マリアナの家族と4日間を過ごし、シカゴに戻ってきた。2ヶ月前に比べて格段に暑くなっていたのと、年甲斐もなく子供たちと遊びすぎて疲労困憊してしまった。
村に到着してすぐに、 女の子たちがダンスを披露してくれた。僕が戻ってくると聞いて、2週間前から練習していてくれたそうだ。
この家族を訪れるのはこれで4度目になったが、取材抜きで訪れたのは勿論初めて。写真の事をあまり考えずに今回ゆっくり彼らと時間を共にして、あらためて「家族」というものを考えさせられた。
彼らは経済的には非常に貧しいし、家などぼろぼろで家具や所持品などほとんどない。トイレを流すのも、身体を洗うのもその度にバケツで汲んでいかなくてはならないし、テレビだって3世帯にひとつあるだけだ。しかしそんな物質的な貧しさとは関係なく、ここには家族のあるべき姿、というようなものが存在している気がするのだ。
祖父さんと祖母さんをはじめとして孫、ひ孫までの代までがみな近所に住み、毎日顔を合わせながら助け合って生活している。マリアナが病に伏せっているときも、家族がそれぞれ村を募金してまわって薬代などを調達してきたし、現在も少しでも余裕のある者が子供たちの学費や必要な生活費を工面する。女たちはみなよく冗談を言っては笑い、子供たちもみな実に素直だ。テレビゲームなど持っていなくても、小川で泳いだり釣りをしたり、またバレーボールや縄跳びなど、遊びには事欠かない。家事の手伝いを命じられれば嫌な顔をする訳でもなく、目上の者を敬うということも自然と身に付いている。
所持するものは少なくても、彼らはとても豊かな心を持っている。恐らくそんな彼らに魅せられて、僕は仕事とは関係なしにまたこの家族を訪れたくなるのだと思う。
日本でも一昔前まではこういう家族の形態があたりまえだったのだろう。僕がまだ小学生だったころ、夏休みにはいつも母親の実家に戻り、親戚一同みな一つ屋根の下で数週間を過ごした楽しい記憶が残っているが、マリアナの家族は毎日がそんな感じなのだ。
僕は別にここで、どんな生活が人間にとって一番幸せなのか、などと問題提起をするつもりはない。ただ、僕にとってこの家族と過ごす数日間はいつも、普段の生活の中で忘れてしまっていることを思い出させてくれる貴重な時間、という気がするのだ。
こんな家族と巡り会わせてくれたマリアナに、あらためて感謝したいと思う。
村に到着してすぐに、 女の子たちがダンスを披露してくれた。僕が戻ってくると聞いて、2週間前から練習していてくれたそうだ。
この家族を訪れるのはこれで4度目になったが、取材抜きで訪れたのは勿論初めて。写真の事をあまり考えずに今回ゆっくり彼らと時間を共にして、あらためて「家族」というものを考えさせられた。
彼らは経済的には非常に貧しいし、家などぼろぼろで家具や所持品などほとんどない。トイレを流すのも、身体を洗うのもその度にバケツで汲んでいかなくてはならないし、テレビだって3世帯にひとつあるだけだ。しかしそんな物質的な貧しさとは関係なく、ここには家族のあるべき姿、というようなものが存在している気がするのだ。
祖父さんと祖母さんをはじめとして孫、ひ孫までの代までがみな近所に住み、毎日顔を合わせながら助け合って生活している。マリアナが病に伏せっているときも、家族がそれぞれ村を募金してまわって薬代などを調達してきたし、現在も少しでも余裕のある者が子供たちの学費や必要な生活費を工面する。女たちはみなよく冗談を言っては笑い、子供たちもみな実に素直だ。テレビゲームなど持っていなくても、小川で泳いだり釣りをしたり、またバレーボールや縄跳びなど、遊びには事欠かない。家事の手伝いを命じられれば嫌な顔をする訳でもなく、目上の者を敬うということも自然と身に付いている。
所持するものは少なくても、彼らはとても豊かな心を持っている。恐らくそんな彼らに魅せられて、僕は仕事とは関係なしにまたこの家族を訪れたくなるのだと思う。
日本でも一昔前まではこういう家族の形態があたりまえだったのだろう。僕がまだ小学生だったころ、夏休みにはいつも母親の実家に戻り、親戚一同みな一つ屋根の下で数週間を過ごした楽しい記憶が残っているが、マリアナの家族は毎日がそんな感じなのだ。
僕は別にここで、どんな生活が人間にとって一番幸せなのか、などと問題提起をするつもりはない。ただ、僕にとってこの家族と過ごす数日間はいつも、普段の生活の中で忘れてしまっていることを思い出させてくれる貴重な時間、という気がするのだ。
こんな家族と巡り会わせてくれたマリアナに、あらためて感謝したいと思う。
なんだか身の回りの事に追われてしまい、すっかりご無沙汰になってしまいました。
今日から5日間ほど休暇をとってメキシコのマリアナの家族を訪ねてくる。
http://blog.goo.ne.jp/kuniphoto/d/20090410
彼女の葬儀の時は慌ただしかったし、この先当分戻れそうもないので、少し彼らとゆっくりしてこようと思う。
例の槌指変形となった指もまだ完治していないので、バレーボールができるかは???だが、子供たちとまた会えるのも楽しみだ。
http://blog.goo.ne.jp/kuniphoto/d/20090401
今日から5日間ほど休暇をとってメキシコのマリアナの家族を訪ねてくる。
http://blog.goo.ne.jp/kuniphoto/d/20090410
彼女の葬儀の時は慌ただしかったし、この先当分戻れそうもないので、少し彼らとゆっくりしてこようと思う。
例の槌指変形となった指もまだ完治していないので、バレーボールができるかは???だが、子供たちとまた会えるのも楽しみだ。
http://blog.goo.ne.jp/kuniphoto/d/20090401
3日間をマリアの家で過ごして、都市部に戻ってきた。明日の飛行機でシカゴに戻る予定だ。
メキシコに到着し、空港で預けた荷物が出てくるのを待っているときに、マリアの弟からメッセージが入った。
「クニ、マリアが息絶えたよ。。。」
彼女の家に向かうタクシーのなかで、僕の胸中はかなり複雑だった。
昨夜まで、僕はとりあえずフロリダに行って、もしマリアが亡くなったらその葬儀のためにメキシコに行こうと考えていた。しかし、念のためメキシコ人の友人に話を聞いてみると、人が亡くなると、普通はその晩が通夜、 葬式は翌日の朝におこなわれるという。それでは死の知らせを聞いてからアメリカを発っても、葬式に間に合うように田舎部にあるマリアの家に着くのが非常に難しくなる。
僕は前夜に買ったフロリダへのチケットやホテルの予約をすべてキャンセルして、マリアの元に戻ることにした。しかし、先月マリアが危ないという知らせを受けて慌ててメキシコに戻ったに関わらず、結局2週間近く滞在することになってしまったので、今度ばかりはボスを説得するのに少々手間取った。
そんな経緯があったので、今回もまたマリアが持ち直したら、トリビューンが僕をどのくらいメキシコに滞在させてくれるか疑問だった。以前のブログに書いたように、マリアに生きていてほしいと願う反面、正直なところ僕の心の中には、この状態があまり長引いてほしくない、という悪魔のような思いもあったと認めざるを得ない。だから、こんなタイミングで彼女が亡くなったという知らせを聞いた時、「ひょっとしたら僕がそのような冷酷なことを考えたからだろうか。。。」などと、罪悪感のようなものを抱いてしまったのだ。それにしても、マリアの家まであと4時間ほどだったのに、生きた彼女にもう一度会えなかったのはやはり残念だった。
葬儀の撮影は、予想はしていたが、やはり僕にとってきついものになった。
どんな場合でも、人が悲しむ姿を撮るのは気分のいいものではない。それでも被写体と一面識もなければ、それなりに自分の感情を殺す事はできる。しかし今度は家族同然の付き合いをしてきた人たちなので、さすがに彼らにカメラを向けるのは辛かった。特に、いつもはクールなマリアの弟と子供たちが嘆き悲しむ姿など、みているだけでも胸が痛むのに、その上僕は彼らに対して冷徹なレンズを向けなくてはならなかったのだ。
マリアと彼女のような境遇のメキシコ人たちをとりまく問題は非常に根が深い。不法入国であるという理由から、子宮がんになったマリアは治療を受ける事ができなかった。何ヶ月も後になってから、やむなく他人の名義を使用して彼女は入院に成功するが、時遅しで、通常なら早期発見で克服できるはずのこの種のがんによって彼女はその若い命を終えた。
こう書いてしまえば一見単純だが、彼女のストーリーはアメリカのヘルスケアと移民政策の重大な歪みを孕んでおり、単に不法入国のうえに他人の名義を盗んだマリアが悪い、などとは言い切れない複雑さを持っている。このことについては、別の機会にきちんと報告したいと思っている。
マリアの家族とは、取材とは関係なしにこれからも長く付き合いを続けていきたい、僕にそう思わせるほど彼らは「いい人間たち」だった。
今は、彼らと巡り会わせてくれたマリアに感謝したい。
合掌。
(はじめにマリアという仮名で彼女を紹介したので、そのままの名前で通したが、彼女の記事はトリビューンにすでに掲載され、本名も公開された。本名はマリアナ・デ・ラ・トレ。2009年4月7日、29歳で死去)
メキシコに到着し、空港で預けた荷物が出てくるのを待っているときに、マリアの弟からメッセージが入った。
「クニ、マリアが息絶えたよ。。。」
彼女の家に向かうタクシーのなかで、僕の胸中はかなり複雑だった。
昨夜まで、僕はとりあえずフロリダに行って、もしマリアが亡くなったらその葬儀のためにメキシコに行こうと考えていた。しかし、念のためメキシコ人の友人に話を聞いてみると、人が亡くなると、普通はその晩が通夜、 葬式は翌日の朝におこなわれるという。それでは死の知らせを聞いてからアメリカを発っても、葬式に間に合うように田舎部にあるマリアの家に着くのが非常に難しくなる。
僕は前夜に買ったフロリダへのチケットやホテルの予約をすべてキャンセルして、マリアの元に戻ることにした。しかし、先月マリアが危ないという知らせを受けて慌ててメキシコに戻ったに関わらず、結局2週間近く滞在することになってしまったので、今度ばかりはボスを説得するのに少々手間取った。
そんな経緯があったので、今回もまたマリアが持ち直したら、トリビューンが僕をどのくらいメキシコに滞在させてくれるか疑問だった。以前のブログに書いたように、マリアに生きていてほしいと願う反面、正直なところ僕の心の中には、この状態があまり長引いてほしくない、という悪魔のような思いもあったと認めざるを得ない。だから、こんなタイミングで彼女が亡くなったという知らせを聞いた時、「ひょっとしたら僕がそのような冷酷なことを考えたからだろうか。。。」などと、罪悪感のようなものを抱いてしまったのだ。それにしても、マリアの家まであと4時間ほどだったのに、生きた彼女にもう一度会えなかったのはやはり残念だった。
葬儀の撮影は、予想はしていたが、やはり僕にとってきついものになった。
どんな場合でも、人が悲しむ姿を撮るのは気分のいいものではない。それでも被写体と一面識もなければ、それなりに自分の感情を殺す事はできる。しかし今度は家族同然の付き合いをしてきた人たちなので、さすがに彼らにカメラを向けるのは辛かった。特に、いつもはクールなマリアの弟と子供たちが嘆き悲しむ姿など、みているだけでも胸が痛むのに、その上僕は彼らに対して冷徹なレンズを向けなくてはならなかったのだ。
マリアと彼女のような境遇のメキシコ人たちをとりまく問題は非常に根が深い。不法入国であるという理由から、子宮がんになったマリアは治療を受ける事ができなかった。何ヶ月も後になってから、やむなく他人の名義を使用して彼女は入院に成功するが、時遅しで、通常なら早期発見で克服できるはずのこの種のがんによって彼女はその若い命を終えた。
こう書いてしまえば一見単純だが、彼女のストーリーはアメリカのヘルスケアと移民政策の重大な歪みを孕んでおり、単に不法入国のうえに他人の名義を盗んだマリアが悪い、などとは言い切れない複雑さを持っている。このことについては、別の機会にきちんと報告したいと思っている。
マリアの家族とは、取材とは関係なしにこれからも長く付き合いを続けていきたい、僕にそう思わせるほど彼らは「いい人間たち」だった。
今は、彼らと巡り会わせてくれたマリアに感謝したい。
合掌。
(はじめにマリアという仮名で彼女を紹介したので、そのままの名前で通したが、彼女の記事はトリビューンにすでに掲載され、本名も公開された。本名はマリアナ・デ・ラ・トレ。2009年4月7日、29歳で死去)
ギフトとムスには申し訳ないが、結局またメキシコへ戻ることになった。
明日の早朝シカゴを発つが、それでもマリアの村に着くのは夜の9時くらいになる。弟の話では、彼女はもう言葉も話せない状態になっているという。複雑な思いだ。
明日の早朝シカゴを発つが、それでもマリアの村に着くのは夜の9時くらいになる。弟の話では、彼女はもう言葉も話せない状態になっているという。複雑な思いだ。
数日前、メキシコから一旦シカゴに戻ってきた。
一旦、というのは、まだこの取材が終わっていないからだ。医師の宣告からすでに2週間以上、周りの予想を覆し、日に日に容態を悪化させ、苦しみながらもマリアは頑張って生き続けている。
彼女の最後を看取るためにメキシコに戻ったのだが、いつになるかわからない日のためにこれ以上滞在を延ばすことができなくなったのだ。
今回のマリアの取材は、報道カメラマンとしての葛藤が絶大で、精神的にはなかなかきついものがある。以前にもイラクでの経験をもとに同じようなことを書いたが、まさに「他人の不幸で飯を食う」というこの職業の極端な例だろう。
http://blog.goo.ne.jp/kuniphoto/e/f2b54325e6ac11466e86791f0b66fe1a
マリアと彼女の家族とは、2週間近くも生活を共にしてすっかり気心の知れた仲になった。もともとみな人が良く、言葉がまともに通じなくてももうそれほど不自由を感じないし、家族の一員とまではいかなくとも、彼らと気兼ねのない関係を築くことができた。
しかし、そんなマリアと家族たちと過ごす日常を楽しみ、彼らに感謝する一方で 、報道カメラマンとしてのもう一人の「悪魔的な」自分は、常に背後につきまとってくる。
それは僕が、マリアの死を「待ち望んでいる」存在でもあるからだ。
単なる一個人としては、勿論彼女に生き続けてもらいたいし、家族、特に子供たちの悲しむ姿などみたくはない。しかし、冷血漢といわれようが、彼女の取材を続けてきた報道カメラマンとして、マリアの葬儀を撮らなくてはこのストーリが完結しないことはわかっているし、もともとそれが目的で僕は再びメキシコに飛んだのだ。
この仕事をしていると、こんな矛盾や葛藤は特にめずらしいことではない。しかし、今回はあまりに被写体との距離が極端に近くなりすぎて、自分自身のなかでこれを消化するのが難しくなってしまったような気がする。マリアが苦痛にもだえる姿にカメラを向けられなかった事が何度もあった。
それでも、僕の都合や葛藤などとは関係なしに、来るべき時(恐らくこの先数週間のうちになるだろう)にマリアはその生を終え、僕はまたメキシコに戻ることになる。そのとき、僕はどういう思いを胸に、残った家族や子供たちにレンズを向ける事になるのだろうか。。。
一旦、というのは、まだこの取材が終わっていないからだ。医師の宣告からすでに2週間以上、周りの予想を覆し、日に日に容態を悪化させ、苦しみながらもマリアは頑張って生き続けている。
彼女の最後を看取るためにメキシコに戻ったのだが、いつになるかわからない日のためにこれ以上滞在を延ばすことができなくなったのだ。
今回のマリアの取材は、報道カメラマンとしての葛藤が絶大で、精神的にはなかなかきついものがある。以前にもイラクでの経験をもとに同じようなことを書いたが、まさに「他人の不幸で飯を食う」というこの職業の極端な例だろう。
http://blog.goo.ne.jp/kuniphoto/e/f2b54325e6ac11466e86791f0b66fe1a
マリアと彼女の家族とは、2週間近くも生活を共にしてすっかり気心の知れた仲になった。もともとみな人が良く、言葉がまともに通じなくてももうそれほど不自由を感じないし、家族の一員とまではいかなくとも、彼らと気兼ねのない関係を築くことができた。
しかし、そんなマリアと家族たちと過ごす日常を楽しみ、彼らに感謝する一方で 、報道カメラマンとしてのもう一人の「悪魔的な」自分は、常に背後につきまとってくる。
それは僕が、マリアの死を「待ち望んでいる」存在でもあるからだ。
単なる一個人としては、勿論彼女に生き続けてもらいたいし、家族、特に子供たちの悲しむ姿などみたくはない。しかし、冷血漢といわれようが、彼女の取材を続けてきた報道カメラマンとして、マリアの葬儀を撮らなくてはこのストーリが完結しないことはわかっているし、もともとそれが目的で僕は再びメキシコに飛んだのだ。
この仕事をしていると、こんな矛盾や葛藤は特にめずらしいことではない。しかし、今回はあまりに被写体との距離が極端に近くなりすぎて、自分自身のなかでこれを消化するのが難しくなってしまったような気がする。マリアが苦痛にもだえる姿にカメラを向けられなかった事が何度もあった。
それでも、僕の都合や葛藤などとは関係なしに、来るべき時(恐らくこの先数週間のうちになるだろう)にマリアはその生を終え、僕はまたメキシコに戻ることになる。そのとき、僕はどういう思いを胸に、残った家族や子供たちにレンズを向ける事になるのだろうか。。。
マリアの命があと2、3日かも知れないという彼女の弟からの電話をうけて、慌てて先週金曜の夜にメキシコに戻ってきたが、 彼女は体調の善し悪しを繰り返しながらもなんとか持ち直している。
メールのチェックと、写真の編集および電送をしなくてはならなかったので、昨夜都市部に戻ってきた。彼女の家の庭に置かれたベッドで、毎晩襲ってくる蚊と格闘しながらろくに眠れない6日間を過ごしたので、ちょっとした息抜きもしようと思っている。数日間ここで過ごしてから、また来週マリアの村へ戻る予定だ。昨夜は久しぶりにお湯のシャワーを浴びられたのも助かった。
数日前に、実に興味深い体験をした。
マリアのために、地元の教会のメンバーたちが彼女の家を訪れた。ベッドサイドで歌を唱い、聖書を読んで一通りの礼拝をおこなうと、司祭がマリアの額に手を置き、他のメンバーたちもみな彼女に向かって手をかざしながら、熱心に祈りはじめた。
マリアは眼をつぶり、しばらくの間じっとそれを受け止めていたが、突然身体が拒絶反応をしめしたように、司祭の手を激しく振り払い身悶えだした。そんなマリアの反応にも関わらず、司祭たちが強い調子で祈りを続けると、次第に身体から力が抜けて彼女はぐったりとなり、まるで眠っているかのように静かになった。
祈りが終わると、なんとマリアはまるで憑き物がとれたかのようにすっきりとした顔になり、元気を取り戻したのだ。
その日は一日中彼女の体調は悪く、寝たきりだったにも関わらず、祈りが終わってからのマリアは笑顔でペラペラとよく喋るまでに元気になった。
余命を数日と宣告された末期のがん患者だ。数分の祈りをうけただけでそう簡単に体調が良くなるとは信じ難かったが、それでも目の前で見せられた現実は否定しようがない。僕はなんともいいようのない驚きにつつまれてしまった。
「私にもどうしてかわからないんだけど、祈りを受けた後に急に元気になったのよ。。。」
翌日マリアにそのときの感じを尋ねたのだが、彼女自身にも説明がつかないようだった。
彼女のがんが完治したとかいう奇跡がおこったわけではないが、それでもそれは驚愕に値する光景だったし、まだまだ医学や科学では説明できないこともあるものだとあらためて思い知らされた一夜だった。
メールのチェックと、写真の編集および電送をしなくてはならなかったので、昨夜都市部に戻ってきた。彼女の家の庭に置かれたベッドで、毎晩襲ってくる蚊と格闘しながらろくに眠れない6日間を過ごしたので、ちょっとした息抜きもしようと思っている。数日間ここで過ごしてから、また来週マリアの村へ戻る予定だ。昨夜は久しぶりにお湯のシャワーを浴びられたのも助かった。
数日前に、実に興味深い体験をした。
マリアのために、地元の教会のメンバーたちが彼女の家を訪れた。ベッドサイドで歌を唱い、聖書を読んで一通りの礼拝をおこなうと、司祭がマリアの額に手を置き、他のメンバーたちもみな彼女に向かって手をかざしながら、熱心に祈りはじめた。
マリアは眼をつぶり、しばらくの間じっとそれを受け止めていたが、突然身体が拒絶反応をしめしたように、司祭の手を激しく振り払い身悶えだした。そんなマリアの反応にも関わらず、司祭たちが強い調子で祈りを続けると、次第に身体から力が抜けて彼女はぐったりとなり、まるで眠っているかのように静かになった。
祈りが終わると、なんとマリアはまるで憑き物がとれたかのようにすっきりとした顔になり、元気を取り戻したのだ。
その日は一日中彼女の体調は悪く、寝たきりだったにも関わらず、祈りが終わってからのマリアは笑顔でペラペラとよく喋るまでに元気になった。
余命を数日と宣告された末期のがん患者だ。数分の祈りをうけただけでそう簡単に体調が良くなるとは信じ難かったが、それでも目の前で見せられた現実は否定しようがない。僕はなんともいいようのない驚きにつつまれてしまった。
「私にもどうしてかわからないんだけど、祈りを受けた後に急に元気になったのよ。。。」
翌日マリアにそのときの感じを尋ねたのだが、彼女自身にも説明がつかないようだった。
彼女のがんが完治したとかいう奇跡がおこったわけではないが、それでもそれは驚愕に値する光景だったし、まだまだ医学や科学では説明できないこともあるものだとあらためて思い知らされた一夜だった。
マリアの容態が悪化したと、数時間前にマリアの弟から連絡がはいった。
地元の医者の話では、あと2、3日しか持たないかも知れないということだ。
そんなわけで明朝再び明日メキシコへ発つことになり、慌ただしく荷物をまとめている。
また持ち直してくれるといいのだが。。。
地元の医者の話では、あと2、3日しか持たないかも知れないということだ。
そんなわけで明朝再び明日メキシコへ発つことになり、慌ただしく荷物をまとめている。
また持ち直してくれるといいのだが。。。
メキシコ滞在を終えて昨日シカゴに戻ってきた。
長かったようにも短かったようにも思える一週間だったが、これほど自らが被写体に深入りした取材は初めてだった。
ひょっとしてマリアの命もこれまでなのか?と思えるような場面も幾度かあったが、その度に彼女は持ち直してきた。そんな状況では僕も単なる傍観者でいられるわけもなく、片言のスペイン語で四苦八苦しながらも看病の手伝いなどしていたが、おかげでマリアの家族とも親密な関係を築くことができた。
言葉もろくに通じない異邦人を、彼らはまるで家族のようにあたたかく迎え入れてくれた。
マリアの子供たちもとても気だての優しい子たちで、特に8歳の長男であるロドリゴはベッドの脇でいつも母親の手を握り微笑んでいた。そんな光景をみるたびに複雑な思いを抱かずにいられなかったが、子供たちと話しているマリアは心底幸せそうだった。
早期治療がおこなわれていればマリアの子宮がんは十分に治癒が可能だったはずだ。アメリカのヘルスケア制度の歪みのために、失われずにすんだはずの命が消えようとしている。
世話をしてくれる叔母や身内がいるのが唯一の救いだが、3人の子供たちが永遠に母親を失うという事実に変わりはない。
マリアと彼女の家族と過ごした時間をまだ消化しきれずに、いろいろな思いが頭をよぎっている。
次に彼らと会うことになるのは、残念ながら彼女の葬儀になるかも知れない。
長かったようにも短かったようにも思える一週間だったが、これほど自らが被写体に深入りした取材は初めてだった。
ひょっとしてマリアの命もこれまでなのか?と思えるような場面も幾度かあったが、その度に彼女は持ち直してきた。そんな状況では僕も単なる傍観者でいられるわけもなく、片言のスペイン語で四苦八苦しながらも看病の手伝いなどしていたが、おかげでマリアの家族とも親密な関係を築くことができた。
言葉もろくに通じない異邦人を、彼らはまるで家族のようにあたたかく迎え入れてくれた。
マリアの子供たちもとても気だての優しい子たちで、特に8歳の長男であるロドリゴはベッドの脇でいつも母親の手を握り微笑んでいた。そんな光景をみるたびに複雑な思いを抱かずにいられなかったが、子供たちと話しているマリアは心底幸せそうだった。
早期治療がおこなわれていればマリアの子宮がんは十分に治癒が可能だったはずだ。アメリカのヘルスケア制度の歪みのために、失われずにすんだはずの命が消えようとしている。
世話をしてくれる叔母や身内がいるのが唯一の救いだが、3人の子供たちが永遠に母親を失うという事実に変わりはない。
マリアと彼女の家族と過ごした時間をまだ消化しきれずに、いろいろな思いが頭をよぎっている。
次に彼らと会うことになるのは、残念ながら彼女の葬儀になるかも知れない。