Kuni Takahashi Photo Blog

フォトグラファー高橋邦典
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リビア:ドリフティングに興じる若者達

2014-02-26 22:00:43 | アフリカ
数日前、デリーの夜の路上で改造車が猛スピードでスリップしながら走っていくのに出くわしたが、それをみてリビアでのある光景を思いだした。もう2年以上も前のことになるけれど、反カダフィーの革命を取材中に、東部の町ベンガジで「ドリフティング」を撮る機会があったのだ。

タイヤの軋むかん高い音とともに、路面からもうもうと白煙があがる。韓国車のデーウーからカローラ、そしてBMWに至るまで、ベンガジ中心部にあるキッシュ広場では、何台ものチューンアップされた車が次々とスピンや急発進を繰り広げていた。ドリフティングとは、急ブレーキや急ハンドルなどを駆使して、派手に車を滑らせたりスピンさせるテクニック。実際にそれを使って走行するというより、いまや見物人の前でその技術をみせるショーのようになった。その人気は、近年若者達のあいだで世界中に広まっているというが、まさか戦時中のイスラム教の国でこんなエンターテーメントをみるとは思わなかった。

ベンガジは、反カダフィー派の本拠地。この町から起こったリビア革命の波は内戦へと発展したが、当時反カダフィー派が首都トリポリから200キロ程手前のミスラタを落としてから、戦闘は硬直状態に陥っていた。すでに戦闘が終わり比較的治安も安定していたベンガジでは、毎週木曜日の夜(イスラム教の祝日は金曜日)になると、何百人という若者達がドリフティング見物に集まるようになっていた。もともと内戦前から失業率が20パーセント前後と高い国だ。あるものは市民兵となって革命のために銃をとり政府軍と戦ったが、すでにこの町や近郊での戦闘は終わったいま、多くの若者たちは暇とエネルギーを持て余していたのだった。

通りを隔てたところには、すでに焼け跡となったカダフィー軍の駐屯地に残る崩れかけた建物が、闇のなかぼんやりと浮かび上がっていた。寝返った政府軍兵士たちがここを逃げ出し、反カダフィーの市民達によって焼き払われたこの場所が革命のシンボルになったのは、ほんの3ヶ月前ほどのことだ。多くの若者達にとって、心躍るエキサイティングな時だった。

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渋滞をひきおこす警官

2014-01-14 14:14:12 | アフリカ
少しばかり前、交通安全に関する撮影で、ケニアの首都ナイロビで数日間を過ごした。はじめのうちは、無法地帯ともいえるムンバイやデリーなどのインドの都市に比べれば、ナイロビの交通事情などたいしたものではないなと感じていたのだけれど、ある晩の経験から考えががらりと変わってしまった。

ナイロビから100キロほど北上したナイバシャという町から戻ってきた夜のことだ。仕事が長引き少し出発が遅れたにもかかわらず、交通量は少なく、思っていたより早くナイロビに到着。ところが、市内にはいりホテルまであと少しというところで、とんだ渋滞に巻き込まれた。のろのろと50メートル程走っては、10分間まったく動かなくなるといった繰り返し。どうやら1キロほどさきにあるロータリーが原因らしかった。

「警察のせいさ…」ドライバーがため息まじりにこう漏らした。彼が言うにはこういうことらしい。ロータリーで交通整理にあたっている警察官が、わざとひとつの道路だけを長く停止させて、しびれをきらせたドライバーから賄賂をとるのだという。賄賂せびりのそんな警察官の手口など、これまで訪れたどんな国でもきいたことはなかったが、同乗していたナイロビ在住のアメリカ人も、こんなことは日常茶飯事だと同意している。結局ロータリーまでの1キロを走るのに1時間半ほどかかり、そこでまさに僕が目撃したのは、僕らの道路に立ちふさがって異常に長い時間ストップさせている一人の警官の姿だった。

今回の仕事を始める前、撮影リストに「ロータリーで交通整理をする警察官」がはいっていた。なぜ特別にロータリーの警官を?と疑問に思った僕に、クライアントの言ったこんな言葉が、この晩まざまざと実感できたのだ。

「ロータリーの警官は交通整理どころか、逆に渋滞の原因になることもあるんだ」

(ちなみにここに掲載されている警官の写真は、記事中にあるロータリーの渋滞とは関係ありません)

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リベリア内戦から10年(その2)

2013-09-11 20:09:39 | アフリカ
悪名高いチャールズ・テーラー大統領の国外亡命によって、西アフリカのリベリア共和国で14年にわたり断続的に続いていた内戦が終焉を迎えたのが今から10年前の8月11日。

首都モンロビアが激しい戦闘のまっただ中にあった2003年7月以来、僕は内戦後もこの国の復興をずっと追い続けてきたが、今年3月、6度目となるリベリアを訪れた。

新しいホテルやレストラン、きれいに舗装された道路やそれを照らす街灯など、多くの変化に気づかされる。内戦時には戦いの最前線になって、ビルボードや店の壁が銃弾で蜂の巣のごとく穴だらけになっていたウォーターサイド市場にも、いまや戦闘の名残など何ひとつ残っていはいない。

アフリカ初の女性大統領として、2006年からリベリアを主導してきたエレン・ジョンソン・サーリーフのもと、表向きこの国は順調な発展を遂げつつあるようにみえる。しかしそのペースは、人々の期待にはまだまだ追いついていないようだ。一旦表通りをはずれ路地にはいってみれば、住人たちの暮らしは内戦直後とほとんど変わってはいないのは一目瞭然。ほとんどの家にはまだ電気もとおっていないし、水道も昔からの共同の井戸があるだけ。おまけに主食である米の値段はこの数年で3倍にも跳ね上がり、生活はすこしも楽にならない。最も深刻なのは、いまだに多くの人々が仕事につけずにいるということだ。

「わたしは仕事があるからラッキーだけど、兄弟姉妹だれひとり職にありつけない。家族8人を私の給料で養うのはむずかしいわ」

国際NGOで働く女性がこう愚痴をこぼした。

国の偏った復興は、裕福層やビジネスマンたちにさらなる金儲けのチャンスを生み出だしたが、国民の大部分を占める貧困層は置き去りにされたままだ。内戦中に銃を手に戦っていた少年兵たちは、いまや20代半ば。本来なら働き盛りの年頃なのに、教育も技術も持たない彼らの多くは、不定期の日雇い労働や、サンダルやマッチなど小物売りの行商でなんとか生きのびている。

国を建て直す、ということが一筋縄でいかないことは理解できるが、それでも10年という年月を考えれば、正直なところ僕はもっと復興が進んでいると予想していた。このままの状態が今後も続けば、不満をためこんだ若者たちがまた内戦をおこすのではないか、という懸念を持たずにはいられない。今後さらに富む者と貧困層の差は広がっていくだろうし、職の無い若者達が将来への希望を失ったとき、政府や上流階級に対して、彼らが再び銃を手に反乱をおこすことがないとは言い切れないだろう。

願わくは、僕のそんな心配は杞憂であってほしいものだ。次にリベリアを訪れるのがいつになるかはわからないが、そのときにはもっと多くの笑顔がみられるように祈りたい。

(関連記事 リベリア内戦から10年・ムスとの再会
(もっと写真を見る http://www.kunitakahashi.com/blog/2013/09/11/liberias-civil-war-ten-years-later-vol-2/ )

ネルソン・マンデラの思い出

2013-05-03 13:13:30 | アフリカ
来週5月10日は、ネルソン・マンデラが南アフリカ初の黒人大統領に就任してからちょうど19年目の記念日になる。

マンデラの大統領就任は、世界の歴史の中でも最も重要な出来事のひとつであったことは間違いないが、これは僕自身にとっても特別な日でもあった。

僕が報道カメラマンになって、初めての国外取材の仕事が1994年、この南アフリカの初の全人種混合選挙だったのだ。2ヶ月間の滞在中、政党同士の暴力抗争、黒人達にとって初めての投票、そしてマンデラの就任式などを撮り、駆けまわった。まだ写真学校を卒業したばかりの駆け出しだった僕が、APやロイタースなどの通信社やUS News & World Report 誌などに写真を寄稿できたのは幸運だったが、キャンペーンのときに拳をあげるマンデラを撮った写真が、初めてUS News誌に掲載されたときの喜びは、いまだに忘れることはない。

ジェームス・ナックトウェイ、APのデイビッド・ブロッコリーや南アのスターカメラマン、ケン・ウースターブロクなど、第一線で活躍していたベテランたちと行動を共にし、彼らから学んだことも計り知れない。不幸にもケンは、平和維持軍とANCの武力衝突の際、銃弾に倒れ、選挙の前にこの世を去ってしまったが。

南アでの思い出は数えきれないが、もっとも心に残っているのはやはりマンデラの就任式での光景だ。世界中から集まった何百人というカメラマン達と共に、僕は報道陣用のステージに立っていた。マンデラが正式に就任すると会場の興奮は最高潮に達し、その高揚した空気は、これまで経験したことのないほど、僕の体中にびりびりと伝わってくるほどになった。黒い手、白い手、褐色の手… この歴史的瞬間に立ち会うために駆けつけた何万もの人たちが人種に関係なく手を取り合い、それを空に向かって突き出している。思わず溢れ出してくる涙で、のぞいていたファインダーがみるみるくもっていったことを思い出す。

時は流れるのは早いもので、僕もマンデラもあれから20歳ちかくも歳をとったわけだが、偶然にも数日前、こんなニュースをネットで目にした。療養中のマンデラの家を訪れ、その様子をビデオで放映したANC(南アフリカの与党。マンデラの政党でもある)の政治家たちが批判にさらされている、というものだった。94歳のマンデラは、肺を病んで入退院を繰り返している状態で、2010年に南アでひらかれたワールドカップサッカー以来、もう何年も公衆の前には姿を現していない。放映されたビデオに映ったマンデラは衰弱した様子で、笑顔もみせていなかった。これに対して人々から、ANCによる売名行為とか、マンデラのプライバシー侵害といった非難が沸き上がったらしい。

マンデラの心中など僕にわかりようがないし、この批判について判断のしようもないが、ただ言えるのは、大統領の職を退いて何年も経つ現在も、マンデラは多くの人々にとって英雄であり、深く愛されている、ということだ。宗教や人種、階級をこえて、これだけみなに敬愛されたリーダーというのは、恐らく世界でも彼が最後なのではないだろうか。

ありふれた言い方だが、僕にとっても勇気や希望を与えてくれたマンデラの、今後の健康を祈らずにはいられない。駆け出しのころを思い出すとき、いつも頭に浮かんでくるのは、選挙中に拳をあげる彼の笑顔なのだから。

(もっと写真をみる http://www.kunitakahashi.com/blog/2013/05/03/memories-of-nelson-mandela/ )

(同記事は、Yahoo Japan News にも掲載しています)

リビア反体制派・「偉大なリーダー求む」

2011-08-01 13:17:38 | アフリカ
数日前、リビア反体制派のユニス参謀長の暗殺のニュースを目にした。

そのときの状況や犯行の動機などはまだはっきりとしないようだが、この暗殺によって反カダフィ体制派の内部分裂が起こることが懸念されている。2月に反体制派に寝返るまでカダフィー政権で閣僚を務めていたユニスは、それが理由で反体制派の一部指導者たちからの信頼を得られていなかったようだ。

この事件は、僕にあることを思い出させた。

5月のある晩、ベンガジで一人のリビア人の若者と国の将来について話をしていたときだった。彼はきっぱりとした口調でこう言ったのだ。

「民主主義とか選挙なんてものは信じてないよ。偉大な指導者さえいれば、俺はその傀儡でいい」

教育レベルも高くて(英語なんぞ僕よりうまかったし)、自由・進歩的な彼の口からでたそんな言葉にはさすがに驚いたが、なんとなくその気持ちはわかるような気がした。それでも、彼に全面的に合意するわけではない。やはり選挙というのも、彼の言う「偉大な指導者」を選ぶ手段の一つでもあり得ると思うからだ。しかし彼の意味することは、統治の実力とカリスマ性を備えていれば、独裁者でも王様でも軍指揮官でも偉大なリーダだ。選挙なんて必要ない、ということだった。

それ以上深くこのことについて話し合わなかったことが少々悔やまれるが、ユニス暗殺のニュースを聞いてこの晩のことを思い出し、リビアの次期リーダーについて少しばかり思いを巡らせることになった。

カダフィーが国のリーダーとしての座に返り咲くことはまず不可能だろう。しかし、暗殺をきっかけに反体制派の内部武力抗争が勃発するとしたら、彼らにとっては最悪の事態になる。反体制派の闘争が始まってからすでに5ヶ月。NATOを後ろ盾にしながらカダフィーを追い出すのにこれほど時間がかかっているのは、反体制派に偉大なリーダーが存在しないという理由も大きいのだ。

しかし、いまは選挙でそのリーダーを選んでいる場合では勿論無いのだけれど。。。

リビア出国

2011-06-02 17:19:12 | アフリカ
残念ながら、仕事の契約が早く短縮されてしまってリビアを発つことになった。

仕事抜きで残ろうかとも考えたが、ちょっと金銭的にも余裕が無いし、なんといっても政治的に硬直状態が続いており、全然ニュースがない。

いまや事態は「ウェイティング・ゲーム」の状態で、カダフィが殺されるか国をでない限り、次の大きな進展はないだろう。

2週間前にベンガジに戻ってきてから、毎日なんとか目新しいものを撮ろうと努力してきた。しかし3月からほとんど動きのないこの町では、それはなかなかしんどいことだった。前回の取材で反カダフィーの隆起に関することはほとんど撮り尽くしてしまっていったからだ。

とりあえずは一旦引き上げという感じだが、願わくばまた状況が熱くなったときに戻ってこられたら、と思う。

(もっと写真を見る http://www.kunitakahashi.com/blog/2011/06/02/leaving-libya/ )

再びリビア

2011-05-27 14:16:25 | アフリカ
1週間程前にリビアに戻ってきた。正直言ってまたこの国に戻って来るかわからなかったのだが、幸運にもアサインメントがとれたので、今回はちょっと長めの1ヶ月程の滞在になる。

2ヶ月前とはうってかわって、反カダフィ派によって戦闘の前線へのアクセスが厳しく制限されており、一般市民やジャーナリストはまったく立ち入ることができない。あくまで私見だが、イギリスかフランスの特殊部隊が入っていて、それをジャーナリストに見せたくないんじゃないかと推測している。

まあ現在は戦闘自体も3.4日おきに砲弾の応酬をするくらいで、ほとんど硬直状態になっているようだが、それでも今回は全く前線に足を踏み入れていない。その代わりというわけではないが、フィーチャーの撮影をしながら一般人たちと接する機会はかなり増えて、これまで知らなかったなかなか面白い話も耳にできるようになった。

そんな話しをいくつか -

* 90年代はじめまで、バナナをはじめとしたフルーツや、チョコレートなどは店頭で手に入らなかった。これらのものはカダフィ曰く「贅沢品」であり、個人的に密輸しない限り、店頭では買えなかった。

* 英語のプリントされたTシャツもタブー。2000年代はじめまで手に入らなかった。

* 服を買うときも自分で選ぶことはできず、ただすでに袋に入ったものを渡されるだけ。正確に何が入っているかはわからないので、店の外で欲しいものや自分に合ったサイズのものと客同士が交換しあっていた。

本当かね?というようは話しばかりだが、それが現実の生活だったらしい。現在は政局の動きも少なく、ある意味退屈なのでせめて滞在中にもっと面白い話しが聞けることを期待しようと思う。

(もっと写真を見る http://www.kunitakahashi.com/blog/2011/05/27/back-in-libya/ )


リビア東部、続く戦闘 

2011-03-12 20:16:00 | アフリカ
依然として激しい戦闘がリビア東部で続いているが、昨日国境を越えカイロに戻って来た。あと2、3日滞在する予定だったのだが、リビアの情勢が硬直してしまったことと、日本の大地震のせいで急遽予定を早めたのだ。仙台は僕の故郷でもある。

今朝早くようやく家族との連絡がとれて無事がわかったのでほっとしたが、付近のダメージは相当なもののようだ。このまま直接日本に行きたいところだが、間抜けにもこけて痛めた足の容態がかなり悪化してきたうえ、まともに使えるレンズも一本しかないので一旦ムンバイに戻ることにする。

1日2日様子をみて仕切り直しといったところだ。

(もっと写真を見る http://www.kunitakahashi.com/blog/2011/03/12/fighting-continues-in-libya/ )

リビア東部での激しい戦闘

2011-03-09 06:01:48 | アフリカ
ここ数日間気違いじみた日々が続いている。カダフィ大佐の故郷であるサルトから130キロ程東のベン・ジャワッドを手中にした反カダフィの民兵たちは戦勝ムードに沸いていたが、翌日政府軍による戦車や大砲など重火器を使った大反撃で彼らはラスラヌーフまで50キロ程押し戻された。

僕らは、なんとか少しでもいい写真が撮れるように戦闘の前線まで行き、危険が高くなると少し戻る、という繰り返しを続けている。

昨夜は15人のフォトグラファーと記者たちとともに、民家で一夜を過ごした。ホテルなどない町だが、親切な地元の人たち何人かがジャーナリストのために家を開放してくれているのだ。

このさきどんな展開になるか予想が難しい。僕らみなトリポリに向けて西に進みたいのはやまやまだが、戦力的にみて政府軍が圧倒的に優勢なのは一目瞭然。果たしてどうなるか。。。

(もっと写真を見る http://www.kunitakahashi.com/blog/2011/03/09/heavy-fighting-in-libya/ )

リビア 2月24日ー3月3日

2011-03-05 06:23:58 | アフリカ
エジプトから国境を越えてリビアにはいってからの9日間、無茶苦茶忙しい日々だった。毎日寝不足で疲れきっていたうえ、インターネットのアクセスも非常に悪いのでブログのアップどころではない。これまで反カダフィ派の本拠地である東部のベンガジに滞在してきたのだが、明日から戦闘の前線に向けて西に動き出すことにした。この先しばらくはまたブログの行進などできそうにないので、とりあえず数枚アップすることに。

(もっと写真をみる : http://www.kunitakahashi.com/blog/2011/03/05/libya-feb-24-march3/ )

カメラマンに対するカイロの人々の心変わり

2011-02-15 15:45:34 | アフリカ
昨日の朝、タハリール広場に残りデモを続けていた100人程の人々が広場を去った。ムバラク大統領辞任後も、より具体的な政権改革を求めていた人たちだ。

いまだに人々が集まり祝ったり、散発的なデモの類いはおこなわれているが、広場は徐々に平静をとり戻しつつある。

際立った変化は、僕ら外国人カメラマン達に対する人々の態度だ。

どういうわけかここ数日、写真に対して人々がやけに神経質になってきており、撮影の邪魔をする輩が増えてきた。昨日も、テレビカメラマンが広場の慰霊碑を撮っているだけで兵士に襲われ、別のカメラマンは道路の再塗装をしていたボランティア・ワーカーを撮っていたら一団の男たちに取り囲まれたという。僕自身も広場でおこなわれていた警察官のデモを撮影中、10人くらいに囲まれ、蹴飛ばされてカメラを強引に奪われそうになった。なんとかメモリーカードを渡しただけで助かったが、揉み合っているうちにレンズが壊れ、腕時計も盗られてしまった。ほとんどニュースの価値のないイベントを撮っていてこのざまだから、全く割りにあわない。

なぜこれほど人々が写真を嫌がるのか定かではないが、いずれにしても、この現象も一過性のものである事を願いたい。大半のエジプト人はいい人だし、この滞在中も彼らの親切に触れる機会は多かった。

数日後にインドに戻る予定だが、1年後あたりにこの町に戻って来たとき、人々がどんな風に迎えてくれるか興味深いところだ。願わくば、写真が自由に撮れるような空気につつまれていることを祈って。

(もっと写真をみる http://www.kunitakahashi.com/blog/2011/02/15/changing-of-peoples-attitude-cairo/ )

ムバラク辞任

2011-02-12 15:18:33 | アフリカ
まるでジェットコースターのようなアップダウンの2日間だった。

一昨日、国民やメディアの予想を裏切り辞任しないと断言したムバラク大統領。タハリール広場でデモを続けていた人々は勿論、歴史に残る瞬間に立ち会いたいと思っていた僕ら報道陣にとってもその期待を大きく裏切られた夜となった。

それから24時間もたたないうちに、大統領は突然の辞任を発表した。

飛び上がる人、踊りだす人、ピースサインやエジプト国旗を振り上げた群集で埋まった広場は歓喜の渦に巻き込まれ、町をあげてのお祭りさわぎは一晩中続けられた。

ムバラク大統領の決定を変えたその裏にどんな政治的駆け引きがあったかは定かではない。それでも市井の人々によって引き起こされたエジプト革命は、大統領の辞任によってその最大の目的は果たすことができた。

これからはあらたな歴史のはじまりだ。解決すべき問題は多く、安易な道にはならないだろう。それでもエジプトの人々には、この市民革命の精神を忘れず、彼らの夢見る自由のある国家をつくりあげていってほしいと思う。

(もっと写真をみる http://www.kunitakahashi.com/blog/2011/02/12/mubarak-stepped-down/ )

エジプト市民革命

2011-02-09 13:45:31 | アフリカ
ムバラク大統領の辞任を求めて隆起した民衆たちの集会は、今日で16日目。会場となったタハリール広場にはいまでも数千人が寝泊まりしデモを続けている。

先週おこった反政府派とムバラク支持派の激しい衝突や、ムバラク支持者たちによる外国人ジャーナリストたちに対する武力攻撃もみる限り影を潜めたようだ。僕の友人であるカメラマン数人も殴られ機材を奪われたり、拘束されたりしたが、いまはそういう事件もなくデモは平和に続けられている。

ムンバイでの私用のために出遅れた僕がカイロに到着したのは武力衝突の翌日だった。報道カメラマンとしては、この衝突を逃したのはさすがに痛い。ニュースの取材ではいうまでもなく現場に出るタイミングが重要なのだ。

人々のエネルギーは満ちあふれているが、ある意味だらだらと同じようなデモが続くなか、写真も繰り返しが多くなってきた。そろそろ別な角度での取材を考える時期だろう。金曜日(イスラム教徒の祝日で、なにか決定がなされるときはこの日が多い)の様子をみてから今後の進退を決めるとするか。。。

(もっと写真をみる http://www.kunitakahashi.com/blog/2011/02/09/egypt-uprising/ )

南アフリカ - 思い出の土地

2010-10-26 09:13:33 | アフリカ
先日、岩崎龍一氏の執筆した「ワールドカップで見た南アフリカ体験記」という本の一部に写真と文を寄稿する機会があった。(  HTTP://WWW.POPLAR.CO.JP/SHOP/SHOSAI.PHP?SHOSEKICODE=40470050 )とはいっても、僕はスポーツの撮影をすることなど皆無に近いので、内容はワールドカップについてではない。90年代から2000年代にかけて、この国の大転換機を取材したときの経験を書くよう頼まれたのだ。

南アフリカという国には、特別な思い入れがある。

大学時代に、故・伊藤正孝氏のルポタージュを読んで以来、南アのアパルトヘイト(人種隔離政策)に強く関心をもった僕は、ボストンの写真学校を卒業した1992年に念願叶ってこの地を踏むことになった。

このときには既にアパルトヘイトは法的には廃止されていたが、3ヶ月の滞在中、忘れ難い多くの経験をすることができた。今でも付き合いを続けている友人たちと出会い、また2度も強盗にあうという経験もした。黒人タウンシップでの虐げられた日常生活や生活改善を求めるデモを撮り、黒人対白人のみならず、黒人同士の政治的抗争にもカメラを向けた。南アは、僕がその後報道写真家としてやっていくために必要な多くのことを学ばせてくれたのだ。以来、僕はこの国を頻繁に訪れるようになり、史上初の全人種混合選挙やネルソン・マンデラの大統領就任式、エイズ問題を含めたその後の新政権の葛藤などを取材してきた。

本のための原稿を書きながら、いろいろな想い出が蘇り、幾度も懐かしい思いにかられた。

最後に僕が南アを訪れてからすでに4年が経とうとしている。インドに居を移してから、ここ新天地でのプロジェクトやアサインメントで多忙な日々を送っているが、近い将来また南アを訪れる機会があればな、と願う。フォトグラファーとしての僕を育ててくれた、あの忘れ難き土地に。。。

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「森の小人」たちのいま

2010-07-17 11:44:58 | アフリカ
今月号のデイズ・ジャパンにコンゴで撮ったピグミー族の写真記事が掲載された。

恥ずかしながら、数ヶ月前にこの取材をするまで、ピグミーがこれほどひどい扱いを受けているとは知らなかった。彼らは内戦、または政府の森林保護政策によって90年代に森を追われ、結局政府からそのまま見捨てられたようなものだ。他の部族から「プッシュマン」と蔑まされ差別されるピグミーにとって、仕事や教育の機会を得るのは非常に難しい。

「森の小人」としても知られ、森林の中での狩猟生活を謳歌していたピグミーたち。いまや部族としての誇りも捨て、町の郊外につくられたキャンプで細々と暮らす彼らの姿をみるのは複雑な思いであった。

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