Kuni Takahashi Photo Blog

フォトグラファー高橋邦典
English: http://www.kunitakahashi.com/blog

お知らせ

2007-07-28 07:53:08 | 写真展・雑誌掲載
僕の知り合いである共同通信の高木勝悟記者が本を出版しました。
http://shop.kodansha.jp/bc2_bc/search_view.jsp?b=2141574

「団塊世代の人々が青春時代に夢見たものが、今どのように姿を変えているのか」ということをテーマに、共同通信から連載配信されたものを一冊にまとめたもので、ベトナム戦争時代に活躍した沢田教一カメラマンの話と兼ねて僕のことにも触れられています。このときの取材がきっかけで僕は沢田さんの奥さんであるサタさんにも会うことができました。
http://blog.goo.ne.jp/kuniphoto/d/20060330

5月に取材したハイチの記事と写真が以下の雑誌に掲載されました。

「Days Japan」 7月20日発売号
「週間金曜日」8月3日発売号

写真展が、以下の会場で開かれます。お近くの方で機会がありましたら、足を運んでいただければ幸いです。

滋賀県 永源寺図書館 ~7月29日
http://www.library.higashiomi.shiga.jp/

長野県富士見町 富士見町民センター 信州・写真展 8月11・12日

宮城県仙台市 中本誠司現代美術館 「高橋邦典写真展」 9月30日~10月14日
http://seishi-nakamoto.com/museum/index.html



ギフトを訪ねて(2)

2007-07-24 09:26:13 | リベリア
昨日シカゴに戻ってきた。

アメリカに来て7ヶ月、ギフトもだいぶこちらの生活に慣れてきたようだ。アフリカ女性の特徴のように大声でよく話すようになったし、外交的になった。

4歳になる妹のノエミとの関係も以前と比べてよくなってきたようだ。

ジョディには血縁の息子と娘がいるが、夫を病気で亡くし、子供たちも成人して家をでたあと、4年前にまだ生まれたばかりのホンデュラス人の女の子を養子にとった。これがノエミだ。

ノエミにとっては、1人っ子でこれまで母親の愛情を独り占めしてきたところに、いきなりギフトが現れ、母親が自分だけのものではなくなってしまった。よくあるケースだが、この状況にうまく対処するのには幼すぎるノエミにとって、ギフトは競争相手のような存在になってしまったわけだ。

年齢の関係はほぼ絶対で、年下のものは兄や姉に向かって服従するのが当たり前という文化のアフリカからギフトは、彼女を対等に扱おうとするノエミに困惑してしまい、しばしば喧嘩になっていた。

ジョディがこんな話をしてくれた。

ある日、ギフトと激しい喧嘩になったあと、ノエミがギフトに向かってこんな言葉を投げつけた。

「あなたなんて私のお姉ちゃんじゃないわ。肌の色がこんなに黒くて、わたしたちと全然似ていないじゃない!」

傷ついたギフトはその晩ベッドルームで泣いていたが、これをみたノエミは、謝り泣きながらこう言ったという。

「ごめんなさいギフト。。。ギフトはチョコレート、ノエミはカラメル。ママはどちらも大好きなの」

いまでもしばしばささいな喧嘩にはなるけれど、この夜を境に彼女たちの関係はずいぶんと好転したという。

ノエミの一言にしてもそうだが、人種的問題は程度の差こそあれアメリカで生活する限りつきまとってくる。

特にアフリカからやってきたギフトにとって、白人が大部分を占める学校での生活はやさしいものではなかった。前日のブログに書いたように、彼女は運動では頭角をあらわしたものの、学業でははるかに遅れており、15歳という年齢にも関わらず掛け算さえも満足にできない。それに加えて、同じ英語でも西アフリカの強い訛りがあるので、なかなか友人たちとのコミュニケーションが難しい。日本でいう「いじめ」というほど陰湿なものではないにしても、ギフトのことをからかう生徒も少なくなかったようだ。

結局学業面の問題で、在籍していた公立学校がギフトをサポートしきれなくなって、夏から私立のクリスチャン校が彼女を受け入れることになったのだが、僕の見た限り先生たちも教育熱心で、ここならギフトもうまくやっていけるだろうという環境だったのが救いではある。

幼いうちに両親を亡くし、内戦と貧困という厳しい環境で育ってきたあげくに残された姉弟までもがみな殺された。

ことあるごとに母親のジョディに抱きつき、甘えるギフトをみながら僕は、いい歳をしてずいぶんな甘えん坊だなあ、と思っていたのだが、ある時ふとこんなことに気づかされた。

「もしかしたら彼女は失った幼年期を、いま取り戻そうとしているのかもしれないな。。。」





ギフトを訪ねて

2007-07-19 21:34:23 | リベリア
昨夜フィラデルフィア郊外にあるポッツタウンという街に到着した。
昨年12月にリベリアから養子となってアメリカに来たギフトの近況を取材するためだ。

(ギフトについては以下のサイト参照)
http://blog.goo.ne.jp/kuniphoto/m/200612
http://www.chicagotribune.com/giftsjourney

母親のジョディとしめしあわせて、僕が行くことを子供たちには内緒にしていたので、顔を見せるや否や妹のノエミともども、「アンクル・クニだあ~!!」と飛び上がって喜んでくれた。

学業の面ではまだまだ遅れているのでいろいろ苦労しているようだが、さすがアフリカ育ちの女の子。ギフトは運動面では学校ですぐに頭角をあらわし、入学して数ヶ月で100メール走で校内の新記録樹立、彼女のはいった陸上部のリレー・チームは今期負け知らずという活躍ぶりだったという。

それでも在籍していた公立学校で問題がなかったわけではなく、夏休みが終わって来学期から私立のクリスチャン学校に編入するという。

詳しくは追って報告したい。

貧困町カイロの若者たち

2007-07-15 07:18:01 | 北米
貧困問題プロジェクトの一環のため、ミズーリ、ケンタッキー両州との境に近いイリノイ最南端の田舎町カイロに来ている。

ここは州のなかでもっとも十代の妊娠率が高い地域だ。

3日前ここに到着したとき、旧メイン・ストリートであったコマーシャル・ストリートの荒廃ぶりをみて驚いた。3ブロックほどに立ち並ぶ建物のうち現在でも営業しているのは一件の酒場のみ。建物はみな朽ち果て、以前ボーリング場だったというビルは2年ほど前に崩れ落ちたまま瓦礫の山となっている。通りを歩く人の姿もなく、ここだけを見れば、それはまるでゴーストタウンのごとくであった。

ミシシッピー川とオハイオ川が交わる地の利を生かして、船舶と鉄道輸送の拠点として栄えたカイロだが、1900年代にはいって船の技術革新や橋の増設が進むにつれその主要停泊地としての需要を失い、この街の経済は衰退していった。全盛期には1万3千ほどいた人口も、いまでは3千5百人足らずになっている。

衰退しきったかのように見えるこの街は確かに貧しい。しかしなぜ十代の妊娠率がそれほど高いのだろうか?

「他になにもすることがないから。。。」

低所得者のためのハウジング・プロジェクトに住む若い母親や父親を含め、僕が話を聞いた人たちは例外なく口を揃えてこう答えた。

コマーシャル・ストリートから1ブロック離れた新しい目抜き通りにも、映画館やショッピング・センターはおろか、若者たちが集まれるようなカフェなど一軒もない。街全体をみても質素な食堂が4件ほど、それらも午後8時9時には閉店してしまう。

比較的規模の大きいの隣町までは車で40分ほどだが、プロジェクトに住む多くの若者たちは車など持っていないし、公共のバスや電車があるわけでもない。仕事がないから収入もなく車など購入できないし、逆に車がないから仕事を探しに隣町まで行くこともできない。

「職もないのに学歴をつけても仕方がないさ。。。」

ティーン・エイジャーたちは将来への展望もないから教育に対する目的も見出せず、その多くが高校さえも卒業することなくドロップアウトしてしまうことになる。

スポーツ施設や娯楽施設、コミュニティーによる若者たちのための活動もまったく存在しないこの街で彼らのすることといえば、プロジェクトの敷地内でたむろし、友人の家でビデオをみたり酒を飲んだりマリワナを吸ったり。。。それしか楽しみもないからカジュアルなセックスの機会も増え、十代の妊娠率が異常に高くなるというわけだ。

責められるべきはそういう環境ばかりではない。福祉のシステムもおかしなことになっている。

これはカイロに限らずイリノイ州全体に対して言えることだが、あえて低賃金の仕事に就くよりも、生活保護をうけているほうが楽な暮らしができるようになっているのだ。わざわざ隣街までいって仕事を探し、時給6ドルほどの労働をするよりも、無職で保護をうけているほうが収入がいいから、若者、特に女性たちの労働意欲も喪失してしまう。さらに、扶養家族が多いほど保護の額も上がるので、それを目当てに子供をつくるケースも珍しくはないという。

「ここには何もすることがないし、仕事もない。だけどここを離れる手立てもない。。。」

プロジェクトに住む18歳のシャロンダは淡々とこう語った。彼女には4歳と2歳、そして2週間前に生まれたばかりの赤ん坊の3人の子供がいる。

これではいけないと意識の奥底では感じながらも、保護を受けながらとりあえずは生活できるし、同じような境遇の友人たちに囲まれて居心地も悪くはない。将来の希望があるわけでもなく、なんとなく流されながら毎日を過ごしている。。。

この街にはそういう空気が蔓延しているようだ。

(写真:ハウジング・プロジェクトの若い母親たちと子供たち)









シカゴに戻って

2007-07-11 11:07:24 | シカゴ
ここ数日、シカゴもなかなか暑くなっている。

まあ、それでも32,3度なので、50度を越える暑さのイラクに比べればなんのことはないのだが、一応米軍キャンプの宿舎にはエアコンがついていたので室内にいるときは苦痛ではなかった。小さな扇風機しかない僕のアパートでは(昨年までついていたエアコンは、冬に窓枠を新しく変える工事の際に規格が合わず取り外されてしまったのだ!)、寝苦しくて、すこし眠ってはまた暑さで眼を覚ますという繰り返し。。。ついに観念して昨日エアコンを購入してきた。

こんなことを書いていると、冬は寒いと文句をいい、夏は暑いと愚痴る我慢のない奴だと思われそうだが、シカゴというのはこういう街なのだ。それでも夏型の自分としてはやはり暑いほうがまだましだけれど。イラクにいるとき「暑いイラクにいると、シカゴの冬がすこし懐かしくなるのでは。。。?」というメールが知り合いから届いたが、車内に残したりんごが凍ってしまうようなあのシカゴの極寒を懐かしく思うことなど、決してありえないだろう。

今回のイラク取材では、インターネットのマルチ・メディアのために、写真以外にかなりの量のビデオも撮ってきた。

ビデオは写真よりも編集に時間がかかるので、これからこの作業におわれることになりそうなのだが、今春に始めた貧困問題のプロジェクトにも戻らなくてはならない。このプロジェクトのために、明日から数日間、シカゴから南に車で6時間ほどのところにあるイリノイ州の最貧困地、カイロという街を訪ねる。変な言い方だが、どんな人間たちに出会えるか、楽しみだ。





写真展お知らせ

2007-07-09 22:51:42 | 写真展・雑誌掲載
先週末にシカゴに戻りましたのでとりあえずは報告まで。

なお、ちょっと連絡が遅れましたが以前このブログでも紹介した滋賀県の永源寺図書館で僕の写真展を開いていただいています。
http://blog.goo.ne.jp/kuniphoto/d/20060905

7月4日から29日までです。お近くの方は足を運んでいただけると幸いです。詳細は以下のサイトにて
http://www.library.higashiomi.shiga.jp/


「不謹慎な発言ですね!」への回答

2007-07-01 14:22:21 | 報道写真考・たわ言
先日のブログの中で述べた「怪我がなかったのが幸いだが、ニュース・カメラマンの立場としては不幸、といっておこう」という言葉について不快感をもった方もいるようだし、この問題は紛争地で仕事をするときに常に頭につきまとっていることなので、少しばかり言及しておこうと思う。

基本的に僕のやっているような報道写真家という仕事は、気持ちの上では矛盾の上に成り立っている。それは、はっきりいってしまえばこの職業が「他人の不幸で飯を食う」という類のものだからだ。

正義感や使命感など振りかざすつもりなど毛頭ないが、自分自身の探究心や好奇心によること以外に、僕は、写真によってそれがささいなことでも被写体の生活を良くすることに貢献できれば、という思いを持ちながら仕事をしている。

しかし、そのためには、現場で起こっている悲惨な現実をまず人々に伝えなくてはならない。世の中が変わるためには、まず「現実を正確に知ること」、それについて「感じ、考えること」、そして「行動すること」という3つのステップが必要になる。報道写真というのは、その第1ステップに必要である「現実を伝える」という役割を担っていると思う。

だから、もし僕がわざわざ危険を犯して戦地に赴いても、その戦地の現状を十分に伝える写真を撮ることができなればそれは単なる無駄足ということになり、報道写真家としての役割を果たせなかったということになる。

今回のイラクでの従軍では、爆弾テロや砲撃が毎日のように起こっているにも関わらず、僕はそういう現場に居合わせることができなかったし、その悲惨な現状をアメリカや日本で生活している人たちに伝えることができなかった。僕自身がパトロール中に狙撃されたり、路上爆弾で吹き飛んだりしたって別におかしくはない状況なのだ。そこまでのリスクを犯しながらも、結局僕は「意味のある」写真を撮ることができなかったのだ。

だから、報道カメラマンとしては「不幸だった」といったのだ。

仕事柄何度も目にしてきたこととはいえ、傷つき苦しむ人間や屍をみるのは嫌なものだし、それが自分と何からの関わりを持った人間であればなおさらのことだ。しかし僕は、兵士達がトランプに興じたり、軍用車のなかで昼寝をしているような写真ばかりを撮るためにわざわざイラクまで足を運んだわけではない。

あまりに頻繁に路上爆弾が仕掛けられるため、毎日パトロールのために兵士達と一緒に軍用ジープのなかで揺られながら、僕の頭の中ではいつもこんなことが堂々巡りしていた。

「1秒先に爆発がおこるかも。。。もし爆発がおこっても、誰も死んでは欲しくないな。。。でも誰かが怪我でもしないと写真にならないな。。。10メートルほど先の爆発なら、車が破壊されて怪我人が数人でるかな。そうすれば誰も死なないし、写真も撮れるな。。。もし自分の車がやられたら、一発で即死にしてもらいたいな。。。」

なんという悪魔的思考であろうか。。。不謹慎な、と糾弾されても仕方がないが、これが正直な僕の胸の内、であった。

こういう精神的「矛盾」は、この仕事を続ける限り常につきまとい続けるのだ。

ちなみに僕は、もし自身が怪我をしたり死ぬようなことがあれば、その姿を写真に収めてきちんとその現実を世間に伝えてもらうように同行する記者や兵士たちにお願いすることにしている。