Kuni Takahashi Photo Blog

フォトグラファー高橋邦典
English: http://www.kunitakahashi.com/blog

5度目のリベリアへ

2008-04-17 11:37:21 | リベリア
明日、リベリアに向けて出発する。前回訪れたのは2006年の12月だから、ほぼ1年半ぶりだ。

これまで何回かブログにも書いてきたように、トリビューンの予算引き締めでとてもアフリカまで仕事として送ってもらえるわけもなく、今回はすべて自費。これまで蓄えてきた有給休暇を使って2週間ほどリベリアを取材し、そのあと数日ガーナにも寄ってくる。

今年はリベリアの内戦が終わってから5年目ということで、モモやムスの様子をみてくることに加えて、国内がどう変わってきたかということにも焦点を当てたいと思っている。

それ以外にも、多額の取材経費のもとを幾らかでもとらなくてはならないので、日本の雑誌やNGOなどのための取材もいくつか入れた。かなり忙しくなりそう。

南アフリカ駐在の特派員のポールが来てくれれば、一緒にいくつか取材をして経費の回収にもなるのだが、国際部も予算削減とかいっているのでこれは実現しなさそうだ。スタッフカメラマンが自費でアフリカくんだりまで取材に行くといっているのに、そのチャンスを有効利用しようともしないトリビューンにちょっとうんざり。

子供たちに会うのは勿論だが、今回は首都のモンロビアだけでなく、初めて田舎部も取材に行く予定なのでそれも楽しみだ。






ジムの眠れぬ夜

2008-04-12 02:21:41 | シカゴ
ひと月ほど前に申請した撮影許可がようやく下りたので、昨年の貧困プロジェクトで取材したジムを訪れてきた。彼は昨年空きビルに侵入し器物を盗み、7月から刑務所に入っている。
http://blog.goo.ne.jp/kuniphoto/d/20071128

彼と会うのは11月以来だから、ほぼ5ヶ月ぶりだ。

久しぶりに会ったジムは、相変わらずどことなく落ち着きのない様子だったが、それでも顔色もよく元気そうだった。

シェリダンにあるこの刑務所は、中レベルのセキュリティー刑務所で、どちらかというと更正施設といった趣が強い。

釈放までの間に受刑者が手に職をつけられるように、電気や配管、旋盤などの建築関係やコンピューターのクラス、また、高校を卒業していない者のためには、同等の資格であるGEDの取得をめざすクラスも設置されている。

僕が訪れたとき、ジムもちょうど6ヶ月の大工仕事のコースを終了するところだった。金銭管理などのクラスも受講したということで、以前よりも幾分自信が出てきたようにも感じられたのだが、いざ腰を落ち着けて話してみるとどうも最近眠れない日々が続いているらしい。釈放後の身の振り方が心配だ、というのだ。

彼の予定釈放日は6月4日、残り二ヶ月もない。

「もうロックフォードには戻りたくない。あそこに戻ったら、また同じ仲間とコカイン漬けになって、以前と同じことになっちまう。。。」

シカゴから北西に車で1時間半ほどのロックフォードは、彼がホームレスとして何年も過ごした場所だ。服役中のリハビリで、ジムはコカイン中毒から立ち直った。刑務所ではタバコも禁止されているので、もう9ヶ月間、彼はコカインはおろか、酒もタバコも口にしていない。

ジムには3人の娘がいるが、もう7,8年も前、ホームレスとして堕ちぶれた生活をするようになってから家族関係を絶ってしまった彼は、長いこと娘たちと会うこともなかった。

ところが今年にはいって、20歳になる末娘のロビンから突然手紙が届いた。昨年12月にトリビューンに掲載された貧困プロジェクトの記事を、たまたま娘の一人がみつけたのだという。

家庭内暴力など、いろいろな問題を抱えるロビンは、ジムが刑務所をでたら彼女のもとに来て欲しいといっている。しかし、ジムの気持ちは複雑だ。彼女の暮らすロシェッテという街は、ジムの古巣でもあり、コカインがらみの悪い付き合いのある人間がまだ多く残っている。ロックフォードと同様、ロシェッテに戻ってしまえば、また以前のような荒れた生活に逆戻りしてしまうことを、彼は恐れているのだ。

「できればシカゴのような、新しい土地で出直したいんだ」

しかし、コネのない土地にいって果たして仕事に就くことができるだろうか。。。不安はつきない。毎晩そんなことを考えていると眠れなくなるという。

ジムの新たなチャレンジが始まるまで、あと55日。


写真部送別パーティー

2008-04-07 04:36:21 | シカゴ
一昨日、写真部から早期退職した5人のための送別パーティーが開かれた。

家族を同伴してきた5人はみな晴れやかな表情で楽しいひとときを過ごしていたが、短くても28年、長くて40年近くをトリビューンの写真部で過ごしてきた彼らだ。胸中を巡る思いもいろいろあったことと思う。

食事が始まる前に、彼らの足跡を辿る写真のスライドショーが流されたが、改めて彼らの業績に脱帽。

特に長いこと事件報道に身を置いてきたフランクの写真には目を見張るものがあった。60人の死者をだした1967年のシカゴの大雪をはじめ、映画にもなった1968年の民主党大会での大反戦デモ、300人近くが犠牲になった1979年の飛行機事故など、彼の白黒写真にはシカゴの歴史が詰まっていた。まさに彼は歴史の証人だったといえるだろう。

僕がトリビューンに移籍する随分前から彼はすでにデスク職についていたので、彼の撮った写真などほとんど見る機会がなかった。今回初めてそのドラマチックなニュース写真を目のあたりにして、僕はある少なからぬショックを受けてしまった。

長年の事件報道で培われたフランクの知識はデスクでも存分に生かされていた。

彼はシカゴにあるアラームボックス(火事や事件用に町の至る所に備え付けてある非常アラーム)や、今は少なくなってしまった公衆電話の位置などみな把握していたし、小さな路地を含めた通りはほとんどすべて彼の頭に入っていた。撮影現場の場所がわからないときなど、地図をみるよりフランクに電話をして尋ねる方が早かったのだ。A地点からB地点まで行くには、どこをどう通っていけば早いということも彼に聞くのが一番だったし、カーナビに頼ることの多い今の時代でも、自らの経験に裏打ちされた彼の判断は、コンピュータをも凌ぐものだった。

フランクが去った今、トリビューンの写真部にはシカゴの路上について彼ほどの知識を持った古い「職人気質」のカメラマンはもういない。

この夜は、前回のブログに書いたホゼへの質問も尋ねることができた。

「その朝というより、変わったのは前の晩かな。。。もうカメラのバッテリーをチェックしたり、一週間が始まる準備をしなくてよくなったからな。気楽になったよ」

そして、ちょっと意外だったことに彼はこう続けた。

「だけど写真のことよりも、写真部の友人たちとお喋りができなくなったのが一番寂しいよ。。。昼のコーヒーも、一人で飲まなくてはならなくなった」





現場から去った親爺

2008-04-02 12:37:01 | シカゴ
トリビューンのリストラの一環で、先週をもって我が写真部からも5人が早期退職となった。

カメラマン2人、デスク2人に機材担当1人がその内訳だが、機材担当はもともと一人しかいなかったので、これから一体どうなることやら。。。

退職したカメラマンの一人はホゼで、64歳の彼は、30年近くをトリビューンのカメラマンとして生きてきた。僕にとってはいい親爺さんといった存在で、仕事帰りによく食事にいったり飲みにいったりしたものだ。スタジオやファッションなどは撮らず、バリバリのニュース・カメラマンだった彼は、アフリカや中東の各地を取材してきたし、バチカンでローマ法王も何度も撮影し、ヨハネ・パウロ2世が亡くなったときは法王の写真集も出版した。

思えば、彼は80年代、90年代という新聞社の黄金時代を生きてきたのだなあと思う。

インターネットの台頭で購読部数も極端に下がり、その存在価値さえも危ぶまれている現在の新聞業界と違い、あの頃の新聞は報道の花形だった。取材予算も豊富にあって、社のカメラマンたちもニュース取材のために世界各地を飛び回っていたのだ。

そんないい時期を存分に謳歌し、やりたいことを十分やってから、退職金と共にさっぱりと現場から足を洗ったホゼ。将来が暗澹としているうえに、ビデオ撮りを含めたマルチメディア云々という現在の状況にとまどっている僕にとっては、正直言って彼の生きたタイミングが羨ましい。

それにしても、トリビューンに移籍する前から数えて30年以上も報道カメラマンとして写真を撮り続けてきたホゼにとって、今週から初めて仕事としてカメラを持たない日々がはじまったわけだ。

月曜の朝、眼を覚ました彼は一体どんなことを考えたのだろうか。

次に会うときに聞いてみようと思う。