日々是好日

身辺雑記です。今昔あれこれ思い出の記も。ご用とお急ぎでない方はどうぞ・・・。

ぼたん寺のぼたんと一弦琴の「牡丹」

2009-04-29 20:45:38 | 一弦琴
一昨年だったか紅葉の頃に光明寺を訪れたついでにぼたん寺として知られる乙訓寺にも足を伸ばしたが、季節はずれとあって境内は荒涼とした趣であった。その牡丹の季節になったので出かけようと思ったが、先週の土曜日から月曜日にかけて天候が荒れたので家でむずむずしていた。昨日になってようやく朝から晴れ模様だったので、これなら大丈夫と傘を持たずに家を出た。

長岡京市環境協会のイラストマップの説明に「春には奈良の長谷寺から贈られた2株の牡丹が今や2000株を超え、色とりどりの大輪の花を咲かせます」とあったが、文字どおり色とりどりの大輪の花が繚乱と咲き乱れていた。






私が牡丹にこだわったのは理由がある。一弦琴「牡丹」を久しぶりに奏でることにしたからである。しかし牡丹の風情とは比べるべきところまでは道遙かである。

パラパラと雨が降り出した。しばらく雨宿りをしているうちに空が明るくなったのでとりあえず駅の方に戻ることにした。ところが駅前辺りで雨が急に激しく降り出したので、目についたレストランに飛び込み、雨宿りをかねて昼食を摂った。小1時間は経っただろうか、雨上がりを縫って長岡天満宮の霧島ツツジを楽しみ、さらには雨宿りを繰り返しながら勝竜寺公園まで行ったのに残念ながら火曜日が定休日であった。

林真須美被告の頭髪の砒素 ナポレオンの頭髪の砒素 文系法曹で大丈夫?

2009-04-27 17:36:18 | Weblog
1998年7月25日に和歌山園部地区で行われた自治会の夏祭りの会場で、出されたカレーライスを食べた住民67名が急性砒素中毒になり、うち4名が死亡する事件が発生した。そしてカレーの入った鍋に猛毒の亜砒酸を大量に混入したとして殺人と殺人未遂容疑で林眞須美被告が12月9日に再逮捕された。というのもすでに10月4日に別件で逮捕されていたからである。被害者にはまことに痛ましい事件であったが、真須美被告は全面否認したまま一審の和歌山地裁、二審の大阪高裁において死刑判決を受けた。そしてさる4月21日に最高裁判所が「主文 本件上告を棄却する」の判決を下して被告の死刑が確定した。これが和歌山カレー毒物混入事件である。その判決理由で次のように述べられている。

被告人がその犯人であることは,①上記カレーに混入されたものと組成上の特徴を同じくする亜砒酸が,被告人の自宅等から発見されていること,②被告人の頭髪からも高濃度の砒素が検出されており,その付着状況から被告人が亜砒酸等を取り扱っていたと推認できること,③上記夏祭り当日,被告人のみが上記カレーの入った鍋に亜砒酸をひそかに混入する機会を有しており,その際,被告人が調理済みのカレーの入た鍋のふたを開けるなどの不審な挙動をしていたことも目撃されていることなどを総合することによって,合理的な疑いを差し挟む余地のない程度に証明されていると認められる(なお,カレー毒物混入事件の犯行動機が解明されていないことは,被告人が同事件の犯人であるとの認定を左右するものではない。)。

被告は全面否定している上に犯行動機は不明で、状況証拠から上の強調部分(引用者による)のような断定がどうして出来るのだろうと私なりに不思議に思った。そう思って上の判決理由を注意深く読むとどうも素直に納得しがたい箇所が多い。ここではその一例を取り上げてみる。

②被告人の頭髪からも高濃度の砒素が検出されており,その付着状況から被告人が亜砒酸等を取り扱っていたと推認できること

なぜこの箇所がまず目に留まったかと言えば、ナポレオンの頭髪の砒素にまつわる話を思いだしたからである。2001年6月1日のBBCニュースは次のように伝えている。

Napoleon 'may have been poisoned'

New evidence suggests the French emperor, Napoleon Bonaparte, did not die of cancer but was poisoned.
According to two French forensic specialists in Strasbourg, tests on five strands of Napoleon's hair preserved since his death confirm "major exposure to arsenic". (中略)
According to Pascal Kintz, one of the two Strasbourg Forensic Institute's experts, "the level of arsenic found in Napoleon's hair is higher than 7 to 38 times normal amounts and is an unmistakable sign of poisoning". (後略)

残されたナポレオンの五本の髪の毛に通常のレベルの7倍から38倍の砒素が検出されたことから、ナポレオンの死因が砒素中毒によるもので、その裏に英国側のある陰謀があったというのである。これだけでは分析手法もわからないが、新しい技術の応用によって隠された事実が明らかにされた、ということで当時話題になった。ところがこの新説は早くも7年後の昨年、否定されてしまったのである。

2008年7月10日The New York Timesは次のように伝える。

Hair Analysis Deflates Napoleon Poisoning Theories
By WILLIAM J. BROAD
Was Napoleon poisoned?

For decades, scholars and scientists have argued that the exiled dictator, who died in 1821 on the remote island of St. Helena in the South Atlantic, was the victim of arsenic, whether by accident or design.(中略)

But now, a team of scientists at Italy's National Institute of Nuclear Physics in Milan-Bicocca and Pavia has uncovered strong evidence to the contrary. They conducted a detailed analysis of hairs taken from Napoleon’s head at four times in his life ― as a boy in Corsica, during his exile on the island of Elba, the day he died on St. Helena, at age 51, and the day afterward ― and discovered that the arsenic levels underwent no significant rises.

Casting a wide net, the scientists also studied hairs from his son, Napoleon II, and his wife, Empress Josephine. Here, too, they found that the arsenic levels were similar and uniformly high.

The big surprise was that the old levels were roughly 100 times the readings that the scientists obtained for comparison from the hairs of living people.

“The concentrations of arsenic in the hair taken from Napoleon after his death were much higher,” the scientists wrote. But the levels were “quite comparable with that found not only in the hair of the emperor in other periods of his life, but also in those of his son and first wife.”

The results, they added,“undoubtedly reveal a chronic exposure that we believe can be simply attributed to environmental factors, unfortunately no longer easily identifiable, or habits involving food and therapeutics.”(中略)

The scientists measured the arsenic levels with great precision by inserting the hairs into a nuclear reactor in Pavia, near Milan. The resulting activation let the team identify trace elements but did not harm the hairs, some more than two centuries old.

他の記事をも参照するが、ナポレオンの頭髪を小型原子炉を使う中性子放射化法(neutron activation)で分析すると、現代人の毛髪に比べて100倍も高い濃度の砒素が検出されたのである。これだけだと2001年の結果を追認することになるが、実はコルシカでの少年時代、エルバ島流刑時代、セントヘレナ島で死去した日、そして死後の毛髪を同時に分析しており、いずれも砒素が同じように高濃度であることが明らかになったのである。そればかりか、最初の妻ジョセフィーヌや息子のナポレオン二世の毛髪にも同じ高濃度の砒素が検出された。すなわちこの時代の人は、今より高濃度の砒素に曝される環境に置かれていたことが推定されるのであって、ただ高濃度の砒素が検出されたという事実だけでナポレオンの死因が砒素中毒であるとは言えないことになったのである。というわけでナポレオン砒素毒殺説は力を失ったが、真須美被告の場合は頭髪の一部に砒素が付着していたというのがえらい重く見られているのである。

ここで真須美被告の頭髪から検出された砒素について、もう一度最高裁判決からの引用を繰り返す。

②被告人の頭髪からも高濃度の砒素が検出されており,その付着状況から被告人が亜砒酸等を取り扱っていたと推認できること

この文字面からは、「頭髪全体」から高濃度の砒素が検出されており、さらに頭髪内部のみならずその外部(表面)にも付着していた、と解釈できそうである。この「頭髪砒素」について和歌山地裁での判決要旨には次のように述べられている。

真須美の前髪からも砒素を検出し、それが事件発生時に近い時期に付着したものと分かった。

被告人の毛髪からは、通常は検出されない無機のヒ素が検出された。付着が局所的であることから、外部に由来するヒ素が付着したと認められる。

これで見ると砒素が毛髪に付着したと裁判所が判断していることが分かる。

また「甲南大学刑事訴訟法教室OnLine」には

 毛髪中に付着した亜ヒ酸についてはフォトン・ファクトリーで分析している。右前頭部の毛髪からのみヒ素が見つかっている。これについては測定者自身の毛髪にヒ素を付着させ、長期にわたってヒ素が付着し続けるのかについても実験を行い、1度付着すると5ヶ月は残るという結果が報告された。

とあるので、ここでも裁判所では毛髪に砒素が付着したという判断がごく普通になっていたようである。

私は皆さんと同じように、誰もが接することができるこれまでまとめたような情報にもとづいて私の考えを進めている。もし「頭髪砒素」に関してだけでも、鑑定書を含めてすべての記録を調べるとまた違った見解を持つのかもしれないが、現時点で私が疑問に思うことと、なぜ疑問に思う理由を次に列記してみる。

疑問① 真須美被告の「右前頭部の毛髪からのみヒ素が見つかっている」ことについて、ⓐ頭のどの部分から頭髪を採取したのか。ⓑそもそも何故頭髪を採取したのか。

疑問を抱いた理由 事件発生は1998年7月25日で真須美被告が最初に逮捕されたのは1998年10月4日で事件発生後72日目である。頭髪採取が行われたのはもちろん逮捕後であろう。まだ暑い日が続く。その間真須美被告は毎日入浴するなりうシャワーを浴びていることだろう。もちろん洗髪も繰り返しているはずである。体のどこかに砒素が付着していても、すっかり洗い流されていると考えるのが常識であろう。ふつうなら物証蒐集をあきらめるはずである。それにもかかわらず頭髪を採取したのは、警察にも知恵者がいたからかも知れない。真須美被告が砒素に触れているのなら、外部の砒素は洗い流されたにしても、吸収された砒素があれば必ず毛髪に蓄積しているはずである、と。そこで頭髪を採取したとするならそれは一理がある。そうであるならその結果、頭部各所から採取された頭髪内部に同じようなレベルで砒素が検出されてしかるべきではないのか。ところが頭髪内部ではなくて「右前頭部の毛髪からのみヒ素が見つかっている」、それも付着している、と言うのだから、私の科学的常識では理解できないのである。というより何かの作為すら感じる。

「頭髪分析」には専門家も認める数々の問題点がある。

Hair Analysis: Exploring the State of the Scienceは「頭髪分析」に関する科学の現状(2003年現在)をまとめたうえ7人の専門家が意見を交わしたもので、次のように記されている。

For all elements analyzed, no hair standards are certified for laboratories to validate their analytical technique (Seidel et al. 2001). As a result, verification methods and criteria for accuracy are left up to each laboratory (Seidel et al. 2001). Using this information, the panelists discussed a number of significant problems encountered in the laboratory methodology of hair analysis, including:

* Variations in hair sample scalp location and homogenization processes

* Variations in laboratory sample preparation and washing methods

* Variations in laboratory calibration standards, proficiency testing, and quality assurance/quality control (QA/QC) programs

* Unselective analytical approach of multielement analysis, which sacrifices accuracy and/or sensitivity for each specific element

* Intralaboratory variability in results and interpretations

* Interlaboratory variability in reference ranges, results, and interpretation.

「頭髪分析」法の正当な標準規格がないものだから、現状では分析精度をどう決めるとかその検証法が研究室任せになっており、その結果として数々の問題点のあることが指摘されているのである。少し化学を囓った人にはこの指摘が素直に理解されることであろう。なかでも頭皮のどの部分の毛髪を集めるのか、また毛髪のhomogenization processes(実は私には具体的なイメージが湧いてこないのであるが・・・)、さらに毛髪試料の調製法とか洗浄法が研究室で異なることの指摘は注目に値する。だからこそ、同じ研究室で分析を繰り返すだけではなくて、異なる研究室で得られた分析結果の比較検討が重要になる。裁判所に提出された頭髪分析鑑定書にこのような問題点は残されていないのだろうか。「付着」と結論づけた経緯が私の最大の関心事である。

疑問② 和歌山地裁の判決要旨に「真須美の前髪からも砒素を検出し、それが事件発生時に近い時期に付着したものと分かった」とあるが、どのような事実に基づいてこの結論に達したのだろうか。

疑問を抱いた理由 少年時代からのナポレオンの頭髪ではないが、犯行日を挟んで真須美被告の頭髪を採取していて、たまたま犯行当日の夜には砒素が右前頭部の毛髪に付着していたと言う証拠でもあればともかく、かりに右前頭部の毛髪に砒素が付着していたのが事実であっても、それが犯行日の後に付着したものであれば、物証としては犯行に結びつかないのではないか。付着した日時が判断の鍵を握るのに、「事件発生時に近い時期」では犯行日の前なのか後なのか分からない。付着時期を正確に決定してその科学的根拠を同時に示さない限り、状況証拠にもならないのではないか。それを最高裁判決理由では「合理的な疑いを差し挟む余地のない程度に証明されていると認められる」と記している。では私の上の推理のどこが不合理なんだ、と質したくなる。

真須美被告と「カレー毒物混入」を直接結ぶ物証ともなり得る「真須美の前髪からも砒素を検出」について、すでにこれだけの疑問が湧き上がってくる。その流れで見ると、最高裁判決理由のの中にある「①上記カレーに混入されたものと組成上の特徴を同じくする亜砒酸」についても科学上の疑問が数々生じてくる。

私が抱いた、というより科学者なら誰でも抱くはずの、科学上の疑問が一つ一つ明らかにされていたら、当然それは裁判所の判決理由に反映されているはずである。ところがそれが見あたらない。だからこそ私の疑問が生じてくるわけで、その意味では裁判官、検事、弁護士ともども、どうも常識的な科学的思考が不得手なのかな、と思ったりする。質の高い医療に専門医が必要とされるように、質の高い裁判にも文系のみならず理系の専門法曹が必要なのは当たり前のことであるが、私がそうである、と名乗りをあげられる人が現状で何人ぐらいいるのだろう。

最高裁の判決に目を通したばかりに、裁判の質を問題にするような羽目になってしまった。思うだに空恐ろしいのでここで擱筆する。


全裸タレント 小学4年の少女 通報行為

2009-04-25 15:24:02 | Weblog
「スポーツ報知」の記事である。

 人気グループ「SMAP」の草なぎ剛容疑者(34)が23日未明、東京・港区の東京ミッドタウン内の公園で酒に酔って全裸で騒いでいたとして、公然わいせつの疑いで、警視庁赤坂署に現行犯逮捕された。(中略)
 同署によると、逮捕容疑は港区赤坂9丁目の檜町公園で全裸になった疑い。近所の男性から「酔っぱらいが騒いでいる」と通報があり、警官3人が駆けつけると、全裸の草なぎ容疑者が芝生の上であぐらをかいて何かを叫んでいた。警官が「騒ぐな。服を着ろ」と注意すると、「裸だったら何が悪い」と制止を振り切ったため逮捕。手足をばたつかせて激しく抵抗する草なぎ容疑者の体を保護シートです巻き状態にしてパトカーに押し込んだ。(中略)
 逮捕前日は休日で、午後8時ごろから知人の男女2人と近くの居酒屋を2軒はしご。日付をまたいで午前2時20分ごろに現場付近で女性と別れた後に全裸になった。逮捕現場から十数メートル離れたところに、身に着けていたジージャンとジーンズ、財布、携帯電話などがひとまとめに置かれていた。(中略)
 午後4時には逮捕現場近くの自宅に家宅捜索が入り、報道陣が騒然となったが、同署では「全裸になった動機を調べるため」と説明。捜索は約30分で終わり、押収物はなかった。留置場では尿検査も行われたが、薬物反応などはなかったという。同署では24日に東京区検に送検するという。(後略)
(2009年4月24日06時00分)

草なぎ剛さんのことを私は何も知らない。タレントさんらしいが、その後のテレビのハッスルぶりからすると大物タレントのようである。

「騒いでいる」という通報で警官が現場に駆けつけたら、全裸の男がいるものだから、「騒ぎ」から「全裸」に問題が移ったようである。「全裸」でご近所さんに迷惑をかけたわけではないのだから、草なぎ剛さんも警官に言われるままに大人しく服を着ておればそれで済んだことだろうに、警官を相手に争ったのが悪かった。それで「公然わいせつの疑い」で逮捕だから不運なことである。それにしても留置場での尿検査の結果薬物反応もなかったというのに、逮捕後12時間以上もたって自宅に家宅捜査が入ったというのには驚いた。やりすぎである。私がしかるべき立場にあれば、この捜査令状にサインした裁判官を徹底的につるし上げるところだ。

このハプニングは通報者がいて公ごとになったが、一方、次の悲惨な出来事は、通報者の不在をうかがわせる状況であったために起こったようである。YOMIURI ONLINE(読売新聞)の記事である。

聖香さん連日ベランダに閉め出し、1週間目撃される

 大阪市西淀川区の市立佃西小4年、松本聖香(せいか)さん(9)とみられる遺体が奈良市内で発見された事件で、3月下旬に1週間にわたり、連日、自宅マンションのベランダに閉め出されている聖香さんの姿が目撃されていたことがわかった。

 24日の司法解剖の結果、死亡推定時期は、母親の内縁の夫の小林康浩容疑者(38)が「ベランダに放り出していたら死んでいた」と供述した日と合致する4月6日頃と判明。大阪府警は聖香さんが長期間、屋外に放置される虐待を受けるうち、徐々に衰弱して死亡した可能性もあるとみて調べている。

 府警の発表では、司法解剖で脳に硬膜下血腫が見つかったほかは、遺体に目立った外傷はなく、死因は特定できなかった。小林容疑者らは6日夜に遺体を遺棄した、と供述しており、死亡推定時期から、府警は聖香さんが死亡直後に遺棄されたとみている。

 聖香さん宅のベランダでは、カーテンの閉まった窓に向いて立ちつくす女児の姿を、近くの工場で働く男性(24)が目撃。4月以降はベランダの柵部分にすだれがかけられ、女児の姿も見なくなったという。
(2009年4月25日09時27分)

同じく(2009年4月24日14時55分 読売新聞)の記事。

(前略)聖香さんは1月中旬、左ほおのあざに気付いた教諭らに「(小林容疑者らに)たたかれた。ご飯を食べさせてくれず、寝かせてくれないこともある」と説明。学校側が確認すると、美奈容疑者は「聖香はうそをつく癖がある。あざは(何かに)当たっただけ」と述べたという。

 聖香さん宅マンションについては、昨年末から今年3月下旬頃まで、昼夜を問わず、女児の泣き声や男のどなり声、壁をたたく音などが頻繁に聞こえていた、との証言も近隣住民から複数、府警に寄せられている。(後略)

少女が虐待されているのではないかと不審に思った人が周辺に複数いたようである。それなのになぜ警察とかしかるべきところに通報しなかったのだろうか。警察に通報すれば必ず駆けつけてくれるはずである。関わりになることを避けようという気持ちは分からなくはないが、それにしてもこの近隣住民の無気力ぶりは私には理解できない。かって阿呆な女子学生を『阿呆払い』にで記したことであるが、私自身間接的ながら次のような事情で警察に通報したところ、すぐにパトカーが駆けつけてくれたことがある。

もう20数年以上も前のことであるが私が単身赴任時代に住んでいたアパートでも男女学生が大騒ぎしたことがあり、大家さんに連絡して警察を呼んで貰ったことがある。その事件の詳細は後日大家さんから聞いたがまことに奇妙きてれつのものだった。

女性の居住しているアパートの一室に男性が訪れてきて酒盛りを始め、興も高まり草木も眠る丑三つ時に女性が男性に『迫った』そうである。ところが男性の方はアルコールが入りすぎたかでものの役にたたない。それを女性がなじったのが切っ掛けで男性の方も切れて、家財道具をひっくり返し回る大騒ぎになったのである。その物音がただ事でなかったので私が目覚め、その騒音と罵声のすさまじさに怒りを発し警察を呼んだのである。

警官が駆けつけてその男性を引き立てて行った。そうすると女性の方が警官に組み付いてそれを止めようとする。それ自体も見物であったが、大家さんが云う「○○(私の名前)さん、見ておくれやす、あの子(女性)の下、すっぽんぽんでっせ」にはわが目を疑った。なるほどその女性の上半身はパジャマだが下半身は真っ裸である。だからこそ、事件後聞かされた女性が『迫った』のに、という話が素直に私の頭に収まったのである。

あらためてこの箇所を読み返してみると、なんとこの時は下半身すっぽんぽんの女性を警官が目にしているにもかかわらず、女性はお構いなしであったことを思いだした。なぜ同じことをして男性がわいせつで女性がわいせつでないのか分からないが、それはさておき、単に騒ぎ立てているだけではなくて暴力行為が行われているのではないかと疑われる場合は、市民の義務として警察に通報するなど積極的な行動を起こすべきであろう。事件が起こってからの「証言」では屁にもならない。


鶴見俊輔/上坂冬子 「対論・異色昭和史」を読んで

2009-04-23 20:31:26 | 読書
保守派論客と言われる上坂冬子さんが亡くなった。

作家の上坂冬子さん死去
2009.4.17 13:30

 本紙「正論」の執筆メンバーで、近現代史に切り込む著作で知られるノンフィクション作家、上坂冬子(かみさか・ふゆこ、本名・丹羽ヨシコ)さんが14日、東京都内の病院で死去したことが分かった。78歳だった。
(産経ニュース)

そして本屋で見つけたのがこの本で、奥付には2009年5月1日第一版第一刷とある。メーデーに合わせて書店に並ぶはずが、訃報で急遽早まったのだろうか。それはともかく、上坂冬子さんと同世代に属する私は一気に読み上げてしまった。自分の目で物事を見ることに徹している両人のやりとりが私の共感を呼んだのである。興味を引いた箇所をピックアップしてみる。

 父への反発
上坂 父上の鶴見祐輔さんは、子どもの友達にまで挨拶するような愛想のいい方だったんですか。
鶴見 鶴見祐輔は後藤新平の女婿ですから、頭が低い(笑)。彼は一高首席の秀才なんです。後藤新平が一高の校長だった新渡戸稲造に「秀才で、人柄のいい奴はいないか」と尋ねて、推薦されたのが鶴見祐輔だった。そんな経緯があって親父は後藤家の入婿みたいな存在になった。新渡戸がいなきや、私もこの世にいなかったわけです。
(24ページ)

戦後、新制中学生のころ、鶴見祐輔氏の小説を読んだ覚えがある。確か大日本雄弁講談社が出した分厚い本で「母」と「子」だったと思う。その「子」の方だったか、健気な少年が主人公で、父親が銀行破綻の責任を負って自死するが、母親の慈愛に育まれて一高に入学し、剣道部員になって試合に臨む。足の親指の動きの細かな描写が未だに記憶の片隅に残っている。戦後、鶴見祐輔氏はすでに政界を退いていたのだろうか。そして気がつくと鶴見和子とか鶴見俊輔の名前を新聞、雑誌で散見するようになり、鶴見祐輔の子供なんだと思ったことがあった。しかしその著作に目を通すことはなかった。偉い人の子供の書いたものに単純に反発したのだろう。しかし正確に言えば次の一冊だけは読んだ。この時代の世間並みでない環境下の人間模様が面白かったからである。鶴見俊輔の「人脈」も分かってくる。



当時、いわゆる日本の上流階級に身近に接した鶴見俊輔氏と、ノンフィクション作家として取材で生身の人間に接した上坂冬子さんの対論で浮かび上がる昭和を生きた数々の人物像がこの本の骨格となっているとも言える。保守派の上坂氏と跳ねっ返りの鶴見氏の組み合わせがまた面白い。

鶴見 のちに成人した私を京都大学に引っ張ってくれたのば桑原武夫ですけど、京都で私は鬱病になって辞表を持っていった。京大助教授なんてもう耐えられないと思ったからね。桑原さんは、私と親父が縁を切ったことを知っているから、薬代を心配して「君は病気だ。学校にこないで休んで給料だけ取ったらいい」と言ってくれた。
(27ページ)

鶴見氏が京都大学人文科学研究所助教授になったのは戦後の1949年、昔の人事はこのように決まっていたようである。大らかで古き良き時代であった。

 いまならお袋は警察行き
鶴見 私は生まれた時から、お袋に蹴ったり殴ったりされて育てられてきたんです。お袋は後藤新平の娘ということで、彼女自身が毒を飲まされたような心境だったから。大きな家に生まれた子は必ず悪人になるって、まるでプロレタリア小説みたいな思想を持っているんだ。無茶な話だよ本当に。あの育て方がバレたら、いまならたぶんお袋は警察に引っ張られるよ。
(29ページ)

猛女は孟母!

鶴見 (前略)
 日本国内にも一刻な人間はいました。例えば、斎藤隆夫。いったんは議会を放逐されたけど、昭和十五年の翼賛選挙に非翼賛議員として立候補してますからね。
上坂 ええ。しかもトップ当選でしたね。
鶴見 あの時に兵庫で斎藤隆夫を当選させたのは、亡くなったユング系の心理学者で文化庁長官だった河合隼雄の親父たちです。丹波篠山にいてこの戦争はまずいとわかっていたし、そういう根っこがあったから、斎藤は非翼賛でもう一回這い上がることができたんだ。
上坂 河合隼雄さんのお父さんは何をなさる方だったんですか?
鶴見 歯科医。一方、三木武夫はね、金持ちの息子だから親父の金を使って非翼賛で出てくる。その意味では三木にも何かがありますよ。だからいまも三木睦子夫人の「(憲法)九条を守る会」が残っているでしょう。翼賛議会というのは、いまの国会よりずっと立派なんだ。というより、あの頃はいまよりまっとうな人間がいたんです。根性のある人間が。
上坂 有権者も偉かった。国家の方針に沿った大政翼賛会に入らず、入れてもらえないという人をトップ当選させちゃうんだから。
(52ページ)

世襲議員を続々作り出す今の有権者を見よ!
森田健作氏を知事に選んだ千葉県有権者を見よ!

鶴見 ともかく、日本に帰るかどうか決めた根拠は、極めて漠然としているんだ。昭和十七年に交換船で和子と私が日本へ帰ってきてから、四人のきょうだいが揃いましたが、弟と妹は、小学生と中学生だから寝てしまう。女学校なんかは挺身隊の生産を上げることに躍起になっていましたから生徒は軍国主義者。で、親父は議会から帰ってくると弟と妹が寝た後で食堂に残って英語の練習をするんだ。つまり私だちと同じ英語の本を回し読みするんです。自分の発音を直してくれと言うわけ。
 親父は一高で夏目漱石に学んでいますけど、発音は悪いんですよ。例えば、関係や結びつきを表す英語を「コンネクション」と発音する。イギリス人やアメリ力人の発音だったら「コネクション」でしょう。発音上はnは一つしかない。スペルでは二つあるけどね。そういう英語なんですよ。親父が朗読するのを聞いて、こちらが、発音の悪さを指摘すると「ああ、そうか」と言って、だんだんわかってくるわけ。食事が済んだらそれを繰り返すんです。
上坂 それが昭和十七年の話ですか。
(58ページ)

鶴見祐輔氏はさすが教養人。でも隠れてするのがずるい!

同じく戦時中。

鶴見 私にはもっと重要な大変な仕事があったんです。バタビアには海軍武官府の上司がいる。その人のところへ行ったらね、私に部屋を与えて、人が出入りできないようにしろと言う。で、優秀な短波放送のラジオを置いた。夜中にこれを聞いてくれ、朝になったら事務所に出て、敵が読むのと同じ新聞を作ってくれと命令されたわけ。
 ということは、彼は大本営発表を信じていないのね。あんなもので戦争なんかできるわけがないから。私一人でラジオを聞き、原稿を作って朝になると事務所に行って、できた分からタイピストに渡すわけ。私は十六歳で日本を離れているから悪筆なんだ。で、その後も書くそばから彼女が邦文で打って新聞を作る。私自身も大変な労働で、これ以外のことなんてほとんどできない。あんなに働いたことはないなあ。
上坂 面白い役目ですね。
鶴見 面白くないよ。疲れただけ。結局、もういっぺんカリエスになった。海軍流の合理主義で間違いのないようにタイピストが二人つく。その日の午後には新聞ができる。その新聞を海軍のシステムに従って太平洋に散らばったそれぞれの艦隊の司令長官と参謀長と参謀に宛てて送るんです。最新の、日本政府の知らない事実がわかったという意味ではたしかに面白かった。
上坂 さすがは海軍ですね。敵の新聞を訳して送るなんて。
(80ページ)

好奇心旺盛な日本人連綿。それにしても一般国民は低く見られていたものだ。今の北朝鮮国民並みであったことを銘記すべきである。

同じく戦時中の慰安婦のことから慰安婦補償問題の話になり、補償派の鶴見氏に対して対極にある上坂氏。

 慰安婦と被爆者
上坂 私がなぜこんなに意地悪い見方をするかと言うと、原爆の被爆者と比較するからです。「あなたは被爆者だ」という事実認定が厳しいんですよ。初期の頃はここでこう被爆しましたと必死に伝えても、認定を下すためには両親やきょうだいなど、血のつながりのある者以外に二人の証人が必要だと言われていました。偽被爆者を防ぐために必要な手立てだったんでしょうけれど、あの惨禍の中でそういう証人を捜せなんて無理な話です。
鶴見 あんな状況で、証明なんかできるものではない。
上坂 そうなの。なのに申請書を二度も三度も書き直して提出させられました。被爆者手帳をもらうためには、そんな努力が必要だったんですよ。にもかかわらず、慰安婦のほうは「榔子の木の生えたところに連れていかれました」と言うだけで、南方に送られたと認められて補償される。多い人は民間基金で四百万円ぐらいもらっているでしょう。補償金を出しだのを責めるわけではないけれど、被爆者の認定にあれほど厳しくしながら、慰安婦は自己申請だけでいいとされて戦後補償が行われるのが、私には納得がいかないですね。
(87ページ)

私は100%上坂さんの意見に同調。

上坂 日本も知恵がないじゃありませんか。あんな九条を有り難そうに奉って「九条の会」を作って集まっている人までいるんですから(「九条の会」の呼びかけ人は、井上ひさし、梅原猛、大江健三郎、奥平康弘、故・小田実、故・加藤周一、滓地久江、鶴見俊輔、三木睦子の各氏)、鶴見さん以外は私と話が通じそうにない人ばかり(笑)。本当ならサンフランシスコ講和条約の直後に、日本は日本の判断として新しい憲法を作るべきでした。あの時、日本人の判断で九条めいたものを作っていたなら、私も「九条を守れ」と言ったかもしれません。
(114ページ)

ヒアヒア!

上坂 その後、昭和四十七(一九七二)年に横井庄一さんが帰ってきます。鶴見さんは、「恥ずかしながら」帰国したけれど、「天勾践を空しゅうする莫れ」と言った横井さんのほうが、その後ルバング島から帰国した小野田寛郎さんより好きでしょ。
鶴見 よくわかるね。
上坂 鶴見さんのことは、もうだいたいわかるようになりました(笑)。横井さんのは、まさに名台詞でしかね。
鶴見 ああいう人が庶民の中から出てくるんだね。大東亜戦争云々なんて言わないんだ。国家がどうこうじゃないんだね。自分は命令されたからジャングルに龍もった、ただそれだけなんだろうなあ。兵隊として、あるべき態度だったんだろう。それなりに立派じゃない?
上坂 「天勾践を空しゅうする莫れ」には新聞記者が困ったらしいですね。「時に范蠡無きにしも非ず」と聞いて、以前にどんな”判例”があったんだって大騒ぎしたっていうけど。よく覚えてたわね、横井さんも。
鶴見 小学唱歌でしょう。唱歌から覚えたんですよ。漢文を読んだわけじゃない。
上坂 「桜の幹に十字の詩、天勾践を空しゅうする莫れ……」って、哀愁を帯びたメロディーを私はいまも口ずさめます。
鶴見 横井庄一は、あのて囲で孤島の暮らしを耐えたんだろう。
上坂 もとは『大平記』に出てくる児島高徳の話ですね。隠岐に遠流にされた天皇に対して、「天皇よ、どうか希望を失わないでください。故事に知られた范蠡のような忠臣が現れて、きっとお救い申し上げます」というような意味ですよね。こういうふうに先生と私との間では小学唱歌、小学校の国定教科書ですぐに話が通じる。戦後に国定教科書が廃止されて、国民が共通の思い出が持てないってほんと不便です。国民文化の大損害ですよ。教科書の数を増やせば言論の自由が保障されるってもんでもないでしょうに。
(196ページ)

「天勾践を空しゅうする莫れ」と横井さんが言ったことは知らなかった。私もこの歌は完全に宙で歌える。論客二人の意見が合うのもよい。いや、私も。

鶴見 若槻禮次郎です。私は敗戦の時に、伊東にいた若槻禮次郎に手紙を出して会いに行ったことがある。手紙を出しておいたから「ごめんください」と言うと、若槻禮次郎が自分で出てきた。それが裸なんだよ。褌はしてたけど(笑)。広い日本間に上げてくれて「実は私一人しかおりません。家内は夕食の準備に街のほうに行っております」と言う。老妻と彼と、二人だけで住んでいるんだよ。それが何十年か前の日本の総理大臣だったわけだよ。
 それで私が質問して彼が答えるでしょう。当時はテープレコーダーがないから、筆記です。そのはじまりが「私は捨て子です。父の名も母の名も知りません」だったの。どっかで拾われて、それから学校へやられているんだよ。そういう総理大臣がいたんだ。やっぱり感銘を受けたね。
上坂 受けますねえ。
鶴見 本当に驚いた。だからあの頃の総理大臣を見ると、若槻禮次郎や浜口雄幸、このへんはそういうふうにして上がってきた人だちなんだ。ものすごくできて、知恵もある。それが日本の総理大臣というものだった。伊藤博文だってできたでしょう。桂太郎ぐらいまではそうだろうね。だから若槻あたりは敗戦の時まで生きて、最後は天皇のそばにいて敗戦の結果を一緒に受け止めたわけだ。それはもう大変なことですよ。そういう老人の知恵が日本を救ったんです。トルーマンのあの間違った判断があったにもかかわらず。(後略)
(224ページ)

ここに名の上がった総理大臣に一人として世襲議員はいない。それに比べて今の小泉純一郎、安倍晋三、福田康夫、麻生太郎についでに小沢一郎を見よ。ああ、なさけなや、なさけなや。そして、

上坂 私はお葬式をしないつもりです。だって呼ばれるのも嫌ですもの。本人が死んじゃっているんですから、行ったって意味がない。
(中略)
上坂 死んだら燃やしてもらって骨壷に入れればそれでいいんですよ。私はきょうだいに、半年間は世間の誰にも知らせないでくれって言っているの。
鶴見 すごいね。
(233ページ)

どうしたことか上坂さんの逝去は三日後に知れ渡ることになった。ご冥福をお祈りする。最後の謦咳に接するにはぜひこの本を。

第2名神の早期着工要望の理由は?

2009-04-21 12:33:33 | Weblog
asahi.comの記事である。

橋下知事「猪瀬さんと戦う」 第2名神の早期着工要望

2009年4月21日6時45分

 「猪瀬さんと戦う」――。大阪府の橋下徹知事は20日、新名神高速道路(第2名神)の早期着工を河村官房長官や金子国土交通相に要望し、小泉政権時に「新名神無用論」を展開した作家の猪瀬直樹氏と対決する姿勢を示した。地方分権改革で橋下知事と共闘する猪瀬氏は「橋下知事は当時の状況について詳しくないのではないか」と反論している。

 「地方分権ではタッグを組んでいますが、新名神では真っ向から対立します」

 橋下知事はこの日、新名神の建設促進を求める国会議員連盟総会でこうあいさつし、その後、首相官邸と国交省を訪ね、早期着工を求めた。

 名古屋市と神戸市を結ぶ新名神は06年、国交省の国土開発幹線自動車道建設会議(国幹会議)で、大津市―京都府城陽市、同府八幡市―大阪府高槻市の計36キロの建設が見送られた。道路関係4公団民営化推進委員だった猪瀬氏が、名神高速や京滋バイパスが並走していることなどから「不要」と主張した経緯がある。

 橋下知事は「猪瀬さんが命がけで取り組まれ、世間も後押しした経緯もあるが、国土軸を貫く基幹道路ということを説得したい」と報道陣に述べ、近く開かれる国幹会議を前に必要性を訴えていく意向を示した。

 猪瀬氏は朝日新聞の取材に「京滋バイパスは実質的な第2名神高速道路であり、第3名神高速道路をつくる必要はないというのが当時の理解だった」と述べ、新名神は不要との考えを改めて示した。(渡辺哲哉、吉浜織恵)


橋下徹大阪府知事が登場して以来、私は彼のシンパである。すべてが人間らしくてよい。普通人の目線で物事を見ているからその話が分かりやすい。40代のうちに総理大臣になって欲しい人物である。ところがそれはともかく、今朝のこの記事は唐突で、橋下知事の真意がこの記事の要点と思われる強調部分からも伝わってこない。

最近私は小浜とか足立美術館などへの1000円ドライブを楽しんできたばかりなのでとくに思うのであるが、日本の道路はほんとうに素晴らしい。山並みを縫って伸びる米子自動車道路を走っていると、どこまでもどこまでも続いて欲しいという気になる。ドライブそのものが楽しみなのである。そして、この壮大な建造物を作り上げた日本という国の国力を感じるのも快感であった。名神高速道路は開通したもののまだ東名高速道路が建設中であった1960年代にアメリカに渡り、東部ニューイングランド地方の縦横に張り巡らされた道路網を走り回るドライブの魅力を満喫した私にとって、大げさな表現になるが、青春が舞い戻ってきたかのように感じたのである。

道路そのものの規模と質において、日本の有料道路は世界でもトップレベルにあるのは間違いなかろう。問題は通行料である。アメリカでもtoll roadと呼ばれる有料道路があるにはあったが、車の窓から25セント硬貨を料金受けに投げ込むと遮断棒が開いて通り抜ける程度のもので、出かけるのに通行料を気にすることはさらさらなかった。ところが日本の有料道路料金は私の感覚ではぼったくりである。車に乗る以上、重量税にガソリン税をたっぷり取られ、それが道路建設にも使われているのだから、天下の大道を堂々と走らせるのに何を気兼ねすることはないはずなのに、その上メッチャ高い通行料を払わされるのはたまったものではない。私が京都に単身赴任していた頃、週末には神戸の自宅に戻っていたので最低500回は京都ー神戸間の名神と阪神高速道路を走っていたことになる。これは仕事上と泣く泣く諦めたが、休みにドライブを楽しむために高速に乗るという発想はこれっぽちも起きなかった。

高速道路の必要性としていろんな理由が挙げられているがそれはともかく、作る以上は活用される道路であって欲しいと思う。そのためには通行料金を大幅に下げないといけない。現に民主党は高速料金を無料にすると主張しているのだから、それなりの大義名分と道路建設・維持費用の財源的見通しがあるのだろう。私はたとえ無料ではなくても、それこそドライブを楽しもうと出かける時に、わざわざ高い料金を払ってまで、と尻込みをすることがないような料金設定であって欲しいと思う。通行料が大幅に下がると、国内ドライブを楽しむこともレジャー、レクレーションの一環として国民の間に定着するだろうし、そうなれば部分的であるにせよ自動車の国内需要の向上につながるのかも知れない。

橋下知事がどのような意図で第2名神の早期着工を要望するように至ったのか、一度は否定された建設計画であり、また財源の「新直轄方式」による調達で橋下知事がきわめて厳しい態度を示している地元負担にどのような見通しがあるのかなど、要望にいたる経緯などが分かりやすい形で報道されることを期待する。

追記 今回から少々工夫を加えて引用箇所を次のように表現することにした。

ニュースの引用


ニュース以外の引用


マクドナルドで100円バーガー vs 280円のサラダ

2009-04-20 23:29:14 | Weblog
お昼、マクドナルドでハンバーガーを買うことにした。車でドライブスルーに入るとメニュー看板を見ながら注文するようになっているが、単品が欲しいのに目に入るのはいわゆるセット商品ばかりである。マイクに向かって単品のメニューが見あたらないがと告げると、前のレジまで進んでくれという。そこでかなり大きなメニューを手渡されたがそれでも単品の値段が分からない。レジの女の子にここにありますと言われてようやく在処が分かった。ベーコンレタスバーガー290円を一個注文したが、100円バーガーはどこにも出ていない。あるのはセットばかりである。そこで女の子にバーガーの単品はないのと聞くと100円です、と答えが戻ってきた。聞かないと分からない仕組みになっているのだ。野菜サラダが40円というのが目についたのでサラダも合わせて注文すると770円ですというので支払った。

品物を受け取り帰宅する途中でふとベーコンレタスバーガーが一個、100円バーガーが二個、それにサラダが合わせて770円は高すぎる、と思った。家に帰りレシートを見てみるとなんとサラダが280円になっている。これはおかしいと思い買った店に電話して確かめると、サラダが40円というのはセットに追加注文する時の値段だと返事が戻ってきた。しかし私の目には40円というのははっきりと見えたが単品で280円というのは見ていなかった。100円バーガーに40円サラダだと釣り合いが取れていると勝手に思っていたのである。

770円を支払う時に高すぎると気がつくべきであった。しかし一方スーパーで買い物をするとレジで一品ずつ品名と値段を読み上げてくれるので、おかしいことがあれば気づくようになっている。ところがマクドナルドのレジでは一括代金を告げられただけであった。その疑問を質すと品物を読み上げることはしないという。どうもマニュアルにないようである。さらに単品の値段の分かりにくかったことをいうと、セット販売に力を入れているので、との返事が戻ってきた。いずれにせよぼんやりしていた私が悪かったので、これ以上文句を云うのは差し控えた。

そこでサラダパックの入った袋を開いた。出てきたのはプラスチックの容器で口の内径が90mmで高さが85mm。そこに入っているのはレタスの葉っぱを千切ったものが主体である。これが280円とはいくら何でも高すぎる。スーパーでこの量なら100円もしないだろう。現にセットへの追加注文では40円になる代物である。それでも利益を上げているのだろうから、これが280円とは暴利を貪っていると断言してよかろう。



100円バーガーを試してみようと助平心を起こしたばかりに、ぼったくりにあった感じである。橋下大阪府知事の心境を追体験した思いであった。


またもや1000円ドライブで足立美術館、宍道湖へ

2009-04-19 23:35:48 | 旅行・ぶらぶら歩き
1000円ドライブとは、週末にはETC搭載車に限り、高速道路をいくら走っても最大限1000円止まりの制度を利用してのドライブという意味である。どこかにでかければ戻ってこないといけないので、同じコースを往復するとその倍の2000円はかかることになるし、高速道路に入るまで、また出てから有料道路を走るとその料金は当然加算される。

小浜への雨中ドライブの日とはうってかわり昨日は絶好のドライブ日和、島根県安来市にある足立美術館を目指して午前9時前に家を出た。阪神高速七号線から北六甲有料道路、中国自動車道を経て今度は米子自動車道に入り、米子JCT(ジャンクション)で米子バイパスに入った。中国自動車道の神戸三田ICから米子JCTまでの高速料金が1000円で、米子バイパスはしばらく無料区間が続いたが安来の手前で有料になり、安来JCTを出る時に100円がETCにチャージされた。

足立美術館は不動産取引で財をなした足立全康氏の創設によるもので、日本庭園ととくに明治以降の日本画壇の名だたる画家の作品、そして陶芸品が素晴らしい。もう六七年以上も前に一度訪れたことがあるが、よい作品に触れた感動が甦ってきた。しかし今回は少々不愉快なことがあった。

展示室で年配者の話し声が大きいのである。もし二人なら声を潜めて話し合えるだろうが、それが数人のグループになるともうまったく普通の声で、いや、野良仕事で鍛え上げたような底力のある声で喋り合うものだから、まわりはたまったものではない。入館時に手渡されるパンフレットには次のような注意があるが、もちろん目にもしていないだろう。



団体客のようで、声高なのは一組だけではない。入館料は個人大人一人が2200円なのに対して団体客は20名以上だと1800円、100名以上だと1600円と安くなる。一番高い入館料を出している個人客がその団体客に不愉快な思いをさせられるとはこれいかに、である。たまたま巡回に来た館員に一組は注意されていたが、そのほかは野放しである。注意された方はなぜ私たちだけが、と逆に思ったかもしれない。小さな子供を平気で走らせている親に注意もしない。個人客を大事にしない美術館はいずれ見放されるだろう。せめて土日の週末は個人客のみとして、団体客は平日に限るぐらいの配慮があってしかるべきである。

2時間ほどたっぷりと時間を費やしたあと山陰道にもどり、松江市の中心部を通り抜け、431号線にのって宍道湖の内海の周辺を周り、そのまま米子自動車道に入って家に辿り着いたのは9時前であった。12時間かかったことになり、走行距離はほぼ600キロメートルであった。通常だと高速料金が最低でも1万円を超える。いかに高い高速料金であるのかをつくづく実感した。この調子だとまた出かけそうである。アメリカで若い頃ドライブを楽しんだ感覚がよみがえってきたのである。


痴漢裁判の子細と問題点 そして痴漢退治法

2009-04-16 16:40:16 | Weblog
昨日(4月15日)の朝日朝刊第一面で、強制わいせつ罪で一審、二審とも有罪となった被告人に対して、最高裁第三小法廷は懲役1年10ヶ月の実刑とした一、二審判決を破棄して無罪を言い渡した、と報じた。その最高裁判例によると、事件は次のようなものである。

《本件公訴事実の要旨は、「被告人は,平成18年4月18日午前7時56分ころから同日午前8時3分ころまでの間,東京都世田谷区内の小田急電鉄株式会社成城学園前駅か下北沢駅に至るまでの間を走行中の電車内において、乗客である当時17歳の女性に対し、パンティの中に左手を差し入れその陰部を手指でもてあそぶなどし、もって強いてわいせつな行為をした」というものである。》(1ページ)

被害者の供述で、被告人を犯人とした核心部分は次の通りである。

《(前略)「成城学園前を出ると、今度は,スカートの中に手を入れられ、右の太ももを触られた。私は、いったん電車の外に出たのにまたするなんて許せない、捕まえたり、警察に行ったときに説明できるようにするため、しっかり見ておかなければいけないと思い、その状況を確認した。すると、スカートのすそが持ち上がっている部分に腕が入っており、ひじ、肩、顔と順番に見ていき、被告人の左手で触られていることが分かった。その後、被告人は、下着のわきから手を入れて陰部を触り、さらに、その手を抜いて、今度は、下着の前の方から手を入れて陰部を触ってきた。その間、再び、お互いの左半身がくっつくような感じになっていた。私が、下北沢に着く直前、被告人のネクタイをつかんだのと同じころ、被告人は、私の体を触るのを止めた。」》(4ページ、強調は引用者、以下同じ)

この強調部分で明らかなことは、被害者が自分の身体に触れているとおぼしき腕が被告人の左手であることを視認しているのである。痴漢行為のあったことと、その痴漢が被告人であることを確認しているのであるから、被告人が痴漢であることを疑う余地はないものと思われる。裁判所の言葉では、このような供述を「詳細かつ具体的」、「迫真的」、「不自然・不合理な点がない」と言うようである。だからこそ一審、二審とも有罪判決となったのであろう。この供述通りだと被告人が犯人であることを疑う余地はなさそうであるが、最高裁判決は次のように結論したのである。

《以上のとおり,被告人に強制わいせつ罪の成立を認めた第1審判決及びこれを維持した原判決には,判決に影響を及ぼすべき重大な事実誤認があり,これを破棄しなければ著しく正義に反するものと認められる。そして,既に第1審及び原審において検察官による立証は尽くされているので,当審において自判するのが相当であるところ,本件公訴事実については犯罪の証明が十分でないとして,被告人に対し無罪の言渡しをすべきである。》
と言うことで

《主文

原判決及び第1審判決を破棄する。
被告人は無罪。》

となった。

被害者によるあれほど「詳細かつ具体的」、「迫真的」、「不自然・不合理な点がない」供述があるにもかかわらずこの判決とは、と首をかしげた。私のこの反応が的外れでもないことは、最高裁小法廷の五人の裁判官の間で無罪が三人に対して有罪が二人と意見の分かれたことで裏付けされよう。そこでこの最高裁判決をじっくり読んでみたところ、裁判官の判断になるほどと思わされるところがいくつか出てきたのである。

無罪側の那須弘平裁判官が「詳細かつ具体的」、「迫真的」、「不自然・不合理な点がない」供述の評価を補足意見で述べているのであるが、そのきわめて常識的な見解に私は共感してしまったのである。全文はほぼ4ページにわたるが、私が最も注目したのは次の箇所である。それは《被害者が公判で供述する場合には、被害事実を立証するために検察官側の証人として出廷するのが一般的であり、検察官の要請により事前に面接して尋問の内容及び方法等について詳細な打ち合わせをすることは,広く行われている。(中略)検察官としても,被害者の供述が犯行の存在を証明し公判を維持するための頼りの綱であるから、捜査段階での供述調書等の資料に添った矛盾のない供述が得られるように被害者との入念な打ち合わせに努める。》と述べた後に、《このような作業が念入りに行われれば行われるほど、公判での供述は外見上「詳細かつ具体的」、「迫真的」で、「不自然・不合理な点がない」ものとなるのも自然の成り行きである。これを裏返して言えば、公判での被害者の供述がそのようなものであるからといって,それだけで被害者の主張が正しいと即断することには危険が伴い、そこに事実誤認の余地が生じることになる。》(7-8ページ)と続いている。

そういえば今朝(4月16日)の朝日朝刊によると、朝日新聞阪神支局襲撃(87年)事件の実行犯を名乗る人物の手記を週刊新潮が連載した問題で、週刊新潮が誤報を認めた、とのことであるが、週刊新潮は《物証が見つからない中で、「実名での告白を重く見過ぎた」「証言が詳細だった」ことを挙げ、取材した関係者があいまいな対応をしたことで「状況証拠が積み重なったように錯覚した」》と説明したようである。「証言が詳細だった」ことに騙された典型的な例がここにもある。

これでもって、いくら供述が「詳細かつ具体的」、「迫真的」、「不自然・不合理な点がない」であっても、必ずしも信をおけない状況のありうることが分かる。やはり物証とか第三者の証言で補強されることが重要になってくる。それにしても上の強調部分のように被告人を犯人と断定している供述がそのまま素直に通らないとなると、やはり白黒をはっきりつけて欲しいと言う気になるが、よく注意してみると、最高裁判決では被害者の証言の信憑性にかなり積極的な判断を示しているようなのである。それが逆転無罪の判決に繋がっているように私には思えた。そして、そう思ってみると、この事件の経緯に、いくつもの疑問点が私なりに生じてきた。それを述べる前に、最高裁判決に従って事件を再現してみるが、なんと驚いたことに事件の起こりが、私がほぼ一ヶ月前に武相荘を訪れた時に下車した小田急線鶴川駅なのである。少々長いが、明らかな事実とされている箇所をそのまま引用する。Aは被害者のことである。

《(1) 被告人は、通勤のため、本件当日の午前7時34分ころ、小田急線鶴川駅
から、綾瀬行き準急の前から5両目の車両に、Aは、通学のため、同日午前7時4
4分ころ、読売ランド前駅から、同車両に乗った。被告人とAは、遅くとも、本件
電車が同日午前7時56分ころ成城学園前駅を発車して間もなくしてから、満員の
上記車両の、進行方向に向かって左側の前から2番目のドア付近に、互いの左半身
付近が接するような体勢で、向かい合うような形で立っていた。
 (2) Aは、本件電車が下北沢駅に着く直前、左手で被告人のネクタイをつか
み、「電車降りましょう。」と声を掛けた。これに対して、被告人は、声を荒げ
て、「何ですか。」などと言い、Aが「あなた今痴漢をしたでしょう。」と応じる
と、Aを離そうとして、右手でその左肩を押すなどした。本件電車は、間もなく、
下北沢駅に止まり、2人は、開いたドアからホームの上に押し出された。Aは、そ
の場にいた同駅の駅長に対し、被告人を指さし、「この人痴漢です。」と訴えた。
そこで、駅長が被告人に駅長室への同行を求めると、被告人は、「おれは関係ない
んだ、急いでいるんだ。」などと怒気を含んだ声で言い、駅長の制止を振り切っ
て、車両に乗り込んだが、やがて、駅長の説得に応じて下車し、駅長室に同行し
た。
 (3) Aが乗車してから、被告人らが降車した下北沢駅までの本件電車の停車駅
は、順に、読売ランド前、生田、向ヶ丘遊園、登戸、成城学園前、下北沢である。》

また次は被害者の供述である。最初の引用と重複しているところもある。

《Aは、第1審公判及び検察官調書(同意採用部分)において、要旨、次のよ
うに供述している。

「読売ランド前から乗車した後、左側ドア付近に立っていると、生田を発車して
すぐに、私と向かい合わせに立っていた被告人が、私の頭越しに、かばんを無理や
り網棚に載せた。そこまで無理に上げる必要はないんじゃないかと思った。その
後、私と被告人は,お互いの左半身がくっつくような感じで立っていた。向ヶ丘遊
園を出てから痴漢に遭い、スカートの上から体を触られた後、スカートの中に手を
入れられ、下着の上から陰部を触られた。登戸に着く少し前に、その手は抜かれた
が、登戸を出ると、成城学園前に着く直前まで、下着の前の方から手を入れられ、
陰部を直接触られた。触られている感覚から、犯人は正面にいる被告人と思った
が、されている行為を見るのが嫌だったので、目で見て確認はしなかった。成城学
園前に着いてドアが開き、駅のホーム上に押し出された。被告人がまだいたらドア
を替えようと思ったが、被告人を見失って迷っているうち、ドアが閉まりそうにな
ったので、再び,同じドアから乗った。乗る直前に、被告人がいるのに気付いた
が、後ろから押し込まれる感じで、また被告人と向かい合う状態になった。私が,
少しでも避けようと思って体の向きを変えたため、私の左肩が被告人の体の中心に
くっつくような形になった。成城学園前を出ると、今度は、スカートの中に手を入
れられ、右の太ももを触られた。私は、いったん電車の外に出たのにまたするなん
て許せない、捕まえたり、警察に行ったときに説明できるようにするため、しっか
り見ておかなければいけないと思い、その状況を確認した。すると、スカートのす
そが持ち上がっている部分に腕が入っており、ひじ、肩、顔と順番に見ていき、被
告人の左手で触られていることが分かった。その後、被告人は、下着のわきから手
を入れて陰部を触り、さらに、その手を抜いて、今度は、下着の前の方から手を入
れて陰部を触ってきた。その間、再び、お互いの左半身がくっつくような感じにな
っていた。私が、下北沢に着く直前,被告人のネクタイをつかんだのと同じころ、
被告人は、私の体を触るのを止めた。」》(3-4ページ)

平成18年4月18日は火曜日である。インターネットの小田急各駅時刻表からここに出てくる各駅での準急発車時刻を調べることができる。平成21年3月16日改正のものなので、事件当日の運行状況と同一ではないだろうが、鶴川駅を午前7時33分に綾瀬行き準急が発車しているので、これを事件関係者が乗車したものとすると、被害者が読売ランド前から乗車してから下北沢にいたる準急のすべての停車駅は次のようである。括弧内は発車時刻である。

読売ランド前(07:44) → 生田(07:46) → 向ヶ丘遊園(07:49) → 登戸(07:51) → 成城学園前(07:55) → 経堂(朝方のラッシュ時に準急は通過) → 下北沢(08:03)

最高裁判決が明らかな事実としているのは、成城学園駅前を発車してから後のことであるが、被害者の供述ではそこにいたるまでにすでに事件が起こっていたことになる。供述から再現すると同時に、私の感じたことをも記してみる。緑字部分がそうである。

①「読売ランド前から乗車した後、左側ドア付近に立っていると、生田を発車して
すぐに、私と向かい合わせに立っていた被告人が、私の頭越しに、かばんを無理や
り網棚に載せた。そこまで無理に上げる必要はないんじゃないかと思った。その
後、私と被告人は,お互いの左半身がくっつくような感じで立っていた。

被告人が鶴川駅で乗車したのが07:33とすると、生田を発車するまで少なくとも13分はかばんを手に持っていたことになる。車両の座席配置は明らかではないが、いわゆるロマンス型シートではなくて窓に沿ったベンチ式シートであろうとの前提で考えると、被告人は鶴川駅で乗車して、座席に座っている乗客の前に立ってつり革を手にしていたのであろうか。このあたりの状況がはっきりしない。さらに分からないのは、もし被告人が私の想像するような位置にあるのなら、電車が生田を出た時点で、被害者が被告人と座席に座っている乗客の間に割り込んできたように受け取れることである。不自然であるが、そうでないと被告人が被害者の頭越しに、かばんを無理矢理に網棚に載せた、と言う箇所が理解できない。さらに、被告人が窓の方を向いていたとすると、座席の乗客と被告人の間に割って入った被害者が被告人と向かい合わせ、すなわち座席の乗客を背にしていたことになるが、私にはきわめて不自然な状態に思える。この被害者の供述に裁判官はどのような心証を抱いたのだろうか。

②向ヶ丘遊園を出てから痴漢に遭い、スカートの上から体を触られた後、スカートの中に手を入れられ、下着の上から陰部を触られた。登戸に着く少し前に、その手は抜かれた
が、

向ヶ丘遊園を出て2分足らずの間に、この一連の行為がなされたが、登戸駅で乗客の乗り降りの移動が被害者の周辺ではなかったのだろうか。かりに無かったとしても、犯人の手が抜かれた機会に身を躱す動作をどうしてとらなかったのだろう。それすらできないほど車中は混み合っていたのだろうか。

③登戸を出ると、成城学園前に着く直前まで、下着の前の方から手を入れられ、陰部を直接触られた。触られている感覚から、犯人は正面にいる被告人と思ったが、されている行為を見るのが嫌だったので、目で見て確認はしなかった。成城学園前に着いてドアが開き、駅のホーム上に押し出された。

登戸を出て成城学園前までの4分足らずの間、被害者は痴漢行為を受けていたが、成城学園前ではなぜか自ら積極的に犯人から逃れようとしたとは言わずに、ドアが開いて駅のホームに押し出されたなんて受け身の表現をしているのが気に掛かる。さらに、押し出された、というのは被害者がドアに背をもたせかけていたからそうなったのか、乗客が座っている座席前から外に出る乗客に押されて車外に出たのか、具体的なイメージが湧いてこない。被害者は押し出されたのに、密着していたはずの被告人は車内に残り、それと視認されないところに隠れたのだろうか。要するに被害者と被告人の車内における位置関係が曖昧模糊としているのである。裁判官はどのような状況を想定していたのだろう。

④被告人がまだいたらドアを替えようと思ったが、被告人を見失って迷っているうち、ドアが閉まりそうになったので、再び,同じドアから乗った。乗る直前に、被告人がいるのに気付いたが、後ろから押し込まれる感じで、また被告人と向かい合う状態になった。私が,少しでも避けようと思って体の向きを変えたため、私の左肩が被告人の体の中心にくっつくような形になった。

被害者のこの行動はどう考えても私には分からない。車両外に出た時点で被害者は犯人を捕まえようという積極的な意識はなかったと思われる。それなら犯人から遠ざかることを考えるのが第一であろう。わざわざ犯人と思い込んでいる被告人の存在を確認することはない。被告人が居てもいなくても元の状態に戻ろうとしたこと自体、普通の常識では考えられない。すでに登戸手前でいったん中断した痴漢行為を登戸出発後にあらためて繰り返しされているのに、その嫌な思いのある場所にわざわざなぜ舞い戻るのか、その行為は私には理解不可能である。駅のホーム上に押し出されたのをもっけの幸いと、なぜ隣のドアに向かわなかったのだろう。時間の余裕がなかったとは考えられない。

さらに次の供述部分と密接にかかわってくることをとくに指摘すると、被害者は後ろから押し込まれる感じで、車内でまた被告人と向かい合う状態になり、少しでも避けようと身体の向きを変えたところ、被害者の左肩が被告人の体の中心にくっつくような形になったとのことである。背を向けるとか、もっとほかの姿勢をとることも考えられるのに、それが出来なかったのは、それほど車内がすし詰め状態であったせいなのだろうか。


そして一番最初に引用した成城学園前発車後の出来事に繋がる。そしてこの出来事が裁判での実質的な争点になっているのであろう。

⑤捕まえたり、警察に行ったときに説明できるようにするため、しっかり見ておかなければいけないと思い、その状況を確認した。すると、スカートのすそが持ち上がっている部分に腕が入っており、ひじ、肩、顔と順番に見ていき、被告人の左手で触られていることが分かった。その後、被告人は、下着のわきから手を入れて陰部を触り、さらに、その手を抜いて、今度は、下着の前の方から手を入れて陰部を触ってきた。その間、再び、お互いの左半身がくっつくような感じになっていた。

すし詰め状態で身動きもままならないのに、自分のスカートのすそが持ち上がっている部分に腕が入っているのをどのように確認できたのだろう。現場検証の結果はどうであったのだろう。

このすし詰め状態について有罪側の堀籠幸男裁判官は多数意見への反対意見で次のように述べている。

《この時間帯の小田急線の車内は、超過密であって、立っている乗客は、その場で身をよじる程度の動きしかできないことは、社会一般に広く知れ渡っているところであり、証拠からも認定することができるのである。身動き困難な超満員電車の中で被害に遭った場合、これを避けることは困難であり(後略)》(14-15ページ)

要するに超過密であるという認識なのである。ところが犯人は身動き困難な超満員電車の中で、被害者のスカートの中に手を入れて右の太ももを触れ、その後、下着のわきから手を入れて陰部を触り、さらに、その手を抜いて、今度は、下着の前の方から手を入れて陰部を触ってきた、と実にこまめに手を動かしているのである。堀籠裁判官は「身動き困難な超満員電車の中で被害に遭った場合、これを避けることは困難であり」という自らの見解と、身動き困難な超満員電車の中における犯人の精妙な手の動きとの整合性をどのようにして考えているのか、知りたいところである。

以上私の感じたことが、無罪側の裁判官の心証と相通じるところがあるように思える。那須弘平裁判官は《本件では、判決理由第2の5に指摘するとおり被害者の供述の信用性に積極的に疑いをいれるべき事実が複数存在する。その疑いは単なる直感による「疑わしさ」の表明(「なんとなく変だ」「おかしい」)の域にとどまらず、論理的に筋の通った明確な言葉によって表示され、事実によって裏づけられたものでもある。Aの供述はその信用性において一定の疑いを生じる余地を残したものであり、被告人が有罪であることに対する「合理的な疑い」を生じさせるものであるといわざるを得ないのである。》(9ページ)

近藤崇晴裁判官も補足意見で被害者の《供述の信用性には合理的な疑いをいれる余地があるというべきである。》(12ページ)と述べている。

今回の事件では被害者の証言だけが頼りであった。ところがその供述の信用性に疑いが持たれたとなると、犯罪そのものが成り立たなくなる。その状況下で疑わしきは罰せずの判断が下されたのもしごく当然のなりゆきかな、と思う。

それにしても痴漢という人権無視の卑劣な犯罪が後を絶たないのも残念なことである。学校や職場でとくに女性に対して、痴漢に被害を受けた場合にどのように対処すべきか、教育・訓練を行っているのだろうか。今回の場合でも被害者は「下北沢に着く直前、被告人のネクタイをつかんだのと同じころ、被告人は、私の体を触るのを止めた。」と供述している。この時にもしネクタイではなく体を触れている手を掴んで犯人を引きずり出していたとすると、また違った展開になったことは容易に想像がつく。スリでも単独犯もおればチームプレイをするのもあり、痴漢にしても同じこと。真の犯人が被告人を隠れ蓑としてわるさをしていた可能性をも視野に入れる必要があるだろう。悪さをしている手を確保すべきであった。電車内に「痴漢にあったら悪さをしている手を両手で押さえて大声で助けを求めましょう」というようなビラ貼り、具体的な対抗手段を女性に周知させるべきではなかろうか。「痴漢は犯罪です」なんて生ぬるい。その口火を切ることが出来るのはなんといっても「大阪のおばちゃん」のお膝元のような気がする。


ジューンベリーの白い花

2009-04-15 09:39:21 | Weblog

昨年はブルーベリーを二本植えたが枯らしてしまった。土壌が不適だったのかも知れない。人に聞いてみると結構育てるのが難しいようである。ブルーベリーは捲土重来を期すことにして、代わりにジューンベリーを植えることにした。園芸店で2メートルほどの高さの木が目に止まり、呼びかけているような気がしたので家に来て貰うことにした。冬を越し4月に入って、一つだけ成長の早かった蕾が初めて白い花をつけてくれた。ほかの蕾も遅ればせながら綿毛を見せ始めた。まもなく開花だろう。花に続いて赤い実と秋の紅葉が楽しみである。


足踏みシンガーミシンの修理

2009-04-13 21:05:23 | Weblog
妻が大変なことになったという。ミシンを使っていたところ、布を押さえる押さえ板が効かなくなったらしい。古い足踏み式のシンガーミシンでかれこれ50年使ってきたものである。これまでもベルトが切れたりして私が修理したことはあるが、それ以外は何のトラブルもなく、アメリカから持ち帰ったシンガーの電動式ミシンよりも使いやすいといって愛用していた代物である。

左側にある頭部の蓋を開けてみた。





二本見える棒の右側が針棒で左側が押さえ棒、その左下にあって頭部の外側に出ているレバーを上下すると、コイル状のバネで押さえている滑動部分が上下して押さえ板を動かす仕組みになっている。ところがこのレバーがぶらぶらして滑動部分に当たりもしていない。よく見るとこのレバーを取り付けているマイナスねじ(その頭部が見えている)がねじ穴からかなり浮き上がっている。そこでマイナスドライバーでこのねじを締め付けるとレバーの動きに合わせて滑動部分が動き、押さえ板の機能が回復した。

妻によるとこの頭部カバーを開けたのは初めてだとのこと、ということは半世紀かけてこの締め付けねじが徐々に緩んできて、それに合わせてレバーが元来の作動位置から次第にずれてきてついに働かなくなったのである。それを二三分で直したのだから50年もの歴史をあっという間に巻き戻したことになる。と思ったのは、直し終えてカバーを元に戻してからのこと、邯鄲の夢を味わう間もなかったのが残念である。

それにしても電気を使わない機械ものは寿命が長い。また働きを取り戻した。私より長生きすることは確実である。