"暮らしのリズム"的できごと

先人が培った暮らしの知恵を通じて今を楽しむ【暮らしのリズム】のブログ。旧暦、落語、音楽、工芸品、食、民俗芸能などをご紹介

万物盈満する初夏

2012年05月23日 10時07分10秒 | 主催する催し

  旧四月三日。一昨日、二十四節気の【小満(しょうまん)】を迎え、いよいよ初夏の装いが濃くなって参りました。

  万物盈満すれば草木枝葉繁る
          『暦便覧』(天明八年/1788年出版)

 盈満(えいまん)は「物事が満ちあふれること。また、そのさま。」という意味です。冬の間眠っていた自然のいろいろなことがしだいに長じてくる。本格的な夏に向けてまだ伸びしろがある様子ということで、小さく満のでしょう。こういう季節を感じる情緒ある言葉を、現代的なライフスタイルにおいてわかりにくいなどとするのは、やはりおかしいのでは、と思ってしまいます。前回のエントリー『「二十四節気」見直しに異議あり』に重複しますが、むしろ忘れてはならない言葉として覚えておきたいものです。
 ちなみに「盈満の咎め」という後漢書にでてくる古い中国の言葉があります。物事が満ち足りると却って災いを招きやすいということですが、まさに今の世に投影される言葉ではないでしょうか。
B0522casaderosa  さて、暦の言葉通り淡い新緑はいつのまにか青々と繁り徐々に強くなる陽射しを遮って心地良い木陰を作ってくれるようになりました。紫陽花にはしっかり蕾がついています。花が遅くて心配された梅の実も確実に膨らんでいます。
 写真は月島の密かな名物になってきている、壁一面にバラが繁り淡いピンクの花を一斉に咲かせる家です。
毎年この小満の頃と共に花を咲かせるのですが、今年も見頃を迎えています。咲き揃うのはほんの数日間ですが、これはお見事です。
 小満の日の朝。金環日食に沸きました。雲が薄くかかりいいフィルターによく観ることができました。人生でおそらく最初で最後の体験になると思うと、やはり感動的です。もっと夜のように暗くなるのかと思っていましたが、陽光がどんどん弱まるのは急に曇るときとはまったく違って興味深い風景でした。それに伴って浜離宮や東京湾の鳥が騒々しく飛び回っていたのは面白い現象です。いきなり体内時計を狂わされたようです。
 日食では太陽が欠けてゆくというより、いつもは観ることができない新月の月を眺めることができる、という歓びを感じてしまいます。しかも今回は月の全形を観ることができるわけですから、私の中ではあれは『黒い満月』なのです。


「二十四節気」見直しに異議あり

2012年05月04日 17時11分43秒 | 季節のおはなし

 旧閏三月十四日。寒く遅れていた春も四月に入って歩調が早まり、明日には二十四節気の【立夏(りっか)】に入ります。

  夏の立つがゆえなり。
          『暦便覧』(天明八年/1788年出版)

 桜が終わり、花水木から藤の花が見ごになる頃です。新緑の淡い色彩が眩しく、夏と言われるより春爛漫を感じさせます。それでも陽射しの強さや、ふと吹き抜ける暖かい風に夏の気配を感じるのも確か。実際の季節感より少しだけ早い、二十四節気の四立、立春・立夏・立秋・立冬は、季節を先取りする先人の粋な感覚の象徴であるかの様に感じます。

 その二十四節気に関して、ちょっと前の新聞に興味深い記事がありましたのでご紹介します。日本経済新聞の2012年4月9日夕刊の文化欄です。一部抜粋しましょう。

【「二十四節気」見直し論議 季節感や言葉現代風に
 まだ寒いのに「立春」が来るなど、実感と一致しないとの声がある。また「清明」「小満」「寒露」など現代人にはなじみの薄い言葉も多い。このため日本気象協会は昨年2月に二十四節気を見直すと発表、その作業に着手した。実感に合った、親しみの持てる季節の言葉を新たに作って普及させるのが同協会の狙いだ。(中略)協会は今夏、二十四節気とは別の新しい「季節の言葉」を一般から募集する。それを外部の有識者で構成する専門委員会が選考し、遅くとも今年度中に「日本版二十四節気」として発表する予定だ。

 率直にこの動きには違和感があります。日本人と二十四節気とのお付き合いは1400年。長年培って来た感覚をなぜ今、なじみが薄いから、という理由で変えようとするのでしょうか。ここは「異議あり」と言いたいです。

 そもそも二十四節気は、月の運行に頼る太陰暦を用いていた古代中国で、暦と季節のズレによる不便解消を狙って、太陽の動きを基に
紀元前1000年頃作られたものです。日本で導入されたのは7世紀のこと。すでに1400年のお付き合いです。作られた場所が中国の黄河中流・下流域であることから、日本に置き換えると東北地方。関東以西・以南では季節感のズレを感じてしまいます。ただ北海道から沖縄まで南北に長い日本列島であれば、すべての地域の季節感をひとつの言葉はで表すのは不可能です。
 それでも季節感のズレを先取りとして受け入れ、難解な表現に対しては言葉を読み解き、季節を感じて来ました。冒頭に在るようにblog『“暮らしのリズム”的できごと』では、二十四節気に近い書き込みの際に1788年(天明八年)出版の『暦便覧』に記載された説明をご紹介していますが、これを知れば違和感も生まれないと思います。
 要するに、二十四節気は、その違和感そのものが日本人の感性として長年定着していたのです。今は太陰太陽暦の時代ではないため、二十四節気は暮らす上で必要ありません。「なじみが薄い」というのであれば、馴染まなくても生きてゆけます。でも知識として持っていれば感性豊かに暮らすこともできます。新しい日本版二十四節気を作るのであれば、1400年共に暮らした二十四節気を浸透させるための啓発に努めるべきではないでしょうか。
 民間の気象予報士ではなく、協会職員が解説する天気予報で「今日は二十四節気の立夏。暦の上では夏ですが・・・」という文句が聞かれなくなるのは寂しいと思うのですが、皆さんはいかがでしょうか。