ふとその気になって昨日は久しぶりに篠山まで車で出かけた。黒枝豆に栗が頭に浮かんだせいでもある。舞鶴若狭道が無料になったので、神戸Jctから中国自動車道に入り丹南篠山口で出るまでの通行料が200円とは有難い。三の丸西駐車場に車を駐めて歩き回ることにした。
一度食べたらもう十分の牛とろ丼で腹ごしらえをした。とろろは良いとして、牛肉だと思うが(猪肉もあるがこれは値段が張るはず)生肉片のようなものが混ぜられていて、これは私の好みではない。店によって違うのかもしれないが、食べ比べする気は起こらなかった。
まずは御徒士町武家屋敷群に向う。昔からの屋敷がかなり残っていて、手を加えたり敷地内に建て増ししたりして、先祖伝来の家に往事の武士の後裔が今も住んでいる様子である。もちろん取り壊された屋敷跡であろうか空き地が点在しているが、それがまたゆったりとした空間を生み出しているのがよい。道ばたに黒枝豆をスタンドに盛って売っている男性が、塩ゆでした枝豆を差し出してくれた。大粒のまめがほのかな甘味もあって、ふだん口にしている冷凍枝豆とは大違いに美味しい。1.2kgが600円と値段も手頃なので一束を買った。観光客の集まる店だとこの値段では買えない。
栗の木の植わった空き地があった。よく見ると下に毬栗が沢山落ちている。それも手つかずである。その瞬間、この前に地面に落ちた毬栗を見たのは、朝鮮で父に栗拾いに連れて行って貰った昔々のことだったと思い出した。国民学校の二、三年生のころである。落ちていたのはほとんど実の入っていない毬ばかりで、さんざん探し回ってようやくまともな毬栗を見つけ出したときは、とても嬉しかったことを覚えている。それがここでは毬栗がごろごろ、もちろん木にも沢山ぶら下がっている。さすが丹波栗の本場である。直ぐ近くのスタンドで毬栗が一個百円で売られていた。
またぶらぶらと歩くうちに予期もしない工事現場に差し掛かった。旧屋敷町の一郭で三、四百坪はあるだろうか、敷地の三辺に石垣を積んでいるのである。作業をしているのは、ショベルカーを操作して大きな石を吊り上げたり移動させている人ともう一人の二人組である。立ち止まって眺めている間に休憩だろうか仕事を中断したので、その一人に何を造っているのかを尋ねた。想像がつかなかったからである。すると驚いたことに、個人の家ですと返事が戻ってきた。
勤め人だった人がが仕事を辞め、隠居生活に入るに当たってかねてから思い描いていた石垣のある家を作ることになったというのである。地元の篠山にも石があるのに、滋賀県の坂本の石を使いたいからと、わざわざそこから300トンもの石を運んできたそうである。敢えて値段は聞かなかったが、運搬費も含めると相当な額であろうとは察しが付く。正面の石垣は出来上がり、右側の石垣を築きあげている最中であった。完成の暁には石垣の上に竹塀を組まれるとか、なんとも気宇壮大な話である。出来上りを見に来たくなった。
この石垣造りを請負ったのは作業小屋の横幕にあるように、古式特技法穴太流穴太衆石垣石積の伝統的技法を継承する建設会社である。今は十五代目で、自然石を加工せずにそのまま積み上げる野面積み(のづらづみ)を得意としているとのことであった。
この後、再建された篠山城大書院を訪れた。慶長14(1609)年に篠山城築城とほぼ同時に建てられ、幕藩体制の終わるまで藩の公式行事に使用されてきたが、昭和19年1月になんと失火で焼失してしまった。しかし古絵図、古写真、発掘調査などの学術調査に基づいて改めて設計し、12億円の総工費をかけて再建したとのことである。大書院の一室で「篠山城物語」をビデオで観ていたときに、この城の石垣を穴太衆(あのうしゅう)が築いたとの説明が流れたものだから、築城術が今にいたるまで、延々と引き継がれている歴史の流れをまさに実感した。織田信長の安土城の石組みなどに活躍した石工集団がその頃から穴太衆として呼ばれていたらしい。技術を伝えるには現場での仕事を次々とこなしていくことが欠かせないのに、なかなか仕事がないので、との先ほどの作業員の方の言葉が耳に残った。
城趾の一角にある天守台に上ると眺望が開けて、篠山が間近な山々に取り囲まれたこぢんまりした盆地であることがよく分かる。その中に静かに溶け込んでいくような心地がした。
一度食べたらもう十分の牛とろ丼で腹ごしらえをした。とろろは良いとして、牛肉だと思うが(猪肉もあるがこれは値段が張るはず)生肉片のようなものが混ぜられていて、これは私の好みではない。店によって違うのかもしれないが、食べ比べする気は起こらなかった。
まずは御徒士町武家屋敷群に向う。昔からの屋敷がかなり残っていて、手を加えたり敷地内に建て増ししたりして、先祖伝来の家に往事の武士の後裔が今も住んでいる様子である。もちろん取り壊された屋敷跡であろうか空き地が点在しているが、それがまたゆったりとした空間を生み出しているのがよい。道ばたに黒枝豆をスタンドに盛って売っている男性が、塩ゆでした枝豆を差し出してくれた。大粒のまめがほのかな甘味もあって、ふだん口にしている冷凍枝豆とは大違いに美味しい。1.2kgが600円と値段も手頃なので一束を買った。観光客の集まる店だとこの値段では買えない。
栗の木の植わった空き地があった。よく見ると下に毬栗が沢山落ちている。それも手つかずである。その瞬間、この前に地面に落ちた毬栗を見たのは、朝鮮で父に栗拾いに連れて行って貰った昔々のことだったと思い出した。国民学校の二、三年生のころである。落ちていたのはほとんど実の入っていない毬ばかりで、さんざん探し回ってようやくまともな毬栗を見つけ出したときは、とても嬉しかったことを覚えている。それがここでは毬栗がごろごろ、もちろん木にも沢山ぶら下がっている。さすが丹波栗の本場である。直ぐ近くのスタンドで毬栗が一個百円で売られていた。
またぶらぶらと歩くうちに予期もしない工事現場に差し掛かった。旧屋敷町の一郭で三、四百坪はあるだろうか、敷地の三辺に石垣を積んでいるのである。作業をしているのは、ショベルカーを操作して大きな石を吊り上げたり移動させている人ともう一人の二人組である。立ち止まって眺めている間に休憩だろうか仕事を中断したので、その一人に何を造っているのかを尋ねた。想像がつかなかったからである。すると驚いたことに、個人の家ですと返事が戻ってきた。
勤め人だった人がが仕事を辞め、隠居生活に入るに当たってかねてから思い描いていた石垣のある家を作ることになったというのである。地元の篠山にも石があるのに、滋賀県の坂本の石を使いたいからと、わざわざそこから300トンもの石を運んできたそうである。敢えて値段は聞かなかったが、運搬費も含めると相当な額であろうとは察しが付く。正面の石垣は出来上がり、右側の石垣を築きあげている最中であった。完成の暁には石垣の上に竹塀を組まれるとか、なんとも気宇壮大な話である。出来上りを見に来たくなった。
この石垣造りを請負ったのは作業小屋の横幕にあるように、古式特技法穴太流穴太衆石垣石積の伝統的技法を継承する建設会社である。今は十五代目で、自然石を加工せずにそのまま積み上げる野面積み(のづらづみ)を得意としているとのことであった。
この後、再建された篠山城大書院を訪れた。慶長14(1609)年に篠山城築城とほぼ同時に建てられ、幕藩体制の終わるまで藩の公式行事に使用されてきたが、昭和19年1月になんと失火で焼失してしまった。しかし古絵図、古写真、発掘調査などの学術調査に基づいて改めて設計し、12億円の総工費をかけて再建したとのことである。大書院の一室で「篠山城物語」をビデオで観ていたときに、この城の石垣を穴太衆(あのうしゅう)が築いたとの説明が流れたものだから、築城術が今にいたるまで、延々と引き継がれている歴史の流れをまさに実感した。織田信長の安土城の石組みなどに活躍した石工集団がその頃から穴太衆として呼ばれていたらしい。技術を伝えるには現場での仕事を次々とこなしていくことが欠かせないのに、なかなか仕事がないので、との先ほどの作業員の方の言葉が耳に残った。
城趾の一角にある天守台に上ると眺望が開けて、篠山が間近な山々に取り囲まれたこぢんまりした盆地であることがよく分かる。その中に静かに溶け込んでいくような心地がした。