Kuni Takahashi Photo Blog

フォトグラファー高橋邦典
English: http://www.kunitakahashi.com/blog

瞳photos-お知らせ

2007-01-26 08:27:23 | 写真展・雑誌掲載
今月創刊された写真雑誌「瞳photos」の報道写真家特集の中でとりあげられましたので報告まで。

石川文洋、広河隆一、宮嶋茂樹(敬称略)という著名な写真家たちに混じってなぜだか僕もインタビューされました。紙質もよく良く仕上がっている写真雑誌です。まだ創刊したばかりですが、このような雑誌が息長く続くことを願っています。

詳細は以下のサイトを参照ください。
http://www.mariashobo.jp/books/list_a.php?num=15

また、僕の写真群も含んだ、UNICEF巡回写真展『同じ地球の空の下』は1月28日~2月12日まで、福島の福島市写真美術館で開かれます。

境界型人格障害???(その2)

2007-01-22 01:41:04 | 報道写真考・たわ言
昨夜、境界型人格障害についてメールを送ってきた友人と、その情報の発信元であった精神科医の先生と話をする機会があった。

前回のブログで書いたような疑問を先生にぶつけてみたのだが、どうやら僕の怒りは誤解に基づくものであったようだ。

境界型人格障害、というものと、ボーダーライン心性という異なったものを僕が混同して考えていたため、おかしなことになったらしい。

ボーダーライン心性というのは、まあ簡単に言ってしまえば、日常の空虚さを満たすために、または生きている充実感を味わうために、あえて危険なことをしてしまうような心性で、ある意味誰もが持っているともいえるし、これを自分でコントロールできているうちは別に日常生活に不都合はないし、それが障害というわけでもない。

しかし、これが極端になっていって薬物中毒になったり、自分や他人に危害を加えるような状態になってしまうと、人格障害に発展し、「病気」ということになるらしい。

だから、精神科医の先生が言うには、僕が問題にしていた登山家や冒険家というような人達は、単にボーダーライン心性が強い人間、ということにすぎず、境界型人格障害というわけではないという。

やっぱりねえ。。。

友人からのメールでは、そのへんの定義が曖昧だったので、勝手に誤解して腹をたて、余計なエネルギーを燃焼してしまった。

この件に関しては書き込みも多く、皆さんをお騒がせしてしまったようなので、一応報告まで。。。失礼しました。



境界型人格障害???

2007-01-18 12:40:10 | 報道写真考・たわ言
友人が、境界型人格障害なるものについてメールをおくってきた。

「普段の生活に空虚感を持っていて、それを満たすために自己を傷つける行為をする」ような人間は、この境界型人格障害にあてはまるらしい。

薬物中毒とか、リストカットとか、無謀運転なども症例だそうだが、極端には登山家や冒険家などもそれにあてはまるという。

死の危険の中で「生きている」という充実感、喜びを感じる。。。

戦場などに行くカメラマンたちにも、ジャーナリストとしての仕事以前に、そういうものに惹かれる人間たちが少なくないことは知っているし、僕自身にもそういう気持ちがないわけではない。弾の飛んでくる戦場という非日常的な空間で、「いま生きている」という充実感のようなもてたことは何度かある。

そんなことを知っている友人は、だから僕も境界型人格障害じゃないのかい?と言ってきたのだ。

確かに僕にもそういう症例がないわけではないし、その定義にもあてはまるかもしれない。

だけど、なんでそれが「障害」なんでしょうかねえ????????

薬物中毒などになってしまうとさすがに問題で治療の必要がでてくるだろうが、登山家や冒険家までひっくるめて、そういう人たちも「障害」を持っているというんだろうか?

誰が名づけたのか知らないけど、だいたいこの「障害」っていうのは一体どんな視点から見て、何に対しての「障害」なんだろうか?

程度の差こそあれ、普段の生活に対して多くの人が空虚感など持っているはずだし、買い物したり美味しいもの食べたりするのも、それを満たそうという行動の一貫だろう。それが、危険なことや命をかけるようなことにまで及ぶようになると、「人格障害」になってしまうのだろうか?

多様な人の生き方、そんなに簡単に言葉で括れるようなものではないでしょう。特に「障害」なんていう言葉をつかって。。。

なんだか無性に腹が立った。



休暇に持っていく機材

2007-01-13 11:53:00 | 報道写真考・たわ言
先日、新聞社でカメラマンの同僚たちと話をしていて驚かされたことがあった。

仲間の一人が休暇をとってモロッコへ行くというので、それがきっかけでそこにいた僕を含めた4人が、休暇旅行のときに持っていく機材のことを話し始めた。

僕は休暇であろうがなんだろうが、カメラ2台にレンズ2本、それからラップトップという最低限の機材は必ず持っていく。現場で何に遭遇するかわからないのは勿論だが、なにか事件があって休暇地から直接現場に飛ばなくてはならない可能性もあるからだ。(といっても実際には今まであまりそういう経験はないんだけれど)

だから、たった一泊だけニューヨークを訪れる時でも荷物が多くなるし、旅行のたびに「ああ、カメラマンじゃなかったらもっと身軽に旅ができるのに。。。」と自分の職業を恨めしく思ったりもしている。

しかし、驚くべきことに、そこにいた3人はみな、休暇中は写真機材はほとんど持っていかないというのだ。さすがにカメラなしというのは考えられないので、一応一台は持っていくが、それが単なるコンパクトカメラだったりする奴もいるし、ラップトップも持っていかないという。

僕は唖然とした。。。新聞社に勤務するプロのニュースカメラマンとして、そんなことがありえるのだろうか?特に今の時代、どこでどんな大事件に遭遇してもおかしくはないではないか?

その中の一人、マイケルがこういった。

「休暇は休暇で、仕事時と区別をつけることが大事なんだ。。。そうでなきゃ休暇中リラックスなんてできないよ」

確かに他の職業ならそうもいえるだろうが、僕らはこっちの都合などお構いなしに発生するニュースを相手にしているのだ。そんなに割り切れるものだろうか?僕などは、もし機材を持っていかなかったら逆に心配になってリラックスなどできはしない。

一般的にアメリカ人(ヨーロッパ人はもっと極端らしいが)は勤務時間とプライベートの境をきっちりつける。報道カメラマンもこの例に漏れず、お国柄なのかなあ。。。などと思ってしまうが、いや、それでも休暇中にもしっかり機材を持っていくアメリカ人カメラマンもいるはずだと、心ひそかに信じている。


写真家の将来

2007-01-09 23:13:56 | 報道写真考・たわ言
ブログにも何度か書いているが、ここ数年新聞の購読部数は減っていく一方だ。簡単にニュースをチェックできる上に、速報性もあるインターネットのために、人々が新聞を読まなくなったのが大きな理由だ。

時代の流れには逆らえず、最近は各新聞社もウェブサイトの充実に力を入れざるを得なくなっているが、おかげで僕らカメラマン達の仕事内容もここ1,2年で随分と変わってきた。

写真のマルチメディア化が一気に進んだためだ。

新聞紙面に載せる写真以外に、ウェブページに掲載するスライドショウのために、音を録ることが必要になってきた。僕もリベリアのものをはじめ、これまですでにいくつかのスライドショウを手がけたが、現場での会話や背景の音を録るために、ボイスレコーダーを持ち歩かなくてはならなくなった。

まだ慣れないので、これが結構面倒なのだ。これまでは写真を撮るための視覚だけに神経を集中していればよかったものを、こんどは音にも気を配らなくてはならない。しかし、まだそういう習慣がついていないので、ついつい音のことなど忘れてしまうのだ。写真を編集し、スライドショーをつくる段階になって「ああ、なんでこのときの音を録ってなかったんだ!」という場面がぼろぼろでてくる。実は最近作ったギフトの養子のストーリでも、足りない音が多すぎてまとめるのに随分苦労したのだ。

まあ、面倒なことはさておき、写真の新たな味を引き出すためにも、音を加えてスライドショーをつくることにはそれなりの価値があると思う。しかし、先日メールで送られてきた写真部のボスからの通達には驚かされた。

なんと、今年から徐々にビデオも導入していく、という。

勿論写真を撮ることが僕らのメインの仕事だが、必要に応じてインターネット用にビデオの撮影も加えていくというのだ。正直言うと、そのうちこういう事態もくるのではとうすうす感じてはいたのだが、まさかこんなに早く自分の身に降りかかってくるとは思わなかった。

一見近いように思われるかもしれないが、ビデオと写真はまったく違った種類のメディアだと僕は思っている。

録る側の思考回路も全く違うし、出来たものを作品としてみるときの視点もまた別なものだ。僕は最も大切な一瞬を「点」として記録する報道カメラマンとして自分の仕事の価値を見出しており、事象を「流れ」として撮影するビデオにはあまり興味をもっていない。

ビデオ映像の必要性を否定するつもりなど毛頭ないが、僕個人としては「写真」に対するこだわりがある。しかし、新聞社の意向として通達がでてしまった今、果たしてこれからも自分の主張をとおして、ビデオなどやらないよとそっぽを向いていられるのだろうか?

僕らカメラマンの仕事形態についての将来のことを考えると、なんだかやたら憂鬱になってしまう。。。

ある中学生からのメール

2007-01-05 19:45:42 | 報道写真考・たわ言
先日、僕の出身地である仙台の中学3年生からメールをもらった。彼女が中学1年のときに僕の写真展をみてくれたそうだが、その後世界の見方が少し変わったそうで、他の写真展や講演会などにも足を運ぶようになったという。

その彼女が、学校の文化祭で出展するためにある文章を書いた。

文化祭のテーマは「地雷」。この学校では、文化祭ごとにテーマを決め、そのことについて学生達が学んだことを発表するという。このときにひらいた「地雷展」の、最初の部分に展示するために彼女が書いた文章を送ってきてくれたのだ。

ちょっと長いが、本人の許可を得たので、全文を引用したい。



「はじめに」

地雷によって世界が受ける傷跡とは何でしょうか?

想像してみてください。
ある国では、地雷による犠牲者の1/3が私たちと同年代か、それ以下の子どもたちだそうです。遊びに行ったはずの兄弟が、数時間後には片足、片腕がなくなってしまった…。裏の畑のすぐ隣は、もう地雷危険区域…。通学路も完璧には安全と言えない。いつ、誰が地雷を踏むか分からない…。そんな事が起こりうるのです。

地雷が何より危険で悲惨だと言われるのは、地雷がどこにあるかが分からないという事にあります。戦争中に、兵士たちを怪我させるために大量に埋められた地雷は、戦争が終わった今も変わらず“敵軍”を地面の中で待っています。地雷は、道を歩いて来る人が“兵士”なのか“民間人”なのか区別することはできません。ですから、戦争が終わった今、残された地雷は一般市民をも犠牲にするのです。何の警戒もない小さな子どもたちや、野菜を採ろうとしていた人たちが地雷の線に引っかかってしまう。戦争が終わって復興を目指す村人たち、戻ってきた難民の人たち…、そんな人たちをも傷つけてしまうのです。

あなたは今日、どこを歩いてきましたか?どの道を歩いてきたとしても、そこに危険なものが埋まっている可能性は限りなく薄いでしょう。
「そこに地雷が埋まっているかもしれない。」
「次の瞬間、自分の足はなくなってしまうかもしれない。」
そんな事を考えて、私達は道を歩いたことがあるでしょうか?
私はありません。多分、クラスの子たちもみんなそう答えるでしょう。あなたはどうですか?地雷の恐ろしさは、日常の恐ろしさなのです。

日本もわずか3年前まで地雷を持っていたことを、あなたは知っていますか?
世界では、撤去されている地雷の数よりも、生産されている地雷の数の方が上回っている事を知っているでしょうか?
今なお世界には地雷が埋まっている国がたくさんあること、たくさんの人たちが地雷によって傷ついていること、地雷のために流された涙を、みなさんに知ってもらいたい!それが、文化祭でこのテーマを取り上げた理由です。

地雷がなくなれば世界が平和なるわけではありません。
では、どうすればいいのでしょうか?私達はこの学習を経ても、その答えを導き出すことはできませんでした。調べれば調べるほど、歴史は難しく折り重なっている事が分かり、人によって全然見方も考え方も違うものだとも分かりました。

「平和」とは、何なのでしょうか?
たったの2文字で表されるこの言葉の意味を、私達は考え続けています。世界にとっての平和とは?日本にとっての平和とは?私にとっての平和とは?あなたの、あなたの目の前にいる人の考える平和とは?…

これを通して、地雷、そして世界の平和を考えてもらえれば幸いです。自分の周りだけでなく、今この瞬間の世界を見てください。そしてもし答えが見えてきたなら、その時、地球はちょっと前に進むことができるでしょう。

3年 池川 香澄



この文章を読んで、僕は思わず唸ってしまった。僕が普段から言いたいことを見事に代弁してくれているような気がしたからだ。

平和な日本では、戦争のことなど、どうしても「他人事」として考えがちだ。

それをいかに「自分にも関係あること」として考えてもらえるか、僕ら報道者たちは頭を悩ますことになる。そうでなければ、結局は「ああ、可愛そう。。。」で終わってしまい、その後の行動に何も結びつかないからだ。

池川さんの文章を読んで、地雷のことを今までと違った見方で、より「身近」に考えるようになった人は少なくないのでは、と思う。

僕はこういう仕事をしていながら、実は世界情勢(特に日本の状況)に対してかなり悲観的な思いを持っている。それでも、池川さんのような若い人たちと出会うと、まだ捨てたものではないかな。。。と嬉しくなるし、なんだか彼らから元気をもらっているような気もするのだ。

正月早々

2007-01-01 22:17:33 | 報道写真考・たわ言
仕事初め。。。というか、大晦日も元旦も普通どおりのシフトで働いていたので、別に特別な感じはしない。新年といっても生活パターンはそのままで、大晦日の昨夜も年があける前に寝床にはいってしまった。

2007年最初の取材は、なんと、元旦からショッピングをする家族たち。。。とほほ。

シカゴのダウンタウンに、アメリカン・ガールズ・プレイスという女の子向け玩具店があるのだが、この店が元旦から2007年ガールズ・オブ・ザ・イヤー人形を売り出した。

僕はこの店には今日初めて入ったのだが(娘もいない僕が、仕事でもないのにこんな店に出入りしていたらちょっと怖いが。。。)、可愛らしい人形たちが展示され、ピンクや黄色に塗られた明るい店内は女の子を連れた家族連れでごった返していた。

当の女の子達や母親達はいいとしても、明らかに無理やり付き合わされてきたような父親の姿もちらほら。。。本当は家でくつろぎながら、アメフト観戦でもしてたかったんだろうなあ、などと想像を巡らしながら、僕は店内の平和な光景にレンズを向けていた。

昨日インドネシアでは飛行機が墜落し、タイでは爆弾テロが発生、そしてイラクでは昨年のイラク人の死者が1万6237人だったと発表された。

買ってもらった人形を、まるで自分の赤ちゃんのように抱きかかえている女の子たちの幸せそうな顔をみていると、確かに僕もなんだか嬉しくなってくる。しかし同時に、はっきりいってしまえばどうでもいいようなこんなショッピングの写真を撮っている自分に、苛立たしさを感じずにはいられなかった。