Kuni Takahashi Photo Blog

フォトグラファー高橋邦典
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大晦日に思う

2005-12-31 11:23:50 | 報道写真考・たわ言
アメリカでの生活が長くなったにもかかわらず、西洋流の大晦日のばか騒ぎはあまり性にあわない。

やはり僕にとっては、この日は年越しそばに除夜の鐘、なのだ。「ゆく年来る年」がみれればなおいい。この15年間正月には日本に戻っていないので、残念ながらそんな粋な大晦日は久しく味わっていない。

ここシカゴの日本マーケットでは、衛星放送で同時録画した紅白歌合戦が、こちらの夜の時間に間に合うようにすでに昼過ぎにはビデオ屋にならんでいるという。だからアメリカにいながら、家族や友人が揃って日本の年越しを演出することもできるのだ。

そんな大晦日を過ごせたらと、ちょっとうらやましく思わないわけではないが、正直にいうと、仕事続きのいまの自分には、大晦日も元旦も気分的には特に普通の週末と変わりはない。それでもこの時期になると、年の瀬をうったえるテレビの映像や、ホリデームードに沸く街の雰囲気にながされて、否応なく年の終わりを感じてしまうのだが。

年の区切り、というのは、ひとつの長い「線」である人生のなかに記された「点」のようなものなのかも知れない。

その「点」で一息ついて、ちょっと振り返ってみる。それまでの行程を反省し、そして次の「点」に行き着くまでの道のりに思いを巡らせる。。。そんなものなのかな、と思う。

ああ。。。この文章を書きながら、ふと気がついた。

だから僕は、ばか騒ぎする大晦日が好きではないんだ。ばか騒ぎしていたら、じっくりと過ぎ行く年を振り返り、新年に向けてあらたに気持ちを引き締めることなどできないではないか。。。。

ちょっと大袈裟かな。。。結局は人それぞれ、楽しく過ごせばいいのだけれど。

自分も与えられた環境をできるだけ楽しむようにしよう。
今夜も深夜まで仕事が入っている僕は、除夜の鐘どころか、ダウンタウンの騒がしい群衆のなかで年明けを迎えることになるのだから。










バー・ラジオのカクテルブック

2005-12-30 21:13:28 | 報道写真考・たわ言
写真の整理に疲れて、コンピュータからはなれて背伸びをすると、本棚に立てかけてあった本の背表紙がふと目に入って来た。

「バー・ラジオのカクテルブック」。。。もう20年近くも前に買った一冊だ。

渋谷にあった老舗バー「ラジオ」(現在もあるかどうかはわからない)でだしているカクテルのレシピ本なのだが、カクテルにまつわるエッセイもふんだんにちりばめてあり、読み物としても粋な本である。しかし何よりも、本の全編にわたって掲載された、きらきらと光る個性的なグラスに注がれた、色とりどりの魅力的なカクテルの写真がなんともいえず美しい。

ページをめくっていくと、すこしカビ臭くなったような古本の匂いとともに、この本を買った頃のことを思い出した。

大学1年のときに、友人の紹介で千葉市内のバーでアルバイトをするようになった僕は、だんだんとその世界にひきこまれ、そのうち授業にもほとんど顔を出さずにバイトの時間ばかりが増えていくようになった。夜の仕事だったので他のアルバイトに比べて遥かに賃金が良かったこともあるが、それだけではない。もともと腕一本で生きる「職人」というものに憧れていた僕は、酒もろくすっぽ飲めないくせに、バーテンダーという職人気質の仕事に惹かれていったのだ。

白いジャケットをスマートに着こなして、シェーカーをふり、ピカピカに磨かれたグラスにカクテルを注ぐバーテンダーの姿はなんとも格好がいい。店の先輩と東京の一流ホテルのバーに客として見学にいったり、またバーテンダー講習会に参加したりしているうちに、バーテンダーとして身を立て、将来自分の店をもちたい、とまで思うようになっていった。

子供時分からの「思い込んだらつっぱしってしまう性格」で、大反対する親の説得も聞く耳もたずに、浪人までしてはいった国立大学を中退。プロとしてバーテンダーの世界に足を踏み入れた。22歳の頃だったと思う。

その頃は、とにかく一流のバーテンダーになりたい。。。そんな一心で、休日には他のプロの仕事を見に行ったり、本を買い漁っては酒やカクテルの勉強をしていた。「バー・ラジオのカクテルブック」は、そんなときに手に入れた一冊だったのだ。

その後数年がたち僕は、バーテンダーとはまるで接点のないような、報道写真家を職業とすることになった。

それでも、毎日のようにシェーカーの振り方やバースプーンのまわし方を練習していたあの頃の自分が、いま僕の撮る写真のどこかに反映しているんだろうな。。。そんな気がするし、そう信じたいとも思う。

ここ数年間開いたこともなかったこの本のせいで、一途だったあの頃をこんな年の瀬にしみじみと思い出すはめになった。




ひょんな休日

2005-12-27 08:26:30 | 報道写真考・たわ言
昨日は予想外にぽっこりと休みの日となった。

普段通り出勤前に写真部オフィスに電話をいれると、「クニ、きょうは君はシフトにはいってないよ」とデスクがいう。僕はクリスマスの翌日とはいえ、普通の月曜日のつもりで出勤する準備をしていたのだが、どうやら祝日だったようだ。仕事柄あまり関係のない祝日などにはほとんど注意を払っていないのだが、どうもこの日のシフトに僕ははいっていなかったらしい。手違いで僕はそれを知らされていなかったようだ。

急に休みになったので、以前から誘っていただいていた「映画の会」というものに参加した。

1ヶ月か2ヶ月に一度、面白そうな映画を皆で集まって鑑賞し、その後一杯やりながら話をするという日本人のグループがあって、そのメンバーの方から声をかけられていたのだ。

参加といっても、ここ数日調子の悪かった暖房を大家になおしてもらうために昼はアパートを空けられなかったので、映画鑑賞はできなかったのだが、そのあとの飲み会にお邪魔することになった。

集まった人たちはみな個性的で話をしていても面白かった。ほとんど僕と同世代か少し上の人達なので、話も合うのだろう。

一般的に僕ぐらいの年齢になると、多くの人々にとって職場と家庭で過ごす時間が生活のほぼ全てを占めることになると思う。既に子供を数人もっている人達も少なくないので、そうなれば父親、母親としての新たな役割もでてくるし、余計忙しくなる。皆それぞれの生活が確立されているから、学生時代のように、毎日のごとく集まって飲んだり、夜を明かして語り合うようなことなど到底できない。

僕は一人住まいなので、比較的自由な時間が多い方だとは思う。それでも取材で1ヶ月ほど留守にすることは少なくないし、仕事の時間が不規則だったりすることもあるので、自分が望んでいる程には人と会う時間がない。

だから、友人と食事をしたり、新たに人と出会う時間というのはとても貴重なものだ。そういう機会に恵まれたときはできるだけ有意義に過ごしたいと思う。(もっとも、ゆっくり話をしたあと酒が進んでカラオケに突入ということになれば、それはそれでまた親睦が深まって!?よろしい。。。)

人との繋がりは貴重な財産。。。

そんな意味で昨夜はいい人達と知り合いになれた。

餅を食べながら

2005-12-24 13:27:16 | 報道写真考・たわ言
寒さが少し和らいだようで、クリスマスイブの今日は雪ではなく雨になった。

とはいえ、クリスマスとはまったく無関係に過ごしている僕にとっては、普段と特に変わらない土曜日ではある。今日はプロジェクトの撮影もはいっていなかったので、珍しく自宅で一日を過ごす。

平日に不在配達で受け取れなかった荷物を郵便局までとりにいってきた。仙台に住む母からの小包だった。

一人暮らしの不憫(?)を察してか、こうして母は年に数回、日本の食料品をこちらまでわざわざ送ってくれるのだ。

実際のところ、シカゴには日本の大きなスーパーマーケットもあるし、普段の生活の中で和食材の調達に取り立てて困ることもない。割高にはなってしまうが、僕ごときが欲しいものならほぼ何でも手に入る。

母は小包を航空便で送ってくるから送料もばかにならないし、袋一杯の乾燥梅干しなど、あまり口にしないようなものまで詰め込んでくることもあるので、正直言って「こんなにしてくれなくてもいいのに。。。」と思うことも度々だ。

それでも日本からの直送品はやはり嬉しい。

忙しくなって、自分でいちいち食事をつくっていられなくなるときなど、具沢山の乾燥みそ汁や、うどんやそばなど大変重宝するし、なにより甘い物好きの僕にとっては、日本の繊細な味のチョコレート菓子などは実にありがたい。

今日受け取った小包には、季節にあわせて、2袋ほどの餅がはいっていた。餅など自分ではほとんど買うことのない品物のひとつなので、こういうチャンスでもないと口にする機会はない。昼飯にしようと、早速オーブンにいれて焼いてみた。こんなものは数年食べた記憶もないし、ましてや自分で焼くことなどなおさらだ。そんな訳で、火力と時間を間違えたらしく、第一弾は見事に焦がした。

真っ黒になった表面の焦げを落として、一緒に送られて来た乾燥みそ汁のなかに餅をいれる。自分では雑煮のつもりだ。

雨降りの静かな年末の休日に餅をほおばりながら、子供の頃によく食べたきな粉餅や、醤油砂糖もち、そして甘いお汁粉などを思い出した。そして、忙しさにかまけて忘れかけていた年末の季節感、というものをふと感じたような気がした。

気にかけてくれる両親がいまだに健在な僕は、随分と幸せである。感謝したい。

もう若くない?

2005-12-23 00:46:34 | 報道写真考・たわ言
膝が痛んで、階段の上り下りがひどく苦痛。。。えらいことになった。

どうも最近、ちょっと駆け足をしただけでもすぐに息が上がってしまうのが気になっていた。筋トレはそこそこ続けていたが、そういえばシカゴに来てからこの1年半、ジョギングなどの「足」を使った運動をほとんどしていなかった。

近所に池があって、緑も比較的多かったボストン時代に比べ、今はかなりの街中に住んでいるので近所を走る気はしないし、何といってもこの時期は寒すぎる。こんな極寒のなかを走って肺のに氷点下の冷気をいれたら、逆に健康を害するのではないかとも思えるほどだ。

そんな事情もあって、一発奮起して昨日トリビューンのスポーツクラブに加入した。かなり立派な設備がトリビューンのビルのなかにあるので、わざわざ車で出かける必要もないし、自宅に帰る前に一汗ながせる。一ヶ月30ドルを給料から天引きされる仕組みで、めっぽう安いというわけでもないが、街中のクラブに行くよりは割安だ。

第一日目の昨夜、トレッドミル(ランニングマシーン)の上で、30分間、3マイル(4.8キロ)を走った。途中で少し膝の痛みを感じたのだが、無視して走り続けたのが悪かったようだ。

家に帰る頃には膝の痛みがひどくなって、階段もまともに上がれない程になってしまった。

友人がいうには、しばらく運動をせずに膝の周りの筋肉が落ちていたところに、急激な運動をしたから負担がかかったのだろう、とのこと。一晩たった今朝もその状態があまり良くならず、普段は4階にある写真部まで階段をつかっていくところを、やむなくエレベーターに乗るはめになってしまった。

2、3日したら痛みもとれるとは思うが、健康のために始めたことが裏目に出てしまい、何とも情けない。

と同時に、もう自分が思っている程若くないのかなあ。。。などと柄にもないことまで考えてしまった。





出張キャンセル

2005-12-21 08:34:59 | 報道写真考・たわ言
「今回のルイジアナ行きは、No Go(キャンセル)だ」

出発前夜、いきなり写真部のボスから電話がかかって来た。
経営不振のため、来年度まですべての出張取材が延期になった、という。

先週海上石油プラットフォームを訪ねたときに、このプロジェクトのための取材に応じてくれる技術者がみつかったので、彼が家に帰る日に合わせて僕もまたルイジアナに戻る予定だった。

ルイジアナの南岸からヘリコプターでおよそ1時間程の沖合にあるこのプラットフォームで働く従業員達は、2週間続けて職場で過ごし、2週間家に帰って休む、という「2週間交代シフト」で働いている。僕らが取材することになっていたこの技術者は、水曜日(今日)がシフトチェンジの日で、この先2週間を家族とともに過ごすことになっていた。僕は家に帰る彼に同行して、妻や子供達と過ごすひとときを撮影する予定だったのだ。

以前このブログでも書いたように、他の多くの新聞社の例に漏れずトリビューンも経営不振に陥っており、リストラさえもおこなわれるほど事態は悪化していた。出張取材に関しても規制がでているのは知っていたのだが、すでに半分以上取材の済んでいるこの石油プロジェクトにまで影響がでてくるとは思っていなかったので、この知らせは意外だった。

まあキャンセルといっても、新しく予算が組まれる来年度(一月)以降まで待て、ということらしいからまた来月行くチャンスはあるだろう。ベネズエラへも行かなくてはならないし、こんな形でこのプロジェクトを中断する訳にはいかないのだ。

それでも、一抹の不安は残る。。。大企業は怖い、のだ。

いちカメラマンの僕ごときには、この財政問題がどれだけ深刻なものなのか正確にはわからない。しかし、会社のトップが必要と判断すれば、僕ら末端のカメラマンやレポータの事情などおかまいなく決定は下されるだろう。この石油プロジェクトがぶつ切りで中断されることも全くない、とはいえないのだ。

新聞社とはいえ、それが利潤第一主義の「企業」というものなのだから。

そんなわけで、少なくとも1月なかばくらいまではこの極寒のシカゴで過ごさなくてはならなくなった。とほほ。。。

スランプ?

2005-12-19 21:04:38 | 報道写真考・たわ言
最近ろくな写真を撮っていないなあ、とふと思った。

2ヶ月程前からレポーターと一緒に手がけている石油プロジェクトについても、これだというような手応えのあるものが撮れていない。駆け足で各地を移動してきたので、じっくり腰を落ち着けて撮ることができないせいもあるのだが、それ以外にも問題がありそうだ。

自分が必死になって撮っていない。。。のだ。

このプロジェクトはもともとレポーターのポールのアイディアで、彼が主導して取材を進めている。それで僕の思うように物事を運ぶことができないという部分もあるし、時間的な制約など、取材環境によるところも確かに大きい。しかし、そういうことを何処かで言い訳にしている自分がいるのも分かる。

このプロジェクトに、100パーセント自分をのめり込ませることができていないのだ。

確かに石油問題は重要な課題だし、取材も興味深いものではある。しかし、ポールはそれぞれの土地で暮らすごく普通の家庭の生活を通して石油問題を語る手法をとっているので、撮影もそれほどの変哲もない一般家庭の普通の暮らしを追っていくことになる。おまけにひとつの家族を取材できる時間は2日とか3日といった短期間にすぎない。被写体がとりたててエキサイティングなものという訳でもないし、感情移入するには時間も短すぎる。

米軍のイラク侵攻や、リベリアの内戦のときのように、生死に関わるような極限に状態にいるわけでもないから、精神的に張りつめてもいない。この石油プロジェクトを始めてからずっと、充実感とはほど遠い、生温い感覚が拭いきれない。正直なところ今、どうすれば自分がこの取材に没頭できるのか分からない状態なのだ。

このままではまずいな、と感じ始めてきた。

これから年始にかけてシカゴでの撮影がいくつか残っているし、1月半ばにはベネズエラに行くことになるだろう。このプロジェクトを終えたときに後悔しないような、納得いく写真を撮っていくためには、自分の気持ちのどこかを切り替えなくてはならないのだ。

こういうのもスランプというのだろうか?

とにかく自分が満足できる写真が撮りたい。それだけだ。それができなければ、読者の心も動かせないのだから。





吸血マシーン

2005-12-18 11:33:25 | 北米
まるでSF映画にでてくる巨大な牙城のように、それは海上にそびえ立っていた。

ルイジアナ南岸のリービルという街からヘリコプターに乗っておよそ一時間、青い海のなかに突然姿を現したこの海上石油プラットフォームの姿は、なにか非現実で、異様でさえもあった。

今回の出張は、このプラットフォームの取材が目的だった。1ヶ月程前から取材の申請をしていたが、ようやく石油会社からの許可がおりたのだ。

海底からの高さ全長が610メートル(うち535メートルは海中)、地面に乗っただけのこのようなフリースタンディングの建物としては世界で一番高いそうだ。

このプラットフォームから海底に突き刺されるドリルによって採掘される石油は、毎日6万バレル近くに及ぶという。

到着するとまずオリエンテーションがおこなわれた。この設備について誇らしげに説明する石油会社の職員を横目に、僕はなんだか複雑な思いを抱いていた。

石油の採掘は、地球の内側にあるその資源を巨大なストローで吸い上げているようなものだ。人間は新しい油田を求め続け、休むことなく石油を吸い取っていく。。。

石油も自然の産物だから、それが地球内部に存在していることによって何かのバランスを保っているのではないだろうか?無制限に石油を吸い上げ続けることによって、地球内部のエネルギーのバランスが崩れてしまうようなことはないのだろうか?

職員の話では、油圧をモニターしながら採掘しているので問題ないようなことを言っていたが、果たしてどんなものだろう?僕にはこの分野の専門知識などないので何ともいえないが、ひょっとしたら石油の採掘し過ぎが地震の発生などにもつながっているのでは、などと思ってしまう。

世界一の産油国であるサウジアラビアも、その産油量のピークは越え、すでに下り坂になっているといわれている。そのためアメリカや中国などの消費大国は、アフリカなど中東以外の地域にやっきになって設備投資を進めているが、それよりも世界はもっと真剣に、根本的なエネルギー資源の見直しをするべきではないだろうか。

これからの世界は石油ばかりに頼っていては破綻するに違いない。

それなのにアメリカではあいも変わらず「大きいことはいいことだ」みたいな感覚がまかり通っていて、舗装道路しか走ることのないような郊外に住むママさんから、ダウンタウンのビジネスマンまで、猫も杓子も4輪駆動の大型車を乗り回しガソリンを垂れ流している。

金儲けしか頭にない自動車会社にしても、資源問題なんぞは聞く耳もたずで、大型車の販売にしのぎを削っている。エコカーなどまだまだ少数で、街でみることなどほとんどない。

そんなことに思いを巡らせていたら、この海上石油プラットフォームが、地球の体内から血液をどんどん吸い上げる非情な吸血マシーンに見えてきた。



カトリーナの傷跡

2005-12-15 15:18:57 | 北米
ルイジアナ州のバトンルージュにやって来た。

とはいっても、バトンルージュの宿がどれも一杯だったので、そこからさらに車で45分程西にいった小さな街のホテルに泊まっている。

この地を訪れたのは、ハリケーン・カトリーナの取材以来だ。

今回の取材はハリケーンとは関係ない石油問題プロジェクトの一環なので、ニューオリンズに立ち寄る機会はないだろう。それでも、被災し家を失い、帰る場所をなくした人々はいまだに多数存在している。そんな被災者たちは、バトンルージュを含めたニューオリンズ近郊の街で、いまだにホテル暮らしを強いられているのだ。

バトンルージュの宿がみな一杯だったのも、そんな理由があったのだ。

夕食を食べようと、近くにあったシーフードレストランに立ち寄った。

こじんまりとした作りの店には、僕の他に客は一人だけ。中年男性がだまって食事をとっていた。

食事を待っている間、店のオーナーである女性と話をした。

この夏まで店はニューオリンズの南部海沿いにあったという。親子3代続いていた老舗のレストランだったそうだ。

カトリーナが上陸し、付近にあった建物とともに、このレストランも全壊した。

レストランは再建されたが、土地も変わり、建物も変わってしまった。50年以上の歴史を刻んだレストランの母屋は消え去った。

彼女の話では、ニューオリンズの住民のなかには、浸水による環境汚染のために、この先5年間も住んでいた土地に戻ることのできない人々もいるという。

被災から4ヶ月近くたち、あれほどの大事件になったハリケーン被害もほとんど報道されることもなくなった。

それでも、カトリーナの傷跡は今も深く残っている。

慌ただしい師走

2005-12-13 23:20:46 | 報道写真考・たわ言
シカゴにもどってからまた忙しくなってきた。

石油プロジェクトのためにシカゴで撮らなくてはならないものも沢山あるし、水曜日からはルイジアナにある石油プラットフォームの取材のために数日間また出張だ。

毎年年末は写真コンテストのための準備で写真の整理に時間をとられるし、まさに「師走」の字の如く、今月は駆け足で物事をこなしていかなくてはならない。(この例え、正しいのかどうかちょっと疑問?)

時差ぼけのほうは少しずつ回復しているのか、夜はだいぶ起きていられるようになったが、朝はまだ5時には目が覚める。まあやることが多いので一日が長くなっていいのだけれど。。。

今日はまず郵便局からスタートして、そのあと歯医者、そして午後はずっとプロジェクトのための撮影で、夜はレポーターとのミーティング。

以前このブログで「何もしない時間」のことを書いたことがあるが、ここにいるともうそんな時間は夢でしかないなあ、と、ふとあのドバイでのひとときが懐かしくなった。


時差ぼけ

2005-12-11 12:15:57 | 報道写真考・たわ言
まだ時差ぼけが抜けなくてしんどい。

あさ4時半には目が覚めてしまって、そのあともう眠れなくなる。夜は夜で、9時過ぎにはまぶたが鉛のように重たくなる。。。いっそのこと、このままこの老人のような早寝早起きの生活にしてしまおうなどかなどと思ったりもするが、この時間はさすがに極端すぎるよなあ。

時差ぼけが直るのに、時差1時間につき1日かかる、と聞いたことがあるが、それが本当だとすれば時差8時間の土地から戻ってきた僕の場合、体内時計が元に戻るまで8日かかることになる。

このブログを書いている今も、まだ午後9時過ぎだというのにもう頭がふらふらしてきた。

今晩また雪が降り出してきた。。。。明日から仕事に戻る。

仕事の報われるとき

2005-12-10 12:21:11 | リベリア
案の定、今朝は車庫の前の雪かきから1日が始まった。

除雪車が道路脇によせていく雪が車庫の前に積み上がって、車がでられない状態になっていたからだ。おかげで朝の貴重な時間の20分程をシャベル労働に費やすことになった。

一月半ぶりにトリビューンのオフィスを訪れる。
写真部にある僕のメールボックスは郵便物で一杯になっていた。

そのなかに、Eメールをプリントアウトしたものが10ページほどに綴じられて混ざっていた。トリビューンの読者達が記者のクリスティーン宛に送ったものだった。僕と一緒にリベリアで取材をし、モモやムスなどのリベリアの子供たちについて素晴らしい記事を書いてくれたのが彼女だ。

リベリアのストーリーが掲載されたとき、クリスティーンとともに、フォトグラファーとして僕の名前も並記されていたのだが、やはり読者はカメラマンよりも、実際に文章を書く記者のほうに感想などのメールを送ることが多いようだ。僕の始めたプロジェクトだっただけに正直やや残念だったが、クリスティーンの方が読者からより多くの感想を受け取っていたようだ。それらの一部をプリントして僕のメールボックスに入れておいてくれたらしい。

そこにあったメールはみな、記事でとりあげたリベリアの子供達への募金の申し出だった。なかには、ギフト(みなしごになった女の子)を養子にしたい、とか、アメリカにつれてきて学校に行かせたい、というものまであった。

僕は少なからず興奮した。

リベリアの子供達が、こういった人達からの申し出をきいたら、どれほど喜ぶだろうか!

日本で出版した僕の「戦争が終わっても」を読んでくれた人達からの募金も集まっている。(このお金については、来年2月に休暇をとってリベリアに届けようと思っている)

こういった「結果」がでるときに、僕は自分の仕事が自己満足の粋をこえて報われた、と実感することができる。

協力してくれた読者の方々に感謝したい。





雪のシカゴに。

2005-12-09 13:39:15 | シカゴ
空港につくと、ぴりぴりと肌に突き刺すような冷たい風が顔を襲ってきた。

前日のものがまだ残っているのだろう、地面は白く雪で覆われている。

一ヶ月半ぶりにシカゴに戻ってきた。

気温26度のアフリカから、マイナス4度のシカゴに急降下だ。

アパートに戻ると、部屋は出て行ったときのまま。何も異常はなかったようだ。建物が火事になったり、泥棒がはいったとしても、僻地で取材中の僕の耳には恐らく入ってこないだろうから、1ヶ月以上留守にしていると少しは心配になるものだ。

荷物を整理をしていると、雪が降り始めた。

子供の頃、恐らく誰もがそうであったように、僕は雪が大好きだった。
社宅団地に住んでいた僕は、庭で雪だるまをつくったり、雪合戦をしたり、真っ白な雪が空から降ってくるとわくわくしたものだ。

しかし、雪の多いボストンの生活を経て、僕は雪が大嫌いになった。

道路が渋滞する、路上駐車のスペースがなくなる、事故がおこりやすい。。。雪が積もると面倒なことばかりになる。吹雪がきて積雪量が増えると、埋もれた車を雪からかき出すのが大変な苦労になる。やっとこさ雪かきを終えても、雪は容赦なく降り続き、翌朝にはまた同じ苦行を強いられることになる。しんしんと降り続く雪を窓から眺めながら、僕はよく悪態をついたものだ。

シカゴに引っ越して、車庫のあるアパートを借りられるようになったので、とりあえず雪かきからは解放された。それでもやはり地面に積もっていく雪をみていると、心中穏やかではない。

雪そのものが嫌いなわけではない。

もし僕が休暇中で仕事をする必要もなく、何処かの山奥や田舎町でのんびり過ごしているとしたら、雪もまた違ったものに感じられるのだろう。しんしんと降る雪を眺めながら、暖炉のある部屋でくつろいだり、またはコタツに入って仲間と鍋などつついているとしたら、それはまたオツなものだと思う。

要するに普段の生活のなかで、雪のもたらす実害に我慢がならないだけなのだ。スキーなど冬のスポーツもしたことがなく、雪の降る時期にゆっくりと休暇などとれない僕にとっては(実際にアメリカに来てからの15年間、年末年始に日本に帰れたことなど一度もない)雪は頭痛のタネ以外の何者でもなくなってしまった。

午後10時半。静かに降る雪はいまも地面に積もり続けている。。。


誘拐ラッシュ

2005-12-07 02:09:34 | 中東
また誘拐された。。。今度はアメリカ人だ。

これでここ10日の間にイラクで誘拐され人質となった外国人は7人になった。その国籍はフランス、カナダ、ドイツ、イギリス、職種も警備コンサルタント、平和運動家、エンジニアなど多岐に及ぶ。まさに誘拐ラッシュである。

誘拐は、僕ら報道者にとっても一番の脅威だ。

銃撃戦などの戦闘状態はまだいい。経験をつめばある程度どう行動すればいいかわかるようになるし、運悪く弾に当たったり爆撃に遭遇しても、特に僕だけが狙われたというわけではないし、取材に対してそれなりの覚悟もある。

しかし誘拐は違う。自分自身がターゲットになるのだ。自分の知らないところで行動を監視され、隙のあるところで襲われる。前線のはっきりしている戦闘と違って、アパートや、タクシー乗車中、通りや市場のなかなど、誘拐はどこでもおこり得るし、犯人となる相手もまったく見えないので疑心暗鬼に陥ってしまう。

だからそれを完全に防ごうと思うなら、警戒の厳重な宿泊地に閉じこもっているか、外出するとしても何人もの武装ガードマンを連れて行かなくてはならなくなる。結局こんな状態ではろくな取材などできやしないし、写真撮影などなおさらだ。一週間前の僕のバズラでの滞在もほぼこんな感じだったので、欲求不満ではちきれそうになったのだ。

誘拐は、実際に政治、宗教的に頭のガチガチになった過激派の手で直接行われる場合もあれば、単に金目当ての盗賊の類いが手を下す場合もある。盗賊の場合は、誘拐した人質を過激派に売りつけて金儲けをしようとするので、人質が売られていく前に救出しなくてはならない。人質が過激派上部の手にわたり、ビデオが撮られテレビで放映される段階まで進んでしまうと、交渉が難しくなってしまうからだ。

手遅れになる前に内密に釈放交渉する場合や、身代金目当ての裕福なイラク人誘拐などのケースはまず報道されないので、僕らがニュースで耳にするよりも実際におこっている誘拐事件数は遥かに多いのだ。

2003年のバグダッド陥落以来、イラク国内での誘拐事件は数千件といわれているが、外国人の誘拐が200件以上、そのうちおよそ50人が殺されている。

人質になってしまった彼等が、無事に釈放されるよう心から願う。。。


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明日、ロンドン経由の飛行機でシカゴに戻ります。



トリビューンのリストラ

2005-12-02 18:58:49 | 報道写真考・たわ言
ドバイはどうもいけない。

街が悪いという訳ではない。ここにくると気が緩んでしまって、どうにもだらけたような生活になってしまうのだ。
アフガニスタンやイラクの取材を終え、超近代的でインフラが整い、爆弾テロや誘拐の心配のない(少なくとも今は)ドバイに戻ってくると、緊張の糸はいとも簡単にプツリと切れてしまう。

そんな訳で、とりたてて書くようなこともしていない僕は、ここ数日間ブログの更新も怠ってしまった。

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今朝メールをチェックすると、トリビューンの編集主幹から、ニュース・ルームの社員達にあてた告知が届いていた。

「ニュース・ルーム」というのは日本でいう「編集室」よりももっと広義で、そこで働く人間は、エディターはもとより記者、フォトグラファー、それからウェブサイトやビデオ関係のマルチメディア部も含まれる。

このニュース・ルームから年末までに28人を解雇しなくてはならない、という知らせであった。

テレビのケープルや衛生番組の多様化に加え、インターネットによるニュースの配信などが原因で、ここ数年新聞の購読率は低迷、その結果による広告収入の減少で、新聞社は痛手を負っている。

ニューヨーク・タイムスをはじめ、アメリカの大手新聞社は程度の差こそあれみな経営不振に陥っているし、僕の古巣であるボストンのヘラルド紙やグローブ紙でも最近ばっさりとリストラが行われたことは耳にしていた。だからこういう知らせは覚悟していたし、ああ、やっぱりな。。。という程度の感じだった。

新聞社とはいえ、結局は資本主義社会のなかの組織である。利益をあげなくては成り立たないし、だからリストラもやむを得ない。

ただ、トリビューンの経費削減対策の内容には疑問を感じてしまった。

告知には、マルチ・メディア部は人員据え置きでこれ以上の増員なし、また今後、特集記事にかける人員とページを減らす、とあるが、この2点に関して僕はどうしても同意することができないのだ。

情報源をインターネットに頼る人々が急増する中、マルチメディアはこれからさらに重要な部署になっていくはずだ。人手不足で現在まともなウェブサイトをつくれないトリビューンだからこそ、ここに有能な人材を登用して魅力あるホームページをつくり、幅広い読者を獲得すべきだと思う。ニューヨークやカリフォルニアなど他州ではなかなかシカゴ・トリビューンを買うことができなくても、インターネットなら世界中の人々がアクセスできるのだから。

また、特集記事削減についても、これは新聞の持つ武器をみすみす捨ててしまうことになると思う。ニュースの速報性では、日に一度しか発刊されない新聞はテレビやネットに太刀打ちできない。だからこそ新聞は時間をかけて深く取材する特集記事で独自のカラーをだし、読者を魅了することが必要なのではないか?速報ではなく、内容重視のジャーナリズムを続けることで、読者の支持をつかむべきなのだ。

と、今日はいち平社員カメラマンの立場で思いを綴ってみたが、やや固い話になってしまったようだ。

ちなみに写真部からは2人リストラされるということだ。。。