日々是好日

身辺雑記です。今昔あれこれ思い出の記も。ご用とお急ぎでない方はどうぞ・・・。

英国ロイヤルウエディングを観てしまった

2011-04-30 19:04:52 | Weblog
昨日は英国ウイリアム王子とケイト・ミドルトンさんの結婚式を、一行がバッキンガム宮殿に戻ってくるまでであったがテレビで観てしまった。こんなことは私には初めてだったのでいろいろと好奇心が満たされることも多く、なかなか楽しかった。ケイトさんと花嫁の父がウエストミンスター寺院に到着したかと思うと、そのまま赤い絨毯を敷いた長いアイルを新郎の待っている祭壇前まで歩んでいくのだから、流れに無駄がないのが印象的だった。そして祭壇の前では表情の穏やかさと対照的に、私の目には花嫁の父が花嫁の左手をつぶさんばかりに強く握っているように見えて、緊張感がそこに凝縮しているように感じた。しかし式次第は順調に進み、ここに新にケンブリッジ公爵とキャサリン妃がめでたく誕生した。拝見した限り気さくな感じでとてもお似合いのお二人である。末永くお幸せでありますように。

式がほとんどと言ってよいほど音楽に乗って流れていくのがまたよかった。そう言えば式典自体がきわめて宗教的で、英国国教会の聖歌だろうかそのいくつかを参列者も一緒になって歌っているのを目にすると、わが国ではそういう音楽を思い出せないのでなんだか淋しく感じた。終わりの方で英国国歌が歌われたとき、フィリップ殿下は歌われていたけれど、エリザベス女王は口を噤んでおられた。一番の歌詞は次の通り。

God save our gracious Queen,
Long live our noble Queen,
God save the Queen:
Send her victorious,
Happy and glorious,
Long to reign over us;
God save the Queen.


まさに女王に捧げる言葉になっているから、受け取る側の女王が歌うわけにはいかないのであろう。では「君が代」はどうなのだろう。もし天皇陛下が国歌斉唱で「君が代」をお歌いになるのであれば、「君」を天皇を意味する「大君」(おおきみ)とは受け取っておられないとの見方もありうるので折りがあったら注目したいと思うが、もしかしたら慣例的にお歌いにならないのかも知れない。

祭壇の前のアイルを挟んで英国王室一族と、いわゆる平民のミドルトン家一族が向かい合っている光景に心打たれた。将来の英国王が一般家庭出身の女性を妃に迎えるのは1660年のヨーク公以来約350年ぶりとのことであるが、お二人の結婚に英国民の86%が賛成しているとか。時代の流れを感じるが、それにしても英紙報道では今回の結婚式の費用が推定2000万ポンド(約27億円)で、それを英王室とキャサリン妃両親が負担するとのことであるので、ただの平民ではなさそうである。

バッキンガム宮殿への馬車でのパレードの華麗なこと、近衛兵の騎馬隊をはじめとしてまさに「時代行列」で歴史の重みを感じた。しかしわが家のテレビはそこまで。女子フィギュアの画面に切り替わってしまったのでバルコニーでの勢揃いを見逃してしまった。




牡丹が花開いてまたまた一弦琴「牡丹」を

2011-04-28 21:04:09 | 一弦琴
昨年は牡丹のつぼみの状態で一弦琴「牡丹」を披露したが、今年は大輪の花がたくさん開いた。といってもたった一株、もう少し増やしてやろうと思っていたのに機を逸してしまった。のんびりと構えていると季節がせっせと私を追い越していく。何事もタイミングが大切だと言うのに。


そしてまた一弦琴「牡丹」を奏でた。演奏て、永遠に進化するものとみえる。いや、退化があるのかも知れない。



15歳未満の小児に脳死下臓器提供の話をどのように理解させているのだろう

2011-04-27 21:17:55 | Weblog
改正臓器移植法では本人の意思表示が不明な場合は家族の承諾で脳死下臓器提供が可能となり、したがって15歳未満の小児からの臓器提供が可能になった。この臓器提供に係わる意思表示等に関する事項として、『「臓器の移植に関する法律」の運用に関する指針(ガイドライン)一部改正新旧対照表』に次のような解説がある。下線部分が改正部分として新に加わったものである。


この改正部分の特徴(マーカー部分)は、脳死下臓器提供の意思のないことを15歳未満の小児が書類もしくはそれ以外の手段であれ表示しておれば、法に基づく脳死判定を行わないこと、と定めていることである。そのためには15歳未満の小児に脳死下臓器移植についての知識があることが前提となるが、実際のところ学校教育でそのような知識が与えられているのだろうか。

平成19年12月11日の「厚生労働委員会臓器の移植に関する法律の一部を改正する法律案審査小委員会の会議録議事情報」に、日本小児学会清野佳紀参考人の次のような発言がある。

 三、小児の意見表明権の確保に関する基盤整備。

 仮にA案の場合、子供の意見表明権は十分に確保されなければなりません。我々は、小児医療現場の経験から、十五歳未満はもとより、十二歳未満の未成年者であっても、適切な情報提供を行うことにより、みずからの状況を正確に理解し、意見を表明することが可能であると考えます。小児科学会員に対する調査でも、十五歳以上が八五%、十二歳以上十五歳未満が七〇%、十歳以上十二歳未満では四六・六%が、子供の意思表示のみ、もしくは本人の意思と親の了解があれば臓器提供はできると回答しています。

 また、我が国が一九九四年に批准した子どもの権利条約第十二条に示されている意見表明権にかんがみれば、十二歳未満の未成年者についても意見を表明する権利が認められているのであって、その意見をどのように尊重するかについては、今後も検討を続けていくべきと考えます。

 現行法の取り扱いが、脳死段階での臓器提供の自己決定をなし得る者を十五歳以上であると画一的に判断している点については、再検討するべきであると考えます。疾病を有したり、友人の死に接するなどして生命について考える機会を得た小児は、十五歳未満であっても死については正確な理解があり、また、臓器を他者に提供することの意義や脳死についても真摯に考えている場合が多いです。他方、十五歳以上の者であれば、未成年者であっても常に当該問題について十分自己決定をなし得るという考え方はフィクションであり、脳死、臓器移植に対する理解の程度は人によってさまざまであります。

 それゆえ、我々は、脳死や臓器移植についての理解を図るため、学校内外での教育を行い、ドナーカードへの署名の前の講習や当該小児の自由意思を確認する必要があると考えます。それらが満たされるのであれば、臓器提供を決定できる年齢を十五歳以上とする必要はなく、少なくとも、中学校に入学した後の児童、十二歳以上が意見を表明した場合には、その意思を尊重しなければならないと考えます。

 万が一、生前に子供が脳死移植を拒否した場合には、親が承諾したとしても、その意思を尊重しなければ明らかな子どもの権利条約違反になるでしょう。このようなことから、現時点では、日本小児科学会の見解はほぼB案に近いものと考えます。

私の考えは清水参考人の意見とほぼ同じである。とくに重要なのが我々は、脳死や臓器移植についての理解を図るため、学校内外での教育を行い、ドナーカードへの署名の前の講習や当該小児の自由意思を確認する必要があると考えます。の部分である。私は「厚生労働省における移植医療の普及啓発に向けた主な取り組み」の中に

(3)教育等における普及啓発
①全国の中学3年生を対象にパンフレットを配布(平成16年度より)
②こども霞ヶ関見学デーを活用した普及啓発(平成19年度より)

なる項目があるのは承知しているが、それ以外にどのような教育が、それもとくに15歳未満の小児に対して、なされているのか教育現場の状況については何も知らない。私が知らないだけならそれでよいが、もし脳死や臓器移植についての理解を図るため、学校内外での教育を行い、ドナーカードへの署名の前の講習や当該小児の自由意思の確認が現状でなされていないのであれば、冒頭「ガイドライン」のマーカー部分はたんなる作文、便宜上の辻褄合わせに過ぎず、それでいて「児童の権利」に定められた権利を実質的に侵すことになる。もう一度繰り返すが、教育の現場ではどうなっているのだろう。教育現場からの声が出てこないのが不気味ですらある。

少年臓器移植 お涙頂戴美談?仕立てへの疑問

2011-04-24 18:15:52 | Weblog
私はもともと家族承諾による脳死臓器移植には反対なのである。その理由を臓器移植法改正が必要? 自分の身体は誰のものなのかで次のように述べた。これは臓器移植法の改正A案が衆議院を通過し、参議院で審議が始まっている時点で書いたもので、少々長いがお目通しを頂きたい。

現行法では本人が自分の臓器を移植術に使用されるために提供する意志を書面にて表示している場合がある。いわゆる「ドナーカード」であるが、元来自分のものである身体の一部をある条件下で移植に提供するとの意志を表明したもので、この流れは素直に理解できる。ところが「臓器移植法改正A案」では自分が「拒否カード」のようなもので、わざわざ臓器の提供に応じないとの意思表示をしない限り、家族の同意さえあれば臓器が持ち去られてしまうのである。「ドナーカード」であれば元来自分のものである身体の一部を、もしお役に立つのならお使いください、と自分の意志で提供を認めるもので、何か人の役に立ちたいと言うモーティベーションにも素直にかなうものである。それが「臓器移植法改正A案」では、わざわざ提供するなんて云って貰わなくても家族さえ説得できれば臓器は貰えるのだから、と、人の善意を不当に貶めることになってしまう。

自分の身体は自分のもの、たとえ家族といえども太古からの自然のことわりを侵す権利はないのである。われわれは自分の臓器が他人に取られることをわざわざ拒否しなければならないという発想自体が自然のことわりを犯していることを心に銘記すべきなのである。自分の身体は誰のものでもない、文字どおり自分のものである。その自然のことわりを破壊する権利が国会議員なんぞにあるはずがない。参議院での審議が始まったにせよ、「臓器移植法改正A案」が否決されることを、それこそ『良識の府参議院』に期待する。

あらためて繰り返すが、私は現行の臓器移植法は「自分の身体は自分のもの」という基本理念の上に立っている妥当なものだと思っているので、この法の理念の下に行われる臓器移植は容認するというのが私の立場である。

また繰り返しになるが臓器移植法改正問題 子供の臓器移植 「あきらめ」もでも次のように述べた。

「自分の身体は自分のもの」の自分には、A案にあるように年齢制限のあるはずがない。従って子供からの臓器提供が可能になるのは、年齢の線引きが問題になるにせよ、子供が自分の意志で認めた場合のみである。いかに親といえども、子供に代わり、死んだその子の臓器提供を申し出る権利はないのである。「子供の身体も子供のもの」なのであって、人間である限り「自分の身体は自分のもの」にいかなる例外もあり得ない。現行法はその精神に合致しており、従って変えるべきではないので、A案なんぞはもってのほかと言うことになる。

このように私は本人が臓器提供の意思を明示していないのに、家族が勝手に臓器提供を承諾することに反対しているのである。その立場で新聞報道などを見るものだから、隠されたもののいかがわしさが妙に引っかかって来るのである。

今日の朝日朝刊の見出し(左)と、朝日に掲載された3日前のさる週刊誌広告の一部(右)を並べてみる。


この少年の脳死臓器提供が次のように報じられたのは4月12日であった。

脳死の子どもから臓器提供へ10代前半 法改正後初

移植ネットによると、少年は事故で頭部に重いけがをし、治療を受けていた。主治医が8日、脳死とみられる状態になって回復が難しいこと、臓器提供の機会があることを家族に説明した。移植ネットが一連の手続きなどを改めて説明した。少年は臓器提供を拒む気持ちを過去に示したことはなく、提供の意思も書面に残していなかった。病院は少年が虐待を受けていなかったと判断した。

家族は11日、移植ネットに脳死判定と心臓、肺、肝臓、腎臓、膵臓(すいぞう)、小腸の提供を承諾。12日午前7時37分に2回目の脳死判定が終わって死亡が確定した。臓器の摘出は13日朝の予定。心臓が大阪大病院で10歳代男性に移植されるほか、他の臓器も各地の病院で移植される予定。

両親は「臓器提供があれば命をつなぐことができる人たちのために彼の身体を役立てることが、いま彼の願いに沿うことだと考えました」とコメントした。
(asahi.com 2011年4月12日13時27分)

今日の朝日朝刊にはasahi.comで取り上げられていない次のような記事がある。

治療過程 なお不透明

 子供からの臓器提供の焦点は、虐待がなかったことの確認ののほか、脳死判定は適切に行われたか▽家族は自発的に提供を決めたか――などだ。(後略)

とある。治療過程の詳細が明らかでないと指摘しているのであるが、それならわざわざ家族にインタビューした際に、そういう疑問点は取材できなかったのだろうか。さらに事故の状況なども詳細が一切明らかにされていないから、週刊誌の広告見出しにもあるような憶測まがいが飛び出るのであろう。この朝刊記事でも事実の詳細が報じられないまま、見出しのみが目に飛び込んでくる。

私がとっさに連想したのは戦争中の軍国の母だった。白木の箱で帰ってきた戦死した息子を迎えても、心の悲痛を押し隠し人前では毅然とした態度を取らなければならなかった。そのように新聞、ラジオなどを通して世間が仕向けていたからである。たとえば島田磐也作詞、古賀政男作曲の「軍国の母」(昭和12年)を美ち奴が唄っているが、4番まである歌詞を3番まで挙げてみる。

1 こころ置きなく 祖国(くに)のため
  名誉の戦死 頼むぞと
  泪も見せず 励まして
  我が子を送る 朝の駅


2 散れよ若木の さくら花
  男と生まれ 戦場に
  銃剣執るのも 大君(きみ)ため
  日本男子の 本懐ぞ


3 生きて還ると 思うなよ
  白木の柩(はこ)が 届いたら
  出かした我が子 あっぱれと
  お前を母は 褒めてやる


朝日朝刊の見出しがこの赤字の部分と重なって私の目に映ったのである。戦時中と同じだなと思った。遺族は新聞に書かれたようなことを言わざるをえなかったし、また無理にでもそのように思うことで悲しみ、苦しみを乗り越えようとしているのではないかと想像した。というのも私には家族が無理に承諾させられたように思えるからである。

今回の臓器移植には主治医を始めとする医療関係者の職業的使命感に加えて、間違いなく脳死下少年臓器移植にわが国で先鞭をつけるという功名心も働いていたのではと思う。両親を始めとする家族は主治医の「熱意」に押し切られて臓器提供を承諾するようになったのであろう。少年の事故がどのようなものでその経緯の欠片すら伝わってこないが、家族にとっては青天の霹靂であっただろう。臓器提供を決断するに至った家族の心の動きとなるのだろうか、朝刊はこのように伝えている。

 両親にはこのまま火葬したくないという思いが強くあった。祖父は「あの子は世の中の役に立つ大きな仕事がしたいと言っていた」と発言。最終的に、みんなで臓器提供を決めた。

新聞記事をそのまま信じるわけではないが、私に言わせるととってつけたような状況説明である。杞憂であって欲しいが、もし祖父の言葉と伝えられる言葉のみが一人歩きして世間に喧伝されるようになると、学校でいじめに遭った児童達が「私の臓器をどうか役立てて下さい」と遺書を残して自殺するような流れが出てこないとも限らない。朝日といわず新聞の得意とした戦時中の「戦意昂揚記事」の浅薄さが目についた。

ところでわが国では家族の承諾のみによる脳死下臓器提供が国民からどのように受け取られているのだろうか。私は脳死下臓器提供を承諾した家族は100例中1例?で改正臓器移植法が始まってから50日間に、家族が承諾すれば脳死者になったであろう「脳死者」が500人発生したと考えられるのに対して、家族が承諾したのが6例であることを述べた。少年の家族が臓器提供した4月13日までの270日間に推定「脳死者」が2700人であるのに対して、家族が脳死判定と臓器提供を承諾したのは34例であるから、100例に対して1.26例で、当初50日間の1.2例と大きく変わらない。端的に言えば国会を通過した改正臓器移植法が国民からはほとんど支持されていないことになる。臓器提供の選択肢のあることを家族に告げる告げないは主治医の判断にかかっている。この現況に鑑み、本人の提供意思が明示されていないことさえ確認出来たら、家族のその承諾を求めることは控えるべきであろう。医師の人間としての良識を期待したいものである。

追記(5月3日)

asahi.com(2011年5月3日12時14分)によると5月3日現在、脳死臓器移植、家族承諾のみ43例目とのことである。改正法施行後290日目で「法に規定する脳死判定を行ったとしたらば脳死とされうる状態」が毎日10例と従来通りに考えると、家族承諾のみによる脳死下臓器提供は「脳死」100例中1.48例となり、当初50日間の1.2例より1.2倍増加したことになる。上記本文で270日間に34例と記したのは38例を間違って転記したようであるのでその旨をここに留めておく。


福島第一原発へようやく国産ロボットの投入 仏では原発事故対応特別部隊

2011-04-22 17:26:28 | Weblog
私が福島原発に放射能防御の作業車両がなかったのか

そして驚いたのが、強い放射能環境下でも作業可能な放水車やポンプ車が福島原発には一台もなかったのかということである。放射能が周りに充満していても海水を汲み上げて注水や放水ができる作業車が一台でもあれば初期対応は遅滞なく行われたはずである。またロボット注水・放水車でもよい。このような特殊車両が備えられておればその動きが報じられるだろうに、そのような話がないので、もともと無かったのであろうと思わざるをえない。もしかして、日本中の原発のどこにも放射能防御作業車両が無いのだろうか。もしそうならこれは「想定外」で決して許されることではない。恐らく「秘密兵器」なのであろうが、今からでも遅くない、米軍、露軍に緊急配備して貰ったらどうなのかと思う。

と述べたのは3月18日のことであった。ロボットは日本のお家芸だなんて喧伝されていたし、当然原子力発電所では万が一に備えて強い放射能環境下でも作業可能なロボットなどの機材が備えられていると私は信じ込んでいたのに、ものの見事にその期待が裏切られそうになった悔しさを記したものである。残念ながら私の危惧は当たり、原子炉建屋内に4月18日、始めて送り込まれた調査ロボットは米国製であった。そしてようやく国産ロボットが登場のようである。

 投入されるのは、千葉工業大未来ロボット技術研究センターの小柳栄次副所長や東北大の田所諭教授らが開発した災害救助用ロボット「Quince(クインス)」。長さ66センチ、幅48センチの車体に戦車のようなクローラー(無限軌道)が大小五つ。カメラやセンサー、ドアノブを回すアームも備えている。

 2009年のロボカップレスキュー世界大会では運動性能部門とアームの性能部門で優勝した。米国の模擬災害現場で実験した際、がれきの走行や階段や坂を上る性能などで米国製を圧倒したという。

 今回の原発事故に対応するため、無線操作できる距離を2キロに延長、有線でも使えるよう改造した。遠距離操作できるよう、強い電波の使用も特別に認められた。日本原子力研究開発機構の研究所で放射線の耐久試験も。5時間かけて10万ミリシーベルトをあてても問題なかった。作業員の被曝(ひばく)線量の上限の400倍に相当する。

 東電などの作業員が操作の訓練を受けた上で事故現場に投入する予定。原子炉建屋内部の様子、放射線量、温度などの調査を期待されている。操縦者は2キロ離れたところから無線で指示を出す作戦だ。
(asahi.com 2011年4月22日15時0分)

あまりにも遅い出番であるが活躍を期待したい。ただこの記事で次の部分が目を引いた。

 実は、日本でも原発用ロボットの開発を計画したことが2度あった。

 1度目は1979年の米スリーマイル島原発事故を受けて83年に始まった、建前は「点検」用の極限作業ロボットプロジェクト。90年まで約200億円かけたが、打ち切りに。2度目は99年の茨城県のJCO事故の後。今度は事故用で数十億円使ったが、「原子炉では事故は起きない」と1年で終わった。

 「事故用ロボットを開発すると『原発事故が起きると思っている』と受け取られると考えたのでは」と広瀬教授は推測する。

この赤字で強調の部分はまさに私が原発反対運動が福島原発事故を拡大させた?

ところが強い放射能環境下でも作業可能な放水車やポンプ車、さらにはロボット注水・放水車に重装備の防護服などを原発が整備したとすると必ずや人目を引き、安全を喧伝している日ごろの主張との矛盾を突かれて、ますます原発反対運動の拡大することを原発の経営者側が懸念したことも想像するに難くない。したがって強い放射能環境下でも迅速に作業を推し進める対策をなおざりにした、と。

と述べたことと軌を一にする。言うまでもないが、このような本末転倒したような思考が重大な意思決定を左右することがあってはならないことで、この点一つを取り上げてみても、わが国の原子力政策がいかに未熟のものであったことかと悔やまれる。

日経夕刊には次の記事があった。


鉄は熱いうちに打て、である。わが国においてこそ世界最強「核事故対応機動部隊」の創設を 追記ありで述べたように、先鞭をつけるべきではないのか。

福島第一原発20キロ圏内大気中放射線量の遅すぎた発表ではあるが 追記あり

2011-04-22 09:58:51 | Weblog
朝日朝刊の記事である。

20キロ圏、汚染に濃淡 文科省、128地点の線量公表

 文部科学省は21日、警戒区域となる福島第一原発から20キロ圏内の大気中の放射線量の調査結果を発表した。原発から3キロ付近では、毎時100マイクロシーベルトを超える地点があった。年間の被曝(ひばく)線量に換算すると、100ミリシーベルトを超える可能性がある地域が1割を超えていた一方で、避難区域の目安となる年間被曝線量が20ミリシーベルトに達しない地点も半数近くあった。

 今回の線量調査は、住民の一時帰宅が可能か判断するために、文科省が東京電力などと協力して行った。20キロ圏内の9市町村を対象に、3月30日~4月2日に50地点、4月18日~19日に128地点で計測器を載せた車を走らせて測った。

(中略)

 文科省は最初の調査後、結果を公表していなかった。その理由について「調査地点などデータが足りず、混乱を生じる恐れがあると考えた」とした。

実は福島第1原発:警戒区域に高齢者の残留を認めるべきでは?で米国エネルギー省が4月18日に発表した実測データにもとづく図表を引用した際に、日本側にも実測データがあるはずと探したが、目についたのは文科省の「福島第一原子力発電所の20Km以遠のモニタリング結果」で、20キロ圏内のデータは無かった。今回そのデータが公表されたということなので文科省のホームページを開いてみたが、この小文を書いている今、そのデータは見当たらない。「国民のみなさまへ」と呼びかけておりながら、まずはマスメディアに対してのみ公表したとしか考えられない。この時代にそぐわない姿勢を即刻改めて、基本データはマスメディアと一般国民を問わず同時に公表すべきである。

文科省の下手な言い訳はともかく、もともと20キロ圏内でも毎日データ収集を行い、その結果を国民にただちに公表すべきなのである。しかし現状では朝日の記事に従わざるをえない。いずれにせよこれらのデータにより福島第1原発:警戒区域に高齢者の残留を認めるべきでは?で《最高吸収線量の値が分からない20ミリシーベルトを超える地域以外では、30キロ圏内でも現在の状況が続く限り、放射能にことさら怯えなくてもよさそうである》と述べた最高吸収線量の値が見えてきた。屋外に1日8時間いたと仮定しての年間被曝線量ではあるが、半径3キロあたりに579ミリシーベルトの地点がありこれが最高測定値になっている。10キロ圏内では260ミリシーベルト前後の地点が何カ所も存在する。一方、年間被曝量が20ミリシーベルト以下の地点も存在するが、全般的に10キロ圏以内は日常生活に向いていないと言える。それに加えて、たとえ10~20キロ圏であろうと米国エネルギー省の調査で20ミリシーベルトを超える地域でも、これは第一原発から北西に延びる地帯になるが、日常生活はやはり無理であろう。しかしそれ以外、年間20ミリシーベルトを超えない地域で、もし高齢者が家に残留を希望するのであればそれを認めるべきであると主張したが、それに関連した朝日朝刊の次の記事が目についた。

 放射線医学総合研究所医療被ばく研究プロジェクトリーダーの島田義也さんは「被曝線量が20ミリシーベルト程度だと、がんになるリスクはほとんどない。お年寄りは、被曝によるがんリスクより、避難するストレスの方が健康に与える影響は大きい。線量だけでなく、将来的には社会、経済的、心理的な要因も考慮して、柔軟に対応すべきだ」と話している。

一点を除いてはまったくその通りと同感である。その一点とは、将来的にはではなくて、即刻対応すべきなのである。現場をよく知る地方自治体首長の英断を期待したい。

追記(4月22日)

 福島第一原子力発電所20km圏内の空間放射線量率の測定結果は
http://www.mext.go.jp/a_menu/saigaijohou/syousai/1305283.htm
からアクセス出来た。文科省のホームページから素直にアクセス出来るようにしてほしかった。






福島第1原発:警戒区域に高齢者の残留を認めるべきでは?

2011-04-20 22:23:49 | Weblog

毎日新聞の記事(抜粋)である。

福島第1原発:警戒区域設定表明へ 首相、21日福島入り

 菅直人首相は21日、東日本大震災で被災した福島県を訪れ、同県の佐藤雄平知事と会談する。東京電力福島第1原発から半径20キロ圏内について、立ち入り禁止や退去を命令できる「警戒区域」とする政府方針を直接説明し、地元の協力を求める考えだ。首相は、20キロ圏内の住民が避難している同県郡山、田村両市の避難所も訪問する。

 警戒区域の設定は、福島県が政府に要望していた。枝野幸男官房長官は20日の記者会見で、警戒区域設定について「地元自治体などと検討を進めている」と述べた。

 政府は20キロ圏内の避難住民が、家財などを持ち出すための一時帰宅を認める方向で最終調整中だが、帰宅後に退去を拒む人が出ることを想定し、退去を指示する法的根拠を整えるために警戒区域を設定する方針だ。警戒区域の設定は災害対策基本法に基づいており、退去を拒んだ場合は10万円以下の罰金などが科せられる。枝野氏は会見で、警戒区域設定と一時帰宅について「裏表みたいなところがある」と述べ、一体という認識を示した。
毎日新聞 2011年4月20日 最終更新 20時42分)

一方、次は米国エネルギー省が4月18日に発表した実測データにもとづく図表で、一年間その地域に住み続けたとしてどの程度の放射線量を吸収するかを示したものである(この図表に関してはまた改めて取り上げる)。


線量はレム(rem)で表示されているが、100 rem = 1Svであるので、図表の数値を100で割るとシーベルトになる。年間吸収線量が20ミリシーベルト以上の地域は30キロ圏内ではほぼ4分の1強である。米国内での平均年間吸収線量は6.2ミリシーベルトなので、ほぼその3倍になる。また20ミリシーベルト以上の地域と言ってもこれは24時間中屋外に出ていての値であるから、屋内で多くの時間を過ごすことを考えると、実際の吸収線量はかなり減少するはずである。また米国の原子力発電所で作業する人の年間許容線量は50ミリシーベルトとされている。

このように考えると、最高吸収線量の値が分からない20ミリシーベルトを超える地域以外では、30キロ圏内でも現在の状況が続く限り、放射能にことさら怯えなくてもよさそうである。とは言っても生殖年齢の世代までは杞憂も含めて心配することもあるだろうから、警戒区域と指定された地域に残ることは抵抗があるかも知れない。しかし高齢者は高齢であればあるほど、この程度の放射能に曝された影響を気にすることは無いと言ってもよかろう。したがってもし高齢者が家に残留を希望するのであれば、それを認めるべきであると思う。ライフラインが整っていなければ現実に生活するのは難しいので、最低限は電気と水の供給が欲しいところであるが、知恵を働かせば現実的な対応は可能になるのではないか。高齢者は住み慣れた家で生活を送り、そのことが家族にも安堵感を与えることになるであろう。見方によれば、高齢者が放射能最前線で自分と家族の、そして地域の生活基盤を護る戦士ともなるのである。なんと生き甲斐のあることだろう。そのためにも警戒区域に希望すれば高齢者を残留させる術を積極的に講じるべきであると思う。

東京電力に原子力安全・保安院 ♪あ~~ああ やんなっちゃった

2011-04-18 22:45:49 | Weblog
東京電力が昨日原子炉冷温停止まで6~9カ月との見通しを発表した。要点はasahi.comによると次のようである。

 工程表によると、第1段階(ステップ1)で、確実に原子炉を冷却し、放射性物質の放出を減少に向かわせるのに3カ月程度かかる、とした。第2段階(ステップ2)では、原子炉を100度未満の安定状態に保つ「冷温停止」にし、放射性物質の漏出を大幅に抑えるのに3~6カ月程度かかる、との目標を示した。
(2011年4月17日20時56分)

ところが今日になってこのニュースである。

2号機原子炉建屋、米国製ロボットで調査

 東京電力は18日、福島第一原子力発電所2号機の原子炉建屋に米国製の遠隔操作ロボット「パックボット」を入れ、内部の放射線量などの調査を行ったと発表した。

 同日午後1時40分から約50分間をかけて実施した。

 ロボットは米アイロボット社が提供。東電社員らが映像を確認しながら操作、マジックハンドで建屋入り口の扉を開けて進入した。2号機内部の調査は、燃料棒が完全露出する危機が起きた3月14日以降、約1か月ぶり。東電で放射線量のほか温度や湿度、酸素濃度などの分析を進めている。

 2号機は格納容器の圧力抑制室が損傷しており、東電が公表した事故処理の工程表では、約3か月後をメドに損傷部を密閉する計画。ただ、17日に行った1、3号機原子炉建屋の調査では、それぞれ最高で毎時49ミリ・シーベルト、同57ミリ・シーベルトと、人間の作業が困難になるほどの高い放射線量を測定した。2号機からは高濃度の放射性物質を含む汚染水が漏れ出しており、線量は1、3号機を大幅に上回る可能性があり、測定結果次第では、工程に影響を及ぼすことも考えられる。
(2011年4月18日21時53分 読売新聞)

なんだかおかしい。原子炉建屋内は放射能が高くて人間が入れないので今回始めて米国製の遠隔操縦ロボットを使って、建屋内部の放射能などを測定して人間が入れる環境かどうかを調べることになったはずである。まだ原子炉建屋内部の状況すら把握されていない状態で、どうして上の記事のように、第1段階で確実に原子炉を冷却し、放射性物質の放出を減少に向かわせるのに3カ月程度かかる、なんてことが言えたのだろう。わけが分からない。

燃料棒損傷率にどのような意味が?(4月9日)で次のような意見を述べた。

それにしては30%の損傷率とされた燃料棒の壊れ方が、単に被覆菅が損傷しただけとは考えにくく、燃料棒そのものの溶融を視野に入れざるを得なくなる。確かに《溶融など燃料の状態までを示すものではない》と言われればそれまでであるが、「被覆の剥がれ」と「溶融」を区別出来ない損傷率の数値だけが一人歩きすることが、かえって「溶融」の危険性を覆い隠すことにもなりかねない。

それが今日になって原子力安全・保安院が次のように発表した。

燃料棒の溶融、保安院が初めて認める 内閣府に報告

 福島第一原発1~3号機の核燃料棒は、溶けて形が崩れている、との見方を経済産業省原子力安全・保安院が初めて示した。18日に開かれた内閣府の原子力安全委員会に報告した。保安院はこれまで、燃料棒が損傷した可能性は認めていたが、「溶融している」との見解を公式には明らかにしていなかった。

 保安院は、核燃料の表面を覆っている金属の被覆管が傷つき内部の放射性物質が放出されることを「炉心損傷」、内部の燃料が溶け出して形が崩れると「燃料ペレットの溶融」、溶けた燃料が下に落ちるのを「メルトダウン」とした。

 そのうえで、検出された放射性物質の成分などから、1~3号機とも「燃料ペレットの溶融」が起きていると推測。さらに、制御棒などと一緒に溶けた燃料が落下、下にたまった水で冷やされて再び固まり、水面に露出している、との見方を示した。ただし、どの程度溶けているかは「実際に燃料を取り出すまでは確定しない」とした。

 安全委の代谷誠治委員は「炉内の状況について保安院から話があったのは今日が初めて。報告の頻度を高めてほしい」と苦言を呈した。(小宮山亮磨)
(asahi.com 2011年4月18日21時32分)

私は以前に原子力安全・保安院をでくの坊と称したが、またもやそれを裏付ける事実が現れた。

  ♪あ~~ああ やんなっちゃった  あ~んあああ おどろいた♪

能福寺 平清盛 兵庫大仏

2011-04-17 16:18:04 | Weblog
昨日は父の33回忌法要を兵庫大仏で知られる能福寺で営んだ。自宅への月参りはいつも副住職であるが、昨日は住職が勤めて下さった。父が亡くなったときはまだ副住職で、その後の月参りでは時々お目にかかったものである。30年の年の流れを感じた。

このお寺とは不思議な縁で結ばれた。明治43年生まれの母が通っていた小学校のクラスにお寺の坊さんの息子がおり、長じては大僧正・刀田山鶴林寺住職となった。幼なじみの母とは下の名前で呼び合う仲で、来神のついでに気軽に母を訪ねてこられることもあり、また母も揮毫を表装して大事に飾ったり、戒名を生前に授かっていたりした。この大僧正が比叡山で一緒に学んだのが能福寺の先代住職できわめて親しい仲であったとのことである。そのような縁で、私たちが朝鮮から引き揚げてきて神戸に移り住むようになってから、家の宗旨である天台宗のお寺ということで能福寺を引き合わせていただいたのである。

法要の後しばし雑談に時を過ごしたが、住職によると来年のNHK大河ドラマが「平清盛」ということで、その主役俳優がNHKとやって来たりしていろいろと取材を受けたとのことであった。創建1200年の記念誌「兵庫津 寶積山 能福寺記」の「能福寺の歴史概略」によると、桓武天皇の勅命により唐に留学した伝教大師最澄上人が帰途兵庫の大輪田の泊に上陸したのである。当時の庶民は大師を歓待し堂宇を建立して仏教の教えを乞うたところ、上人は薬師如来の功徳を説き、自作の像を堂に安置して、国に安泰、庶民の幸福を祈願して能福護国密寺と称したとのことである。延暦24(805)年6月のことである。その後いろんな変遷をたどるが、本朝編年録(→本朝通鑑)によると「仁安3(1168)年11月、平清盛於能福寺剃髪入道ス 養和元(1181)年2月4日西八条ニテ薨去、年64 翌日火葬トシ、圓實法眼全骨ヲ福原ニ持チ来タリ能福寺ノ東北ニ埋ム」とあって、平清盛と能福寺との深い繋がりが浮かび上がる。福原遷都の時は信仰心の厚い平家一族が能福寺に帰依したとのことである。

一方、能福寺は兵庫大仏でも知られる。明治24年5月、兵庫の豪商南條荘兵衛が発願して青銅毘廬舎那佛を建立した。その大きさと青銅製であったことから、奈良、鎌倉とともに日本三大佛の一つに数えられ、その開眼法要は天台座主をはじめ真言、浄土、臨済、真宗、曹洞、日蓮、時宗等、各宗管長によって2週間にわたって執行された。私は朝鮮に渡る前の昭和15(1940)年には神戸で幼稚園に通っていたので、この大仏さんにはお目にかかっていることと思う。しかし昭和19年5月には戦時中で金属回収令により取り壊されて供出されてしまった。現在の大仏さんは二代目で平成3年5月に再建されたものである。開眼法要は天台座主をはじめ奈良東大寺管長、鎌倉大仏貫首の臨席のもと執行されて、参詣者が4日間に6万人を数えた。私もその一人に入っている。母が亡くなってこのお寺で葬儀を営んだときは、棺から出た紐を大仏さんの左手で引っ張っていただいていた。迷わず浄土に行けるようにとの趣旨だったのだろうか。

境内には平相国廟(平清盛廟)・平清盛公墓処、ジョセフ・ヒコの能福寺縁起英文碑、神戸事件・滝善三郎正信碑などがある。また兵庫きっての豪商であった北風正造君顕彰碑というのもある。明治維新の折、姫路藩が官軍の攻撃を受けて城下町が戦場になろうとしたときに彼が仲裁に入り、軍需金15万両と引き替えに紛争を解決させて白鷺城を戦火から救い、その後実業界で大成した人物である。この後裔にあたる娘さんと研究室の後輩が縁があって結ばれ栄光教会で結婚式を挙げたときに、私の幼い長男が花びらをまきながら新郎新婦を先導するなんてことがあった。人の繋がりとはほんとうに不思議なものである。

住職と話をしていて認識を新にしたことは、今時感心なことにこのお寺は拝観料のようなものを一切取っていないのである。それだけに公衆便所の水道代がえらい高くつくのでとの住職の言葉には実感がこもっているように感じた。小銭入れに空き缶でも置いておけばよいのに、とは思ったが口には出さなかった。大河ドラマがはじまって観光客がバスでも連ねてくるようになれば大ごとである。どうなることやら、ちょっと心配になった。

久しぶりに一弦琴「住江」を

2011-04-15 10:35:48 | 一弦琴
去る3月、東日本大震災の数日前に甥が結婚式を挙げた。妹はすでに中学生、小学生の母親なのに跡取り息子(古いか!)の彼は四十路の半ばにしてまだ独り身で両親をやきもきさせていた。ところが昨年の敬老の日にかくかくしかじかと両親に打ち明けたそうである。友人の紹介で知り合ったまだ三十路の彼女と二年ほど付き合っていたとか。華々しくすることもあるまいと、親類縁者だけのこぢんまりとしたしかし心温まる結婚式と披露の集いとなった。

私も「父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ夫婦相和シ朋友相信シ恭倹己ヲ持シ博愛衆ニ及ホシ・・」と、国民学校で暗記させられて七十年近く経っても滑らかに口をついて出る教育勅語の一節を祝いの言葉とした。彼の家系は明治の元勲に繋がりがあるので、ついそういう流れになってしまった。若い人にはチンプンカンプンだったかもしれないが、翁にでもなった心地がしたところで、謡曲「高砂」から詞をとった一弦琴「住江」を献じた。こういう席での私の一弦琴初デビューである。