久しぶりに睡眠不足をもたらした本を読んだ。著者いうところの『ゴシップ風』「谷崎潤一郎伝」である。
私の読書の楽しみの一つはゴシップに触れること。日本国語大辞典(第一版)には《②(特に有名人の)個人的な事柄についての、興味本位のうわさ話。また、それを記事にしたもの》とあり、だから読む方は気楽にただただ面白がればいいのである。
ところが、ゴシップ=『ゴシップ風』ではないのである。アカデミズムの世界に片足を踏み入れている小谷野敦氏は、週刊誌のライター宜しく『ゴシップ=うわさ話』を書き散らすわけにはいかない。それでは学問的業績にならず、昇進の足場になるどころか足を引っ張られる恐れがある。そこで面白おかしいうわさ話がネタであっても、自分なりに実証していますよとの思いが、「ゴシップ風にみえるだろう」と言わしめているのだろう。
私が何回も読み返した最右翼の小説が「細雪」である。アメリカに滞在しているときだけでも二三回は読み返している。外国の友人になにか面白い小説をと聞かれると、「Makioka Sisters」を紹介するのが常だった。「細雪」は船場の旧家蒔岡家の四人姉妹の生活を次女幸子の夫、貞之助の目を通して描いたものである。ところが私にはこの小説を最初に映画化した「細雪」の印象がとても強くて、長女鶴子といえば花井蘭子、次女幸子は轟夕起子、三女雪子が山根寿子で四女妙子が高峰秀子というように、四人姉妹が女優の顔になって現れるのである。その「細雪」を取り巻いてはゴシップが実に豊富でなかにはスキャンダラスのものもある。この本では小谷野氏も事実との関わりを丹念に解き明かしており、それだけでも私にはこの本は値打ちものであった。
谷崎潤一郎の三人目の妻である松子夫人の生家である森田家がモデルとのことで、森田家には上から朝子、松子、重子、信子の四人姉妹がいた。長女の朝子が森田家を継ぎ婿を迎えたが、下の二人は松子の婚家である根津家に一緒に住んでいたと云う。この四女の信子がなんと松子の夫根津清太郎と駆け落ちする事件があり、これが「細雪」では四女妙子の駆け落ちの下敷きになっているのであろうか。私には初耳であった。
ところが谷崎にしてからも、最初の妻千代の妹で当時十六歳のせい子と出来ていたというから、これが当時の風潮かと思えてくるところが恐ろしい。いや、面白い。
貞之助・幸子一家の住まいのモデルが現存している。住吉川のほとりに移築された倚松庵(いしょうあん)である。私もここを訪れたときにこれがあの「細雪」の舞台かと感慨を覚えた記憶がある。ここに谷崎が、松子夫人やその妹たちと7年間暮らしたのである。小谷野氏も《建物が妙に小ぢんまりしており、谷崎夫妻に子供二人、重子と女中らがいたのではさぞ狭かっただろう》と書いているように、人の気配を極度に気にするあの谷崎が「細雪」と執筆をすすめたと云うから、家族は息を詰めたような生活だったのかもしれない。
それはともかく、この倚松庵の名の起こりがゴシップ好きには嬉しいのである。住吉の松とは関係がないようなのだ。谷崎が二人目の妻丁味子と暮らしているときに、「倚松庵主人」と名のり始めているのである。著者は《「松に倚(よ)る」ということで、あからさまに松子への慕情を示し始めたのだ》とみている。これでは二番目の奥さん、居場所がなくなってしまうではないか、と思うのだが、当時の人の神経は飛び抜け丈夫だったのだろうか。
谷崎潤一郎といえばなにはともあれ佐藤春夫への夫人譲渡事件で有名である。これもこの小谷野氏の本で始めて知ったのであるが、なんともややこしい経緯がある。まず谷崎が千代夫人と別れて松子夫人と結婚したのかと思っていたら、そのあいだに丁味子夫人が2年ほど挟まれていたし、千代に長い間思いを寄せていた筈の佐藤にしても、いったん赤坂の芸者と結婚していたりする。しかしスキャンダラスなゴシップ風事実の極めつけは、千代夫人の不倫・妊娠である。
谷崎が唆したとも言われるが、千代夫人が八歳年下の男性と仲が良くなり、ついには身ごもってしまったのである。中絶させられたらしいが、その事実を谷崎はもちろん佐藤も知っていて後年の譲渡事件に繋がるというのであるから、ただただ戦前の人間のスケールの大きさに圧倒されるだけである。
それにしても、関係者が沢山いるだろうから、たとえ死後でも隠しておきたいこと(凡人からみて)まで、後世の人につまびらかにされる『有名人』の宿命て一体何だろうとちょっと考え込んでしまった。
その反動でもないが、私が著者に喝采をおくってもいいかな、と思ったのは、『松子神話』に対する挑戦である。私は不案内であるが、谷崎の一連の名作群が、理想の女性たる松子との出会いによって生まれたとの『神話』が流布したいたそうである。著者は《死後、谷崎から松子に宛てた、下僕として使ってください式の手紙を松子が公表して、神話化が始まった》と述べている。そして《松子への、今や有名な恋文群も、「佐助ごっこ」と言われているとおり、実社会においてもはや谷崎の地位に揺るぎがなく、谷崎から放り出されたら松子は二人の子供を抱えて路頭に迷うほかないこと、即ち自分の側の絶対的優位を信じるところから来た遊びであることは明らかだ》と断じている。
私もこの打倒『松子神話』には素直に同調できる。あのような手紙をとくとくと公開するとは、なんてデリカシーの欠けた女性だろう、とかねて思っていたからだ。
以上紹介したことは『ゴシップ風』物語のほんの断片に過ぎない。なかには個人的に楽しい発見もあった。昭和21年の5月のこと、20日に上京区寺町通り今出川上ル五丁目鶴山町三番地の中塚せい方に(谷崎が)間借りした、との記事にアレッと思ったのである。私が京都に住んでいたところが上京区寺町通り今出川上ル二丁目鶴山町一の十二、同志社女子大寮あとのマンションであったからだ。地図で見ると100メートルも離れていないところである。妙な偶然が嬉しかった。
谷崎という人物、もしくはその作品に傾倒する人にはゴシップ風挿話の宝庫、ぜひ一読をおすすめする。
【蛇足】94ページ、左から8行目: 精二は「わざわざ有難うございました」と例を述べたという。
例は礼の誤植?