日々是好日

身辺雑記です。今昔あれこれ思い出の記も。ご用とお急ぎでない方はどうぞ・・・。

KEN FOLLETT著「FALL OF GIANTS」の読みはじめ

2011-06-27 18:05:22 | 読書
Amazonに予約していたこの本が、検査入院の二日目に届いたので病室に持って来てもらった。最終が941ページとまさに大作である。登場人物がヨーロッパ7、8国にまたがり、そのリストだけで6ページにもなるので、始終お世話になりそうである。

1911年6月22日、英国王ジョージ五世の戴冠式に日に、ウエールズの炭鉱町では13歳の少年Billy
Williamsが始めて炭鉱の底まで下りて仕事を始める。なかの良い友達と一緒であったが、下に降りると別れ別れになり、彼は一人だけ他には誰もいない作業場に連れてこられる。仕事は下に溜まった炭くずをトロッコにシャベルで積み込むことらしい。その指示を与え、そこまで彼を連れて来た監督がBillyのオイルランプを見て、これはまずいと言って自分のランプと取り替えて戻って行った。ところがこのランプの炎がやがて細くなりついに消えてしまい一寸先もわからない暗闇になった。

そこから彼の前向きの闘いが始まる。ここで弱音を吐くわけにはいかない。テストのような気がするからである。手探りでトロッコの有り場所を探し、効果的な作業方を工夫して知っている限りの聖歌を歌ってリズムを取りながら仕事を全くの暗闇で続けた。母親の作ってくれた弁当に紅茶をも暗闇ながら食べ物を狙ってやってくるネズミを追っ払いながらなんとか食べ終える。長時間暗闇に一人で閉じ込められた恐怖と戦う力となったのは、母親のいつもJesusが一緒にいて下さるとの言葉であった。そして、ついに丸一日の仕事が終わる頃になって、監督が迎えにきた。

地上へ上がるカゴで一緒になった仕事仲間が詮索気味に顔を見る。新人を暗闇に一人残すのはやはりある種の歓迎儀式のようなものであった。しかし普通はせいぜい短時間で、彼のように丸一日のというのは全くの例外で、彼の家族にある含みを持つ監督の嫌がらせでもあったのである。しかし彼の頑張りに皆が心を打たれて、どうしてそのように頑張れたのかと聞く。Jesusと一緒にいるからとこたえたことからそれ以来彼はBilly-with-Jesusと呼ばれるようになった。

これが序曲でそしていよいよ物語が始まる。展開が楽しみであるが、Billyの極限の状況よりも私の今の状態の方がまだましかなと思ったりする。ちょっとしたことでも心の励みになるのが嬉しい。

前原誠司外相と高坂節三著「昭和の宿命を見つめる眼」

2011-03-06 12:54:03 | 読書
今朝の朝日新聞第一面は「前原外相、辞任を示唆 外国人献金 首相、慰留の構え」であった。前原外相と言えば民主党代表であった2006年、いわゆる偽メール事件で代表辞任を経験した人である。政界で足をすくわれることの恐ろしさを身を以て体験し、何かを学んだことであろうと思っていたのに、またもや在日外国人からの政治献金を巡って国会で追求される羽目になった。この事態を招いたということだけで政治家としての資質が疑われても仕方があるまい。もう一度最初から出直した方がよい。地元京都の達磨寺(法輪寺)で「七転び八起き」のエネルギーを授けて貰へばいかがだろう。

この前原外相と関連して朝日朝刊の社会面二カ所に高坂節三氏の名前が登場していた。この記事二つを並べてみるとどのようなお方なのかが分かる。



実は私はこの方の次の本を読んでとても感銘を受けた覚えがある。2000年12月にPHP研究所から出版されたもので、1996年に亡くなった兄の高坂正堯氏のことに触れて「はしがき」に次のような一文がある。この本のあらましがお分かりいただけよう。


 兄が第一線を引退したら書きたかったというわれわれの生きてきた時代、「昭和」の時代も、だんだん遠くになって来、その中で当然ふれてくれたであろう父の生き方、大東亜戦争の意味等を身近に教えてくれる人もほとんど居られなくなり、私自身も兄の年齢を超え、父の亡くなった年に近づこうとしている。
 兄は生前、父の仕事を含め、家庭的なことをあまり発言しなかったこともあり、何人かの兄の知人から、父と兄のことについて書き残してはとのお誘いを受けた。
 実業界に身を置く私がどれだけ父や兄の考えを捉えられるか、もとより自信などがあろうはずがない。しかし、父と兄への旅として、そして自分自身を見つめ直す旅として、父や兄の書き物、そして父や兄との会話を想い起こしてまとめてみたものである。

何を思ってか20カ所以上に付箋を残しているが、たとえばこのようなくだりがある。

 父に的確なアドバイスを与えたように、西田幾多郎が的を射た助言で若き哲学徒を教導したというエピソードは、実はけっして珍しい話では無い。綺羅星のごとき西田門下生たちが、それぞれの著書でそれぞれに書き記していることである。これは西田幾多郎が類いまれなる教育者であり、同時に子弟に対してきめ細かな愛情を注ぐ人柄であったからこそできたことであろう。
 当然のことながら、弟子たちの師に対する畏敬の念はいやがおうにも深まっていく。後年、”京都学派”と呼ばれる一大学脈が形成されるのは、子弟にきめ細かな愛情を注ぐ西田の人柄と、人間としての包容力の大きさを抜きにしては考えられないことである。(55ページ)

父とは西田門下の高坂正顕氏のことである。

 これについて父は『西田幾多郎と和辻哲郎』のなかでこう書いている。
<先生(西田幾多郎・筆者注)には人を見る明があった。また大学の人事などについては実に慎重であった。(中略)講師からそのまま助教授に昇進させるようなことはなく、一度は外に出し、言わば他流試合をさせた上で、京都に帰って貰うのが普通であった。大学教授の位置というものは、あくまで公のものであり、私すべきものではないという考えがその根柢にあったのだと思う>と。(92ページ)

人事の話が後にも出てくる。

 昭和三十二年(一九五七年)三月、兄・正堯と京都大学法学部を卒業した。ふつうなら大学院に進み、その後に講師あるいは助手になることから始まるのであるのだが、兄の場合は学部卒業と同時にいきなり助手として採用され、二年後には早くも助教授になったしまうのである。
 なぜ、そういうふうになったのかといえば、戦後の日本は国際化が一つの国家目標になった。そこで東京大学法学部に国際政治科がが創設されたが、同じ学科を京都大学にもつくろうという話が持ち上がった。そして、とりあえず教授については田岡教授が兼任で務めることで昭和三十四年、法学部のなかに国際政治学科が新設された。
 そうなると、では助教授をどうするかという話になる。このとき白羽の矢が立ったのが兄・正堯だった。非常に運がよかったのである。田岡先生は父に「教授になるのに少し時間がかかるだろうが辛抱してくれ」と話したそうである。

今の人から見るとあれっと思うようなことも書かれているが、ふるきよき時代の一端が顔をのぞかせていると寛容に受け取って頂きたいものである。

その翌年(昭和三十五年)から正堯氏はハーバード大学に二年間留学し、帰国後「中央公論」昭和三十八年一月号の巻頭論文「現実主義者の平和論」で論壇に華々しく登場したのである。昭和四十三年に刊行された『宰相吉田茂』が一つの切っ掛けになって、正堯氏が大磯の吉田邸に招かれて5時間も吉田茂と話し込むほど気に入られたという話が出てくる。それが佐藤内閣のブレーンとしての活動に繋がった。高坂正堯氏の教え子である前原外相の淵源がこのような歴史の流れのなかにあるのかと思うと、師とくらぶべきもないが前原外相に人間としての重みを感じられないのが残念である。ぜひ修養を深めていただきたいものである。

高坂節三氏のこの本は、氏の身についた哲学談義に私は啓発されることが多かった。図書館には備えられているだろうから昔を懐かしむ人にはもちろん、学問と生きた政治の世界とのかかわりに関心を持つ若い人々にも一読をお勧めする。




岩田健太郎著『「患者様」が医療を壊す』あれこれ

2011-02-21 18:55:46 | 読書

タイトルが面白そうだったので本屋で見たときには中身も見ずに買い、この週末に読み上げた。著者の意見に頷くところが多いが、饒舌というのだろうか言葉数が無闇に多くて読むのに少々疲れた。さらに言えば、矛盾するようであるが、読みやすくて結構分かりにくいという印象を持った。この本を読んでも、なぜ『「患者様」が医療を壊す』のか、私には結局分からなかったのもそのせいなのかも知れない。

著者は医科大学を1997年に卒業して医者になり、海を渡って沖縄の県立病院で研修を受けてさらにアメリカに行き、ニューヨーク市の病院で3年間内科のトレーニングを受けた上に、感染症専門医になるために2年間の研鑽を重ねた。北京インターナショナルSOSクリニックや亀田総合病院勤務を経て2008年に神戸大学大学院医学研究科教授に就任、神戸大学医学部付属病院感染症内科診療科長とのことである。なかなかユニークな経歴である上に、医学部卒業後10年ほどで臨床の教授とはこれまた異例であろう。

それはともかく、臨床家として患者に接する日常体験に基づいて感じたこと、考えたことを話としてまとめているので難しい専門語が飛び出るわけでもなく、その意味では読みやすいのである。ところが喋りまくる。「患者か、患者様か」(23ページ)で、なぜ「患者様」が医療を壊すことになるのか、その手がかりがあるのかなと思って読んでも、岩田節?が炸裂しっぱなしで、話がなかなか先に進まない。そしてカタカナ語が気になる。この「患者か、患者様か」の小節にも「ポリティカリーにコレクトなボキャブラリー」なんて出てくるかと思うと、その続きの節は見出しそのものが「レトリックではなくダイアレクティク」とカタカナ表現になっている。これはやばいなと思っていると案の定「ルサンチマン」なんて、見たことはあるようだが私自身知らない言葉が出てきた。使ったことがないので(恥ずかしながら)意味が分からない。新明解には出てこないので広辞苑(第五版)を見ると、《①ニーチェの用語。弱者が強者に対する憎悪や復讐心を鬱積させていること。奴隷道徳の源泉であるとされる。》なんて出てきて、なるほど、私が知らなかったわけだと始めて納得する始末である。こういう調子でなにやかや引っかかる上に話があれもこれもと続くのでポイントがハッキリせず、だから分かりにくいのである。長々と書き連ねるのは誰でも出来る。推敲を重ねてピリッと引き締まった形にするには、現役の診療科の教授であるがゆえの時間不足だったのであろうと納得することにした。

ところで患者様ではなく患者が医者と良好な関係にあると、病気そのものもよくなるという話が出てくる。ではどのようにして良好な関係が生まれるかといえば、自分の主治医を心から信じればよいのである。そしてここに著者のひねりが入る。

主治医を信じるという「フィクション」に身を任せればよいのです。つまり、患者さんの方も心の底では、これはファンタジーだよ、とこっそり感じ取っていればよいのです。(47ページ)

またこうもいう。

 病院に来たら、そこには適切なファンタジーの手順というものがあるのです。それはヴァーチャルなものではありますが、有効な医者患者関係を築く上ではとても役に立つのです。それが、お医者さん「ごっこ」です。
 あなたの主治医は偉大です。あなたが心の底から信頼し、尊敬しても良いのです。
 というファンタジー。(49ページ)

そして「ごっこ」だから医者の方も適切に振る舞うことが期待される。

 患者さんは、「この先生についていきたいわ」と敬意を持ってついていくのが、「適切な振る舞い」です。それに応じる医者も「適切に」振る舞う必要があります。これが「お医者さんごっこ」というゲームのルールです。あるファンタジーを振る舞うという行為(ゲーム)には当然両者に了解されるルールが必要なのです。(53ページ)

この提案、間違っているとは思わない。しかしこの種の心理劇を演じるには患者・医者の双方がかなりの名優でないと終わりまで芝居がもたないのではなかろうか。医学生に患者と医者のロールプレイ(カタカナで失礼)を演じさせるのならともかく、そういう「演技」を普通の患者に期待するのは高望みではなかろうか。もっともルサンチマンなんて言葉をすらっといえるような知識人患者は別であろうが。そしてこんな話も出てくる。

 率直に言って、僕にとっての患者さんよりも自分の家族の方が大切です。患者さんの生活よりも自分の生活の方が大切です。(中略)僕は自分の家族のほうが、患者さんやその家族よりも大切、という世界観で生きています。(89ページ)

まったくその通り。でもそれは言わずもがなのことではないのか。八百長相撲の電子メールが出てきたようなものである。これでは患者が医者に抱きかけた「お医者さんごっこ」のファンタジーがペシャンコになってしまう。ファンタジーを持って貰わないといけないが、あまり美化されては迷惑なんだ、なんてことさら言わなくても誰にでも分かっていることではないか。先生とこ一家でエーゲ海クルーズに出かけてお休みなんだって、で文句をいう患者なんていないだろうに。実はこの部分、本では違う文脈で語られているのであるが、患者にファンタジーを抱かせればそれで十分と私が勝手に単純化したので、著者の言い分については本文に当たって頂きたい。

ところでこの本、臨床医を目指す医学部受験生が読めばいいのにと思った。たとえばこれからの医療のあり方について的確な意見が述べられている。これをやってのけるスーパードクターが社会で活躍するようになれば、医療現場がますます活気を帯びたものになっていくことだろう。

 いずれにしても、医療において「絶対的に」正しい行為や判断というものはだんだん減ってきており、「何が正しいか」という問いに対する簡単な答えは見つけにくくなっています。そこで、医療の現場を「正しい行為を行う場」というよりは「患者さんと価値観の交換を行う場」として機能させたほうがより健全なのではと思います。寿命を重視する人、仕事を重視する人、家族を重視する人、趣味を重視する人、それぞれの価値観に報じて「適切な」医療のあり方は異なってくるでしょう。(192ページ)

それでふと思ったが、この著者の岩田先生、一人ひとりの患者を診るのもよいが、厚生労働省で医療制度改革を積極的に推し進めていく役割を担われるのはいかがなものだろう。停年を迎える頃、この医療制度は僕が作ったんだ、と胸を張って言えるのも格好が良さそう。



MARUZEN & ジュンク堂書店梅田店の在庫にない本

2011-02-18 20:38:45 | 読書
今日の朝日朝刊経済面に米国で約670店を抱える書店チェーン第2位のボーダーズ・グループが16日に倒産したとの記事があった。


ピークの2005年には1200店を超えていたが、米アマゾンのネット販売が広がるのと軌を一にして売上高が下降線をたどり、07年度にはボーダーズの売上高とアマゾンの北米での書籍などの販売額が逆転し、06年度からは赤字が続いていたそうである。

このニュースに、一昨日、MARUZEN&ジュンク堂書店梅田店で感じたあることを思いだした。この店舗は地下1階から7階までのフロアを占めるが、レジカウンターがあるのは1階だけである。すべての買い物客がこのカウンター前に一列で順番に並び、窓口が空くとそこに赴き、精算を済ませることになるのだが、私が並んだときの行列はせいぜい数人であった。窓口は5カ所以上あったせいか待ち行列の動きが早く、行列もほとんどないような状態でた。開店当日の賑わいとは大違いで、全館の買い物客がたったこれだけで果たして商売が成り立つのだろうかと気になったのである。そこでちょっとこんな計算をしてみた。

私が精算を済ませたのは午後3時半頃であったが、待ち行列から大体30秒間隔で一人の客が空いた窓口に向かっていたように思う。これを平均値とすると1分間に2人で1時間に120人。午前10時の開店から午後10時の閉店までに1440人となる。もし1人平均3000円買ったとすると、1日の売上高が432万円になる。年間営業日が360日なら総売上高は15億円強となる。一方(株)ジュンク堂書店の売上高推移を見ると、2008年が406億円、2009年が422億円、2010年が446億円と順調に増加しており慶賀にたえないが、全国にジュンク堂書店が30店舗以上あるとしても、旗艦店であるこの店の年間売り上げは15億円とは淋しい。もっと上回って欲しい気がする。もちろん店側には正確なデータがあるわけだから、ご心配ご無用と言われることを期待しよう。

私のような昔人間は、本はやはり本屋で手に取ってみるものなのである。ネット販売がいくら便利になっても自分の目で内容も確かめ納得のうえ買いたいものである。ところがこのMARUZEN & ジュンク堂書店梅田店で、ちょっとどうかと思うことがあった。本日開店 MARUZEN & ジュンク堂書店 梅田店へお出かけに書いたことであるが、この開店日に私は平凡社が発行したばかりの東洋文庫「訓民正音」を購入しようとした。ところが売り場にはなかったので店員さんに聞いたところ調べてくれて、「開店準備に取り紛れてまだ入荷していない」との返事が戻ってきた。ところが開店後50日以上経った一昨日もこの本が見当たらない。検索したところ、次のようなメッセージが返ってきた。


ここにもあるように昨年11月に発行された本である。しかも東洋文庫と言えば学術的ににも評価の高い作品を刊行していることでよく知られており、私に言わせると決してマイナーのものではない。それなのに新刊書が棚にも在庫にもないのには失望してしまった。取り寄せを依頼するよりは直接ネットで注文するほうが手っ取り早いので、帰宅早々アマゾンに発注した。ネット購入では確かに本を手にとって見ることが出来ない。しかし今やネット上でも目次とか最初の何ページかは閲覧可能である。これが訓民正音のページである。これを見たものだから私は即注文してしまったという次第である。

このMARUZEN&ジュンク堂書店梅田店は、「在庫数200万冊という品ぞろえは、これ以上広ければ陳列する本がないという規模の売り場面積です。日本中の出版社に出品を依頼して、この店に置いていなければ出版社にも在庫がないという品ぞろえを目指しました」をうたい文句にしているが、今は道半ばである。その実現にぜひ一層の努力を傾けて、今はせめて月に一度は神戸から訪れたいと思っているその回数を、もっと増やしたくなるような気分にさせて欲しいものである。


砂古口早苗著「ブギの女王・笠置シズ子」 今年も笑ってラッキー・カムカム!

2011-01-05 20:10:37 | 読書


新聞の書評でこの本のことを知り、さっそく本屋に出向いて一冊だけ残っているのを手に入れた。大正の始めに生まれた笠置シズ子(本名 亀井静子)は私の20歳年長で、歌手として彼女が活躍した時期は私の誕生から大学卒業までの時期とちょうど重なる。「東京ブギウギ」、「ジャングルブギ」、「ヘイヘイブギー」に「買い物ブギー」など、ラジオを通じてだと思うが、当時の歌手の歌い方とはてんで違ったパンチの効いた歌に魅了されて、いつの間にか覚えてしまった。しかし彼女の舞台姿をテレビ時代になってからも見たことはなく、私には「家族そろって歌合戦」の審査員としての印象だけが残っている。歌手を引退したからにはたとえ懐メロ番組にも登場しないという頑固さが知れ渡っていたが、この本では彼女の筋を通した生き方が子細に紹介されていて彼女の人柄に魅せられてしまった。

静子出生の翌年に父が病死し、母の乳の出が悪くて添え乳を頼んだのが縁になり、その「乳母」に貰われることになった。この養父母に対して後年静子がいかに孝養を尽くしたかが次のように語られている。1939年7月の松竹楽劇団(SGD)公演「グリーン・シャドウ」に出ていた頃である。

 この時期、SGDから支給される笠置の月給は二百円で、当時の若い女性がもらう給料としてはかなり高額だった。だがこの中から百五十円を大阪の両親に仕送りし、二十円を寄宿している山口宅に支払い、残りの三十円で衣服その他を賄ったのだから、笠置がいかに親孝行な娘だったかがわかる。

著者の砂古口さんは丹念に多くの資料に当たり、笠置シズ子の一代記を綿密に築きあげているので、気は焦れども読み飛ばすわけにはいかない。そのうえ砂古口さんの執筆姿勢の芯にあるものが諸処で私の共感を掻きたてるものだから、ますますじっくりと読み込むことになる。たとえば「買い物ブギー」の歌詞を巡っての話である。

 「買い物ブギー」は不幸なことに、発表当時は大ヒットしたにもかかわらず、突然ある時期から歌われなくなったり、歌詞のある部分が削除されてしまうのである。恐らく誰もが知っているように、歌詞の中に「つんぼ」という言葉が出てくる。
 「オッサンオッサンオッサンオッサンーー わしゃつんぼで聞こえまへん」
 実は、歌はこれで終わるのではない。映画ではこの後、ぺ子ちゃんは向かいのおばあさんの店に行く。
 「そんなら向かいのおばあさん、わて忙しゅうてかないまへんので、ちょっとこれだけおくんなはれ 書き付け渡せばおばあさん これまためくらで読めません 手探り半分なにしまひょ」

そしてこう続く。

「つんぼ」や「めくら」は、現代では障害者差別用語とされている。私もそうした言葉を使うのは適切ではないと思う。だが少なくとも一九五〇年当時の社会はそうではなかった。文学や映画も同様で、特に流行歌は時代を映す鏡だ。歌詞に、今でいう差別用語が使われた流行歌は何も「買い物ブギー」だけではない。現在でも不適切な言葉とされているもので、他に”おし””びっこ””みなし子””土方””流れもの””屑屋”などがある。

このような指摘をした上で著者は

 かって人々は、今日では差別用語とされる言葉を日常的に用いてきたが、こう考えることもできる。私が子どもの頃、耳の遠い老人や目の見えない人は身近にいた。少なくとも昭和二十年代、昭和三十年代当時はさまざまなハンディーを背負った人々が私たちの周りにいて、普通に生活していたのだ。確かに彼らは不当な差別を受けたかもしれない。だた、健常者も障害者もともに助け合って生きてきた時代であった。そういう意味では、当時は現代よりももっと共生社会だったのかもしれない。

まったく同感である。だから

 差別の実態を隠し、黙認したまま単なる”言葉狩り”でよしとすることこそ不適切で居心地の悪い社会だと私は思う。

 「買い物ブギー」は今聞いても実に楽しい歌だ。私が願うのは、現在の歌手が歌い継ぐ場合は別として、笠置が歌うCDの「買い物ブギー」を、映画で歌われたものと同じフルバージョンで完全に復活させてもらいたいし、映画『ペ子ちゃんとデン助』もぜひノーカットでリバイバル上映して欲しい。

まったくその通り。そして過去の事実を忠実に現代に甦らすノンフィクションライターとしての著者の信念に裏付けされた真摯な姿勢に敬意をいだき、ますます物語に引きつけられていく。

少し横道に逸れたが肝腎の笠置シズ子である。彼女の人間性の襞に触れるにはこの本を熟読玩味するしかないのであるが、なるほどと私が感じたエピソードを二つほど取り上げてみる。一つは昨年暮れに亡くなった高峰秀子との交流である。高峰は笠置より十歳年下で映画『銀座カンカン娘』で共演もしているが、その自伝『私の渡世日記』を引用しつつ次のように述べている。

「彼女は全身全霊を動員して、ステージせましと歌いまくり、観客をっしっかり捕らえて放さない。笠置シズ子は歌そのものであった」(中略)
高峰は笠置のことを、「あけっぴろげな人のよさ」と「律儀でガンコ」を併せ持つと分析するが、これは高峰自身にもいえるのではないだろうか。
 「そのガンコさが、ある日、ある時、あれほどの歌唱力を惜しげなく断ち切り、歌謡界からキッパリと足を洗わせてしまったのだろう。ファンとしては哀しいことだが、小気味のいいほど見事な引退ぶりでもあった。見習いたいものである」
 高峰は笠置をこう評し、やがて五十五歳で自らも”小気味いい”引退を果たした。笠置を見倣ったのだろうか。

十分納得出来る話である。この二人が一緒に出てくるシーンをYouTubeで見ることができる。


田中角栄とはつぎのように遭遇した。

 時期は一九七〇年代後半で、番組の地方収録のとき偶然、新潟発の飛行機内で田中角栄と会う。笠置と田中は互いに一面識もない相手だが、むろん、双方とも相手が誰だかはわかっている。(中略)その田中が笠置に「いやあ、笠置さん」といかにも親しそうに言いながら手を差し出した。だが笠置はプイと、そっぽをむいたまま。そのとき田中がどんな表情をしたかはわからない。出した手を引っ込めて、憮然として立ち去ったのだろうか。笠置は飛行機を降りてから同乗者にこう言った。
 「あんな政治家がいるから日本が悪くなるのや」
 すごい。こんなことはなかなか言えない。生真面目でモラリストの笠置にとって、権力を手にする者が賄賂を取るなどはもってのほか、政治家としてあるまじき行為なのだ。田中角栄もまた笠置同様、義理人情に厚い苦労人だったが、笠置は情緒に流されることなくものごとを合理的に判断でき、毅然としたところがあった。それにしても握手ぐらいしてもいいのに・・・・・と思う人は、笠置シズ子の性格を知らない人である。

いやあ、すごいおばちゃん。惚れ惚れとしてしまう。

ところがこの笠置シズ子、実は「シングルマザー」なのである。そのいきさつとか、三島由紀夫がどれほど笠置への片思いを縷々と語ったか、引用し始めるとキリがないしそれでは著者に義理を欠くことになるので、興味のあるお方はぜひ本書を繙いていただきたい。絶対損はしない。

笠置シズ子の「昔から笑う門にはラッキー・カムカム」でしられる「ヘイヘイブギー」を、「大虎姫」というグループが演じているのをYouTubeで見つけた。なかなか楽しい。「東京ブギウギ」に続いて出てくる。さあ、今年も笑ってラッキー・カムカム!



本日開店 MARUZEN & ジュンク堂書店 梅田店へお出かけ

2010-12-22 22:23:48 | 読書
朝刊に「丸善・ジュンク堂 梅田に共同出店」の記事が出ていた。22日の今日、大阪・梅田に売り場面積が日本最大となる書店を開業するというのである。そしてページをめくっていると「本日午前10時 OPEN」を告げる全面広告が現れた。「在庫数200万冊という品ぞろえは、これ以上広ければ陳列する本がないという規模の売り場面積です。日本中の出版社に出品を依頼して、この店に置いていなければ出版社にも在庫がないという品ぞろえを目指しました」そうである。その上、「洋書についても専門書2万冊、一般書5万冊という幅広い品ぞろえです。提携している丸善の永い歴史と経験をいかし豊富な知恵と経験を借りながら選書・店創りにのぞみました」とあっては、何はさておいても駆けつけなければならない、とばかり午前中に家を出た。

地図で予め見当をつけていたので、阪急梅田駅の茶屋町口から外に出て東のように向かう。それらしきビルは目に入らないけれど、書店のものらしい紙袋を提げた人と行き違ったのでさらに先に進むと書店の入り口が目に入ってきた。


「MARUZEN & JUNKUDO」とMARUZENが先に出てくる。丸善のほうが遙かに老舗だからなんだろうか。入り口で貰ったB1から7Fまでの「フロア案内」が良くできていて、たとえば2Fの文庫・新書・文藝のフロアで、何々文庫がどの書棚にあるかが分かりやすい。


1Fは雑誌、新刊・話題書のフロアで、新聞広告などに出ていた本をすぐに見つけ出せそうである。スペースがあるせいであろう、書棚に単行本と、もし出ておれば文庫本も一緒に置かれているのが便利に思えた。下の写真は村上春樹のコーナーであるが、わざわざ文庫本を探しにいかなくてもここで用が足せるのが有難い。ただ上から二段目の「ノルウエイの森」の単行本のように、表紙をこちらに向けていると分かりやすくて良いのだが、本を何冊も棚の際まで並べているものだから、ちょっと手が触れただけで下に落ちたりする。本が沢山あるのは分かっているから、棚からはみ出るように並べるのは止めてほしいものである。ミスであれ本を落とした当人は気まずい思いをする。経験者が語ることだから間違いはない。


5Fの芸術のフロアでは楽譜が充実しているのに感心した。輸入楽譜はいざ知らず、一般の愛好者には十分な品ぞろえである。すくなくとも国内で出版された楽譜に関する限り、ここに来れば間に合うのではなかろうか。それに嬉しかったのが6Fの洋書コーナーである。一昔前、東京・日本橋の丸善での品揃えを思い出した。Amazonもよいがやはり実物を手にとって中身に目を通す感覚は格別である。いろんなシリーズのCLASSICSも豊富で、Cloth-boundのEveryman’s Libraryが揃っているのには郷愁を覚えた。科学書もかっての京都河原町丸善を上回るような規模で揃えられており、「専門書2万冊」を豪語するだけのことはあるように感じた。もっとも私が手を出すことはなさそうである。

出版社がマイナーなせいであろうか、これまで店頭で見かけなかったが面白そうな本を数冊購入したが、そのうちの一冊が小俣和一郎著「精神医学の歴史」(第三文明社 レグルス文庫 252)で、出版は2005年6月15日である。このような本は本棚で見ない限りまず網には引っかかってこない。その意味で200万冊常備書店は貴重な発見の場になりそうで、梅田通いが増えそうである。一方、意外なことがあった。出版されたばかりの平凡社・東洋文庫の「訓民正音」を東洋文庫の棚で探したが見当たらない。係員に尋ねたところ調べてくれたが、開店準備に取り紛れてまだ入荷していないとのことであった(Amazonでは2730円で購入可能)。少々広告の揚げ足取りをしてしまったが、レジで精算すると全部で1万円を少し上回った。以前ジュンク堂で1万円以上の買い物をすればに書いたように店員が青色の布製バッグを取り出し本を入れようとしたが、うまく収まらないので紙袋に詰め直し、律儀にも布製バッグを添えたくれた。帰って出してみたら布製バッグにもすでに「MARUZEN & ジュンク堂書店」のロゴが入っていた。神戸のジュンク堂ではこれ以外にドリンク券をくれるがそれはなく、代わりに?オープン記念とかで出口でレシートを見せたらチーズケーキを三つくれた。


店を出て時計を見て驚いた。すでに3時を回っている。この時間まで食事をせずにまたどこかに腰を下ろすことなく3時間以上店の中を動き回っていたのである。いつもなら行動開始まえに腹ごしらえをするのが私の習いであるのに、食べ物のことが私の頭から消えていたのである。純情可憐な学生時代に戻ったような気分になり、目に飛び込んできた「マクドナルド」の店に入った。



愛原 豊著「篠山本 鼠草紙」が面白そう

2010-12-06 18:17:49 | 読書
三宮センター街ジュンク堂の本棚にこの表紙の本を見てあれっと思った。篠山をぶらぶら 毬栗 古式特技法穴太流穴太衆石垣石積で述べたようについ最近篠山を訪れた際に、篠山市立青山歴史村で展示されているこの「鼠草紙」を目にしたばかりであったからである。

「はじめに―篠山本鼠草紙調査の概要―」から引用すると、

 この絵巻に収められているのは、室町時代の後期から江戸時代の中期にかけて作られた室町物語(お伽草子)の異類婚姻譚に属する短編物語で、その内容を簡単に紹介すると次のようになる。

ということで概要が出ているが、それは想像にお任せするとして、この「鼠草紙」は全体で一軸の大型絵巻で、紙高は36.0センチ、横の長さは約26メートルに達するのである。

著者の愛原さんは小・中・高の教師を務め、退職後に絵巻の研究に入られたようである。この「鼠草紙」については教育委員会の内部資料である全体写真(デジタル画像五十八枚)を資料として調査研究に当たられたとか。画像処理などにも独自の工夫をこらして絵巻原本の再現に取り組まれたのである。

この本は「絵巻の楽しい絵を眺める」(物語の全影印とあらまし・解説)、「絵巻の美しい文字を読む」(詞書き・画中詞の全影印と翻刻)、「篠山本と他の同系伝本とを比較する」の全三部からなっており、第一部の絵巻復刻がなかなか美しく詩情をそそるのが嬉しい。しかし私にとっての圧巻は第二部の詞書きであった。《絵巻の原本のすべての文字が正確に読めるようにと考えて、文字だけの影印を掲載している》のに加えて、原文の横に下に掲げた裏表紙に示されているように翻刻が記されているのである。これが目に入ったものだから私は即、飛びついてしまった。


私は日本人としてせめて漢字仮名まじり文の仮名草子ぐらい、すらすらといかないまでも何とか読み解きたいと昔から思っていた。「日本文学の歴史」全十八巻を上梓したドナルド・キーン氏が、アメリカ人でありながら日本の古典を原文で読みこなしているのに、日本人の自分が出来ないなんて癪ではないかと言う、子どもっぽい動機であるにせよ、である。しかし実際に読み解くにはやはり初歩から指導して貰わなければと思い、なかなか実行に踏み切れなかった。ところが原文の横にその読み方が添えられているこの詞書きを何遍か丁寧に読み返していると、自然に漢字仮名まじり文を読み解けるようになるのではと思った。著者の労を多としつつ、これからのチャレンジが楽しみになりそうである。


海部俊樹著「政治とカネ」を読んで

2010-11-23 23:24:42 | 読書
暴露本というのかゴシップ本というのか、元々このような話が好きなので今日買ってさっそく読み終えた。海部さんには申し訳ないが、海部さんについては誰が言ったのか「Kaifu? Who?」という語呂合わせの言葉を思い出すのが精一杯で、この回顧録を読んで、海部さんが自民党で三木武夫氏の流れを汲む河本派に属しながら、竹下派の支持を支えに内閣総理大臣まで登り詰めた方であったのを再認識した次第である。

まずは政治とお金のゴシップ話である。

 あの頃の自民党総裁選は、大枚が飛び交っていた。その総裁選に二度出馬した河本氏も例外ではなく、誠に恥ずかしい話だが、河本派代貸しの私も各派にカネを運んだのだ。嫌な仕事だったが、「政策を通すための潤滑油、必要悪」と割り切るしかなかった。
 政界では、「立たぬ札束」は端金と言われる。金は、三百万円積んではじめて「立つ」。三光汽船のオーナーだった河本氏は、「立つ金」を議員たちに気前よく配った。が、開票してみれば、あっちも裏切りこっちも裏切り。

1972年、三木氏が三度目の総裁選に挑んで敗れたとき、

クリーンと謳われた三木さんだって、実際には各派に金を配った。使い走りをしたひとりがこの私で、何人もの議員が、私から金を受け取った。受領した人々が約束を守っていれば、三木氏の票はもっと伸びたはずだ。

 一方、野党も野党でひどかった。
 政界には「寝起こし賃」という隠語がある。「寝る」とは、審議を拒否すること。「寝ている」野党を「起こす」ためには、「寝起こし賃」が必要で、私が「賃渡し」を命じられたこともある。相手のメンツもあるから、忘れたふりをして置いてくるなど、賃渡しにはそれなりの芸が必要で、とにかく嫌な仕事だった。

主題の「政治とカネ」のうちの「カネ」にまつわる話はまだまだ出てくるが、ウンザリするのでこの程度に留めておく。「政治」の話もウンザリで今となってはどうでもいいようなことなので、関心のある方はご自分で本を手に取られるとよい。

ところで上に「立つ金」の話が出たついでに、海部さんのこの本をクリントン米国大統領、サッチャー英国首相の回想録と並べて立ててみた。わざわざ「海部俊樹回想録」と銘打っているこの新書本は、取り繕いようのないほど見劣りがする。裾を広げて支えないことには独り立ちが出来ない。戦後でも「佐藤栄作日記」などは全六巻にもまとめられているのに、海部さんのこの本は近頃の日本国総理大臣の軽さを象徴しているようである。ただこの写真で矮小さだけを強調するようになっては申し訳ないので、海部さんを少しフォローしておく。海部さんがサッチャー首相に初めて会ったのは1989年9月に東京で行われた日英首脳会談の時であるが、その時のことがこのサッチャー英国首相の回想録に出ており、それを海部さんは次ぎのように述べている。



 後で、彼女の回想録を読んだら、「(海部首相は)正直な人間であり、私が会ったいく人かの日本の政治家のように口数少なく、内向的な型ではまったくなかった」と書かれていて嬉しかった。

確かにそう書かれている。それに止まらずサッチャーさんはさらに好意的なことを書いているのでそれを引用しておく。

He was strongly pro-western, a man of integrity, and not at all in the somewhat reticent, introverted mould of some Japanese politicians that I met. (中略) I was told that his favourite sayings were: 'politics begins with sincerity' and 'perseverance leads to success.' It seemed an uncontroversial philosophy.

 Mr Kaifu had twice been Education minister and we had something special in common. He spoke eloquently about social issues, in particular the decline of the family and the need to come to terms with the demographic factor of a rapidly ageing population.

いや、こういう話をしていたとは海部さんを少し見直した。



白取春彦編訳「超訳 ニーチェの言葉」 我々を代弁しているようだ

2010-09-19 20:30:16 | 読書
哲学コンプレックスのかたまりである私はとにかく哲学書を避けて通る。と言いながら一方、理解しきれぬものへの憧憬もあってつい中身を覗いてしまうことがある。この本もそうであった。同じ題の本が隣同士に並べられていて、一方は文字の色が下のようで片方はグレイがかっている。どう違うのだろうと思ってつい手に取ってみたが、中身は同じであった。ついでにぱらぱらとめくると、ニーチェの名に怯んでいた私にも素直に理解出来るような文章ばかりが出てくる。嬉しくなって買ってしまった。


一ページに一つの文章が収められていて全部で二百三十二項目になる。ニーチェはこんな途切れ途切れの文章を書いていたのかとふと思ったが、「はしがき」を読んで納得した。このように説明されていたからである。

 ニーチェの名が今なお世界的に知られているのは、彼の洞察力が鋭いからである。急所を突くような鋭い視点、力強い生気、不屈の魂、高みを目指す意志が新しい名文句とも言える短文で発せられるから、多くの人の耳と心に残るのである。
 その特徴は主に短い警句と断章に発揮されている。本書では、それらの中から現代人のためになるものを選別して編纂した。

たとえばこのような文章がある。


まったくその通りである。ここに書かれたことは私の考えそのもので、ふだん気の合う友人とよく話し合っていることなのである。こういう話も出てくる。


これなんぞも私が前々回の小沢古年兵殿の呪縛 野間宏著「真空地帯」からで述べたばかりのことである。そして


なども、実は我々世代の方はとっくにご承知のことなのである。ニーチェは1844年生まれの1900年没だから55歳で亡くなっている。人生経験の蓄積が我々とそう大きく違うわけではなく、我々も自分の頭で考えれば自然と同じ意見が生まれてきても不思議ではない。それについてもニーチェは《自分の意見を持つためには、みずから動いて自分の考えを掘り下げ、言葉にしなければならない(088)》と説いているが、まったく同感出来るではないか。これをニーチェは日常のこととしてきた人であるから、我々が頭を未整理のままくだくだしく述べることのエッセンスをしっかりと把握して、それを簡潔かつ論理的な文章に仕上げているともいえよう。その意味では彼は我々の代弁者でもあり、だからこそ彼の言葉に多くの共感を覚えるのであろう。

なんせこの年になって始めてニーチェの言葉に触れた私である。ここに引用してきた文章がこれまでどのように翻訳されてきたのか比べようもないが、とにかく読みやすい。「超訳」たるゆえんだろうか。それにしても百年以上の隔たりがあるにも係わらず、考えが通じ合えるのが楽しい。そして自分の考えをニーチェの103番と同じであるとか、081番を見てほしいとか言って伝える番号遊びをするのも面白そうである。と考えを楽しんでいたら次のように釘を刺されてしまった。やっぱりニーチェは只者ではなさそうである。


編訳者の白取春彦さん、この文章を読んでどう思ったかしら。


弘化生まれの美女と一つ屋根の下で暮らす話

2010-08-29 11:50:08 | 読書
昨日の読売新聞(静岡版)の記事である。

江戸時代生まれ 次々

県内最高齢111歳超え 数百人

 高齢者の所在不明問題で、県内の最高齢者(111歳)より年齢が上の人が戸籍上は生存しているケースが県内の自治体で相次いで判明した。江戸時代に生まれたことになっている人も次々と見つかり、中には1841年(天保12)生まれの169歳の女性が生きていることになっている例も。海外に移住し戸籍はそのままになっているなどのケースが考えられ、第2次世界大戦を挟んでいることも戸籍上の混乱が生じている一因とみられる。いずれの自治体も、生存しているかどうかを確認したうえで、法務局と協議して戸籍を抹消する手続きを進める方針だ。

■天保生まれ169歳

 全国でこの問題が相次いでいることから、県内自治体も高齢者の戸籍のチェックを進めている。静岡市では26日、戸籍上は120歳以上の「超高齢者」が171人生存していることになっていることが判明した。

 169歳の女性が戸籍上は生存していることになっているのは河津町。同町ではほかにも、1856(安政3)、1857(安政4)、1858(安政5)年生まれの人が1人ずついる。4人を含め、県内最高齢の人を上回る112歳以上の人は29人に上る。
(2010年8月28日 読売新聞)

戸籍上生存している江戸時代生まれの人が次々に見つかったとはなかなか興味深いことで、同じ読売新聞によると、長崎県壱岐市では文化7年(1810年)生まれの200歳男性の戸籍が残っているとのことである。この年には緒方洪庵やフレデリック・ショパンが生まれており、フランスでは皇帝ナポレオン・ボナパルトが在位していた。

上の記事では、生存しているかどうかを確認したうえで戸籍を抹消する手続きを進めることになりそうだが、ちょっと待て、こんな場合はどうなるのだろうと考えてしまった。梶尾真治著「つばき、時跳び」を読んだばかりだったからである。


熊本市の郊外。城下町からもはずれた花岡山の中腹に、「百椿庵(ひゃくちんあん)」と呼ばれる古い屋敷がある。四百坪を超える敷地のほとんどが庭で、七十坪の二階建ての日本家屋がある。ここに三十歳過ぎの主人公が一人で住んでいる。大学卒業後、一般の会社に就職してしばらく勤めたが、その間に趣味で書いていた歴史小説が娯楽小説コンテストの優秀作に入り、それを機会に専業作家の道を選んだというのである。曾祖父が戦後廃屋同然だったこの家を買ったのであるが、肥後椿が庭に無数に植えられており、もともとは細川家の家来の偉い方の隠れ屋敷だったらしいのである。

この家に女の幽霊が出るとの噂がかねてからあった。それまでに目にしたのは女性だったのに、この主人公が一日家に居るお陰でついにこの幽霊にお目にかかったのである。ところがこの幽霊と思われた女性は、同じ屋敷に住みながらある時は江戸時代に、ある時は平成の御世に、時の壁を乗り越えて往き来している存在であったのである。そして主人公もあちらの世界に時跳びする術を会得して、二人して江戸時代の心豊かな生活を共に過ごしているうちに・・・・、となるのであるが、そちらの成り行きは小説にお任せしよう。

この女性、つばきに主人公が「今、何年ですか?時代は」と尋ねると、「今は、元治の甲子(きのえね)だったと思いますが」と返事が戻ってきた。そこでその年を「日本史総合年表」(吉川弘文館)で私なりに調べてみると、元治の甲子は孝明天皇の元治元年(1864)に相当する。また、つばきがまだ独り身であることを、生まれが丙午(ひのえうま)なのでと言っていることから、彼女の生まれたのが弘化の丙午、すなわち孝明天皇の弘化三年(1846)であることが分かる。主人公は十八歳のつばきと出逢ったのである。

このあたりの年号を順番に並べると、文化(1804)、文政(1818)、天保(1830)、弘化(1844)、嘉永(1848)、安政(1854)、万延(1860)、文久(1861)、元治(1864)、慶応(1865)、明治(1868)と続く。だから上の新聞記事にあるような文化八年(1810)年生まれの方は、間違い無く歴史上の人物である。

もしこのような歴史上の人物が戸籍通り生きていて、現代と往き来する術を身につけていたとする。どれくらいの年月を時跳び出来るかはその人の能力次第として、たとえばつばきなら150年を飛ぶことが出来るのである。戸籍上百七十歳の人がその年格好の姿で存在しなくても、時飛びをして二十歳の姿形で今の世に存在している可能性を考えると、所在不明の歴史的人物の生存を否定する場合には、よほどの覚悟を定めて取り組む必要がありそうである。

暑さで頭がどうかなったとは思わないが、このようなこと、ぼんやりと考えて「つばき、時跳び」の余韻を楽しんでいた。