Kuni Takahashi Photo Blog

フォトグラファー高橋邦典
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沢田さんを訪ねて

2006-03-30 13:59:46 | 日本
日本滞在も今日で5日目。それでもまだ時差ぼけが抜けなくて、夜は9時をまわると瞼が重くなってくるし、朝は朝で5時前に眼が覚めてしまう老人のような生活が続いている。

昨日、故・沢田教一カメラマンの夫人、沢田サタさんに会うことができた。

いうまでもなく、沢田カメラマンはベトナム戦争時代にUPI通信で活躍し、ピューリッツアー賞をはじめ数々の賞を獲得、僕が報道写真という世界に足を踏み入れるきっかけとなった人だ。

サタさんが故郷の青森県でレストランを経営しながら一人暮らしをしていることは以前から知っていたが、これまでお会いする機会をつくれなかった。ある縁で、共同通信の方の手引きで弘前のお宅まで伺うことができたのだ。

81歳とはとても思えないほどの若さで、いまでも忙しく各地を飛び回っている。昨日もわざわざ用事の合間に時間をつくってくださり、数時間お話を聞くことができた。

「寝ていてばかりでは何もできないよ」が口癖で、休日もきまって早起きして撮影にでかけていた沢田さんのこと、若いのにいつも落ち着いていてサタさんを諭すように話していたので、彼女は沢田さんのことを「若じじい」とよんでいたことなど、本人の口から出てくる言葉は本で読むのとはまた違い生々しく感じられる。

沢田さんの遺品であるローライとライカも見せていただいたが、従軍の際着用していたヘルメットを手にしたとき、僕はなんともいえない気持ちにつつまれた。

若干スタイルは変わったとはいえ、イラクでの従軍で僕が被るのとあまり変わらない米軍製のヘルメット。グリーンの迷彩カバーに黒マジックで書かれた「UPI SAWADA」の褪せた文字がかろうじて読み取れる。

僕の憧れであった沢田さんは、それまで写真集や伝記のなかにのみ存在する、「歴史上の人」であった。それがこのヘルメットに手を触れた途端、30年以上の月日を飛び越えて、現実の人として実感できるような感覚にとらわれたのだ。

これは静かながらも強烈な感覚だった。

大げさに言えば、沢田さんにようやく会えた。。。そんな思いが沸き起こってきたのかも知れない。

僕の実家のある仙台から電車を乗り継いで片道3時間以上。それでも十分に価値のある弘前までの旅であった。


読者より広告主

2006-03-24 20:26:14 | 報道写真考・たわ言
トリビューン誌の社長であるフィッツシモン氏から社員宛に社内メールが届いた。

昨年に引き続き経営があまり思わしくないことをあげ、これからどのような方針でやっていくべきかを簡単に述べてある。そのなかに、こんな一文があった。

「これから広告量をあげ、経営を向上させていくためには、いかに斬新な手段で広告主たちにアピールできるかにかかっている。。。」

「広告主たち???『読者』の間違いじゃないの?」あれれっと一瞬思ったが、すぐにやっぱりな、と納得。

新聞社といえども所詮はビジネス、広告がはいらなくては会社自体が成り立たなくなる。やはり読者よりも広告主のほうを向いてしまうのだろう。

トリビューンに限らず、広告収入にたよっている媒体ならどこでもこんなもんだ。だから、広告主の批判なんかできなくなるし、相手が得意先の大企業ならなおさらだろう。

以前ボストンヘラルドで働いているとき、こんなことがよくあった。動物愛護団体の活動家たちが、毛皮製品の販売に抗議してファイリーンズ(デパートメント・ストア)の入り口に座り込みなどをして毎年のように逮捕されていたが、僕らが取材していい写真を撮ってきても、ほとんどこの手の記事が新聞に載ることはなかった。いうまでもなく、メーシーズやファイリーンズなどの大手デパートは、車のディーラーシップとならんで新聞社にとって大口の広告主のひとつだからだ。

まあ、こんなことは新聞社の体質としてずっと続いてきていることだし、特に新しいことでもないのだが、こうして社長直々のメールで「広告主へのアピール」なんて説かれると、なんだか複雑な気持ちにもなる。

やはり僕ら現場で働く者たちにとっては、広告主のご機嫌をとるような紙面よりも、読者が納得できるような新聞であってほしいと思っているのだから。

ーーー

明日の飛行機で日本に帰ります。4月1日のちひろ美術館での対談をはじめ、いろいろ忙しくなりそうですが、適当に時間を見つけてブログアップします。






風邪?

2006-03-20 20:57:12 | 報道写真考・たわ言
気晴らしにとった休暇も終わり、明日からまた仕事にもどる。

とはいうものも、一昨日あたりから風邪をひいてしまったようで、体調がいまひとつ。。。喉の痛みがひどい。

これはちょっと珍しくて、いままで風邪といえば鼻水がでて咳がでるのが普通だったのだが、今回はそういう症状はいっさいなし。突然高熱がでたようで極度な悪寒に体が震え、そのあと喉に傷ができたかのようなするどい痛みが続いている。

今夜はもう熱も下がり体も楽になったし、明日の仕事には支障はないだろう。ただ喉のほうは直るまでまだ数日かかりそうだ。

今週末には日本に戻るので、その前にやることも山積みだ。まあ休暇をとってたんだから不満をいえる立場ではないけれど。


寝不足

2006-03-07 06:40:42 | 報道写真考・たわ言
寝不足が続いてつらい。

どういうわけか、ここしばらくゆっくり寝られなくなった。寝ても2時間程で眼が覚めてしまい、その後しばらく寝られなくなる。ようやくうとうとしても、また2時間程で目が覚めるの繰り返し。。。昨夜は午前3時過ぎまで寝られず、それでも6時には起きてしまった。

思い出す限り、こんなことはこれまでの人生一度もなかった。

どんな土地に出かけても、食う、寝る、だす、はしっかりしてきたし、自信もあった。こんな仕事をしていると、これらはもう必要条件だ。

運動をして身体が疲れていても、酒を適度に飲んでも、それでもよく眠れない。これまでこんな経験をしていないから、自分でもどう対処すべきかわからない。

ベネズエラから帰ってきてまだ1ヶ月ほどだが、もう随分長く感じられる。。。

早くまた取材にでたい、と思う。

もう一人の自分

2006-03-03 18:00:59 | 報道写真考・たわ言
今日は休日。

食材の買い出しや、部屋の片付け、そして雑誌のための原稿を書いて過ごす。

午後、ソファーに腰を下ろししばしの間ぼうっとしていると、ふとある思いが頭に浮かんできて、しばらく想像にふけってしまった。

もしこの仕事をしていなかったらどんな生活をしていただろう。。。世界でおこっている紛争や貧困のことなど知ることもなく、自分の日常の生活の事だけを考えて生きていられたら、どうだったろう?

僕は子供の頃から物を組み立てたり絵を描いたりするのが好きだった。運動も好きで、毎日のように友達と暗くなるまで野球をしたり暴れ回っていたが、その一方で一人でこつこつ何かをつくることも好きだった。青春期には職人というものに憧れていたし、漠然と大工になりたいと思っていた時期がある。それも普通の大工ではなく、日本建築の技を極めた宮大工だ。結局いろんな因果で、いまでは報道写真を職業とすることになったが、時々思う事があるのだ。例えばもし宮大工になっていたとして(大工でないにしても、何かの職人として)自分の技を高める事だけに心血注いで生きていられたら。。。外国でおこっている事など気にせず、自分の家族と、そのまわりの日常にのみ気をかけて生活できるとしたら。。。

いまより楽だったかなあ。。。?

(もちろん、「精神的に」楽だったか、ということだ)

人生のなかで「もし」を考えだしたらきりがないし、こんなことに答えなんかないのはわかっている。考えるだけ時間が無駄だとも思う。

自分の生活にしたって、まだまだ十分とはいえないにしろ、いろんな土地を訪れてきたし、紛争地で喘ぐ多くの人々も眼の当たりにしてきた。そういう世界を知ってしまった以上、いまからそれに眼をつぶって、自分の事だけ気にして生きていく訳にはいかないのは分かっている。

けれども、全く違った別の生き方を求めているもう一人の自分が、心のどこかに潜んでいる事も知っている。

仕事のこと、私生活の事。。。最近いろいろ考える事が多い。そんなときに、このもう一人の自分がひょっこりと顔を出してくるのだ。




ちひろさんをとおして

2006-03-01 22:01:43 | 写真展・雑誌掲載
東京のちひろ美術館で僕の写真展がスタートした。

といっても、シカゴにいる僕は、自分の写真展だというのに企画の段階からほとんど手伝いらしきこともせずに、いつもの如く主催者の方々におんぶにだっこ状態。。。申し訳なく思っているのだけれど。

ちひろとは、言わずと知れたあの絵本画家いわさきちひろさんのことであるが、彼女が生前過ごした自宅兼アトリエあとにつくられたのがこのちひろ美術館だ。

やわらかいタッチで、子供を瑞々しく描いた彼女の絵は、彼女が亡くなってから30年以上たったいまでも愛され続けているが、青春時代を戦争の真っただ中で過ごしたちひろさんは「戦火のなかの子どもたち」といった著書も残している。

「軍靴の音が迫るなかで少女時代を過ごし、戦争の最中に青春を生きたちひろが、絵筆にたくして描き続けたものは、彼女の残した言葉『世界中の子ども みんなに平和としあわせを』に象徴されているでしょう」

ちひろ美術館ホームページに記されたこんな言葉からも、彼女がどういう思いで子供たちを描いていたのかを伺い知ることができるし、詳しいいきさつは尋ねそこねたが、コドモシャシン展と題された今回の展示も、そんなちひろ氏の願いを受け継ぐ展示の一環として企画されたことは容易に察しがつく。

だからこの写真展も、僕がこれまで紛争地で出会った子供達の写真を中心に編成されており、これまでのものとは少し毛色が違って、戦争の悲惨さよりも、どちらかというと人間の暖かみがより感じられるものになっているかも知れない。

ちひろさん、という媒体をとおして、人々が僕の写真と、そしてそこに写された子供たちと出会うことができる。。。そんなことをとても嬉しく、また光栄にさえ思う。尽力してこのような機会をつくっていただいた方々に感謝します。

(写真展の詳細はちひろ美術館のサイトを参照。http://www.chihiro.jp/top.html )