日々是好日

身辺雑記です。今昔あれこれ思い出の記も。ご用とお急ぎでない方はどうぞ・・・。

ブログの一年間

2009-12-31 18:30:42 | Weblog
ブログ書きをはじめて5年余りになり今や私の生活の一部に定着してしまったが、ものを書くことがこれほど長い間続いていることは、かって日記すらまともにつけたことがなく不精者を自認する私にとっては驚天動地の出来事なのである。しかし続いているからにはそれなりの理由が考えられる。一つは隠居になって気の合う仲間とおしゃべりを楽しむ機会が減ったものだから、その代わりになっているのだと思う。それと、何かを思いついた時に気の向くまま書くようにしているのが良いのだと思う。もし毎日書くことを義務づけたりしていたら、とっくの昔に挫折していたことだろう。「今昔あれこれ思い出の記」を書き残しておこうという気持ちは最初からあったのでブログタイトルの説明にもそう記したが、それよりも日々の出来事にあれこれ反応することが多くて思い出の記にはなかなか入れない。しかし記憶もかなり薄らいできているので来年はもう少し力を入れようと思うが、それも少し意識する程度にしておこう。このようにまったく自分勝手に書き連ねている雑文のサイトにお立ち寄り下さる方のおられることが嬉しい。たとえ応答がなくても、来ていただくと言葉が伝わっていくように感じるのである。

今朝も面白いことがあった。このgooブログにはアクセス解析の機能があって、過去2週間の閲覧数、訪問者数のデータなどに加えて次のようなコメント欄がある。


あれっと思ったのは昨日(30日)1番閲覧数が多かった閲覧元URLとして挙げられているのが「http://sankei.jp.msn.com/politics/policy/091230/pl...」なのである。よくみると産経ニュースのホームページでしかも「politics」というからには政治欄である。そこから私のブログにアクセスがあったとは一体どういうことなのか、というわけで閲覧元URLのところをクリックして、さらに一番上のURLをクリックすると『【正論】東洋学園大学准教授・櫻田淳 「臣」の作法は忘れ去られたか』のタイトルで始まる記事が現れ、次のようなくだりがあった。

 ≪憲法理解の不十分な小沢氏≫

 天皇を「国家と国民統合の象徴」と位置付けた現行憲法典の下でも、そうした「立憲君主国家」としての流儀は受け継がれていた。たとえば、現行憲法典制定時の宰相であった吉田茂は、自ら「臣・茂」と称し、最晩年に至って宮中から鳩杖を下賜(かし)された。鳩杖の下賜は、古来、老齢の功臣に与えられた最高の栄誉であった。そして、吉田の直系の弟子であった佐藤栄作も、師と同様に自ら「臣・栄作」と呼んでいた。吉田も佐藤も、戦後の宰相としては最も長い執政期間を刻んだけれども、その宰相としての「権勢」が、「筆頭の臣」(Prime Minister)として「君」に仕えるためのものに過ぎないことを充分(じゅうぶん)に心得ていたのである。
(産経ニュース 2009.12.30 02:26)

この「臣・茂」の部分にカーソルを当てると、「Bing」による「臣・茂」のつぎのような検索結果の一部が出てくる。この最初に出てくるのが私のブログ記事なのである。おそらくこのような経路で産経ニュースから私のブログにアクセスがあったのだろう。


以前にiPhone 3GSで産経新聞をただ読みで「反民主党政権色がかなり強いような気がした」と述べたが、その実、産経新聞にはかなり右よりの記事が多い。間接的であれこのような形でつながりが出来るとは、元軍国少年も三つ子の魂なんとかで、未だに筋金入りなのだろうか。

それはともかく、Google、Yahoo、Bingなどの検索マシーンで上位に出てくる記事が人目に触れる機会が多いのは当然で、gooブログでも閲覧元URLのほとんどが検索結果のページなのである。有難いことに私のブログ記事はそのタイトルもしくはタイトルに出てくる言葉で検索すると5位以内に入っていることが多い。閲覧元URLで示すと、最近の記事でたとえば「民主 連立 なぜ」のGoogle検索では218万件の2位に出てくるし、「歌うのは楽しい」などは419万件のトップに出てくる(検索データは12月31日現在、以下同じ)。歌うことを世界に広めているような気になって嬉しくなってしまう。


そう言えば私の好きな韓国の歌「同心草」も98万1千件のトップに出てくる。


ほかにも最近の記事で言えば「トマたまうどん」が4万8千件の1位、「"科学者も人の子"」が2万1千件の1位となかなか調子がいい。しかし驚かされたのは「大ビル」の検索結果で、なんと3360万件のトップに出てくるのでこれには恐れ入った。「大ビル」なんてキーワードは検索としては最も雑なものだから、「大」も「ビル」も猫も杓子も引っかかって来るから検索件数がかくも大きくなるのは頷けらるがそれにしてもそのトップとは、である。


ちなみに「日々是好日」は98万2千件の第5位であった。

こんなお遊びをしている間に外はすっかり暗くなった。あと余すところ5時間足らず、来年も気楽にブログ書きを楽しみたいと思う。一年間のお付き合いに感謝し、またのお立ち寄りをお待ちする次第である。ではどうかよい新年をお迎えください。



宮城谷昌光著「風は山河より」を読みつつ大掃除

2009-12-29 11:52:20 | 読書
これまで大晦日にやっていたキッチン周りの大掃除を今年は早めにすることにした。それだと時間を余り気にせずに念入りに仕事ができるし、綺麗になったキッチンでお正月支度をやって貰えるし、と発想転換したのである。愛用のスチームクリーナー(ケルヒャー1501)が相変わらず大活躍をしてくれた。一回の給水が1リットル、それを何回も繰り返したの10リットル近くは使った。それくらい念入りにしたのである。クリーナー用の真鍮ブラシを行きつけのホームセンターでたまたま見つけたので、今年はそれを使ったところ、ガスコンロのグリルが驚くほどあっけなく鋳鉄の地肌を取り戻した。やはり道具は使いようである。

それはよいのだが、結局二日がかりの大掃除となった。丁寧に仕事をしたのもその理由の一つであるが、それよりも仕事の合間に本を読むつもりが、本を読む合間に仕事をするような羽目になってしまったからである。その本とは暮れに第五巻、第六巻が出て完結となった宮城谷昌光著「風は山河より」(新潮文庫)である。スチームクリーナーの水がなくなると新に水を補給する。それが沸いて蒸気を出せるようになるまでしばらく待ち時間がある。その時間つぶしにこの本を読み始めたのであるが、そこが宮城谷さんの小説のこわいところで読み始めたら最後、物語に引き込まれて湯が沸いたのも忘れてしまうのである。気がついて清掃作業に戻っても、早く本を読みたいものだからせっせと仕事に励む。読書と仕事をともに楽しむことができるなんて思いがけない相乗効果ではあったが、それだけ仕事が終わるまでに時間だけは確実に伸びたのである。


この本が単行本で出た時は全部揃ったら買おうと思ったが、全五巻で完結した時はそのうちに文庫本で出るだろう気が変わり気長に待っているうちに、全六巻に再編集されて出てきたのである。2年待つだけで済んだ。

徳川家康が幼少の頃今川家に人質にやられたが、それは父広忠が家臣により殺されたことに由来することぐらいは知っていた。しかし祖父松平清康の事績についてはほとんど知らなかったので、物語がその辺りのことから始まるので、欠けていた知識がうめられるように思ったが、話が展開して行くにつれて、これは家康の物語ではなく、戦国時代における三河の物語だと感じるようになった。そして主人公も東三河を本貫とする野田菅沼家の三代、定則・定村(さだすえ)・定盈(さだみつ)で、やがて焦点は定盈に絞られる。この本を読むまでは菅沼定盈の名前は私の意識にはなかったが、武田信玄の3万の軍勢を相手に400余の城兵で立ち向かい、一ヶ月の籠城を耐え抜いた武将である話になって、そのよう話が確かあったな、と思い出したのである。最後は水を断たれ、城兵の命の代わりに城主の命を差し出すこととして開城のやむなきに至るが、かれの武勇を称揚する武田信玄の決断で人質交換に使われ、無事徳川陣営に戻ってくる。そして著者はこのように筆を進める。

 菅沼新八郎定盈の驍名が天下に知られるようになったのは、織田信長の熱い褒詞があったためである。
 天正三年、武田勢に重囲された長篠城の奥平貞昌を救援すべく岐阜を発った信長は、五月十七日に野田に着陣した。ここで信長は、すでに野田城主に復帰していた新八郎を召してこういった。
 「かくのごとく不堅固なる小塁に、しかも微勢にて立て籠もり、大軍猛将の信玄を禦ぎける段、往古の楠(正成)にも劣らざる英雄なり」

野田菅沼家も元々は今川家に属していて、定盈は義元亡き後となって今川氏真の武将に人質として妻と妹を差し出すが、今川家に叛き松平元康(徳川家康)に誼を通じことを踏ん切った際に人質救出作戦が齟齬をきたし、妻が磔される悲運をも味わう。戦国乱世の世にあって弱い立場にあるものがどのようにして活路を切り開いていくのか。的確な情勢判断をするためには情報収集と分析が肝要で、それに失敗すると家は取りつぶされ人質は殺される、まさに一瞬の決断を躊躇することが運命を大きく分けるのである。今の不況の世の中に、形は変わってもこのような厳しさに立ち向かっている大勢の方につい思いが移る。

宮城谷さんは出身が三河ということで、戦国期の三河を書きたいとの思いを長年温めておられたとのことである。構想から資料集めなどの準備期間を含めて出来上がるまで二十五、六年はかかったとのことで、随所に資料の読み解きのあとが出てくる。時には一度しか登場しない人物であっても、他の登場人物とどのような血縁にあるのか、くどくどしくも感じられる丹念さなのでそれに浸る余裕があれば、自分まで史書をひもといているような悠然とした気分になる。この独自のスタイルがこの物語と言わず宮城谷さんの小説の大きな魅力なのである。そしてこれも私の大好きな時代小説作家諸田玲子さんとの対話で、菅沼という人を選ばれたのはどういう考えかと聞かれて、次のように答えている。

ちょっと引いたところにいる人間ですね。大体私は前に出る人間は嫌いなんです。自分自身もひっそりと生きてきた人間ですからね、引いて引いていく方が、生き方として、自分の性にあっています。企業人でもそうですが、前に出過ぎるとどこかで落とされる。ナンバー2がやっぱりいちばん優れた生き方をしているんですね。

最近話題になった「事業仕分け」で、なぜ次世代スーパーコンピュータが世界一でないといけないのか、なんてことが取り沙汰されたが、機械でない人間だからこそナンバー2を目指す自由のあることがなんだか嬉しく感じる言葉である。あらためて意識することにする。


鳩山由紀夫首相が偽装の政治資金で購ったものは・・・

2009-12-25 13:36:37 | 放言
朝鮮から戦後引き揚げてきて地方都市の国民学校に2学期間通ったことがある。5年生だったか6年生だったか覚えていないが、クラスに女郎屋の息子がいた。世間に誇るような商売ではなさそうなことは子どもにもうすうす分かっていたが、クラスでその子のいじめなどはなかったし、大ぴらに口にするような空気でもなかった。食糧難のあのころに、時々黒砂糖の小さな欠片がクラスの中で回ってくるのである。小さな欠片をさらに小さくして口に入れると、うっとりとするような甘さが口中に漂う。それと同時にその出所があの子だという認識を皆で確かめ合ったように思う。いじめなんて起こるはずがない。そういうことを子どもの頃に経験した。

昨夜の鳩山首相が偽装献金問題で謝罪会見を開いたときに、私がふと思い出したのがこの話なのである。一国の宰相がこのような不様な会見を開くことだけでもう宰相の資格なしと私は思っている。即刻退場していただくのは当然として、この事態に何一つ言葉を発しない民主党国会議員に、そうだ、ここに偽装で作り上げた巨額の金が流れこんだのだと黒砂糖で口を閉ざしたかっての国民学校児童が直感したのである。同僚議員を金で黙らせて代表選挙の票を稼ぐ。見え見えではないか。

鳩山首相の口から出る言葉に私はなんの関心もない。論う気さえ起こらない。今日の朝日朝刊にまとめられている過去の最初の発言こそ、鳩山首相がこの際にどのように行動すべきかを過不足なく語っているからである。とやかく言い抜けようとするのは男の風上に置けない卑怯者である。卑怯者ついでに言えば、自分の言い抜けに大恩ある高齢の母親を世間のさらし者にした男の口にする「友愛」(私はもともと大嫌いであるが)のなんと軽いことよ。


鳩山由紀夫首相は民主党代表の座を、ひいては首相の座を金で買ったことは間違い無い。政権から離れていた政党の最大の金づるの一つが鳩山氏であったことは、誰が考えても分かることである。その金の流れを今の制度では実証しにくいからこそ良識を働かせて事の本質を見抜くべきなのである。母親に出して貰ったお金を政治資金に偽装して、それで首相の座を購った男、これだけは歴史に残るのではなかろうか。


朝鮮語クラスの忘年会 異世代間交流の楽しみ

2009-12-24 23:26:56 | Weblog
一昨日(22日)が今年最後の朝鮮語のレッスンで、昨23日は忘年会だった。予約をしないと絶対に入れないという店での焼き肉パーティである。戦後のバラック建てのような部屋に炭火を熾し七輪を持ち込み、金網の上で肉を直火で焼くものだから簡単に脂が燃えだし、換気扇がまわっていても部屋中が煙でもうもうとなる。何十年かタイムスリップしたかのような光景に既視感をおぼえた。

このクラスは全員13名で男性は3人。まとまりが良くて授業のあと行きつけの韓国家庭料理の店で昼食を一緒にするが、多い時は10名を超えるので一緒のテーブルに座れないこともある。昨日の忘年会は夕方の6時からなので、夜は出にくい女性もあって、参加者は先生を含めて10人だった。男性は全員が定年退職者であるが女性は学校に通っている子どもを抱えている人が多くて、その一人などは一昨日の授業で今年一番印象的だったことはと先生に聞かれて、娘が小学校に入学したこと、と答えるくらいなのである。ということで女性の平均年齢は男性よりかなり低く、皆さん、ふだんは楚々としておられる。

飲んで食べてということになると、この女性たちが猛者に変身した。まずビールは水のようなもの、と仰る。七輪は三つだったが、女性だけが囲んでいる七輪では肉をどさっと金網の上にぶちまけ、炎と煙が勢いよく立ち上がってそれが納まったかとおもったら、もう肉は姿を消している。まるで手品である。てっちゃんと称するものは、これは牛の大腸だそうであるが、私の好みではないがいたずらに敬遠しては悪いかとおもって口に入れたところ、いくら噛んでもかみ切れない。あごが痛くなるくらいである。ところが女性はあっという間に平らげてしまうので食べ方を聞いたら、あれは飲み込むものだとの返事が返ってきた。私以上に頑丈な歯をもっているわけではないのでひとまず安心、でも肉より消化ががいいから、ときわめて科学的に判断しているのには再度敬服した。最後を私はクッパで仕上げ。先生は生徒一同のご招待として、肉は割り勘、飲み物は各自払いと最初に決めていたが、しわ寄せが子どもに行ったら可哀相ということで全部を割り勘で済ませることにした。

忘年会はこれで終わらなかった。仲間の一人の実家が近くでカラオケ店をやっているというので、そこに流れ込んだ。私の歌える歌なんて限られているが、ワイワイ気分に煽られてついていった。ますます女性の気炎があがる。韓国の歌を次から次へと歌うのはさすがである。歌詞がハングル文字で流れるが私は追っかけられないのにちゃんと歌うのだから大したものである。最初はジェスチャーだけだったのに、自称28才の女性とその一回り上の酉年コンビが歌いながら踊りだした。いつも仲良くしていると思ったら、そのようなつながりで親近感を持っていたのだろう。私がとっておきのレパートリー、ひばりの「悲しい酒」を歌い出したら、今度は嫌がる?男性を無理にダンスに引っ張り込もうとし始めた。逃げる、追っかけるを繰り返すのだがその動きが実にコミカルなものだから、ちらちらと見ているうちに歌の方がおかしくなって終に噴きだしてしまった。笑いが止まらないものだからこれで一巻の終わりである。それにしても「悲しい酒」を「笑い酒」に変えてしまうパワーは凄い。こういう母親の子どもは底抜けに明るいのに違いない。

考えてみると同世代の集まりは気が置けなくてそれはそれで良いが、このような異世代の集まりが私には新鮮で刺激的であった。大学生を相手にする職業についていたから確かに異世代の交流を経験していたことになるが、教師という立場だから対等の関係にはなれない。対等の立場での異世代間の交流の楽しさにこの忘年会で目覚めたようである。

宮本常一著「忘れられた日本人」から 隠居は西高東低、民主主義、そして歌合戦

2009-12-23 16:32:14 | 読書
私の隠居志向は割と早くから固まっていたと思う。現役時代を振り返ってみると、近頃流行のなにかといえばすぐに億単位のお金が話題となる世界とはおよそ無縁のつつましやかな研究生活を送ってきたが、いわば蟹が自らの甲羅にあわせて穴を掘るようなものだったと思う。その穴の中で実験材料、試薬の調製から始まり、装置を使っての測定、そしてデータ解析から論文書きにいたるまで、そのすべてを自分の手でやっていくことを楽しみにしていた。これは共同研究とはまた違った醍醐味があり、現役時代の最後までのめり込んだ。1998年3月末日に定年退職したのであるがが、最後の実験記録には同年1月15日のスタンプがある。データ解析などを済ませてから身辺整理に移ったことを覚えている。定年後も何らかの手段で研究室を維持できる見通しでもあればおそらく研究生活を続けたかもしれないが、その可能性は当時の状況では0であったので、早々と現役撤退を選択したのである。では何をするのか。気宇壮大なことは何一つ考えなかった。ただ遊び事をしたかったのでヴォイストレーニングや一弦琴を始め、それが今にいたるまでかれこれ10年は続いている。ブログ書きも始めてもう5年は過ぎ、今では生活の一部になっているが、これも当初はまだこの世に姿を現していなかったものである。朝鮮語を習い始めたのもごく最近で、成り行き任せながら私なりに充実した隠居生活を満喫している。なぜ私がすんなりと隠居生活に移ることが出来たのかといえば、どうもそれなりの理由があるようなのでそのことを少し述べようと思う。

宮本常一著「忘れられた日本人」の中に隠居についての面白い話が出てくる。宮本さんは民俗学者として知られているが、日本各地を探索して周り、民家に泊まり込んでは古老から聞いた話を書き記して記録に残すというフィールドワーク ―実地採集― に徹された方で、この岩波文庫にも興味深い話がかずかず収められている。


「村の寄り合い」に出てくる話であるが、福井県敦賀の西にある半島の西海岸を歩いている時に、宮本さんは道ばたの小さなお堂に十人ほどの老女が円座で重箱を開いて食べているところに差し掛かった。そして仲間に入れて貰って話に加わる。そこから次のような話になる。

 自らおば捨て山的な世界を作っているのである。
 このような傾向は全般に西日本につよい。そこでは年齢階梯性がかなりあざやかにあらわれる。そして一定年齢に達すると老人たちは隠居するのであるが、東北から北陸にかけては、老人が年をとるまで家の実権をにぎっている場合が多い。そういう場合嫁がいつまでも嫁の座にいてカカになれないのと同じように、嫁の夫も横座へはすわれないのである。
 とにかく年寄りの隠居制度のはっきりしている所では、年寄りの役割もまたはっきりしていた。
(43-44ページ)

著者の分析では年齢階梯性のはっきりしている社会は非血縁的な地縁集団が比較的つよいところで、同族のものが一つの地域に集まって住むのではなく、異姓のものと入り交わっているところが多いとのことである。こういう傾向が瀬戸内海の島々や九州西辺の島々にはとくにつよく、こういう社会では早くからお互いの結合をつよめるてめの地域的な集まりが発達したそうなのである。そういう村では、村共同の事業や一斉作業がきわめて多く、それには戸主が参加しなければならなかった。それから逃れるためには戸主としての地位を早く去ることで、隠居すれば良かった。そうすると自分の家の農作業に専念できたからである。淡路西海岸のある村では長男はたいてい二十才過ぎて嫁を迎えており、それと同時に親は隠居して隠居家に入ったなどの例が記されている。そしてこのような話が出てくる。

現に兵庫県加古川東岸一帯には、村落の中に講堂とよばれる建物がきわめて多い。(中略)このような建物は、中世の絵巻物にもみえるところである。加古川東岸地方では、このお堂が多くの場合ちょっとした村寄りあいの場所にあてられる。
(46ページ)

実は私の両親はこの加古川東岸地方の生まれなのである。そのせいだろうか、私どもが留学先のアメリカから帰国した後は同居することになったが、母は60才になったのと機に一切の家事から手を引き、すべてを私の妻に委ねた。そのせいで朝食は長年慣れ親しんだご飯に味噌汁からトーストにコーヒに変わったが、両親はそれなりに覚悟を定めていたからであろう、一言も口を挟むことがなかった。そして母は川柳を始めだして川柳教室などにも通うようになった。そのうちに今も購読が続いている新聞の川柳欄への投稿の常連者になり、入選100回を新聞社から表彰されるまでにもなった。以前に「フーテンの風子」と一弦琴でこの川柳のことをちらっと触れたことがある。要するに隠居生活にすんなりと入っていき、私にも身近な隠居生活の実例を示してくれたことになる。このように私自身が隠居生活になんの抵抗もなく入れたのもどうもこのような地縁的ルーツがあったようで、自分が日本の風土に生かされているとの思いを実感する。そして先ほどの話のつづき。

 私の今日まであるいて来た印象からすれば、年齢階梯性は西日本に濃くあらわれ、東日本に希薄になり、岩手県地方では若者組さえ存在しなかった村が少なくないのである。
(53ページ)

私の見方でいうと今や政界のドンと目される岩手県出身のあのお方には、隠居なんて発想は皆無ということになる。

ところでこのような隠居の話はこの本のほんの一部で、昔から伝えられてきた日本人の今や知られなくなった数々の習俗が沢山でてくる。たとえば最初の「対馬にて」には、宮本さんが村に古くから伝えられている古文書の閲覧を頼んだところ、村の集まりが開かれて二十人ほどの人がながながと談義に加わり、となるとほかのことにも話が飛び回りまたこの問題に戻ってくるようなのどかな協議が二日も続く。一人の老人がこの人は悪い人ではなさそうだから話を決めようと口火を切ってからもさらに話が飛び交い、最後に宮本さんを案内してきた老人が、せっかくだから貸してあげては、と一同に諮ってようやく話がまとまった経緯が丹念に綴られている。この村寄りあいの姿はまさに戦後輸入された民主主義の原形そのもののように私は感じた。村落共同体の一員となると郷士も百姓も区別なく発言は互角であったとか。お互いに納得がいくまで、とことん時間をかけるというのが凄い。最近話題になった「事業仕分け」にぜひ持ち込んで欲しい良き習俗である。

このような話も出てくる。おなじ対馬で中世以前の道かと思えるような山中の細い道を土地の人たちと一緒に進むが、ついつい宮本さんは取り残されていく。村人は馬に乗って、宮本さんは徒歩だから当然であるが、心細くなりながらも歩き続けると村人が待ってくれていてようやく合流する。歩くのが容易でないと村人に感想を述べてから続く話である。

「それにはよい方法があるのだ。自分はいまここをあるいているぞという声をたてることだ」と一行の中の七十近い老人がいう。どういうように声をたてるのだときくと「歌をうたうのだ。歌をうたっておれば、同じ山の中にいる者ならその声をきく。同じ村の者ならあれは誰だとわかる。相手も歌をうたう。歌の文句がわかるほどのところなら、おおいと声をかけておく。それだけで、相手がどの方向へ何をしにいきつつあるのかぐらいはわかる。行方不明になるようなことがあっても誰かが歌声さえきいておれば、どの山中でどうなったのかは想像のつくものだ」とこたえてくれる。私もなるほどと思った。

民謡の効用である。この老人が歌を歌い出すと、実によく声が通る、と宮本さんは感心する。そして声がよいのでずいぶんよいたのしみをしたもんだ、といわれる老人も登場するのである。

 対馬には島内に六つの霊験あらたかな観音さまがあり、六観音まいりといって、それをまわる風が中世の終わり頃から盛んになった。男も女も群れになって巡拝した。佐護(地名)にも観音堂があって、巡拝者の群れが来て民家にとまった。すると村の若い者たちが宿へいって巡拝者たちと歌のかけあいをするのである。節のよさ文句のうまさで勝敗をあらそうが、最後にはいろいろのものを賭けて争う。すると男は女にそのからだをかけさせる。女が男にからだをかけさせることはすくなかったというが、とにかくそこまでいく。鈴木老人はそうした女たちと歌合戦をして負けたことはなかった。そして巡拝に来たこれという美しい女のほとんどと契りを結んだという。前夜の老人の声がよくてよいことをしたといわれたのはこのことであった。
(31-32ページ)

なんと昔の日本人のおおらかなことよ。これが歌合戦の神髄なのだと思い込まされる。まがい物をなんとか歌合戦と僭称するNHKの薄っぺらさ加減のよってくる理由がここに解き明かされたともいえよう。この深遠な文化の実相をさらにきわめんとする奇特な方は、ぜひこの文庫本を繙かれることをおすすめする。



木村盛世著「厚労省と新型インフルエンザ」のあれこれ

2009-12-20 18:57:48 | 読書
昨日、本屋の店頭でこの本を見つけた。著者の木村盛世さんは厚労省のお役人でありながら厚労省の新型インフルエンザ対策を槍玉に挙げた人として有名な方で、その方が「官製パニックはこうして作られた!」と暴露されたとは面白いとばかり、ゴシップ大好きの私は早速買い求めた。確かにゴシップは面白かったが、共感を覚えるところが多い反面、これはどうかな、と感じるところも結構あるので、私の読後感が褪せないうちに記すことにする。


店頭では「官製パニックはこうして作られた!」が目に飛び込んできたが、この部分は実は帯への印刷であった。一皮むけばきわめて地味な表紙なので、講談社の宣伝上手に私がころりと引っかかったようなものである。その思いが読後感にある種のバイアスを与えたかもしれない。しかし第一章「新型インフルエンザと厚労省迷走記」と第二章「悪のバイブル「行動計画」」は期待を裏切ることはなかった。とくに第一章は木村盛世対厚労省の図式を、一方の当事者である著者が、中途半端な客観性を持ち込まずに自らの視点で切り込んでいるから面白い。それだけにあとで少々述べるつもりであるが、別の立場からは拒否反応を喰らうのも宜なるかな、と思った。

「官製パニック」を引き起こしたのが厚労省の間違った「行動計画」であるとの話が第二章に出てくる。

 実際に行動計画に携わった医系技官たちは“御用学者”と呼ばれる専門家集団に相談しながら行動計画を作っていきます。御用学者とは通常、厚労省が主催する審議会という専門家会議の委員です。審議会というのは、何か法案を決めようとする時や今回のような行動計画と言った国の方針を決める時に専門家の意見を聴くために開かれます。審議会での意見をもとにして法令案を作成するというのが建前なのですが、実際の審議会の意味は、①官僚が作った青写真を審議会というセレモニーを通過することによって、専門的見地から正しいと言うことをオーソライズさせること、②何か法案などに問題が生じても、専門家がいいと言ったからだ!という責任回避ができること、の二点です。
(46-47ページ)

ある程度の事情通ならまったく同感するだろう。しかし内部者でないと分からない話も出てくる。

 四月二十四日から六月二十五日までに新型インフルエンザに関する一五五件の事務連絡、通知が出されています。本来であれば大臣や事務次官が出すような重要な項目が、室長や課長レベルでボンボン出されているわけです。
「どうしてこんな重要なものが事務連絡で出されたのか」と大臣ポストに近い厚労省官僚が見て驚いたそうです。なぜこんな事が起こるかといえば、感染症対策が厚労省としてはたらいているのではなく、医系技官の独断で動いているからです。
(48-49ページ)

一五五件もの事務連絡、通知とは厚労省から地方自治体、団体などに出すお知らせだが、ただの文書ではなく、受け取った側では法律と同じ意味を持ち絶対に従わなければならないから問題だというのである。それだけ沢山の“命令”が出されているのなら、もっとも馬鹿げている例を教えて欲しいような気がした。

第三章「公衆衛生学的にみるとどうなのか」には学級閉鎖の効果の項目がある。著者は

歴史的に見ると、どうやらインフルエンザや新型肺炎などの呼吸器感染症で特別な治療法がない病気に関しては、学級閉鎖や集会の自粛などは、広がりを抑えるための効果ははっきりしないのです。

と述べて、封じ込め作戦の弊害をも論じている。まさに事実はそうなのだろうが、私が新型(豚)インフルエンザに対する京都大学の特筆すべき指針で賞賛した理性的な対応とは対照的に切れが悪い。著者は厚労省のお役人なんだから、学級閉鎖の効果を評価出来ない状況においてすら、具体的な指示を与える立場にある。私ならこうした、を期待したがそれはなかった。その点「熱があっても必死で出社する日本人」の項目では、新型インフルエンザを特別視する前に、症状があったら職場を休むことを徹底する社会認識が必要、と強調している所などはよい。

第四章「公衆衛生の要―疫学の基礎知識」は中途半端で読みづらかった。疫学の説明に美白とサプリメントの関係を例に挙げているのはよいが、男の私には例自体に何の関心もないからそれだけで拒否反応が起こってしまった。あとの方で「ワクチンの有効性はどうやって決めるか」の話が出てくるが、このテーマに集中すれば良かったのに、と思った。いずれにせよ一般の読者なら第四章を飛ばしたほうが挫折しなくて良い。

第五章「これからのインフルエンザ流行に備えて」には具体的な提言もある。常識的な考えの出来る人ならすべて納得のいく話であるので再確認しておけばよい。私が重要な指摘だと思ったのは、ワクチンの副作用について無過失補償制度の導入の提言である。ワクチンの副作用が発生したら十分な補償を与えるというのが要点であるが、実現へ向けての取り組みが欲しいものである。しかしそれより先にさてワクチンの接種を受けるかどうかを決めるのが現実問題として大切である。そういえば今日の朝日朝刊に「新型インフルエンザワクチン 欧州大余り」と出ていた。副作用を懸念して接種率が低いためだそうである。さて日本ではどうなるだろう。私は要らない。

この本で私にとって面白かったのはやはりゴシップの部分であった。さらにもし著者が厚労省で十二分にその腕を振るうことが出来たら、どの程度著者が指摘したかずかずの問題点が解消されるだろうか、ということでも興味を持った。しかしそこで引っかかったのが著者の同僚医系技官への姿勢である。こうくそみそに言ってしまうと、これでは協力者が出てきそうもないように感じたからである。幾つかを抜き書きしてみる。「医系技官のコンプレックス」(48ページ)に出てくる。

 行動計画に基づく医療現場無視の政策、そこから派生する通知や事務連絡という命令は、医系技官のコンプレックスの表れではないかと思います。先にも触れましたが、医系技官の幹部といわれる人たちは、実際の患者を診たことは、おそらく一度もないのではないでしょうか。彼らの同級生のほとんどが実際に患者さんを診る臨床医師となります。医学部を出た優秀な学生から、内科や外科といった花形の医局に引き抜かれていったのです。しかし箸にも棒にもかからない学生たちがいました。その人たちは当時人気のなかった厚生省に入りました。そして入ってから何十年かしてみると、いつのまにか局長などのポストに座っていたのです。それがいまの医系技官の幹部たちです。(強調は私、以下同じ)

ここまで書くのなら実名を挙げてもらった方がスッキリするが、この強調部分の客観性に私は疑いを持った。なるほど一人二人はその通りかも知れないとしても、この表現ではいまの医系技官の幹部が例外なしにそうだと言っているようなものだ。私がかって在籍した医学部の教室出身者の何人かが厚生省の局長、課長になっていたのでそれなりの付き合いがあったが、箸にも棒にもかからなかった学生のなれの果てには思えなかったからである。また私が厚生省に送り込んだ卒業生がいるが、医系技官としての活躍を期待したからこそである。

さらに「おわりに」にこのような部分がある。

 医師である私たちが日本で取得するのは医学博士という称号がほとんどですが、日本の医学博士が、「足の裏に付いたごはん粒」(その心は、取らないと気持ち悪いが、取っても食えない)と言われるほど権威もなく取得が簡単なのに比べて、欧米の博士号を取得するのは容易なことではありません。

著者のご存知の範囲はたまたまそうであったのだろうが、私の知るところでは医学博士号の取得が、何をもって簡単というのかはともかく、世間の人が簡単という言葉で思い浮かべるような容易さではないことだけは断言できる。

揚げ足取りになって恐縮であるが、著者が言い切っていることでその正否を私なりに判断できる事柄については異議があるので敢えてそのことを述べた。こういう事があるとほかのところで著者の言い切っていることも素直に受け取れなくなってくる恐れがある。著者のためにも惜しまれることである。


科学者も人の子

2009-12-19 10:15:07 | 学問・教育・研究
まだ若かった頃、アムステルダム大学を訪れたときに向こうの研究者の家に招待されて、奥さん手作りの料理をご馳走になったことがある。すでに知り合いの間柄でもあり、奥さん共々楽しい歓談のひとときを過ごした。そういうことがあったものだから、その後またなにかでk彼と一緒になった折りに、いつもの感覚で奥さんにどうぞよろしくと声をかけたところ、いや、彼女とは離婚したのでと返されて、戸惑ったことがあった。アラブ人なら、奥さんによろしくと言ったばっかりに、その仲を疑われて殺されたなんて話があるぐらいだから用心しただろうが、そこまでは気が回らなかった。もっともそれ以来、そんな挨拶は口にしないことにした。その後も何人かにご本人(といっても外国でのこと)の口から別れたとという聞かされることとなったが、私もあまり気にすることもなくなった。しばらくすると必ずなにか艶っぽい話が伝わってくるからである。

そう思ってみると、会議を離れての雑談では外国人研究者も結構そのような話が好きだとみえていろんなゴシップが出てくる。話題の一つは彼の連れてくる彼女がまた替わったというような他愛もないものから、どんな修羅場があったとか、本当かうそか分からないような話まで飛び交う。しかし一方では現実的な話も出てくる。あそこのポスドクがこぼしていたけれど、ボス(一応は独身)が身の回りの世話をどうも研究室の女の子にさせているようで、ある日ボスの家に電話したら彼女が出てきたから分かって、それ以来あれやこれや研究室で喋りにくい雰囲気になってしまった、などの類である。

元気な話も出てくる。あるノーベル賞級学者は今度は若い日本人女性と一緒になるために、灯籠のある日本庭園や畳敷きの部屋まで作ったとか。日本流に言えばとっくに後期高齢者に入る方なのである。さらにこのような話は訳知り顔の女性科学者が加わるとますますエスカレートしてかつリアリティが増してくる。正真正銘のノーベル賞学者で、その成果が分子生物学教科書の必須項目になっているような大御所が、いかに老いてますますご発展なさったか、なんせその研究室にいた友人からの直情報である、と語られたりするのである。科学者も人の子のあかしとも言えよう。

なぜこのような話をはじめたのか。実はビッグ・ニュースが飛び込んできたからである。私の大学時代からの友人が42才年下の日本人女性と結婚したというのである。電話だけでは騙されているかも知れないので詳しく知らせといったら婚礼の記念写真を送ってきた。どう見ても友人は花嫁の父のような風情であるが、その相手は私も知っている彼の娘さんではないので話を信じることにした。離婚歴のある彼であるが、このたび新に人生の伴侶を得てまだまだ研究活動への意欲をたぎらせているようである。これまで欧米人の研究者仲間のみが幅をきかせていたこの分野?で、世界に誇りうる年齢差結婚の記録を打ち立てた快挙にひたすら驚嘆した。勇気ある二人にただただ幸多かれと祈る。

ちなみに、彼は学究生活のほとんどをアメリカで送っており、現在もグラントを二つ三つかかえて現役の研究生活を送っている。最近わが国では若手研究者、とくにポスドクの行く手に暗雲が立ちこめているようであるが、世界は広い。狭くしているのは心の垣根であると考えをあらため、大いに世界に羽ばたいてはいかがであろう。チャレンジングな世界が広がっているではないか。


「常時駐留なき日米安保」を超えて、いっそ日米安保を破棄しては

2009-12-16 22:07:49 | 社会・政治
私は日本が今もアメリカの占領下にあると思っている。理由はすでに4年前の記事今もアメリカの『占領下』にあるわが祖国日本で述べたし、同じような見方をされている人生の大先達白川静氏の言葉を日本は独立国といえますかで紹介したので、関心を持たれた方はご覧になって頂きたい。そして前の方の記事で私は次のように提言しているのである。

アメリカ軍は日本固有の領土から完全に撤退していただく。言葉を換えれば日本は基地の提供を一切廃止する。『占領軍』の撤退でもって、始めてわが祖国日本は文字通り独立国の体裁を取りうるのである。

私の目の黒いうちに日本が完全に独立を取り戻せるとは夢にも思っていなかった。ところが、きわめてかすかではあるがその望みが息を吹き返しそうになった。スペース・イシュー(宇宙問題)とも揶揄されている鳩山由紀夫首相ひきいる現内閣が、米軍普天間基地移設問題の結論を来年に先送りしたからである。

私は普天間基地移設問題に関しては10月28日の記事迷走鳩山内閣 沖縄基地問題 日本郵政人事 はりぼて護衛艦で、

沖縄基地問題は日本だけで決められることではなく、米国の合意を必要とする。自・公民政権時代に出来た合意事項を、日本側の政権が変わったからと言ってそう簡単に変えられるよは常識的には考えられない。素人目ではあるが米軍普天間飛行場(沖縄県宜野湾市)をキャンプ・シュワブ沿岸部(同県名護市)に移設するという自・公民政権下の日米両政府の合意を結局は踏襲することになるだろうと思う。その意味では北沢防衛大臣は仲井真沖縄県知事から「基地問題をレトリック・ことばの言いかえで処理しようというのは、やはり軽い。内容的にポイントを押さえるべきところは押さえて、関係者とよく相談して決めてほしい」と批判されながらも、現実路線への露払いをしたことになる。防衛省官僚からグーのねも出ないほどの素晴らしいレクチャーを受けたのだろうか。そうなればもちろん社民党は鳩山政権から離脱、福島党首は座り心地の良い野党席から思いっきり黄色い声を張り上げることが出来る。

と述べたが、この予想が現時点ではものの見事に外れてしまった。そうなると、ひょっとして、と思い始めたのである。鳩山首相は本気で米軍を日本から追い出すことも考えているのではなかろうか、と。というのも『永田町時評』NewsSUNによると、かって次のようなことがあったからである。

 沖縄の米軍基地の海外移設は、1996年、首相が13年前に旧民主党を結党したときから掲げていた政策だ。当時は「鳩山新党」とも呼ばれたが、在日米軍基地の整理・縮小について『常時駐留なき安保』を基本政策に掲げていた。
 97年4月22日、沖縄を訪問した民主党国会議員団が記者会見したときの様子を地元の「琉球新報」が報道しているが、当時の鳩山代表が『現時点で沖縄から第3海兵師団をグアム、ハワイに移転してもアジア太平洋の安全保障は守れる。海兵隊が沖縄に常時駐留する必要性なない』と述べたと報道している。

ところでこの記事と一緒になんとあまりにもタイムリーに次ぎ記事が検索で引っかかってきた。

「駐留なき安保」は封印=鳩山首相

 鳩山由紀夫首相は16日夕、自身がかつて掲げた、有事に限って米軍に出動を求める「常時駐留なき日米安保」の構想について、「総理としてその考え方は今、封印しないといけない」と述べた。首相官邸で記者団の質問に答えた。
(時事ドットコム 2009/12/16-17:00)

総理大臣になったから何故これまで言っていたことを封印しないといけないのか、それがあたかも政治家の常識だと言わんばかりの鳩山首相の言いぐさを国民は訳知り顔で認めてはならない。国家存続の根幹に関わる事柄であるだけになおさらそのような使い分けは許されない。だから私は鳩山首相の本心が「常時駐留なき日米安保」であることを前提に論を進めることとするが、要は基地問題の解決に日米安保を破棄しては、と言いたいのである。

1951年にサンフランシスコ平和条約が第二次世界大戦の連合国側49ヶ国と日本国との間で結ばれ、同時に日本国と米国との間で締結された日米安全保障条約(旧安保条約)が占領後も米軍の日本駐留を可能にした。当時高校生だった私たちはこれはアメリカが日本が軍事大国として復活しないように監視のためだと素直に受け取っていた。アメリカ軍は日本に駐留はするものの、日本が外国から攻撃されたときに防衛義務は課せられていなかったのである。それどころか日本に大規模な内乱が生じた場合はそれを鎮圧することすら意図されていた。

1960年に発効した日本国と米国との間の相互協力及び安全保障条約(新安保条約)こそアメリカの日本防衛義務を明確にしたが、同時に、在日米軍への攻撃に対しては自衛隊が在日米軍と共同で防衛行動を行うことになった。新安保条約はその期限を10年とし、以後は締結国からの1年前の予告により一方的に破棄出来ると定めているが、その後破棄されることなく現在まで続いている。当初こそソ連を始めとする近隣共産主義国家が仮想敵国であったが、1990年代初めにソ連の崩壊でいわゆる冷戦構造がなくなってしまった。敵が消えてしまったのに何故日米安保?なのである。そこで現れたのが1996年、東京における橋本首相とクリントン大統領の首脳会談で出された日米安全保障共同宣言で、うたわれたのが日本の防衛とアジア・大平洋地域の安定維持であった。さらに「9・11」後、日米共同防衛強化の流れでテロ対策特別措置法が制定され、アフガニスタンでの米軍後方支援につながっている。

なぜそこまで米国がしつこく日本につきまとうのかといえば、日本に軍事的影響力を残したいからで、それも畢竟日本の軍事大国化ないしは軍事独立を抑えんがためであると私の頭の中には半世紀以上も前からインプットされているのである。したがって米国にとっては日本国内に米軍が駐留することが究極の目的であり、その狙いが旧安保条約の頃から連綿と続いていると考えるのが素直だろう。現在は普天間基地移設問題がクローズアップされて、煮えきれない鳩山内閣の姿勢に国民が翻弄されているが、これは表面的な現象に過ぎず、何のために日米安保が必要なのかという問題に立ち戻るべきなのである。そして私の答えは簡単、そのような意図の安保条約を破棄すればよいのである。そして米軍にお引き取りを願う。これで基地問題は一挙に解消である。米国に安保条約を破棄を納得させるためにどうすればよいのか。日本の軍事大国化ないしは軍事独立への懸念を失わせればよいので、そのためには自衛隊も含め文字どおり一切の軍備を廃棄して非武装国家を宣言すればよいではないか。別に目新しいことではない。文字どおり新憲法にのっとればよいのである。

では軍隊を持たずにどうして国を守れるのか、との疑問が当然出てくる。しかしかって強大な軍事力を誇った大日本帝国ですら日本国民を守りきれなかったことを身を以て体験した元軍国少年としては、逆に軍隊があれば必ず国を守れるのかと聞き返さざるを得ないのである。答えや、いかに?




トマたまうどん 愛染かつら 口縄坂のねこ

2009-12-14 13:21:24 | 旅行・ぶらぶら歩き
ある街案内の本を見ていたら大阪・平野が紹介されていた。調べてみるとJR天王寺駅から大和路線で二駅目がJR平野駅である。ネットから道案内図をダウンロード、印刷してぶらり歩きに出かけた。

JR平野駅で降りて北口に出るのか南口に出るのか迷ったが、結局南口に出た。道案内図に北向きの方位がはっきりと示されていないものだから、駅に表示されている地図との対比に手間取ったのである。まずは大念仏寺を目指してほとんど人通りのない道を歩き、だだっ広い境内に入る。融通念仏宗の大本山だそうであるが私には宗派のことなど分からない。お賽銭を投げて合掌、私と関わりのある人すべての幸せと世界平和を念じた。

この平野の地は坂上田村麻呂の二男、坂上広野麻呂により開発が進められたもので、その子孫の邸宅が地図には載っているが場所がはっきっりとしない。たまたま通りを掃除している年配の方に尋ねたところ、直ぐ近くであることが分かったが、この方が「街にはなにもありませんよ」と何度か強調されるので、歩き回る意欲がちょっと萎れてしまった。謙遜?、親切?もほどがよいようである。そこで地図から離れて歩き回っていると、長寶寺にさしかかった。坂上田村麻呂の娘で桓武天皇の妃春子が落飾し開いたお寺で、後醍醐天皇が皇居を吉野に移す時に仮皇居になったとのこと。一応頭の中に入っている歴史上の出来事がこのような場所と具体的につながるのが面白く、しばらく境内をぶらぶらした。

ところでいつもは昼前に目的地について、まず昼食をとり腹ごしらえをしてから落ち着いた気分でぶらぶら歩きを楽しむのであるが、この平野ではそのような店が目に入らなかったので、そのうちに見つかればと思い歩き始めたのである。しかしなかなか見つからない。正午はとっくに過ぎているしどうしたものやら気がかりになっていたところ、はるか向こうに商店街らしきものが見えたのでそちらに向かうと、進行方向とは交差している平野商店街の本通りに出た。真っ先に目に入ったのが店先に弁当とか饅頭などを並べているうどん屋であった。ピンときたので入ったらレトロの落ち着いた作りの店で、次の張り紙が私の目に飛び込んできた。


「トマたま」とはトマトとたまごのことだとは見当がついたが、店の若い女の子に確かめると「メッチャおいしい」と返事が戻ってきたので躊躇わずに注文した。トマトとたまごは私の好物、そしてグツグツ煮えたぎった土鍋で「トマたま煮込みうどん」が運ばれてきた。


一口汁をすする。トマトからの酸味が出しのうま味とからまって絶妙の味である。入っているのはうどん、2センチ角のキャベツがたっぷりととろけた粉チーズ、そして半熟の溶き卵、ただそれだけである。口の中が火傷しないよう気をつけながら一気に平らげてしまい、スープも残らなかった。「トマたま煮込みうどん」にすっかり満足して、これで平野にやってきた甲斐があったなと思い、あとは街中の通りをあみだくじを辿るように折れ曲がり折れ曲がり歩いて地下鉄谷町線平野駅に出た。時間はまだまだ早いのでちょっと立ち寄ってみたいところがあったので天王寺駅で降りて谷町筋をぶらぶらと北上した。

最初に立ち寄ったのが愛染かつらで有名な愛染堂勝鬘院である。どうも以前は通り過ぎただけのような気がする。しかし今回は境内に入った。というのも私が二三日前のX’mas Concertで歌った「死んだ男の残したものは」は、作曲者の武満徹が『メッセージソングのように気張って歌わずに、「愛染かつら」のような気持ちで歌って欲しい』と歌う人に注文をつけたいう謂われがあって、だから私もその気持ちで歌ったばかりだったからである。確かにこの歌をフォークシンガーというのか若い歌手が歌うと、ついつい思い入れたっぷりで力をこめた歌になりがちだと思う。「愛染かつら」を知らない世代には無理だろうと思うが、聴き手に強い思いをかき立てるには「愛染かつら」風にメッセージを静かにしみ通らせる方がよいように思う。勝鬘院の裏手では重要文化財(旧国宝)の豊臣秀吉が再建した多宝塔を見上げながら、先ほどの店で買ってきた栗大福を口にした。

行きたかったのが織田作之助の文学碑が目印になる口縄坂である。夕陽丘の上から見下ろすとゆったりと敷かれた石畳の道がこころを和ませてくれる。ところが今回驚いたことに野良猫が横壁の上に群れ集まっている。数えてみたら一箇所に13匹もかたまっていた。もの静かなのがかえって不気味で、13匹が一斉に飛びかかってきたらどうすべきかと思案しながら前を通り過ぎた。すれ違った犬を連れた男性が、餌をやる人がいるのでとこぼしていた。



この文を書いているうちにお昼になったので、さっそく「トマたま煮込みうどん」を自分で作ってみた。玉子にやや熱が通り過ぎたことと酸味が少し弱いこと、またノリを散らすことを忘れたのが反省点であるが、やっぱり美味しくてスープまで平らげてしまった。レパートリーが増えたようである。




歌うのは楽しい

2009-12-12 12:45:06 | 音楽・美術
この10日から1週間ほど、一生懸命歌を歌っていた。昨日開かれたX’mas Concertと銘打った日頃のヴォイストレーニングの成果発表会に備えてであった。昔々の受験勉強の追い込みのようなもので、適当な緊張感がなかなか快かった。コーラスは別として6曲も歌うのだから覚えるのが大変である。しかし直前になると、間違うことを気にするよりは、とにかく歌うことを楽しもうという気持ちに切り替えたお陰でとても楽しく歌えた。そのプログラムをそっとお目にかける。



このプログラムでお分かりいただけるように、歌い手の好みで選んだ曲であるがジャンルが広く、芸術の薫りがふくよかに漂いでているではないか(と自画自賛)。日本の片隅でのささやかな文化活動でもある。また歌い手もピチピチ20歳代の女性からばりばりの後期高齢者までとこれも多彩である。とくに女性には入場料をいただくコンサートの常連出演者もいるので、プログラムの流れを要所要所で引き締たことと思う。「夜うぐいす」というコロラトゥーラの歌ではうぐいすの鳴き声のカデンツァがスムーズで美しく、その上とても自然にD6(ト音記号音符で上第2線と上第3線の間)の高音を綺麗に出すものだからうっとりとして、こんな素晴らしい歌い手が仲間なんだと嬉しくなった。

私にとって一番の大曲は以前にも述べたが「椿姫」でジェルモンが歌う「Pur siccome un angelo ・・・」で始まるヴィオレッタとの掛け合いの二重唱であった。先生がヴィオレッタになってくださったが、心の中ではミューズの女神に「素人を引っ張り出してごめんなさい」と詫びておられたのかも知れない。しかし私にしてみたらこういうチャンスをよくぞ与えて下さったものだと、大いにチャレンジング魂が揺すぶられたのである。その成果は?いざ本番となって、何をどう間違えたのか、掛け合いでヴィオレッタが言い終わるのを待たず、1小節早めに歌い出し、ハッと気付いてすぐに同じ文句を繰り返して歌えるぐらいまで成長したのである。妻にも「この調子なら、来年は友達にも声をかけられそう」と言われた。

来年はどのような歌を歌うことになることやら、今から楽しみである。