日々是好日

身辺雑記です。今昔あれこれ思い出の記も。ご用とお急ぎでない方はどうぞ・・・。

捏造論文問題 疑わしきは罰せよ

2006-03-31 11:14:31 | 学問・教育・研究
多比良教授らの論文、調査委「再現性、信頼性ない」 (朝日新聞) - goo ニュース

大阪大学に引き続いて東京大学でも捏造論文問題にひとまずケリがついたようである。多比良和誠教授らの論文疑惑についての調査委員会委員長によると、「極めて捏造(ねつぞう)したと言えるに近い状態にあるが、断言するのは難しい」とのことである。司法権のない調査委員会が捏造を断言するのは確かに困難であるが、この結論を『黒』と受け取るのが素直であろう。

実験を行ったとされる川崎助手は取材の朝日新聞記者に「確かに実験ノートがなく、信頼性に欠ける部分はあったが、だからといって全く信頼性がないわけではない。論文の再現性についてはもう少し時間がかかる」と語ったそうである。

この引用が正確に川崎助手の言葉だとしても、その内容が素直に伝わってこない。「実験ノートがない」とはどのような状況を指しているのかが分からないのである。実験結果を記載したノートはもともとあったのに紛失したのか、行方不明になったのか、それとも何らかの意図で処分してしまったのか、それとも実験はしていないのでノートがないのが当たり前というのか、そのあたりが分からない。

その何れであるにせよ、実験したという証拠がない以上論文の正当性についてのいかなる主張も成り立たないのは明白である。立証責任のある実験者当人が実験の存在そのものを示すことが出来ないのだかこれで一件落着、さっそく当事者を処分すればいい。

「疑わしきは罰せず」というのは法律上の格言だそうで、「広辞苑」には《犯罪を行ったということが証明されなければ有罪を言い渡してはならないという原則》と記されている。しかし世間の目が簡単に届かないだけより高い倫理性が課せられている『象牙の塔』の出来事であるだけに、捏造論文問題については「疑わしきは罰せよ」を原則にすべきであると私は思っている。

『論文疑惑』が発生すると一番迷惑を被るのは周辺の同僚教授たちである。ただでさえ時間に追われているのに、特に訓練を受けたわけでもない検事や裁判官まがいの余計な仕事を引き受けざるをえないからである。調査にも省エネが望ましく、手っ取り早いのは全ての実験データと実験ノートを提出させてそれを検証すればよい。今回のように実験ノートがない、となればそれだけで『疑惑の存在』を確定すればよい。それ以上の『真相』の追求などはまったくの無意味で時間とエネルギーの無駄遣いである。第一そんな『真相』にいったいどのような価値があるというのだ。厳しく「疑わしきを罰する」ことで研究者に「李下に冠を正さず」の倫理観を一層徹底させることの方がはるかに大切である。

『捏造論文』は詐欺行為そのもので研究者にとってみれば手鏡でスカートの中を覗く以上に破廉恥な行為である。『詐欺犯』を大学が懲戒免職処分してもどこからも異議は出されないだろう。

最後に、「研究管理が不十分だった責任を痛感している。各論文に関する川崎助手の捏造の有無につき、完全な検証には至っていないが、実験に対する誠実性には疑義を持たざるを得ない」とコメントを発表した一方の当事者多比良教授はご多分に漏れずなかなか脳天気なお方である。研究者としての矜恃をひとかけらもお持ちでない。

自分で実験をしない、その実、実験をもはや出来なくなった教授の存在が『捏造論文』の横行を許していると私は思う。何れ改めてこの問題に触れるとしよう。

Ken Follettの"WHITEOUT" あら探しも少し

2006-03-30 17:39:53 | 読書

前の週末を中心に"WHITEOUT"を一気に読み上げた。息もつかせず、といったところ、もうスリルの連続だから途中で止めるわけにはいかないのである。

クリスマスイブ深夜の1時から物語が始まり、クリスマスを挟んで翌ボクシングデーの午後7時までのほぼ54時間の間の出来事がペーパーバック460ページのなかで展開する。1時間の出来事が平均8.5ページに納まっているわけだから描写が極めて細かく実に生き生きとしている。目論んだことが素直に運んでくれないからそれだけ描写に時間がかかるともいえる。そして文字通りのホワイトクリスマス、舞台となるスコットランドのこの地方ではまれに見る大雪で全てが雪の白に覆われてしまうなかで物語が進行する。

感染すると生存率が0%という毒性の強烈なウイルスに対する抗ウイルス剤の開発を行っている製薬会社で二つの事件が相継いで起こる。最初の事件はウイルスを感染させた実験動物を密かに持ち出した研究員が自宅で変死したこと。実験動物に噛まれてウイルスに感染し死亡したらしい。研究所のセキュリティ・スタッフが発見する。ところがこの事件がマスメディアに洩れてしまい下手すると会社の存亡にかかわってくる恐れがある。

物語の主人公Toniはセキュリティを担当するチャーミングな独身女性。監視カメラの記録を精査して実験動物が盗まれた経緯を手際よく明らかにする。そして二度とこのような不祥事が起こらないように監視体制を直ちに改めて判明した全ての事実をマスメディアに公表する。何事も隠さずに率直に経緯を公表したことが評価されて、会社の存亡にかかわるた危機をひとまず乗り越えることが出来た。

"We told the truth, and they(massmedia) believed us."と試練を乗り越えた彼女が誇らしげある。最近の『ガセネタメール事件』でミソをつけた民主党と永田議員の手際の悪さとは対照的である。

ところが第一の事件が解決したのも束の間、強化された監視システムをかいくぐって猛毒ウイルスが盗まれる。ウイルス奪取の手引きをしたのはこの会社のオーナーで最高責任者の不肖の息子のKitである。

実は研究所のセキュリティ・システムを主に作り上げたのがコンピュータを専門とするKitであった。ところが彼はギャンブル狂いでその負けがつもり返済のために会社の物品を持ち出していた。奪取事件の起こる9ヶ月前、この会社に雇用されたばかりのToniがその不正を突き止めてオーナー社長にその息子を解雇させていたのである。ギャンブルの負けを父親が一度は肩代わりしたがその後もKitはますますギャンブルにはまりこみ再び多額の借金を抱え込む。しかし父親は二度と甘い顔を見せなかった。二進も三進もいかなくなっていたKitに多額の報酬を餌に猛毒ウイルスを持ち出す誘いがかかったのである。セキュリティーシステムを熟知しているKitにとって、その網をかいくぐるのはいたって容易なこと、三人のギャングと一緒に猛毒ウイルスを盗み出した。

依頼者はテロリストらしい。その依頼者をKitが想像する箇所でJapanese fanatics, Muslim fundamentalists, an IRA splinter group, suicidal Palestinians,・・・、と日本人が最初に出てくるので一瞬ニタッとしたが自慢出来ることでないのが残念である。 

盗み出したウイルスと引き替えに依頼主から大金を受け取る手はずになっているものの、大雪のために車による移動もままならず、研究所に近い父親の家に入り込むがそこにはKitの姉妹とその家族がクリスマスを祝うために集まっている。そこでいろいろなハプニングがあり物語が進んで行く。巻末の一年後のクリスマスの光景で大団円で読み終えるのが勿体なく感じた。

それはいいのだが、そしてわざわざあら探しをしたわけでもないのだが、何故か今回はプロットに不自然な箇所がいくつかあるのが気になった。一番問題と思うことを一つ指摘するが、それでは本を読むに当たって興が削がれると思われる方はここから先へ進まないでいただきたい。

ウイルスを保存している場所はBSL4(Biohazard Security Level 4)で、出入りが最も厳しく制限されている。出入り口ではICカードをまず挿入口に入れてその上自分の指紋をスキャナーで読み取らせる。ICカードに収められている本人の指紋データとスキャナーのデータが一致して始めて入室できるのである。その内容を熟知しているKitが秘かに持ち出した父親のICカードを改変するのであるが何故改変が可能だったのか。犯罪行為で会社をくびになったKitの作り上げたセキュリティシステムが、解雇後9ヶ月も経っているのにそのまま使われていたからである。この状況設定はどう考えても頂けない。

ついでにもう一つ、著者が文系出身であることに由来しているのか登場人物の猛毒ウイルスの取り扱いも極めて粗雑で私には荒唐無稽に思われるシーンもあった。その点Harvard Medical Schoolを出ているMiahel Crichtonの記述の科学的正確さとは対照的である。

と、つい知ったかぶりを書いてしまったが、この作品はKen Follettの魅力そのもの、平易な英語なので大学生なら十分醍醐味を味わえるはずだ。


規制のための規制のPSE

2006-03-25 11:54:38 | 社会・政治
経産省、PSE緩和 中古品の販売、当面容認 (産経新聞) - goo ニュース

タイトルには分かったようなことを書いているが、私の理解していることはPSEマークを付けていない家電製品の中古品が四月から売買できなくなるということだけで、実はPSEが何を意味するのかも知らないのである。日本国内の法律問題でありながらローマ字を使うこと自体からしてうさんくさい。

PSEマークのない製品はそんなに危険なのだろうか。そんなことはあるまい。もしほんとうに危険なら全日本の全家庭からPSEマークのない電化製品を撤去させるのが筋である。げんに温風暖房機問題でナショナルが行っているではないか。現在家庭にあるものはそのまま使ってもいいが、売り買いは駄目では筋が通らない。このこと一つを取り上げてみても、規制のための規制を持ち込もうとしていることがうかがわれる。さらに中古品の輸出業者にはこの規制が適用されないとは、たとえ問題のあるものでも買うのが外国人なら問題にしない、ということで、日本が『大国意識』を丸出しであることが恥ずかしい。

《電安法は家電製品などの事故を防ぐため、製造・販売業者に安全性の確保を義務付ける法律》の文字面自体は当たり前のことなので特に異を唱えることはない。電安法を現実に適用するに当たっての方策が国民の『生活感覚』とは相容れない非現実的であることが問題なのだ。その意味では姑息な便法であれ「四月以降も事実上販売可能」と経産省が早急に適用を改めたのは評価できる。しかしこの対応そのものがもともとPSEマークがあってもなくてもどうでもいいことを示している。中古品の販売については『市場原理』に委ねればいいので、こんなことまでお役所が口出しすることはない。

『規制緩和』への反動がお役所に起こり始めたのだろうか。

梅田望夫著「ウェブ進化論」を読んで

2006-03-21 17:56:22 | 読書

「ウェブ進化論」(筑摩新書)が評判だと云うことで買ってみた。私もご多分に漏れずWindows XPを載っけたPCとGoogleをいろいろと検索に利用しているが、この本はWindowsやGoogleの扱い方ではなくて、人間の知的活動にPC(+OS)とGoogleがどのように関与するかを教えてくれる。

ネットの「こちら側」と「あちら側」という話が出てくる。「こちら側」は《インターネットの利用者、つまり私たち一人一人に密着したフィジカルな世界》であり、「あちら側」とは《インターネット空間に浮かぶ巨大な情報発電所とも云うべきバーチャルな世界》なのである。「なるほど、なるほど」と頷く。

「こちら側」のことは分かりやすい。目の前にあるパソコンのことだから。「あちら側」もネットを介してアクセス出来る諸々の情報と受け取ればそれだけのことであるが、世の中には全世界の全情報を取り出しやすい形で組織化しようと考えた人がいるらしい。いわば人間の『脳細胞』を人工的に作り上げることに相当するのだろう。しかしどのような原理で組織化しようとするのかそれは分からない。

私のブログへのアクセス解析をたどってわれながら驚いたことがある。Googleで(green grass the old home town)をウエブ全体から検索するとなんと私のブログ記事が1010万件の検索結果の第4位に出てくるのである。



また(在朝日本人)を検索すると206万件の第1位にランクされてくる(3月21日午前10時現在)。



自分の発信した結果が人の目に触れやすい形で検索結果に出てくることは嬉しい。しかしそんなに値打ちのあることを書いたという自覚もないのに、どういう基準で百万とか千万とかいう大層な数の記事の中から私の記事が上位にランクされたのか、その理由が分からないのである意味では不気味でもある。このランク付けの裏にGoogle独特のノウハウがあり、それで情報を組織化しているのであろう。しかしその仕組みを明かさずに結果だけを示されるのでは『神のお告げ』と変わりない。

「こちら側」を築き上げた代表がマイクロソフトのビル・ゲーツで「あちら側」を作りつつあるのがグーグルのセルゲイ・プリンとラリー・ページだそうである。と、もっともらしく引用したが、私はプリンとかページいう人の名前はこの本で始めて知った。元来日常品を使用するのにそれを作っている会社の創始者の名前なんか知る必要はなにもないからである。

著者がビル・ゲーツにセルゲイ・プリンとラリー・ページの名前をわざわざ取り上げているのは余人の考えつかないものを作り出した彼らが大天才ということをただ云いたかっただけかも知れない。しかし私にはビル・ゲーツはともかく『神のお告げ』を作り上げる後の二人は大魔神のように思えてくるのである。

全ての情報を公開するとの大義名分はいいものの、公開するにあたってのたとえばランク決定法も同時に公開されないことには真の情報公開にはなっていない。「こちら側」も「あちら側」もとどのつまりビジネスがらみである以上、『オープンソース』も限界があるということだろうか。ランク付けは情報操作そのものである。利用者が納得できる原理・原則でランク付けがなされているかどうか、それを隠されては話にならない。

時代は「こちら側」から「あちら側」へと進化してきてさらには『あらぬ側』に進むのであろうが、『情報管理』を他人任せにしないことが『個』をもつ人間として生き残る最低限の条件であるように思った。著者の意図とは異なるだろうがこのことを考えさせただけでもこの本は刺激的であった。

生徒も先生と一緒にWBCの試合を観ればよかったのに

2006-03-21 00:04:04 | 社会・政治
大阪の小学校教諭、授業中にWBC観戦 「気になって」 (朝日新聞) - goo ニュース

徳川慶喜公の孫で高松宮妃殿下の妹である榊原喜佐子さんの書かれた「徳川慶喜家の子ども部屋」に出てくる話であったと思う。学習院に通っていた頃、昼食後の授業の常として眠たくなる。そこで漢学者の塩谷温先生の授業が始まると先生に「長恨歌を」とお願するのがいつものことで先生が朗々と吟じられるのを子守歌に快く午睡をむさぼった、というのである。その本がどこかに雲隠れして内容の確認ができていないが大筋はこの通りであると思う。その続きがあって、夢うつつに聞いていたのであろうがその長恨歌が今でもしっかりと脳裏に刻まれている、というのである。

そのようなやんごとなきお方とは縁遠い話であるが、私が中学生の頃吉川英治著「宮本武蔵」大好きの国語の先生がおられて、授業の時にわれわれ生徒が「宮本武蔵」とおねだりすると、気の向いた折には講釈師よろしく「さわり」を語ってくださったものである。

厳密に言えば本来の授業から逸脱しているこのような話を何故思い出したかというと、上の新聞記事を読んだからである。私が生徒なら「先生、WBCの試合をテレビで一緒に観ませんか」と仲間と一緒に持ちかけるかも知れないし、教師なら「先生は試合が気になるのでテレビを観たいけれど、一緒に観たい人」とか云って生徒に手をあげさせ、多数決かなんかで一緒に試合を楽しむのではなかろうか。プリント学習がどのようなものか知らないが、それより大事に作り上げていきたいのは教師と生徒の心の触れあいである。WBCの観戦もその一助にもなろうかと思うのだが「ゆとり教育」のゆとりはどこに行っているのだろう。

みたび『NHKは民営化ではなく国営化を』

2006-03-15 22:19:05 | 社会・政治
国際放送強化は国費増で、総務相懇でNHK理事求める (読売新聞) - goo ニュース


NHKの国際放送の強化に関連して、その財源としてCMを容認する案に加えて国費投入の増額も検討されているようだ。海外まで受信料の集金人がとことこ出かけるわけではなかろうから海外での視聴者はどのように料金を支払っているのか気になっていたが、朝日の朝刊(3月15日)に《「ワールドTV」では、日本国内の視聴者の負担で、受信料を払っていない海外の視聴者が本組を見ている構図になっている》と出ていたので、やっぱりと思った。これでは「まず海外まで集金に行ってこい」という国内の受信料不払いの視聴者が増えたとしてもいたしかたあるまい。

私はこれまでも『NHKは民営化ではなく国営化を』と主張してきた。《『日本の主張』を世界に『発信』をすること》は国家がなすべきことであるからだ。

CMか国費かが問われ出された状況で改めてNHKの国営化を訴える。

鼻毛を読まれないために?

2006-03-15 17:29:15 | Weblog

これまでの人生で私は自ら鼻毛の手入れをしたことがない。散髪の折に床屋さんでチョキンチョキンと切り取って貰うだけだった。普段は気にならないがヴォイストレーニングで口の開け方などを鏡でチェックするときに、鼻毛の先端が鼻穴から飛び出していると否応なしに目にとまり、鼻毛にはなくそが並んでいたりするとわがものながらエッと思ってしまう。

鼻毛がなぜあるのか、気になったので平凡社の「世界大百科事典」で調べてみた。『鼻』については一行18文字、ほぼ660行の長きにわたって説明があるが、「鼻毛は空気中の粗大な粒子をとらえるフィルターの役目を果たす」と記されているのみ。具体的に何が引っかかったのかこれまで特に覚えがないので私は鼻毛の有用性が実感できずにいる。

鼻毛の有用性はともかく、鼻毛の慣用句は男にとっていいようには使われていないのが不思議である。たとえば「大言海」には《鼻毛長し、トハ、女ニ誑カサレテアリ。鼻毛を抜く、トハ、ダシヌク。鼻毛を延ばす、トハ、女ニ迷イ溺ルル意。鼻毛を読む、鼻毛を数ふ、トハ、女色ニ迷ヒタル男ヲ、女の見ヌキテ翻弄スル意》とある。いずれにせよ鼻毛を刈り取っておけば鼻毛を読まれることはあるまい。

街歩きの途上刃物屋さんの前を通りかかってふと思い出し、店主に出して貰ったのがこの鼻毛クリッパーである。親指と人差し指で「握り」を押さえると二重になった円筒の内側の刃が回転して隙間から入り込んだ鼻毛を切り取る仕組みになっている。だから外筒の厚み分だけは毛が残ることになる。何回かクルクルさせていると綺麗に鼻毛がトリミングされた。まことに手軽である。今度、綺麗に鼻毛を刈り取って出かけたら床屋の主人がどう反応するだろうか、ちょっと楽しみである。

ニュースに一言二言

2006-03-11 17:32:35 | 社会・政治
『ニュースその一』「辞職期待」強める民主 永田議員の進退問題再燃 (共同通信) - goo ニュース

民主党渡部恒三国対委員長の永田議員に対する発言「腹を切る覚悟(が必要)」は至極最も、民主党にもようやくまともなことを云う人が出て来たものだ。それにひきかえて岡田克也前代表の「国会の中でやったことについて安易に辞めるような癖を付けるべきではない」とは一体なにを云いたいのだろう。この新聞記事だけからは真意を掴みかねるが、もしかして国会における『言論の自由と尊重』を強調しているのだろうか。しかしそれには永田議員の『ガセネタ発言』が『言論』の名に値するものであることをまず国民に納得させるべきである。それにしても戦前・戦中の教育を受けた渡部氏と戦後教育しか受けていない岡田氏の『責任感』の違いがくっきりとあぶりだされたのは面白い。

『ニュースその二』インシュリン投与…詩織容疑者、致死量を把握 (読売新聞) - goo ニュース

この事件の容疑者は2003年10月に夫の背中に鍋の熱湯をかけて重傷を負わせたとして、今年2月に同県警に傷害容疑で逮捕されたのだそうである。何故重症を負わせてから逮捕まで2年4ヶ月もかかったのだろう。誰でも疑問に思うことだろうにその理由を説明している記事にお目にかかれないのがまた不思議である。

『ニュースその三』カーリング娘、後輩の中学生に負けちゃった (サンケイスポーツ) - goo ニュース

カナダ、英国といった五輪優勝経験のある強国を破りトリノ五輪で7位に入賞したチーム青森が今度はなんと中学生チームに敗れてまた話題を提供してくれた。スポーツ音痴なのかも知れないが私にはこのゲームはハプニングで勝ち負けが決まるから番狂わせが珍しくもないように思える。これて、競技種目に値するスポーツなんだろうか。


防衛庁 武器まで私物であるまいな

2006-03-08 22:24:34 | Weblog
防衛庁は《職務上必要があるのに官品パソコンが支給されていないすべての隊員に対し、官費でパソコンを支給する方針を固めた》とのことである。その背景に《官品支給のパソコンの数が限られているため、業務上必要なのにパソコンが支給されていなかったり、複数の隊員で1台を共用したりして不便を感じている実情がある》からだそうだ。

開いた口がふさがらない。年間予算が5兆円に迫る防衛庁で業務に必要なパソコンすら十分に整えることが出来ず、私物のパソコンを業務に使用させて挙げ句の果てに『情報』がじゃじゃ洩れ?

まさか小銃、機関銃、大砲とか弾丸まで隊員に自前で調達させているのではなかろうな。

駒大苫小牧の校長は辞職で出場権を何故守らないのか

2006-03-04 08:48:12 | Weblog
駒大苫小牧がセンバツ出場辞退…監督辞任、校長辞職 (読売新聞) - goo ニュース


高校野球お馴染み『部員不祥事による出場辞退』がまたマスメディアを賑わせた。主役はあの駒大苫小牧で今度は春の選抜出場辞退のみならず、監督、野球部長、それに校長まで辞職と云うからただ事ではない。ところがその原因は部員が『集団暴行』でも起こしたのならともかく『飲酒・喫煙』で部員が警察に補導されたからだそうである。

居酒屋で『飲酒・喫煙』のうえ相客の顰蹙をかうほど騒ぎ立て、挙げ句の果てに警察に補導されたという『三年生部員』はアホである。自分の行動が他人にどう受け取られるのかまたどのような迷惑をかけることになるのか、『想像力』が決定的に欠如しているからである。

しかし、である。私は《高校野球部、その部員に『模範優等生』のイメージを被せるようなことはしない。少々の悪(わる)ぐらいどういうことではない》と考えており、以前の駒大苫小牧事件の時にもこの見解を表明している。高校生の『飲酒・喫煙』ぐらい昔から珍しくも何ともない。ただ人目を気にせずに大ぴらにやったからアホというだけのことである。新聞記事によると居酒屋の周囲の客が通報したとか、これも大人げのない話である。大人ならら自分で高校生に説教すればいいので、警察に通報するようなことか、と人情話の宝庫『捕物帖』かぶれの私は思うのである。

公になれば致し方がない、ということで選抜高校野球大会への出場を辞退の上、監督、野球部長、それに校長まで辞職するとのことであるが、これは選抜チームは『心・技・体の調和』のとれたものであるべき、という『虚構』に盲目的にひれ伏しているだけに過ぎない。校長の『大人の思慮』何処にありきや、である。

校長は出場メンバーである野球部員を道連れに自爆する権利はない。何を思い違いしているのだろう。自らの辞職と引き替えにひたすら駒大苫小牧の選抜への出場を懇願すべきなのである。それが教育者としての最後のご奉公ではなかろうか。