日本滞在も今日で5日目。それでもまだ時差ぼけが抜けなくて、夜は9時をまわると瞼が重くなってくるし、朝は朝で5時前に眼が覚めてしまう老人のような生活が続いている。
昨日、故・沢田教一カメラマンの夫人、沢田サタさんに会うことができた。
いうまでもなく、沢田カメラマンはベトナム戦争時代にUPI通信で活躍し、ピューリッツアー賞をはじめ数々の賞を獲得、僕が報道写真という世界に足を踏み入れるきっかけとなった人だ。
サタさんが故郷の青森県でレストランを経営しながら一人暮らしをしていることは以前から知っていたが、これまでお会いする機会をつくれなかった。ある縁で、共同通信の方の手引きで弘前のお宅まで伺うことができたのだ。
81歳とはとても思えないほどの若さで、いまでも忙しく各地を飛び回っている。昨日もわざわざ用事の合間に時間をつくってくださり、数時間お話を聞くことができた。
「寝ていてばかりでは何もできないよ」が口癖で、休日もきまって早起きして撮影にでかけていた沢田さんのこと、若いのにいつも落ち着いていてサタさんを諭すように話していたので、彼女は沢田さんのことを「若じじい」とよんでいたことなど、本人の口から出てくる言葉は本で読むのとはまた違い生々しく感じられる。
沢田さんの遺品であるローライとライカも見せていただいたが、従軍の際着用していたヘルメットを手にしたとき、僕はなんともいえない気持ちにつつまれた。
若干スタイルは変わったとはいえ、イラクでの従軍で僕が被るのとあまり変わらない米軍製のヘルメット。グリーンの迷彩カバーに黒マジックで書かれた「UPI SAWADA」の褪せた文字がかろうじて読み取れる。
僕の憧れであった沢田さんは、それまで写真集や伝記のなかにのみ存在する、「歴史上の人」であった。それがこのヘルメットに手を触れた途端、30年以上の月日を飛び越えて、現実の人として実感できるような感覚にとらわれたのだ。
これは静かながらも強烈な感覚だった。
大げさに言えば、沢田さんにようやく会えた。。。そんな思いが沸き起こってきたのかも知れない。
僕の実家のある仙台から電車を乗り継いで片道3時間以上。それでも十分に価値のある弘前までの旅であった。
昨日、故・沢田教一カメラマンの夫人、沢田サタさんに会うことができた。
いうまでもなく、沢田カメラマンはベトナム戦争時代にUPI通信で活躍し、ピューリッツアー賞をはじめ数々の賞を獲得、僕が報道写真という世界に足を踏み入れるきっかけとなった人だ。
サタさんが故郷の青森県でレストランを経営しながら一人暮らしをしていることは以前から知っていたが、これまでお会いする機会をつくれなかった。ある縁で、共同通信の方の手引きで弘前のお宅まで伺うことができたのだ。
81歳とはとても思えないほどの若さで、いまでも忙しく各地を飛び回っている。昨日もわざわざ用事の合間に時間をつくってくださり、数時間お話を聞くことができた。
「寝ていてばかりでは何もできないよ」が口癖で、休日もきまって早起きして撮影にでかけていた沢田さんのこと、若いのにいつも落ち着いていてサタさんを諭すように話していたので、彼女は沢田さんのことを「若じじい」とよんでいたことなど、本人の口から出てくる言葉は本で読むのとはまた違い生々しく感じられる。
沢田さんの遺品であるローライとライカも見せていただいたが、従軍の際着用していたヘルメットを手にしたとき、僕はなんともいえない気持ちにつつまれた。
若干スタイルは変わったとはいえ、イラクでの従軍で僕が被るのとあまり変わらない米軍製のヘルメット。グリーンの迷彩カバーに黒マジックで書かれた「UPI SAWADA」の褪せた文字がかろうじて読み取れる。
僕の憧れであった沢田さんは、それまで写真集や伝記のなかにのみ存在する、「歴史上の人」であった。それがこのヘルメットに手を触れた途端、30年以上の月日を飛び越えて、現実の人として実感できるような感覚にとらわれたのだ。
これは静かながらも強烈な感覚だった。
大げさに言えば、沢田さんにようやく会えた。。。そんな思いが沸き起こってきたのかも知れない。
僕の実家のある仙台から電車を乗り継いで片道3時間以上。それでも十分に価値のある弘前までの旅であった。