Kuni Takahashi Photo Blog

フォトグラファー高橋邦典
English: http://www.kunitakahashi.com/blog

中学校での講演

2008-02-28 12:23:06 | シカゴ
先週、シカゴ郊外にある日本人学校で、中学生を相手に話をする機会をいただいた。

「平和学習」という授業に参加し、僕のこれまでのイラクでの経験を写真をみせながら講演してきたのだが、そのときの生徒たちの感想文が今日郵送されてきた。

講演前は、生徒達の日常とあまりにかけ離れたイラクや戦争のことなど、興味を持って聞いて貰えるだろうかと疑念をもっていたのだが、それなりに真剣に受け止めていてくれたようで、感想文にはみな切実な思いが綴られていた。

彼らのほとんどが、「戦争のことなどこれまで考えたこともなかった」、「初めて戦争の怖さを知ることができた」と述べている。アメリカに住んでいるのに、と少し不思議に思うが、よく考えてみれば無理もない、米軍のイラク侵攻が始まったとき彼らはまだ7,8歳に過ぎなかったし、その多くは日本にいたはずだ。

そんななか、一風変わった興味深い文章があった。本人の了解がないのでこの生徒の名前は伏せておくが、彼の言葉をいくつか引用してみたい。

「。。。僕みたいな人はゲームくらいでしか戦争を知れないからです。ゲームでは目の前の敵を倒していけばクリアとなりますが、現実は敵でもない民間人の命さえも奪うことになります。無論ゲームの中では民間人なんて登場しませんので、戦争に対する見方は、実際の体験者と比べれば全く違うものになると思います」

「戦争とは仕方のないことだと思います。仕方ないの一言で流せることではないということはわかっています。しかし、実際あちこちに戦争の花を咲かせる種は落ちていると思います。その種たちだって既に実をつけて、あと一歩の所まで来てるかもしれません」

「日本は過去に太平洋戦争で負けて、誰もが平和を望んだはずなのに60年ちょっと時が流れただけで、再び戦争をしようとしています。つまり、平和がわからなくなってきているのではないかと思います。平和とはどういうことなのか?と聞かれたら、おそらく日本人は8割くらいの人が答えられないと思います。それが10割に達してしまったときに戦争が始まってしまうのではないかと思います」

細かいことは抜きにして、現在僕らをとりまく現代の状況をうまく言い表しているなあ、と感心させられた。

写真展や本の感想を送ってもらう度に、子供たちの感受性、というか、彼らなりのものの見方にははっとさせられるものがある。そんな彼らからの反応に接するたびに、こちらももっと頑張って伝えなくては。。。などと勇気づけられるから、まあ僕も単純なものだ。

記憶というものは風化してしまうもの。今回の僕の講演で、死体や傷ついた人の写真をみてショックを受けたことや、戦争について考えてみたことも、生徒たちはすぐに忘れてしまうだろう。

しかし、何年か先の将来、彼らが戦争や平和について自己の意思表示をすべく時がきたとき、僕の見せた写真や話をふと思い出して堂々と戦争反対の意見を述べてくれるとしたら、講演の甲斐もあるものだ。。。と思っている。






事件報道の罪(その2)

2008-02-21 21:38:59 | シカゴ
前回のブログの続きになるが、「糞バエ」(コメント欄参照)のひとりである僕も、結局今回の乱射事件から離れているわけにもいかず、日曜に大学の近くにある教会のミサ、そして月曜には犠牲者のひとりである女学生の葬儀の様子を撮影してきた。

「こんな理不尽な事件のためにこれだけ人々が心を痛めている。。。」
実際に現場に出て、教会で悲しむ人々の表情にレンズを向けていると、やはりこういう現実は世間に知ってもらうべきだ、そういう気持ちが湧き出てきた。しかし、それは単にカメラマンとしての自己の仕事を正当化する解釈だった、と思えなくもない。

なぜなら、前のブログに書いた問題点、すなわちこういう事件報道を大々的におこなうことによって、今後の事件再発にある種加担してしまっているのではないか、という疑問はいまだに僕の中に残ったままだからだ。

この写真は結局トリビューンの第一面に掲載されたが、今回はなにかしっくりといかないものがあるのが正直なところだ。


事件報道の罪?

2008-02-16 12:41:38 | シカゴ
2週間前のシカゴ郊外でのショッピングモールでの事件に続き、無差別銃撃殺人がまたおこった。

今度はシカゴから車で1時間ほど西にあるノーザン・イリノイ大学の構内だ。5人の学生と犯人合わせて6人が命を失った。

1999年のコロンバイン高校での乱射にはじまり、昨年のバージニア工科大での事件を含め、学校内やショッピングセンターなど公の場での銃の乱射殺人が続発している。僕はシフトの関係で昨日の事件の取材にはいかなかったのだが、テレビで延々と流される生中継の映像をみながら、ふとこんなことを考えていた。

こんなに事件が起こるのは、メディア、すなわち報道機関にも責任があるのではないか。。。

たしかに5人も10人も犠牲者がでればそれなりの大事件ではある。しかしメディアが大々的に、そしてセンセーショナルにこういう事件を報道すればするほど、コピーキャット(模倣)事件がどんどん増えていくのではないかと感じるのだ。

事件がテレビや新聞で大きな脚光を浴びて、世間に与える影響が大きいほど犯人にしては願ったりの結果だろう。そしてそういうセンセーショナリズムは、それを見ている将来の犯人候補(?)をかえって勇気づけることになっていやしないだろうか?逆に考えて、仮にメディアがこういう事件をほとんど報道しないか、大袈裟に扱うことをしていなかったとしたら、果たして似たような事件がこれほどまでに続発していただろうか、と思うのだ。

こんなことを考えていたら、事件報道の目的とは一体なんなのかよくわからなくなってきた。

僕が考えるところのジャーナリズムの使命とは、現実を報道することによって、その状況改善を目的とすること、である。例えば戦争や貧困など、世間に知られざる現実を一般社会に伝えることにより、世論を動かし、そこから争いを食い止めたり、社会的弱者の生活状況の改善につなげていくことだ。

しかし、あらためて考えてみて、学校での乱射殺人のような事件の報道が一体何の役にたっているのか、はっきりとした答えが見出せない。逆に、前述したように、事件をセンセーショナルに報道することによって、将来起こりうる事件をかえって増やしているのではないか、とさえ思うのだ。まあそうは言ってもこんな仮定を証明することはできないし、これはあくまで僕の私見に過ぎないのだけれど。。。

仮に僕の考えが正しいとしても、現実的にメディアがこういう事件を無視したり黙殺したりすることは考えられないし、要はその報道の仕方に問題があるのだろうと思う。

まあいまの社会ではこんな提案は実現不可能であろうが、これから報道機関、特にテレビは、こういう事件がおこってもセンセーショナルに扱うことはせず、あくまで冷静に事実を最小限に述べるだけにとどめてみたらどうだろう。

もしメディアが、「自分たちが事件再発の一因を担っているのでは。。。」という認識と疑問をもち、報道姿勢をあらためるとしたら、将来の犯罪事情は変わっていくと思うのだけれど。。。






ウェブサイト更新

2008-02-10 22:08:22 | 写真展・雑誌掲載
自分のウェブサイト、もう2年以上も更新せずにそのままになっていたのだが、昨日ようやくアップデートできた。
http://www.kuniphoto.com
更新は面倒で時間がかかるのでなかなか手を付けられなかったのだ。今回も週の初めから少しずつ始めて、週末の休み2日をすべて使ってやっと終了。これからリベリアのプロジェクトや、写真展の情報なども含めてさらに充実させたいので、まだまだ格闘は続く。。。

記事の商品価値

2008-02-08 10:36:09 | 報道写真考・たわ言
またまた書き込んでいただいたコメントからブログのネタをいただいたようで恐縮だけれど、テレビの視聴率に関するコメントには非常に共感するものがあったので、僕なりの意見を書いてみたいと思う。

この点についてはテレビに限らず新聞も全く同じで、購読数、そしてウェブページならクリック数で、その記事の「商品価値」が決められてしまうようなところがある。

洗剤や車などを売るような一般企業と違い、報道に関わる新聞社には、情報を売って利潤を生む以外に、読者に知識を与え「教育」することによって社会を改善していこうというジャーナリズムの重要な役割があるはずだ。

その使命と経営上の利益とのバランスがとれていればいいのだが、経営陣が変わったりして利益だけを求めるようになると新聞社もおかしなことになっていく。コメントでも述べられているように、購読率をあげようとして「読者が求めるもの」を選んで報道するようになると、それはだんだんとジャーナリズムの使命から離れ、確実に記事の質の低下につながっていくからだ。

ウェブサイトのクリック数を調べるとよくわかるが、読者がクリックするのは芸能関係と動物関係がやたら多い。たしかにこの分野は世界情勢やその他の硬いニュースよりも一般受けするし、クリック数が多いのも納得できる。

このクリック数というのが曲者で、結構重要な役割を果たしているのだ。営業マンが紙面への広告をとるときに、「これだけクリックされているから広告の効果は期待できますよ。。。」というような売込みができるから、クリック数が多ければ多いほど、価値の高いページということになる。

しかし、だからといってこんなクリック数だけを基準にして芸能とか動物ものを記事のなかにあえて増やしたり、ウェブサイトのフロントページに持ってくるとしたら、紙面はどうなってしまうか?本来のジャーナリズムとはかけ離れた、単なる娯楽紙と成り果ててしまうだろう。

トリビューンの紙面では、昨年、フロントページに続いて2番目にあった国際情勢(World)のページが、国内情勢 (Nation)と入れ替えられて3番目にきてしまった。国際情勢は、国内のことに比べて「読者の関心が薄い」という判断によるものだが、アメリカ人はもっと世界のことを知ったほうがいいんじゃないか、と思っている僕にとっては全く納得のいかない紙面変更だった。本来なら、「読者の関心が薄い」からこそ、読者の興味や知識を高められるようにもっと力を入れて報道すべきだと思うからだ。

。。。とまあいろいろ御託を並べてしまったが、新聞社といえども所詮は企業。広告収入を経営の源のひとつとしている以上、独立したジャーナリズム機関となることは不可能だし、ましてやそこから給料をもらっているサラリーマン・カメラマンである僕が新聞のあり方を愚痴ってもあまり説得力がないな、という気もしているのだけれど。。。

「断片」に過ぎない写真

2008-02-04 07:45:38 | 報道写真考・たわ言
前回のブログで、写真の捏造についてや、天気を撮る仕事で同じ苦労をされている同業の方からのコメントがあったので、写真という媒体について、僕らの日常の仕事に絡めてちょっと書いてみようと思う。

まず、写真というのはそもそもそこに存在するすべてのものを表せるものではなく、眼の前の光景の一部をフレームに入る範囲で切り取って写しているに過ぎない。だから、そこには何を見せて何を見せないかというカメラマンの意図が入り込むことになるし、テーマの決まっている撮影の仕事なら、それに一番見合った題材を探してそこに意図的に焦点をあてることになる。

天気状況を写す場合など、同じシカゴという街の中でも、場所によって雪の積もり方も違えば風の吹き方も違う。雪のニュースにあわせる写真なら、すぐに除雪車で雪が掃かれてしまう大通りよりも、積もった雪がそのままになっている路地のほうが味のあるものが撮れるかも知れないし、また風のニュースなら建物の関係で突風が起こりやすいスポットにいけば、強風を表現する写真が撮りやすくなる。

だから、その一枚の写真がその瞬間のシカゴという街すべての天気を表現しているわけではないし、それはあくまでも断片的な事象にすぎない。しかし、それもれっきとした現実の気象状況の一部を記録したものである限り、新聞写真としては十分に事足りるわけだ。

ちなみにそれはあくまで提示された「現実」からカメラマンが何を選ぶかという「選択」の問題であって、何もないところから自分の求める光景を偽造する「捏造」とは全く次元の違うものだということははっきり言っておきたい。

注意が必要なのは、この「断片的なこと」を読者が「すべて」だと勘違いしてしまうことだ。だから、僕らは「どこで、だれが、いつ、どこで、どうした」という基本的な写真の説明(キャプション)を可能な限りきちんとつけるし、それによってその写真の「断片性」をはっきりさせることができる。そのあとはもう読者の判断に任せるしかない。

戦場取材を例にとってみても同様なことがいえるだろう。例えばイラクやソマリアなどで報道されているものだけをみていると、まるで国じゅうで戦闘がおこっているかのような錯覚に陥るが、実際に現場に行ってみると意外と人々は普通に日常生活をおくっていたりする。これも僕自身を含めてカメラマンたちが戦争を報道しようという意図をもっているから、撮るものが戦闘や難民など悲惨なものばかりになるわけで、逆に意図と視点を変えれば戦場の中でも平和な光景ばかりを撮ってくることも可能なのだ。

写真というものは所詮、現実の「断片」を切り取るものでしかなく、撮影者が何を訴えたいか、という意図によってその断片も変わってくるということはすでに書いたが、僕ら報道カメラマンたちは切り取るためのその「断片」を探すのに日常の仕事の中で四苦八苦するわけだ。それを求めて2時間3時間と街を歩き回ることもあるし、締め切り時間のある新聞の仕事ではそれが見つからずに、妥協したものしか撮れずふがいない思いをすることも少なくはないのだ。