Kuni Takahashi Photo Blog

フォトグラファー高橋邦典
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後藤さんの死に思う

2015-02-02 23:24:35 | 中東
ああ~、やっぱりでたなあ「自己責任」論。湯川さんに続いて後藤さんも捕まってから、また高遠さんたちのときのように彼らが責められるんじゃないかと心配だったが、それが現実になってしまった。しかし、殺された彼らを非難する人たちには、ちょっと冷静になって以下のことを考えてもらいたいなあと思わずにいられない。

(1)なぜ後藤さんたちが殺されたのか?それはイスラム国が日本を「敵」とみなしたからでしょう。ではなぜ日本が彼らの敵になってしまったのか?もっとも直接の原因は安倍総理による「イスラム国対策のため」の中東諸国への2億ドルの支援と、イスラエルとの関係拡大の示唆だろう。中東情勢はとても複雑なのに、熟考もせず、ただ己のいいカッコしのために金をばらまいただけの総理の外交で、日本はイスラム国から敵とみなされることになってしまった。殺された2人がイスラム国を怒らせたわけではない。彼らは結果的に安倍外交のつけを払わされたのだ。

(2)「政府から行くなと言われているのに勝手にいったのだから、責任は自分にある」という意見に関しては、基本的にはこれは僕も同意。ただ、そんなことはジャーナリストの後藤さんならわかっていたはず。僕自身も、ここ2年ほど紛争地の現場から離れているが、イラクやアフガニスタンなどに出向くときはそれなりの覚悟をもってでかけていたし、戦地に行くジャーナリストであればそれはあたりまえのことだと思う。だいたい政府から行くなといわれて、ハイそうですかと従ってばかりいたのでは紛争地での仕事などできはしない。社員に対する責任をとったり、リスクを冒したがらない報道各社は、そういうフリーランスの人たちを利用してネタを仕入れるわけだし、彼らがいるからこそ一般の人たちは現場で何が起こっているのか知ることができるのだ。そういう意味では視聴者や読者は恩恵を被っているのに、人質になった途端、救出するのに税金つかうな、とか騒ぎ立て、あまりに非情ではありませんか?これが仮に、自らの意思で紛争地に出向いて、地元に貢献していた医者とか看護婦だったとしても、人質になってしまったら「自己責任」だから税金使って救出するな、と責めるんだろうか?

(3)救出につかう税金は無駄遣いというが、それでは安倍総理が中東諸国に支払う2億ドルもの金はどうなんだろう?後方支援とはいうけれど、支援金をもらった国がどういう使い方をするかなどわからないし、それが戦闘に使われることだってないとはいえないと思うんだけど…。そうなると、僕らの税金は人殺し(それも日本とは関係のない人たち)に使われることになるのに、それは気にならないのか?

これまで僕が、中東やアフリカ、アフガニスタンなどの現場でいつも感じてきたことは、「日本人は受けがいい」ということだった。日本人の勤勉さ、技術の高さや日本製品の品質の良さはどこにいっても褒められたし、アメリカに原爆を落とされてから50年の劇的な復興はいまでも敬意をもって語られる。「どこから来た?」と尋ねられて、「日本から」と答えたその瞬間、並々ならぬ好意をもって迎えられることがほとんどだった。これは、日本はそういった中東やアフリカの紛争地に軍事的に介入することなく、誰からも敵とみられることが一度もなかったことが大きな理由でもあるのだ。こんな日本のポジティブなイメージが、僕らカメラマンやNGOの職員など、現場で働く日本人の仕事をいかにやりやすくしていたか、経験のない人にはわからないかもしれない。
しかし、安倍総理の米国を盲信追従する外交と日本の武装化推進のために、そんな状況が大きく変わろうとしている。「日本人はどこにいても標的にする」といわれるほどまでの敵をつくってしまったのだ。

以前フェイスブックで紹介した「世に倦む日日」さんのブログの内容(http://critic20.exblog.jp/23387686/)が正しかったとすると、後藤さんは、日本政府に利用され、作戦が失敗した挙句「見捨てられた」ともいえる。その真偽はともかく、彼が殺されたことは、安倍総理にとっては吉報だろう。「テロリストたちを許さない!」と、この事件に対するイスラム国への日本国民の怒りを利用して、さらに日本を武装化しやすくなったのだから。米国と連帯してどんどん軍事に金をかけ、あげくに憲法9条まで改変できれば、米国にとっても安倍総理にとっても万々歳というものだ。そんな目的達成のためには、国民一人や二人の命など安いもの。特に安倍総理は経済政策でも弱者切捨てが大得意だ。

日本を愛する国民のみなさん、感情に流されずに、冷静になって、いまこそ日本の将来の平和のためには何が必要なのか考えてください。それは決してテロとの戦いに軍事力で参加することなどではないはずでしょう。人質になった人たちを「自己責任」と非難する前に、どうして日本人が人質にされ殺されるようになったのかその背景を考えてみてください。以前から述べていることだが、国際貢献をするのなら、自衛隊を派兵するのではなく、医者や技術者を派遣すればいい。税金を使って支援をするなら、武器に使われるかもしれない金ではなく、復興の手助けをすればいい。それが敵をつくらず味方を増やし、結果的に日本の安全につながるのだと思う。

後藤さんとは面識はないけれど、戦争の現場の醜さをよくわかっている人のようだし、弱者に寄り添う視点をもっていた人だったと聞く。そんな人であれば、いかなる理由をもっても戦争には反対の立場だったろう。そんな彼の死が安倍政権にうまく利用されて、日本の軍国化に拍車をかけるようになることがあってはならないと思う。それでは彼も残された妻や子供たちも浮かばれない。

(同記事はYahoo!ニュースにも掲載してあります)

世界高いタワー

2010-01-05 23:20:17 | 中東
大晦日にいきなり古巣のトリビューンから仕事がはいり、急遽ドバイへ行ってきた。5日間の撮影をこなし、ムンバイへの帰路、空港でこれを書いている。

メインの撮影対象は、高さ828メートルを誇る世界一の高層ビル、ブルジュ・ハリファ(ハリファ・タワー)。昨夜おこなわれた派手な完成式典にあわせて、数日前からこのタワーや他の建築物、ドバイの日常などを撮影してきた。

世界一の高さとはいえ、なぜ建物ごときにわざわざ費用をかけてインドから僕を派遣するのかはじめは疑問に思ったのだが、実はこのブルジュ・ハリファはシカゴの建築家エイドリアン・スミスが設計したものだったのだ。スミスは高さ世界トップ10のビルのうち3つを設計しており、シカゴとの関わりが深いということで、トリビューンも建築に詳しい記者をドバイまでおくることになったらしい。

建築物の撮影とはいえ、突然の大晦日の現地入りだったのでかなり慌ただしかった。ムンバイから搭乗予定だったエア・インディアが大幅に遅れ、年明けの様子を撮り逃すのを恐れた僕は空港で急遽他のエアラインのチケットを購入するはめに。なんとか日暮れ直後にドバイに到着することができたが、その晩は午前1時まで撮影し、以来連日あちこち駆け回っていた。

実はこのタワー、昨夜の完成式典までは、ブルジュ・ドバイ、とよばれていたのだが、式典中に首長のシェイク・モハメッドが突然このタワーの名称変更を発表。アラブ連邦首長国連邦(UAE)の大統領であり、首長国アブダビの首相も兼任するハリファにちなんだ名前になった。この名称変更の発表は多くの人を驚かせたが、昨年11月のドバイ・ショックの際、アブダビはドバイに100億ドルを支援し救済したといういきさつがあるので、実はこの際にタワーの名称について裏取引があったのでは、と勘ぐる人も少なくない。

僕が前回ドバイに立ち寄ったのは3年前だったので、そのときにはこのタワーは着工されたばかりだったし、付近の巨大ショッピングーセンターなども完成していなかった。新たに開通したメトロ市電なども含め、金融危機とはいいながらも、久しぶりに訪れたこの町の目覚ましい発展ぶりには驚かされた。

それはそうと、まあ良くあることだが、今回も急な仕事依頼だったおかげで2日から行く予定だったラジャスタンへの旅行をキャンセルするはめに。。。まあ休暇で金を使うよりは仕事して蓄えたほうがいいんだけどね。

ブット氏の暗殺に思う

2007-12-29 00:00:03 | 中東
昨日は、パキスタンの元首相ブット氏暗殺のニュースで朝が始まり、おかげで一日中どうにも気の晴れない暗澹たる思いで過ごす羽目になった。

僕はパキスタンには行ったことはないし、ブット氏に特別な思いいれがあるわけでもない。歴史的に世界中で政治家の暗殺などは何度も起こってきたし、半ば予想されていた彼女の暗殺それ自体が僕にとってとりたててショックだったのではない。

この暗殺のやり方と、その後の民衆の反応をニュースで追っているうち、どうにもやりきれない気持ちになったのだ。

犯人は、まずブット氏の首と胸を銃で撃ち、そのあと自爆したという。その爆発の巻き添えを食ってまわりにいた20人ほどが殺された。ブット氏の暗殺が目的だったのなら、一体どうして周りにいる人間たちまで巻き込む必要があるのか?

昨日の暗殺に限らず、イラクやアフガニスタンなどで近年頻発している自爆テロすべてにいえることだが、明らかに教典コーランの教えに反するこの無差別殺人行為を、一体何をもって彼らイスラム原理主義者達は正当化するのか?犠牲者の中には当然子供さえも含まれてくるのだ。

さらに、ブット氏暗殺後の民衆の反応にも大きな疑問を感じる。怒ったブット氏支持者たちは、彼女の収容された救急病院のガラスをたたき割ったり、各地で車や商店に放火したり発砲するなどの暴動騒ぎを起こし、ムシャラフ大統領批判の声をあげているという。

人々が怒るのはもっともだが、その矛先が違うだろう。

怒りをぶつけるべき相手は、自爆テロという極めて非道な行為を繰り返すイスラム原理主義者たちであり、こういう洗脳された人間達をつくりだすテロ組織のはずだ。ムシャラフ大統領が、自分の首を絞めるようようなことになるブット氏の暗殺を企てるわけはないし、ましてや町の商店主たちや病院がどうして八つ当たりされなくてはならないのか?

コーランやモハメッドが西洋の雑誌記事などでわずかでも悪く言われたり、ジョークのネタになったりするだけで激怒して、世界中のイスラム教徒たちが激しいデモをおこすというのに、もっと非人道的な自爆テロをおこなう組織に対しては、彼らは悲しむだけで真っ向から立ち上がって闘おうとしない。

誤解を恐れずに言えば、彼らイスラム教徒自体が、そういうテロ組織の存在を、好きではないけれどもなんとなく許容してしまっている、そう思えてさえしまうのだ。

イスラム教徒の人口はクリスチャンに続き世界で2番目に多い。もし彼らが学校やモスク、コミュニティーという日常活動をとおして、テロリストの温床となる貧困問題や教育問題に取り組み、本気でテロ組織に対抗しその膿をだそうと決意するなら、ブッシュの反テロ政策などよりも遥かに有効な手立てがうてるはずだ。

さらに恐ろしいのが、イラクをはじめとして、近年あまりに自爆テロが頻発するために、イスラム社会、特にテロリスト予備軍ともいえる若者たちの間で、これがあたりまえの「作戦」として定着してしまっていることだ。
「自分の気に入らないものはみな殺しにしてしまえ」といった風潮が浸透し、自爆テロが当然のように遂行されてしまう。。。そういう社会になってしまった。

こんな環境では子供たちは自爆テロに免疫をつけられて育つわけで、テロ組織にとっては、「作戦遂行」に疑問を持たないテロリストの補充には事足りない都合の良い社会になっていくといえるのではないか。

現在、世界規模でイスラム原理主義者たちの影響は増加する一方で、この点に関してはまったく希望がもてないというのが正直な思いだ。(もちろんこの責任の大きな一端はブッシュにあるのだが。。。)

こんな考えが憂鬱な頭を堂々巡りして、結局やろうと思っていた写真の整理もはかどらずに一日が過ぎ去ってしまったのだった。

イラク復興?

2007-11-19 09:44:56 | 中東
プロジェクトをキャンセルされたあと、結局他の部隊に1週間ほど従軍取材をしてからイラクを発ち、2日前にシカゴに戻ってきた。まだ時差ぼけで午前3時頃眼が覚めてしまう。いくら国外取材を重ねても、こればかりは慣れることはないなあ。

今回の従軍で興味深かったのは、イラクを取材するようになった2003年以来、初めて少しは状況が良くなってきたかなと感じたことだ。

バグダッドから30キロほど北にあるタジという街を中心に取材したが、このあたりは米軍に対するイスラム抵抗勢力の攻撃や、スンニ、シーア派の宗派間の争いが激しく、今年はじめあたりまで非常に危険な地域だった。それが、今春にはじまった米軍のサージ(追加派兵)が功を奏し、4ヶ月ほど前から徐々に治安が回復しはじめた。

治安が戻るにつれ、米軍がある程度の治安を維持できるうちにイラクの再建を進めるのが得策だという部族リーダーたちの思惑と、もう殺し合いにはうんざりという街の気運が一致して、宗派や部族をこえた和解、協力がおこなわれるようになってきたのだ。

同時に、アメリカ側も兵士だけではなく、国際開発庁などから出向してきた一般市民を含んだチームで学校や病院の再建にのりだした。このチームのおかげで、イラクの復興支援のための資金にすばやくアクセスできるようになった。

「これまでは、米軍がくるたびに援助を約束してくれたにもかかわらず、なにひとつ実現しなかった。しかし今回は希望がでてきました。病院の設備も少しずつ整ってきたのです」

内壁のきれいに塗り替えられた病院で、ドクターのマフムード氏が質問に答えてくれた。

地域の学校も同様に整備されはじめ、コンピュータなども設置されるようになってきた。前述したように、僕にとっては、バグダッドの陥落以来、初めて見るイラク復興の姿だった。

しかし、これでイラクも落ち着いていくのかといえば、正直いってまだまだ疑問は残る。これまでの例からしても、米軍が集中的に攻勢をかけた地域からはアルカイダが逃げ出し一時的に治安が良くなるが、兵力が手薄になるとまた武装抵抗勢力が戻って問題を引き起こすからだ。現に米軍の増兵でタジやバグダッドから追いだされたアルカイダの一部は北部に移動したため、最近では北部のキルクークなどで逆に治安が悪化している。

米軍の追加派兵が終わり、兵力を減らしていく来年以降にここにまた武装抵抗勢力が戻ってこないという保証などどこにもないし、むしろそれは予期されるべきことだろう。そのときまでに、どれだけイラクが警察、軍隊を含めた治安維持の制度を強化できるか、また、経済を回復させ失業率を下げることができるかにこの国の将来はかかってくるだろう。仕事がなく生活が困窮していれば、幾ばくかの金のためにアルカイダの手先となって爆弾を仕掛けたりする一般市民は少なくないからだ。

また、状況が好転してきているとはいえ、ここに到達するまでにイラクの払った犠牲はあまりに多大であり、アメリカとの溝は深くなりすぎた。

いまや大部分のイラクの一般市民たちはアメリカに憎しみさえをも抱いているといって過言はないだろう。彼らは、アメリカが嫌いとは決してアメリカ人の前では口にしないが、僕が日本人だとわかると本音をだしてくるからこれはよくわかる。トリビューンの現地スタッフたちでさえ、僕にはこっそりと、「もういまでは本当にアメリカが嫌いになった」などと言ってくるし、街でであう子供達でさえ、「アメリカは駄目だ」と臆することなく口にする。

治安が回復し物質的な国の再建はできても、アメリカがイラク市民たちに残した精神的な傷を癒すのには、遥かに長い年月がかかるだろう。

(写真:宗派間をこえた和解会議にあつまるリーダーたち)










予期せぬ結末

2007-11-11 15:04:40 | 中東
バグダッドでの従軍だが、予期せぬ結末を迎えることになった。

これまで取材してきた部隊から、従軍中止命令をだされてしまったのだ。

このプロジェクトは、僕とアーマーという記者がイラクにいる米軍兵士を取材し、もう一組のカメラマンと記者がアメリカ国内で彼らの家族を担当するというチーム・プロジェクトだったのだが、どうやらこの家族担当の記者がある質問をして部隊のトップを怒らせてしまったようなのだ。

わざわざバグダッドまで来て、部隊の兵士達と合流する前夜になっての突然の取材中止命令。。。唖然とした僕らはなんとか部隊と交渉し食い下がったが決定を覆すことはできなかった。

さらに情けないことに、部隊のトップを怒らせた質問というがなんともくだらないものなのだ。それは、イラクに出兵している兵士達の妻の間で、「浮気をしている妻のリスト」が出回っているという噂話についてのものだった。こんな噂話の真偽を確かめるために、記者は大佐の妻を含めた兵士達の配偶者たちにこのリストについて尋ねたという。

質問に立腹した配偶者達が苦情を申し入れ、これが数日前にイラクにいる部隊のトップの耳にはいってきたらしい。

「ゴシップ紙でもあるまいし、なんでこんな馬鹿げた質問をするんだ。。。それも大佐の妻にまで。。。」

はじめこの話を聞いたとき、僕はあいた口がふさがらなかった。そして、記者と部隊の両方に対してなんともいえぬ怒りがこみ上げてきた。

本来ならその内容がどうあれ、「質問をする」行為自体に問題はないはずだ。記者には質問をする権利があるし、部隊にはそれに対して「答えない」権利があるからだ。軍の機密を漏らすなどの従軍規則に違反したわけでもなく、「浮気妻のリスト」のことを記事にして発表したわけでもないので、たかが記者の質問くらいで部隊が僕らの従軍を中止する正当な理由はない。

しかし現実的にはイラクでの兵士の取材というのは軍の許可がなければ不可能だし、理由が正当であろうがなかろうが、軍が駄目だといえばそれまでなのだ。

今年6月からこれまでイラクに3度も出向き相当の時間と労力を割いておこなってきたプロジェクトだけに、こういう終わり方をするのは非常に残念だ。部隊のなかでもこの決定について賛否があるようだし、トリビューンでもワシントン支局長を中心に交渉を続けているようだが、頭の固い軍のことだ。恐らく一度だされた従軍中止の決定が覆されることはないだろう。

こういうわけで、僕らとしても何もせずに手ぶらでアメリカに戻るわけにもいかず、とりあえずここ数日は全く他の部隊に従軍して、単発の取材を続けている。




アラブ人の金の使い方

2007-11-07 03:15:50 | 中東
昨日またバグダッドに戻ってきた。前回に続き同じ部隊のプロジェクトの一環で、今年3度目のイラク入りになる。なんだか最近やたら忙しくて、シカゴにいたのはここ3ヶ月のうち2週間ほどだ。なんだかアパートの家賃が無駄だなあ、なんて思っている。

話は変るが、5ヶ月ほど前から、僕は自宅から空港に向かうときに毎度同じタクシードライバーに乗せてもらうようになった。

ジョーという名のそのドライバーは、ヨルダン生まれのパレスチナ人。6月にイラクに行くとき、あらかじめ電話しておいたタクシー会社からドライバーが来ずに慌てていたところ、たまたまアパートの前を通りがかったのが彼だった。

僕が彼の故郷であるヨルダンを経由してイラクに入るということで話がはずみ、ジョーとはそれ以来の付き合いになった。

彼はアラブ人とはいえ、毎日モスクに通うような敬虔なイスラム教徒というわけではないし、シカゴにもう30年近く住んでいるので、考え方もかなりリベラルだ。 

今回も彼の車で空港まで行ったのだが、そんなジョーが、常にイスラエルびいきのアメリカの外交政策には飽き飽きしているとめずらしく車中で愚痴をこぼしはじめた。

「アメリカがイスラエル寄りなのは仕方がないよ。なんといってもユダヤ人は金権と政治力でアメリカの政界と財界にぎっちり食い込んでいるからね」

僕がなだめると、彼はこう言った。

「いや、アラブ人も金は十分に持っているんだ。ただその使い方を知らないんだよな。アラブ人たちが気にかけるのは大邸宅や高級車といった個人の贅沢ばかりだから。。。」

自身がアラブである彼のこの言葉を聞いて、なるほどそうかもなあ、と感心。

中東、特にクウェートやアラブ首長国連合のような産油国(サウジは行ったことがないが恐らく同じだろう)を訪れて気がつくのは、街を走る高級車の多さや、乱立する高級ホテルの豪華さだ。

昨年クウェートで友人に連れられて富豪の昼食会に顔を出したことがあったが、その豪華さに舌を巻いたことを憶えている。大理石の敷き詰められたリビングには噴水まであり、たった5人の昼食だというのに、給仕が3人、7-8種類ほどの前菜がでたあと、メインコースとしてプールサイドに魚や肉など6種類ほどのバッフェが設置された。恥ずかしながら僕は前菜がメインだと勘違いしてしまい、それだけでお腹を一杯にしてしまったほどだった。

もちろん石油ビジネスで富をなしたこの富豪、ベンツを3台、BMWを2台所持し、さらにこのような豪華な家をドバイとロンドンかパリだったか忘れたがヨーロッパのどこかに一件ずつ持っているといっていた。

クウェートではこの程度の金持ちは珍しくない。僕など恐らく一生関わることのないような大富豪を含めて、産油国には金持ちがごろごろしているのだ。

パレスチナの例もあるし、勿論アラブ人全部がそうであるというつもりは毛頭ない。ただ、産油国に関しては自分の経験からも、ジョーが言うように、個人の物質的贅沢さを追及するということにアラブ人はかなりの執着があるように思えるのだ。

非難を覚悟で極端な言い方をすれば、ユダヤは自分のビジネスによって「稼いだ」金、アラブは石油資源によって「与えられた」金ということで、その利用法に対するメンタリティーにも差が出てくるのかもしれない。

いずれにしても言える事は、もし産油国の富豪たちが個人の贅沢に金を費やすだけではなく、アメリカ、ヨーロッパやさらにはアフリカなどとの建設的なビジネスとネットワークにつぎ込んでいたなら、現在の国際情勢もかなり変っていたのではないだろうか、ということだ。



脱走兵ムニース

2007-09-13 03:16:58 | 中東
日曜日に突然衛星モデムが故障し、修理不能になった。

コミュニケーションの手段がなくなっては仕事にならないので、木曜あたりまで従軍する予定だったところをやむなく早めに切り上げて昨日イラクを後にしたのだが、しかしなんと言うタイミングか。。。故障したのが締め切り日の翌々日。これが数日前だったらエライことになっていたなあ。

以前にも書いたように、今回は写真のみならずビデオの編集、電送まで撮影と並行しておこなわなくてはならず、この時間のかかる作業のおかげで従軍中は一日4時間ほどしか睡眠がとれなかったのだが、昨夜は久しぶりにホテルの柔らかなベッドでゆっくり寝ることができた。

6月にはじめたこのイラクのプロジェクトは、ひとつのプラトゥーン(小隊)の米兵18人と、彼らの家族を数ヶ月ごとに追っていくドキュメンタリーだが、そのパート1と今回のパート2が先日トリビューンのサイトにアップされた。
http://www.chicagotribune.com/platoon

パート2のストーリーのひとつにもなっているが、僕らが今回イラクに戻ってくる直前に、この小隊から一人の脱走兵がでていた。

小隊のなかでも一番若い20歳のムニースが、8月に休暇でアメリカに帰ったきり、期間を過ぎてもイラクに戻ってこなかったのだ。(陸軍兵士には12-15ヶ月の派兵期間のうち2週間の休暇が与えられている)

米国での脱走の罪は重く、法的には死刑になる可能性もある。それほどのリスクを犯してまで、ムニースはイラクという戦場に戻ることを拒んだのだ。

6月にムニースと話をする機会があったが、彼は兵士になる前、麻薬の密売人だったという。マイアミに住んでいた彼は、儲けた金で豪遊し、ナイトクラブで一晩に2000ドル、3000ドルを使うことも珍しくはなかったらしい。

そんな派手な生活をしていた自称プレイボーイのムニースだったが、陸軍にはいってからは随分更正したようで、「もうあんなことはやっていられない」「落ち着きたい」とこぼしていたし、パトロールでは、歩兵としてバグダッドの街を歩くのが怖いので、車から降りなくていいドライバーを志願していたという意外に小心な面もみせていた。

彼はすでに妻の出生地であるメキシコあたりにでも逃亡していることだろう。スピード違反ひとつで捕まっても身元が割れてしまうし、正式に就労もできないので、アメリカで暮らしていくのは難しいからだ。

イラクで死ぬくらいなら一生逃亡者となるほうがいい、とでも思ったのだろうか。。。死刑のリスクを犯してまでなぜムニースが脱走したのかはわからない。いずれにせよ、彼の脱走は残された小隊の兵士たちには随分なショックだったようだ。

「あのくそったれ野郎。。。」兵士達の多く、特に彼と歳の近い若い連中はいまだにムニースを許せないでいる。派兵前の基礎トレーニング時代からイラクの戦場まで、苦労を分かち合ってきた彼ら「兄弟」たちにとって、ムニースの行為は 裏切り以外の何物でもないのだ。

残された兵士達の怒りはもっともだし、よく理解もできたが、実は彼らの話を聞きながら僕はちょっと冷めた頭で冗談半分こんなことも考えていた。

「一掃のこと米兵全員が脱走してしまえば、また世界も変るかな。。。」

(写真:軍用車の運転席でたたずむムニース)

深夜の家宅捜索

2007-09-09 00:49:06 | 中東
従軍をはじめて1週間がたった。

9月半ばとはいえまだまだバグダッドは暑く、日中は50度ほどになる。湿気は少ないものの、陽の下に立っていると、肌がじりじりと焼けていくような「痛み」に近いような感触をうける。

今週はずっと夜の作戦だったので暑さはそれほど苦にならなかったが、電気のない家も多く、暗い中での写真撮影は結構きつかった。

深夜のレイド(強制家宅捜索)が主な作戦で、集められた情報をもとにテロリスト容疑者の家を抜き打ちで捜索するのだが、深夜にキャンプをでて戻るのは朝7時くらい。それから仮眠をとって写真とビデオの編集、電送をおこなわなくてはならなかったので、一日4時間ほどしか寝られなかった。 

今週僕の同行したレイドは4件。小隊は計3人の容疑者を逮捕、拘留したが、どの家からも証拠となるような武器や爆弾類は何もみつからなかった。拘留された容疑者たちもすべて2、3日で釈放されている。

僕は2004年に海兵隊に従軍して同じようにレイドの取材を続けておこなったことがあったが、そのときも、間違った家を捜索したり、容疑者は存在しなかったりと、あまり効果があるようには思えなかった。というより、深夜突然家に押し入り、無実の市民を拘留することによって、逆に反米感情を高めてしまうのではという危惧を感じていたのを覚えている。

もちろん僕はひとつの小隊に従軍しているだけなので、イラクの状況の全体像がみえるわけではないし、あくまでミクロの眼でみた僕の経験に限る話だが、3年が経った今も、レイドに関する状況はあまり変わっていないようだ。

これは、バグダッド陥落からすでに4年が経ちながら、いまだに米軍が治安を回復できない理由の一端でもあろうと思う。

米軍は、テロ容疑者を捕まえるためには地元民からの情報に頼らざるを得ない。何処にどういう人間が住んでいるか、それは地元の人にしかわからないからだ。

度重なる爆弾テロや治安の悪さに嫌気がさした市民達が、少しづつ米軍のホットラインをとおして状況を提供するようになってきた。これはいいことなのだが、情報提供者が必ずしも善意に基づいているわけではないことも少なくない。権力争いの結果、相手を陥れるために米軍を利用したり、または単に報酬目当てに情報をでっち上げる場合もあるからだ。

こういう信憑性に欠ける情報にも頼らざるを得ないのが米軍の現状であり、それだけ真犯人を捕まえる確立が落ちてしまうわけだ。

僕は正直言って、レイドの取材はあまり好きではない。それが本当にテロリストの家ならともかく、僕の経験に限れば、前述したように無実の市民達がとばっちりを受けているケースのほうが遥かに多いからだ。

夜中に突然踏み込まれ、捜索のために寝室や居間をめちゃくちゃに荒らされて、あげくに一家の主や息子を連れ去れ途方にくれる女性達のことをみるにつけ、どうにもやるせない気持ちになってしまうのだ。

兵士の自殺

2007-09-03 23:45:16 | 中東
先週末、ちょうど僕が部隊についたその数時間前に、部隊から一人の自殺者がでた。

僕らが取材している小隊の兵士ではなかったが、2ヶ月前に来たときに同じ兵舎で寝泊りしていたので、彼とは顔見知りだったし、何度か話をする機会はあった。

小柄で痩せており、典型的なマッチョ兵士のタイプではなかったが、それでも人のいい奴だなと思ったのを覚えている。アメリカの家族から送られてきたお菓子などを、「食べるかい?」と気前よく分けてくれたこともあった。どんなことを話したのかあまり覚えていないのだが、彼がラスベガスの出身だったということは、坊主頭の痩せた顔とともに、はっきりと僕の記憶に留まっていた。

彼と同じ小隊の兵士の話では、彼は1ヶ月半ほど前に一度、ピストルを顎につきつけて自殺未遂を図っていたという。その後いったん小隊から離されカウンセリングをうけていたが、カウンセラーの判断でまた小隊にもどされた。その矢先の自殺だった。

仲間の兵士たちはみな、どうしてカウンセラーがまた彼を小隊にもどしたのか、首を傾げていた。

彼はいつも孤独なタイプで、部隊内に友人もほとんどいなかったという。
「あまり歩兵部隊には向いていなかったと思う。同じ陸軍の仕事でも、事務仕事を扱う部署などもあるし、そういう場所の方が彼にはよかったのでは。。。」
仲間の一人はそう語った。

彼がどうしてそこまで追い詰められてしまったのか、僕には知る由もない。しかし、陸軍の上司が個人の性格をもっとよく見極めて、適材適所の任務を与えていれば、彼も自殺などせずにすんだかもしれない。

戦争は、爆撃や銃撃といった戦いによってのみ犠牲者を出すわけではない。

ワシントンポスト紙によれば、イラクを含めた戦場で、彼のように自ら命を絶っていった米兵の数は昨年99人。陸軍が記録をつけ始めたここ26年間で史上最高の自殺率になったという。 

イラクに来る意味

2007-08-30 08:51:57 | 中東
バグダッドに入ったはいいが、従軍する部隊の基地に行くためのヘリコプターの座席待ちで一日時間を潰すことになった。

昨夜、ゲッティー・イメージズのカメラマンで友人でもあるスペンサーがちょうど従軍を終えてホテルに戻ってきており、彼の部屋で一杯飲みながら話をする機会があった。

カメラマン達が同じ時期にイラクで仕事をしていても、各々従軍する部隊も違えばその期間も異なっているので、ホテルで出会う確立はあまり多くはない。スペンサーも僕も毎年1度や2度はイラクに来ているが、バグダッドで顔を合わせるのは初めてだった。彼がシカゴに来たときに会ったきりだから、それからもう2年以上だ。

「イラクではもう同じような写真ばかりしか撮れないし、カメラマンとしては正直あまり気の進む場所ではないよ。。。」

こうこぼす僕に、酔いのまわってきたスペンサーが強い口調で切り替えしてきた。

「いや、それでもイラクは重要なストーリーだし、俺たちは撮り続けるべきだ。今では俺たちのような外国人のカメラマンはほとんどここに来ないし、いいチャンスでもあるだろう」

確かにイラクが重要なストーリーだというのは承知している。特にアメリカ国民にとっては現在最も重要な出来事であるといえるだろう。

それでも、それが果たして写真で満足に表現できているのか?それが僕にとっては疑問だった。従軍という限られた環境でしか撮影できない欲求不満がある。しかし、選択肢の残されていない僕らにとっては、やはりそれをやり続けていくことしかできないし、そのなかで意味のある写真が撮れる可能性がないわけではない。ここは戦場だ。次の瞬間に何が起こるかなど、誰にも予測できないのだ。「イラクではもう撮れない」といって、現場に足を運ぶことさえ諦めてしまっては、そこからは何も生まれない。確かにスペンサーの言うことは正しかった。

今回の従軍中、こんなことがあった、と彼が話し始めた。

ある晩のこと、バグダッド市内で、工事に使うクレーン車を移動する任務があった。パトロールとか家宅捜索ではなく、たかだかクレーンを移動するだけの仕事だったし、重なる従軍で疲れていたので、彼はその任務には行かずキャンプで休むことにした。

しかし、任務から戻った兵士達は、まだ興奮冷めやらない様子でスペンサーにこう語ったのだった。

クレーン移動の任務中にその部隊は銃撃にあい、市外戦になった。たまたまそこを車で通りかかったイラク人が、わけがわからず部隊に向かって走り続けてきたために、米兵によって撃たれ死亡、乗客は泣き叫び、混乱になった。。。

「俺が怠け心をだしてしまったばっかりに、大変な写真を撮り逃がしてしまったんだ。。。」スペンサーは悔しそうに顔をしかめた。

こんなこともあったからなおさら彼は、「イラクは撮り続けなくてはならない」と、そう思ったのだろう。

確かに彼は重要な写真を撮り逃がした。。。しかしさらに僕が思ったのは、もしスペンサーがその部隊と一緒にいたら、ひょっとしたら米兵は民間人の車に対し発砲することを躊躇したかもしれない、ということだった。

カメラを持ったジャーナリストがその場に存在することによって、兵士の無謀な行為を防げるという可能性は十分にありえるのだ。そう考えたとき、たとえ満足できる写真を撮ることができないとしても、僕らがここにきて従軍するということには意味があるのかもしれない。。。。

そんなことに改めて気づかされた。

またまたイラク

2007-08-29 04:39:56 | 中東
6月に始めた米兵取材のプロジェクトの一環で、今日またイラクに入国した。

今回は米軍とのミス・コミュニケーションで当初予定していた従軍期間が短くなってしまったので、カメラマンの僕としては苦戦をしいられそうだ。

来月あたまに新聞及びインターネットで掲載予定のシリーズ第一話目のためのビデオ編集は出発前に済ませてきたが、第二話目がすぐその翌週に掲載予定なので、今回は従軍取材中に写真、ビデオの撮影のみならず、その編集と電送もすべておこなわなくてはならない。

写真と違ってファイルの重い動画を、衛星電話を使って電送するのは非常に時間がかかるので、なるべく短く編集しなくてはならないし、カメラマンにとっては撮影以外に余計な作業にとられる時間がずっと増えてしまう。こういう仕事形態は今回が初めてなので、ちょっと心配だ。

特にイラクでの従軍はもともと生活環境自体が苛酷なうえに、大人数の兵士たちとすし詰めの同居なので落ち着いて編集作業のできるようなプライベートな場所もない。このインターネットビデオのために増えた労働のおかげで、ただでさえ少ない睡眠時間がまた減るんだろうなあ。。。

やはりまだビデオ撮影にはなじめない、固い頭のカメラマンはまたまた愚痴をこぼすのであった。














バグダッド市民の葛藤

2007-06-30 00:00:14 | 中東
先日従軍を終えてバグダッドの支局に戻ってきた。

従軍の後半数日は反米勢力の攻撃が重なって、隣の宿舎で寝起きしている部隊の6名がパトロール中に路上爆弾で死亡、さらにキャンプ内にも砲弾が落ちて1名が殺された。僕は今回の従軍中8回ほどパトロールに同行したが、幸か不幸か(怪我がなかったのが幸いだが、ニュース・カメラマンの立場としては不幸、といっておこう)ロケット弾に見舞われたのが一回、それも100メートルほど離れたところだけで、あとは何事もなく無事に過ごしてきた。

従軍前には米兵だけでなく、イラクの市民からの視点をもった写真も、と思っていたが、今回も残念ながらそれはかなわなかった。これまでのイラク滞在も含め何度も挑戦してきたが、やはり米軍に従軍していては、市民の生の生活を撮ることなど無理なのだ。 

それでも、キャンプに滞在しているイラク人通訳や、支局の地元スタッフ達との会話をとおして、現在の生活状況をある程度掴むことはできた。

「サダム時代のほうが良かったよ。。。」

これは現在バグダッドに住むイラク人の大部分が共通して感じていることだ。

支局で雇っているドライバーたちはみな口を揃えてこういった。
「水はほとんどでなくなったし、電気もない。車のガソリンを買うのにも、2日間車で寝泊りしながら列をつくって待たなくてはならない。あまりに爆弾テロが多すぎて、もう人の多いマーケットにも行けなくなった。。。サダム時代には、政権批判さえしなければ、日用品にも特別不自由なく平和に暮らせたんだ」

あまりの治安の悪さは物資の産出にも影響し、野菜や果物なども手に入りにくくなった。トマトなど、2003年の米軍侵攻以前には1キロ150ディナー(約20セント)だったのが、現在ではなんと10倍の1500ディナーになったし、ガソリンなどは1リットル当たり20ディナーだったのが、いまでは400ディナーだ。2日間も列に並ぶ時間がなくて、闇市でガソリンを購入するとなんと1リットル1000ディナーになるという。

治安は悪化し続ける一方で、生活に困窮するバグダッド市民達だが、「一体どうすれば事態はよくなるのか?」という僕の問いに、はっきりと答えられた人間は一人もいなかった。

「米軍にはイラクから撤退して欲しい。しかし、撤退すれば権力争いの内戦が勃発するだろう」

これもバグダッド市民たちのほぼ共通した認識だ。もとはと言えば米軍の占領がきっかけで始まった宗派間の武力対立なのに、地域によっては米軍に治安維持を頼らなくてはならないという皮肉な現状がある。かといって完全に国内の治安を回復するだけの力は米軍にはない。

僕個人の意見としては、とにかく米軍は撤退して、仮に内戦が起こってももうあとはイラク人自身の手に将来を委ねるしかない思っているが、現実的には永続的に軍を駐留させておきたいアメリカの思惑もあるし、イラクを裏から掌握しようとしているイランの存在もあるからそうもいかないだろう。自己の利益だけのために、イラクをここまで破滅させたアメリカの罪はあまりに大きすぎる。

状況は複雑化しすぎて、解決の糸口も見えない。支局のドライバーたちのようにまだ定期収入のある恵まれた男たちは、家族をシリアなどの国外へ移住させはじめた。宗派間の争いが激化し、これ以上バグダッドにいるのは危険すぎるからだ。

「街に増えたのは携帯電話と缶入りコカコーラくらいだよ」

朝食を共にしながら、ドライバーのひとり、シナンは皮肉交じりにこう洩らした。




停止する思考

2007-06-26 02:13:36 | 中東
暑い。。。あまりにも暑い。

日中の気温は50度に近くなり、熱せられた空気は、まるでヘア・ドライヤーからの熱風のようになって全身に吹付けてくる。湿度が低いのが唯一の救いだが、それでも10キロほどの重い防弾ベストとヘルメットを身に着けていると、ものの数分でシャツは汗でぐしゃぐしゃになってしまう。

「これでは兵士たちが戦争に対して深く考えることなど無理だろうな。。。」
昨日のパトロール中、ハムビー(軍用ジープ)の車内でぐったりしながら仮眠をとる兵士たちの姿を眺めながら、僕はふとそんなことを考えていた。

彼らはこの過酷な気候のなか毎日6時間から8時間パトロールにでかけるが、作戦次第では10時間以上を外で過ごすことも珍しくはない。

倉庫として使われていた平屋の建物に50人ほどの兵士たちがひしめきあって生活しているが、それぞれの小隊が別なスケジュールで行動するため夜昼なくいつもざわついており完全に消灯することもないので、睡眠時間も十分にはとれない状態だ。

ニュースも食堂に設置されたテレビの決められた番組から放映されるものしか見ることができないし、新聞も軍と関わりのある「スターズ・アンド・ストライプス」だけだ。インターネットで外の世界の情報を調べようと思っても、気が遠くなるほどに接続の遅いネットにしかアクセスがないうえに、個人の使用は30分までと限られているから、家族や友人に2,3のメールを書くだけで時間切れになってしまう。

こういう生活環境は、この戦争の意味について深く考えるという兵士たちの思考を止めてしまうんだろうなあ、とつくづく感じている。

ジャーナリストとして従軍している僕でさえ、こうして兵士たちと同じ生活を続けていると、時間があれば眠りたい、というような状態になってきて、こうやって考えながらブログを書き綴ることさえ一苦労になってくる。(まあ僕はもともと筆不精なんだけど。。。)

長時間労働で生活の大部分を奪われ、住処には寝るだけに帰るようなもの。毎日の生活に追われ、国の政治に対して目を向け、深く考える余裕などなくなってしまう。

あれ、これって日本の会社員たちの生活にも似てないか?たしかに彼らも「企業戦士」などとよばれたこともあったよなあ。

兵士にしても会社員にしても、彼らをこういう「思考できない」環境に縛っておくことは「支配する側」にとっては都合がいいのだろう。

「バーコード」の刺青

2007-06-16 16:27:46 | 中東
バグダッド北西部で従軍を開始して1週間がたった。

今回一緒にいる部隊はまだイラクに来たばかりで、まだキャンプの外にでていないため街の様子は全くつかめていないのだが、パトロールで忙しくなる前のこの準備期間は、僕らにとって兵士たちの素顔を知るためのいいチャンスになった。

僕らの従軍しているプラトゥーンは18名。そのうちの8名にとって今回がはじめてのイラク派兵となる。

その新参兵たちの一人に、手首に「バーコード」の刺青をしている青年がいた。マイクという名のその兵士はまだ22歳、「バーコード」は、イラクに来る前に彼が初めていれた刺青だという。

いったん軍にはいれば、厳格に管理され、そこには個人の人間性の尊重など存在しない。兵士はバーコードをつけられたプロダクト、すなわち軍に所有された物品と同じというわけだ。

家族を養うためと、「なにか人生の目的、のようなものが欲しかった」という理由で軍にはいったマイクは、現在の米軍のイラク政策には批判的だ。

「9.11テロもイラクがやったわけでもない、大量破壊兵器だってみつかっていない。。。侵攻して4年以上もたって、なぜ僕らがここにいなくてはならないのか、意味が見出せない。。。」

「だけど、そういう意味や理由を考えることは僕らの仕事ではないんだ。。。兵士はただ与えられた日々の仕事をこなすだけ。これが終われば15ヶ月後には家に帰れる」

一概にはいえないが、米兵たちと話をしていて、多くの兵士たちがこの戦争にすでに意義を見出せなくなっているような感じを受ける。それでも、マイクのいうように、意識的にそういうことを考えないように思考をシャットダウンし、彼らは毎日の「職務」をこなしているのだ。さもなければ、猛暑と路上爆弾の危険に晒されながら、15ヶ月という長い期間を愛する家族と離れてやっていくことは難しいのだろう。

「もしここで死んだら、いったい何のために死んだのか、全然わからないね」

マイクは言った。

今晩、パトロールに同行してようやくキャンプの外に出ることができる。


またイラクへ

2007-06-08 03:29:30 | 中東
今日午前中イラク入りした。

2003年の米軍侵攻以来、早いものでもう4年。僕のイラク入国ももう6度目になる。



今回もこれまで同様、米軍に従軍しての取材になる。すでに何度も書いているが、現在のイラクでは外国人が自由に独立して取材するのは不可能に近い。誘拐事件があまりに多発しすぎていて、ひと目で外国人とわかる人間が、街に出てインタビューや写真撮影などできる状態ではとてもないからだ。(過去のイラク取材状況については以下のリンクへ)

http://blog.goo.ne.jp/kuniphoto/e/1fa2a3bd63004d4560370ed826075092

http://blog.goo.ne.jp/kuniphoto/e/bf04fcc409059e47e470b03aae098da5

従軍の始まる明日までの一日を、久しぶりにトリビューンのバグダッド支局のあるハムラ・ホテルで過ごす。


一昨年、昨年ともイラクには来たもののバグダッド支局に寄ることができなかったので、現地のスタッフ達と会うのも2年ぶりだ。みな元気そうではあるが、毎日のようにおこる爆弾テロや誘拐で治安の悪くなる一方のバグダッドで、彼らの生活も変わらざるを得なくなっているようだ。一人は家族をすべてシリアに非難させたし、残りのスタッフたちも今年中には同じことをと考えているという。



僕自身も毎年イラクに戻るたびに政情が悪化していることを実感せざるを得ない。2年前ならまだ空港に迎えに来てくれたスタッフ達と抱き合って再会を喜んでいるところを、今では挨拶もそこそこになるべく人目につかないようすばやく車に乗り込み走り出さなくてはならない。ドライバーも尾行されていないか神経をぴりぴりさせながら運転し、ホテルの部屋についてようやく一息つける、といった具合なのだ。



今回はこれまでのようにニュースの報道が目的ではなく、社のプロジェクトの一環でイラクにやってきた。米軍のひとつの部隊に焦点をあて、その兵士たち、そしてアメリカ国内に残された家族たちの1年を追う、というものだ。僕と一人のレポーターがイラクにいる部隊を取材し、もうひとつのチームが米国内の家族を担当する。だから、4週間ほどの今回の取材が終わっても、年内中にあと1,2回はまたイラクに戻らなくてはならなくなりそうだ。



プロジェクトの性格上、取材はもちろん米軍からの視点になる。いわば「侵略する側」からの視点だ。しかし現在のイラク情勢や、米新聞社のカメラマンという立場から考えてみても、従軍取材は自分に残された唯一の方法だし、こればかりはもう仕方がない。



たまたまこの時代に生まれたために戦地に送り込まれた米兵たちと、その家族の苦悩を取材しながら、同時に従軍という狭い窓口をとおしてでもイラク一般市民の視点が抜け落ちないような写真を探していくしかないと思っている。