」を行い記者発表をした。

《教員のRNA関連論文に関する懲戒処分について

東京大学は、本日付けで、大学院工学系研究科所属の教員が信ぴょう性と再現性の認められない多数の論文を共同で作成・発表していたことに関し、下記のとおり懲戒処分等を発令した。》

その懲戒処分の主な対象は多比良和誠教授と川崎広明助手であり、ともに懲戒解雇という厳しいが当然の処分であった。その処分理由も公開されており、多比良教授の処分理由は別紙1にある。

多比良教授処分理由は6項にわたるが、下に引用する最初の二つの項目は特に注目に値する。

《1.多比良和誠教授(以下「多比良教授」という。)は、責任著者として論文の科学的な信頼性について最も重い責任を負い、論文の発表に関する最大の権限を有する立場にありながら、川崎広明助手(以下「川崎助手」という。)の提示した実験結果について慎重な検討を加えることなく、川崎助手と共同で再三にわたり信ぴょう性と再現性の認められない論文を作成し、国際的な学術誌に発表した。
 2.同人は責任著者の立場にありながら、問題とされた論文の対象領域である分子生物学の細胞実験について、その妥当性を的確に評価し得るだけの識見を有しておらず、川崎助手が行ったと主張する一連の実験の具体的な企画立案や進行管理にもほとんど関与していなかった。また、川崎助手によって提示された実験の結果について、その生データを系統的にチェックすることもなかった。》(強調は私)

阪大杉野事件では教授自らがデータの改竄などの不正行為を行った、という極めて特異な事例であったが、この東大多比良事件は起こるべくして起こった、いわばふつうの論文捏造事件であるだけに、責任著者への当然であるが厳しい処分は、学界に大きな波紋を広げることになるだろう。

第一項目での責任著者が、論文の科学的な信頼性について最も重い責任を負い、論文の発表に関する最大の権限を有する立場にある、との判断は実はまったく当たり前のことなのである。しかしこの正論が大学では通用してこなかった。

その卑近な例が大阪大学医学部論文捏造事件である。捏造論文の責任著者である下村伊一郎教授が、当初の停職3ヶ月という処分案に対して、「処分されるほどの責任はない」と主張したら、なんと大学側が停職14日にしたのである。私は「お天道様が許さない」と云わざるをえなかった。

このたびの東京大学の処分理由は、その正論を正義のよりどころとした点で画期的であると私は思う。ようやく当たり前のことが当たり前として通用するようになったのである。厳しい世間の目が意識されたのかも知れない(好奇心旺盛の方は【正論】を新明解辞典(私のは第五版)でご覧あれ。)。

そして第二項目、ここまで云われたらこの教授はもう形無しである。それだけに止まらない。これが政界なら任命権者の責任問題になるのは必然であろう。実質的にはこの教授を選んだ『人事委員会』ということになるだろうが、野党がない大学だからこそそこまで追求されないだけのことである。

このなかで、生データを系統的にチェックすることもなかった、のところは特に注目に値する。責任著者にそこまで求めているのである。『自分で実験をしない、その実、実験をもはや出来なくなった教授』では勤まらない。

私は実験科学の分野で『自分で実験をしない、その実、実験をもはや出来なくなった教授』が、百万言を費やして研究者としての正当性を主張しようとも、一顧だにしない。『教授』を『研究者』と置き換えてみてこの文章が成り立つかどうかを考えればよく分かる。一編の論文に一部といえども自らの実験データでもってその完成に寄与できるの者のみが研究者の名に値する。

誤解のないように云っておくが、私は(実験)研究者であることを断念または抛棄した『教授』には、それなりの行き方があると思っている。たとえば、大学の管理運営一つをとっても専任に値する重要な業務ではないか。ただ『研究者』のふりをするな、と云っているだけのことである。

昨日のエントリーで紹介した佐藤優著「獄中記」で著者は《学者にしても、メディアによく登場し、政府の諮問委員になっている学者たちは「政治屋」で、アカデミックな水準に限界があります。本当に研究に打ち込んでいる学者は「公の世界」に関与する余裕などないのです。》(109ページ)と述べている。文系の学者にして周りの見る目がこうである。まして実験研究者においておや、である。

報道によると多比良教授の代理人である弁護士が処分について「実験担当者ではない教授を懲戒解雇とし、法的な責任を問うことは妥当ではない」とのコメントを出した。賛否に関して学者の動向がどう分かれることやら、興味津々である。公の場で徹底的に論議が交わされることを私はまず希望する。

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佐藤 優著「獄中記」を読んで

2006-12-27 18:19:28 | 読書

著者が東京拘置所の独房で書いたノートはB五判六十二冊で、四百字詰め原稿用紙にして五千二百枚分になる。これを五分の一に圧縮して四六判の本、約五百ページに収めたのがこの「獄中記」である。

タイトルは「獄中記」であるが、読書録でもある。512日間に読んだ書籍のリストが巻尾にあるので数えると134タイトルに上る。『岩波講座 世界史』などは全31巻で、ほかにも全集ものがあるから、冊数にすると200冊ぐらいになるのだろうか。なかには『広辞苑』のような辞書も含まれているので、正確に読書の対象になったのかどうか分からないが、なかには何回も読み返したものもあり、いずれにせよ大した読書量である。しかし私の好みと重なるところはほとんどないのが面白い。それにしても厳めしいタイトルが多い。さすが同志社大神学部出身のクリスチャンである。

たとえばユンゲル『神の存在』については《獄中で三回読んだことになる。毎回、何か新しい発見がある。神学的な訓練を受けたことがない人が読んでも、何のことかさっぱりわからない本であるが、二0世紀半ばのプロテスタント神学書の名著といってよい。》(346ページ)と書かれている。たしかに神学に無縁の私には、この著書の一部が十五行にわたり引用されていてもチンプンカンプンで、素通りせざるをえない。そして佐藤氏の次の要約に辿り着く。

《要するにキリスト教であるとか、神であるとかについては全く言及しなくても、キリスト教の言うところの真理は他の形で言い表すことができるということだが、僕はこの考えに基づいて外交官という仕事をしていたし、様々な学術研究をしてきた。》(347ページ)
それならそうと、最初から引用などなしにそう云ってくれ、と思うのだが、私が即物的すぎるのだろうか。

同じような筋立ては随所に見られる。たとえばフーコー『監獄の誕生』についてもこうである。

《客観的な証拠調べによって犯罪を証明することができるとする近代刑事訴訟法において、本来自白は必要ない。しかし、捜査機関のみならず、裁判所までもが自白を重視し、必要とするのはなぜか?フーコーは二つの要因があると考える。
 第一は、自白は裁量の証拠で、矛盾する証拠を整理し、弁護側の反証に対して、有罪をもくるむ立場に立つ人びとの作業を軽減するからである。要するに自白は経済的なものである。
 第二は(そしてこの第二の要因の方がフーコーにとっては寄り重要であるが)、被告人自身に自らの犯罪を断罪させ反省の意を公開の法廷で述べさせることによって、社会に対する教育的効果を上げる。(『監獄の誕生』42頁)
 以上は私なりの言葉でまとめたものだ(フーコー自身の言葉はわかりにくい)。》

昨日(12月26日)の夕刊に「再審決定取り消し 名張毒ブドウ酒事件 自白信用性高い」の見出しがトップに大きく出ていたが、上の第一の要因は、高裁の決定の舞台裏を解説しているように思えるではないか。

それはさておき、佐藤氏のこの部分でも私はちょっと引っかかった。

佐藤氏はフーコーを自分なりの言葉でまとめたとのことであるが、この第一、第二とも、稀代の知識人である佐藤氏にとっては、自らの体験・思索を通じて容易に自得することではないのだろうか。フーコーを箔漬けに用いなくても、とふと思ったのである。

佐藤氏はこうも述べている。《以前から何度も述べているように僕は時代と共に進むことはやめた。しかし、人生を投げ出してしまったわけではない。アカデミズムでそれなりの努力を積み重ね、インテリの世界では一定の発言力を確保したいと考えている。他者に全く理解されない文章は「インクのしみ」にすぎないので、理解される文章を綴るということは一定の発言力を持つこととほぼ同義である。》(441ぺーじ)

他者に理解されるためには、第三者を援用するのではなく、自分の言葉で語れば十分であろうと私は思うのだが、『文系』の人はそれでは頼りないと感じるのだろうか。それとも自分の頭に浮かんだある『考え』を、先人の言説と関連づけて整理しないことには、公にしかねるのだろうか。

そういう私なりの引っかかりは別として、「なるほど」と共感を覚えた箇所を思いつくまま列記してみる。・・・に続く部分は私の反応である。

《『現代独和辞典』をとりあえず通読し、神学・哲学用語を抜き出しておこう。辞典を読むなどという優雅なことができるのも拘置所にいる特権である。》(25頁)・・・なるほど!

《小説や実用書籍の遊び本を全然読みたくならない私の心理状態もちょっと不思議です。おそらく、『拘置所は学習と鍛錬の場』と自分で決めてしまったからでしょう。》(69頁)・・・できてる!

《ドイツ語、ラテン語に加えてロシア語の勉強もしているので毎日がとても充実しています。チェーホフの『結婚申し込み』(大学書林)を暗記してしまおうと思っています。》(93頁)・・・『冬の旅』の全曲、ドイツ語で覚えるぞ!

《私がどうしても理解できないのは、なぜ、まともな大人が熟慮した上でとった自己の行為について、簡単に誤ったり、反省するのかということです。一〇〇年ほど前、夏目漱石が『吾輩は猫である』の中で、猫に「日本人はなぜすぐに謝るのか。それはほんとうは悪いと思っておらず、謝れば許してもらえると甘えているからだ」と言わせています。》(100頁)・・・ヒヤヒヤ!

《神学論争を他の学問上の論争と比較した場合、私が見るところ、キリスト教神学には二つの特徴があります。
 まず第一に、理論的に正しいグループが負ける傾向が強いです。そして、勝ち組は政治力は警察力を行使し、本来は理論的問題である神学論争に介入します。ここで、人間の地には合理的要素と非合理的要素の双方があると考えるならば、これdバランスがとれるのです。論争に政治力を使って勝った正統派には「理論的には正しくない」という弱さが残ります。破れて異端の烙印を押されたグループは、「自分たちの方が真理を担っている」という認識をもつので、キリスト教世界が、一つの見解のみに塊自己硬直化を起こすことを防ぐ作用があります。》(132頁)・・・なんたる絶妙な、そして大人のバランス感覚であることよ!

《帝王学では、あえて責任感の欠如した人物を作ります。金正日に対してわれわれが違和感を覚えるのも金正日の拉致問題に対する責任感が極めて希薄だからと思います。しかし、北朝鮮のこのシステムが、日本の近代天皇制のコピーであることに気付いている日本の知識人がどれくらいいるかということです。》・・・ちょっと見では同感しかかったが、日本の近代天皇制は天皇の責任を免除することを目指して作られてきた、というのが私の認識なので、個人の資質に帰する佐藤氏の見解とは相容れない。

こういう調子で抜き書きをしていくと、止めどがない。共感するところが結構ある反面、これは違うな、と感じるところも出てくる。しかし佐藤氏と向かい合って対話感覚で読んでいけるのがはなはだ快い。

佐藤氏は《キリスト教徒が圧倒的少数者(カトリック、プロテスタント、正教合わせて人口の一%以下)であり、かつ一神教が何であるかを理解できない日本の風土の中で、僕たちがキリスト教徒であるということはどういう意味を持っているのか・・・》と自分に問いかける。自らを少数者と認識する佐藤氏のバックボーンをなすのは『自由な精神』に『ユーモア』である。この取り合わせに興味を持たれる方はまず「序章」に目を通すべきであろう。

ところで私には解けない謎が少なくとも一つ残った。

《今は書物の世界が面白くて仕方ありません。洋書が読めないのが残念ですが、与えられた条件の中で、日々の生活を最大限に楽しむとともに有効に活用したいと思っています。》(96ページ)

拘置所では検閲を通らないことには差し入れの書物が手元に届かないそうである。とすると英語はともかく、佐藤氏のようにドイツ語、ロシア語、チェコ語にラテン語の本を読みたいと思っても、それを検閲できるような語学に堪能な係官がいないから、洋書の差し入れが適わないのかと思っていた。ところが439ページに次のような文章が出てくる。

《もっとも戦前は外国語の図書の差し入れが認められていたので、勉強は相当できたようである。東京拘置所でも外国人被収容者は外国語図書をかなり自由に読めるようなので、羨ましく思う。》

佐藤氏に洋書の差し入れが認められなかったのは、どういう理由によるのだろうか。また佐藤氏は戦前より窮屈な規則になぜ抗議しなかったのだろうか。

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パソコンを解体してゴミ収集に出す

2006-12-24 20:24:21 | Weblog

古くなったパソコンをゴミとして処分しようとしても、神戸市は収集してくれない。リサイクル料金を払ってメーカーに引き取って貰うことになる。わが家には処分したいパソコンが3台あるが、自作や消えてしまったメーカーのものもある。いずれにせよリサイクル料金が1台につき4200円とは馬鹿にならない。

自分で組み立てたものを元の部品に戻すのは簡単だ。バラバラにすると部品であっても、もはやパソコンではあるまい。金属系ゴミになるのではと思い、問い合わせたら確かにそうであった。明日が粗大ゴミ・金属系ゴミの今年最後の収集日になるので、投げ込んであったガレージで解体作業を始めた。買ったときの元値は3台で50万円は下らないのに、なんとも勿体ない話である。

このほかにプリンター2台とスキャナー1台を同じく粗大ゴミ・金属系ゴミとして出す。その行く末を思うと、これまたあわれである。

それでふと思った。パソコン解体1台を1000円で請け負う。商売になるだろうか。

追記(12月25日) 今朝7時過ぎに『ゴミ』を集積所に出した。パソコンの部品などは青のビニール袋に入れて口を開けたままとした。すぐに中身を確認できるようにである。パソコンのケースとプリンター、スキャナーは裸のままで出した。そのように指示されているからである。先ほど集積所を見たら私の出した『ゴミ』が全て運び去られていた。ヤレヤレである。つぎはCRTディスプレイの処分法を考えてみよう。
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リュートと一弦琴

2006-12-21 16:35:06 | 音楽・美術

中世からルネッサンス、バロック時代の音楽LPを蒐集し始めて間もない頃、Julian Breamに出会った。1933年、ロンドン生まれのギター、リュート奏者である。12歳ですでにギター演奏のステージに立ち、セゴヴィアのお眼鏡にもかなったらしい。その後、リュートを独学で学び演奏活動に精を出すようになった。

リュートがアラブ世界からヨーロッパにもたらされたのは1500年頃でその後広がりをみせ、先日紹介したDowlandが活躍したのは1600年前後、日本では関ヶ原合戦の時代である。上の写真のLPはJulian Breamがエリザベス王朝時代のリュート音楽を演奏したものである。なかなか豪華なジャケットで、しっかりとしたボール紙で作られており、LPとスキラ社が製作したリュートなどの複製絵画入りの立派な解説冊子が収められている。





Julian Breamは英国はもちろんヨーロッパ大陸、アメリカと世界各地でリュート演奏を行い、当代随一のリュート奏者として名声を得た。どのような演奏だったのか、ある評論家の批評が解説に紹介されている。

「Bream氏はリュート演奏であらゆる時代を再現してしまう稀な音楽家である。しかし彼は古楽とかなにか特別な形の音楽として演奏するのではない。DowlandとかMorley・・・などの音楽を、あたかも今日のニュースのように今の話題にしてしまうのである。美の真髄を伝える彼の演奏は、あたかも最新流行の服飾のように今風なのである」

Greensleevesをこのように演奏している。

500年以上もの歴史のあるリュートを演奏することは、日本で云えば琴とか琵琶、三味線に笛、さらに私の嗜んでいる一弦琴を演奏するようなものであろう。だからリュート音楽は日本流に云えば伝統音楽なのである。ところがリュート音楽は伝統音楽だからこういう決まりがあって、というような文章に私は未だお目にかかったことがない。

彼は古楽とかなにか特別な形の音楽として演奏するのではない」とか「彼の演奏は、あたかも最新流行の服飾のように今風なのである」という評言は、Julian Breamのリュート音楽を現代に通用する音楽そのものと評価しているのである。Julian Breamが身につけたエリザベス王朝時代のコスチュームも素敵で、その当時の雰囲気をリアルに醸し出していた、とか、Dowlandの時代から細々連綿と伝えられた秘伝の奏法を駆使した正に伝統に則った演奏だった、と云うような懐古趣味とは全く無縁の批評なのである。

たとえエリザベス王朝時代の音楽であろうと、演奏される音楽が今の世に生きていることが聴く側にとっても大切なのであって、ある種の雰囲気作りのように音楽の本質にかかわりのない付随的なものには、一切、不要である、とするのなら、たとえば私の嗜む一弦琴の演奏などはどのようにすればいいのだろう。

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阪大杉野事件の結末・・・

2006-12-21 12:23:50 | 学問・教育・研究
今朝、ブログログを開けてみると、昨日午後8時台からのアクセスが急増している。阪大杉野明雄教授による論文捏造事件に関連したエントリーに集中しているのだ。何かあったのかなと思ったところ、朝日朝刊の一面に「論文捏造の教授を解雇」と大きく出ていたので、合点がいった。《阪大の理事や学科長らでつくる教育研究評議会が20日、懲戒解雇を決めた》とのことである。

この問題に関して、私なりの意見は既に出尽くしている。関心のある方にご覧頂けたらと思う。

阪大杉野事件への関連学会の対応は?(10月25日)
阪大杉野事件の広がりと博士号問題(10月20日)
阪大杉野事件 すべきことを怠った不作為は罪になる(10月1日)
ブログの効用(9月29日)
早すぎる杉野教授を懲戒解雇とする処分案(追記あり)(9月28日)
大阪大学大学院生命機能研究科「調査報告書」の外部公開を歓迎(9月26日)
実験をしない教授に論文書きをまかせることが諸悪を生む(9月25日)
阪大疑惑論文のフロントページをなぜ引用掲載したのか(9月24日)
間違いであって欲しい「論文不正、阪大教授が単独でねつ造」の報道(9月22日)
空念仏に終わった大阪大学総長見解(9月8日)

後は大阪大学が『阪大杉野事件』全容の調査報告をどのような形で公表するか、それを待つのみである。記録だけはしっかりと残しておいて欲しいと思う。
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Stingのロック風Dowland

2006-12-19 12:23:54 | 音楽・美術

昼下がり、NHKFMから聴き慣れたDowlandの曲が流れてきた。これまでとは全く異質の演奏で、その歌声に戦慄が背筋を走った。

番組で調べてみると歌っているのはStingというロックシンガーらしい。Amazon.comからCDを早速取り寄せた。

Stingという歌手は今まで知らなかった。ロックはほとんど聴いたことがないからである。Stingが芸名であることも初めて知った。アルバムの解説で彼のポートレートを見ると、『歌声』とぴったりなのに思わずニヤリとした。その哲学者的風貌がまた魅力的である。

StingとDowlandとの出会いは1982年に遡る。とある機会から、Julian Breamのリュート伴奏でPeter Pearsが歌っているDowlandの歌曲を聴いた。この音楽の、物思いに誘う美しさは分かったものの、自分の持ち歌に同化させることができるものやら、この時点では全く見当もつかなかった、とStingは述べている。

さらに十年後、本格的なレッスンを受けたわけでもないテナーに、Dowlandの歌がぴったりよ、と友人の女性ピアニストに勧められ、三曲ほどレッスンを受けて、ちょっとした夜会で歌ったとのことである。

ところで、Dowlandはエリザベス王朝時代からチャールズ一世時代にかけてて活躍した、イギリスの代表的なリュート奏者、作曲家で、シンガーソングライターのはしりでもあった。リュート伴奏による歌曲を多数作曲している。私もある切っ掛けからDowlandを始めとするこの時代の歌曲にはまり込み、手に入るLPを片っ端から集めたことがある。カリフォルニア州サンタバーバラに住んでいた1967年からのことであるので、その点ではStingの先輩格である(エヘン)。

さらにStingの友人で長い間の仕事仲間であるギタリストDominic Millerが、Stingに8コ-スのリュートを注文してくれたのである。写真で見ると7コースが複弦で、最高音の1コースが単弦になっている。共鳴盤の中央に迷路のような構図(Labyrinth)になったバラの透かし彫りがある。このCDのタイトル、「Songs From The Labyrinth」はここから取られたのであろう。

そのDominic Millerに紹介されたのがリュート奏者のEdin Karamazovで、今回のStingとの共演のCDが出来上がる発端でもあった。StingがDowlandに出会ってから四半世紀の年月が流れていた。

前置きが長くなったが、Edinが英語で書かれた最高傑作の歌だとStingに語ったのが「In darkness let me dwell」で、このCDの最後に収められている。これを聴けば、そしてAlfred Deller、 Peter Pearsがそれぞれ歌う同じ曲を聴くと、Stingの特徴がよく分かる。

In darkness let me dwell

In darkness let me dwell,
The ground shall Sorrow be;
The roof Despair to bar
All cheerful light from me,
The walls of marble black
That moisten'd still shall weep;
My music hellish jarring sounds
To banish friendly sleep.
Thus wedded to my woes
And bedded to my tomb,
O let me living die,
Till death to come.


翻訳は私の手に余るが、何とも陰鬱な詩である。Stingの歌声は地を這うように流れ、荒野を彷徨う襤褸をまとった修道僧の魂の叫びのようにも聞こえてくる。そして、感情表現が露わなのである。それが生々しいだけに、悲壮感ではなく生への執着が伝わってくる。

これに較べてAlfred Dellerは、カウンター・テナーということもあって、淡々と美しく歌っている。



また、多分Stingが最初に耳にしたはずのPeter Pearsも、Dellerと同様に技倆的には洗練されているが、歌い手の主張、感情表現を極めて控えめにしている。この両者はDowlandと聴き手の仲介役に徹しているようで、演奏を聴いた聴き手が自らDowlandの音楽に迫ることにもなる。そのためにはかなりの勉強も必要になると思う。



この両者に較べると、StingはDowlandに成り代わったつもりで、自分の生の感情をぶっつけてくる。聴き手は歌い手の強烈な個性に抗いようがなく、自ら考えを抛棄してStingに同化してしまう。

私がStingの歌声に戦慄したのは、ロックに痺れる若者の心を追体験できる、心の若さのせいなのかな、と思った(ニヤリ)。
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「やらせTM」劇場の高すぎる公演費用

2006-12-17 11:15:10 | 社会・政治
ある日、朝日朝刊第一面トップに《首相、報酬100万円返上 やらせTMで引責》の文字が躍っていた。しかし私にはこの「やらせTM」の一体どこが問題なのか、ピンと来なかった。

新明解さん(第五版)によると『やらせ』とは「テレビのドキュメンタリー番組などで、出演者と事前に示し合わせておいて慣れ合いでもっともらしく何かを行わせること」を云う。これ以外にも公聴会や株主総会、各政党の党員大会とか学術団体の総会など、要するに集会をスムーズに進行させるために、主宰者側と参加者の一部があらかじめ事前に打ち合わせてして筋書き通りに会を運ぶのはすべて『やらせ』で、これは日常茶飯事に行われていることであろうと私は思っている。一度でも会のお膳立てを経験した人は、それなりに思い当たることがある筈だ。はやい話がそのような集会で、発言者が一人もいないことには格好が付かない。そこで万が一に備えて質問者を準備しておく。このような『やらせ』はザラにあるではないか。

政府主催もしくは主導の集会が、政府の世論誘導であるのは当たり前のことで、大政翼賛会なんて言葉を知る世代の常識である。そうでないと考える方がおかしい。主権者である国民はその意思を、自らが選んだ国会議員を介して国政に反映していく。これが民主主義のルールというものである。政府主催と言うだけの得体のしれぬ集会で何か意見を述べると、それが何らかの形で法律に反映されるなんて考えるのはただのお人好しである。それでは国会議員なんて要らないではないか。

世論誘導もしくは上意下達の集まりに過ぎないタウンミーティングで出された意見を、政府側がかりにも法案提出主旨で取り上げるとしたら、これも民主主義のルール違反である。国会議員諸氏は自らの職を賭して反対しなければならない。

ことほど左様に、タウンミーティングは小泉人気を盛りたてるたんなるお祭り騒ぎ、かっての軍国少年にはシンガポール陥落を祝う提灯行列のように映ったに過ぎない。その無意味さが今回の出来事で浮き彫りにされた以上、はやばやとこのような茶番劇はお終いにすればよい。

ただ『やらせ』とか『世論誘導』には当たり前と思った私も、その開催費用の出鱈目ぶりには、やっぱりと思うものの、呆れかえった。一回の開催費用が平均2184万円というのである。

私に開催をまかせていただければ、たっぷりと手数料を頂いたとしても300万円以下で仕上げることが出来る。

手元に兵庫県芸術文化センターの施設利用料金表があるのでそれを見ると、2000席の大ホールを午前9時から午後5時まで借りても、入場料が無料の場合は平日で34万円である。これには受付とか座席案内孃の人件費が含まれているのかどうか分からないが、かりに人件費をプラスするとしても10人で10万円もみれば十分である。マイクとか看板とか諸費用をさらに上乗せするとしても会場関係で100万円もあればよい。

主宰者側の出席者が公務員であれば、公用出張になるから旅費などは計上しなくてよい。ゲストを招くにしても旅費謝礼込みで一人10万円もあればよい。五人呼んだとして50万円である。

開催の衆知は官報で十分。あとは地元のNHKからニュースを流してもらえればよい。これも『お上』のご威光をふりかざして無料で済ませる。別に広報関係に余計な費用をかけなくてよい。どうしても費用をかけたければ、参加者に一人あたり500円程度のお菓子袋を配ると口コミで広めれば、参加者がドッと集まること間違い無しである。1000人集まったとしても50万円で済む。

以上総計すれば200万円。それを私が300万円で請け負ったら100万円の儲けになる。しかし一私人の私にこれだけ儲けさせること自体が国費の無駄遣いである。タウンミーティングが公の行事である以上、私が請け負う仕事を元来は一人の公務員がそれに専念してこなすべきなのである。それなら平均出費の十分の一、200万円の出費で済む。

タウン・ミーティング運営を請け負った電通、朝日広告社の「一般常識からは理解しがたい単価の設定」が報じられているが、これは問題の焦点をわざと逸らしているとしか私には思えない。問題にすべきは、このような簡単な仕事をハイエナのような『御用商人』に『丸投げ』する官僚の体質なのである。公僕としての自覚の一欠片もみられない。

私は現役時代に国際学会も含めていくつかの学会主催の現場責任者の経験をもっている。学者の世間知らずと時には揶揄されるような身でありながらも、費用集めから会場設定まで、自分たちで力を合わせて働くことに何の違和感もなかった。現場主義のなせる業でもある。

『やらせ』に目を奪われて、官僚の『無駄遣い体質』の隠蔽を手助けしてはならない。


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祝 塩野七生著「ローマ人の物語」全十五巻の完結

2006-12-15 21:14:55 | 読書

塩野七生著「ローマ世界の終焉」が刊行され、これで「ローマ人の物語」全十五巻が目出度く完結した。1992年7月7日に第一巻「ローマは一日にして成らず」が出版され、その後正確に毎年一冊ずつ刊行された。第十巻以降は12月中旬以降に出るのが慣例になり、手にすると年賀状つくりに拍車がかかったものである。最終巻は本日12月15日に刊行された(実際に買ったのは昨14日)。年表、地図、引用文献を除いて総ページがほぼ5450ページにおよぶ大作を、よくもま無事にそして見事に完結させた著者のパワーと精進にただただ頭が下がる。心からお祝いを申し上げる次第である。

著者との出会いは1968年に遡る。そのころ勤務していたカリフォルニア大学サンタバーバラ校の図書館に日本語書籍・雑誌のコーナーがあった。月遅れで目にする中央公論に「ルネサンスの女たち」の連載が始まったのである。これを読み始めてぐいぐいと話しに引きずり込まれたことを覚えている。その後刊行された単行本の第一章に「イザベッラ・デステ」が収められているので、多分彼女の伝記を目にしたのであろう。

私はシュテファン・ツワイクの「ジョセフ・フーシェ」や「マリー・アントワネット」を愛読していた。緊張感のある彫心鏤骨の一言一言を追っていくと、世界が次から次へと広がっていく、その彼の文体に魅せられたのである。ところがそれと同じような興奮を彼女の作品から味わって、いっぺんに虜になってしまった。それ以来ファンとして彼女の作品は出るたびに手元に置いている。あるサイン会で「ローマ人の物語」の第一巻に彼女のサインを頂き、短い言葉を交わした貴重な思い出もある。

「ローマ人の物語」がどれほど大掛かりな著作なのかは、ギボンの「ローマ帝国衰亡史」とくらべてみるとよく分かる。エドワード・ギボンが1776年から1788年の12年余りを費やしてこの大著を完成させたが、「ローマ人の物語」は上にも述べたように前後15年かかって仕上げられている。その「ローマ帝国衰亡史」の翻訳が筑摩書房から出版されたが、それは「ローマ人の物語」と同じサイズのA5版で全十一巻になり、総ページ数は3230ページである。これは「ローマ人の物語」のちょうど60%にあたる。

英文学者の中野好夫氏が「ローマ帝国衰亡史」の翻訳を始めて第一巻を出版したのが1976年11月20日、最終巻が出版されたのが1993年9月25日だから、足かけ18年かかって翻訳が完成したことになる。その間、中野好夫氏が第四巻を完成させ81歳で逝去、その後を継いだ朱牟田夏雄氏も第五、第六巻の翻訳を終えて中野氏と同じく81歳で亡くなられた。その後を継いだのが中野氏の子息好之氏である。このように三人の翻訳者の協力でようやく翻訳の大業が終わったのである。

「ローマ人の物語」の中身とはかかわりのない話しになったが、塩野七生さんの大著完成がいかに超弩級の壮大なものであるかを強調したかったのである。

一つ楽しみに考えていることがある。「ローマ人の物語」の第十五巻を読み終えたら、今度は第一巻まで逆に読み返していこうと思うのだ。著者は「終わりに」でローマ史を書いた動機を「素朴な疑問」に置いている。「なぜこうなったのだろう」と素朴な疑問が生じたら、解答を見付けるには時代を遡らざるを得ないではないか。私の考えている読み方が案外歴史書のまともな読み方なのではあるまいか。と思ったら、現代から古代へ遡った日本の歴史物語を塩野七生さんにおねだりしたくなった。
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安倍首相は中国残留孤児訴訟に政治的決着を

2006-12-12 15:34:58 | 社会・政治
中国残留孤児訴訟で国が控訴 (産経新聞) - goo ニュース

神戸地裁が中国残留孤児の側に立った判決を出してよかった、と思ったのに、国が控訴する。なんとも残念なことである。

控訴を決定したのは官僚の一員、職務上原告と対決しなければならないからだろう。国が被告となる裁判で負ければなにがなんでも控訴する。官僚とはその様なもので、裁判の結果がどうなろうと、またどれだけ裁判が長引こうとも、ご本人は痛くもかゆくもない。月給はちゃんと保証されているし、一定の期間が経つと別の部署に移って担当が外れる。担当期間は事務的な処理をそつなくこなしておればいい。判決が生活を大きく左右する原告と、この点が基本的に異なっている。官僚主導型の対応が続いている限り裁判が長引き、中国残留孤児の多くが生存しているあいだには、この問題は解決しない。安倍内閣が小泉前首相の改革路線の基本を踏襲するというのなら、この問題を政治主導で解決すべきだ。

安倍首相が北朝鮮拉致問題に積極的に取り組んでいる姿勢は大いに評価できる。私にはその安倍首相が、《中国残留邦人の被害性質は、平時に北朝鮮の国家犯罪で拉致された被害者と同一視はできない》との政府側の説明を是としているとは信じられないのである。かって旧満州国で要職を占め、満州移民の推進に深いかかわりのある母方の祖父、岸信介元首相を介して、中国残留孤児を生んだ旧満州国とは、他の政治家にはない深い繋がりがあるではないか。北朝鮮とのかかわりとの比ではない。この問題を解決する政治家として安倍首相こそ最適の人物である。

中国残留孤児訴訟で、相反する判決が出されている。原告側の主張がまったく一方的なものではないことの証である。躊躇することはない。今からでも原告の利益になる控訴断念の決定を安倍首相が下せば、多くの国民の支持を得ることだろう。小泉前首相が発足間もない時期にハンセン患者訴訟で控訴断念を決定したことが、どれだけ多くの国民に深い感銘を与えたか、それに思いを致すべきである。

安倍内閣の支持率が早くも50%を割った。安倍首相の顔が見えてこないからである。別に人気とりを勧めるのではないが、中国残留孤児訴訟に政治的決着をつけることで、少しはその存在を国民にアピールしてはどうだろう。


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