今朝の朝日新聞一面の見出しである。これは違うな、と私は思った。艦長に指揮官としての全責任があるのは当然のことである。これには異存はない。だからこそまず国民に謝罪すべきなのである。自衛艦の舳先に昔の帝国海軍軍艦のように菊の紋章が刻まれているのかどうかは知らないが、自衛艦は紛いもなく国民からの貴重な預かりものである。その国有財産に傷をつけ漁民に災難を与えたことを国民に対してまず謝罪するのが筋と言うものだ。
艦長は清徳丸乗組員の家族と漁協関係者に謝罪したとのことであるが、何をどのように謝罪したのだろう。国民にたいする謝罪と同じ意味合いのものであればまだ納得できるが、もし「全面的に非を認める」との意味ならばこれは問題である。なぜなら来たるべき裁判で艦長と清徳丸乗組員は(形式的には)対立すべき立場にあるのに、現時点で艦長が「全面的に非を認める」のであれば、国民のみならず裁判関係者にも予断を与えたことになるではないか。衝突の状況とその後の捜索の成り行きを見ると、もはや清徳丸乗組員の生存を期すべくもない。従って艦長が弔意を表したというのであれば素直に理解できる。しかし弔意と謝罪とは別物である。
2月26日のブログ清徳丸はなぜ為す術がなかったのだろうで、清徳丸の船長は衝突するまでいったい何をしていたのだろうと私は疑問を投げかけた。そこで引用した図解によると、清徳丸の僚船である幸運丸は「あたご」の前方約2.7kmほどで大きく右へ旋回して「あたご」を回避した。また清徳丸の後方を航行していた僚船金平丸も、その操舵が適法だったのかどうかは知らないが、いったん右に向かった後で左へ大きく回避し、とにかく「あたご」を避けている。幸運丸と金平丸の間に挟まれて進んでいた清徳丸だけがなぜ「あたご」と衝突したのか、これは誰しも持つ疑問ではなかろうか。それが現時点では明らかにされていない。
海は皆のものである。海上自衛隊の艦船であれ漁船であれ、日本では平等である。お互いが安全航行を心がけるのは当然のことである。しかし7000トンの護衛艦と7トンの漁船では自ずと操艦、操船の心がけが違っているのではなかろうか。7000トンもの護衛艦が戦闘中でもあるまいし、右や左にくるくる舵を切ってくれては、すれ違う船はいったいどう身を躱せばいいのかかえって途方にくれることだろう。大きい船は静々とひたすら前を見て行くものだ、というのが海の男の常識にでもなっておれば、おのずとより小さくて小回りの効く船がちゃんと避ける、そのほうが事がスムーズに運ぶのではなかろうか。報道によると「あたご」の乗組員は漁船が避けてくれると思ったらしいが、そのような(暗黙の)ルールがあってもいいのではないか。
2月26日の東京新聞は《あたごは一〇・五ノット(時速約一九キロ)、漁船団は約一五ノット(約二八キロ)で進んでおり、一分で八百メートル接近する。》と報じていた。なんと「あたご」の1.5倍の速度で漁船団は進んでいたのである。高速道路を80kmの速度で走っている大型トレーラーを自動二輪が120kmであっという間に追い越していく、それぐらいの速度差があったのである。この時点での機動性は漁船の方が「あたご」より遙かに勝っていたのである。だからこそ幸運丸と金平丸は衝突を回避できたのであろう。清徳丸だけ、いったい何をしていたのだろう。
現時点で清徳丸にいかなる意味でも全く過失がなく、「あたご」にすべての過失があるのかどうかは分かっていない。だからこそ事故原因の解明を急ぐべきで、裁判で事実関係が明らかになり「あたご」に一方的な過失のあることが確定してから艦長が清徳丸乗組員の家族と漁協関係者に謝罪すべきであったのだ。C型肝炎訴訟で福田総理が原告団に謝罪したように。なんでも頭を下げればよいものではない。艦長はまず国民に謝罪をし清徳丸乗組員の家族には弔意を表すべきであった。