日々是好日

身辺雑記です。今昔あれこれ思い出の記も。ご用とお急ぎでない方はどうぞ・・・。

裾は短し膝閉じよ乙女

2007-05-30 14:29:55 | Weblog
阪急電車で大阪に出かけた。若い男女の二人連れが乗り込んできて、向かいの座席に坐った。女性がちょうど私の真ん前で、バッグを膝の上に置いた。私の目測では膝上25cmの裾の短いワンピースを着用していた。

電車が動き出し男女はなにか言葉を交わしている。そのうちに女性がバッグから化粧用品を取りだして顔をいじくり始めた。どういう関係だろうかと訝しく思った。恋人同士のデートなら、ちゃんと身だしなみを整えてくるだろう、ましてや化粧においておや、である。女性は目の周りを黒く塗り始めた。手鏡と睨めっこであれやこれやいじくっている。最近は珍しくもない光景、しかし私に云わせると傍若無人の振る舞いである。それよりなによりこの女性の坐り方がいけない。ワンピースの裾が大きくずり上がり、その上膝を大胆に開いているものだから奥の奥まで見通せる。視野を遮るものがなにもない。と云ってもスッポンポンではなくて、布きれのようなものが奥に挟まっている。卑猥な光景なのだ。

目のやり処に困った。目を労るために最近は電車の中での読書を止めている。そうかと云って居眠りは私の主義に反する。視線を真正面からずらして阪急電車の路線図を見たり窓越しに景色を見たり、また広告に目を向けたりするのだか、何だか落ち着かない。私の両側にご婦人が座っていて、このご婦人方にも当然向かいの女性のあられもない姿が目に入っているはずだ。私が落ち着きなく視線を泳がせている原因を覚られているのではないかと思いうと、余計に気が落ち着かない。全く知らない振りをするには私はまだ修練が足りないようだ。

驚くなかれ、この女性は阪急三宮駅から西宮北口駅まで、一度も膝を閉じることがなかった。見方によればアッケラカンとしたものである。そういえば少し離れた席に座っているスカート姿の若い女性も、膝を開けっぴろげで居眠りをしていた。今やこれが普通の世の中なのだろうか。人前での化粧もそうであるが、羞恥心なる言葉は彼女らにとってもはや死語となっているのだろうか。

「秘すれば花なり。秘せずは花なるべからず」と云うではないか、これから迎える開放的な季節を前に、ただただ「裾は短し膝閉じよ乙女」と念じるのみである。


安倍首相 「慚愧に堪えない」の真意は

2007-05-28 21:34:33 | Weblog

電車に空席があるので坐った。ふと隣の人の新聞に目が行ったが新聞と云うには少し異常なのである。記事の活字が一様に大きい。そして「永田町・霞ヶ関騒然」の文字が飛び込んだ途端、私は察した。松岡農水相が自殺か、と。

これには伏線があった。去る23日、駅のスタンドで夕刊の「松岡 自殺」の大きな見出しに、「さては」と思い慌てて買い込んだら、事務所関係者の自殺を報じていたので、なんだか肩すかしを食らわされた思いをしたからである。私にとっては二度目の正直であった。



新聞を横目に見て思わず唸ったものだから、それを読み終えた乗客が、どうぞと云って私に下さった。「政治と金」が取り沙汰されると、必ずと云っていいほどその名前が取り沙汰される松岡大臣であったが、結局政治資金収支決算書に記載された光熱水費や事務所費の不透明な支出について、国民に対する説明責任を果たすことなく、政治家としての生命に終止符をうった。自ら墓穴を掘ったとはいえ痛ましい限りである。ご冥福を祈る。

7時のNHKニュースで安倍首相のコメントを聞いた。そのなかに「大変残念だ。慚愧に堪えない」の発言があり、一瞬とまどいを覚えた。慚愧とは新明解辞典には《取り返しのつかない事をしたと強く悔やむと共に、自ら恥じること》とある。私はまさかとは思いながらも、現職大臣の自殺という未曾有の出来事を引き起こした安倍首相が、自ら恥じるべき事を覚り、自らの出処進退を決意したのか、と思ったのである。

松岡大臣を意固地に擁護したのは安倍首相である。政治家として疑惑を持たれた閣僚に、国民に対する説明責任を果たすべく指示を与える立場にある安倍首相が、一切頬被りして盲目的に松岡大臣を擁護するという見苦しい行動を一貫してとっていたのである。

国民のほとんどが不信を抱いた松岡大臣を任命し、かつ最後まで擁護した安倍首相が『自ら恥じる』と云うのであれば、それをどういう形で現すべきなのか、国民の思いは一つであろう。国民の信頼回復を計るためにも、自ら内閣総辞職を断行すべきであると思う。それが出来ないような不甲斐ない安倍首相であるなら、野党が内閣不信任案を提出すべきである。


伊藤若冲展余聞 新聞販売店の利用法

2007-05-27 13:29:03 | Weblog
相国寺承天閣美術館若冲展を訪れたのは5月14日、シニア料金1200円で入館した。ところが翌15日に若冲展への招待券が二枚送られてきた。新聞地方版の記事を見て妻が葉書で招待券へ応募していたのが当たったのである。一日違いで残念なことだった。

妻が友だちに「若冲展の招待券をいかが」と電話したところ、「持っているから」と返事が戻ってきた。そして同時に貴重な情報がもたらされたのである。その友人はなにかあると新聞販売店に電話して「招待券ある?」と聞くそうである。その新聞が主催するとか何らかの形でかかわる催しの招待券であろうが、問い合わせると必ずと云っていいほど、その招待券が届けられるらしい。若冲展の招待券もそうして手に入れたとのことであった。

巷では新聞の勧誘合戦とか、乗り換えであれ新規であれ、その勧誘に乗るといろいろと『おまけ』を呉れるそうである。何万円の商品券なんてほんまかいな、と疑っていたら、なんと最近娘一家が商品券を貰ったと云うのである。何万円の商品券は単なる噂ではなかった。それが社会の正義派を標榜するかの大新聞の販売店からなので、私は裏切られた心地になった。ついでに云うと、貰い物のなかに有馬温泉への一泊券もあって、ホイホイと娘夫婦が泊まりがけで出かけたのはよいが、それは招待券ではなくて割引券だったので、なんだか高いものについたとこぼすオマケもついた。

わが家は親の代からその天下の大新聞を購読している。しかしその新聞を支えてきた永年読者に販売店は冷たい。毎月の集金の時にビニール製ゴミ袋を呉れるだけである。かねてから不公平感を託っていた妻が手ぐすね引いて待ちかまえていたところ、昨日集金人がやって来た。さっそく「招待券ないの?」と聞いたら5分も経たないうちに販売店から神戸市立博物館で開催中の「大英博物館 ミイラと古代エジプト展」の入場招待券二枚が届けられたのである。若冲展の招待券もありますが、と云われて、妻はますます悔しがっていた。

こちらから云いださないとモノを出さないのは保険会社だけではなさそうである。しかし新聞販売店にしても、枚数に限りのある招待券を相手かまわず配るのは賢明でないとの判断があって不思議ではない。浮いた招待券を無駄に眠らせないためにも、文化を愛でる心ある方に新聞販売店の有効利用をお勧めする次第である。

夏の甲子園大会の招待券も次のねらいどころ、さていかが相成りまするや・・・。

森見登美彦著「夜は短し歩けよ乙女」のページをめくりて

2007-05-25 18:22:01 | 読書

四条木屋町、高瀬川、烏丸御池、老舗喫茶「みゅーず」、先斗町、京阪三条駅界隈、下鴨神社参道、糺の森、下鴨納涼古本まつり、時計台、学園祭、本部構内、吉田南構内、吉田神社、出町柳駅、百万遍交差点、銀閣寺、哲学の道、東一条通り、高野川、北白川、今出川通、寺町通、元田中・・・、こういう文字がこの本のページをめくると出てくる。かっての私の行動範囲と一致する。面白そうだと思ってこの本を買った。

早速登場するのが酔っぱらい、恋わずらいに悪性の風邪引きで、そのせいか皆頭が朦朧とおかしくなっている。そのなかに引っ張り込まれるものだから、読む方もおかしくなる。小説だから当たり前なのかも知れないが、まともな人間は一人もいない。皆どこかがおかしい。おかしいもの同士だから話の繋がりなんてどうでもいい。あっちこっち飛んでいく。ストーリーだけでなく、登場人物までも風に吹き飛ばされ空中遊泳をする。『タミフル効果』でもあるまいが、私もベランダから飛び出して遊泳したいなという気分に誘われる。

学生が主役でそれを支える脇役の社会人、その猥雑な人間模様にオジサンが郷愁を覚えるというのもいいものだ。一種の回春本でもある。本屋が読んで欲しいと2007年本屋大賞第二位に選んだ作品ゆえ、本屋で堂々と立ち読みするのがよさそうだ。買うほどのものではなかった。

ちなみに大賞は私も読んだ佐藤多佳子著「一瞬の風になれ」。


一弦琴「嵐山」

2007-05-25 12:05:32 | 一弦琴
さる5月20日(日)に京都嵐山で三船祭りが催され、例年の如くテレビでその模様が放映された。宇多上皇が嵐山に御幸をされ、大堰川で船遊びをされたのがその起こりとか。余計なことであるが、あの菅原道真を重用した第五十九代宇多天皇は、ほんまかうそか、わが家の系図ではご先祖様なのである。

一弦琴にある「秋の御幸」は季節が秋、いっぽう「嵐山」は花も歌われている。今日は朝から雨音が喧しいが、春をおくる雨であろうか。雨音をバックに「嵐山」を唄ってみた。

平成の拳銃狩りを

2007-05-24 14:29:10 | Weblog
愛知県長久手町で5月17日から18日にかけて発生した立てこもり事件の犯人が、両手にそれぞれペットボトルとビニール袋?も持って投降してくる場面をテレビで観た。警官隊が犯人に拡声器で呼びかけている。その口調が何とも穏やかで、まるでスピード違反の調書を取っている警官の口調と変わらない。

その程度で驚くのはまだ早かった。警官が犯人に何か指示した後、あろうことか「ありがとう」なんて云うのを聞いて、目を白黒させてしまった。凶悪犯に話しかける時のマニュアルがそうなっているのだろうか。こんな調子で携帯電話を通じて犯人と交渉していたのかと思うと、事件解決に29時間もかかったのが分かるような気がした。安保闘争や浅間山山荘事件の時のような機動隊の凛とした命令や号令を懐かしく感じた。

29時間は長すぎたが、それより拳銃で撃たれて犯人宅の前で倒れた負傷警官が5時間も救出されずに放置されたことには唖然とした。日本中がこの警官隊の不甲斐なさにいらだったのではないだろうか。それほど時間をかけたのも、万全の態勢で臨むためなのかと思ったら、いよいよ救出作戦が開始されるやいなや機動隊の特殊部隊(SAT)隊員が射殺されるという最悪の事態になり、ただただ言葉を失った。

作戦の成否の鍵を握っているのは現場の最高指揮官である。現場で一体どのような判断をし指揮をとっていたのだろう。負傷警官の救出には銃弾の飛んでくることを予想して、銃弾を跳ね返すような移動式の防護壁を準備すればそれで済む話と素人の私は考えるが、その様な装備すら無かったのだろうか。5時間を無為に費やした経緯の中で指揮官の姿が浮かび上がってこない。そもそも指揮系統が確立していたのだろうか。もし指揮系統がはっきりしているのにもかかわらず、この事態を招いたのであれば、現場指揮官が無能だったと断定せざるをえないが、実情はどうであったのだろう。いずれにせよ時間をかけたにもかかわらず新たな犠牲者を出したことは明らかに警察の失態で、林警部はその犠牲者でもある。林警部の死を悼むマスメディアの報道に、指揮官の責任追及の姿勢が伴わないのが不思議である。

犯人逮捕に向けて装甲車?の後に身を隠した警官の群れが車と共に動き始めた時に、宵闇の暗さもあってか警官隊が私の目には烏合の衆に映った。烏合の衆を新明解辞典(第五版)は《おおぜいの人の、規律・団結力の無い寄り集まり》と説明している。機動隊のおのおのは職業意識に徹した隊員なのであろう。ピリッとした指揮官不在に対するいらだちが、私の目を曇らせたのかも知れない。

それにしても家の中のもめ事に拳銃が顔を出すとは怖ろしい。日本全国で5万丁に及ぶ拳銃が不法に所持されていると報道されていたが、秀吉の刀狩りではないが、平成の拳銃狩りがなぜ出来ないのだろう。今回の事件でも犯人が拳銃を隠し持っていることを家族が知らなかったとは考えにくい。拳銃を持っているからこそ「キレるとこわい」と家族の一人が警察に保護を求めたのであろう。密告と言えば聞こえが悪いが、家族の協力が有効であると思う。家族が拳銃不法所持を警察に申告すれば、不法所持者は罪一等を減じるなどの扱いが出来ないものだろうか。しかし今回は家族から拳銃が「おもちゃ」と伝えられたと聞く。事実を知りながら偽りを述べたとすると、これは明らかに犯罪に荷担したことになり、厳しく罰せられるべきではなかろうか。

一事が万事、今回の事件はものの見事に愛知県警の平和ボケぶりを炙り出してしまった。

京大病院 外科の教授を飼い殺しとはもったいない

2007-05-20 16:43:42 | 学問・教育・研究
5月16日付の読売新聞が《京都大病院の心臓血管外科が昨年末から手術を差し止められていた問題で、同病院は15日、成人患者の手術を今月10日に再開したと発表した。同病院は米田正始(こめだまさし)教授(52)を「手術の安全性が確保できない」として4月1日付で診療科長から解任しており、手術は同科の仁科健・講師が執刀。診療サポーターとして同大出身の坂田隆造・鹿児島大教授が立ち会ったという。》と報じた。

ことのおこりはこのようである。

《京都大病院の心臓血管外科が、昨年12月末から新規の手術を病院側から差し止められていることが18日わかった。
 同病院では昨年、脳死肺移植を受けた患者が脳障害を起こして死亡。この問題に関連して内山卓病院長が、安全対策が確立するまで自粛するよう、同外科の米田(こめだ)正始(まさし)教授に指示したという。全国有数の国立大病院で、心臓・血管の手術全般がストップするのは極めて異例だ。
 同病院の心臓血管外科は2005年に281件の手術を行った実績がある。患者が死亡した昨年3月の脳死肺移植手術にも、心臓血管外科医が加わっていた。》(2007年1月19日 読売新聞)

京都大病院の心臓血管外科がほぼ五ヶ月間新規の手術を行わず、あまつさえ米田教授がこの4月1日に診療科長を解任されてしまった。米田教授は学生相手の講義はできるのだろうが、病院での心臓血管外科の最高責任者としての地位を追われたからには、現実的に手術を行うことは出来ず、外科医としては髀肉の嘆を託つことになる。まさに飼い殺しの状態である。

米田教授の経歴を拝見すると1881年に京大医学部を卒業し17年後の1998年4月1日に母校の京大医学部心臓血管外科教授として招聘されている。しかし医学部卒業後6年間国内の私立病院勤務を経て日本を離れ、12年間外国で心臓外科医として研鑽を積み母校に戻ってくるその間、出身校の京大病院に医師としての勤務経験のないことが目を引く。そしてこの経歴を拝見して、「もしかして」の思いが浮かんだ。

論文捏造事件で阪大を追われた杉野明雄氏、東大を追われた多比良和誠氏がともに在米期間の長いところに一つの共通点があったが、米田教授もカナダ、アメリカ、豪州での滞在期間が長いことが共通しているからだ。

米田教授は外国のどういう優れたところを日本に持ち込み、定着させようと考えたのだろうか。また京大病院は米田教授に何を期待して招聘したのだろうか。両者にそれぞれの考えがあり、当然意見を交換したことだろう。そして意見の一致を見て教授人事が決定したと見るのが自然である。それが10年という節目を目前にして、両者にとって不幸な仕儀となってしまった。どうしてだろう。

質の高い医療の恩恵を受けることは日本国民が等しく願うところである。今回の出来事もその医療制度のあり方と深く関わっているように私は感じる。ここで私の目を引いた週刊医学界新聞の記事米田氏へのインタビュー記事を少々長くなるが引用させていただく。

《プロフェッショナルな外科医を育てる-心臓血管外科領域の新しい動向》
経験が足りない日本の心臓外科医
米田正始氏(京都大学教授・心臓血管外科学)に聞く

の大見出しで始まる。(第2519号 2003年1月20日)以下に小見出しだけを引用するが、米田氏が日本における特に心臓外科手術のあり方に批判的であることが推測されよう。

《●国際基準から格段に遅れた日本
   日本では外科手術をどれだけ経験できるか
 ●悪しき諸問題
   門番外科
   手術周辺の問題
 ●心臓血管外科医の専門教育について
   外科専門医制度とのリンク
   日本に専門医は何人必要か》

そしてこのような発言がある。

《欧米では「一人前の心臓外科医」になるには執刀・助手・術後管理とりまぜておよそ5000例ほどの経験が必要です。不文律ですが。年間2000症例をこなす施設なら1人が1000例以上は診るあるいは学ぶことができ、5年でゆうゆうと5000例に達します。最近ではドイツのように、年間3000-5000例の大施設で束ねる国もあり、世界の情勢はより改善方向にあります。日本の現状では、仮に年間50例としたら、欧米の基準に達するのに100年かかる計算になり、せめてその半分の2500を目標としても50年かかり、この違いは致命的です。 》

《この傾向はアジアも同様で、中国も1000例が基準です。上海もそうですし、北京では年間4000例の病院があります。できたばかりで年間300-400例の病院もありますが、1000例ぐらいを目標にしています。》

これに対して日本ではどうか、と言うと、2002年に厚生労働省が「年間症例数100」を外科手術件数の施設基準として示していると言うのである。そこで米田氏はこう主張する。

《基準が1000例を大きく下回っているのは世界で日本だけです。
 このままいけば、日本の心臓外科は成り立たなくなり、結局、患者さんに迷惑がかかってしまいます。この意味で年間100例というのは議論の対象にさえならないレベルというのが国際的な見方です。 》と手厳しい。

そしてこう締めくくる。

《高度な専門技術が問われる手術は,熟練した手術チームではじめて可能になります。そして,どんなに手術が上手くても,手術中には不測の事態が起こるものです。運悪く合併症が起こりそうになっても,術後管理を含めて5000例の経験があれば、何か起こりそうだと「ピン」とくるため、すぐに手が打てるのです。一方,経験が少ないと、理屈だけで考えて余計なことをしたり、逆に後手に回ってしまう。外科、特にスピードが要求される心臓外科では、学問というよりは知的スポーツという側面も大きいため、例数がすべてではありませんが、熟練度つまり場数を踏むことは手術に携る者にとって重要です。》

その通りであろうと思う。だからこそ米田教授は手術例数を増やすことに力を尽くしたのであろうが、そのことが周りとの摩擦を産みそれを広げたのかな、というのが私の率直な反応であった。

上の記事によると、京大病院心臓血管外科は2005年に281件の手術を行った実績があるとのこと。手術日が週2日だとして年間延べ100日だから一日に3人。手術チーム数にもよるだろうが、下手すると、というよりそれが常態かもしれないが、1チーム1日に2例ということもありうる。場合によれば3例もありうるだろう。実態は調べると分かることだから、憶測はここで止めておく。

ただ手術例数の数字だけが独り歩きしては実態が見えてこない。例えば上の281例にしても、全て米田教授が執刀医を務めていたとすれば、助手はいつまで経っても助手、それでは一人前の執刀医は育たない。一人の医師が執刀・助手・術後管理のそれぞれに何例ずつ経験することが「一人前の心臓外科医」に必要なのか、それが見えてこない。また欧米で合わせて1年間に1000例と言われても『どんぶり勘定』の中身が見えてこない。自分のところではこのように執刀・助手・術後管理の割り振りを行っている、との実情を語って欲しかった。

それはともかく、米田教授が手術例数を増やす試みが、京大病院における手術室の稼働状況や医療スタッフなどを含めてその処理能力を上回ったことが今回の出来事の根底にあったのではなかろうか。やる気満々の『帰国教授』を迎え入れる大学について回る宿命とも云えようか。

たまたま本屋で見かけた南淵明宏著「医者の涙、患者の涙」(新潮文庫)に目を通した。



南淵医師も米田教授と同じように海外で心臓外科医としての実績を積み上げ、帰国後は挫折も経験しながら、大学病院ではなくある医療法人の病院で心臓外科を立ち上げた方である。大学病院ではなく民間のこぢんまりした病院で自分の技倆を拠り所に患者に尽くす医師の心意気がよく描かれている。

飼い殺しするのかされているのか、立場によって見方が変わるだろうが、いずれにせよ医学教育の中心をなす大学病院で、一つの重要なポストが活用されていないのはいかにももったいない。米田教授は大学を相手に地位確認と3300万円の損害賠償を求める訴訟を京都地裁に起こしているとのことであるが、裁判に勝つことの喜びと心臓外科医として患者を救うことの充実感を秤に掛けた場合、どちらにウエイトがかかるのだろうか。活躍の舞台は大学病院だけとは限らない。賢明な選択を期待したいものである。

それにしても京大病院とあろうものが(とは買いかぶりの弁でもあるが)、教授にふさわしい心臓血管外科専門医を自前で育てられなかったという事実が、米田教授の上の意見の正当さを裏付けていると見たはひが目か。


一弦琴「井手の花」

2007-05-19 10:51:13 | 一弦琴
             詞  不詳
             曲 真鍋豊平

  井手へとは 思ふものから
  道遠み 植えてわが見る
  山吹の花
  折りかざす 春の暮


《【井手】京都府南部の地名。木津川に注ぐ玉川の扇状地にあり、奈良へ至る交通の要地。井手左大臣橘諸兄(たちばなのもろえ)が別荘をおいた所。ヤマブキとカエルの名所。歌枕。》(日本国語大辞典、第一版)

《いでの花(はな) (昔、井手の里がヤマブキの名所であったところから)「やまぶき(山吹)」の花の異称。転じて、黄金をもいう。》(同上)

橘諸兄は奈良時代の人(684~757年)。その後、井手は古今和歌集(913年)、後選和歌集(956年)、大和物語(957年)、狭衣物語(1077年)、袋草子(1159年)、新古今和歌集(1205年)、伊勢物語(平安中期)などの作品に顔を出しており、その故事は後世の文人には周知のことであったのだろう。

一弦琴を奏でる楽しみの一つは、昔の人に心を通わせることである。真鍋豊平が「今様」と「須磨」に始めて接したのが1830年頃と推定されている。それ以来延べ何千人の人たちが、「今様」、「須磨」を唄ってきたことだろう。嬉しいとき、悲しいとき、忙しいとき、暇なとき、どのような状況で、どのような気持ちで唄っていたのだろう。私の唄に「これこれ、そんな勝手な唄い方をしたらいけないよ」なんて声も聞こえてきそうだし、「なんだか無理をして低い声をだしているね。そんなの聞き苦しいよ。唄いやすいように唄いなさい」と親切に云ってくださる声も聞こえてくるようだ。

それはいいのだけれど、先日若冲展の「動植綵絵」を観て受けたような感動に類するものを、一弦琴演奏で人に伝えることが出来るのだろうか、と考えると、虚脱感が先立ってしまう。ちなみに伊藤若冲が没したのが1800年、真鍋豊平の生誕は1806年なのである。

実は昔の人の演奏技倆に現代人は到底到達できないのではないか、との思いを最近抱くようになった。いずれ私なりの考えをまとめるつもりであるが、よろしければ先ずはお耳汚しながら私の演奏をどうぞ。


追記(5月20日) 花(ハナ)がアナに聞こえる。発音もよろしくないし、息づかいももう一つ。それで唄い直してみた。

相国寺承天閣美術館若冲展と図録

2007-05-16 16:06:30 | 音楽・美術

5月14日(月)JR京都駅近くのセンチュリー・ホテルで開かれた関西三坂会が終わってから相国寺に急いだ。伊藤若冲展を観るためである。会場の承天閣美術館に着いたのは午後3時過ぎ、閉館は5時である。

13日に始まったので二日目、行列を覚悟してきたが、会場入り口まで結構長い通路を歩むが前に人はいない。ようやく入り口に辿り着いて即入場、待ち時間ゼロであった。22日間の会期中無休なのだが、月曜日は美術館はお休み、と思い込んで来館を控えた人が多かったせいかも知れない。客入り具合もほどほどで、ゆっくりと展示品を鑑賞できたのが良かった。

お目当ては第二会場の壁面を埋め尽くした「釈迦三尊像」三幅と「動植綵絵」三十幅の計三十三幅である。正面に「釈迦三尊像」三幅が、その両脇に十五幅ずつ並んでいる。「釈迦三尊像」は一幅が215.0×110.8cm、また「動植綵絵」は一幅がほぼ142×80cmと文字通り大作である。この三十三幅がものの見事にピタッと納まっているのに感心したが、それも道理、この展示場がその為に作られたとのことである。臨済宗相国寺派管長の有馬頼底氏が「この承天閣美術館は、昭和五十九年に完成したんですが、実は、設計プランを立てる時から、この寺に残っております若冲作の「釈迦三尊像」の三幅を中心に、その両サイドに十五幅ずつが並ぶという構想を前提に設計しました」と語っておられる。

「釈迦三尊像」は相国寺に残っていたとして、では「動植綵絵」はどこに所蔵されているのかというと宮内庁三の丸尚蔵館なのである。若冲がこれら全三十三幅を亡き家族と自分自身の永代供養を願って相国寺に寄進したのち、相国寺は年に一度の観音懺法(かんのんせんぽう)という儀式で公開していたのである。

ところが「動植綵絵」三十幅が明治二十二年三月に宮中に献上されて、相国寺には保存費として一万円が下賜された。現在の金額にすると何百億円に相当する。このお蔭で明治維新後の廃仏毀釈の波にさらされていた相国寺の一万八千坪の敷地が維持された、というから、相国寺にとっては若冲様々なのである。明治宮廷も味なことをしたものだ。

このようにして別れ別れになった三十三幅が今回、相国寺の「開基足利義満六〇〇年忌記念」ということで百二十年ぶりに一堂に会したとのことである。

後は実物を観るだけである。若冲が生き物を自分の目で納得のいくまで観察し、それを形と色で表現する。大きな画面を埋め尽くすその精緻さに、これが人間業か、とただただ驚嘆するのみ。しかしパワーに圧倒されてから徐々に自分を取り戻してくると、今度は画の持つエネルギー我が身にドクドクと流れ込むのが分かる。精神が高揚するのである。

図録がなかなかよい出来である。画幅の形に合わせてか、26.5×30.5cmのやや縦長の判型で、三十三幅がそれぞれ一頁を占めている。また部分図も十四頁あって、若冲の精緻な技を十分に堪能できる。実に細かいところまで再現されている。あら探しのつもりで虫眼鏡で覗くと、細緻さがますます浮き上がってくるのだから驚く。もちろん第一会場の展示品を含めて、すべてが図録に収められている。造本もしっかりしておりこれが2500円とは極めてリーズナブル、インクの匂いがまたよい。

ところで最新のデジタル画像複製技術で、原寸大のプリントを一般に提供して貰えないものだろうか。実費プラスアルファが5~10万円程度なら、希望者が殺到するのではなかろうか。こういう味なことを今度は平成宮廷に期待したい。


朝鮮時代の三坂小学校同窓会に出席して

2007-05-15 17:13:26 | 在朝日本人
私は戦後朝鮮からの引き揚げ者である。京城府公立三坂国民学校に1年から4年まで在学して、5年からは江原道鉄原邑に疎開して鉄原国民学校に通ったが、そこで敗戦を迎えた。いずれの国民学校も卒業することはなかったが、三坂小学校同窓会に在五(敗戦時に在学しておれば五年生)会員として数年前に加えていただいた。

2005年10月に東京で開催された全国大会が全員による集まりの最後になった。会員の高齢化による。しかし近畿、北陸、四国に点在する会員の集まりとして、幸いにも関西三坂会が結成されて、昨日その会合が京都で開かれた。会員数ほぼ270名のうち参加者は31名で、最年長は昭和9年の卒業生の方だった。

この最年長の方が出席者にプレゼントを下さった。Google Earthの三坂小学校を中心とした現在の航空写真のプリントである。またお話の実に明晰なこと、85歳になっても衰えを見せないチャレンジング精神こそ、われわれ外地で少年・少女期を過ごした者の真骨頂とわが意を強くしたのである。出席者のほとんどは当然のことながら私より年長者である。この関係が一生続くのだと思うと、上の兄弟のいない私に甘えた心というか、心のやすらぎが押し寄せてくるのである。

実は私もGoogle Earthで旧居を見付けていた。同窓の皆さんにお知らせしようという発想の浮かばなかったのが残念である。以前に記したことであるが、1998年に現地の通訳の助けを借りて三坂通30番地26にあった旧居を奇跡的に見つけ出していたからである。その場所を航空写真で示す。



航空写真で旧三坂小学校を見ると、運動場右手にあったプールが見あたらない。1998年にはまだ使われていたので、その後取り壊されたのであろう。それにしても戦後半世紀も使われていたとは、立派なものを作ったものだと感心する。

小学校の右手にある裏門から上下に走る三坂通に出て上の方に歩いていく。鋭角がはっきりしている三角の交差点に出ると、図では後戻りになるが実際は坂を上っていく。上り始めたすぐ右手に不動産屋があり、そこで通訳が昔の家の様子を店主に聞いてくれた。日本人家屋の多くが取り壊されていたが、私の旧居だけは外装などは完全に変わっているが、内部はそのままに残っているとのことであった。坂を上っていくと左手にその家が見えてきた。航空写真でピンのしるしを付けたところである。



写真で左側の家は完全に建て替えられていた。父と同じ鐘紡の社員で手塚さん一家がかって住んでいたところである。北海道の出身で昭和18年か19年に満州に転勤して行かれた。この家の塀際に桐が植わっており、私はよく塀の上から木に登っていたが、ある時掴んだ枝が折れて地面に投げ出され、そのときに右腕関節のすぐ下を切り裂いてしまった。親に知られると怒られるのは必定なので、自分でなんとか処置を済ませた。幸い膿まずに直ったが、お蔭で刀で切られたような傷跡が今も残っている。



写真の門は韓国風であるが昔は日本式の門柱に門扉だった。旗日には向かって左の門柱に日の丸の旗を掲げた。これは長男の私の仕事であった。写真に見える樹木はその後の住人が植えたものである。また右側の家はなくて、石垣のうえは空き地で草がよく生えていた。誰かに教わってあかざを集めると母はそれをおひたしにした。

門柱のすぐ後ろは板囲いになっていて、オンドルの燃料である無煙炭を蓄えた。戦争が進んでくると庭を掘って防空壕を作ったが、なにかあるとよく潜り込んで遊んだものである。

門を入り玄関に進む。この玄関前で撮った写真が残っている。



この家族全員の写真に、父が「昭和十七年十月十?日京城神社祭礼当日三坂三十番地二十六ノ玄関前」と書き記している。もう一枚は妹の写真で、玄関先の様子がややはっきりと分かる。



昨日の出席者の中で、ご両親が持ち帰られたのであろう、通知表などを持参の方がいた。私たちの世代の親は、そういうことがごく自然に出来ていたように思う。着の身着のままで逃げて帰ったのに、子供の成長の証しを大事に持ち帰ってくれたのである。親の愛情を感じる。そのおかげで私も通知表が残っており、それにまつわる話を以前に記したことがある

優等賞の賞状なども出て来たのでご覧に入れる。一年生の時の『学業優秀素行善良』の言葉がいい。それにしても漢字でゴツゴツした厳めしい文章である。低学年の私に読めたのだろうか。二年目からは優等賞が賞状に変わり、『修練』という言葉が加わった。世情を反映してだろう。ところで今どきの子供たちもこのような賞状を貰っているのだろうか。人に賞められるというのは励みになるもの、年取ってからの勲章も悪くはないが、子供を励ます方がもっともっと大切だと思う。『修練』によく励んだのであろう、四年連続で賞状を頂いて最後のが昭和二十年三月二十四日、戦争に負けるまでもう五ヶ月も残っていない。それなのにこのあとすぐ鉄原に疎開したのである。