Kuni Takahashi Photo Blog

フォトグラファー高橋邦典
English: http://www.kunitakahashi.com/blog

僕の伯母

2007-03-25 22:02:45 | 日本
僕には20年ちかく前に癌で亡くなった伯母(母の姉)がいる。

母より5歳年上の彼女は、当時にしては珍しいキャリアウーマンで、結婚したあとも仕事をバリバリ続けているような人だった。

靖子という名前だったので、僕ら兄弟妹はそのまま靖子おばちゃんと呼んで慕っていたのだが、彼女自身に子供がいなかったせいもあって、随分と可愛がってもらった記憶がある。休日に遊びに行くと必ず玩具などを買ってもらったし、僕が成長して中学あたりになると、大好きだった沢田研二のコンサートのチケットをとってくれたりもした。おばさんは音楽関係の仕事をしていたので、そんな融通も利いたのだ。

先日、「焼き場の少年」の写真を見た僕の母が、この靖子おばさんのことを書いてメールをよこした。そこには、これまで僕の知らなかった伯母さんの姿が綴られてあった。

1945年、仙台空襲の日。当時10歳だった靖子おばさんは、焼け野原になった街の中、実家の様子を確かめるために、人間が丸焦げになってあちこちにころがっているなかを2時間近く走り続けたという。

幼なくてあまり戦争の悲惨な記憶を持たない僕の母親に、靖子おばさんはあまり当時の話はしなかったようだが、祖母がよく「靖子は本当に偉い子だった」と語っていたらしい。母は、あの頃の靖子姉さんは、ちょうどこの「焼き場の少年」と同じくらいの年頃だったのだなあ。。。と思ったそうだ。

僕は大学受験の際、単なる力試しで受けた防衛大学にどういうわけか合格してしまった。別に行きたいと思っていたわけでもなかったので入学は辞退したのだが、そのとき靖子おばさんは僕の母に「絶対に入れては駄目だよ!」と強く言っていたそうだ。

10歳の少女として体験したあの空襲の強烈な記憶は、戦争への嫌悪として靖子おばさんの身体に深く刻まれていたのだろう。

僕が初めて語学留学すると決めたときには、すでに彼女の身体は癌に侵され、手術を重ねるような状態だったが、それでも僕のアメリカ行きをとても喜んでいてくれたという。息を引き取るまでの5年間、10回もの手術をうけ、厳しい闘病生活をおくったが、決して弱音を吐くことはなかった。。。

生きていてくれたら、空襲の日のことや、疎開生活のことなどもっと話が聞けたのに。。。おばさんの生前に、そういう意識を持つに至らなかった僕自身の未熟さをいまさらながら恨めしくも思う。




オダネル軍曹の写真集

2007-03-21 11:56:00 | 日本
前回のブログで紹介したジョー・オダネル軍曹の写真集を購入した。

彼の手で撮られた終戦直後の広島、長崎の写真をもっとみてみたくなったからだ。

「Japan1945」とタイトルのついたこの写真集には、一面焼け野原になった爆心地の様子や、身体に大火傷を負った被爆者たちの悲惨な写真も収められてはいるのだが、どちらかといえば旅館の女中さんや学校での運動会など、人々の日常の生活を撮ったものが多い。彼は道端で出会った子供たちにも随分カメラを向けていたようで、そんな子供たちの写真を眺めながら、僕はふとあることに気づかされた。

草履や裸足で歩き、質素な服をまとってはにかむその姿は、僕がアフリカで出会った子供たちとまったく同じなのだ。弟や妹を背中におんぶしながら遊んだり、土いじりをしたり、ありあわせの材料で作った手押し車に乗っかったり。。。肌の色や髪型という人種的な違いを除けば、写真に写っている当時の日本の子供たちは、まるで僕が訪れた南アフリカやリベリアの貧困地で生活する子供たちそのままだった。

日本にも、こういう貧困の時代があったんだ。。。知識として知ってはいたけれど、写真を見ているうちに自分の取材経験と重なって、それがなんだか感覚として理解できたような気がした。そして、僕を含めて現代を生きる日本人たちは、今こそこの当時の歴史を真剣に、じっくりと振り返ってみる必要があるはずだ、とあらためて痛感したのだ。

現在、安部内閣は憲法9条の改定に向けて、国民投票法案をはじめとして着々とその地ならしを進めている。日本を「戦争のできる国家」にするためだ。それは「戦争の放棄」「戦力の不保持」「交戦権の否認」を柱とした平和憲法をへし曲げ、自衛隊を「外国で戦える軍隊」にすることであり、日本人が他国に赴き、その国の人々を殺し、さらに自分もそこで殺されるという可能性を合法化することに他ならない。さらに、そうして日本が戦争に突入することによって、また広島や長崎の悲劇が繰り返される可能性だってないとはいえないだろう。

しかし、こんなに重要なことなのにもかかわらず、国民の関心はあまりに薄すぎる。たかだか60年前の現実を僕らはすっかり忘れてしまったのだろうか?果たして現代の子供たちや若者たちが、当時の写真に写っているような生活をしたいと思うだろうか?

オダネル軍曹の写真のなかの、焼け野原で遊ぶ裸足の子供たちや、あの「焼き場の少年」がいまでも生きているとしたら、彼らはどういう思いで今の日本をみているのだろう?

「なんだか戦前の政府に似てきたなあ。。。」

そんなことを感じているかもしれない。



焼き場に立つ少年

2007-03-09 16:08:12 | 日本
昨夜、一枚の写真を見て衝撃を受けた。

この写真は、原爆が落とされてまもなくの1945年9月、廃墟の長崎で写されたものだ。撮ったのは米空爆調査団のカメラマンとして日本を訪れた、ジョー・オダネル軍曹。

以下は、彼がこの写真を撮ったときの回想インタビューからの引用だ。

「佐世保から長崎に入った私は、小高い丘の上から下を眺め
ていました。すると白いマスクをかけた男達が目に入りまし
た。男達は60センチ程の深さにえぐった穴のそばで作業をし
ていました。荷車に山積みにした死体を石灰の燃える穴の
中に次々と入れていたのです。

10歳ぐらいの少年が歩いてくるのが目に留まりました。お
んぶひもをたすきにかけて、幼子を背中に背負っています。
弟や妹をおんぶしたまま、広っぱで遊んでいる子供の姿は
当時の日本でよく目にする光景でした。しかし、この少年の
様子ははっきりと違っています。重大な目的を持ってこの焼
き場にやってきたという強い意志が感じられました。しかも
裸足です。少年は焼き場のふちまで来ると、硬い表情で目
を凝らして立ち尽くしています。背中の赤ん坊はぐっすり眠
っているのか、首を後ろにのけぞらせたままです。

少年は焼き場のふちに、5分か10分も立っていたでしょうか。
白いマスクの男達がおもむろに近づき、ゆっくりとおんぶひも
を解き始めました。この時私は、背中の幼子が既に死んで
いる事に初めて気付いたのです。男達は幼子の手と足を持
つとゆっくりと葬るように、焼き場の熱い灰の上に横たえま
した。

まず幼い肉体が火に溶けるジューという音がしました。
それからまばゆい程の炎がさっと舞い立ちました。真っ赤な
夕日のような炎は、直立不動の少年のまだあどけない頬を
赤く照らしました。その時です、炎を食い入るように見つめる
少年の唇に血がにじんでいるのに気が付いたのは。少年が
あまりきつく噛み締めている為、唇の血は流れる事もなく、
ただ少年の下唇に赤くにじんでいました。夕日のような炎が
静まると、少年はくるりときびすを返し、沈黙のまま焼き場を
去っていきました」

この写真についてこれ以上の説明は必要ないだろう。

少し調べてみたが、原爆被害を撮ったもののなかでも、この「焼場に立つ少年」はかなり世に知られた写真のようだ。中学の国語の教科書にも使われていたらしいが、僕はどうして今まで知らなかったのだろう。

僕が報道写真の世界に足を踏み入れるきっかけとなったベトナム戦争の写真はよく見ていたのだが、原爆写真はそれほど多く見た記憶がない。考えてみたら、僕は長崎には行ったことがないし、広島にも修学旅行で一度訪れただけだ。

報道カメラマンとして、すこし恥ずかしくなった。。。が、遅ればせながらでもこの写真に出会えたことは良かったと思う。

間違いなく、この直立不動の少年の表情は僕の胸に一生焼き付いて残るだろう。そういう一枚なのだ。

カメラも冬が苦手?

2007-03-02 17:25:27 | 報道写真考・たわ言
先月の摂氏マイナス20度という極寒気候に比べると、ここのところまあ過ごしやすくなってきたなあと思っていたのだが(それでもいまだに摂氏0度前後)、なんだかまた窓の外は強風とともに吹雪のようになってきた。。。やれやれ。

極寒地では、ブログですでに何度も文句をたれているように身体が凍える辛さは当然のこととして、仕事上でもカメラの扱いなどでいろいろと問題がでてくる。

寒くなるほどバッテリーのもちが悪くなる。まあこれは、予備のバッテリーを懐にいれて暖めておくなどいくらでも対処法があるのだが、曲者なのは室内と外の気温差だ。

屋外の撮影で冷え切ったカメラを急に暖かい室内に持っていくと、とたんにレンズが曇ってしまいえらいことになってしまう。眼鏡をかけている人が、温かいラーメンを食べるときに、湯気で眼鏡が曇ってしまい何も見えなくなるのと同じ原理だ。

昨日もある人物を撮っていて、寒空の下で1時間ほど撮ったあとに一緒にバスに乗ったらレンズが一気に曇ってしまい、車内での撮影ができなくなった。これはまだ広角レンズだったから10分もしないうちになんとか元に戻ったが、レンズの口径が大きく、組み込まれている枚数も多い望遠だったらもうお手上げだ。自然に曇りが消えるまでに30分以上かかることもある。

シカゴに移ってからもうスポーツの撮影はしなくなったけれど、ボストン・ヘラルド在籍時に毎年のように撮っていた冬の水泳競技などはこの点最悪だった。室内プールはやたら室温が高いうえに、当然のことながら異常に湿気が高い。こんな熱帯雨林のような場所にいきなり冷え切ったカメラを持ち込もうものなら、もうカメラマンとしては自滅行為。競技が終わるまでレンズは使い物にならなくなる。だから水泳の撮影が入ったときは、現場に着くまでの間に車のヒーターでゆっくりと、そして十分機材を暖めておく必要があった。

こんな理由で、普段は仕事の合間などカメラ機材を車のトランクにいれっぱなしにしている僕も、この時期だけはまめにオフィスに持ち運んでいる。重い機材を一日何度も担いで階段を上っていくのは面倒だけれど、撮影で泣きをみないためにもこればかりは仕方がないのだ。

冬というのは、夏型人間である僕の個人的嗜好を差し置いても、カメラマンにとっては頭の痛い季節、というわけなのだ。