日々是好日

身辺雑記です。今昔あれこれ思い出の記も。ご用とお急ぎでない方はどうぞ・・・。

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かっての大阪大学教養部北校を訪ねる―センチメンタル・ジャーニー?

2010-05-31 15:32:55 | 学問・教育・研究
最近の記事伊丹空港が米軍基地だった頃 そして・・・を書いた時に、私のかっての学舎であった教養部北校(「旧浪高高等科本館(現・阪大「イ号館」)」)の現在の様子をネットで見たばかりに懐かしくなって、この前の土曜日、何十年ぶりかに訪れた。

学生時代に通っていたように阪急三宮駅から特急で十三まで行き、宝塚線の急行に乗り換えて石橋で降りた。西改札口を出て線路沿いの商店街を少し後戻りして、左に折れると阪急線を横切って176号線との「石橋阪大下」交差点に出る。そして阪大に通じる坂、阪大坂を上り始める。この坂道の左手に学生がよくたむろしていた一膳飯屋というか喫茶店があったなと思ったが名前が直ぐに出てこない。ところがこの「憩」という名の店がまだ建っていた。建物自体が残っているのに驚いたが、帰り道にもう一度前を通りかかると、扉の隙間に夕刊が挟み込まれていたから住人がまだ住んでいるのだろう。


登り道の突き当たりには古びた門があったが、私が通っていた頃は医学部付属病院石橋分院があったようである。その後、大阪大学医療技術短期大学が置かれ、現在は大阪大学総合学術博物館になっているが、門の周辺には昔の俤を残すものは何も無かった。博物館には帰りに寄ることにする。


そこで右に折れると綺麗に敷石の張られた登り道が続く。朱色の柱があざやかな万福寺が右手に現れるが昔の姿を思い出すことは出来ない。そして右手に池を見下ろすところが豊中キャンパスへの入り口になっており、案内地図が掲示されていた。


やがて眼前にかっての北校校舎が見えてきた。しかしその手前の風景はまったくの様変わりである。校舎手前の木立の下あたりはテニスコートになっていて、機敏に動き回る女子学生のテニスウエア姿のまぶしかったことを思い出した。その中の数人の女子学生と思いがけないことで交流が始まったのは私が自治会活動に引きずり込まれてからののことであった。このことはまた改めて書こうと思う。


そのテニスコート跡一帯が造園されて緑が豊かである。その中に旧制高等学校生のマント姿の像と、その手前に金色の「まちかね童子」の像があった。よく見ると「旧姓浪速高等学校同窓会 寄贈 二0一0年五月二七日」と台座に刻まれているので、偶然にも二日前であったことが分かった。この部分の造園がなされたのも最近のことかも知れない。



そして右側のスロープを上っていくと縁に名残のつつじが何株かある。かなり大きな株であるが、半世紀以上も昔にも植わっていたものかどうか分からない。つつじの間に外側を向いて座り込んでいたことなどを思い出した。そして建物の前に出る。



扉の上に大阪大学教養部と記されているが、昔は木の表札が下がっていたような気がする。入り口全体がとてもモダンに造り替えられているようだ。中に入ると二階踊り場に通じる階段が目に入り、階段の上から振り返ると斜め格子模様の扉にその上のステンドグラスそしてシャンデリアがとてもお洒落である。でも昔からそうだったのかどうか、記憶にないのが残念である。かりにあったとしても、そういうところまで目を向ける心のゆとりが欠けていたのではないかと思う。入り口の右手は廊下に通じるが、その取っかかりにある男子トイレに入ってびっくりした。立派すぎるのである。すべてがオートマティックでなんだか無機質なものだから、昔の生物臭漂うトイレが懐かしくなった。それだけに改装から取り残されたのだろうか、がたびしするドアに心が和んだ。





直ぐ上の写真は3階への階段の踊り場で、左手の小部屋がかっては自治会室で私のたむろ部屋でもあった。右は講堂入り口でさらに右側にもう一つ扉がある。講堂に入るとその右側にピアノが一台置かれてあって、昼休みになると週に何回かその前に集まりコーラスを楽しんでいた。その成果を文化祭で披露したのがこの講堂の壇上で、その時の様子を以前にフェスティバルホール 大阪大学フロイントコールで紹介したことがある。扉の窓ガラス越しに内部をみると、テーブルと椅子が所狭しと並べられていたので、今でもなにかの講義に使われているのだろうか。ギターアンサンブルのようなグループが練習していたので、中に入るのを遠慮した。


建物の外に出て南側を見下ろすとグライダーが目に入った。何人かが周りを取り囲んでいるので、もし飛ばすのなら見物したいなと思ったが、考えてみるとグライダーを滑空させるような場所がない。下に降りて少し近づくと「読売テレビ主催 鳥人間コンテスト出場決定 飛行機製作研究会 アルバトロス」の立て看板が目に入って、ああ、あれか、と納得した。テレビで見たことがあったからである。ついでにもう少し足を伸ばすと美味しそうな匂いが漂ってくる。なんと、白昼大学のキャンパスでバーベキューをやっているのである。世間では公園はもちろん海辺でも河原でもいたるところ「バーベキュー禁止」である。小さなことだけれど大学にはまだこのような自由が残されていることに安堵した。グライダーにせよバーベキューにせよ、昔と違う学生生活のゆとりを感じてなんとなく嬉しくなった。しかし私はお昼は慎ましやかに図書館下の食堂で済ませた。この天津飯は450円なりで、ポテトサラダは確か10グラムが12円。土曜日だったがこの広い食堂が大勢の学生で一杯だった。何しに来ていたのだろう。大学事情にすっかり疎くなっていることを実感した。



帰りに大阪大学総合学術博物館 待兼山修学館に立ち寄った。この建物自体は大阪大学医学部の前身である大阪医科大学の付属病院石橋分院として1931年に建てられたとのこと。その概要はネットで紹介されているが、充実した展示をゆっくりと見て回り、かって講義を聴いた先生方の風貌に直接接する思いをしたのもよかった。カフェの屋外テラスで穏やかな初夏の風に吹かれていると、昔と今を自由に往き来している自分を感じてしまった。




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久しぶりに政治家から聞くまともな言葉

2010-05-30 10:50:01 | 社会・政治
普天間基地問題だけに限るが、鳩山由紀夫首相のこれまでの実体を伴わない数々の発言からわれわれが確信したことは、鳩山首相が政治に関してずぶの素人であるということだった。いや、ずぶの素人でもふつうの常識があれば、基地問題の本質が何であるかをまず見抜き、それにどう対処すべきなのかを考え出す。鳩山首相が腹案があるとか言っていた頃、さては「ヤンキーゴーホーム」を叫ぶのかとの期待が一瞬脳裏をかすめたが、それもはやばやうたかたの泡と消えてしまった。その後の顛末は皆知るところである。

鳩山首相が国民に理解出来ない脈絡のない言葉を連発すれば、ふつうなら閣僚を始め与党のしかるべき人がその言動を窘めるのが筋だと思うのにそれが無いに等しい。すなわち今の民主党政権を担うすべてが一つ穴の狢であると言える。鳩山首相だけを取り沙汰するのは片手落ちである。そこにようやく現れたのが、米軍普天間飛行場移設問題で辺野古への移設を明記した政府の対処方針の閣議決定に反対し、消費者担当相を罷免された社民党党首福島瑞穂さんの国民の誰にでも分かる次の発言であった。

 沖縄の人たちに、これ以上の負担を押し付けることに加担するわけにはいきません。
 私は言葉に責任を持つ政治をやっていきたいと思います。だからその言葉に従ってサインをしませんでした。

ではこれから先、どうすればよいのか。沖縄の人たちが合意しない以上、日米合意は絵に描いた餅である。外国の軍隊が日本固有の領土に駐留し続けるこの不条理を今こそ日本国民すべてが問題視すべきなのである。私は日本から米軍基地を無くすことが基地問題の根本的解決であるし、真の独立を回復する第一歩になると従来から提言している。わが国の自主防衛のあり方はその間に考えていけばよい。

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ふたたび 「社民党 やはり野におけ れんげ草」

2010-05-28 00:43:15 | 社会・政治
ここ三、四日、社民党福島瑞穂党首が精彩を放っている。今日、5月28日に日米両政府は米軍普天間飛行場(沖縄県宜野湾市)の移設先として「辺野古周辺」と明記した日米共同声明を発表するとのことである。鳩山首相が5月23日に米軍普天間飛行場の移設先として「辺野古付近」を初めて明言したことをうけて、福島党首は「鳩山首相は国外、県外と。辺野古の海を埋め立てるのは自然への冒涜(ぼうとく)だとおっしゃった。国民に約束したことを全力でやるべきだ」と首相批判をぶち上げた。さらに記者相手に「沖縄の合意、連立政権の合意なくして辺野古に基地を造ることを共同声明に盛り込むべきではない。連立を組む社民党党首として断じて反対を表明する」とまで言いきった。

今日の閣議で連立内閣の意志が国民の前にはっきりと示されることになるだろうが、上記の日米共同声明が既定のことである限り社民党、そして社民党党首としていかなる形であれ内閣としての意志決定に反対を表明せざるをえない立場に自らを追い込んだ。ここまで来れば鳩山首相から罷免されるように仕向けて女を上げて欲しい。福島党首のこれまでのヘニャヘニャぶりには愛想を尽かしていたが、この展開に眠気の覚まされた思いがする。愚直に己の信じることを主張して遮二無二それに突き進む、この単純明快な力強さこそ今の政治家に国民が求めるものである。

やっぱり異議を唱える福島党首は格好がいい。昨年9月総選挙が終わり連立政権が発足した時に、私は社民党 やはり野におけ れんげ草で、『いずれ社民党は連立から弾き出されるだろうが、私が社民党に期待するのはあくまでも時の政権に対する野党としての批判精神である。社民党を代表する二人の女性議員の言動に私の感じたこと、 やはり野におけれんげ草、であった。』と述べた。二人の女性議員とは福島瑞穂と辻元清美のお二人である。その社民党が連立から弾き出される時がいよいよやって来たのかと社民党福島党首の筋を通した行動に期待している。ここで変節すればもはや社民党に先はない。
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金賛汀著『韓国併合百年と「在日」』を読んで

2010-05-27 11:00:15 | 読書

韓国併合条約が公布された1910年8月29日を以て韓国は国号を朝鮮とあらためて日本の植民地となった。今年2010年はその100年目にあたる。著者の「在日」二世金賛汀(KIM Chanjung)さんは1937年京都生まれなので、戦前の日本の空気を吸っている私とほぼ同じ世代の方であり、このことだけで読む前から親近感を抱いてしまう。それはともかく、私自身日本で生まれて朝鮮に渡り、戦前、戦中をそこで暮らした在朝日本人であるので人一倍朝鮮問題に関心は持っているものの、この本を読み終わった今、新に学んだことが思いの外多いことに驚いたというのが、率直な気持ちである。

「はじめに―韓国併合条約が締結された日」から話が始まるが、その8月29日のある出来事を次のように記している。

 朝鮮半島が沈痛な感情に覆われているとき、日本国内は祝賀気分が満ち満ちて、夜には提灯行列が繰り出され、群衆は「万歳! 万歳!」と叫んで町街を練り歩いた。

これ以上提灯行列について踏み込んだ記述はない。当時の人はいったいどのような気持ちで提灯行列をしたのからして私には分からない。朝鮮相手に戦争をして勝ったわけでもなしと思うのに、当時の日本では桃太郎よろしく鬼ヶ島征伐をして宝の山を持ち帰ったような気分になっていたのだろうか。何のための「万歳!」なのか、これは調べてみる価値があるな、と最初から課題を突きつけられた思いであった。その時代背景すら私がまともに把握していなかったからである。

全体は「I 植民地支配の幕開けと在日」と「II 植民地時代の終焉と在日社会」に大きく分けられる。なぜ朝鮮人が日本にやって来たのか、その歴史的経緯がまず述べられているが、大きな流れは『没落農民を安い労働力として企業が誘引』したことになっている。朝鮮農民の耕作地が次々に日本人地主や農業経営会社の手に渡っていったことが没落農民を産んだのであるが、その「土地収奪」の手口たるや日本人として読んでいてあまり気持ちのよいものではない。そして日本での劣悪な労働環境下での悲惨な就業情況などが書き連ねられると、細井和喜蔵著「女工哀史」に記された日本人女子労働者の労働条件や生活状況などを並び立てて、朝鮮人だけのことではないんだけれどな、とつい叫びたい心境になってしまう。それだけに少しでもほっとするような話題を見つけると気が休まるのである。ちなみに金さんは『(本文中の「朝鮮人」という言葉は、国籍を指すのではなく、民族名として使った。)』と断っているが、私もそれを踏襲している。

その一つ、「在日」は望むと望まざるにかかわらず日本帝国臣民であった。1925年5月に公布された普通選挙法の「帝国臣民たる男子にして年齢25年以上の者は選挙権を有する」との定めにより、本土に在住する「在日」はたとえタコ部屋で酷使されていようと、いかに才媛の大和撫子ですら手にしえなかった選挙権を行使できたのである。1932年の東京における衆議院選挙で、朴春琴が対立候補の浅沼稲次郎を破ったなんて話が出てくる。ところが在日の票に目をつけた浅沼が巻き返しに出て、その後の選挙で朴を破ったというから面白い。しかし残念ながらこのような話は後が続かない。

私が目を開かれたのはおもに「II 植民地時代の終焉と在日社会」のところである。在日団体として「在日大韓民国民団」(民団)と「在日本朝鮮人総聯合会」(朝鮮総聯)の存在がよく知られているが、その実態については韓国もしくは北朝鮮に親近感をいだく在日朝鮮人が加盟している任意団体ぐらいに私は思っていた。ところがこれらの団体が出来はじめてから現在に至るまで、それぞれが支持する南北朝鮮政府のご用組合であるかのように描かれている。まず出来はじめの頃であるが、

 このように在日社会に左右の思想的基盤を持つ二つの組織が全国に張り巡らされるようになり、在日社会に大きな影響を及ぼしていくことになる。ただ民団が結成された時期、在日の支持は圧倒的に朝連にあった。これらの左右の思想的基盤を持った在日の組織は何れも同胞の権益の擁護と朝鮮半島での新国家の建設のための活動方針を採択していた。しかし、双方の団体とも幹部たちは在日同胞よりも本国に目が向き、本国での新国家建設に参加したいという欲求が強かった。(中略)このような本国志向の想いは民団、朝連(後には朝鮮総連)の幹部たちの体質になって根を張り、現在に至るも、両組織の幹部たちは、在日よりも南北の両政権に視線が向き、ともすれば在日を無視する姿勢になっている。
(150、151-152ページ))

さらに

 在日が定住を意識し、祖国志向のしがらみから解き放たれようとしていた1960年から1970年にかけて、在日を代表する二つの組織は在日を見捨てたかのように本国政府の政策遂行に目の色を変えて取り組んでいた。とくに朝鮮総連の変貌が激しい。(中略)
 在日の視点を無くしていたのは民団も同様である。(中略)
 一概に言えるのは、総連も民団も、在日同胞問題は眼中になくなっていた、ということである。こうして両団体がそれぞれの政権の抗争のお先棒をかついでいるうちに、組織を見放した無党派とも言うべき在日の人たちの運動が起き始めていた。
(226、228、231ページ)

 在日の定住意識が明らかになるに従い、これまで重要視してこなかった日本での生活に必要なさまざまな権利獲得に働く人たちが現れてきた。民団、総連組織と関係のないところで、在日の人々は、生活上の必要から、日本政府が在日に認めていなかった、政府系金融機関から融資を得る運動や、公団住宅などへの入居資格の獲得に動き、担当部局とのこごの交渉で認めさせていった。
(231-232ページ)

なるほど、と思ったのは次の一節である。

 在日の定住化が、揺るぎなくなった大きな要因に、在日の婚姻問題がある。
 在日の結婚統計が取られるようになった1955年、在日の結婚は81.4%が同族同士の結婚であった。それが1965年には78.8%、1975年には67.1%、1985年には43%、1995年には28.7%、そして2001年には11.4%になり、最新の統計である2007年には9.6%とわずか9%台にまで落ち込んでいる。結婚の相手はほぼ日本人である。
(238ページ)

この数字の物語るところは大きい。若い世代はすでに日本人、朝鮮人を隔てていた大きな壁の一つ、偏見をすでに乗り越えてしまっているのである。

注目すべきは最近の話題である定住外国人の参政権問題との関わりである。

 在日の市民グループがたどり着いた結論が、「日本社会との共生」という目標である。日本は仮の住まいで、いずれ朝鮮半島に還ると考えていたときは、自分たちが日本社会の一員で日本社会の繁栄と発展を願い、住みよい社会建設に努力するという発想は生まれてこない。在日が日本社会の一員と認識した時から日本社会との共生という意識が育ち、日本社会に自分たちの意志を反映させる場として選挙権を保持すべきだとの意見が多くなっていった。
(258ページ)

私にも分かりやすい論旨である。それならば外国籍のまま参政権を要求するのではなくて、十分にその資格があるだろうから日本国籍を獲得すれば、この参政権問題は素直に解決するように思う。もちろん外国籍のままの参政権要求の動きは当分消えないだろうが、上の結婚問題の場合と同じように、もう少し時間を置けばよいのである。ただ日本国籍の取得に際して次のようなことが事実であったとするなら、これは遺憾としか言いようがない。誰が日本政府にそんなお節介をする権限を与えたというのだろう。

 1980年代まで多くの在日が、日本国籍取得を拒否した姿勢は極めて異常である。それは「同化」を強要する政策を日本政府が取り続けたからだ。その一例は、金だとか李、崔などの民族名では日本国籍取得は絶対に許可されず、改名した日本名での申請しか許可はでなかったことからでも理解出来るであろう。
(255ページ)

1990年代に入ると、日本政府も民族名で日本国籍を取得することを許可するようになっていったとのことである。

また権利の行使ということで参政権とは異なるが、「住民権」が現実的な取り扱いを受け始めていることを知った。

 1990年代に入り、各自治体では地域住民の生命と財産に関わる問題 ― 原子力発電所の建設問題や、産業廃棄物の大規模処理施設導入などの是非を全住民の賛否による、住民投票で決定する傾向が強まった。この時期、この住民投票の「住民」に在日は含まれていなかった。
(261ページ)

しかし、である。

 その後、「在日」は住民でないのかという真摯な問いかけに、三世代、四世代に亘り、地域に永住している在日を「住民」と認めないのはおかしいという、極めて常識的な判断をする自治体が現れ、2002年3月、滋賀県米原町の町村合併の賛否を問う住民投票に、町議会は永住外国人の投票を認める決議をした。(中略)
 米原町の動きは各地の自治体に影響を与え、在日に住民投票権を与える自治体は増加していった。これらの自治体は在日定住外国人に選挙権を付与する決議でも賛成に転じ、2009年現在、全国に2213ある自治体の半数以上が参政権を認めるという意見書に賛成決議をしていて、参政権問題、住民権問題は少しずつ前進している。
(262ページ)

住民権問題に関して私はまったく同意見であるが、参政権問題に関しては憲法に則って欲しいと思っている。

急ぎ足で、しかも限られたテーマについての感想を述べるにとどまったが、著者の第三者的視点からの抑制的な記述が印象的であった。ここを出発点として私なりの探求を続けようと思う。
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無残 薔薇に種牛に鳩山首相

2010-05-24 09:35:41 | Weblog
薔薇の世話を自分でし始めて2年目になる。それまでは勝手に生えていた。薔薇の育て方を少しずつ勉強して水や肥料のやり方、剪定の仕方など徐々に覚えてきた。そのせいもあってか今年は沢山花が開くようになった。昨日の朝は早くから雨で風も強く、薔薇の枝が風に大きく揺れており、すでに地表には薔薇の花びらが無残にも散らばっている。風が弱まり、動きが停止する一瞬を狙って写真に残した。これは正解だったようで、日中外出して夕方に帰ってくると、左側の二辨は散り去り、右側は鉢ごと倒れて新芽が折れていた。薔薇を育てるにはまだまだ気配りが欠けているようである。


昨日朝刊に『口蹄疫 宮崎県知事種牛49頭延命を要請 国は困難の姿勢』と見出しが大きく出ていた。

 東国原県知事は22日、県庁での記者会見で、県家畜改良事業団で飼育していた種牛55頭のうち、避難させた「エース級」6頭以外の49頭についても殺処分しておらず、「経過観察させて欲しい」と政府に求めた。
 家畜伝染病予防法では、口蹄疫に感染した疑いのある牛が見つかった場合、農業の牛はすべて殺処分対象となる。東国原知事は「このままでは宮崎県から一頭も種牛がいなくなる。法は法だが、6頭は特例で(移動を)認めて貰った。何とか競技の余地は内だろうか」と、国と協議したいとの姿勢を示した。
(朝日朝刊 5月23日)
 
万全の予防措置を講じて種牛の経過観察をすればいいではないかと思う。現地の山田正彦農林水産副大臣は「特例を認めていいとは思っていない」と消極的であるが、これこそ官僚的発想であろう。政治家主導を標榜するのであれば専門家の協力を仰いだ上、東国原知事の要望に応えたらどうなのだろう。と思ったものの、これは科学者としての発想で、法は法、当事者の恣意的判断で法を犯すのはいかがなものかとも考えてしまう。

私は日ごろ血統書付き種牛の血を引く由緒正しい牛肉とはそもそも無縁の生活を送っている。食卓の常連はオージー・ビーフなのである。不慮の災難で命を絶たれる動物こそ無残であると思うものの、すきま風のようなものがもう一歩先の考えを妨げる。

 鳩山総理大臣は23日の2度目の沖縄訪問で、普天間基地の移設先を名護市の辺野古周辺とすることを初めて明言しました。

 鳩山総理大臣:「国内、及び日米の間で協議を重ねた結果、普天間飛行場の代替地そのものは、やはり沖縄県内に、辺野古の付近にお願いせざるを得ない。断腸の思いで下した結論でございます」「私自身の言葉『できる限り県外』だと、この言葉を守れなかったということ。そして、その結論に至るまで、その過程のなかで県民の皆様方に大変、混乱を招いてしまいましたことに関して心からお詫び申し上げたいと…」
(テレ朝ニュース 05/23 17:30)

一国の総理に対してきわめて失礼ではあるが、テレビに鳩山首相の顔が映ると『蛙の面に小便』とひとりでにつぶやいてしまう。私人としたら面白い方なのかも知れない。しかしその言葉に信がおけないと国民に見放されてしまった今、公人としていかに身を処すべきなのか、正常な判断を下せるだけの理性は失っていただきたくないと願うのみである。

今朝もまだ雨が続いている。なんとなく陰鬱。
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一弦琴 新しい糸を本来の意図で使う

2010-05-21 16:47:21 | 一弦琴
5月15日にYouTubeにアップロードした一弦琴「夜開花」は琴糸屋さんで特別に作って頂いた糸を張ったものだった。特別に、との思いがあったものだから落ち着いた音色をそれなりに気に入っていた。ところがあることから、新しい糸を本来の意図とは異なる使い方をしていたことに気付いたのである。

一弦琴を習い始めた頃、開放弦の音を調子笛の「D」に合わせていた。音程が低くて私には唄いにくかったけれど、お師匠さんに訓練すれば低い声が出るようになります、と言われて少しは努力したが、しんどいだけであった。何年かたつうちに、「D#」で合わせることは認めていただいたが、私が唄いやすいのは「F]、歌によっは「F#]である。いつかは自分の声に合わせた調弦をしたいと思っていたが、お師匠さんから離れてそのチャンスがやって来たのである。

これまでの糸でたとえば「F」に合わせると、糸が細いだけにキンキンした音になってしまう。そこでもう少し太めの糸を使えば張りを少々強くしても余韻のある音が出るだろうと考えたのである。まず少し太めの三味線の糸を試してみたが、低音の魅力に惹かれとことと、太い糸を強く張ることへの抵抗感から、調弦の基準音は上げたものの現実には1オクターブ下の音を出すように調弦したのである。

このようなことがあったので、これまで長年使ってきた糸よりも太い糸をせっかく作ってもらったのに、張りを強くしてより高い音域の音を出すべきところ、かえって張りを弱くして目指す音域より1オクターブ低い音を出していたのである。そして声域は1オクターブ上げていた。ところが張りを弱くしたせいで、従来の糸で合わせた徽の位置とかなり異なるところに勘所が移ってしまう。何かがおかしいと思うようになったが、最初の意図をころりと忘れていたのである。ところがつい最近、これまでの糸に張り替えて演奏する機会があって、その糸の張り具合が新しい糸の張り具合と余りにも違うことに気がついたのである。肌の弾力にたとえると乙女と媼以上の違いがある。その瞬間、そうだ、張りを強くして高い音でもきれいに出せるように太めの糸を作ってもらったのだとの本来の意図を思い出したのである。下は新しい張りでの演奏である。以前の演奏もしばらくは比較のために残しておくことにした。ゆくゆくは、曲に合わせて糸の種類、張り方を選んでいくのもいいなと思いはじめている。




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見事に錆びついた「魚雷の部品」の怪

2010-05-21 11:03:20 | Weblog

すでにネットで見ていたがあらためて朝日朝刊に掲載されたこの錆びついた「魚雷の部品」を見て、日本軍が南洋の島に置き去りしたままの兵器の残骸を連想してしまった。それほど年代を経たように見えたからである。となると私の想像力が掻きたてられる。Dan BrownやMichael Crichton、Frederick ForsythにKen Follet、とくにGlenn Meadeの愛読者としての悲しい性(さが)なのである。

見事に錆びついている。ただの焼けただれのようには見えない。韓国哨戒艦が沈没したのが去る3月26日で、浚渫船(dredging ship)が爆発の起きた場所でこの魚雷部品を回収したのが5月15日だから、ほぼ50日間海底に沈んでいたことになる。その期間でこれほど錆びるものなのだろうか。魚雷が爆発した瞬間にどのように分裂していくのか、シミュレーション可能のように思われるが、火薬の炸裂による高温がこの部品に伝わる時間的な余裕があるのだろうか。熱が伝わらなかったらこの部品はおとなしく海底に横たわったままであろう。それなのにこれほどまで錆びるのだろうか。仮に熱が伝わってかなり高温になったとしても、やがては海水で冷やされていく。その間にどれほどの「錆の種」が作られて、それがこのように見事な錆に成長するのだろう。いったい魚雷の金属部分はどのような材質なのだろう。とにかくいろんな疑問が湧いてくる。この魚雷部品が発見されてからThe Joint Civilian-Military Investigation Group(JIG)が報告書を出すまでは実質5日足らずである。錆の形成についての科学的調査が完了していたとは考えにくい。

この魚雷部品発見について、MSN産経ニュースは次のように伝えている。

 【ソウル=黒田勝弘】多数の犠牲者を出した哨戒艦沈没事件で厳しい世論の批判を浴びていた韓国軍が、原因究明でほぼ完璧な成果を挙げ、名誉を挽回したかたちだ。関係者の間では、原因調査にあたっての情報力や分析力が高く評価されている。

 とくに「北朝鮮の犯行」と断定する証拠になった、ハングルと数字が刻印された魚雷の破片を海底から回収できたことと、北朝鮮製の魚雷の構造資料を入手したことは大きい。

 関係筋によると、決定的な物証となった魚雷のスクリュー部分は、調査結果発表5日前の15日、現場海域で底引き網漁船によって発見された。それまでは「確実な物証」がなく苦悩が深かった調査団も、これで一気に真相究明が可能になったという。

 発表によると、回収された魚雷のスクリューなどの構造が北朝鮮の輸出用魚雷の構造図と一致し、部品に記されたハングルの字体も、韓国軍が過去に入手していた北朝鮮製の魚雷の表記と同じだったという。これは韓国軍が北朝鮮の魚雷に関する資料や情報をかなり入手しており、正確に比較・分析できた結果だ。(後略、強調は私))
(2010.5.20 19:56 )

この記者はよほど韓国に惚れたか韓国べったりの記事で、それだけに「眉につば」をつけてかからざるをえないが、それにしても強調部分がひっかかる。「底引き網漁船」であるが、この問題海域で早くも漁業を行っていて、偶然にも魚雷部品を引き揚げたのだろうか。そしてこの「底引き網漁船」がJIGの報告書ではなぜ浚渫船(dredging ship)になっているのだろう。魚雷部品発見の経緯についても疑問が湧いてくる。

これからはGlenn Meadeの世界に入って、魚雷部品発見の経緯について一つだけ憶測を逞しくする。

JIGの報告書にもあるように、爆発したのはシミューレションにより200~300kgの爆薬であることが分かった。それも機雷ではなく魚雷であるとすると、北朝鮮の保有するどのタイプの魚雷かは容易に想像がつく。そこまで分かってくると物的証拠の収集に苦慮している調査団に援助の手を差し伸べるのは至極簡単である。その昔、北朝鮮が魚雷発射訓練した際海中に残された「魚雷部品」がどう流れ流れてか、たまたま韓国の「底引き網漁船」の網に引っかかり、どこかに保管されていたとする。それを持ち出して今回あらたに爆発現場で回収されたように見せかけて、調査団をも騙せばよいのである。そのようなことは謀略のプロの手にかかればお茶の子さいさいである。

おわり


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魚雷と北朝鮮を結びつけるものは?  追記有り

2010-05-20 11:07:13 | Weblog
3月26日に起きた韓国哨戒艦沈没事件の原因調査を行ってきた国際軍民合同調査団の最終報告書が今日発表されることになっている。ところがそれに先だってネット上でも「哨戒艦は魚雷の爆発により沈没した」とか「現場から採取した物質の成分が、韓国軍が7年前に回収した北朝鮮軍の演習用魚雷に使われていた火薬類の成分とほぼ一致することがわかった」とか「現場水域から収集した魚雷のスクリューの破片に北朝鮮で使われる字体の数字が書かれていたことを確認」などの情報が飛び交い、さらには「事件が北朝鮮の魚雷によるものだと断定」とのニュースが流れた。そしてつい先ほどasahi.comは次のように報じた。

「韓国艦、北朝鮮製魚雷で沈没」 国際調査団が報告書

 【ソウル=牧野愛博】韓国軍哨戒艦「天安」(1200トン)が沈没した事件で、国際軍民合同調査団は20日、「北朝鮮製の魚雷による沈没」と断定する最終報告書を発表した。日米韓3カ国は国連安全保障理事会で北朝鮮への制裁を呼びかける方針で、慎重な姿勢の中国との本格的な折衝に入る。北朝鮮は関与を強く否定しており、南北関係の悪化と朝鮮半島情勢の緊張は避けられない見通しだ。
(2010年5月20日10時8分)

この記事だけでは北朝鮮がどのように哨戒艦へ魚雷攻撃をしかけたのかは分からないが、最終報告書はここ止まりなのだろうか。かりに物的証拠となりうると見なされた魚雷が北朝鮮製のものであったとしても、それが北朝鮮の艦船から発射されたものであることが示されない限り、北朝鮮の直接的関与を云々することは出来ない。

北朝鮮が関与を否定している限り状況的証拠に頼らざるをえないが、最終報告書はそこまでも明らかにしているのだろうか。まずは魚雷がどの方向から哨戒艦に発射されたのかを示す必要があるが、それは哨戒艦に残された記録から明らかになることだろう。そして哨戒艦が爆破された時点で北朝鮮の艦船がその周辺のどのように展開しており、魚雷が発射された方向の延長線上に存在した北朝鮮艦船がどのような行動をとったのか、すべては明らかにされるべきであろう。

私は以前に不様な韓国哨戒艦沈没事件で思うことで述べたように、この事件は韓国国民には申し訳ないが韓国海軍の失態であると思っている。真珠湾に停泊していた米海軍軍艦が不意打ちを食らって沈没したような話ではない、自ら危険を覚悟で境界線近くで軍事行動を起こしている哨戒艦の沈没事件なのである。むざむざ沈められたのは明らかに警戒行動に綻びがあったからである。

沈没の状況証拠を開示することは、その一方で元来は最高の軍事機密に属する索敵能力を明かすことにもなるので、最終報告書といえどもそこまで踏み切れるとは思いにくい。ましてや役立たずの哨戒・索敵能力の現状を不様に晒すことにでもなれば、韓国国民がまず黙っていないだろう。

それにしても最終報告書の詳細が待たれる。

追記(5月20日)

韓国国防部のホームページに「Investigation Result on the Sinking of ROKS "Cheonan" Date 2010-05-20 10:04」が掲載されている。

北朝鮮製魚雷と北朝鮮艦船の動きとの関連については次の記述に尽きる。

The North Korean military is in possession of a fleet of about 70 submarines, comprised of approximately 20 Romeo class submarines(1,800 tons), 40 Sango class submarines(300 tons) and 10 midget submarines including the Yeono class(130 tons).

It also possesses torpedoes of various capabilities including straight running, acoustic and wake homing torpedoes with a net explosive weight of about 200 to 300kg, which can deliver the same level of damage that was delivered to the ROKS "Cheonan."

Given the aforementioned findings combined with the operational environment in the vicinity of the site of the incident, we assess that a small submarine is an underwater weapon system that operates in these operational environment conditions. We confirmed that a few small submarines and a mother ship supporting them left a North Korean naval base in the West Sea 2-3 days prior to the attack and returned to port 2-3 days after the attack.

Furthermore, we confirmed that all submarines from neighboring countries were either in or near their respective home bases at the time of the incident.
(強調は私)


私が知りたいのは数隻の小型潜水艦とその母艦が北朝鮮海軍基地を「攻撃」の2-3日前に出てから「攻撃」の2-3日後に戻ってくるまでの航跡であるのに、ものの見事に欠落している。その分、説得力が弱い。記録の有無を明かすことがすでに軍事機密漏洩になるのだろうか。

そして結論、「Based on all such relevant facts and classified analysis, we have reached the clear conclusion that ROKS "Cheonan" was sunk as the result of an external underwater explosion caused by a torpedo made in North Korea. The evidence points overwhelmingly to the conclusion that the torpedo was fired by a NorthKorean submarine. There is no other plausible explanation.」
前半についても北朝鮮製魚雷の仕様が明らかになった以上、これまで採取されたというアルミニウム片や高性能爆薬「RDX」(ヘキソーゲン)が確かにこの魚雷のものであったのと確認がほしいし、また後半の「There is no other plausible explanation.」に至っては少々想像力が欠けているような気がする。いずれにせよこれで軍事行動に走る動きが報じられていないのがせめての救いである。
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牛と人の違い 口蹄疫問題

2010-05-18 23:51:14 | Weblog
宮崎県で口蹄疫のために牛と豚が大量に殺処分を受けている。18日現在、殺処分される家畜の総数が11万頭を超えたそうである。

日本経済新聞は次のように伝えている。

 (宮崎)県によると、3月末に同県都農町の農場で下痢の症状を示す水牛がいるとの連絡を家畜保健衛生所が受け、立ち入り検査をしたが、口の中に水疱(すいほう)があるなど口蹄疫の典型的な症状が見られず、検体を採取したものの遺伝子検査をしなかった。約3週間後の遺伝子検査で感染疑いを示す陽性反応が出た。
(2010/5/18 12:54 日本経済新聞 電子版)

これが事実だとすると、4月下旬に口蹄疫が確認されたとこれまで報道されてきたよりも早い時点で口蹄疫の発生が確認できた可能性が浮かび上がり、遺伝子検査の遅れが悔やまれる。ここまで範囲が拡大する前に押さえ込みが出来たかも知れないからである。この遅れの原因は明らかにされるだろうが、口蹄疫が人には感染しないということから、つい対応が甘くなったのかな、と言うような気がする。ちょうど一年前になる「新型インフルエンザ」騒動が初期対応の重要性にマイナスに働いたのだろうか。

それにしても殺処分される家畜が痛ましいし、畜産農家、肥育業者の方々の心中察するにあまりある。家畜伝染病予防法が感染が疑われる牛や豚だけでなく、一緒に飼育されている全頭を殺処分するよう定めている以上現在の処置はいたしかたないとしても、余りにも野蛮で人間のエゴ丸出しの殺処分という対策に後ろめたさを覚えるのは私だけではあるまい。これだけ科学・技術が進歩?してきた21世紀に、殺すしか仕方がないという昔ながらの古い防疫の殻を打ち破る対処法が生まれないものだろうか。
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伊丹空港が米軍基地だった頃 そして・・・

2010-05-17 14:55:32 | 放言
橋下大阪府知事が普天間基地の機能や訓練の分散移転について、関西での受け入れを検討すべきだとの考えを示している。「受け入れの優先順位が高いのは米軍基地のない地域だ。関西の優先順位が一番高い」というのがその理由と伝えられているが、それで思い出したのが伊丹空港がかって米軍基地であった頃の今は昔の話である。

私が大阪大学理学部に入学したのは昭和28(1953)年4月である。理学部と書いたが当時は前期の2年間を教養部で学び、その後理学部に進学してから2年間、専門教育を受けることになっていた。教養部は北校と南校とに別れており、前者は旧制浪速高等学校の、後者は旧制大阪高等学校の校舎を使っていた。私の通ったのは教養部北校で豊中市の待兼山にあり、三宮から阪急神戸線で十三まで行き、宝塚線に乗り換えて急行の停まる石橋で下車して待兼山まで歩いて登った。神戸の自宅から阪急三宮駅まで市電だったので、登校に片道2時間はたっぷりかかったと思うが、自宅から通える国立大学、というのが親から与えられた進学の条件だったのでこの通学も苦にはならなかった。なんせ朝鮮から身一つで引き揚げてきたサラリーマン家庭で、私は5人兄弟の一番上だったのである。

入学したときの記念写真が残っている。待兼山の一画なのだろうか、男子学生のほとんどが制服?に角帽姿の時代であった。


ここに大阪大学豊中キャンパスの地図がある。ただし昭和28年当時、この図の右斜め下半分の建物は存在しなかった。


⑨の説明に「大学教育実践センター 共通教育本館(イ号館)」とあるが、これが当時の北校校舎であろう。「ウィキペディア(Wikipedia)」で「浪速高等学校 (旧制)」の項目にこの建物の写真が掲載されており、「旧浪高高等科本館(現・阪大「イ号館」)」と説明されているからである。


ほとんどの講義はこの校舎の教室で受けたが、課目によってまれにバラック建築のような文科系の校舎でで聴講したような覚えがある。5月に入ると本館正面口に通じるスロープの両側にはツツジが咲き乱れ、あまりの立派さに大学に入った喜びをあらためて実感したものである。だんだんと暑くなるにつれ、教室の窓は開け放された。ところが講義の最中にジェット機の轟音が容赦なく入り込んでくる。窓を閉じても効き目はない。近くに飛行場のあることは分かっていたから、お互いに顔を見合わせては「しょうがないな」というような表情を交わすのである。もちろん講義は小休止であった。考えてみるとわれわれの世代は空襲の警戒警報で避難するのに慣れていたから、ジェット機の轟音をやり過ごすぐらいは屁のカッパ、こんなものだと諦めてうるさく騒ぎ立てることもなかった。なんせ日本は戦争に負けてしまったのだから仕方がなかったのである。

Google地図で見ると吹き出しのかたまっているところが大阪大学豊中キャンパスで、空港とはきわめて近いことが分かる。直線距離で2~4キロといったところである。その頃の空港の様子を紹介しているサイト、1950年代の大阪(伊丹)国際空港のよると、この伊丹空港は昭和20(1945)年9月に米軍に接収され、13年後の昭和33年に日本に返還されて大阪空港と改称されたことが分かる。従って私たちが北校に通っていた頃、伊丹空港が紛れもなく米軍基地であった。


豊中キャンパス図の明道館(学生サークル棟、22番)は、名称こそ昔のものであるが、元の場所より左斜め下に移動しているように感じる。昔の明道館の右斜め下あたりが運動場であったと思う。教養部であったから体育実技があって、この運動場で球技などをした。この運動場を見下ろす小高い丘があり、現在の地図で見ると刀根山寮(学生寮、24番)の辺りであろうか。ここが米軍キャンプになっていて全体が金網で区切られ、家族宿舎であろうか緑の芝生に明るい瀟洒な感じの家が建ち並んでいた。運動場から見上げると後年、黒澤明の「天国と地獄」で描かれたスラムを見下ろす高級住宅街の趣があった。暑い頃ともなると芝生の上に広げられた組み立て式のプールであろうか、そこではしゃぐ子供たちの声が風にのって届いたものである。10年経つかたたないうちに私たち家族がその米国本土に留学し、夢のような生活を送ることになろうとは思いもつかなかった。阪急宝塚線石橋駅の一つ手前に、普通しか停まらない蛍池駅がある。好奇心にまかせてそこから周辺を歩き回った。駐留米軍兵士相手の飲み屋が目立って、いかにも基地の街という雰囲気を感じた。もちろんこのような場所は神戸にもあり、今の南京街あたりの路地の至る所にこのような店があってとっくに探検済みであったので、それと同じ匂いを嗅いだのである。

私は日本からは米軍基地のすべてを追い出すべきであると思っている。しかし「ヤンキーゴーホーム」の意味がもはや通じない世代が大勢を占める今の日本で、米軍基地撤廃の声が一つに纏まることはまずあり得ないような気がする。国民の気持ちが一つになり得ないのは、やはり沖縄だけがその不条理の被害を被るだけで国民のほとんどにとって、他人事となってしまっているからであろう。占領下の情況を駐留米軍に再現して貰い、本土の人間が占領下にある屈辱を今改めて実感するようになれば、ひょっとすると「ヤンキーゴーホーム」の声がまとまって大きくなるのかも知れない、なんて破れかぶれに思ったりする。橋下大阪府知事がそこまで考えているのなら、米軍基地を再び関西に、という誘致案も一考に値するというものだ。かっての国体のように全国都道府県回り持ちで順番に基地を引き受けるともっと効果が上がることだろう。

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