Kuni Takahashi Photo Blog

フォトグラファー高橋邦典
English: http://www.kunitakahashi.com/blog

移民法違反?

2016-07-08 09:31:34 | 北米
数日前にバンクーバーに戻ってきた。海外からカナダに戻ってくると、どういうわけか空港でいつも入国審査の特別室に回される。なぜだろうかと移民官に尋ねると、過去に移民法違反の記録があるというではないか。思い出すのにしばらくかかったが、確か1989年か90年、学生ビザでアメリカのメイン州にいた時のことだ。友人と一緒に車でモントリオールに行こうとして、カナダの国境で追い返されたことがあった。学生ビザと一緒に提出するべき書類を持っていくのを忘れたからだ。本来カナダへはビザは必要ないので入ることはできるのだが、国境の係官が言うには、書類がなくては、アメリカに戻ることができないから入国を認めないという。こんなケースでも、果たして僕はカナダの移民法を「違反」したことになるんだろうか?
この記録は一生残ることになるらしいが、いずれにしても、移民法が緩くて国際テロリストたちの温床になりつつあると言われるカナダで、25年以上前のこんなささいな失敗に、未だに取り憑かれることになるとは皮肉なものだ。

ウォール街占拠運動「行動の日」

2011-11-22 09:22:08 | 北米
先週たまたまニューヨークを訪れており、ウォール街占拠運動の「行動の日」と名付けられた集会を撮ることができた。

これはこの占拠運動がはじまってからちょうど2ヶ月を記念しておこなわれたものだが、正直言って、この「指導者なき運動」に対しては少し複雑な印象を持っていた。集まった若者たちのなかには、単なるトラブルメーカーで警察を目の敵にしているだけで、運動の本質を見失っているような輩も少なくなかったし、この日の集会では地下鉄の駅の占拠も予定されていたからだ。駅を占拠すれば、ウォール街どころか、ごく一般の市民たちにも不便な影響がでる。占拠運動としては、彼ら曰く「99%」のそんな一般市民たちからの支持を失う事は致命的だと思えたからだ。

それでも、午前中に道路封鎖などで240人以上が逮捕されたに関わらず、全般的には比較的平和に事は進んだ。さらにブルックリン橋まで行進する夕方の集会には2万人以上が参加したとのことで、これほどの人数は予想していなかっただけにさすがに驚いた。まさにこの運動の根深さを思い知らされたという感じだ。

僕はこれからムンバイに戻るので、この占拠運動を自らの眼で追う事はできないのが残念だが、今後の動きは重要であるし、非情に興味深いものだと思う。彼らがこれからどんな戦術を展開していくのか、楽しみでもある。

(もっと写真を見る http://www.kunitakahashi.com/blog/2011/11/22/occupy-wall-street/ )

中絶禁止派の過激な面々

2009-05-20 12:08:31 | 北米
2日前、ようやくガスが復旧した。
しかし、大家が滞納したガス代を納めて正規の手続きを踏んだかどうかは今ひとつ疑わしい。普段ならガス会社の工員が、元栓を開けたあとアパートの部屋をまわってガス復旧の確認をするのだが、それを大家のアシスタント(これがまた悪い奴で、ビルのメインテナンスもいいかげんだし、住人に対する態度も実に粗野)がおこなっていたからだ。
そうだとすると「stealing gas (違法でガスを盗む)」ということになるのだが。。。
いずれにしてもとりあえずはお湯もでるようになったことだし、ガスコンロもつかえるようになったので、深い詮索はやめておこう。
気にかけてくれたみなさん、ありがとうございました。

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日曜日はインディアナ州にあるノートル・ダム大学へ卒業式の撮影にいってきた。

オバマ大統領が式でのスピーチをおこなうことになっていたのだが、このことに関して、ひと騒動が予想されていたからだ。

長年のあいだ全米を二分してきた妊娠中絶問題において、オバマ大統領は中絶容認の立場をとっている。これに対してノートル・ダムはカトリック系の名門私大。知っての通りカトリックの教義では中絶は御法度だ。このため、一部の学生をはじめ大学やカトリック教会関係者から、オバマを卒業式に招くのは倫理上問題がある、という抗議行動が沸き起こった。この動きは全米のプロ・ライフ(中絶禁止派)各組織にまでひろがって、オバマの卒業式参加に反対するデモが繰り広げられることになったのだ。さらに、数十人の卒業生たちが、正規の卒業式をボイコットし、独自の卒業式典をおこなうことを発表した。

そんなわけで、大統領のスピーチの撮影は、今月頭までワシントンDCに駐在しオバマを撮ってきたナンシーにまかせ、僕はこの卒業式の騒動のほうを担当。抗議デモと「反乱」卒業生たちによる独自の卒業式を撮ってきた。

平和におこなわれた「反乱」学生達による抗議集会と卒業式はいいとして、大学キャンパスの外でおこなわれたプロ・ライフ派のデモはいつもながらの過激さで、少々うんざりしてしまった。「いつもながら」と書いたのは、彼ら超保守派の人々による集会ではいつも、血だらけの胎児の遺体のようなグロテスクな写真をでかでかと載せたプラカードや、映画「チャイルド・プレイ」にでてくるチャッキーのような血まみれ人形などが登場するので、撮影する僕らを悩ませるからだ。こういうものの写り込んだ写真は米国の新聞にはまず掲載されないので、僕らはこういう過激なプラカードをフレームから外しながら撮ることを考えなくてはならない。

まあそういう外観的なことは別にしても、彼らの「自分と意見を異にする人の意見は真っ向から否定糾弾し、全く耳を貸す事さえもしない」という態度に、僕は毎度強い違和感を感じてしまうのだ。彼らはほとんど「洗脳」されている、といっても過言ではないだろう。こういう人間達は怖い。自分が完全に正しいと信じこんでおり、意見の違う他者との妥協点を求める事すらも拒否するので、非常に危険なのだ。そう言う意味で彼らはテロを引き起こすイスラム原理主義者たちと何ら変わりはない。

この日も、少数ながら姿を現したプロ・チョイス派(中絶の選択は女性自身が決めるべきと主張する人たち)の女性達に、プロ・ライフ派から投げつけられた罵倒・中傷の言葉を聞きながら、僕は胸くそが悪くなる思いであった。もし僕らのような報道陣がまわりにいなければ、プロ・チョイス派の彼女達は中絶禁止派によって暴力的にあの場から排除されていたんじゃないかと思うほどだ。中絶禁止派の一部はあげくに、許可なくキャンパスに入りデモをおこない、30人以上が逮捕されることになった。

自分と異なる意見をもつ他者がいるのは当たり前の事だ。そんな「当たり前」のことを前提にすることなく、妥協点を探る努力もせずに相手を否定し潰そうとすれば、残る道は戦争しかない。

何事に関しても、超極端になってしまうのはいかがなものか、と、あらためて考えさせられた一日だった。

(写真:許可なしにプラカードを持って大学内に入り、逮捕される中絶禁止派のグループ)



オバマ大統領就任式

2009-01-21 08:40:26 | 北米
オバマ新大統領の就任式。

式の取材のために、トリビューンからは3人のフォトグラファーがワシントンDCへ出張になったのだが、希望をだすのが遅かったことと、年功の問題もあって、残念ながら僕は留守番組に。。。

そんなわけできょうはシカゴで人々の反応を撮っていたが、やはりワシントンのナショナル・モールに集まった人たちの、あの一丸となったエネルギーには叶うべくも無い。テレビで就任式の様子をみながら、やっぱり休みをとって個人でいけばよかったなあ、と後悔してしまった。

写真が撮れなかったこと自体はそれほど残念ではない。大体、こういうイベントでは警備がきつすぎて自由に動き回れないし、ステージ上のオバマ大統領を撮るにしても、それは決められた位置からのおざなりの写真になってしまう。

後悔したのは、写真どうこうというより、歴史に残るべくあのエネルギーに満ちた瞬間に立ち会っておきたかった、と思ったからだ。

テレビ画面に映る百万人を超える人々の姿をみながら、僕は15年前の南アフリカでのネルソン・マンデラ大統領の就任式を思い出していた。

アパルトヘイト(人種隔離政策)に終止符を打つ形で、南ア初の黒人大統領として選出されたマンデラ氏。当時まだ駆け出しカメラマンだった僕は、世界中から集まってきた報道陣に混ざって、首都プレトリアでの就任式の様子を取材していた。

式の会場には、新生南アフリカへの、希望と期待に満ちた群衆のエネルギーがふつふつを沸き上がっていた。黒人、白人、肌の色を問わない何万人という人々が、みな手を握り合って高く振り上げている様子をファインダー越しに見つめながら、不覚にも僕の眼から涙が溢れ出して、視界がみるみる曇っていったことを今でもはっきりと覚えている。

それほど感動的な歴史的瞬間であった。

マンデラにしてもオバマにしても、それまで虐げられてきた黒人初の大統領誕生という歴史的意味は重要だが、それ以上に、人種を問わず、これだけ多くの国民が一体となって「本心から」自分たちの選んだリーダーと共に事を成し遂げようという期待に満ちた瞬間にはそうそう巡り会えるものではない。

そういう意味で今日のオバマ大統領の就任式も、現場にいればマンデラの時と同じエネルギーを感じられたに違いないし、僕にとっても一生忘れることのない日になっていたはずだ。

後悔先に立たず、だが、やっぱり残念。。。


ハリケーン取材

2008-09-05 02:56:23 | 北米
ハリケーンの取材のため、先週土曜に出発しルイジアナへ行ってきた。

すでに空港は閉鎖されていたので、シカゴからメンフィスまで飛び、そこから車で6時間ほどかけてニューオリンズにはいる。この町は前回のハリケーン・カトリーナ以来3年ぶりだ。

ハリケーンのような災害取材は、撮影そのものよりも、その準備に手間がかかる。ビジネスがみなシャットダウンしてしまうので、ガソリンや水、食料をあらかじめ調達しておかなくてはならない。カトリーナの直後に上陸したハリケーン・リタのときなど、ヒューストンに到着してから、ガソリン・タンクを探して3時間も走り回る羽目になった。すでに住民の避難が始まっていたので、どこの店でも売り切れになっていたからだ。

今回はメンフィスで資材を買い込み準備万端でニューオリンズにはいったのだが、カトリーナよりも強力になるといわれていたグスタボは結局勢力を弱め、予想されていたほどの被害をだすには至らなかった。

カトリーナの悲惨な被害経験に加え、「退避勧告を無視して町に残った人々は助けない」という市長の深刻な脅かしもきいて、今回は多くの市民達がハリケーン上陸前に町から避難した。そんな市民達にとっても、駆けつけた僕らのような報道陣にとっても、ちょっと拍子抜けした顛末ともいえるが、まあ被害が少なかったにこした事はない。

しかし、今回も例の如くテレビの過剰報道には少々うんざりさせられる思いに。。。

ハリケーン上陸の日にも、例の如くアナウンサーがわざわざ風の強い通りにでて、マイクに向かって騒ぎ立てるわ、堤防からの中継では今にも堤防が欠壊するかのように危機感をあおり立てるわで(確かに水かさは大分高くなっていたが)、これでもかといわんばかりに大袈裟な報道を繰り返す。

CNNは、一番の看板レポータ、アンダーソン・クーパーまで投入してきたが、彼もホテルの前の通りから吹き飛ばされそうになりながらさんざん騒いだあげく、被害がそれほどでもなかったとわかると、翌日にはとっとと共和党大会の開かれているミネソタの方へ飛んでいってしまった。

「なんか違うんだよなあ」とは思いながらも、結局のところなるべくドラマティックな見せ方をしないと視聴率がとれないのだろうと、彼らに少々同情も感じてしまう。

まあそういう僕自身も、はじめの予定を大幅に短縮して、5日目にはシカゴに戻される事になったのだが、住民達にとってはこれからが大変なところだ。

被害が小さかったとはいえ、多くのコミュニティーでは木や電柱がなぎ倒され、浸水の被害が出た。まだ電気が復旧していない町も多く、避難先から自宅に戻ってきた人々が「普通の生活」に戻れるまでには、しばらく時間がかかるだろう。

(強風でなぎ倒された屋根とポンプを建て直そうとするガソリンスタンドのオーナー)









ミシシッピー川の洪水

2008-06-18 21:46:30 | 北米
洪水被害の取材で隣にあるアイオワ州にきている。

例年にない多雨のせいでミシシッピー川が増水し、堤防が破れて川沿いの町に次々と水が流れ込んでいるのだ。その水量は1993年の大洪水のときを上回る記録になった。

それでも、まだ記憶にあたらしいニューオーリンズのハリケーン・カトリーナに比べれば、人的犠牲ははるかに小さい。住民たちはみなある意味洪水慣れ?しているというか、避難するタイミングを心得ているためだ。

イリノイとアイオワをつなぐ橋の多くが閉鎖されてしまっているので、州越えをするのにえらく時間がかかり、取材するのにも非常に効率が悪い。昨日は朝の5時半から夜6時まで食事をする間もなく走り回るはめになった。

川の水位上昇は今日明日あたりが山なので、どうなることか。天気予報ではこの先数日は晴れるようなので、それだけは救いだ。

貧困町カイロの若者たち

2007-07-15 07:18:01 | 北米
貧困問題プロジェクトの一環のため、ミズーリ、ケンタッキー両州との境に近いイリノイ最南端の田舎町カイロに来ている。

ここは州のなかでもっとも十代の妊娠率が高い地域だ。

3日前ここに到着したとき、旧メイン・ストリートであったコマーシャル・ストリートの荒廃ぶりをみて驚いた。3ブロックほどに立ち並ぶ建物のうち現在でも営業しているのは一件の酒場のみ。建物はみな朽ち果て、以前ボーリング場だったというビルは2年ほど前に崩れ落ちたまま瓦礫の山となっている。通りを歩く人の姿もなく、ここだけを見れば、それはまるでゴーストタウンのごとくであった。

ミシシッピー川とオハイオ川が交わる地の利を生かして、船舶と鉄道輸送の拠点として栄えたカイロだが、1900年代にはいって船の技術革新や橋の増設が進むにつれその主要停泊地としての需要を失い、この街の経済は衰退していった。全盛期には1万3千ほどいた人口も、いまでは3千5百人足らずになっている。

衰退しきったかのように見えるこの街は確かに貧しい。しかしなぜ十代の妊娠率がそれほど高いのだろうか?

「他になにもすることがないから。。。」

低所得者のためのハウジング・プロジェクトに住む若い母親や父親を含め、僕が話を聞いた人たちは例外なく口を揃えてこう答えた。

コマーシャル・ストリートから1ブロック離れた新しい目抜き通りにも、映画館やショッピング・センターはおろか、若者たちが集まれるようなカフェなど一軒もない。街全体をみても質素な食堂が4件ほど、それらも午後8時9時には閉店してしまう。

比較的規模の大きいの隣町までは車で40分ほどだが、プロジェクトに住む多くの若者たちは車など持っていないし、公共のバスや電車があるわけでもない。仕事がないから収入もなく車など購入できないし、逆に車がないから仕事を探しに隣町まで行くこともできない。

「職もないのに学歴をつけても仕方がないさ。。。」

ティーン・エイジャーたちは将来への展望もないから教育に対する目的も見出せず、その多くが高校さえも卒業することなくドロップアウトしてしまうことになる。

スポーツ施設や娯楽施設、コミュニティーによる若者たちのための活動もまったく存在しないこの街で彼らのすることといえば、プロジェクトの敷地内でたむろし、友人の家でビデオをみたり酒を飲んだりマリワナを吸ったり。。。それしか楽しみもないからカジュアルなセックスの機会も増え、十代の妊娠率が異常に高くなるというわけだ。

責められるべきはそういう環境ばかりではない。福祉のシステムもおかしなことになっている。

これはカイロに限らずイリノイ州全体に対して言えることだが、あえて低賃金の仕事に就くよりも、生活保護をうけているほうが楽な暮らしができるようになっているのだ。わざわざ隣街までいって仕事を探し、時給6ドルほどの労働をするよりも、無職で保護をうけているほうが収入がいいから、若者、特に女性たちの労働意欲も喪失してしまう。さらに、扶養家族が多いほど保護の額も上がるので、それを目当てに子供をつくるケースも珍しくはないという。

「ここには何もすることがないし、仕事もない。だけどここを離れる手立てもない。。。」

プロジェクトに住む18歳のシャロンダは淡々とこう語った。彼女には4歳と2歳、そして2週間前に生まれたばかりの赤ん坊の3人の子供がいる。

これではいけないと意識の奥底では感じながらも、保護を受けながらとりあえずは生活できるし、同じような境遇の友人たちに囲まれて居心地も悪くはない。将来の希望があるわけでもなく、なんとなく流されながら毎日を過ごしている。。。

この街にはそういう空気が蔓延しているようだ。

(写真:ハウジング・プロジェクトの若い母親たちと子供たち)









未亡人の葛藤

2006-10-01 10:18:38 | 北米
取材でカンサス・シティに滞在してきた。

4日間で3つの関連のないストーリーを取材するというなかなかの強行軍だったが、そのなかのひとつにイラク戦争で夫を亡くした未亡人の撮影があった。

イラク戦争では2003年の侵攻以来3000人をこえる米兵が死んでいるので、未亡人や残された子供達の話はすでに随分と報道されているが(ちなみにイラク市民の死者は4万以上)、今回焦点をあてたのはまだ子供もいないひとりの若い未亡人だった。

カンザス・シティから西に車で45分ほどいった小さな町に住むケリーという名の女性はまだ22歳。昨年の夏にイラク北部のモズルでの戦闘で夫のルーカスを亡くした。保守的な中西部の田舎町という気風もあって、周りの人たちは若い彼女に同情し、まるで悲劇のヒロインのように扱ったという。

まだ子供もいないし歳も若いケリーは、夫の死後1年が過ぎた今新しい生活を踏み出そうとしていたが、どうしてもこの小さな町の人々の眼が気になってしまう。町の人々にとっては、いつまでもケリーは「ルーカスの未亡人」であり、この町におけるイラク戦争の象徴なのだ。だから彼女がようやく気持ちの整理をつけて新しく付きあうようになったボーイフレンドとも、あまり人目につかないようにしか会うことができない。

一生ここに住むつもりでルーカスと共に家まで建てたが、彼女は今この町を去ろうとしている。

ここにいてはいつまでたっても「ルーカスの未亡人」であり続けなければならず、第二の人生をはじめる事ができないからだ。

もともとは彼女に対する町の人々の「思いやり」だったものが、いつしか「思いこみ」にかわり、目に見えないプレッシャーとなってケリーを縛り付けていってしまった。。。ファインダーのなかに映る姿から、小さなコミュニティーに生きるこの若い未亡人の葛藤が痛いほどよく伝わってきた。















鉄鋼の街

2006-06-10 21:30:34 | 北米
取材で昨日からピッツバーグに滞在している。

ここを訪れたのは初めてで、昔、鉄鋼業の街として栄えたという事くらいしかこの街についての知識はない。

そんなわけで工業の街とか、公害の街とかいう、あまり良くない先入観しか持っていなかったのだが、ダウンタウンには比較的新しいビルが建ち並び、街並みも綺麗で驚いた。

地元の人によれば、60年代あたりから鉄鋼業は廃れ、工場は次々と閉鎖されていったそうだ。いまでは街の中心部には工場はひとつも残っていない。近年は、病院や大学、コンピューターソフト関係の会社を誘致することによって、再生化を図っているという。どうりで街が小綺麗になっているわけだ。

しかし、それでもこの街は未だに「鉄鋼」で溢れている。

たまたま入ったレストランでは、メニューのカバーが鉄鋼を連想させるが如くアルミでつくられていたし、街にはアイロン・シティー(鉄の街)という名の地ビールがどこの酒場にもおいてある。ダウンタウンには、合金のような銀色の外観をもったビルまで建てられているし、トレードマークとしての鉄鋼はいまでも健在だ。

「白いシャツを着てこの街を歩くな」

鉄鋼業が最盛のころ、こんな言葉があったそうだ。

工場から排出される煙とすすで、服が真っ黒になってしまうから、というわけだ。

そんなネガティブなイメージにも関わらず、おそらく当時のピッツバーグの市民たちは、アメリカの経済を支えてきたこの街の鉄鋼業を誇りに思っていたのだろう。そして、現在でもその当時を「古き良き時代」として懐かしんでいるのかな、と思う。

だから、鉄鋼業が姿を消して何十年も経つのに、今でもピッツバーグは「鉄鋼の街」なのだ。

吸血マシーン

2005-12-18 11:33:25 | 北米
まるでSF映画にでてくる巨大な牙城のように、それは海上にそびえ立っていた。

ルイジアナ南岸のリービルという街からヘリコプターに乗っておよそ一時間、青い海のなかに突然姿を現したこの海上石油プラットフォームの姿は、なにか非現実で、異様でさえもあった。

今回の出張は、このプラットフォームの取材が目的だった。1ヶ月程前から取材の申請をしていたが、ようやく石油会社からの許可がおりたのだ。

海底からの高さ全長が610メートル(うち535メートルは海中)、地面に乗っただけのこのようなフリースタンディングの建物としては世界で一番高いそうだ。

このプラットフォームから海底に突き刺されるドリルによって採掘される石油は、毎日6万バレル近くに及ぶという。

到着するとまずオリエンテーションがおこなわれた。この設備について誇らしげに説明する石油会社の職員を横目に、僕はなんだか複雑な思いを抱いていた。

石油の採掘は、地球の内側にあるその資源を巨大なストローで吸い上げているようなものだ。人間は新しい油田を求め続け、休むことなく石油を吸い取っていく。。。

石油も自然の産物だから、それが地球内部に存在していることによって何かのバランスを保っているのではないだろうか?無制限に石油を吸い上げ続けることによって、地球内部のエネルギーのバランスが崩れてしまうようなことはないのだろうか?

職員の話では、油圧をモニターしながら採掘しているので問題ないようなことを言っていたが、果たしてどんなものだろう?僕にはこの分野の専門知識などないので何ともいえないが、ひょっとしたら石油の採掘し過ぎが地震の発生などにもつながっているのでは、などと思ってしまう。

世界一の産油国であるサウジアラビアも、その産油量のピークは越え、すでに下り坂になっているといわれている。そのためアメリカや中国などの消費大国は、アフリカなど中東以外の地域にやっきになって設備投資を進めているが、それよりも世界はもっと真剣に、根本的なエネルギー資源の見直しをするべきではないだろうか。

これからの世界は石油ばかりに頼っていては破綻するに違いない。

それなのにアメリカではあいも変わらず「大きいことはいいことだ」みたいな感覚がまかり通っていて、舗装道路しか走ることのないような郊外に住むママさんから、ダウンタウンのビジネスマンまで、猫も杓子も4輪駆動の大型車を乗り回しガソリンを垂れ流している。

金儲けしか頭にない自動車会社にしても、資源問題なんぞは聞く耳もたずで、大型車の販売にしのぎを削っている。エコカーなどまだまだ少数で、街でみることなどほとんどない。

そんなことに思いを巡らせていたら、この海上石油プラットフォームが、地球の体内から血液をどんどん吸い上げる非情な吸血マシーンに見えてきた。



カトリーナの傷跡

2005-12-15 15:18:57 | 北米
ルイジアナ州のバトンルージュにやって来た。

とはいっても、バトンルージュの宿がどれも一杯だったので、そこからさらに車で45分程西にいった小さな街のホテルに泊まっている。

この地を訪れたのは、ハリケーン・カトリーナの取材以来だ。

今回の取材はハリケーンとは関係ない石油問題プロジェクトの一環なので、ニューオリンズに立ち寄る機会はないだろう。それでも、被災し家を失い、帰る場所をなくした人々はいまだに多数存在している。そんな被災者たちは、バトンルージュを含めたニューオリンズ近郊の街で、いまだにホテル暮らしを強いられているのだ。

バトンルージュの宿がみな一杯だったのも、そんな理由があったのだ。

夕食を食べようと、近くにあったシーフードレストランに立ち寄った。

こじんまりとした作りの店には、僕の他に客は一人だけ。中年男性がだまって食事をとっていた。

食事を待っている間、店のオーナーである女性と話をした。

この夏まで店はニューオリンズの南部海沿いにあったという。親子3代続いていた老舗のレストランだったそうだ。

カトリーナが上陸し、付近にあった建物とともに、このレストランも全壊した。

レストランは再建されたが、土地も変わり、建物も変わってしまった。50年以上の歴史を刻んだレストランの母屋は消え去った。

彼女の話では、ニューオリンズの住民のなかには、浸水による環境汚染のために、この先5年間も住んでいた土地に戻ることのできない人々もいるという。

被災から4ヶ月近くたち、あれほどの大事件になったハリケーン被害もほとんど報道されることもなくなった。

それでも、カトリーナの傷跡は今も深く残っている。